今月の読本「内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)川面から伝わる山里とユートピアとファンタジー、都会と労働と経済を結ぶ一筋の糸

読書がなかなか進まなかった2月。

少しずつ読んでいた本の中から、いつもとはちょっと違った一冊を。

昨年から刊行の始まった、在野の哲学者(現在は立教大学の特任?教授を務める)である、内山哲氏の著作集より、初期の作品、しかも氏の著作の転機となった作品たちを収めた一冊です(地元の本屋さんで開催されていた農文協フェアで偶然見つけました)。

内山節著作集2 山里の釣りから内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)です。

まず、哲学者の著作集がなぜ農業書専門出版社から刊行されたのか、疑問を持たれるかもしれません。しかしながら、氏の経歴と本書をお読みいただくと、なるほど尤もだと思われるのではないでしょうか。

学園闘争華やかなりし頃のマルクス主義闘士としての経歴を持ち、それ故でしょうか、在野の哲学者として活動を続けてきた氏が第二の生活の拠点として都会から移り住む(正確には二重生活)きっかけとなった、山里の釣り(氏は渓流釣りという言葉を嫌うため、この特徴的な表現を用います)とその居となる群馬県上野村、神流川流域での生活。その生活から導き出された、山里の暮らしから見つめ直す労働と経済という、氏の現在の哲学の基礎となる思想が育まれた山村。氏は東京の生まれでもあり、所謂民芸や、農村芸術家といった生粋の農山村の生活から発生した文化活動とは大きく異なるのですが、その哲学はまぎれもなく、山里に根差そうとしている点からも、本版元の作品に相応しい著作集なのかもしれません。

そのような経緯を持つ本書は、表題にある様な釣りのお話が全面的に語られる訳ではありません。氏の分類によるところの釣りの本とは、第一に釣りの実用書、第二に交遊録、第三に釣りの哲学であると述べており、現在の釣りの本の多くは第三の哲学に近い書籍(ウォルトンの釣魚大全を挙げて)ではあるが、その境地に至るには貴族的退廃に通じる、釣りに人生を捧げるような刹那的な生き方をしなければ得られないと述べています。サラリーマン生活を続けるものとしては、本書の記述は充分に刹那的なのですが、それでもマルクス主義労働論を論じる立場からは、そのような視点は決して容認できないというスタンスのようです(その想いは、山里には自律的な経済が存在しえない事への冷徹な眼差しに繋がります)。

その代りとして、本書では周囲に広がる山里における生活風景を織り交ぜながら、釣りを通した山里の生活とその社会性、その根底に流れる氏の労働論との整合を論じていきます。その結果、本書には現在活発な議論がなされている地方回帰や、山里での生活論、自家消費的な小さな経済サイクルに対する検証(昨年、大ブレークした本もありましたね)への疑念から、都市からの人の呼び込みとその反動といった、山里を巡る論点の全てが備わる事になります。更には、これらの活動の一部が、都市生活者の山村生活者への価値観の押し売りであるとの厳しい指摘も備えられています。その議論の先見性は、本書に収められている作品の最初の掲載(毎日新聞社の雑誌、エコノミストの連載)が今から40年近く前になる1970年代末である事からも伺えます。

本書は著者のその思想と視点、著述の変遷を表すように、時系列を追って変化が見られることが判ります。1章では依然として、山里を訪れた釣り師としての視点で議論が進められていきますが、その筆致は哲学者でマルクス主義闘士としての過去の片鱗を見せる、少々無骨で直情的な内容に終始します。2章に至ると、その視点は少しずつ現在の拠点である上野村、そして神流川に移っていきますが不安定な筆致が続きます。釣り堀化された渓流域への嘆きや、釣趣の変化といった釣り師らしい語りもありますが、時にその物語は、源流域の物語から急に現在の利根川の河口に話を飛ばしてみたり、ダムや堰によって分断される魚たちや人々の生活の物語が唐突に織り交ぜられていきます。河口から遡上する物語も、歴史的な利根川の変遷から芭蕉の物語に通じてみたり、流域ごとの釣技と釣魚種に言及してみたりと、エッセイとも紀行文とも取れる内容が散発的に語られていくため、散文を越えて、皮肉交じりに知識力で読者を振り回すような感じすら受けます。

そして、本書の中核を成す第3章である「山村生活譜」。著者の視点は神流川の流域に点在する上野村の集落を起点とした筆致に収斂していきます。その視点は、これまでの釣魚としての山女魚、岩魚から、山里の生活の象徴としての川の魚達への視点へと移っていきます。語られる内容も、山里を起点にした生活、そして氏の研究テーマである労働と社会性への話へと移っていきます。

マルクス主義的な労働者の幸福論を下敷きにした検証と山里の生活の対比から導き出された氏の議論は、一方では労働幸福論的なユートピア発想を追及している点では楽観的すぎる嫌いもあります(勤勉な…と、いちいち皮肉を込める信州人、特に上野村の山向こうに広がる川上村の大規模集積農業に対する、氏のないまぜな心象に顕著に伺えます)。その一方で、現在の山里回帰における大きな課題となっている経済性の確保について、ごく小規模な経済活動の集積による持続可能な経済活動はあり得ない事を明確に導き出しています。近世以前から、米作が望める農村ならともかく、主食が得られない山里における自立した生活などは存在しえず、常に里との経済交流の上で生活が成立していたことを明確に示しています。そして、経済活動の軸となっているのが、山を越えていく峠であり、里に下りていく川。皮肉なことに、この里との繋がりを示す川を資源(水資源)として都会に提供することによって、流れとしての川による繋がりを失い、逆にそれによって生じた公共投資によって山里の現金収入が得られている事も明らかにしていきます。

そこには、単純な山里ユートピア論ではなく、都市に隷従する山里の姿から、本来はそれに抗する必要もなく、自主的な労働を基盤とした生活を有する山里の、自立することは叶わないが、対等な立場での経済性を有した社会生活の追及という、マルクス主義経済学を規範とする氏の哲学の深化が見受けられます。その深化の先に現在の山里復興論が繋がるのか。既に老境の域に達した著者は、冒頭の解題でその風潮を微笑ましそうに語るのみで、真意を述べてはくれません(氏の議論の先にはもちろん哲学的な「ある」帰結が用意されている筈ですが、本書では語られません)。

本書の後半部分は、前半と打って変わって釣り師としての氏の小作品が数点掲載されています。エッセイとして書かれたその作品には背景として社会性を伺える内容も見えますが、その記述は如何にもファンタジックで、哲学者の著述とは俄かに思えない事もあります。しかしながら、良く考えれてみれば現代において哲学者程にイメージとは裏腹に(日本に於いて)社会的に浮遊な存在はない筈。氏が釣り師の哲学をその存在形態から否定しているにも拘わらず、氏自身が哲学者という社会的に極めてファンタジックな存在故に、このような著作に繋がったのかもしれません。

<おまけ>

本書に関連する書籍のうち、本ページで扱っている作品をご紹介。

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