今月の読本「中華料理の文化史」(張競 ちくま文庫)悠久の中国食文化、残滓は日本に?

今月の読本「中華料理の文化史」(張競 ちくま文庫)悠久の中国食文化、残滓は日本に?

日本の歴史も大好きですが、実は中国史も結構好きだったりするので、たまにはこんな本も読んでみたくなる時があります(昼休みの僅かな時間を縫って読んでいたらこんなにかかってしまった…)。

いつもちょっとメインストリームを外した、でも深いテーマで迫ってくる、ちくま文庫の新刊よりこちらの本を「中華料理の文化史」(張競 著)です。

中華料理の文化史

一応、体裁としては表題のように孔子の時代から清朝までの中華料理の食材、調理法の変遷を辿っているのですが、そのような表題や形式に囚われず、著者が提示するテーマに乗って読んでみるのが面白いと思います。以下各章の意訳です(本当はもっと盛りだくさんの内容なのですが)。

序章:ファーストフードも既に「中華料理」

1章:主食の食材(雑穀から麦、米へ)

2章:粉食としての麦の登場

3章:現代まで繋がる「胡餅」の登場

4章:遊牧民族の東遷と犬食の忌諱、香辛料の登場

5章:南の豚肉、北の羊肉のせめぎ合いと薄味な料理

6章:箸の向きから見たテーブルマナー

7章:海産物の北進と唐辛子がない四川料理

こうしてみると、意外な話ばかりが出てきます。胡餅や麺類が相当する粉食も、羊肉料理もフカヒレも、真っ赤な四川料理もどれもこれもルーツは中国大陸になかったり、あったとしてもいずれも辺境地域の食文化が時々の王朝に取り入れられたり、民衆の食生活として広がっていったもので、読めば読むほど「オリジナル」ではない事が明らかにされてきます。

著者が6章の題名にも使っています「箸よ、お前もか」とあるとおりに、日本では横に置く箸ですが、中国や韓国では縦に置きます。これは日本の作法が亜流かと思いきやさにあらず。歴史上の絵画を良く調べてみると、過去の中国ではやはり箸は横置きで、箸と匙を使って食事をしていたのが、北方遊牧民族の影響を受けたナイフを用いた食事作法に箸を合わせる際にナイフを置く向きに合わせて箸の置き方も縦置きに変わったことを著者は看破しています。

つまり、中国での古い作法が日本に残存しており、中国の作法の方が影響を受けて変化していったことが図らずも明らかになってしまう訳です(ちなみに、現代の中国ではレンゲは使いますが、食事の際に匙はほとんど使わないそうです。スプーンと箸を縦置きにして両方を器用に使い分ける韓国の作法は、さしずめハイブリッド作法ともいえますね)。

真っ赤で辛い料理でおなじみの四川料理も、そもそも唐辛子が中国に持ち込まれたのが明末から清朝初期の話であり、実際にもてなす為の料理として使われるようになるのは清朝も末期になってからの事で、所謂「満漢全席」には出てこない新顔のメニューに相当するそうです。

現在の中華料理の形態が整い始めたのはどうやら明・清の時代のようですが、それより以前の中国の料理、特に元以前の調理法は現代の日本料理にとても良く似ている事を作者は指摘しています。

すなわち、箸の作法や料理の味付けに見られるような極めて文化的な所作は、方言などと同様に文化の外延部に行くほど過去の形態を保持しているという例が中華料理と日本料理の間にも明確に関連性がある事が読んでいると判ってきます。この事は、犬料理が僅かに残存する朝鮮料理との関係を見ても明らかですね。

そのような文化の密接な関連性の中で一つだけ日本文化に受け入れられなかったのが「禽獣を丸ごと調理する」事だと著者は指摘します。著者の考えとしてはこのような材料を丸ごと調理する方法は、そもそも祭祀としての調理法が継承されていると考えられるため、日本では祭祀の対象が「魚」であったのではないかと考えているようです。

一般論的には正しいのかなと思いますが、諏訪に住む人間としては「御頭祭」という例外中の例外の祭祀を知っているのでちょっと合点がいかないところはあります。

御頭祭のお供え物【諏訪大社の上社前宮で毎春行われる御頭祭のお供え物。その昔は何十頭という血の滴る鹿を生贄として捧げたそうです(その時代の様子は神長官守矢資料館で見ることが出来ます)】

それはさておき、意外に関連性のある日本の食文化と中国の料理文化ですが、本書で語られる食文化の交流は南北間であったり、ユーラシア大陸跨ぐ東遷であったりしますが、何故か中国大陸の東側からの影響は見えてきません。

これは正に日本が「世界の東辺」故にそのような結果になるのですが、序章にあるように現代中国では遂に東の日本や、更に太平洋を挟んだ東の果てであるアメリカの食文化までもがすっかり中国の食文化の中に浸透しつつあります。

この世界を取り込むほどの包容力の大きさが中華料理が世界中に広がっていく源泉なのでしょうか。

著者があとがきで述べているように、このさき10年後の中華料理は現在見かける中華料理とは全く異質のものに変化しているかもしれませんし、その時に「歴史上の中華料理」が残っているのは、やはり文化の辺境たる日本なのでしょうか。

今月の読本「国史大辞典を予約した人々」(佐滝剛弘 勁草書房)そのルーツ、此処にあります

今月の読本「国史大辞典を予約した人々」(佐滝剛弘 勁草書房)そのルーツ、此処にあります

時たま、こんな本も読んでみたくなる時があります。

何時も歴史書でお世話になっている吉川弘文館。超硬派な学術論文集や研究者の方々が学位請求の為に出版される学術書、研究目録といった一般人には無縁の書籍から、人物叢書のような長期(全巻刊行まであと何年かかるんでしょう)にわたる編纂物、歴史文化ライブラリーや時代や風物を取り扱ったシリーズもののような新聞の書評でも取り上げられる一般向け書籍まで、歴史書の大本山といった趣のある版元さんです(最近は大分柔らかい内容&価格帯の本も出されるようになりましたね)。

ここの出版物の頂点というと、そのあまりの規模(平均1000ページで15巻、17冊)、編集期間(30年近く)、執筆者数(3000名以上、全て署名記述)、価格(全巻揃えると20万円を超える)と謂われる出版界の奇蹟(完遂出来た事実だけでも既に菊池寛賞を受賞)、全国の大規模図書館必須の蔵書、索引づくりのための索引集(項目数は実に54000余り)、歴史研究家の登竜門にしてバイブル等々、数々の名声を誇る一大出版事業である『国史大辞典』があります(某所では「鈍器」とか「凶器」とか「司書殺し」「書棚制圧」…などとも揶揄されますが地震の時には本当に凶器になり得ます。ちなみに枕には向かないようです)。

そんな巨巻にはもう一つの歴史があります、明治維新の混乱が過去の話になり、文明開化もようやく落ち着きを見せ始め、日本が帝国主義へと邁進し始めた明治41年に刊行された『国史大辞典』の初版です。

ぎりぎりの綱渡りの末に日露戦争を終結させ、国際社会にアジアの小帝国として確固たる地位を確立した直後の時期、台湾や朝鮮半島を足掛かりにアジア大陸に深く進攻を開始した拡張期の日本において、本邦初を謳う網羅的な歴史百科事典が企画されました。

この企画を主導したのが、当時の国家機関や研究者達ではなく、幕末から続く一書店であった現、吉川弘文館だった訳です。

帝国主義への道を走り始めた当時の時代背景が、反動的に自らのアイデンティティを求めたのでしょうか、当時としては画期的な日本史の百科事典が成立しました。そして価格20円(予約で10円)という、当時の教員の月給にも相当する高価な書籍に対して、実に一万名を超える予約者が集まったのです。現代でさえも1万部の予約を確保するのは決して楽な話ではないのに、このような特殊で高価な本に対して、それだけの予約が集まったこと自体、版元の壮挙に対するエールであったのかもしれません(それ故に、一企業にとって余りにも荷が勝ちすぎている新版の国書大辞典刊行も、決して研究機関などではなく初版の意思を継承した「私企業」である当社が是が非でも手掛ける必要があったわけですね)。

版元である吉川弘文館もその予約者たちの心意気に敬意を払うべく、「予約者芳名録」なるものを同時に刊行しています。今回ご紹介する本は、偶然にもこの「予約者芳名録」を入手した著者が「予約者たち」の来歴を次々と見つけ出して、現代の「予約者リスト」を作り出していく物語『国史大辞典を予約した人々』(佐滝剛弘 勁草書房)です。

国史大辞典を予約した人々与謝野晶子でスタートする書き出しにまず驚かされ、その後も出て来る出て来る明治の有名人たち。著者があとがきで「必ず購入しているはずなのに」と書き留めている著名人もきっと読んでいたのではないでしょうか。そのくらい多士済々のラインナップです。

そして、本書のポイントとなるのが、予約者を所属する業種別に集めた事と、現代への繋がり(国史大辞典の残存調査を含めて)を地道に調べられてい事ではないでしょうか。

業種毎に集めてみたことで国史大辞典を通じた人脈や研究者、教育者の意外な系譜が浮かび上がってきます。当時の花形輸出産業であった生糸、繊維業(今回の芳名録自体も群馬の絹宿に系譜を持つ方が所有されていたものです)を縦軸に取ると群馬から横浜へ、大倉から原三溪、海を渡ってハル・ライシャワーへと繋がっていきます。そこには今となっては忘れられてしまっている群馬と横浜の密接な関係が浮かび上がってきます。

研究者であれば、家族ぐるみどころか一族親族こぞって購入している方々も散見されますし、現在の当主も同一分野ではないにせよ研究職に就いている点などは昔でいう「家職」ともいう気風が今も残っている事を感じさせます。

更に意外な事に、当時最先端の科学技術を身に着けた研究者の方々も多く購入されている点です。江戸時代までは、教育と言えばまずは四書五経と云われたこともあって、儒教と歴史的素養は教養の第一歩であった訳ですが、文明開化の学制改革を通してそのような風潮は既に過去の物となりつつあったはずなのです。しかし、何故か科学者やそしてこちらも先端技術を扱う軍人(特に海軍軍人)も多く予約しています。

この辺りを見ていくと、当時の知識人たちは決して自己分野の知識偏重ではなく、幅広く学問を学んでいたであろうバックボーンがそのような知的好奇心(これなくして非常に高額な書籍を自費で買おうとは思わないでしょう)に繋がっていたと思えますし、現代の知識詰め込み重視、もしくは理系の場合は技術一辺倒な教育制度問題の弱点が見えて来るようです(私も論語を始めて読んだのは恥ずかしながら社会人になった後、30歳を目前にしたあたりでした)。

そして、予約者には前述のような専門的技量を持ち合わせた人々だけではなく、今に繋がる歴史を有する企業や学校、更には多くの個人購入者が続きます。

著者はこれら忘れられがちな人々の名前も丹念に追跡、現代への繋がりを探していきます。学校や企業の中には既に廃校、倒産に至ってしまった例も散見されますが(著者にとっては同業である出版社、書店についての項では昨今の書店廃業と絡めて憂いを持った筆致がみられます)、神谷バー(現オノエンホールディングス)や浅田飴、和光堂といった今に残る、特色のある企業も出てきます。中には苦しい財政の中で苦心して購入したであろう宮地裁縫女学校(後の神山学院、廃校)の例にみられるように、少しでも良書を以て教育に当たりたいという明治の教育者の気概も垣間見られます。

著者はこれら特定に至った方々のご子孫やその後の様子についても現地に赴いて詳しく調べられています。そこには明治の気概が今に伝わっている事がはっきり判る事も多かったようです。

著者のあとがきによると、芳名録に記載された人物の調査は道半ば、まだ半数は不明なままとなっているようです。国史大辞典の追跡調査についても主要な蔵書は追跡済みのようですが、小中学校や購入者の子孫の方々が所蔵しているであろう蔵書については残念ながら手つかずのようです。今後、著者が調査を続けられるのかどうかは判りませんが、この芳名録にはこの先どんな物語が紡がれていくのでしょうか。ある著名な一冊を起点として繋がっていく人々の物語はまだまだ続きそうです。

<おまけ>

  • 横浜で育った身としては、書中で良く知っている名前が頻繁に出て来るのはちょっと嬉しい事です(横浜市歌、今でも歌えますよ)。原三溪は横浜市民にとって貿易港横浜発展の礎を築き、文化的には三溪園を残してくれた歴史的な偉人ですし、有隣堂はすでに神奈川県内や首都圏南部では有名な書店ですが、面白かったのは横浜銀行と群馬県の関わり合いでしょうか。実は横浜銀行の支店網は有隣堂同様、東京と神奈川に集中していて、埼玉県や千葉県には支店がありません。そんな中で群馬県には何故か3店舗も支店(出張所じゃないんです)を有しています。この繋がりは横浜銀行成立の過程で群馬にあったローカル銀行を吸収していった経緯があり、その繋がりの元となったのはもちろん当時の最先端産業かつ、花形輸出品目であった養蚕と製糸業の深いつながりによってもたらされたものである事はご理解いただけるかと思います。本書の第6章と第9章にはその辺りの繋がりを示唆する物語が織り込まれています
  • 本書は主に業種別に予約者たちを描いてくのですが、地域別の購入者の傾向も調査しています。その中で、流石と思わされたのが当時の小学校の購入冊数で長野県が突出していた点です。教育熱心な土地柄で、開知学校や中込学校といった、今に残る明治の豪奢な学校建築でも知られますが、このような書籍購入の点でも配慮を怠っていなかった点は、箱モノ行政を指摘される昨今の公共事業と違って、当時の学校の多くが地元人士達の浄財に支えられていた点を表す好例ではないでしょうか。そして、教育に多くの投資を惜しまなかったその財源として前述の養蚕があった点でも、国史大辞典という知的ツールが当時最先端の人士ネットワークで繋がっていたと考えられるのではないでしょうか(これら長野県内の国史大辞典残存状況は調査されていないようなのが残念なのですが)
  • 国史大辞典が書物としての明治の気概を表すのであれば、建築物に明治の気概を表す方々もいらっしゃいました。そんな建築物たちの今を伝える素敵な写真集が こちら『浪漫あふれる信州の洋館』(文:北原広子、写真:大澤敬子、佐々木信一、田北圭一、山本忠男 信濃毎日新聞社)です浪漫あふれる信州の洋館1
  • 本書と同時に購入したのですが、長野県内に残る歴史的建造物の美しい写真に魅せられます。本書でも取り上げられている旧筑摩郡松本区裁判所(現、日本司法博物館)も掲載されていますし、戦前の製糸業では外せない大倉財閥に関する建物も紹介されていいます旧松本裁判所OLYMPUS DIGITAL CAMERA 片倉館
  • 文章で明治の気概を感じた後は、建物からも明治の気概を感じてみるのは如何でしょうか。暑い夏の都会を離れて、涼しい信州で明治の人々に思いを馳せながら歴史的建築を巡る旅というのもちょっと素敵かもしれませんね旧中込学校

ひまわり畑と八ヶ岳を(諏訪郡富士見町高森)

New!(2015.7.19):今年(2015年)高森のひまわり畑は、現時点で植えられておりません。

今年(2014年)の様子はこちらから。

山梨方面から県道を茅野方面に抜けていくと、信濃境を越えたあたり、中央道と並走した直後にちょっと気になる風景が。

高森のひまわり看板1みっしりと植えられたひまわりと、よくみると看板が設置されています

「高森中山間地ひまわり畑」と書いてあるようです。地元の皆さんが共同で植えられているひまわり畑のようです(昨年の夏も訪問させて頂きました)。

高森のひまわり3天気が良ければこの通り、ひまわり畑の背後には編笠山をセンターに両裾を広げる八ヶ岳のパノラマが広がります。

高森のひまわり1ちょっと密植しすぎかな?写真を撮るには少々苦しいのですが、単調になりがちな水田やまだ植え始めたばかりの蕎麦畑の多い真夏の八ヶ岳西麓の風景のなかにあって、鮮やかなひまわりの花はちょっとした彩りを添えてくれます。

高森のひまわり2もちろん、ミツバチたちにとっても花粉を集める絶好のチャンス。開き始めたひまわりの花の間を飛び交っています。

高森ひまわり看板2そして、びっくりなのがこの看板。

明野のひまわり畑もそうなのですが、普通この手の観光農園的な場所はかなり管理が厳しくて、撮影ポイントを探して下手に畔でも歩こうものなら怒鳴られるのがオチなのですが、何と「ご自由に切り取りお持ちください」の看板が。

このおおらかさが、懐の深さは八ヶ岳西麓ならではないでしょうか。何時までも続いてくれることを願いたいです。

<お越しになる皆様へのお願い>

ひまわり畑正面の県道は鄙びた場所を通っていますが、山梨県境と長野県境を結ぶ、それなりに通行量がある地元の皆様にとっては重要なルートです。道幅が広い訳ではありませんので、決して県道上で路上駐車をなさらないようにお願いいたします(周囲の路地には止められます)。

img2M2ひまわり畑への行き方【クリックで拡大】

[小淵沢方面より]

・小淵沢ICより茅野方面(県道17号、茅野北杜韮崎線)へ15分ほど、高森の交差点を茅野方面に右折して中央道を潜った直後、右手に見えてきます

・鉢巻道路(富士見高原)側よりお越しの際には、ヨドバシカメラ研修センターの交差点からおっこと亭方面に下って、県道に突き当たった交差点を左折、小六の集落を抜けてすぐです

[茅野・富士見方面より]

・諏訪南インターより八ヶ岳ズームラインを利用して北上、八ヶ岳エコーラインと交差する中新田南の交差点を右折、八ヶ岳エコーラインを10分ほど走った終点の交差点を右折(小淵沢IC方面)、県道に突き当たった交差点を左折して、小六の集落を抜けてすぐです

・富士見駅方面からお越しの方は、県道198号乙事富士見線の終点から県道17号線に合流しますので、そのまま道なりで小淵沢方面に5分ほどです

・判りづらい場合は、富士見駅から県道190号立沢富士見停車場線でまっすぐ八ヶ岳を目指して登っていくと前述のエコーラインと立沢大橋の交差点で合流できます

夏空の八ヶ岳西麓(富士見町編)

漸く週末に晴れてくれました!という訳で、ぱたぱたと片づけをした後、午後はじっくり大好きな夏の青空を愛でにお出かけです。今日は流石に暑かった。

水田と八ヶ岳1.田んぼの畔越しに八ヶ岳を。もうちょっと明るい雰囲気なのですが…(下手)

水田と甲斐駒2.すっかり雪が無くなった甲斐駒を遠望。夏の日差しを受けて雲が輝きます

夏の空と甲斐駒遠景3.もう一枚、休耕田をみっしりと埋め尽くすヒメジョオンの花越しに甲斐駒を

高森のひまわり34.富士見町、高森のひまわり畑と八ヶ岳を。ここの紹介は別ページにて

トウモロコシ畑と八ヶ岳5.水田の多い八ヶ岳西麓では珍しい、トウモロコシ畑の広がる富士見町、小六より八ヶ岳を

トウモロコシ畑と流れる雲5.明るいトウモロコシ畑の上空、うねるような雲が空を流れていきます。時々吹く風が心地よいです

夏の日を浴びるトウモロコシ6.少し移動して、富士見町、立沢。入笠山をバックにトウモロコシ畑を

夏の高原16.周囲は大規模圃場なので、ちょっと移動すると、こんな田んぼ越しに開けた風景も。28mmだと全然画角が足りません

OLYMPUS DIGITAL CAMERA6.振り返ると八ヶ岳の上に真夏の高原らしく、濃いブルーの空が広がります

トウモロコシ畑と杖突峠6.西日を受けて輝くトウモロコシ畑。

正面は杖突峠。八ヶ岳の麓を谷筋が北に延びていくのがよく判りますね。

富士見町撮影場所Map本日の撮影場所Map。長野山梨県道17号線。茅野北杜韮崎線(山梨県内では七里岩ラインが愛称)沿いの風景でした【クリックでフルサイズ】

<おまけ>

富士見町には素敵な観光ガイドがあります。観光スポットやお食事、宿泊場所を紹介するガイドマップと年2回発行の観光情報誌「Poan」です。

どちらも美しい写真で彩られていますが、いずれも富士見在住の写真家、玉置弘文さんの作品です。特に「Poan」の方は季節毎に変わるる美しい掲載写真の数々を楽しむためだけにでも入手したい、ちょっとした写真集といった装いです。

JA(あぐりモール)や観光案内所、周辺のコンビニ等にも置いてありますので、お越しの際には是非参考にされると良いかと思います。

富士見町のガイド

井戸尻遺跡と蓮の花を(縄文に逢える里)諏訪郡富士見町信濃境

お天気が安定しないここ数日、こんな時は近場で楽しむのもよいものです。

そんな訳で、以前桜巡りをした富士見町、信濃境に再び訪問。このシーズンは町内にある井戸尻遺跡で古代ハス(大賀ハス)が楽しめます。

井戸尻史跡公園の案内板駐車場にある園内の案内ボード。あいにくの薄曇りにも関わらず、連休なので駐車場は満杯。団体客の皆様も一杯いらっしゃいます。花の種類に疎い男性陣の皆さんはレイアウトと花の名前を頭に叩き込んでから湿地帯に降りましょう。

井戸尻遺跡の大賀ハス1この公園の主役。古代ハス(大賀ハス)です【クリックでフルサイズ】

井戸尻遺跡の大賀ハス3園内の最も奥まったところにある池が大賀ハス専用の池になっています。

まだ咲き始めですが、じっくり楽しむことが出来ました【クリックでフルサイズ】

井戸尻遺跡の大賀ハス2凛として咲き誇る。主役の風格を漂わせる花ですよね。極楽浄土をイメージさせるという方もいますが、どうでしょうか【クリックでフルサイズ】

井戸尻遺跡のスイレン他の蓮の花も、もう少しで見ごろを迎えそうです。こちらはスイレン(トリミング済み)。

井戸尻遺跡の漁山紅蓮こちらは珍しい漁山紅蓮。手前でクロイトトンボがポーズをとってくれました【クリックでフルサイズ】

井戸尻遺跡のクロイトトンボせっかくポーズをとってくれているのでクロイトトンボをアップで(トリミング済み)

井戸尻遺跡のシオカラトンボそして、開花を待つ花の先に止まるシオカラトンボを(トリミング済み)。蓮の池の周りで盛んに偵察飛行を続けています。

井戸尻遺跡の蛙トンボがいっぱいいれば、もちろんこちらも。池の傍を歩くと、時々「ぽちゃん」と水面を叩く音が聞こえてきますが、正体は彼ら、蛙です(トリミング済み)。葉が密集した蓮の池は彼らにとっても格好の隠れ家です。

井戸尻遺跡の水車と南アルプス水車越しに南アルプスの山々を。水車のリズミカルな音に合わせて高原の涼しい風が吹き抜けていきます。

井戸尻遺跡の復元縄文竪穴式住居漸く雲が切れ始めた青空の下、復元された竪穴式住居の跡と、史跡である井戸尻遺跡を。【クリックでフルサイズ】

当日は丁度「道の駅蔦木」主催の散策イベントが行われていて、井戸尻考古館の館長さんの説明を横でちょっと聞きながら、思わぬ歴史散策も楽しめました(ごめんなさい井戸尻考古館には行ってません)。

蓮の花はこれからが見頃です。暑さが続く中、涼を求めて霧ヶ峰や、蓼科高原、八ヶ岳西麓を巡った後、ほんのちょっと寄り道して、静かな信濃境で花を愛でながら歴史に触れるというのは如何でしょうか(小淵沢駅/小淵沢ICから車で15分ほどです)。

<おまけ>

今回の訪問に際して、ちょっと参考にさせて頂いた資料をご紹介。

井戸尻遺跡散策ガイドブック1「富士見町井戸尻遺跡周辺散策ガイドブック ここに来れば縄文にあえる」(信州わくわくフットパスガイドブックNo.04 特定非営利活動法人つなぐ・編、まちミュー諏訪)です。

極めて入手経路が限られるガイドブックですので入手困難(発行200部らしい…)かとは思いますが、手作りチックで味わいのあるガイドブックです(平安堂諏訪店にて購入。200円)

井戸尻遺跡散策ガイドブック2このように1ページごとにテーマを決めてイラストとショートコメントが載せられています。込み入った内容ではないので、ちょっとした息抜きに読むもよし、訪問前の事前勉強にも良いかもしれませんね。多分、唯一無二の信濃境ガイドブックではないでしょうか。

続編です :高森のひまわり畑はこちら

・井戸尻考古館のご紹介はこちらにて。

 

広がる夏空を楽しむ(松本平広域公園と信州まつもと空港)

広がる夏空を楽しむ(松本平広域公園と信州まつもと空港)

折角の連休なのに、天気が安定せずに夏空が楽しめないここ数日。

何時もの八ヶ岳周辺も、霧ヶ峰も(観光客の皆さんで溢れかえっていましたが・・・)、美ヶ原も全くダメでしぶしぶ松本に降りて来たら漸く日差しが。

松本空港の青空1広い青空が楽しみたければ、山の上や河原がもちろん気持ちが良いのですが、ちょっと趣向を変えて空港の周りなんてのも如何でしょうか。

日本で一番高い場所にある松本空港(信州まつもと空港と呼ばないといけないらしい)。周囲は松本平広域公園として美しく整備されています。サッカーファンの皆様にはJ2松本山雅のホームグラウンド「アルウィン」がある場所としてお馴染みかと思います。

航空法の規定により、空港の周囲には高い建物や樹木があってはいけないので、空港の周辺は見渡す限りの広い芝生公園。広さを伝えるには28mmでも全然足りません(上の写真は滑走路南端側の公園のごく一部)。

松本空港の着陸帯と蕎麦畑着陸帯の辺りは真っ白な花に囲まれています(蕎麦の花?)。滑走路の向こうには鍋伏山と高ポッチが遠望できます。

松本空港の青空2空港のシンボル表示越しに西日を受けた青空を【クリックでフルサイズ】

心地よい風を受けて青空の下でしばしのんびりしていると、辺りからわらわらとギャラリーが集まってきます(脚立抱えたスポッターさんも、こんな地方空港までご苦労様です)。そろそろ一日にたった2回しかやってこないフジドリームエアラインズ定期便の到着です。

松本空港のFDA ERJ170夏場なのでやや強めの南風が吹く中、ほぼ定刻で一度空港上空を北から南にパスした後、もう一度旋回、南西側から北東方向にパスした後に20分ほど遅れて北側(R/W18)からアプローチ。本日の使用機材は七夕の日に丘珠空港への実質初の民間ジェット旅客機テストフライト(凄く丁寧な説明資料、余程反対意見が多いようで)でも使用された1号機(JA01FJ)です。写真をよく見ると、外板の所々にパッチの跡が。赤いカラーも色褪せてちょっとお疲れ気味です(写真はトリミング済み)。

松本空港ターミナルと美ヶ原空港ターミナルと到着した機材を【クリックでフルサイズ】

背後には美ヶ原の山並みが広がります。よーく展望デッキを見ると、人だかりが出来ています。こんな地方の小空港なのにちょっとびっくり。そういえば、FDAのブログにもそんなことが書いてありますね。ちなみに撮影前に空港ターミナル前の駐車場に寄ったのですが、満車状態で「うーん80人乗りの機体で往復違う人が使ったとしても満席で160人だし、それ以外に…」と思ったのですが、ちょっと納得です。

そんな訳で、折り返しの便の離陸も観て行こうかと思ったのですが、如何せん南麓まで下道移動だと2時間近くかかるのでここにて撤退。夕方には晴れ渡った美しい青空が望めました。【クリックでフルサイズ】

松本空港の青空3

7月の八ヶ岳南麓(夏への扉)

蒸し暑い日々が続く梅雨時、今年の南麓は水不足から一転、どんより曇り空の日々が続きます。数日前まで上着が欲しくなるほど肌寒い日が続いていたのですが、ようやく?蒸し暑い夏らしい暑さが戻ってきました。

7月の八ヶ岳南麓昨年のカレンダーより、編笠山を正面にして【クリックでフルサイズ】

ジメジメした梅雨空もあともう少し、梅雨前線が北上すると南麓にも夏がやってきます。

冬場のようなクリアな空はなかなか撮影することはできませんが、それでも時折見せる青空と乾いた風、深く緑に染まる木々は高原らしさを届けてくれます。

夏空の霧ヶ峰広がる青空、高く伸びる入道雲に連れられるように更に山へ、山へを歩を進めていきます。そう、どこまでも広がる雲を追うように。

夏の太陽の下、青空と深い緑に囲まれた大好きな八ヶ岳南麓の夏。ちょっと涼しく、ちょっと短い高原の夏はもうすぐそこまで来ています。