今月の読本「百貨店で<趣味>を買う」(神野由紀 吉川弘文館)趣味の良い紳士の皆さん、マニアへの道は散財ですよ、散財!

今月の読本「百貨店で<趣味>を買う」(神野由紀 吉川弘文館)趣味の良い紳士の皆さん、マニアへの道は散財ですよ、散財!

所謂研究者の方が研究成果を纏めて上梓される本の多くは、シンプルな装丁とちょっとお高い価格が買う際の敷居をどうしても上げてしまうものです(中には、動植物や、自然科学、建築の研究書のように写真集と見まごう本もありますが)。

今回の一冊も近代史の研究者の方が出された一冊ですが、装丁にちょっと驚かされます。歴史を扱った本であることがすぐ判るシックな色使いと写真にも拘わらず、何とクロスのタータンチェックのシボが入ったカバー用紙を使う大胆さ。更には小紋をイメージした透かし入りの紙子の見返しに、きっちりデザインされたカバーの下に隠された表紙にも、帯同様にストライプを施す手の込みよう。

歴史書籍専門の吉川弘文館にしては、凝り過ぎとも思える装丁に思わず手に取った本書は、その内容もその装丁に違わず、何時もの歴史書とはちょっと異なった、「マニア」な切り口で語っていきます。

百貨店で<趣味>を買う表紙百貨店で<趣味>を買う見返し百貨店で<趣味>を買う装丁百貨店で<趣味>を買う」(神野由紀 吉川弘文館)です。

まず、著者の研究テーマ設定に驚かされます。大きな枠組みでは近現代のデザイン変遷史のようなのですが、そのアプローチとして捉えている視点が何と、風流の大衆化とデザインの「キッチュ」化。

これだけでは、何のテーマか訳が判らないかもしれませんが、本書を読んでいくと、そのアプローチと帰着点が徐々に見えてきます。本書は四章に分かれていて、それぞれに個別の論考としても読めるようになっていますが、このアプローチを楽しむためには是非冒頭から通しで読みたいところです。その流れは、近代の大衆商品デザインの変遷と著者の研究の深化(マニア道かもと…)とが軌を一にするかのようです。

文明開化と近代の始まりを告げた明治維新。社会的な価値観の大きな転換期から少し落ち着きを取り戻した明治後半の東京、大阪といった都市に勃興した新たな消費者層が求めたアイデンティティの希求を見出す事から本書の物語は始まります。その視点の先は、ほんの僅か前の時代である江戸の風流。最初は思想や文物を含めてそのままの形で移入しようとしたようですが、すぐに経済的な商品として変質を遂げていきます。その手助け、もっと言えばプロデュースと販売までをも一手に担ったのが百貨店という、近代を代表する販売セクター。

本書では、高島屋、そして多くを三越の社内資料、販売促進資料を引用する形で、この変遷を描いていきます。そのアプローチは正に大衆化とそれに付随するマスプロダクション化。そしてターゲットとなったのは、なんと、経済力をつけた男性たち。

現在の百貨店の客層を見れば判りますように、百貨店で消費するメインの顧客は女性、それもある程度の経済力を有する独身や安定した収入源を有する家庭を育む主婦層といったイメージが強いと思います。しかしながら、著者はその変質はサラリーマン家庭によって生み出された、時間的、経済的な余裕がもたらされた主婦層の誕生という高度成長期以降の話であり、丸善の例を示して、百貨店の1階とはそもその紳士向けの製品を売る売り場であったと指摘しています。実は経験上、この話には非常に頷かされる点があります。私が子供時代に生活していた横浜。一大消費センターに成長した横浜駅西口に今もがっちりと根を張っている旗艦でもある横浜高島屋。確かに1階は婦人向けの化粧品や宝飾品が多数並んでいたのですが、当時(1980年代からバブル以前)においても、奥の方は紳士向けのベルトやネクタイといった小道具類のコーナーが控えており、更には駅ビルの店舗では特等席と思える、ホーム直結の2階フロアーは薄暗い照明とされて、敷き詰められたふかふかのカーペットを歩いていく先には、暗闇から浮かび上がる高級宝飾品や紳士向けの高級スーツ、ゴルフ用品がゆったりとしたスペースで展示されているのがとても印象的だったことを思い出すのです。

お得意の広告宣伝という武器をフル活用した、イメージ戦略を含めた紳士の嗜みを満足させる為の百貨店。その位置づけは明治の勃興期に於いてすでに始められていた事が紹介されていきます。始めは西洋文化の受容とそれを外見で装うための装飾品販売が目的として位置付けられていた百貨店の商品戦略が大きく変わっていくのが、明治も40年を超えたあたり。社会的に落ち着き始めた時点で次に求められたのが、都市に集住し始めた人々が自らの住居を飾るための調度品たち。全国から都市に集まってきた彼らは、所詮経済力を付け始めてはいるものの、所謂江戸の風流も解せず、伝統文化や芸術の担い手ではなかったために美術への知識に乏しく、判断方法を含めてこれらの購入手段を百貨店に求めていく事になります。百貨店の方も最初は本格的な美術品、それも真贋の判定を要しない現役の芸術家の作品を扱う事でこれらの需要に応じていきますが、次第に自らがプロデュースした作品を送り出すようになっていきます。その先に描かれるのが作品から商品への転換。百貨店が主宰する美術展で飾られ、販売された芸術作品は、手軽に床の間や自宅の壁に飾るためのコンパクトな作品へと変えられ、製作者の銘が入れられた地方の民芸品や古美術も、百貨店自らがシリーズ化までを手掛ける準量産的な工芸品へと置き換えられていきます。そこには、始めは自身の身代を飾るためにやむを得ず支出していたはずの男性が、その目的を越えて、家族の為と称してこれらをせっせと買い込んでいく事を示していきます。私の実家にもあった、同世代の多くの家庭を訪れてもやはりあった、衣装ダンスにしつらえらえたガラスの引き戸の中に飾られた人形や工芸品たち。彼らがあまねく日本中の消費者(家庭)に普及していった経緯とその宣伝手法を百貨店という供給者側の視点を通して鮮やかに描いていきます。

このような話は、芸術作品の大衆化、消費財化という、時に経済論的な色彩で語られる場合もありますが、美術史の研究者である著者のアプローチはここで大きな転換を遂げていきます。大量生産されるようになったこれらの工芸品。最初は芸術性やそれこそ国威啓発的な意匠(この意匠の話を読んでいくと、戦後高度成長期にJALが導入したボーイング747におけるアテンダントの和服サービスと、壁には鶴が舞う、和風「テイスト」満載の豪華な2階ラウンジが思いっきりオーバーラップしていきます)に訴える作品も多くみられたようですが、著者が着目したのは、更にもう一歩進んでシリーズ化されて送り出された工芸品に用いられたデザインテイスト。既に本物の民芸品から大きく懸け離れてしまったそれらの作品に用いられたモチーフから、芸術作品の模倣としてのフェイクから脱却して、より大衆的に受け入れやすく親しみのもてる、そしてちょっと首を捻ってしまう点も見受けられる「キッチュ」というテイストを見出していきます。

それでも此処で終わっていれば、大衆化という名における単なるデザインの歪曲化、軽薄化のお話だったのかもしれません。しかしながら、工芸品のシリーズ化という百貨店の販売戦略とデザインの変遷が著者の中で融合した結果、思いもよらない議論の展開を見せ始めます。自らの身体を飾る衣装から、ステータスを飾る自宅の床の間の美術品、そして大衆化された工芸品への変遷。女性である著者は、そこに男子の一生に付いて廻る拭い去れない習性を見出していきます。それはマニアという名の「収集癖」。

興味を持ったものを集め始めると、集め尽くすまで止められない、捨てられない。お菓子の箱が一杯になるまでカードを集め、昆虫の標本を積み上げ、書棚を好きな本で埋め尽くし、棚にはプラモデルが群を成す…。大人になっても、文具屋さんでちょっと拘った筆記具やノートを手に入れると思わず仕事が捗ってしまったり、家電製品やパソコンを買い替え続けては家族に罵声を浴びせられ、それでも新しいスマホが手に入るとニコニコで弄り続ける…。

収集することに没頭するマニアたち。著者はその事例として、可愛らしくも女性にも人気のあるビックリマンチョコシールを例に挙げていますが、男の子にとっては小は崎陽軒のシウマイのひょうちゃんから、ディアXXティーXのシリーズものにアキバでの大人買い。大は腕時計にゴルフ用品、行きつく先にはTopGearで乗り回されるスーパーカーまで、好きなものは何だって集めたいのです。コレクションというカッコいい名前を与えられた、単なる男子の収集癖を満たしていく戦前の百貨店が辿った商品戦略の道筋。そこには、欲しいと思ったものならば、労はちょっと惜しんでも経済的に手に入れたいという都市に集った男性諸氏の消費者心理が色濃く反映されているようです。そして、女性が自らの嗜好で家財を工芸品や装飾品で彩るようになったのは、決して従前の事ではなく、戦後の経済的余裕が生み出した事象であることを改めて示していきます(前述の工芸品も母の両親、たぶん私の祖父が買い与えたものであったは筈です)。

消費者が買いたいと思っている物を、その潮流を含めてキャッチアップして、コレクションできる商品としてラインナップしていく。戦前の百貨店が担っていた消費意欲をそそるその戦略手法をデザインの観点から導く著者の論考の先には、長く不振が叫ばれ続けている昨今の百貨店とって、復活のカギとなるヒントが含まれているのかもしれません。

 

それでは、良い趣味をお持ちの紳士の皆さん。周りにとやかく言われようとも、今日も、さくっと散財ですよ、散財!

 

梅雨間の御射鹿池とレンゲツツジ試写(LUMIX DMC-GM5 + LUMIX G 42.5mm f1.7)2015.6.13

全てJPEG撮って出しです。各画像をクリックして頂くと、フルサイズ表示になります。

梅雨間の御射鹿池試写11/100,F8.0,ISO800:ちょっと白すぎで

梅雨間の御射鹿池試写21/100,F4.5,ISO500:ここからクリエイティブコントロールはローキーです。日差しが出てきてしまい、これも白っぽく

梅雨間の御射鹿池試写31/100,F4.5,ISO500,-0.3EV:このくらいの緑が出てくれると嬉しい。フォトスタイルは常時風景(緑、青を強調)を選んでいます

梅雨間の御射鹿池試写41/100,F4.5,ISO500,-0.3EV:奥の落葉松にピントを置いて。それなりにシャープ。

梅雨間の御射鹿池試写161/100,F5.6,ISO640,-0.3EV:こちらはレンゲツツジにピントを。しっかりとした立体感が得られます。

梅雨間の御射鹿池試写51/250,F4.0,ISO200,+0.3EV:既に日差しが強くなってきました。ローキーらしいコントラスト。

梅雨間の御射鹿池試写61/100,F8.0,ISO800,+0.7EV:軽めの緑に仕上げて。

梅雨間の御射鹿池試写71/100,F8.0,ISO400,+0.7EV:うっすらと靄が出ています。なるべくパンフォーカス。

梅雨間の御射鹿池試写81/100,F6.3,ISO320,+0.7EV:もう少し緑を入れて。F6.3でもくっきりとした立体感。

梅雨間の御射鹿池試写91/100,F8.0,ISO800:レベルでの水面への映り込み。もう少し緑を出したいところ。

梅雨間の御射鹿池試写171/160,F4.0,ISO200:こんな明暗が入り混じった感じも良いかも。

梅雨間の御射鹿池試写101/100,F6.3,ISO400,+1.0EV:少し飛ばし目に。AEロックの使いにくさがやはり辛く感じるところ。

梅雨間の御射鹿池試写111/200,F2.8,ISO200:別に充分ボケますので開放まではいらないかなぁ。

梅雨間の御射鹿池試写121/400,F2.8,ISO200,+0.7EV:流石に寄れます。中望遠と接写が1本で賄えるのはちょっと不思議な感覚。

梅雨間の御射鹿池試写131/100,F6.3,ISO400:全景で。少しアンダー気味に。

梅雨間の御射鹿池試写141/200,F4.5,ISO200,-0.7EV:白樺と落葉松の緑を載せて。このくらいの緑の発色が得意そうです。

梅雨間の御射鹿池試写151/100,F6.3,ISO500,-0.3EV:こちらは記念写真的に。少し離す距離感さえ判れば、意外とスナップ的な撮影もできます。

 

ISO Autoの場合、1/100でシャッター速度下限が設定されるようです。手振れ補正が付いているレンズであれば、もう少しISO設定上限を下げても良いかもしれません。

 

雨上がりの初夏の午後には八ヶ岳西麓を散歩しながら試写を(Lumix GM5+Lumix G 42.5mm f1.7)2015.6.6

雨が上がってお天気が回復した土曜日。

積み上げられた仕事を振り切って(来週は地獄じゃな)、眩しい日差しの中で入手したばかりのカメラの試写がてら、お散歩です。

(撮影は全てLumix GM5 + Lumix G 42.5mm f1.7の組み合わせ、JPEG撮って出しです。画像をクリックするとフルサイズ表示になります)

LumixGM5試写1朝日を浴びる木々の緑と青空。

LumixGM5試写2八ヶ岳と水田八ヶ岳と水田。

LumixGM5試写3水田の水面に映る雲水田に映る雲。

LumixGM5試写4スイレン井戸尻考古館前の蓮池にて、スイレン(f6.3)

LumixGM5試写5スイレン2井戸尻考古館前の蓮池にて、スイレン(f2.8)

LumixG5試写6スイレン3井戸尻考古館前の蓮池にて、スイレン(f2.0)

LumixG5試写7スイレン4井戸尻考古館前の蓮池にて、白いスイレン(f2.8)

LumixG5試写8まるやち湖原村の八ヶ岳自然文化園内のまるやち湖。

この画角だと、八ヶ岳を入れるのはちょっと窮屈。被写体を絞り込む事を要求してきます。

LumixG5試写9八ヶ岳自然文化園の白樺林八ヶ岳自然文化園の白樺林。

林の中にはレンゲツツジの花が所々に咲いています。

LumixGM5試写20八ヶ岳自然文化園のレンゲツツジレンゲツツジの小さな群落と白樺(f6.3 -0.3EV)。

LumixG5試写10白樺と青空白樺と初夏の青空。

緑がすっかり濃くなってきました。

LumixG5試写11八ヶ岳農業実践大学八ヶ岳農業実践大学校の即売所を八ヶ岳の山並みと。

画面が狭い分、入れ込むアイテムをきっちりと絞り込みたいところ。

LumixG5試写12子牛1八ヶ岳農業実践大学校で放牧されている、人懐っこい子牛。

LumixG5試写13子牛2こちらに寄ってきてくれたので、もう一枚。絞りはf2.8。目の位置に合わせています。

LumixG5試写14沸き立つ雲高原の初夏。沸き立つ雲。

LumixG5試写15水田と苗風に揺れる、水田に並ぶ苗の群れ。少しずつ伸びる苗は、梅雨が明ける頃には水面を緑でいっぱいに埋めてくれます(f8.0)。

LumixG5試写16蓼科山初夏の蓼科山。何時もなら横岳とセットでフレームに収めるのですが、この画角だと、シングルの方がしっくりきます。

しっかり濃くなった山の緑が気持ちいいです。

LumixG5試写17笹原溜池の緑少し傾きかけた西日を浴びる、笹原溜池。

今日は風が強いので湖面は落ち着きませんが、西日に照らされた木々の緑が湖面に溶け込んでいきます。

LumixG5試写17夕暮れの圃場この時期にしては珍しく赤焼けした八ヶ岳を撮り損ねるという失態を犯した上に、更には電池切れとなった最後の一枚(f6.3 ISO400)。EVFを使用しながら、一部は液晶画面で撮影した枚数が176枚でしたので、まあまあカタログスペック並みというところでしょうか(撮影確認している時間が普段よりかなり多かった影響も大です)。

風景モードを使用してもオリンパスのような印象的な青は中々出せない上に、画角の狭さを克服するのにもまだまだ時間が掛かりそうですが、前評判程派手な色使いという訳でもなく、コントラストを少し上げた状態ではある程度狙ったイメージで上げてきてくれているので、今後は色々なシーンで活躍してくれるのではないかと期待しながら。

とある妄想の果ての衝動買い(LUMIX DMC-GM5とLUMIX G 42.5mm f1.7 and LEICA DG Summilux 15mm f1.7)

とある妄想の果ての衝動買い(LUMIX DMC-GM5とLUMIX G 42.5mm f1.7 and LEICA DG Summilux 15mm f1.7)

【謹告】

大変残念ながら、当方が購入したLumix GM5は、秋の撮影シーズンスタートのある日からシャッターに不調を抱えてしまい、誤魔化しながら使っていたのですが、結局修理送りとなってしまいました(試行錯誤しているうちに、自分で原因掴んでしまった)。GM1と共通の、このシリーズ特有の事情(高速シャッター側を純電子シャッターが受けもち、低速側はモーター直動のメカシャッター、なんか昔の電子制御併用メカシャッターみたいなニュアンス)が遠因なのかもしれませんが、とにかく撮影結果に影響が出るまでになってしまったのです(掲載写真にもコッソリ混ざっています)。さらに追い打ちを掛けるように、修理見積が補償範囲をオーバーしてしまい…嗚呼。42.5mm f1.7は本当に気持ちの良いレンズですよ。なのに、ボディが…(中古ね)。既に噂となっているGM7が登場するまでは、純電子シャッターオンリーでがんばってみるつもりです。2015.11.26

 

<本文此処から>

風景撮影のメイン機材であるOlympusのE-420を購入して早6年ばかり。現用のレンズを購入してから5年ほど経つでしょうか。

光学ファインダーを有しながら、軽量コンパクトなボディに充分な描画力と解放f値を持ったズームレンズの組み合わせは、てくてくと高原を散歩するのには最高のコンビ。

一方で、小さいとはいえ普段のお散歩の時に何時も一眼レフに4倍のズームレンズはちょっと仰々しいのも事実。

そんな訳でここ数年、あれやこれやと色々物色していたのですが、買わず仕舞いの末に何をいまさらとち狂ったか。海外タコ壺コースのお供が欲しくなったのか、それとも英文発表資料を作る事から現実逃避を始めた末の暴走か…、ともかく新機材を買ってしまった訳です。

Lumix GM5開封所謂開封儀式を行ってみるの図。

Lumix GM5開封2中身の確認を。ボディはLumix GM5です。レンズは発売されたばかりのLumix G 42.5mm f1.7(換算85mm)です。

決して資金は潤沢ではないので、ボディはもちろん中古ですが、レンズはこの組み合わせを試してみたく新品を敢えて調達。

中古とはいえ、ほぼ新品のボディ(僅かにボディの指が当たる部分にヘタリが認められる程度)が漸く安価に入手できるようになったことも、今回購入したきっかけ。但し、同じパフォーマンスを有するGM1(2型)は既に3万円台まで下がっているので、ちっちゃなEVFの為に10000円以上を追加出費するのも、完全に趣味の世界ならではですね。

Lumix G5とRollei35とE-420現用のE-420との比較写真。

登場時には最小のフォーサーズと呼ばれたE-420(今でもそのまま)ですが、ミラーレスのGM5と比べると隔世の感。同じフォーサーズでも、画素数は6割近くも多く、感度も大幅に改善しているのですから6年間の時間の流れは大きいです。

隣に置かれたRollei35TE。社会人になった直後に中古で手に入れた極めてコンパクトな35mmフルサイズのフィルムカメラ。露出計しかない固定焦点のレンジファインダーカメラですが、レンズはテッサーの40mm f3.5。余りつべこべ考えずに、何時も絞り込んでおいて、ただ撮りたいと思った時にシャッターを押すというスタイルにピッタリな一台。出張で缶詰になっていたホテルを少し抜け出して、ボロボロの心を摩りながら彷徨っていたアジアの街角を共にした大切な想い出が詰まったカメラ。

そんな気軽さと、メカニカルな凝縮感がとても素敵なRollei35を彷彿とさせるのがLumix GM5。高画質を最小のボディサイズに収めた上で、ファインダーを通して被写体と向き合えるそのスタイルは、マイクロフォーサーズの存在意義を最大限具現化した姿。

ただし、レンズは極めて近代的。手振れ補正も加わった中望遠の大口径レンズがこれほどコンパクトに収まるのは正に技術の進歩ですね。

Lumix GM5外観1Lumix G 42.5mm f1.7を取り付けたLumix GM5。こうしてみるとコンパクトながら意外と精悍です。

フードを付けてもコンパクトなため、違和感は殆どありません。これで換算85mmなのですから驚きです。

Lumix GM5外観2ボディサイズは最小のため、操作系もミニマムです。

EVFはサイズが小さいだけで、画素数の割には非常に見やすく、撮って歩き程度であれば応答速度にも不満はありません。コントラスト方式のAFでも、レンズの駆動が高速なためフォーカス合わせは一眼レフに遜色なく、厳密にフォーカスを合わせたければ、ピンポイントフォーカス機能と組み合わせると、焦点位置ズーム表示が自動的に行われるので、開放の接写でも随分楽に撮影できます。

ただし、ファインダーの横にファンクションボタンが2つあるのですが、ファインダーと干渉するので、一番右の再生ボタンもファンクションに使えたら最高だったのですが…(そ、そこはAEL/AFLの指定席でしょ!)。

Lumix G 42.5 f1.7接写1まだろくな撮影が出来る状況では…(仕事放棄中)、とりあえずこんな具合で(1/40sec f6.3 ISO1600)

鏡筒の金属感が嬉しいです。

Lumix G 42.5 f1.7接写2接写性能も注目点。約30cmまで近寄れますので、テーブル写真にも向いています。

但し、フォーサーズとはいえ、開放ではそれなりに被写界深度が浅くなりますので多少絞って(1/100 f2.8 ISO1000)

輪郭は綺麗に立ちますし、ボケ味は素直です。

Lumix G 42.5 f1.7暗所テーブルスタンド1本で、自宅の書庫を遠望で撮影。手振れ補正も結構頑張ってくれます(1/13 f2.8 ISO1600)

Lumix G 42.5 f1.7試写まだお外に持ち出せる余裕が無いので、週末には(さっさと締切まで仕事しなさい…)(1/100 f4.5 ISO1000)。

カラーバランスのとり方も、コントラストの付け方も未だ試行錯誤の状態ですが、新しいおもちゃは何でも楽しいですよね。

おまけ。実はもう一本レンズを買ってしまいました…(中古です)。

所謂パナライカと呼ばれる中でも評価が分かれるこの一本、LEICA DG Summilux 15mm f1.7です。

Lumix GM5とLEICA DG Summilux 15mm f1.7バックに放り込んでおいて、気軽に使いたいので、42.5mmとは異なり、フィルターを付けただけで、フードは常用しないつもりです(レンズキャップが悪いんだよ…と)。

このレンズ、扱われる方によって、ご意見がずいぶん分かれるようですが、私にとって最大のポイントは「絞りリングがある事」。絞り優先AE派の私としては、OlympusのE-420を長く使っていて、やはりコマンドダイヤル1個で絞りと露出補正を行わなければならないのは結構しんどかったのが事実です(ISOは普段から100固定、あとは自分のグリップを…手振れしょっちゅう)。このクラスで、このコンパクトさで絞りリングがレンズに付いているのはとてもありがたい事。高感度側の画質も大幅に改善しているので、ISO上限設定を決めておけば、絞りリングの視認だけで、後は心置きなく露出補正に集中できます。Rollei35ぶら下げていた頃のように、気軽に撮影したい。但しフレーミングとイメージはもう少し狙いたいという欲張りな希望を叶えてくれる組み合わせに、ちょっとした満足感があります。

LEICA DG Summilux 15mm f1.7試写例1f1.7開放状態での1枚、ISO200です。ほぼ最小焦点距離で撮影していますが、これだけボケます。

ボケ具合は如何でしょうか。この例の場合、私はf3.5位まで絞った方がお好みでした。

LEICA DG Summilux 15mm f1.7試写例2f1.7といっても、パンで撮れば換算30mmですのでそれなりに均一な画面になります(自宅の書庫ですf1.7 ISO400)。

フォーカスは距離1m程の中央の写真立てに合わせた後で少し左に振っていますが、ここまで離せば周辺もそれなりに写ります(周辺はややノイズ乗り気味ですね)。

Lumic GM5+LEICA DG Summilux 15mm f1.7作例3ちょっと非常識な作例、コンビニプリントの赤色立体地図「箱根」の特製版とBlackBerry Passportをセットで。

フォーカスはUSBポートに合わせています。ちょっと大き目なPassportの筐体が後方に向かって緩やかにボケていきます。ちなみに、白い矢印が描かれた大涌谷の辺りを写していますが、判りますでしょうか。

街中スナップは撮らないですし、風景でf1.7を使う事は今後まずないでしょうが、一応お試しとして。

>試写例画像はこちらのページにてご紹介しています。

試写例ピックアップを追加(2015.6.30)Lumix G 42.5mm f1.7【画像クリックでスライドショーへ】

試写例ピックアップを追加(2015.6.30)LEICA DG Summilux 15mm f1.7【画像クリックでスライドショーへ】

今月の読本「倭人への道」(中橋孝博 吉川弘文館)彷徨う古代史研究の足取りを未来に託して

今月の読本「倭人への道」(中橋孝博 吉川弘文館)彷徨う古代史研究の足取りを未来に託して

偶然にも2冊同時に古代史の書籍が刊行された5月。

ちくま新書の「骨が語る日本人の歴史」の方は、ちくま新書らしいといえばその通りなのですが、表題と内容とのギャップと、首を傾げてしまう後半の脱線ぶり(この手の本で議論してほしくない、別の話を始めてしまう)に少々戸惑う結果となって早々に退散してもう一冊の方を手にしたのですが、こちらもなかなかに考えさせられる一冊です。

倭人への道

倭人への道」(中橋孝博 吉川弘文館)です。

著者は医学博士であり、九州大学の名誉教授を務められる方で、これまでも複数の古代史、古代人に関する書籍を上梓されています。本書はその最新刊に当たりますが、一方で、著者にとって奉職中に執筆する最後の一冊にもなるような雰囲気を感じさせる一冊です。

本書では、その冒頭から巻末まで一貫して述べられている事があります。それは、古代史の研究において、更には日本人の起源について、現時点においても定説といえる学説は成立していないという事です。

いきなり冒頭から本書の表題を覆すような話で始まりますが、同時に刊行された「骨が語る日本の歴史」でも、著者の片山一道氏が同じ事を述べていますので、古代史研究の一般論として理解して良さそうです。

その原因として影を落としているのが、あの事件。本書の全般に渡って背景に流れる、あらゆる研究結果に対して著者が投げかける疑心暗鬼とも思われる旋律のピークとなる物語から本書は始まります。その結果、本書は殆どのテーマについて明確な回答も、結論も述べてくれません。ただ、現時点で把握された事象と、それに対する著者の見解が相対的に述べられていきますが、そこには常に疑問符のついた語り口が付されていきます。

一般的に謂われている、アフリカから広がった人の拡散についても、アフリカにその原始が存在している事自体には疑問を呈していませんが、その後の拡散に関する見解については、著者の専門分野である骨格、体格変化から見た拡散の過程と、4人のイブで話題となったミトコンドリアDNA、核DNA、更にはY染色体による分析結果で大きく異なり(ミトコンドリアDNAの方が効率的に分析数を稼げるという点も指摘)、海外で広まっているアフリカ大陸を離れた旧人の後に、更に新人が置換していったとの学説にも疑問を投げかけていきます。

但し、著者が専門としている骨格による分類研究については、思うところもあるのかと思いますが、明確に把握できる部分もちゃんとある事を示しています。その中で、頭蓋形状による判断が時に当てにならない点(中世から近世、現在に至っても、幼児期の姿勢や矯正によって、容易に頭蓋形状が変えられてしまう事を実例で示しています)と、それでも明確な女性の骨盤形状(出産跡が骨盤に残るとは知りませんでした)から、男女の判断は保存状況さえ良ければ殆ど正確に出来るという点は意外でしたし、著者の自然への敬意の念を感じさせるところです。

その上で、日本人の起源について、従来から唱えられてきた南方からのルートと共にユーラシア北方からのルートについても検討を加えていきますが、この分野に関しては、北東アジアにおける発掘成果の少なさに結論を阻まれているようです(ここで述べられるネイティブアメリカンの遺跡発掘に伴う話題は、非常に考えさせられる点が多い一方、結果として北米大陸ルートでの北方ルートの研究が事実上不可能となっている一因である事は非常に残念です)。

そして、誰もが気になる縄文人と弥生人の交代と呼ばれる一大転機、所謂縄文顔と弥生顔の交代に関する議論が始まりますが、著者はその前に両者の生活の違いを骨格や残された遺骨の傾向から見ていきます。

穀物食による虫歯の増加や、乳幼児の遺骨の比率から見た、未成年者の死亡率(実に7割、しかしながら明治時代でも3割だった点にも注目)、足腰の酷使による骨格形態の違いなど、人骨を調べるだけで生活状況まで推測できる点は非常に興味深い所です。実は、このお話にはおまけがあり、現在のシリア、歴史時代におけるパルミア人の歯と、現在この地に住んでいる人々の歯を比べて、双方ともおしなべて茶色に変色している点に着目した結果、飲用している水のフッ素濃度の高さが原因である事を突き止めただけではなく、その結果として発掘した人骨の歯の虫歯率が極めて低い点と、そこから骨の石灰化による異常が非常に多い点を導き出すという、医学研究者としての着目点にも興味を引かれます。

その上で、弥生人登場初期の発掘成果、特に農耕との付随性について、九州北部周辺にしか認められず、依然限定的だとの認識を示しています。その結果として、ステレオタイプで述べられてきた、渡来人が農耕を以て生産性の低い狩猟系縄文人を駆逐、置換していったという議論に対して否定的な論調を唱える一方、その拡散については、最新の研究成果を踏まえて、弥生人以前に日本列島に居住していた人々(≒縄文人)が徐々に列島の南北に移動していきアイヌと琉球という形に収まったとの認識に理解を示しています。

このように、確定的な事は殆ど述べられない本書。その中で、著者は古代史特有の事情、ある一つの発見や新しい分析機材の登場によって簡単にこれまでの議論が覆されてしまう点に切なさを感じながらも、それを受け入れてなおも前に進んでいく事を望む後進たる研究者に託した、現役最後の研究者からのエールを込めた一冊のように思えています。

願わくは、著者が存命のうちに、その意思を継いだ研究者の方々によって、本書に描かれた僅かに一項目でも学説として通説が生まれる事に繋がる事を期待して。