今月の読本「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原題:No crystal stair)」(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン、原田勝:訳 あすなろ書房)本を通じて伝えたい想いと家族の記憶を

今月の読本「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原題:No crystal stair)」(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン、原田勝:訳 あすなろ書房)本を通じて伝えたい想いと家族の記憶を

New!(2016.6.15):ご紹介が少し遅くなってしまいましたが、本年度の第62回青少年読書感想文全国コンクール、高等学校の部課題図書に本書が推薦されました。いち通りがかりの読者ではありますが、このような機会に、本書がより多くの方の目に触れる事が出来ます事を願っております。

 

多分、普段なら全く買わないであろう一冊。

購入した本屋さんが、比較的思想系の書籍を推していらっしゃる関係で入ってきたのでしょうが、何故か歴史書の新刊として並べられていました。そのような背景を知らずに、単にアメリカの本屋さんの一代記、しかも歴史書にしてはA4変型判の随分不思議なフォーマットだなあと思って立ち読みをし始めると、その落差にある意味圧倒されて購入した次第。

絵本とも読み物とも違う。伝記とも物語とも違う。これまで見た事もない、不思議なスクラップブックのような構成と体裁。モノトーンで描かれる、エピソードの要所を締める挿絵。

読み始めてみると、更にその内容に圧倒されて、一気に読み進めてしまいました。

そんな、印象的な一冊をご紹介です。

ハーレムの闘う本屋ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原題:No crystal stair)」(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン、原田勝:訳 あすなろ書房)です。

本書の題名と、その帯の解説を読んでしまうと、少し身構えてしまいますが、原題の方がより本書の性格を正確に表しているようです。最後にルイスの言葉として語られる「水晶の階段じゃなかったけど」(この詩の出典は、訳者である原田勝氏のブログに掲載されています)。生年も、本名も判らなくなってしまった。そして、全米に名声を博す、ラジオエバンジェリストの兄に対して、鼻つまみ者として、荒れた青年、そして壮年時代を経て、片目を失いながらも、遂に自らの使命を悟って、ニューヨークのハーレムに、黒人の黒人の手による黒人が学ぶための膨大な書籍を集めた、伝説の書店「ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストア」を興した男の、屈曲しながらも登り続けた一代史としては、こちらの方が相応しいようです。

邦題では、僅か5冊の本からスタートして、35年を経て、閉店間際には22万冊の蔵書を誇るようになった本屋と、そこに集うマルコムXのような著名人や、黒人作家、詩人たちにとっての文化サロンといった後半部分の印象がどうしても大きくなってしまい、更には帯にあるような、暴力/非暴力活動に身を投じていたように感じさせますが、どうやらこれらの印象は大きく異なるようです。

わざわざFBIファイルを繰り返し載せているように、そしてフィクションとしてストーリーに重ねられていく記録を通して、議論好きで、店の前では何時も物議の醸す発言を集った人々へ声を上げて語り続けていたようですが、彼自身はこれらの活動に直接的には一切関わっていなかった事が判ります。

そのような活動に熱を入れる人々に対して、彼の取ったアプローチこそが本書の伝えたかったこと。それは、自分を知る事。そのためには自分の過去、自分たちの歴史を知る事。即ち、本と通して自らの歴史を学ぶこと。

アメリカのプロテスタント特有の思想に裏付けられた、一人一人が、神への敬意と自身の良心を信じることで、どのような権威にも負けない、自立した一人の人として生きていくために。その根本たる歴史を綴り、読む事を失ってしまった黒人たちに、本を通してその素地を養う事の大切さを語り続ける事で、その想いに共感した人々が彼の周りに集まってくる。その想いを綴り始める作家が現れ、そして彼ら書き手による書籍を率先して扱う事で、書棚を徐々に埋める蔵書が増えていく。自分たちの歴史と想いを綴る本達を、小さな書店を通じて自らの手で増やし、広めていく。遂には「教授」、「博士」とまで親しみを込めて呼ばれるまでに、ハーレムに、そして黒人社会全般に読書の、歴史を学ぶことの大切さを書店を通じて伝える役割を果たすことになります。

そして、本書自身も、巻末に掲載されるツリーダイアグラムが印象的な、ある黒人男性の家族と、その一生を、彼の弟の孫娘が描くという、彼の想いそのままに、家族の歴史を綴った一冊。同時代の黒人なら誰しも同じように、記録が散逸している彼の前半生について、現在も東部に存在する福音伝道神の教会の創設者でもある、彼の兄の伝道師としての活動との交点から描いていきます。

その商才や弁が立つことを認め、教会の一員として生きていく事を望む兄と、現世で生き抜く事を願い(この辺りが福音主義の思想的な分裂を感じさせます)、自らの信念で飛び出してしまう弟。その一生はルーズベルトやトルーマン、何とエドガー・フーバーとも親交があったとされる優秀な兄に対するアンチテーゼだったのかもしれません。そして、兄の活動に対する対抗勢力に肩を貸す結果となってしまった、マルコムXとの親密な関係や、膨大な兄の遺産相続処理(みずからは相続する遺産を削除されていたにも拘わらず)に悩まされる晩年の描写は、彼のやるせなさと、決して切り離すことのできない家族への想いを汲み取る事が出来ます。

他人と群れることなく、他人の思想に共感はすれど自らの信念を曲げることなく、42歳にして転身を遂げた後、精いっぱい生き抜いていった彼。その根底に息づいていた、自らを知るために読む事の大切さと、何時でもその「気づき」さえあれば、変わっていける、変えていけるという強い想いに打たれながら。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書と関連するアメリカ関係の書籍を。

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八ヶ岳南麓にも春の息吹が(2015.3.15)

毎週数回ずつ雪が降るという、珍しいこの冬のシーズン。

出掛けるのも億劫になってしまいますが、3月も中盤ともなると、どうやら春の足音が聞こえて来たようです。

春先の八ヶ岳遠望春先の菜の花畑越しに、雪を被る八ヶ岳を遠望(北杜市長坂町中丸、越中久保溜池)。

冬の間、水を抜かれていた農業用ため池にも水が満たされ、いよいよ農耕シーズンが始まろうとしています。

甲斐駒大橋から望む春先の南アルプス甲斐駒広域農道で最も南アルプスの懐に入っていく、甲斐駒大橋から望む南アルプスの山々(北杜市白州町横手)。左が鳳凰山、右が甲斐駒です。

春らしい、霞んだ午後の空に深く雪渓を残す山々が映ります。

甲斐駒大橋から甲府盆地遠望甲斐駒大橋から甲府盆地側を遠望します。

まだ融雪期には早いのでしょうか。枯草が広がる大武川の河原の水量はごく僅か。

春めいた空の下、遠くに雪を戴く秩父の山々が望めます。

春先の雪原と八ヶ岳すっかり春めいてきたといっても、ここは里に比べればはるかに標高の高い高原地帯。

少しでも標高を上げると、まだまだ雪原が広がっています。

八ヶ岳の東側、南牧村から望む八ヶ岳は雪をすっぽりと被っています。

春先の夕暮れ、八ヶ岳牧場本場から望む八ヶ岳夕暮れの八ヶ岳牧場本場から望む、八ヶ岳(北杜市長坂町小荒間)。

左が網笠山。中央右側に三ッ頭、右奥が主峰、赤岳。東側は雪が多く残っていますが、西側は大分雪が減ってきました。

南麓側は気温が高いせいでしょうか、標高1200m近いこの場所でも、雪は殆ど残っていません。

すっかり日が長くなって、来週には春分を迎える八ヶ岳南麓も、もう少しで春を迎えそうです。