「今月の読本「冷えと肩こり 身体感覚の考古学」(白杉悦雄 講談社選書メチエ)ひとの苦痛を表す言葉の物語

お出かけの多いシーズンに入るとどうしても読書が疎かになる。

面白い本が入ってきてしまうと、それまでに読んでいた本が後回しになってしまう。

興味深いその内容にもかかわらず、後回しの後回しになってしまった漸く読み終わった一冊を今回はご紹介します(大ボリュームの某上下巻本にたっぷり時間を取られたためでもありますが)。

冷えと肩こり講談社選書メチエより「冷えと肩こり 身体感覚の考古学」(白杉悦雄)です。

まずは、著者の極めて珍しい経歴が興味を引きます。

文学博士で所属は芸術工科大学という不思議さ。では専攻は科学史か醸造などの伝統的な産業技術かと思うと、確かに科学史も専攻ですが、中国科学史という変化球。更には医療思想史という謎の学問領域、しかも中国と日本のという二枚看板で臨まれるという、ハテナが三つくらい並んでしまう不思議なテーマを掲げていらっしゃいます。

そんな著者が初めて上梓する一般向けの書籍のテーマは、日本人なら誰でも経験をお持ちの二つの症状を表題に掲げて考古学で語るという、これまた不思議なテーマを挑んでいらっしゃいます。

その不思議なテーマに相応しく、冒頭に述べられる著者の恩師たちの発言から驚かされることになるます。

「英語ばかりか、ドイツ語、フランス語、そして日本に多くの医学用語を提供してきた中国語にも、肩こりの苦痛を表すことばはない」

もちろん、それに対応する症状がないわけではありません。しかしながら適切な単語、用語が用意されていない点を著者は指摘しています。日本人にとってはもっとも普遍的な苦痛であるこれらが表現できないとは、何たる不思議なことでしょうか。

本書は、そのような疑問を出発点に、日本における代表的な病理や医療を表す言葉達の表現方法と治療方法の物語をコラム形式で述べていきます。

コラム形式(巻末にありますように、何本かの論文を集約して、本編を追記された事を述べていらっしゃいます)の体裁を採るため、冒頭の疑問に対して、各章それぞれは答えてはくれません。従って、結論を急がれる方は気になる症状、表現が書かれた章を読まれた後に終章に飛ばれてしまっても良いかと思いますが、通読されると(特に6章と終章は)、これまでの自分の苦痛に対する表現にちょっとした発見を見いだせるかもしれません。

血の道や、癪、せん虫や脚気といった、時代劇ではおなじみの言葉達の発生の由来と、その病理との対比が行われていきますが、どれも現代医学では特定の病名や病理に結びつけることが難しい症状たちのようです。

実例として冷え症(所謂婦人病)の治療方法について述べられていますが、現代医学では有効な処方が見当たらない中、漢方が優れて効果を示すが、個々の症状の何に効いているのか説明が難しい点が、この苦痛への表現と実際の病理への結びつけの難しさ、そして症状を徹底的に分解詳細化してく、科学的手法に対しての大きなアンチテーゼになっているようです。

本書では、そのような科学的手法とは無縁であった時代の病理の表現方法として言葉の由来と、それを診察すべき医師の診療用語(問診、腹診)の変遷から、病理と治療の表現方法の変遷を紐解いていきます。

腹診の用語から用法が変わってきてしまった肩こり、癪。鬱の言葉の使い方の変化。疝気や庸医(所謂藪医者)の語源が、庚申信仰や「野巫医」という呪術的な意味合いや、医療行為の発祥に起因することを示していきます。

対応する症状とは関わりなくとも、苦痛を表す、そして医療行為としての言葉と表現はどんどん変化していく事を考古資料から示していく点は、とてもユニークでもあり、興味を引くところです。

病理の表現が時代と共に変わっていくのであれば、身体自体の表現も変わっていくはず。そんな想いを抱かせたところで、後半の江戸時代の体内想像図の話に入っていくと、はたと考えさせられます。

既に解体新書が普及してきたころに描かれたこれらの版画。解剖学的見地を少し捻り込んで、体の中の小人さんがぶつくさ言いながらせっせと働いているシーンは、現代の子供向け図鑑にも引き継がれたモチーフですが、そこに表される言葉の数々が、最も古典的であろう考え方に基づいている点が非常に興味深い点です。

「曰く、抱朴子に曰く、氷霜粛殺も菽麦の茂を凋すことあたはず、暑鬱陰隆も雪山の凍を消することあたはず。人は此一小天地なり。あに雪山の凍あらざんや。」(丹水子)

著者は、その表現が中国のそれと異なっている点に着目しているのですが、そのような違いより、むしろ人体に対する自然との対比、自分のからだそのもへの畏敬の念だけは、洋の東西を問わないのではないかと思えてくるのでした。

それは人体を表して、小宇宙と呼ぶようになった現代医療にも結びついてくる表現方法なのかもしれません。

その畏敬の上で、より微細に探求して、害虫を取り除くように異常点を見つけ出して排除していこうとするのか、それとも大きな自然の流れの中で、虫たちが暴れて食い荒らさないように、手入れをマメに行い、調和を図っていこうとするのか。

言葉と病理に関わる歴史物語は、終章で述べられているように、これらの失われつつある苦痛の表現(肩こりも冷えもなくなったわけではないですが)は更なる表現方法への進化を遂げることで、あたかも現代医学への置き換えが困難であることを認めるかのように、あらたな外来語である「ストレス」という言葉に収斂させて片付けようとしているかのようです。

やはり「病は気から」の言葉こそが、すべてを的確に表すマジックワードとして何時までも使い続けられることになるのでしょうか。

人が生き続ける限り、新たな表現と共に次々と現れ、溢れる苦痛への悩みと、苦痛を訴えるその言葉に翻弄されながら、新たにその苦痛を命名し、それを治すことを使命とするお医者さんたちの戦いは、まだまだほんの序盤戦のようです。

 

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