今月の読本「明治維新と幕臣」(門松秀樹 中公新書)3つのプロローグと函館戦争通じた旧幕臣の行く末は、やはりキャリアの力が

今月の読本「明治維新と幕臣」(門松秀樹 中公新書)3つのプロローグと函館戦争通じた旧幕臣の行く末は、やはりキャリアの力が

あまり読書が出来なかった今月。20日を過ぎて各社の新書が出揃う月末になって、買い込んだ本を少しずつ読み始めています。

毎月のように矢継ぎ早に出される新書の数々。驚くようなテーマの本が出てきて喜ばしい反面、テーマの選定から執筆までのサイクルが非常に早くなっていて、内容的に苦しい本が増えてきているのではないかと気がかりになりながら読んだ今回の一冊。

明治維新と幕臣

明治維新と幕臣」(門松秀樹 中公新書)です。

本書は副題に「ノンキャリア」の底力とあるように、江戸時代の幕府を支えた、旗本、御家人たちが明治維新や新政府の中でどのように活躍していったのかを全編を通してがっつりと著述しているように思えます…が、その想いは早くもまえがきで打ち砕かれてしまいます。

本文では、表題にあるように幕臣、特に幕臣の身分体系に配慮した記述で綴られていきますが、一方で全体の半分は明治維新期の幕臣の話ではなく、そのガイダンスというべき体系や政局の説明に費やされています。

著者がはじめにで述べているように、多少なりとも江戸時代の歴史にご興味のある方であれば、1章の江戸幕府の老中制確立までの歴史と、2章の旗本、御家人の職制、身分、収入制度のお話は既にご承知の内容かと思います。

更に、幕末の歴史がお好きな方にとっては、3章の幕末政局の部分も既知の内容で綴られていますので、ある程度ご存じな方にとっては新たな知見が出てくるわけではありません。

ここまでで本書は全ページ数の半数以上を費やしており、バックボーンとなる知見を有しないままに読まれる方に配慮されたことは充分に理解しますが、一方で本来のテーマが描かれるまでのプロローグが如何にも長すぎるきらいがあります。

そして、本書の中核となる旧幕臣の明治維新期における活躍は4章以降の後半戦で述べられていきます。明治維新という権力の空白期を迎えたにもかかわらず、なぜ統治機構が崩壊する事もなく、複雑を極めた外交関係も維持できたのかの理由を、勝海舟の書上げを用いて、財政、外交を司る旧幕臣が上部機関の政権交代による着任、指揮を待つことなく、業務をそのまま横滑りしたことによって維持されたことを指摘していきます。

その際に用いられるキーワードが「朝臣」の称号。幕臣への懐柔策と共に、反乱を抑える手段として用いられた、新政府に対する忠誠を誓わせる代わりに、収入と仕事を約束するこの称号の効用と、それでも静岡に付き従った旧幕臣たちの動きを通して、旧幕臣たちの複雑な心情を表していこうとします。更には、一旦は静岡に引き下がりながら、再び新政府によって呼び出された渋沢栄一の話を通じて、当時の新政府に仕える藩閥出身の行政官と、旧幕府体制下で研鑽を積み上げた旧幕臣たちの行政能力の実力差を語っていきます。それは、外交接受組織としての能力、全国規模での行政経験の有無をまざまざと見せつけるかのようです。

幕臣たちの転身と矜持、この複雑な心情を具体的な史料から説明しようと著者が用意したのが、明治維新期最後の戦闘の舞台となった函館戦争。著者は函館戦争前後の函館奉行所、函館府、そして開拓使へと続く一連の流れの中で翻弄され続ける旧幕臣たちの物語を通じて、幕臣たちの実務官僚としての動きを追っていきます。

後に開拓使の属僚として復帰することになる当時の函館奉行の幕臣たる矜持。上司である函館奉行の説得に応じて、函館奉行所の業務を継承し、新政府の官僚となった属僚たちの活躍。函館戦争を通じた旧幕臣の身の振り方とその後の顛末。

著者は此処でも、キャリアである奉行を始めとした旗本層と、ノンキャリアと定義づけた御家人層のその後の推移を対比していきます。そこにはかっこいいノンキャリア像を期待されるであろう読者の想いを冷静に受け止めつつも、実際には生き抜くために選択していく、下級官僚層の厳しい現実を描いていきます。

本書では開拓使に至る、旧函館奉行所に所属した幕臣たちのその後を追っていきますが、著者は奇妙なことにあるタイミングを以て、旧幕臣の構成人員が激減することを突き止めます。それは黒田清隆が開拓使を辞するタイミングと軌を一にしていますが、原因についてはそれと異なると著者は考えていきます。

そのタイミングは、期しくも新政府の体制が確固となった時期。旧来の幕臣層やその子弟に頼らなくても、新政府が漸く整備の途に就いた新しい学制によって得られた気鋭の官僚層と、新たに全国から採用した属僚たちによって行政運営が可能となったことが、旧幕臣に頼る必要性を低減化させ、併せて旧来の慣行に囚われない、新しい行政システムを構築することに繋がったと指摘します。ここで、黒田清隆が旧幕臣出身者に対して朝臣としての身分を獲得させようと奔走する姿を描くことで、ノンキャリア層が厚遇されていた事を描こうとしていますが、その想いとは裏腹に実際には特典は得られることはなく、逆に現実の厳しさを見せつけさせられます。

ダイナミックに時代が動いた幕末維新期。本書の表題とは異なり、著者の筆致は旧幕臣の能力の高さ、幕府の先見性を高く評価しながらも、その身分体制(世襲制)が足枷となって、キャリア層でもある旗本がその学力と素質を以て新政府に藩閥と並ぶ勢力を確保していく一方、ノンキャリア層が新たな体制下に埋没してく姿を描いていきます。

ノンキャリアの活躍を描きたいと願いながらも、結果としてはキャリア層の学力と地位、それによって勝ち得た知見、能力が体制に囚われない生き抜く底力になる事を見せつけられる本書は、その表題と著者のあとがきまでに書き込まれた想いとは裏腹に、まざまざと現実を直視させられる一冊でもあります。

<おまけ>

本ページより、本書で扱っているテーマ、時代と類似の書籍のご紹介を。

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今月の読本「海洋帝国興隆史」(玉木俊明 講談社選書メチエ)著者が望むヨーロッパ全体史の著述は、海洋交易路と共に

今月の読本「海洋帝国興隆史」(玉木俊明 講談社選書メチエ)著者が望むヨーロッパ全体史の著述は、海洋交易路と共に

自分が読み慣れていたり得意分野の書籍は何度でも何冊でも読めるものですが、それではやはり偏り気味。たまには気分転換も込みで、未知のお話に取り組むのもいいものです。

そんな訳で、完全にアウェーな一冊を今回はご紹介。果たしてうまく読めているか…。

海洋帝国興隆史海洋帝国興隆史」(玉木俊明 講談社選書メチエ)です。

著者はヨーロッパ経済史が専門分野。従って、本書の文中で引用される各種論文や研究者も殆どがヨーロッパの経済学者の方々なので、この点では正直全く歯が立ちません。しかも僅か200ページそこそこで中世以前から近世までのヨーロッパ史を語ろうという訳ですから、構成上の無理があるのは当然と考える必要があります。それでも著者は該当するエピソードを詰め込めるだけ詰め込んでいきますが、残念ながらページ数の制約で全てのエピソードに対応する結末が語られる訳ではありません。

ぎゅうぎゅう詰にされたエピソードの数々。その中でも、著者はある点に着目して話を進めていきます。

その着目点は海洋交易。ヨーロッパが貿易で世界を制し、現在でも隠然たる力を持ち続ける原因を海上交易路の掌握に求めていきます。それは、アジアの諸勢力が最後までヨーロッパ世界に対抗しなかった領域(鄭和でさえ東アフリカ止まり)。アジアから陸上ルートを通じて度々侵攻を受けた弱小ヨーロッパ世界が反転攻勢に出た起点を海上貿易路の発展と、輸送力を引き受けることによる世界中の利益の集積、そのルートを確保すべく積み上げていった海上戦力にあると指摘します。

ただし、この指摘の検証方法が非常にユニークであるともいえます。

普通にヨーロッパ史を考えるならば、海上交易路の話であれば地中海交易を中心に据えていくものですが、著者は専門分野である北欧交易を議論の中核に置いていきます。バイキングから始まる北欧海上交易路こそが、既に資源の枯渇した地中海世界への資源供給ルートであったと論じていきます。この着目点の論拠も、海上交易路と対になる船舶構造の発展と、材料(木材)供給の点で、地中海世界の発展性に限界があった事を示していきます。更には、イギリスが一大海洋帝国を築くにあたって整備されていく大商船団(海軍でもあります)を資源の面から支えたのが、北欧の木材と、ロシアの鉄であったとの指摘は目からうろこが落ちる点もあります。

更に、大航海時代における貿易のバランスについても、著者の認識は対アジア貿易と大西洋貿易では圧倒的に大西洋貿易が主軸であり、中でも、南米との貿易、特にポルトガルとスペインの貿易における重要性を指摘していきます。この点については、著者が強調するほどには違和感を感じないのですが、著者の想いは英国の経済学者が述べる英国中心主義的な経済史に対するアンチテーゼのように見受けられます。特に、ポルトガルの国家の支援を越えた南米、アジア貿易に対する根強い影響力への指摘は、イエズス会という伝道と貿易を(時に死の商人として)両軸にした活動の残滓が、20世紀末までマカオを保持していた事に繋がると考えれば、頷かされる点も多くあります。

その上で、著者は海上交易の覇者がヨーロッパの覇権を制するとの主観でストーリーを組み立て行きます。そして、ヨーロッパの強さは、互いに戦争状態にあっても、交易だけはあらゆる迂回ルートが用意されており決して止むことは無かった点であるとし、交易路の変遷を通じてその実例を示していきます。ボルドー、ハンブルグ、そしてアムステルダムと、如何に戦争状態であったとしても商取引は場所と市場を移しながら、継続していく。商人たちの行き交うルートこそがヨーロッパを支え、広げていくと暗示していきます。

その交易ルートの拡大は、地中海から始まり、ヨーロッパを飛び出し、アフリカ、インド洋、そしてアメリカ大陸、更には太平洋へと広がっていきますが、その先駆となったのは国家ではなく商人たちであったと著者は繰り返し指摘します。陸上ルートを抑えられたヨーロッパの人々にとって、袋小路に囲い込まれた先はもはや海しか無かったかのように。

最初はポルトガルやスペインの国家の後ろ盾を受けながらの冒険的な商用、そして伝道のルートであったはずの海上交易路。主要な拠点に植民都市を築きながら交易路を広げていく両国のルートを上塗りしていくように後発者が乗り込んでいきますが、ここで著者はオランダの覇権が、ポルトガルの交易路を横取りしただけの限定的なものであったと述べていきます。その原因を東インド会社等の商人たちに委ねた限界であるとし、その次に現れるイギリスの覇権が軍事力を備えた国家を全面に出した統制。即ち帝国化(植民地とは微妙に異なる)であると述べていきます。その基盤となったのが電信であるとして、情報のスピードが市場制圧を支えたと結論付けていきますが、それまでの海上交易と交易コストを主軸に掲げて著述を進めてきた本書の趣旨からは若干逸脱するようです。

本書は少ないページにも拘わらず、非常に多くのエピソードを詰め込んでいますので、ここで全てを述べる事は出来ません。しかしながら、著者があとがきで列挙している、特定の研究テーマを中核に置いて著述されているのもまた事実です。そのややマイナーとも思えるテーマを中核に置いた著述が、著者が望む「全体像を描く歴史書」と相反する点もあるのかもしれませんが、残念ながら私のつたない読書力ではその判断までは至らないようです。

海上交易路をテーマに、膨大なエピソードを添えた本書の全容を理解するには相応の周辺知識と、著者のいうところの全体像を見渡せる広い知見が求められるのかもしれません。

海洋帝国興隆史と一緒に読んだ本本書と一緒に読んでいた本。

この中で、中南米貿易との深い関わり合いを示す、現地の植物のヨーロッパへの普及を描いた「文明を変えた植物たち」(酒井伸雄 NHKブックス)。ポルトガルの貿易を一方で支えたイエズス会の、貿易商、権門としての側面を描く「教会領長崎」(安野眞幸 講談社選書メチエ)。本書では描かれない、ヨーロッパから見た航海自体の発展の物語を海図を通して描く「海図の世界史」(宮崎正勝 新潮選書)。以上3冊は、本書を読むにあたっても参考になると思います。ですが、最も大切なヨーロッパの経済史に関する参考文献が…門外漢なので。

美ヶ原を象徴する威容は人が織りなす場所の証として(王ヶ頭のテレビ電波塔たち)

美ヶ原を象徴する威容は人が織りなす場所の証として(王ヶ頭のテレビ電波塔たち)

美ヶ原をビーナスライン側からでも、松本側からでも眺めると一番に目に入って来るもの、それは主峰である、王ヶ頭を埋め尽くす電波塔の数々。

美ヶ原、王ヶ頭の電波塔と美しの塔美ヶ原の名所、美しの塔からもその威容を遠望する事が出来ます。

王ヶ頭ホテルと美ヶ原の電波塔山頂に立つ、王ヶ頭ホテルの周辺を埋め尽くす電波塔の数々。

これらは、電力、通信各社及び遠距離通信を業務上必要とする機関が設置したアンテナ群ですが、その中には私たちの生活に密着しているアンテナも含まれています。テレビ放送の送信アンテナ(送信所)です。

電波の特性として、特に周波数の高い波長を使う場合は直進性が高まるために、山地やビルなどの障害物があると電波が届きにくくなります。山々に囲まれた信州で電波を使った長距離通信を行う場合、この問題は非常に厄介であり、解決するためには、携帯電話のように多数のアンテナを建てることでセル状にエリアをカバーする方法(ちなみに、美ヶ原の台地上ではauの携帯電話は美術館付近の一部でしか携帯電話は繋がりません。softbankはほぼ全域でOKですが、落合大橋付近はエリア外です。ビーナスラインの八島湿原以降から美ヶ原のアプローチポイントである落合大橋付近までは、docomo/au共に圏外)が採れます。これはエリアのカバー率を確保するためには必須の方法ですが、多数の中継局を設置しなければならず、維持するためには非常にコストがかかります。

もう一つの方法としては、見通し距離(視界を遮らない距離)が確保できる標高の高い場所にアンテナを立てることで、広域に電波を伝えるマウンテントップ方式という方法を採ることが出来ます。この方式の場合、アンテナ設置場所が環境的に極めて厳しい場所となり、設置自体も困難であり、設置コストは更に膨大となりますが、電波伝達エリアの広さはそれを上回るほど魅力的であり、近年ではFM局が、自社の放送エリアを実質的に広げるために(営業エリアが広がる=広告収入が増やせる)、敢えて送信所を山頂に移す動きが複数見られます。

(FM-Fujiが、親局の甲府を上回る出力で三ッ峠に東京側に指向性をつけたアンテナを建てることを申請したのがその嚆矢でしょうか。結果として出力は抑えられてしまいましたが、現在に至るまで東京方面も営業エリアとして天気予報や交通情報も東京向けを併せて放送しています。これに刺激を受けたのがNack5で、飯盛峠にアンテナを移す事で関東平野一円をサービスエリアとすることに成功、今やエリアNo1の人気と豪語するまでになっています。更に続いたのがFM-yokohama。名目上は県中部および西部の受信環境の改善として、東京湾沿いの円海山から、一気に丹沢山地の南端に当たる標高1200mの大山へ大胆にもアンテナを移設しました。これによって三浦半島や市内中心部では著しい受信不良を引き起こしたようですが、多摩地域から北関東方向に対しては狙い通り大幅にエリアを広げる事が出来たようです。ちなみに、マウンテントップ方式はこれらの効果を意図せずに生じさせることがあり、他の放送エリアに対して混信を誘発する(スピルオーバー)事があります。

アナログテレビの際には、スピルオーバーを利用した視聴が隣接地域において普通に見られましたが、デジタル放送は混信を嫌うため、難視聴対策と併せてスピルオーバー対策が厳密化されており、この事実が信州の方にとっては忌まわしい、あのLCV事件を引き起こす結果となっています)

美ヶ原の御嶽神社1山頂の御嶽神社の裏側に聳え立つ、局舎と送信アンテナ群。

ここには、長野県内で放送事業を行う放送局各社の親局アンテナが集中しています。

山頂付近をぐるっと巡ってみましょう。

美ヶ原電波塔・長野朝日放送松本側、美ヶ原自然保護センターを見下ろす、一番低い場所に建てられているのが最後発の信州朝日放送(ABN)

デジタル放送用のアンテナは、強烈な風雪に耐えるためにか、カバーに収められており、普通のアンテナをイメージすると、拍子抜けするほどシンプルな造形です。

美ヶ原電波塔・テレビ信州こちらも、山頂部から少し下がったビーナスライン側の山裾に建つ、テレビ信州(TSB)の送信所。

デジタル放送のアンテナから、パラボラアンテナまで間ががらんと空いてます。この部分には、アナログ放送時代のアンテナが取り付けられていた筈ですが、既に取り外されてるようです。

美ヶ原電波塔・長野放送山頂部の崖っぷちに建つ、前掲の2社より少し大きな局舎を有する長野放送(NBS)の送信所。

こちらは2本のアンテナが建てられています。

トップ部分にはデジタル放送用のアンテナが見えていますが、後発2社と違ってカバーが取り付けられていません。

局舎の標高は建築された順で徐々に低くなっていますが、アンテナトップの高さは3社ともほぼ同じです。

美ヶ原電波塔・NHK信越放送合同2そして、王ヶ頭の中心部、一番広いスペースに中継用のマイクロアンテナをずらっと並べているのが某国営放送様と、何故か信越放送(SBC)が同居しています。

アンテナトップは他の3社よりわずかに高いポイントを確保しています。

美ヶ原電波塔・NHKラジオ局舎の裏側、御嶽神社を挟んで塩尻方向にもう一本アンテナが建っています。

高さ的にはこちらが最高峰、NHK FMの送信アンテナです。

局舎とは地中のケーブルを通じて接続されています。

こうやって書いてしまうと、流石は某国営放送。山頂の一番広い場所を占めているは、アンテナは複数持っているは、民放にお情けで局舎まで貸しているは…と早合点しそうなのですが、さにあらず。

ここは信州。地に根付き、学研的な態度を重んじながら地道に物事を進めていこうとする気風が、この山頂にも見て取る事が出来ます。

美ヶ原電波塔・旧信越放送王ヶ頭の頂上部。2034mの標高を示す石碑より更にもう一段高まった、最も高い場所に他の局舎とは全くフォーマットを異にする建物と地上から立ち上げられた頑強な櫓が印象的なアンテナが見えてきます。

NHKの局舎に同居していたはずの信越放送(SBC)。この狭い山頂(一般的に見ればかなり広いのですが…)で唯一2か所の局舎を有するのには、深い理由があるのです。

美ヶ原電波塔・電波銀座を拓くの碑敷地の中に建てられた石碑。

ただ一言、「電波銀座を拓く」と書かれています。

局舎の敷地を囲う金網の中にあり、観光客の方には誰一人として目に留めることが無いこの石碑。この石碑と、南極観測基地を参考にしたとも謂われる異様な形をした局舎は、美ヶ原の複雑な歴史を証明する、貴重な記録なのです。

詳しい物語はこちらのページ(美ヶ原観光連盟)をご覧頂きたいと思いますが、皆さんがここまで歩いてきた美ヶ原へのアプローチルートも、草原を抜ける遊歩道も、そして周囲の道路が冬季閉鎖になるにも拘わらず、なぜ王ヶ頭ホテルが通年で営業が可能なことも…。

すべては、マウンテントップ方式の放送設備、電波設備を維持するために付帯的に行われてきた整備結果としての産物。

それだけに、この美ヶ原が一見して自然環境を愛でる地であるように思えますが、前述の牧草地同様に、実際には標高2000mに繰り広げられる実に人工的な場所であることを象徴するのが、これら電波塔群であったりもします。

美ヶ原の雪上車キャタピラ信越放送の局舎の前に転がっていた巨大なベルトと鉄の爪。

雪上車のクローラーに用いる物なのでしょうか。マウンテントップのアンテナ維持の困難さを示す証拠として。

後には天井部分を利用して建設資材が置かれる、コンクリートのシェルターも見えます。

美ヶ原電波塔・NHK信越放送合同現在のトップに構えるNHKと信越放送の共同局舎。

これも、デジタル放送に切り替える際に、これ以上王ヶ頭に電波塔を林立させないための配慮の結果とも謂われています。

信越放送の旧局舎はデジタル放送に転用されることなく、現在ではFM長野の送信所として使われているようです。

美ヶ原,冬の碧空2碧空に建つ、デジタル放送のアンテナと美ヶ原の草原の眺めを。

にわかには信じられないかもしれませんが、視界に入る風景の多くが人為的に作られ続けたもの。一度でも人為的に手を入れたものは、営々と人が手を入れ続けなければどのような結末を迎えるか…、草原のあちこちに足の踏み場もないくらいに見受けられるシカの糞跡を眺めながら。

三城から望む美ヶ原王ヶ頭の電波塔中腹の三城から、岩山の上に乗る、王ヶ頭のアンテナ群を望みます。

我々が何気なくテレビを付けて番組を眺められるのも、このような施設の維持がなされてこその事実。決して自然でも天然でもない、美ヶ原のもう一つの側面を見つめて。

美ヶ原map美ヶ原牧場全体のコースマップと、テレビ各局のアンテナレイアウトです(地理院地図を利用しています、クリックでフルサイズ)。

長野朝日放送だけが松本市地籍にアンテナを有しています(その他は上田市地籍です)。

赤線が徒歩でのコースマップです。車は山本小屋の駐車場(ビーナスライン側)もしくは、美ヶ原自然保護センター前の駐車場(松本側)に駐車します。

雪の無い、今シーズン最後の美ヶ原へ(2014.11.23)

降雪状態だった昨年(2013年)の様子はこちらにて。

気候の推移が全く読めない今年。寒い夏であったり、秋が早く来たようでもなかなか寒くならず、本格的な冬はまだ到来していません。

普段であれば、11月に入ると常に冠雪状態になる八ヶ岳も今年はすぐ溶けてしまい、まだ晩秋の装いを残しています。

ここ数年、毎年訪れている美ヶ原も、雪が無いのではないかと危惧しながら…。

三峰展望台から浅間山遠望ビーナスラインを霧ヶ峰から八島湿原を越えて、美ヶ原方面に進みます。

何時もならアイスバーン状態の霧ヶ峰-八島湿原間も、美ヶ原までのルートも路肩に僅かに雪が残るだけで路面は殆どドライ。

三峰展望台から望む浅間山も、雪が見えません。

美ヶ原,冬の碧空4霧ヶ峰に登ってきました。

何時もなら、雪原が広がるこのシーズン。全く雪が見当たりません。

風は冷たいですが気温は高く、空の青さも晩秋といった感じで、冬の切れんばかりの碧空とはいかないようです。

美ヶ原、王ヶ頭の電波塔と美しの塔お約束の美しの鐘と、王ヶ頭の電波塔とのコラボレーションを。

美ヶ原から八ヶ岳遠望昼下がりの空の下、遠くに八ヶ岳を望みます。

お散歩するには丁度良い天気です。

美ヶ原の冬模様周囲の木々は、すっかり葉を落としています。

雪もなく、せっかくの天気なので王ヶ頭まで歩いてみる事にします。

美ヶ原の畜魂碑途中の塩くれ場には、この地の由来を示す畜魂碑が建てられています。

この地は明治より営々と放牧が続けられてきた「人手によって維持されている」牧草地。

数々の困難と重大な課題を乗り越えて、厳しい自然環境と折り合いをつけながら人が育み続ける環境であることを示す記録です。

王ヶ頭ホテルと美ヶ原の電波塔山本小屋から40分ほど、美しの鐘から30分ほどで、美ヶ原の主峰、王ヶ頭に到着できます。

山歩き装備の方々が遊歩道を行き来する中、平地用のウォーキングシューズにザックも背負わずカメラだけぶら下げて歩いているのは明らかに場違いなのですが…お許しください。

王ヶ頭より美ヶ原高原全景登ってきた道を望むと、美ヶ原の大パノラマが広がります。

美ヶ原、西壁の崩落面西壁の崩落面。僅かに雪が残っています。

時折、ぱらぱらと石が崩れ落ちていく音が聞こえてきます。

美ヶ原、王ヶ頭から浅間山遠望山頂から浅間山方向を望みます。

麓の山には、まだ紅葉が残っているようです。

王ヶ頭ホテル正面山頂の王ヶ頭ホテル。

宿泊客の方は、ここまでマイクロバスで送迎がありますので、山頂付近だけはコートを羽織られた方々も多く、すぐにそれと判ります(私のような無頓着な例外は除く)。

美ヶ原の御嶽神社1王ヶ頭ホテルの裏側には小さな石造りの社が祀られています。

バックには、王ヶ頭を象徴する、電波塔が聳えます。

電波塔の小ネタは、後ほど別ページにて

美ヶ原の御嶽神社2祀られているお社。不動明王に天狗様と…取り合わせが妙な点が気に掛かりますが、祠に描かれる紋をよく見ると、御嶽神社の紋。この社は御嶽神社のようです。美ヶ原と御嶽山の関係を論じる史料を持ち合わせていませんが、同じ信州の山。何らかの関係があるのでしょうか。

王ヶ頭頂上御嶽神社のすぐ側には、美ヶ原の主峰である事を表す、標高2034mを示す石碑が立っています。

天候が良ければ、この場所から御嶽山を望む事が出来るそうですが、残念ながら当日は雲海の中でした。

美ヶ原、王ヶ頭よりの遠望足元には、絶壁と、それを巻くように王ヶ鼻に降りる登山道とが伸びていきます。

生憎、雲が多く北アルプスを望むことはできません。

美ヶ原,冬の碧空1山頂を廻りこんで、松本側を望むと、谷筋から雲が湧きあがってきています。

足元には、松本側の美ヶ原林道から合流して、山頂へと登ってくる県道美ヶ原公園沖線の終点である美ヶ原自然保護センターの駐車場を見渡すことが出来ます。その先には将来に渡って繋がることはない、荒れた舗装路が山頂付近まで続きます。

美ヶ原の過去と現在を示す道程です。

美ヶ原,冬の碧空3青々とした空と、枯れた台地が織りなす初冬の美ヶ原。

暖かく、お天気も良かった今日は比較的多くの人が歩いていましたが、明後日の冬季閉鎖を迎えると殆ど人が絶え、再び厳しく、静かな冬のシーズンを迎えます。

入山辺の紅葉標高2000mの美ヶ原から、麓の標高700m程の入山辺まで下ってくると、麓の山里は紅葉のラストスパート。

この木々から葉がすべて落ちてしまう頃には、山は雪に閉ざされることでしょう。

 

初冬を迎えた八ヶ岳南麓の午後

東京の方は秋本番を迎えて、月末の3連休が楽しみな状況かとは思いますが、八ヶ岳南麓の標高1000mを目前にした当地では既に冬の心地。朝晩の暖房が欠かせない状況になっています。

初冠雪の甲斐駒20141114先日、甲府で初冠雪を記録した甲斐駒ケ岳。

八ヶ岳の南麓側から望むと、麓の紅葉とうっすらと白くなった山頂付近のコントラストを楽しむ事が出来ます(2014.11.14)

雪を戴く初冬の八ヶ岳一方、八ヶ岳は既に真っ白に冠雪をしています。

薄曇りの中、つい数週間前まで落葉松の黄葉で染まっていた編笠山の裾野も、今日は枯れた冬色を見せています。麓の落葉松も、落葉した木の方が目立つようになってきました。例年より早めの冬の装いです。

紅葉する里山少し早目の冬の到来に、慌てて冬支度(洗車とスタッドレスの交換)を行っているうちに、空はどんよりと曇り空に。

午後からの遠出は諦めて、里山をてくてくとします。

谷筋から望む、名もなき丘を染める紅葉する木々。

落葉した木と、今がピークの紅葉した木々が入り混じっていきます。

甲斐駒と山麓の紅葉黄葉の末期を迎えて、色を濃くする落葉松の木々の向こうに、雪渓を作る甲斐駒が見えています。

甲斐駒と山麓の紅葉2遠く甲斐駒を望む信濃境の谷戸。

乏しい夕暮れの日差しに落葉松の黄葉がぼんやりと浮かびます。

夕暮れと落葉松の黄葉山並にびっしりと植えられた落葉松の黄葉。

尾根筋だけが黄色く映ります。

終わりつつある黄葉の山谷筋まで降りると、黄葉を留める落葉松の木々も麓の部分ばかり。既に落葉の時期に入っています。

塩沢温泉と紅葉の山々釜無川の川沿いまで降りて、塩沢温泉へ渡る橋沿いから。

塩沢温泉の紅葉僅かに残る紅葉する木々。

この木々たちも、来週にはすべて葉を散らせてしまいそうです。

塩沢温泉から入笠山遠望釜無川の谷筋から、遠く入笠山を望みます。

既に人工降雪機が稼働中のゲレンデ部分だけ、曇り空の中に白く浮かび上がっています。

コースオープンまであと3週間ほど。急ピッチでコース作りが進んでいるようです。

山並の黄葉と夕暮れの富士山釜無川の谷筋から夕暮れの富士山を望みます。

すっかり色を濃くした山々は既に冬模様。

あともう少しすると、里にも初雪の便りが届きそうです。

今月の読本「江戸時代の医師修行」(海原亮 吉川弘文館)江戸の列島を繋げる医者たちの医療知識ネットワークへの想い

今月の読本「江戸時代の医師修行」(海原亮 吉川弘文館)江戸の列島を繋げる医者たちの医療知識ネットワークへの想い

何時も楽しみに読まさせて頂いている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー。

二か月連続での購入となった2冊目は、江戸時代ものでも珍しいお医者さんを扱った一冊。しかも、当時の医師の治療や診察に留まらず、医師自身の就学体系を俯瞰しようという意欲的なテーマを扱っています。

江戸時代の医師修行江戸時代の医師修行」(海原亮 吉川弘文館)です。

この手のテーマを扱った本ですと、現役のお医者さんが書かれた本をたまに見かけますが、本書はちょっと異なります。著者は住友史料館の研究員。ぱっと思い浮かべると、住友家及び家業であった別子銅山などの鉱山関係か、両替商、および貨幣鋳造関係の史料を扱われている史料館とイメージがあります。しかしながら、著者の研究分野は医療史の研究。尤も、道修町がある大阪ですし、金属と薬種業は近い間柄なので、遠からずだとは思いますが、それでも著者がプロローグで述べているように、本来のお仕事とはちょっと毛色の違った内容なのかもしれません。

そのせいかもしれませんが、本書の切り口も前述のように医師が書くであろう治療や診断の面に重きを置いていません。本書は大きく分けて3つの物語に分かれており一貫したストーリーを描くわけではありませんが、著者の伝えたい想いはすべてに通底しています。それは、江戸時代の医師たちがどのように医療技術を習得し、それを伝えていったかを示すこと。出典の異なる3つの物語は、それぞれに一定の関連性がありますが、直接的には繋がらなくても、著者の想いとしては、全て同じ視線で語られていきます。

家職としての医療技術の学問体系と伝授と血縁、地縁による職業集団化。修行の一環、三都を主として、師弟関係に基づく知的ネットワークへ繋がるための遊学と帰郷。各藩、幕府による官学の実際、そして当時の先端医療の実例としての種痘。これらの検討にあたって、著者の専門分野である史料検討を駆使して詳細に当時の状況の輪郭を明らかにしていきます。主に用いられるのは、学問体系の検証では、彦根藩河村家の史料、遊学の実例としては越前藩府中領における医療活動と遊学の実録。これに連なる種痘技術の福井藩への移植の史料。そして、全編を貫くのは当時最先端の蘭方医療技術を自らの知的好奇心と向上心で勝ち取った、杉田玄白や大槻玄沢の著作からの思想。

著者はそれぞれの章における議論で同じ感想を述べていきます。本来国家(当時であれば幕府)による統制や、強力な指導下に置かれるべきである医師の技量確保、保健衛生行政が皆無であったことへの憤り。所謂家職や学統という言葉を用いてますが、閨閥ないしは学閥に類する治療技術の伝承体系への少なからずの疑問。その疑問を解決するであろう、統一した学問体系の欠如。特に官学とも目される各藩、幕府の医療学問体系の掛け声とは裏腹に、早期に生じる形骸化に対する諦念。

これらの医療体系的なものは、学問分野(当時であれば儒学)でも幕府に於いて漸く途に就いた段階であり、呪術的な部分すら多分に残っていた医療関係の学問分野で、著者が述べるような体系的な教育課程の整備を望むのは少々酷な話なのかもしれません。実際に、最も教育が必要であったと思われる町医者や、在村医の技量や教育に関しは殆ど分かっておらず、これらの解明は依然として大きな課題であると述べています。

また、学統に関しても、一子相伝的な医療技法の伝承であったり、門外不出として「暖簾分け」的に技量や知識を伝えていく事によって、知識の体系化=学問化が阻まれていたと考えることもできますが、現代とは大きく違う、移動や情報伝達の限られた時代において、これらのネットワークを確保することがどれ程重要であったかを考えると、むしろ積極的にいずれかの学統に加わり、そこから広がりを求めていく事が要求されていたのかもしれません。

本書に於いても、著者の想いを越えていくように登場人物たちは地方から飛び出して、三都や長崎で医療技術を貪欲に学んでいきます。それは、自分自身の医療技術を向上されるための切迫感、領主や支援者に対する責任感だったかもしれません。それ以上に感じるのは、努力して勝ち得た医療技術、そして貴重な書籍や全国から集まる学統に繋がる医師たちのネットワークを通じて、自らの郷土に最新の知識と技術を伝えることだったように思えてきます。

本書で扱われる京都遊学の例は既に幕末期に掛かっていますので、三都では蘭方医が広まりつつある段階に入っています。そのような時期に於いても、医師たちの基本知識は儒学をベースとした学問体系が求められており、その上に蘭学や和漢方からの治療の技術を重ねていく事になります。そうすることで、従来からの学問体系や医療技術、知識を犠牲にすることなく、蘭学に基づいた医療技術を習得する、即ち町医者や在村医へ徐々にではあれ、浸透していったと考えられます。

著者はこれらの推移に対する中央政府=幕府や地方領主=藩の不在を嘆き、その裏返しとしての医師たちの自発的な活動が医療技術体系を大きく変貌させ、近代医療の素地を形作ったと繰り返し述べていきますが、当時の幕府にも藩にもその実力や行政能力はそもそも期待できるものなく、少々厳しめの議論を述べられているようです。

むしろ、本書に於いては著者が別の切り口で述べているように、そのような体制に依存しなくても、現代より遥かに情報の伝達が困難であった江戸時代においても、意欲ある医師たちとそれに連なる人々のネットワークを通じて、三都、長崎、そして全国へとその知的素地が広がっていく事に注目したいと思います。その中で語られる、学統と呼ばれるかもしれませんが、誰かと繋がり合い、知識と技量を共有し合える仲間と呼べる人々と、それを支援する人々が集う素地があった事実を大切に考えたいと思った次第です。その意欲と向上心が、誰かの支えであることを忘れないためにも。

<おまけ>

本書と同じ時代(江戸時代から明治維新)を扱ったテーマの本を、ページ内からご紹介。

今月の読本「敗者の日本史14 島原の乱とキリシタン」(五野井隆史 吉川弘文館)戦国末期に花開いたキリスト教王国誕生の物語と、拭えない終焉への疑問

今月の読本「敗者の日本史14 島原の乱とキリシタン」(五野井隆史 吉川弘文館)戦国末期に花開いたキリスト教王国誕生の物語と、拭えない終焉への疑問

普段からそれなりに書籍を買い求めて読んでいるにも関わらず、他人の書評を読んで本を買うことは意外と少ない。

書評が出回るのが刊行から数か月後というタイムラグの問題もあるかもしれません。書評が出てしまう前に買ってしまうので、後付解説になってしまう事も結構多かったりします。でも結局、自分で読んでみないと納得できないという点が最も大きいかもしれませんし。

そんな訳で、自分で本屋さんで見つけたり、刊行案内を見て買いに行くことが多いのですが、今回は、書評を見てから購入を決断した珍しい一冊をご紹介します。

島原の乱とキリシタン

島原の乱とキリシタン」(五野井隆史・吉川弘文館)です。

本書は数年前から続いているシリーズ「敗者の日本史」の一冊。刊行にあたっての言葉を眺めると、日本人が好きそうな「判官贔屓」がちらちらと見え隠れするようなコンセプトが書かれているので、これまで避けてきた経緯がありますが、何といっても数少ない「島原の乱」を扱った一冊。読んでみたい気持ちは大きかったのです。

しかしながら、地の利が効かない遠い九州の物語。しかも著者はどうもキリスト教関係の著書が多い方なので、内容にかなりの懸念があったのは正直なところで、刊行案内が出た後も、本屋さんでの平積みを見ても、何故か手出しできない状態が続いていました。

ところが、先般の朝日新聞に掲載された書評を見て考えを改めました、読むべきだと。内容的にこなれていない点、史実の見立てに偏りがあるであろう点は判ったのですが、何よりも史料を重んじた内容である点が興味を引きました。それも宣教師や船乗りたちの報告書を中核に置いている点がとても新鮮に映ったのです。

語られることの少ない(ルイス・フロイスは別格)宣教師たちの記録が読めると判った以上、難しいのを承知で手に取ってみた次第ですが、やはり読み切るにはそれなりに時間が必要でした。それは、本書がその特徴ある史料の引用と共に、それを表す表記には特有の表現が用いられているためでもあります。

文脈中では一見同じに見える、「教会」と「教界」と必ず書き分ける点。イエズス会とその他の会派を峻別する点。日本の姓名とクリスチャンネームが行き来し、そしてポルトガル人や宣教師の名前が混在する人名記述(ドン・エステヴァンなどと、全くの洗礼名で表記される例もあり)を用いる点は、読んでいてもかなり混乱を来します。特に、ラテン語由来による教会の叙階や司牧の表記には注記もありませんので、地名を含めてある程度これらの表記に慣れた方を想定した記述を採られているようです。

ところで、本書の題名から島原の乱を扱った本と思われますが、島原の乱自体を扱った内容は70ページほどと、全体の1/4程度(全275ページ)に過ぎません。また、冒頭から30ページ程は原城址の発掘成果の紹介に充てられており、このページと全体本文との連携も最後に僅かに見られるだけで、まるで別建ての書籍のようにも見受けられます。

そうなると、本書の中核を成す部分は何で占められているでしょうか。

プロローグやエピローグ、あとがきで著者が繰り返し述べているように、本書は島原の乱自体を詳述しようというコンセプトに立っていません。実際には二つのテーマ、一つ目は「原城は廃城であったか」という疑問に対する、史料から見た検討結果の解説と、その根本として利用された宣教師たち、船乗りたちの報告書から読み解く、島原半島と天草の伝教と禁教の歴史を叙述する一冊だという事です。

従って、乱自体の推移だけに興味がおありの方には、本書のかなりの部分は、乱とは直接的に関係のない、戦国末期から江戸初期の島原半島および天草の郷土史に対する、外国史料による対外的な視点による検討が続く、退屈な一冊になってしまうかもしれません。

しかしながら、原城が廃城であったかどうかについては、その後の乱における幕府軍の意外な苦戦と関連付けると、非常に興味深い論考であることが判ります。すなわ ち、廃城ではあったが「破壊された城跡」ではなかったとう点です。特にその後作られた島原城への石垣の転用が殆ど無かったという記述には、興味をそそられ ると共に、島原城の築城が住民にとって極めて重い負担であったことが示唆されます。

一方で、もっとも信者の人口密度が高かったと思われるこの地方へのキリスト教伝教史、迫害史として本書を捉えた場合、充実した史料検討と、乱へ突入する経緯、その後の結末に深い同意と共感が得られるのであろうと思われます。そこには、本書のテーマである敗者の歴史というテーマと共に、貿易の魅力に憑りつかれた権力者を巧みに誘導するイエズス会宣教師の活動と、それに呼応して権門として振る舞う宣教師たち。彼らの権謀とはかい離した形で描かれる住民へのキリスト教の受容と拡大。妨害する仏教徒に対する容赦ない迫害や、寺院の破壊、僧侶や住民の追放といった、むしろ「伝道の勝者」としての物語が多く語られていきます。

その記述が禁教以降、特に松倉氏入部以降に一転して迫害の歴史叙述に切り替わっていく様子は、読んでいる側に同じテーマを扱った一連の歴史叙述として奇妙な違和感を与えない訳でもありません。事の根源である、なぜ禁教に至ったのか。キリスト教の受容に関する議論は豊富に述べられていながら、それ以上に重要な筈の排除の理論が殆ど欠落しており、本書ではただ、禁教が始まったと述べるに過ぎません。

その上で、本書は島原の乱自体の発生原因を宗教的な問題より、前述のような築城や江戸城の手伝い普請に伴う過酷な収奪と、天候不順による干ばつから生じた暴発的一揆であると定義づけています。しかしながら、一方で柳生但馬守の言葉を借りて、この乱が農民蜂起などではなく、宗教一揆、すなわち一向一揆と同類のものであると語らせています。落城間際の駆け引きについても、この乱が明確に宗教上の意義であると登場人物たちには述べさせる一方、乱を起こすことは本来のキリスト的ではないと述べていきます。果たしてどちらなのでしょうか。

本書は前述の書評にあるように、史料を重視し、著者の検証を含めて詳説した資料を読者に提供することで、その意図を把握させようという記述を一貫して採っているため、本文中では、この疑問に対して明快な回答を得ることはできません。

しかしながら、本文とは一転して饒舌なエピローグをご覧頂ければ、著者の意図は明白だと思います。ただし、著者はその行動をして異端であり、魂はせめて煉獄を彷徨うであろうと断じてしまいます。

そんな著者の意図に少なからずの疑問を持ちながらも、戦国末期から鎖国に至る大きな歴史の流れを編む1ページとしての島原の乱と、その舞台となった、島原、天草地方の歴史にもっと興味と持つべきなんだろうという想いを強くした今回の一冊。本当の疑問の前には、解決しなければいけないもう一つの疑問に対して答えを見つけなければいけない事を、またも見つめ直させられたのでした。

<おまけ>

本書を読むにあたって、事前に読んでいた書籍のご紹介。

  • 本書にも頻繁に登場する宣教師たち。その頭目たるイエズス会の日本での活躍を、領土を有する一宗教勢力として捉え直して、経済面を中心として当時の日本の諸勢力への影響力を推し量ろうという、非常に興味深い論考の一冊「教会領長崎」(安野眞幸 講談社選書メチエ)
  • 乱後における長崎の国際関係と守備体制の変遷。幕末へかけての対外政策の変化を長崎奉行という職制を通して叙述する「江戸幕府と国防」(松尾晋一 講談社選書メチエ)こちらでも紹介させて頂いております
  • 長崎のみならず、九州全般に目を光らせていた長崎奉行という職種の特異性とその権能について、地元に残る豊富な資料を駆使して描く「長崎奉行」(鈴木康子 筑摩選書)
  • 乱を経て、禁教の時代を乗り越えたキリシタン達は、受容した初期の段階からクリスチャンとは異質の存在であったという衝撃的な論考を、地元長崎で四半世紀にも渡る綿密な実地調査の上に語る。クリスチャンでもある著者が世界文化遺産登録を目前に控えたこの時期に上梓した「カクレキリシタンの実像」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)。こちらで紹介させて頂いておりますが、本書にご興味を持たれた方なら必読の一冊です
  • なぜ禁教に至ったのか、その疑問に明快に答えてくれる解答例は、その後の日本を大きく変える事になるきっかけを作った一人のアメリカ人の記録に綴られています。彼の見解がすべて正しいとは言えないかもしれませんが、鎖国に至った国を再び開国させるために、その原因の調査と方法論の構築に労を惜しまなかった彼の弁は傾聴に値すると思います「ペリー提督日本遠征記(上下巻)」(M・C・ペリー、F・L・ホークス編纂、宮崎壽子監訳 角川ソフィア文庫)

島原の乱とキリシタンと関連書籍