今月の読本「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体」(森本あんり 新潮選書)アメリカキリスト教史と大衆伝道を通じて語る、自由と自立の気風の根底にあるもの

今月の読本「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体」(森本あんり 新潮選書)アメリカキリスト教史と大衆伝道を通じて語る、自由と自立の気風の根底にあるもの

New(2015.5.4):先月以来、各社から様々な形で本書の書評が出てきているようですね。検索サイト経由でこちらのページに辿り着かれた皆様も多数いらっしゃるようですが、著者である森本あんり氏がご自身の研究室のホームページで各社の書評を紹介されていますので、そちらへお廻り下さい。

New(2015.4.12):朝日新聞と三省堂書店のコラボレーション企画、WEBRONZAの書評コーナーに本作の書評が掲載されています。著者の森本あんり氏がやっかみを込めて推すくらいに、読まれた方なら誰しも納得できる、見事なまでに完璧な書評。当方の駄文をご覧頂く前に、是非ご一読を。

New(2015.3.16):本書について、本気で解説を書かれているサイトがあります。キリスト者の方のようですので、本書を読まれた方で、バックグラウンドや、特にアメリカ特有のプロテスタント事情にご興味のある方には、かなり参考になるかと思います(現在でも全7節全15節と、かなり物凄いボリュームですが、まだまだ増えそうな勢いです。お時間のある際に)。著者である森本あんり氏からのメッセージも掲載されています。

 

<本文此処から>

素っ気ない表紙と、それを覆すかのようなインパクトのある表題、帯でちょっと驚かされる新潮選書。

今回読んだ一冊も、そんな表題の為にスルーしていたのですが、もう一度内容を立ち読みしてみると、実に面白そうなお話だったので、購入してみた次第です。その内容は、予想を裏切らない、好奇心を揺さぶられる内容です。

反知性主義反知性主義」(森本あんり)です。

本書の売れ行きは非常に宜しいようで、既に重版も決定しているようです。

この反知性主義。単に言葉を聞いただけで、そして帯を見ただけですと、知的鍛錬が足らない人、ないしは大衆思想を揶揄する本、更には最近流行り言葉になっている「マイルドヤンキー」をターゲットにした解説書のように見えます。

どちらも正解なのですが、本書はもっと根源的な部分で反知性主義の発生と発達を述べていきます。著者はプリンストン大学で神学を修め、現在は国際基督教大学の副学長を務められる神学の専門家。この著者の経歴と、表題との繋がりが大きなテーマとなっていきます。

すなわち、ピューリタン(それ以前の旧大陸での宗教改革から)達によって達成された、キリスト教の開放、すなわち万人司祭の思想を中核に置き、その結果として、いかなる権威も認めず、自らの回心、発心を最も重視した思想の延長線が反知性主義であると、アメリカにおけるキリスト教の伝道史、特に大衆伝道を通じて解説していきます。

建国以前、そして建国当初のアメリカでは、ヨーロッパと比べると圧倒的に早くから高等教育機関、即ち聖職者の養成機関が整備されたようですが、そんな初期の聖職者養成機関の一つであり、自らが学んだ名門のプリンストンにおいても神学は最重視されない。それ以前に、一般教養としての自然科学や教養課程が最も重視される。それは、高邁な神学論争より、万人司祭たる故に、どれだけ聖書に基づいた説教が行えるかの方が余程重視された為だと述べていきます。

誰もが聖書の言葉を議論できる世界。そこには多数の解釈が生まれ、多くの分派が生じることになります。更には先鋭化した「セクト」の萌芽を見る事になります。そして、分派毎の自由な布教、不干渉の先に示されるのが、ピューリタンが興した国としての大転換、明文化された信仰の自由。それは、生存や社会的地位の不平等については許容しても、自らの信仰的な立場を不当に貶める事は許さなかった結果の妥協の産物でもあったようですが、その結果として生まれた、権利章典に記された内容が、この新しい国の生き方を大きく規定したことを示していきます。

その延長として生まれたのが、州権主義とも繋がる小さな政府的な考え方と、素朴な個々人の良心に依拠する体制の希求。その反対に見据えられるのが、伝統的な権威や学力を誇る事で政治権力と結ぶ知識階級への反発。反知性主義とは、神との契約の元(=契約は果たされなければならないという、現世利益的な意味合いすら含む)、自立した個人の立場で、平等に議論することを目指した、決して知性と懸け離れた衆愚性を採り上げたものではない事を明確に述べていきます。

この辺りの解説は、正に目から鱗。特に、アメリカにおけるプロテスタント各派の初期の伝道や迫害の様子と共に、それを超越して信仰の自由という権利(=自由な布教)を獲得したという点が、一般的にはピューリタンと直結して考えられるこれらアメリカの根本思想が、実はセクトとチャーチとのつばぜり合いの上で成り立ったという点を見せてくれるだけでも本書を読む価値があります。

この極めて宗教に根差した体制の元に、個人に根差した、自由な布教の先に描かれるのが、本書の後半を彩るジャクソン大統領のような衆愚政治の始祖と呼ばれそうなヒーロー軍人上がりの政治家や、ソローのような自由人、そして三次に渡る信仰復興運動(リバイバル)で活躍した大衆伝道者たちの物語。

ここで著者の視点は、アメリカ特有の社会性と大衆伝道の関わり合いに軸足を変えていきます。社会的成功が神への栄光に繋がるという発想。その発想の延長で語られる経済的成功をみんなが目指す社会構造。それは、大衆伝道者も例外ではなない事を、ムーディーと大衆伝道における回心者の集計(そんな事出来る訳ないとお考えは、その通りなのですが)や、最終章におけるビリー・サンデーの生涯を通じて見ていきます。内証的な修行者を宗教家と見做すことが多いであろう日本人にとっては正反対に位置する、ヒーローとも捉えられる彼ら。その理由は、彼らによって繰り返し起こされるリバイバル自身が、一種の娯楽でもあったと見做していきます。大衆伝道者とそれに熱狂する聴衆(信者とは限らないです)の姿から、反知性主義が見せる、もう一つの側面、実利主義と、神は必ず契約を果たしてくれるというポジティブ思考、熱狂と余りにも素朴な信仰心故に宗教から逸脱しそうになる、道徳とのあいまいさが映し出されます。

闊達な伝道者たちの物語を語るために少し後ろに回されていた、反知性主義についての議論。著者は終章で一気にその実像を示していきます。本書をご覧になる方なら誰しもが思い浮かべるリバタリアリズム、そして前回の大統領選でも勢力を見せたティーパーティーに見られるような、小さな政府主義も、これら建国期から続く一連の宗教を下地にした平等、自主の意識の延長であると位置づけていきます(裏を返せば、無干渉主義)。反知性主義とは、知性を否定する行為ではなく、そのような自主性に干渉する政府とその体制に対して知性を以て権威付けする事への反感であると述べています(この点は、リバタリアリズムに共感する人々の多くが、比較的高収入の白人層である点でもはっきり判ります)。その結論からは、反知性主義とは所謂マイルドヤンキーなどと評される枠組みとは一線を画す意味合いである事がはっきり判ります。

あとがきで著者が述べている、(非常に好意的な視点での)反知性主義を成り立たせるための立脚点と、新しい価値の世界を切り開く力となる、相手に負けない優れた知性を帯びる事、そして根本的な確信を有している事(これが何を指すかは、ご理解ください)への希求。日本においてこれらの思想を育む事は、著者の望みとは裏腹に難しいのかもしれません。

既に本書を読んでいる時点で、ややもすると反目を受ける立場側に立ってしまう、読書人層に位置してしまっているのかな、等と考え始めた時点で、これもセクト的思考だなと自己反省しながら。

<おまけ>

本書を読むにあたって、アメリカにおけるプロテスタントの宗派やその広がりについて、ある程度知識があった方がより理解が深まるかと思います。最も手軽に知るためには、長らく絶版になっていた、こちらの「なんでもわかるキリスト教大事典(原著、キリスト教大研究:新潮OH!文庫)」(八木谷涼子 朝日新聞出版文庫)がほぼ唯一無二の一冊。類書が無いのが不思議なくらいなのですが、プロテスタント各派の流れや、反知性主義とかなりの部分で重複する、アメリカのプロテスタントを貫く大きな流れである、福音主義の要点を理解するためにもお勧めです。

その他、本書を読むにあたって事前に読んでいた本から、手短にあった何冊かを集めて。

反知性主義と類書たち本ページで扱っている、本書に関連する書籍をご紹介いたします。

 

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WindowsPhone8.1 update on Lumia1020(Lumia Denimと少しの寂しさ)

WindowsPhone8.1 update on Lumia1020(Lumia Denimと少しの寂しさ)

既にMicrosoftに吸収されて久しいNokia及びLumiaブランドですが、そのコアソフトウェアがWindowsPhone8.1のアップデートに合わせて模様替えとなりました。Lumia Denimです。

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各バージョンは微妙に上がっていますが、本バージョンから遂にNokiaの単語が全て消し去られました。

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OSのバージョンも上がって、表記も「Windows Phone 8.1 Upadate」に変わりましたが、バージョンナンバーの変化は僅かです。今回のアップデートが小規模である事が予想されます。一番の変更点はMicrosoft的にはcortanaなのかもしれませんが、ちょっと割愛です。

今回のシステムの新機能は二つ。アクセサリ用アプリという機能と、アプリコーナーという機能です。

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まず、アクセサリ用アプリ。こちらは所謂コンパニオンデバイスと言われるスマートウォッチやウェアブル端末と連携するアプリケーションの管理を行う機能のようですが、肝心のデバイスがWindows Phoneに対応していませんので…。

次に、アプリコーナーですが、インストール済みのアプリケーションを、承認ユーザー間で共有できる機能のようです。既に、ダウンロード済みのアプリケーションを他の端末でも共有できる機能がストアに用意されていますが、この機能の端末版といったところでしょうか。

そして、表示上の大きな変更点は、漸く増えてきたアプリケーションを、ホーム画面上でアイコン表示したり整理するのに苦労されている方に向けて、階層化表示の編集がホーム画面上で行えるようになりました。

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アプリケーションアイコン、ないしは事前に用意しておいたフォルダーに他のアイコンをドロップするとアイコンの表示タイル表示に変わります。タイル表示をゆっくりクリックすると、左の画面のようにタイルフォルダーの名称と編集(フォルダー名の場所をクリックすると仮想キーボードが表示)。早くクリックすると、右の画面のようにフォルダー化されたアプリケーションのアイコンに直接アクセスできます(画面例のように、既にあるフォルダーを使用して2階層を作る事も可能)。

この表示機能、部分的には以前からメッセージアプリを集中管理するPeopleには採用されていたのですが、編集機能を加えて、漸くユーザーに解放されたといった感じもします。

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表示状態になると、タイルの中に更に小さなタイルが出来るようになります(アニメーションもします)。

操作性はまだしも、表示系に関しては色々と不備が指摘されるMetro UIですが、地道な改善が続いているようです。

その他の小変更についてもちょっとご紹介です(一部、Windows Phone 8.1/Cyanでのアップデート分が混ざっているかもしれませんが、単なる確認不足です。笑って許して下さい)。

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  • データセンターに、ブラウザーデータの圧縮機能が追加されています。従量課金制通信時に、少しでもパケットを減らす場合は有効かもしれません
  • インターネット共有(所謂ディザリング)の対象デバイスとして、Bluetoothも選べるようになりました。なお、これまでも要望の大きかった、Bluetooth外付けキーボードへの対応は、一部の端末に対してのみ提供予定の次のアップデートで適応される事が発表されています(Windows10で対応されるかは言及されていません)

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  • 日本語入力の機能ですが、何時の間に予測変換の精度調整や、変換バーの表示桁数の調整なんて言う細やかな機能変更も入れられています。ちなみにシステム時間のタイムゾーンが、ロケール日本にも拘わらず、自動の場合、大阪、札幌、東京からソウルに勝手に変えられてしまうという、微妙なバグ(設定ミスorGPS連動なのかも)もあったりします。

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  • 一応、紹介だけですが、SMSの音声読み上げ対象デバイスとしてBluetoothのみを指定できるようになりました。日本人はメッセージ読み上げを殆ど使用しない筈ですが、海外では当たり前で、たまにスピーカーから流しっぱなしにしている方もいらっしゃいますが、これでプライバシーを気にする方も安心して使えるかもしれません
  • そして、アップデート好きな方には待望?の機能かもしれません。アップデートファイルの自動ダウンロード時間を指定できるようになりました。これで、朝起きたらすぐアップデートに着手できる、お忙しい方には嬉しい改良でしょうか

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  • そして、これも漸くといった感じですが、バッテリーセーバーのアイコンをホーム画面に置くことで、バッテリー容量が確認できるようになりました。Cyanアップデートの際に、ホーム画面上にバッテリーアイコンで容量を表示してくれるようになったのですが、数値での確認はスワイプしないと確認できなかったので、直接容量の%が読めるアイコンはやはり欲しい所でした。後は、残容量更新タイミングが致命的に遅いという課題が解決しているか、これから確認です。

ここまで見てきたように、着実な機能改善を見せているWindows Phone 8.1。しかしながら、改善の方向性は今回ご紹介していない点を含めて、Microsoftの新たなビジネスモデルを実行するためのプラットフォームとしての役割に大きくシフトしてきている感が、ひしひしと感じられます。

今回のアップデートで、これも漸くサポートされたSDカードによる外部ストレージサポート(ここまで渋ったのは、明らかにセキュリティ上のデメリットを勘案しているのでしょう)、そしてラストにご紹介する点が象徴しているかのようです。

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Lumiaの象徴ともいえる、Lumia1020。そのシンボルである41M pixelの超高解像度カメラを自在に操るアプリケーション、Lumia Cameraのバージョンは4.9.3.0で留め置かれ、5に進む事は叶いませんでした。

Windows10でもLumia Cameraを搭載する高機能端末向けのプレビュー提供が見送られ、次のフラッグシップの関する話題で何時も採り上げられながらも実現が危ぶまれている、Lumia1020後継の話。

端末メーカーとしてのNokiaと、サービスプロバイダーとしてのMicrosoftのスタンスの違いがいよいよ明確になってきた気がする、今回のアップデートでした。

 

キーボード付き端末で敢えて外付けキーボードとマウスと使ってみる(BlackBerry PassportでBluetoothキーボードとマウスを)

キーボード付き端末で敢えて外付けキーボードとマウスと使ってみる(BlackBerry PassportでBluetoothキーボードとマウスを)

スクエアの大画面にキーボード付きという異端のスタイルが楽しいBlackBerry Passportですが、OS10.3.1から新たに採用されたBluetoohプロファイルにより、外付けキーボードとマウスを利用する事が出来ます。

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こんな感じで、簡単にペアリング可能ですが、Class2対応のデバイスでないと、動きがぎくしゃくしてしまいますので、デバイスの選択は要注意です。

ちなみに、外付けキーボードのプロファイルに日本語がありませんので、本体側のキーボードを使って日本語入力モードにしても、外付けキーボードからは強制的に英語入力となってしまいます(残念)。

BlackBerry Passportでマウスとキーボードこんな感じで、なんちゃってデスクトップ環境も作れてしまいます。

残念ながらキーボードは実用になりませんが、マウス操作は結構快適で、PCが無いときでも、大画面のメリットもあってデータブラウジングは快適そのもの。

もちろん、ホイールによるスクロールにも対応しています。

BlackBerry Passportのマウスポインター画面上には、こんな感じで、三角形のマウスポインターが表示されます。暫くすると消えてしまいますが、マウスを動かすと再び現れます。

BlackBerry Passportスワイプダウンマウスポインター1画面の上端にマウスポインターを持っていくと、設定画面を出すスワイプダウンを指示する歯車マークのポインターに変化します。

BlackBerry Passportスワイプダウンマウスポインター2この状態で、マウスを左クリックすると、メニューバーが少し引きずり出されますので、そのまま引き下ろせば設定メニューが表示できるようになります。

BlackBerry Passport スワイプマウスポインターでは、BlackBerry OS10の特徴である、スワイプによるページめくりを行う場合はどうするでしょうか。

実は簡単で、画面下端にマウスカーソルを持っていくと、マウスポインターがページめくりマークに変わりますので、そのまま左ボタンを押しながら画面をめくる動作を行う事で、ページをめくる事が出来ます。

意外と、便利で簡単なBlackBerry Passportでの外付けマウスとキーボードの利用。

普段はめったに使わないでしょうが、ちょっとした裏技として如何でしょうか。

 

今月の読本「足利直義」(森茂暁 角川選書)類書を引きつつ新たな歴史描写を模索する、理想のナンバー2の思想と足跡

今月の読本「足利直義」(森茂暁 角川選書)類書を引きつつ新たな歴史描写を模索する、理想のナンバー2の思想と足跡

最近特に増えてきた室町時代の歴史関係書籍。

中でも最も多いのは、鎌倉幕府滅亡から南北朝合一までの期間を扱った本達。昨年も「南朝の真実」がスマッシュヒットしたように、(歴史ファンの皆様の間では)注目を集めている時代のようですね。そんな中でも注目を浴びるのは、やはり後醍醐天皇と楠木正成。そして、近年積極的な再評価が続けられている足利尊氏でしょうか。

今回ご紹介するのは、そんな再評価が続く足利尊氏の無二の片腕でありながらも悲劇的な最期を遂げる事となる弟、足利直義を単独で扱った一冊です。

角川選書・足利直義と類書たち足利直義」(森茂暁 角川選書)です。

著者は既に同時代に関する複数の著作を有する方であり、同レーベル(角川選書)でも既に足利義教を扱った「室町幕府崩壊」を出されています。丁寧に丁寧に段階を追った著述と、著者の感情を少し織り交ぜた親しみやすい文体は一般読者に向けて刊行される選書に相応しいのでしょうか、再びの登板となったようです。

そして、テーマとして取り上げられた足利直義。兄である尊氏の陰に隠れるように登場し、鎌倉幕府崩壊後の混乱期、鬱気質で移り気の激しい兄を叱咤激励しながらも創業期の室町幕府を必死で支える、中世期随一の名政治家(武将としては、時に鬼神の活躍を見せる兄と比べて今一歩という評価は既に固まっているようですね)としての前半生。そして観応の擾乱の一方の主役として、兄との確執と争い。最後には兄の手に掛かって落命するという悲劇の最期を遂げる末期と、波乱に富んだ人生を送った、実に興味深い人物です。

本書も、著者が文中で述べているように、これまでマイナーな扱いを受けてきたために掘り起こされることの少なかった室町期の魅力的な人物たちに光を当てようという、一連の流れの中で刊行された一冊のようです(冒頭で述べている足利直義ブームかどうかは…)。

そして、本書の特徴はこれまでの類著と異なるアプローチを目指している点です。著者は前著「室町幕府崩壊」でも本書でも、その基底には佐藤進一氏の研究成果を置いている点についてはあとがきで言及されている通りです。その上で、著者はその精緻な政治機構、組織研究とは違った視点での歴史著述を追及していきます。それは、文中でも多数の引用がなされている、黒田日出男氏の美術史としての研究成果。大きな波紋を巻き起こした、氏の国宝神護寺三像の研究および著作に大きな刺激を受けて本作を著述したと明言しており、一章を割いてその検証と見解を述べていきます。

その結果本書では、類書で見られる政治史としての鎌倉幕府崩壊から観応の擾乱迄の歴史叙述を足利直義の足跡で辿るというスタイルを踏襲する一方、詳細については冒頭に写真を掲載しました類書の典拠を記す形で省略し、人物としての足利直義の思想に踏み込んだ議論を提起しようとしていきます。多くの同時代を扱った書籍がその根拠として求める太平記の著述に頼る事を少し控えて、著者が豊富に収集した史料に見られる形式や花押の変化から読み取る直義の政治姿勢の変化。和歌に詠まれた政治姿勢の解釈(ちょっと解釈が直球すぎる感もあります)。宗教政策から見た夢中問答の読み解きと夢想疎石との確執(対峙)、そこから見つめる鎌倉幕府的な政治手法、御家人体制への強い希求心。仏国土を目指すことによる、宗教的、精神的な安寧の実現。従来から述べられてきた直義の政治的スタンスを精神性や感情から読み解こういうアプローチが随所に見受けらえます。

著者のアプローチの焦点となるのが、観応の擾乱が生じた原因の検証。類著にあるように、足利尊氏と直義の権力分掌とその制約、側近層の反目や体制に対する考え方の違いなど政治史的な記述の見解は変わりませんが、著者はそれらを上回る理由として、晩年に生まれた子息である如意王に己の権能を受け継がせたいとの「野望」を持ったと、前述の黒田日出男氏の著作を引用して述べていきます。そして、幼くして亡くなった如意王を失った喪失感が、政治家として誠実であった彼をして、政治への興味を失わせたと述べていきます。

この辺りの著述には、歴史研究者の著述を越えて、文芸の領域にすら踏み込もうとする感がありますが、如何ともしがたいのが、当該部分の傍証として、一旦は遠ざけた「太平記」の、更には最も史実から懸け離れた後半の魍魎的記述に依拠しなければならない点ではないでしょうか。著者は確信的に、如意王の生誕と喪失を主因に挙げていきますが、一方で太平記こそ、直義を政権(室町幕府)の負の側面を押し付けるスケープゴート(それ故に怨霊として祀られる)であるとも述べている点が、大きな矛盾として感じられてしまうのです。スケープゴートたる所以=それこそが観応の擾乱の主原因と繋がる、がある筈なのですが、少々腑に落ちないところではあります。そして、このような見解を述べられる書籍に付きまとう、思慮が先走る事による筆致の限界と、その記述に引っ張られるように、五月雨的に発生するバランスの崩れが本書でも見受けられます。特に、核心の部分にも拘らず、その内容をあまりにも類書の記述に依拠しているため、本書を読んだだけでは著者の想いが見えてこないという歯がゆさも、更なる追い打ちをかけるかのようです。

人物像を語る書における魅力と限界を共に見せてくれる本書。本書を読まれる前に、類書をまずはじっくり読んだ上で、著者の想いをもう一度捉えなおしてみたいと考えながらページを閉じた次第です。

<本書をお読みになるにあたって>

  • 前述のように、本書は同じ角川選書から刊行されている黒田日出男氏の「国宝神護寺三像とは何か」に多くの記述、特に人物思想面を依拠しています。私は未読なのですが、本書の記述は、当該書が既読である事がほぼ前提となっている点に充分に注意することが必要かと思います(従って、私は本書を読む前に既に「落第」です)。なお、当該書は版元の弁としても「究極の歴史推理を読む」とまで評される内容であることを予め理解する必要がありそうです
  • また、冒頭に掲載しました写真の2作品「足利尊氏と直義」(峰岸純夫 吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)および、「足利尊氏と関東」(清水克行 吉川弘文館・シリーズ人をあるく)も文中で繰り返し引用されますので、既読であることが前提となるようです(あと、佐藤進一氏の「<日本の歴史9>南北朝の動乱」(中公文庫)も)。前著は政治史的な2頭体制について、もう一冊は人物史としての足利家及び一族が背負っていた歴史背景が詳しく語られていきます「足利尊氏と関東」については、下記にてご紹介しております

<おまけ>

本書と併せて読んでいた本達と、関連書籍のご紹介。

今月の読本「内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)川面から伝わる山里とユートピアとファンタジー、都会と労働と経済を結ぶ一筋の糸

今月の読本「内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)川面から伝わる山里とユートピアとファンタジー、都会と労働と経済を結ぶ一筋の糸

読書がなかなか進まなかった2月。

少しずつ読んでいた本の中から、いつもとはちょっと違った一冊を。

昨年から刊行の始まった、在野の哲学者(現在は立教大学の特任?教授を務める)である、内山哲氏の著作集より、初期の作品、しかも氏の著作の転機となった作品たちを収めた一冊です(地元の本屋さんで開催されていた農文協フェアで偶然見つけました)。

内山節著作集2 山里の釣りから内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)です。

まず、哲学者の著作集がなぜ農業書専門出版社から刊行されたのか、疑問を持たれるかもしれません。しかしながら、氏の経歴と本書をお読みいただくと、なるほど尤もだと思われるのではないでしょうか。

学園闘争華やかなりし頃のマルクス主義闘士としての経歴を持ち、それ故でしょうか、在野の哲学者として活動を続けてきた氏が第二の生活の拠点として都会から移り住む(正確には二重生活)きっかけとなった、山里の釣り(氏は渓流釣りという言葉を嫌うため、この特徴的な表現を用います)とその居となる群馬県上野村、神流川流域での生活。その生活から導き出された、山里の暮らしから見つめ直す労働と経済という、氏の現在の哲学の基礎となる思想が育まれた山村。氏は東京の生まれでもあり、所謂民芸や、農村芸術家といった生粋の農山村の生活から発生した文化活動とは大きく異なるのですが、その哲学はまぎれもなく、山里に根差そうとしている点からも、本版元の作品に相応しい著作集なのかもしれません。

そのような経緯を持つ本書は、表題にある様な釣りのお話が全面的に語られる訳ではありません。氏の分類によるところの釣りの本とは、第一に釣りの実用書、第二に交遊録、第三に釣りの哲学であると述べており、現在の釣りの本の多くは第三の哲学に近い書籍(ウォルトンの釣魚大全を挙げて)ではあるが、その境地に至るには貴族的退廃に通じる、釣りに人生を捧げるような刹那的な生き方をしなければ得られないと述べています。サラリーマン生活を続けるものとしては、本書の記述は充分に刹那的なのですが、それでもマルクス主義労働論を論じる立場からは、そのような視点は決して容認できないというスタンスのようです(その想いは、山里には自律的な経済が存在しえない事への冷徹な眼差しに繋がります)。

その代りとして、本書では周囲に広がる山里における生活風景を織り交ぜながら、釣りを通した山里の生活とその社会性、その根底に流れる氏の労働論との整合を論じていきます。その結果、本書には現在活発な議論がなされている地方回帰や、山里での生活論、自家消費的な小さな経済サイクルに対する検証(昨年、大ブレークした本もありましたね)への疑念から、都市からの人の呼び込みとその反動といった、山里を巡る論点の全てが備わる事になります。更には、これらの活動の一部が、都市生活者の山村生活者への価値観の押し売りであるとの厳しい指摘も備えられています。その議論の先見性は、本書に収められている作品の最初の掲載(毎日新聞社の雑誌、エコノミストの連載)が今から40年近く前になる1970年代末である事からも伺えます。

本書は著者のその思想と視点、著述の変遷を表すように、時系列を追って変化が見られることが判ります。1章では依然として、山里を訪れた釣り師としての視点で議論が進められていきますが、その筆致は哲学者でマルクス主義闘士としての過去の片鱗を見せる、少々無骨で直情的な内容に終始します。2章に至ると、その視点は少しずつ現在の拠点である上野村、そして神流川に移っていきますが不安定な筆致が続きます。釣り堀化された渓流域への嘆きや、釣趣の変化といった釣り師らしい語りもありますが、時にその物語は、源流域の物語から急に現在の利根川の河口に話を飛ばしてみたり、ダムや堰によって分断される魚たちや人々の生活の物語が唐突に織り交ぜられていきます。河口から遡上する物語も、歴史的な利根川の変遷から芭蕉の物語に通じてみたり、流域ごとの釣技と釣魚種に言及してみたりと、エッセイとも紀行文とも取れる内容が散発的に語られていくため、散文を越えて、皮肉交じりに知識力で読者を振り回すような感じすら受けます。

そして、本書の中核を成す第3章である「山村生活譜」。著者の視点は神流川の流域に点在する上野村の集落を起点とした筆致に収斂していきます。その視点は、これまでの釣魚としての山女魚、岩魚から、山里の生活の象徴としての川の魚達への視点へと移っていきます。語られる内容も、山里を起点にした生活、そして氏の研究テーマである労働と社会性への話へと移っていきます。

マルクス主義的な労働者の幸福論を下敷きにした検証と山里の生活の対比から導き出された氏の議論は、一方では労働幸福論的なユートピア発想を追及している点では楽観的すぎる嫌いもあります(勤勉な…と、いちいち皮肉を込める信州人、特に上野村の山向こうに広がる川上村の大規模集積農業に対する、氏のないまぜな心象に顕著に伺えます)。その一方で、現在の山里回帰における大きな課題となっている経済性の確保について、ごく小規模な経済活動の集積による持続可能な経済活動はあり得ない事を明確に導き出しています。近世以前から、米作が望める農村ならともかく、主食が得られない山里における自立した生活などは存在しえず、常に里との経済交流の上で生活が成立していたことを明確に示しています。そして、経済活動の軸となっているのが、山を越えていく峠であり、里に下りていく川。皮肉なことに、この里との繋がりを示す川を資源(水資源)として都会に提供することによって、流れとしての川による繋がりを失い、逆にそれによって生じた公共投資によって山里の現金収入が得られている事も明らかにしていきます。

そこには、単純な山里ユートピア論ではなく、都市に隷従する山里の姿から、本来はそれに抗する必要もなく、自主的な労働を基盤とした生活を有する山里の、自立することは叶わないが、対等な立場での経済性を有した社会生活の追及という、マルクス主義経済学を規範とする氏の哲学の深化が見受けられます。その深化の先に現在の山里復興論が繋がるのか。既に老境の域に達した著者は、冒頭の解題でその風潮を微笑ましそうに語るのみで、真意を述べてはくれません(氏の議論の先にはもちろん哲学的な「ある」帰結が用意されている筈ですが、本書では語られません)。

本書の後半部分は、前半と打って変わって釣り師としての氏の小作品が数点掲載されています。エッセイとして書かれたその作品には背景として社会性を伺える内容も見えますが、その記述は如何にもファンタジックで、哲学者の著述とは俄かに思えない事もあります。しかしながら、良く考えれてみれば現代において哲学者程にイメージとは裏腹に(日本に於いて)社会的に浮遊な存在はない筈。氏が釣り師の哲学をその存在形態から否定しているにも拘わらず、氏自身が哲学者という社会的に極めてファンタジックな存在故に、このような著作に繋がったのかもしれません。

<おまけ>

本書に関連する書籍のうち、本ページで扱っている作品をご紹介。