全国的に出版社や書店の廃業が続く中、地方ではありますが頑張って面白い書籍を出し続けている版元さんも、まだまだいらっしゃいます。その中でも、全国的に見ても読書人口に恵まれているのでしょうか、長野県にはその人口規模に似合わず、郷土に立脚した出版物を手掛ける版元さんが今でも複数社活躍されています。
長野の郷土出版社の筆頭に挙げられるのは、地元地方紙の雄でもある信濃毎日新聞社。全国規模で展開する大手出版社の作品をも上回る優れた企画力と、丁寧な編集。価格を抑えながらも綺麗な装丁で仕上げられた刊行物の数々は、読んで楽しく、手にとっても満足という、嬉しいラインナップが多数揃っています。
そんな信濃毎日新聞社が昨年ごろより始めた新企画が「信毎選書」。所謂選書シリーズと同じ版型を用いて、以前刊行されていた書籍の復刻版や単著としては扱いにくい内容のテーマを比較的安価に提供するという、大手出版社顔負けの刊行形態を地方出版社が手掛ける珍しいケースかと思います。
既にシリーズは十数冊を数えていますが、今回はこの中から描き下ろしとなる、それも信州らしいテーマに拘った一冊のご紹介です。
「ウェストンが来る前から、山はそこにあった」(菊池俊郎・信濃毎日新聞社)です。
著者の菊池俊郎氏は信濃毎日新聞社の元記者であり、写真に載せています、信濃毎日新聞社が誇る山岳写真集シリーズの一冊でもあり、圧巻の写真が畏敬の念すら感じさせる「北アルプスの渓谷をゆく」の解説文も担当されています。この写真集、余りの美しさと渓谷の厳しさに目を奪われるのですが、同時に菊池氏の歯切れの良い、かつ常に批評的視線を忘れない、元新聞記者の方らしい筆致が極めて印象的でした。
そんな著者の手により、あとがきにもあるように、山で一緒になった方々との呑みを含めた雑談の中から生まれたのがこの一冊。インパクトを与えようとして、やや挑戦的な表題を掲げていらっしゃいますが、ざっくばらんに書かれた本書の中で表題にあるウェストンの話題が出てくるのは全体の1~2割程度。決して本書の中核をなす話題として取り上げられているわけではありません。また、著者も繰り返し述べていますが、突っ込んだ議論を求めているわけではなく、信州に暮らす岳人の一人として、信州の登山に関する話題に対する疑問点を投げかけることで、東京中心、有名人の伝記中心の所謂ステレオタイプに対して一石を投じたいという想いで書かれており、目くじら立てずに、著者が雑談していた状況そのままに、軽く一杯傾けながら読むのがよさそうです。
そんな気軽に読みたい一冊ですが、冒頭から3章辺りまでは、素面で読んだ方がよさそうです。
信州の学生にとっては忘れられないであろう学校登山の経緯と変遷や、歴史に埋もれつつある峠を通じた他県(時代的には他国ですね)との交流、そして開山伝記の検証など、山を通じた生活という視線で見ると興味深い話が満載です。特に、学校登山の悲劇的な側面として取り上げられる西駒遭難事件について、映画で象徴的に取り上げられる、薪として燃やされてしまったことになっていた、山小屋の屋根(子供の時にテレビで見て以降、このシーンはトラウマになっています)が実は新田次郎の創作であり、資材運搬の限界で、当時の高山帯に位置する山小屋に屋根が無いのは当たり前、自分たちで持ち込んだ筵やコートで仮設の屋根を作るのが当然の事であったという著者の記述に、驚愕したと同時に、映画や作家の著作はフィクションであり、実際と異なっているという事実を改めて本書を通じて見つめ直させられたのでした。
そのような地元ならではの視点による山の物語への批評は、中盤戦に入ると表題に現れるウェストンを始め、明治以降の山の物語で欠かすことのできない人物の批評が繰り広げられます。内容は極めて興味深く、じっくりと改めて見つめ直してみたくもなりますが、如何せん前述のように批評精神旺盛な元新聞記者の方による筆致。この辺りからは批判の内容に耳を傾けながら、杯も一緒に傾けながら聞き入った方がよさそうです。
人物評に挟まれるように、地元に住んでなければ知る由もない、入会や財産区、水利権といった山にまつわる利権関係の複雑さを物語るちょっと真面目なお話も出てきますが(諏訪の一大観光スポットである霧ヶ峰や蓼科山中の殆どは「財産区」が管理する共有地。かの有名な白樺湖に蓼科湖、あの御射鹿池も、地元財産区が所有する「農業用ため池」だったりするのです)、基本的には楽しみながら読みたい内容が続きます。特に、登山の歴史や登山ガイドに興味のある方には貴重なお話が満載です。
最後の方になると、内容も筆致も完全に酔いつぶれ気味。山にまつわるよもやま話は信州を飛び出して、四方八方に飛び散っていきますが、それも飲み屋話の醍醐味。
ちょっと笑える話題から、固い話も少々きつい批評も交えながら脱線し続ける、信州を中心にした山々に関する話題を酒の肴に、ほろ酔い気分で楽しみたい一冊です。
<おまけ>
本ページで扱っている、信濃毎日新聞社の刊行物および、同じようなテーマからいくつかをご紹介。
- 今月の読本「希少種はいま」と「増える変わる生態系の行方」(増田今雄 信濃毎日新聞社)自然ではなくすべては人の営みの中に
- 今月の読本「浪漫あふれる信州の洋館」(文:北原広子 写真:大澤敬子 他 信濃毎日新聞社)その宿されたストーリーに想いを馳せて
- 今月の読本「信州観光パノラマ絵図」(今だから見たい観光に賭けた先達の想い)
- 今月の読本「職漁師伝」(戸門秀雄 農山漁村文化協会)峰々と渓々が繋ぐ人の営み
- 今月の読本「山の仕事、山の暮らし」(高桑信一 ヤマケイ文庫)哀惜の先はきっと今に続くと信じて
- 今月の読本「二万年の奇跡を生きた鳥 ライチョウ」(中村浩志 農文協)ライチョウ研究のトップが静かに語る「奇跡」の今
- 北アルプスにまつわる自然と人の営みを集めて(大町山岳博物館と4つの分野を跨ぐ特徴的な展示を)
- 霧ヶ峰・野焼きの跡