通り雨の後の夕暮れに(緑輝く八ヶ岳西麓と霧ヶ峰のレンゲツツジを)2014/6/29

久しぶりの梅雨晴れの日曜日。

でも、午後に入ると激しい通り雨が八ヶ岳の麓を過ぎていきました。

雨上がりの夕暮れに、少し足を延ばしてみます。

梅雨の夏空と八ヶ岳諏訪郡富士見町、立沢の圃場から東の空を眺めて(Lumia1020)。

沸き立つ雲が、もう夏の装いを映しています。

乙事のトウモロコシ畑同じく富士見町、乙事のトウモロコシ畑越しに八ヶ岳を。八ヶ岳には、まだ真っ黒な雲がかかっています(Lumia1020)。

八ヶ岳に向かって綺麗に並んでいるトウモロコシ達は、お盆の頃にはこんな感じで視界を覆うほどの高さまで育っていきます。

キャベツ畑越しに八ヶ岳を畑の作物も伸び盛り。こちらの畑は、収穫まであともう少し(Lumia1020)。

緑の水田越しに水田の稲穂たちにとっても、嬉しい日差し。水面に西日が映ります(E420)。

雨上がりの笹原溜池1雨上がりの奥蓼科、笹原溜池。澄んだ空気と緑が湖面に溶け込んでいきます(Lumia1020)。

雨上がりの笹原溜池2静かな笹原溜池。僅かに揺れる水面に、森の緑が映り込んでいきます(E420)。

車山越しのレンゲツツジ2一気に標高を上げて、車山肩の霧ヶ峰に。

西日を浴びたレンゲツツジが迎えてくれました(E420)。

車山越しのレンゲツツジ1レンゲツツジはちょうど満開。もう少しの間は楽しめそうです(E420)。

夕暮れの立石公園から諏訪湖を遠望夕暮れの立石公園から諏訪湖を(Lumia1020)。

車山越しの夕暮れは、ひんやり15℃程と、まだもう少し梅雨寒が続きそうですが、夏の足音は徐々にこの高原にも近づいてきているようです。

 

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今月の読本「江戸幕府と儒学者」(揖斐高 中公新書)師傅たらんと欲した儒家三代の物語

今月の読本「江戸幕府と儒学者」(揖斐高 中公新書)師傅たらんと欲した儒家三代の物語

梅雨空が続く6月末の週末。

本来の梅雨らしい天候であることは、喜ばしくもありますが、週末の数少ない楽しみでもある、緑の山々を愛でながらのお散歩も遠ざかってしまいがちになります。

そんな天気の週末の午後に読んだ一冊は、新書シリーズの老舗、中公新書の今月の新刊からのご紹介です。

江戸幕府と儒学者江戸幕府と儒学者」(揖斐高 中公新書)です。

まず初めに、この「儒学者」という言葉だけで拒絶反応が出てしまう方も多いのかもしれません。かび臭い書庫の奥で、中国の古典を跋渉しつつ、役にも立たないうんちくを垂らす輩…、もしくは湯島の聖堂に祀られている「神様?」の宗教…。そんなイメージが強いのでしょうか。

実際に、生活のシーンで儒学者の方に逢うことは全くと言っていいほどありませんし、その近しさから比較されるお坊さん(寺院)と比較しても、親近感どころか、そんな人、居るの?といった反応の方が一般的かもしれません。

その一方で、書店のハウツー本のコーナーに一歩でも足を踏み入れれば、溢れるばかりの論語や老子による生き方マニュアルや、孫子と戦略経営といった解説書が積み上げられています。このギャップには何時も驚かされるのですが、そもそも儒学の発祥を考えれば、決して驚くに値しないのかもしれません。儒学ほど本当の実学、人の生き方を説くことに近い「学問」はないのですから。

本書は、そんな普段は余りにも遠いにも関わらず、最も身近にあるともいえる儒学の日本での位置づけを決定付けたといってもいい、林家の祖でもある林羅山から、息子鷲峰、孫鳳岡の三代に亘る物語を綴った一冊です。そして嬉しいことに、冒頭で著者が述べているように、儒学的な思想における林家及び一門の思想論を語ろうという、一般読者から見たら堅苦しくて退屈となってしまう話を本書はテーマにしていません。林家の勃興から、儒家の使命ともいうべき国史に相当する歴史編纂を主導した鷲峰、羅山の宿願でもあった「官儒」としての地位を示す大学頭叙任を果たした鳳岡、そして凋落の始まりまでの林家三代の「儒家」としてのドラマを描きたいという著者の想いが全面に展開されています。従って、本書は歴史的な事実をありのままに把握するための本として捉えるのではなく、著者の30年にも渡る研究成果の上に構築された歴史ドラマとして読むと、とても楽しめると思います。

まず、本書は林家の祖、羅山の物語を語る前に、所謂方広寺鐘銘事件と羅山の関わりを述べていきます。ここで著者は、一般的に謂われる御用学者としての羅山の立場を擁護しながら、その経緯を検討していきます。その検討過程は羅山がこの決定に関与したことを認める一方、最終的な決定権はなかったとしています。しかしながら、著者はこれによって羅山を擁護する一方、儒者とその位置づけから非常に近い坊官との立場の違いを明確にしてきます。

日本仏教は在家信者との境界が低く、葬送儀礼に深く関与していたために、社会的活動と切り離せない状態になっていたとはいえ、その根本には決して失うことがない修行者(隠者)としての社会的隠遁性が秘められています。一方、儒家の祖である孔子の想いは、本人自体は叶えられることがなかったとはいえ、自己修身の先に、実社会の中で礼に基づいた改革を思想的に押し広げていく事をテーマ置いています。その押し進め方は、為政者を支える立場、すなわち師傅として立身することを厭わない事を、羅山の思想から明確にしてきます。

羅山自身が青雲の志を以て学問に打ち込んでいったことは事実でしょうし、そのような羅山の素地を受け入れた徳川家康も、戦国大名の中ではかなりの学問好きであったことは既に文献研究等で理解されている事実だと思います。そこで、羅山の立場が決して阿諛追従ではなく、為政者を支えるためのものであったと著者は訴えていきます。更に儒者の本文こそが為政者の横でより妥当性、普遍性の高い献策を呈し続けることであることを羅山やその後継者たちの言葉を借りて、著者は述べていきます。それが一般的には凡庸かつ扈従だと捉えれれても…。

祖である羅山が抱いた、そのような想いを家訓に持ったであろう林家の物語は、そのまま徳川幕府内での地位向上、すなわち「儒者」として幕府の政策に関与し、最終的には為政者の師傅の地位に到達するまでを描いたストーリーになっています。羅山の時代には儒者としての地位は得られず、忸怩たる思いを抱えながら法体での勤めに甘んじることになりますし、儒学(ここでは朱子学)を国学とし、儒者が国師たるためには相応の待遇、即ち護願寺や祈祷所に相応するような幕府公認の殿堂、学舎がどうしても必要だったはずですが、羅山の時代にはあくまでも私塾にすぎません。それでも、儒学に一定の影響力をあることを知らしめ、統一的な学問体系として江戸時代に儒学(朱子学)が広まっていくきっかけを作ったことは、そのあとの歴史的展開を考えると、非常に意義があったことだと思います。

羅山の息子、鷲峰の時代となっても法体での勤めは変わらず、私塾のままではありますが国史(本朝通鑑)の編纂が命じられたことで、儒家としてのもう一つの立場である、公的な歴史を編纂する地位を得たことになります。公的な歴史を編纂すると聞くと眉をしかめられる方も多いかもしれませんが、事実としてどんな歴史書の著者も、著述しようとしている時代とは異なる時間を生きており、著述される内容は、著述者が置かれた社会的状況や地位に大きく影響を受けることは逃れられないことだと思います。その中で起こる葛藤や著述の一貫性への疑問、当然のように起きえる為政者への偏向について、本書では鷲峰と水戸光圀との交流を通じて述べていきます。もしかしたら、鷲峰から光圀に託された想いは、歴史家としての著者が過去の研究者から託された想いと重なるところがあるのかもしれません。

そして、儒者としての存在意義を語る鷲峰の口述筆記は、今の時代にも多く存在し、それを生活の糧としている(私自身もその列に連なる一人と評されることがありますが)所謂アドバイザー、補佐官職と呼ばれる職務に従事するときに陥るジレンマに対する矜持を見事に表していると思います。儒者は決して実務者ではないかもしれませんが、基盤となる幅広い学識を有することは絶対であり、その上で、実務に当たっては実務者と遜色のない能力と知見を有し、為政者の時々の諮問に的確に応える、許される限りの公平性と、柔軟さを兼ね備えていなければならない筈です。その全てを揃えることに努力を払った結果は、技量は一芸に秀でているわけでもなく、更には師傅として国政に関与できない身を嘆いていますが、そこまでの矜持が無ければ事に当たるに足らないという想いの強さと、裏打ちされる自負心に強く心を打たれます。

鷲峰の想いは、綱吉の将軍就任によって息子である鳳岡によって叶えられることになります。幕府の手による湯島聖堂の竣工と、羅山が求めて止まなかった儒者として為政者に仕える形式としては望むべき最も妥当な形である「大学頭」としての叙任。名実共に官儒としての地位を得たことになりますが、もう一つの望みであった師傅としての地位はどうにも手が届かなかったようです。

皮肉にも、林家が距離を保った家宣の将軍就任によって侍講となった、鳳岡のライバルでもある新井白石が江戸時代、いえ日本の歴史上唯一といっていい儒者として師傅たる地位を得たことは、歴史の皮肉かもしれません。しかしながら、為政者を支える立場として自己実現を図ることを使命とする儒者にとって、為政者の変遷によってその立場が大きく変わっていく事は必然かもしれませんし、それ故に儒学が嫌われる最も大きな原因になっているのかもしれません。

そして、白石を生んだ江戸時代を通じての儒学の浸透自体が、祖である羅山による儒学の復興(藤原惺窩を継承しての)に起源を持つというと更なる皮肉になってしまいますが、結果として羅山の時代では考えられなかった、同時代に多くの儒者を生む結果となったと思われます。時代が下がるごとに林家だけではない、多様な儒学が講じられ、相対的に林家の地位が下落する結果となったのは、羅山の望みとは異なったかもしれませんが、為政者を支える立場であれば、儒学(朱子学)を規範とした文教主義が浸透した証でもあり、喜ぶべき結果だったのかもしれません。

更に、羅山の幅広い学識や興味(明暦の大火の中を避難する時まで通読中の書物を離さなかった、そして蔵書焼亡のショックで亡くなったと伝えられる、無類の読書家)が生んだであろう、白文の知識や徒然草をはじめ、和文に対する強い興味が和学を含む、林家をして官学としての総合性を有することになります。そして、儒学同様、和学においても学塾を置くことによって生じる学問の広まりによる専門研究の深化、即ち荷田春満から始まる国学勃興の揺籃にも寄与したことになるかと思います(白文に関しては、化政時代の文人サロン仕掛け人達の経歴にしっかり現れていますよね)

そのような江戸時代の学問や文化に大きな影響を与えた林羅山から始まる林家の歴代当主たち。本書では儒者としての彼らの動きとともに、学者一族としての彼らの想いも伝えようとしています。戦国の気風漂う時代を生きた羅山の、高く掲げる青雲の志と他者に対する峻厳さ。少し時代が落ち着いてきた鷲峰の、早世した長男に対する深い想いと、細やかな心遣い。羅山をも凌ぐ硬骨さ。そして、地位を確立し祖廟を得た鳳岡の、弟としてのトラウマと数多く表れるライバルたちに対する葛藤。政治の中枢に近づくことで折らざるを得ないこともある儒者としての矜持をなんとか保とうとする想い。

著者の林家歴代に対する想いが投影された本書は、そのまま林家に対するオマージュ。そして、林家歴代が抱えた想いの通りに、処世術、経世術としてはもてはやされても、決して好まれることの少ない儒学、そして儒学者対するこれまでの見方に対する、著者のほんの僅かな抗弁の書なのかもしれません。

<おまけ>

本ページでご紹介している、近世をテーマにした本を。

累計100,000アクセスありがとうございます(ご覧頂きました皆様に改めて御礼を)

累計100,000アクセスありがとうございます(ご覧頂きました皆様に改めて御礼を)

2012年のクリスマス前にひっそりと始めた本ページ。昨日遂に100000アクセスに到達いたしました。

こんな辺鄙なブログへ足をお運び頂き、ご覧頂きました皆様に改めて御礼を申し上げます。

100000アクセスの足跡無料サイトでアフェリエットもない(広告が一部出ていますが、無料サイト故、運営側が表示しておりますので、その辺はご容赦を)、完全に個人の趣味であてどもない事を、つらつらと書かせて頂いておりますが、ここまで続けられたのも、ご覧いただきました皆様のおかげです。

このブログを始めた時から現在まで、個人的にはかなり厳しい日々を過ごしておりますが、そんな日々の気分転換にしている写真や、読書の話題にこれほどまで関心を寄せて頂ける方がいらっしゃるという事に正直、驚いております。

一部のテーマに関しては、某検索サイトの上位に掲載されている事もあり、いきなりアクセス数が跳ねあがったりして焦ることも度々ですが、これからもマイペースで、ぽつぽつと撮り続け、書き続けられればなあと、思っております。

まずは、サイトの許容残容量が数10Mbyteしかないので、データをお引越しするか、圧縮するか、それとも…。

100000アクセスの足跡21周年の際にもご紹介しましたが、これまでアクセスして頂きましたページのトップランキングの一覧をちょっとご紹介です。

実際には上位5つのページで全体の65%程度のアクセス数を占めてしまいますが、ほかのテーマも少しずつご覧頂けているようです(本日現在、全212ページのうち、上位のアクセス数。一番下のページで400アクセス程です)。

メインテーマ_御射鹿池7月の八ヶ岳南麓このブログの最初の一枚(深い緑を湛える御射鹿池)と、この地に居を構えて丁度9年。最初に感激した風景をそのままに(網笠山に向かう一本道)

この想いが、今の自分を牽引してくれることを祈って。

2014.6.25

 

 

今月の読本「魚で始まる世界史」(越智敏之 平凡社新書)キリスト教とシェークスピアを軸に描く、イングランドと二つの大衆魚の物語

今月の読本「魚で始まる世界史」(越智敏之 平凡社新書)キリスト教とシェークスピアを軸に描く、イングランドと二つの大衆魚の物語

食べ物の歴史や風物を扱った本は、どれも楽しいのですが、特に海産物好きにとっては魚を扱った本は正に「好物」。

今回はそんな好物の一冊をご紹介。この手の書籍の著者としては異色中の異色といっていいのではないでしょうか、英文学、特にシェークスピア研究家の方による、ヨーロッパ、いや西洋全般のおける大衆魚の代表格である二つの魚をテーマに置いた「魚で始まる世界史」(越智敏之 平凡社新書)です。

魚で始まる世界史

最近の新書ブームで色々な出版社さんが新書(文庫)を出されていますが、その中では後発の平凡社新書。大先輩の講談社現代新書が最近採りつつある、専門性より読みやすさを重視したテーマ選定と編集、ちくま学芸文庫に見られるようなちょっと哲学的(または西洋文化的)なテーマを併せ持つこの新書シリーズ。

本書もその例に漏れず、単純に漁業や魚にまつわる文化史を語ろうという内容ではありません。

歴史的著述の側面に著者の専門分野であるシェークスピアや演劇のエッセンスをふんだんに取り入れて、それらの舞台演出装置として二つの代表的な大衆魚をテーマに採り上げようという、一般的な歴史書とも文化史とも違う、著者独自の視点による歴史著述が展開されます。

従って、本書では日本の漁業については一文たりとも触れられませんし、現在問題となっている北大西洋での彼らの資源枯渇の話も一切出てきません。そのような意味で本書の表題にある「世界史」という表現は、所謂西洋文明的な観点での世界史、それも取り扱われるのはアメリカ独立戦争期までの時代に限定されます。更に突き詰めていくと、1,2章で取り扱われる宗教的な魚食の意味合いの解説を除けば、その殆どは英国史(イングランド史及びニューイングランド入植史)を軸にした記述である事に理解が必要です。

そのような前提を理解したうえで本書を読み進めてみると、なるほどこの二つの大衆魚が与えた社会的インパクトの大きさと、最終的に新世界(アメリカ大陸)への進出のドライビングフォース、独立戦争まで続く一連の歴史の流れにこれらを綺麗にはめ込んでいく、著者の鮮やかな筆致は見事なものがあります。

キリスト教と断食に関わる「温かい食べ物(肉食)」と「冷たい食べ物(魚食)」などというテーマは、日本で読まれる魚を扱った本ではまず出てこない内容ですし、それがイギリスでの経済問題にまで発展するという展開は、ヨーロッパ中世史をあまり知らない私などから見れば驚きの連続。そこにハンザ同盟のニシン流通路掌握や、オランダのニシン市場の制圧(品質には疎いイングランド人の特性がこの時代にも)といった経済的な話を絡めつつも歴史的な流れを叙述していきますが、その扱われ方も、市民による「貶され方」も、あくまでも視点はシェークスピアの国、イングランドを中心に記述していきます。

貧者の食料の代表であったニシンとタラ。どちらも保存性の極めて高いタンパク源であったのと同時に、「海が湧きたつほど」とも形容された沿岸に大挙して押し寄せて産卵する習性から、大量捕獲が可能であった数少ない魚類である彼らが、肉類中心の食生活と思われがちな、ヨーロッパの中世史の底辺を支える貴重な食料であったことが本書を通じて理解できると思います。

そして舞台は「新大陸」に移っていくわけですが、この大冒険旅行を成立させるために最も重要な食料であったのが他でもない、赤道を腐らずに渡る事が出来た動物タンパク源である干しダラ(いわゆる棒ダラと塩ダラ)だったことになります。二つの魚たちのおかげで、西ヨーロッパ史の世界史化ともいえる大航海時代、更には大英帝国の世界への扉が開かれたことになります。

タラによって切り開かれた海路の先に広がる、新大陸における膨大なタラの資源は、新大陸への新たな移民の波を生み、プランテーションへの食料供給という三角貿易による膨大な利益と、奴隷という名の大きな大きな負の遺産を後に生み出す結果となります。そして、ここで再び見せる島国イングランド漁民たちの(荒っぽい)特性が、これまでも複雑な思いを抱きながら有してきた「自由の海の自由な漁業」の思想を更に育み、その先に広がる「力による自由貿易」すなわち、アメリカ合衆国の成立に繋がると著者は看破していきます。

マサチューセッツ州下院議会に掲げられているタラの像が独立の精神の今に伝えるように、漁師たちの独立心と自由溢れる冒険心、そしてそれを後押しする流通システムこそ、現在の世界を網羅する自由主義経済活動の原点なのかもしれません。

<おまけ>

その1.本書でも取り扱われている、ニューイングランドの今の風物と当時の雰囲気を繋ぐ興味深い紀行文を扱った一冊をご紹介

その2.本ページで扱っている他の魚類、食べ物の話題の書籍を

今月の読本「図鑑大好き!」(千葉県立中央博物館監修 彩流社)

今月の読本「図鑑大好き!」(千葉県立中央博物館監修 彩流社)

今回のご紹介は、SNSで見かけて偶然に本屋さんで入手できた一冊。

男の子なら、誰しもが子供の頃に通過する「モノへの興味」。興味の対象はそれぞれ違うと思いますが、溢れるばかりの好奇心を満たしてくれる大切な宝物の一つに「図鑑」があったかと思います。

子供の手にはちょっと余る大きなページいっぱいに、美しい写真やイラストが散りばめられた図鑑を眺めているだけで、時が経つのを忘れてしまいそうになったあの頃を思い出してしまう。そんなきっかけを再び作ってくれる一冊です。

7/19から10/13まで、千葉県立中央博物館で開催される予定の企画展「図鑑大好き!」に先立って刊行された、題名もそのまま「図鑑大好き!」(彩流社)です。

図鑑大好き!ややカウンターカルチャー的な本を出される版元さん。八ヶ岳南麓に住んでいる身としては「諏訪神社 謎の古代史」という、少々不気味な表紙と、自費出版的な粗い構成の書籍を出されている会社という、かなりマイナーなイメージしかなかったのが現実です。一方でトム・ソーヤの冒険でおなじみの、マーク・トゥエインの全集を取り扱っていたり(国内唯一)、現在放映中の「花子とアン」に合わせた作品である「快読『赤毛のアン』」を刊行するなど、北米系の文学、文化的なテーマを扱った書籍も得意としているようです。

そんな版元さんが送り出した本書は、極めて珍しい地方の公共博物館が主催する企画展の公式解説書として位置付けられた一冊。刊行目的からも判りますように、お値段は少々高め(フルカラー110ページで2000円)なので購入するにはちょっと気が引けてしまうのですが、類書が少ない分、そのテーマ設定と内容には興味深いものがあります。

まず、冒頭の誰しもが懐かしさを感じる、清水勝による里山の景観の中に動物たちをはめ込んでいく、往年の図鑑独特のイラストから、ダーウィンのフジツボ図鑑、そして手塚治虫の手による、ペンネームの元ともなった著名な昆虫イラストのカラーグラビアに興味を持たれた方なら、そのままお買い上げになっても、決して後悔することはないでしょう。

続けて登場する、図鑑に対する想いを語るページには、やくみつる、柳生真吾、さかなクン…と、地方の公共博物館とはいっても、多くの人口を有する千葉県が主催する展示会らしく、豪華なメンバーのインタビューが続きます。彼らが語る図鑑に対する愛好心と、ボロボロになった図鑑たちの写真を見ると、「モノ」に惚れ込んでしまった子供心のままに成長されたんだなと、ちょっとほほえましく感じてしまいます。そして、図鑑好きを熱中させる、作る側の図鑑に対する想いが続けて語られていきます。

図鑑を愛する方々の想いと、より正確で、美しい資料としての図鑑を届けたいと想う作り手の熱意がインタビューから伝わってきます。

前半はどちらかというとインタビュー中心で、カルチャー雑誌のようなエンターテイメント性を重視して纏められていますが、後半に進むと、本来の刊行目的である、博物館の展示会解説書であることを明確に見せ始めます。図鑑の歴史、図鑑の表現方法や検索方法についてのお話が続きます(巻末に、さりげなく科研費研究の成果であることが記載されていますが)。

更には、学芸員100人へのインタビューによる、お勧め図鑑の紹介と、テーマ別に一押しの図鑑を紹介する「使える図鑑」のコーナーという、実践的かつ各図鑑出版社さんにとっては気になるページも用意されています。

紹介されている図鑑を見ていくと、入門向けやマニアの方がくすっと笑ってしまうツボを押さえたコンパクトな図鑑を積極的に出されている文一総合出版さんの本が目立ちますが、ヒットを記録した講談社のDVD付図鑑「MOVE 鳥」も掲載されていますし、本書の読者層が購入するとは思えませんが、さかなクンも紹介している東海大学出版部が誇る最大の魚類図鑑でもある「日本産魚類検索 全種の同定」が掲載されている点は嬉しい反面、この分野に相応しい入門編の図鑑が無い事を暗示しているようです。

本書を読まれて、再び図鑑への興味を持たれたならば、本屋さんに豊富に並んでいる美しい図鑑の中からお気に入りの一冊を見つけて眺めてみるのは如何でしょうか。子供の頃に抱いていた好奇心という名の想いが、再び蘇ってくるかもしれませんね。

最後に要注意点を一つだけ。

本書は図鑑の楽しさを伝えることをテーマにしていますが、副題にあるように、都市部に住んでいる方(特に親子)が、図鑑を通して身近の生物たちに興味を持ってもらうことを念頭に置いています。そのため、図鑑の歴史といっても所謂「生物学習図鑑」を前提としており、博物学全般や地球科学、歴史、男の子が大好きな工業分野の図鑑は取り扱われていません。

その結果、取り扱われている図鑑の種類も、昆虫、植物、野鳥、潮溜まりの水中生物といった千葉県在住者にとって身近なテーマに絞られているのはちょっと残念なところです(動物、淡水魚、そして子供たちが大好きな両生類の図鑑が本編で欠落しているのはかなり痛い所ですし、編者の方々の環境がダイレクトに反映しているように思われます。特に動物については参照項目もありません)。

巻末に並べられている学芸員さんお勧めの図鑑も、博物館を訪れる家族連れにとってはとても役に立つと思いますが、本書のインタビュー記事に興味を持たれたり、本書自体に興味を持たれる読者の方々は間違いなく「本物の図鑑好き」だと思いますので、本書の刊行目的と編者に対する読者層のギャップを感じるところです。

<おまけ>

本ページで扱っているいきものの本をご紹介

 

梅雨晴れの空の下、初夏の装いを追って

久しぶりに晴れ間に恵まれた、梅雨間の週末。

少々落ち込み気味で遠出をする気にはなれなかったのですが、日差しの眩しさに当てられて、午後のひと時、付近を散歩した際の風景を少々。

夏の入り口、水田と八ヶ岳遠くに八ヶ岳を望む、谷戸の水田より(北杜市小淵沢町本町)。

伸びるイネの穂と南アルプス風にたなびく水田の稲穂も大分伸びてきました(諏訪郡富士見町先達)。

蕎麦の花と初夏の南アルプス僅かではありますが、早生の蕎麦の花が咲き始めています。雪渓残る南アルプスの山々と蕎麦の花のコラボレーションはこの時期だけです(北杜市小淵沢町高野)。

初夏の青空夏空が広がる水田越しに、鳳凰三山と甲斐駒を(北杜市小淵沢町高野)。

まだ若芽の向日葵畑越しに八ヶ岳まだ若芽の県道沿いに広がる向日葵畑。真夏の頃になれば、こんな感じで背の丈ほどに伸びた向日葵の花と、八ヶ岳のコラボレーションが楽しめる事でしょう(諏訪郡富士見町高森)。

八ヶ岳自然文化園の白樺とレンゲツツジ梅雨の季節の花といえば、紫陽花ですが、八ヶ岳の周囲ではレンゲツツジガ梅雨時の花の代表。八ヶ岳の周囲ではそこかしこで楽しむ事が出来ます。

原村の八ヶ岳自然文化園近くに広がる、白樺林に咲くレンゲツツジを。

初夏の空に伸びる白樺梅雨晴れの初夏の空に高く伸びる白樺の木々(諏訪郡原村、八ヶ岳自然文化園裏)。

レンゲツツジ越しに蓼科山ビーナスラインに登ると、レンゲツツジの花たちはピークを迎えています。

レンゲツツジの名所。車山肩にある、伊那丸富士見台駐車場前より、正面に蓼科山を見て。

夕暮れ時、梅雨晴れの池のくるみ夕暮れの霧ヶ峰、池のくるみを望みます。

夏らしい雲が西日を浴びてぷかぷかと浮かんでいます。

気持ちの良い梅雨晴れの午後。高原の気温は20度にも達せず、少し寒いくらいです。再び梅雨空に戻るまでの僅かなひと時を。

 

今月の読本「南朝の真実」(亀田俊和 吉川弘文館)南朝を主軸とした楽しい南北朝人物伝と、もう一つのお話を

今月の読本「南朝の真実」(亀田俊和 吉川弘文館)南朝を主軸とした楽しい南北朝人物伝と、もう一つのお話を

歴史に関する幅広いテーマを、研究者の皆様の執筆による正確な考証と、専門出版社ならではの丁寧な作りにも関わらず、一般読者にも手軽に楽しめることで好評の、吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」ですが、今回ご紹介する一冊は、刊行以来、ネットやSNSを通じてその評判が広まり、刊行後僅か10日で増刷が決まるという、専門書としては異色の売れ行きを示しています。

地方の山村に住んでいると、ただでさえも入手困難な専門書。それも大人気で品薄とあって入手自体が危ぶまれたのですが、ある書店さんのご紹介で漸く入手できましたので、ご紹介したいと思います。「南朝の真実」(亀田俊和 吉川弘文館)です。

南朝の真実まずは、このキャッチーな帯と、禁じ手とも思われる「真実」の表題。明らかに既存の見解に対して、かなり意図的な提起を行うことを念頭に置いた書籍であることが、表紙に滲み出ています。ここまであからさまだと、読む方も身構えて読み始めますが、そこは学術書ベースの版元さんの手による刊行物。所々にビジネス書紛いの表現が見受けられますが、それほど極端な論調でもなく、著者が述べている通りの「南朝側視点」で登場人物たちの評伝が語られていきます。

そこに出てくる人物たちは、北朝も南朝も関わりなく個性的な面々ばかり。ただし、戦国期と比べると更に文献による資料が限られる、鎌倉末から室町初期までの歴史研究においては、どうしても研究者の主観が多く差し挟まれることになります。それでも、彼らの行動や残された言動は決して武士道で語られるような聖人君主にあらず。みな打算的で、日和見。裏表のある登場人物たちは、事あるごとに嫉妬はするし、自分を大きく見せてみたり、逆に急に萎れこんだりと、様々な側面を見せてくれます。足利直義のような真面目人間ももちろんいますが、残念ながら彼とて義理堅いといった雰囲気は見せてくれません。

本書では、これらの個性的な人物たちを敢えて、南朝側の主要な人物と一対一で対決させる形式で、鎌倉末から南北朝合一までの期間にわたって11のストーリーに纏めています。これらの対決ストーリーについて、若干でも中世の歴史に関しての興味をお持ちの方であれば、それほど目新しいことが書かれているわけではありません。また、ある程度類書をお読みの方であれば、取り上げられれている人物が少し捻り込まれている(例えば高師直や佐々木道誉といった婆沙羅大名を非常に高く評価している。楠木正成を「あえて」対決シーンで扱わずに、楠木正儀をカウンター役としてを大きく扱う。事跡も乏しい南朝の天皇のマイナーさに合わせるように、対決相手を中院具忠や赤松宮といったマイナーな人物を用意して、あえて光を当てる)点を除けば、類書と比較して特段に目新しい知見が得られるわけではありません。

本書は、そのキャッチーな表題とは裏腹に、歴史の舞台としてはややマイナーで人物関係が判りにくいことでは、平家物語(平清盛、苦戦してましたよね)といい勝負である、南北朝時代を理解するための入門書として、時系列を追って、南朝・北朝に拘らずに人物をベースに歴史を見ていきましょうという一冊なのかもしれません。軽快なテンポの筆致で綴られていますので、人物名に苦しまなければ比較的楽に読みこなせると思いますが、各人物に関する背景や、その時々に問題となるポイント、特に愁眉の懸案であった皇位継承権と皇子たちの関係、武家政権である鎌倉幕府と公武合体の建武政権、それに続く室町幕府の政治的継承性と課題解決にあたってのスタンスの違いについては、それぞれに丁寧な解説と、最新の知見による著者の論評が設けられています。

本書の人物をなぞっていくうちに、その中でひときわ魅力的な登場人物を見つけられたら、しめたものです。本書をガイドブックに、彼らの行動を追いかけながら、近年豊富に揃いはじめた中世史類書の海へ漕ぎ出してみてはいかがでしょうか。きっとその中には、新しい知見、魅力的な人物像があふれていると思いますよ。

[とりあえず書評はここまでです]

そして、本書を語るにあたって、もう一つ述べておかなければいけない事があると思います。

本ページでご紹介している他の書籍でも言及させて頂いていますが、本書は所謂「皇国史観」に対するアンチテーゼであることを明確に押し出した論調で書かれています。現在読んでいる最中ですが、本書よりほんの少し前に刊行された呉座勇一氏の「戦争の中世史」では、更に「戦後平和教育」と「マルクス主義歴史学」に対するアンチテーゼ論を全面に展開しています。

この議論に、武家政権の授権位置づけの議論(権門体制論と二つの王権論)を加えると、現在の中世史研究者の皆様にとってのフルコース?のようですが、一般の読者から見た場合、これらの議論に果たしてどんな意味があるのか、今もって理解が及ばないのです

著者の皆様と若干前後する年代ですが、これまでの生活の実体験として、これらの議論に実際に遭遇したのは、はるか昔、小学校の頃に何故か臨時朝礼と称して、全校生徒が校庭に集められて一時間ほど校長先生の講話を聞かされた事(要は教員の時限スト)。そして、中学校の社会科の先生が、何故教員がストライキを行うことが正しいのかを授業中にいきなり語りだしたことの二回くらいだったでしょうか。ましてや、皇国史観や学園闘争は遠い過去の話。日の丸掲揚や君が代斉唱の規定もまだなく、学生時代は総長からしてマルクス主義の権化のように呼ばれた某巨大大学にも関係していましたが、ベルリンの壁崩壊後の教室や研究室にいる限りは、それらの話題は全く上ることはありませんでした。

そのくらい、実生活とは遠く離れたこれらの議論のベースとなっている事柄たち。しかしながら、最近刊行される中世史に関する書籍で、特に1960年代以降に生まれた研究者の方の書籍には、これらの議論の経緯を(両方向で)滲ませている論調が散見されます。しかしながら、いずれの書籍を見ても、これらの論調を語る先に何を目指していらっしゃるのか、特に実践面では全くと言っていいほど見受けられません。

更に、これらの書籍の冒頭や巻末では、実際の社会状況と歴史研究の関連性について配慮する記述が見受けられたりもしますが、これらイデオロギー的な研究史とそれに付随してくる理論は、実際の社会生活で扱われることは殆どなく、熱弁を振るわれるこれらの議論もなんだか空振り気味に見えてしまうところが、非常に残念に思えてきます。ものすごい気勢でこれらのテーマを大上段に掲げる論調を張った書籍を出されること自体、実社会でははるか昔に滅び去った亡霊に、歴史研究者と謂われる皆様だけが、未だ苛まれていらっしゃるのではないかと、逆に心配になってしまうところです。SNSに流れる多くの書評がそうであるように、読者の方々はもうそんなこと、気にしていませんよ、と。

ライトな歴史ファンにとって、研究者の方々が執筆されるこれらの書籍に期待したいこと。それは、古新聞にびっしりと刻み込まれた記憶への反論ではなく、その時代にしか残っていない、我々の知りえない新たな知見を届けることで、より豊かな見識を広げていく事ではないでしょうか。それが読書子として最も欲する、知的好奇心の充足に繋がると信じて。

南朝の真実と中世史の本たち直近に刊行された、併せて読んでいた中世史関係の本達から、類似のテーマのものを。

既に文庫に収蔵された著名研究者の名著から、実社会にも打って出た、武家政権論一直線を掲げる方の本、また、表題そっちのけで研究史の議論を始めてしまう本まで…。

これらの本にとって、大先輩としての一冊。アンチテーゼとして、敬愛する新井白石の「読史余論」も一緒に。

<おまけ>

本書に類似のテーマ、および歴史文化ライブラリーの中から、本ページで取り上げた本のご紹介。