ちょっと早い夏空の下、見頃の井戸尻考古館の大賀蓮を(2015.7.12)

金曜日から急に真夏のような天気になった東日本。

まだ梅雨明けとはいきませんが、その後の天候を占うかのような強い日差しの週末となっています。

釜の底のような灼熱の地上から戻ってきた日曜日の朝。

ほんの少しだけお散歩です。

圃場の緑と南アルプスぐっと濃くなった緑に染まった圃場の先には、夏空らしいもやっとした空の下に南アルプスの山並みが伸びています。八ヶ岳と蕎麦畑夏空の下、八ヶ岳西麓の蕎麦畑には蕎麦の花が広がっています。

夏空の八ヶ岳と蕎麦畑白い花に包まれた蕎麦畑の向こうでは、農家の方がトラクターで次の作物を植える準備を始めています。

夏の蕎麦畑満開の花が広がる蕎麦畑。本格的な夏を前にして、ちょっと気が早いですが、心地は秋模様(諏訪郡富士見町信濃境、先達)

井戸尻考古館の大賀蓮1信濃境の井戸尻考古館へ。

名物の大賀蓮が見頃を迎えています。

井戸尻考古館の大賀蓮2大型の望遠レンズに三脚とフル装備で望まれている方々を避けながら、ふらふらと池の周りを廻ってみます。

井戸尻考古館の大賀蓮3蕾はまだまだありますので、もう少しの間、楽しめそうです。

井戸尻考古館の大賀蓮4濃い桃色に染まる、大賀蓮の花を(Lumix GM5 + Lumix G 42.5mm f1.7,1/6400,f3.2,ISO200,-1EV)

井戸尻考古館の大賀蓮5遠くに南アルプスの山並みを望む、井戸尻考古館の大賀蓮池。

来週の日曜日には、早朝から例年恒例の観蓮会が催されます。詳しくは井戸尻考古館のホームページへ。

 

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中央道の休憩は縄文の想いに触れるひと時(釈迦堂P.Aと釈迦堂遺跡博物館)

中央道の休憩は縄文の想いに触れるひと時(釈迦堂P.Aと釈迦堂遺跡博物館)

中央高速を東京から西に向かうと、笹子トンネルを抜けた後、急坂を転げ降りるようにして甲府盆地に下っていきます。

緊張を強いられる運転から、少し傾斜が緩くなってほっと一息つける場所にある釈迦堂P.A。

車をパーキングに入れて、丘を見上げると、ちょっと不思議な案内板を見かけます。

釈迦堂P.Aと釈迦堂遺跡博物館丘の上に立つ、大きく「博物館」と書かれた建物と、行き先を示す案内板。

パーキングエリアから博物館?、と首を捻ってしまいますが、とりあえず行ってみましょう。

釈迦堂遺跡博物館外観階段を上り詰めると、一般道。

道を渡った正面に博物館の入口が見えてきます。

ここが、日本でも珍しい「高速道路から直接訪問(も)出来る博物館」、釈迦堂遺跡博物館です。

こちらの博物館、 そのものズバリ、中央道を建設中に発見された縄文遺跡である釈迦堂遺跡の発掘成果を展示する為に建てられた、珍しい施設なのです(同じようなシチュエーションで、もっと大規模な遺跡であった、長野県諏訪郡原村の阿久遺跡には、残念ながら併設の博物館は存在しません。遺跡の脇に立つ収蔵庫内の一部の収蔵品が、遥か山懐に立地する、村立八ヶ岳美術館に展示されています)。

釈迦堂遺跡博物館から中央道を俯瞰館内の喫茶室や展望室からは、このように釈迦堂P.Aの様子や笛吹の市街地を望む事が出来ます。

釈迦堂遺跡博物館内部1では、さっそく見学してみましょう。

縄文土偶にお詳しい方ならご存知の、この博物館の名物が出迎えてくれます。

何と、こちらの博物館はカメラOKなので、お好みの写真を撮る事も出来ます。但し、フラッシュ厳禁ですのでスマホ撮りの際にはご注意を。

釈迦堂遺跡博物館内部2奥の陳列棚にずらっと並ぶこの名物、さあ近づいて観てみましょう。

釈迦堂遺跡博物館内部3目の前を埋め尽くす、顔、顔、顔…。

この博物館の名物、それは国内で発掘された出土数の1割近くを占める、膨大な土偶たち。

目の前にびっしりと並べられた、土偶の顔を始めとしたパーツ類が見学者の皆様に向かって一斉にご挨拶です。

釈迦堂遺跡博物館内部4個性豊かな土偶たち。ちょっとおかしかったのが、真ん中の土偶にカメラの顔認識がばっちり反応した事(大笑)。縄文人の感性は、現代のエンジニアリングにも共鳴してくれるようです。

釈迦堂遺跡博物館内部5豊富な顔のバリエーション。どんな想いでこれらの顔を生み出していたのでしょうか。

釈迦堂遺跡博物館内部7土器の縁につけられていたと考えられる人面たち。

ちょっとお気に入りが左の2つ。どこかで見た事がある様な顔つきではありませんか…?

釈迦堂遺跡博物館内部6宇宙人のような土偶の顔達。こちらの遺跡では多数の土偶が出土していますが、これらのように破壊されたり、一部のパーツだけの状態の土偶が殆どで、国宝土偶が2つも揃う、尖石のような華やかさはありません。

釈迦堂遺跡博物館内部8華やかさが無いと言いましたが、特徴的な出土物には事欠かない釈迦堂遺跡。

こちらのような、出産シーンをそのまま土偶にしたと考えられる、極めて貴重な出土物もあります(江戸時代までの出産同様、中腰の姿勢で出産していたと考えられています)。

釈迦堂遺跡博物館内部9そして、館内を奥に進んでいくと、この博物館のもう一つのお宝が見えてきます。

釈迦堂遺跡博物館内部10ガラスケースの中で、周りを威圧するように静かに佇む、この博物館でも大物、縄文土器としても大きな逸品中の逸品、水煙文土器。土偶には興味があるけど、土器はちょっと…という方でも、納得の迫力を持った芸術作品と言いたくなる土器です。

釈迦堂遺跡博物館内部11水煙文土器の後ろには、同時に発掘された土器たちがオープンスペースに展示されています。

もちろん、手に取る事は出来ませんが、ガラス越しではなく、縄文土器の肌合いを直に感じる事が出来ます(この展示方法は、尖石でも実施されています)。

釈迦堂遺跡博物館内部12これらの土器を作った際に余った粘土を序に焼き上げたのでしょうか、指跡が残る粘土や、粘土を入れていたと思われる、編んだ網の跡が残る粘土も出土されています。大量に土器、土偶が生産されていた事を示す、貴重な発掘物です。

釈迦堂遺跡博物館内部13そして、こちらも貴重な土鈴。

生活に汲々としていたわけではなく、豊かな文化性を持ち合わせていた証拠。このような出土品は極めて珍しく、こちらの博物館では、名物の「桃の箱」にこの土鈴のレプリカを入れたノベルティも用意されています(土偶の顔が入っているバージョンも…欲しいですか?)。

釈迦堂遺跡博物館内部14縄文の世界から、ちょっと薄暗いエントランスを通って現代へと。

中央道のドライブに少し疲れた時にちょっと寄り道して、ひと時のタイムトリップなど如何でしょうか。

釈迦堂Jomonコレクションパンフタイミングが悪かったのが悔やまれますが、夏休みを前にした7/15から、発掘35周年、重文指定10周年を記念した特別展示が開催されるそうです(第一期、9/7まで。普段は閉鎖している特別展示室が使われるはずです)。メインは大型土器。縄文土器ファンの皆様には必見の展示になりそうですね。

<おまけ>

似たようなテーマを扱ったページをご紹介。

今月の読本「人物叢書 二宮尊徳」(大藤修 吉川弘文館)その生き様と想いは、予が書簡を見よ、予が日記を見よ

今月の読本「人物叢書 二宮尊徳」(大藤修 吉川弘文館)その生き様と想いは、予が書簡を見よ、予が日記を見よ

歴史書専門の出版社でもある吉川弘文館。

各種の歴史書シリーズを手掛けていますが、中でも決して完結しないのではないかと思われるシリーズが、日本歴史学会の編集により刊行を続けている「人物叢書」。

歴史を学ぶ楽しさの一つでもある「人物」に特化した本シリーズは、インデックス付きの読みやすい文体の作品が多い事もあり、比較的手軽に読めるのですが、豊富な注釈と引用を含めて、多くの類似書籍に参考文献としても引用される、一線の研究者の方が丁寧に執筆された本格的な内容を備えたシリーズでもあります。

今回購入したのは、最新刊のうちの一冊(通巻281冊目)「二宮尊徳」(大藤修 吉川弘文館)です。

人物叢書 二宮尊徳流石に完結しないシリーズと呼ばれるだけあって、本作も著者のはしがきによると、執筆を依頼されてから実に30年近くの歳月を経て脱稿に至った事が述べられています。しかしながら、その間の研究成果が存分に反映されているとも考えられますので、この時期に読めるタイミングが得られた事をまずは喜びたいと思います。

本書は二宮尊徳の出生から死後の所謂報徳運動、更には「薪を担いだ金次郎」の伝説に至るまで、彼に関する広範なテーマについて検討を加えていきます。そのアプローチは冒頭に述べられる、尊徳が死期を前に語った一言

「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」

この言葉の通り、尊徳の残した書簡、日記などの膨大な資料を丹念に読み返すことで、虚構を排し、真に尊徳が語った言葉に迫ろうとしていきます。

著者の手によって、その筆まめを越えた尊徳自身、そして妻や娘によって代筆された帳簿や日記、思想を綴った筆跡、幕府や仕法を受けた武家に上申する為に作成された膨大な記録の数々を読み解かれる事によって、死後、そして明治以降に偉人として持ち上げた書物や記録に施された虚飾と真実が徐々に分かれていきます。

儒学を学べるようになったのは、武家奉公に出る頃であって、幼年時代ではなかった事。また、武家奉公時代以降は、所謂小作を使って農耕を行わせる地主階級にあり、その時代に学んだ儒学を武家奉公人たちに教えたり、短歌や俳句、晩年には書画をも学ぶくらい、実は学もあり、趣味をも嗜む立派な富農としての体裁を持っていた事を示していきます(もちろん、これには藩士として、そして御家人としての体裁を整えるという意味もあったはずです)。

その上で、余りにも著名な報徳仕法について、著者はその後に起きたある誤解を解く試みをします。それは、報徳仕法の大原則が「年貢を収納する側に最低限の「分度」を弁えさせた上で、その余剰を以て新たに農業へ投資することで全体の収益を向上させ、それ以上の差額が生じた場合には、更に別の投資に廻す事」である事を、仕法の各事例を通して示していきます。

明治維新後の報徳運動で欠落した点、それは収納する側(すなわち政府)が「分度」を弁えるという、仕法の最も重要な入口の議論を葬り去って、ただ協業と利益の相互還元だけを語る運動になってしまったことを明らかにしていきます。尊徳が仕法を受け入れる際に収納側に花押入りの念書を獲ってまで重視した点、それは収納する為政者への厳しい戒めが込められている点に着目していきます(更に、著者は尊徳自身が平等主義を掲げている訳ではなく、富農や為政者の存在自体を否定していない点に着目しています)。

その結果、仕法を受け入れた為政者側にも、仕法を受け入れる農村側にも(厳密に収量管理が行われる)多くの軋轢を生じさせる結果となり、多くの困難に向き合う事となった結果、遂には故郷小田原藩に戻る事が出来ず、遠く今市の地で最期を遂げる事となります。

この辺りの悲哀の物語は比較的知られていることかもしれませんが、著者はその背後にある尊徳のしたたかな計算を記録から読み解いていきます。桜町仕法の途中でサボタージュを遂げて成田山に参篭してみたり(わざわざ探させた上で呼び戻させるように仕向ける役者ぶり?も)、上司が気に食わないと辞表を片手に詰め寄ってみたり、幕府に登用されて勇んで仕事に打ち込んでみたが、そのうちお声が掛からなくなると、上司に愚痴をこぼしてみたりと、その姿は今時の困った社員にも見えてきてしまいます。また、意外なことに米相場や投機によって理財を行う事に長けており、それによって仕法の元手を増やすまでは良かったのですが、幕藩体制の悲しさか、資金不足を解消する為に、わざわざ他の仕法で蓄えた元手を投入しようとすると逆に阻止されるという、やるせない現実にも突き当たります。

そんなドンキホーテのような現実の中でも、自身の信念に基づいて粘り強く交渉を重ね、実績を上げていく尊徳の周りには徐々に協力者が集まっていく事を、著者は漏らさず記していきます。中には、当時の上司だったり、明らかに嫌がらせを行っていた人物も含まれていますが、尊徳の情熱と信念、そして少しずつではありますが成果を実らせる仕法の結果に惹かれて、彼の周りには多くの門人、支援者が集まる事になります。

大規模な新田開発に伴う高度成長期が過ぎ去った後に続いた、経済成長の停滞と、環境変化や開発の行き詰まりによる新田の荒廃。そのような成長の曲がり角に際して各地で用いられた、尊徳仕法の元となる、舫いや、講、そして無尽(この言葉、今や山梨しか通用しないでしょうが)といったマイクロファイナンスと呼ばれる相互扶助的な金融システム。今の日本には失われてしまった集落や同一地域を基盤とした相互扶助体制を、農村を基盤として永続的なシステムとして構築することに心血を注いだ二宮尊徳。その思想の原点は相互扶助の大前提となる一族の絆を守る事。彼が終生を賭して、そして小田原藩への出入りを差し止められても続けた仕事が、没落して継承者を失った二宮総本家の復興。

彼の生の声、生の想いを紐解き描いた本書。そこには、家族から一族へ、一族から地域へ、そして国へという、我々が忘れかけている儒教の徳目、その普遍的な想いが色濃く反映されているようです。

<おまけ>

本書に関係する書籍のページをご紹介

今月の読本「日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)人の営みが作り出した、もう一つの「自然」へ

今月の読本「日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)人の営みが作り出した、もう一つの「自然」へ

New!(2018.11.2) : 本書に書かれた内容の最新報告です。詳しくはこちら(長野県環境保全研究所研究報告要旨No14)をご覧ください。

本州最大と呼ばれる草原を有する霧ヶ峰。

空まで抜けていく様な気持ちの良い火山高原に広がる草原は、西の阿蘇と並んで多くの観光客の方を引き寄せています。

日本は森林の国と呼ばれて久しいですが、なぜこのような草原がそもそも存在するのでしょうか。そして、その植生や地質にはどんな意味合いがあるのでしょうか。

火入れや人力による刈取りによって植生を維持している霧ヶ峰。現在は景観維持の為に実施されていますが、それ以前の時代、遅くても鎌倉時代辺りから継続的に現在の景観が続いていたと考えられています。

富士見台からガボッチョを2013年4月、野焼の延焼で山火事となってしまった、車山肩の富士見台から望む景色。

なぜそこまでして維持する必要があるのでしょうか。そんな疑問点に立って霧ヶ峰の草原に立った後に読みたい一冊をご紹介します。

草地と日本人、信州の草原日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)です。

著者グループの筆頭である須賀氏は、共同執筆者の岡本氏と同じ長野県をベースに研究活動を進めている方で、本書が刊行された1年前(2011年)に、地元出版社のほおずき書籍から「信州の草原」という、本書のベースとなった書籍を上梓されています。

本書では上記の2名の方に、新たに兵庫県で里山の植生を研究されている丑丸氏を加えた3名で執筆されていますが、それぞれのメンバーが得意とする分野に分かれて分割執筆されています。その結果、本書は大きく2つのパートに内容が分かれています。一つ目は1,2章で記述される、長野県の草原をベースにした前著のテーマをより一般的に、かつ時代を追って記述する事で、草原植生における人の介在を指摘していく部分。二つ目は3章で述べられる、田圃の畔に着目した植生の生物多様性についての検証。お互いの内容は直接的には関係してこないため、2冊の本を1冊に纏めたような感じも受けますが、言わんとしている主題はどちらも共通で明快です。

すなわち、日本は旧来から草原と草地の広がる土地であり、その土地とそこに生える草地の植生は人の介在なくして存在せず、その存在こそが、日本人が自然と向き合ってきた姿そのものであるとの認識を表明する事です。

ここまで書くと、おやっと思われる方も多いかもしれません。何せモンスーンに恵まれた日本の国土は80%近くが森林であり、日本こそは世界有数の森林大国の筈ではないのか、と。

この概念をまず取り払うことから、本書の物語は始まります。著者達が研究のフィールドとしている霧ヶ峰、そして阿蘇。今や希少な大草原ですが、その土壌を調べると奇妙なことに気付きます。深く積み上げられる「黒ボク土」と呼ばれる、日本特有の黒々とした土。日本中で見られるごくありふれた土ですが、実は水田にはあまり適さず、土壌改良を要する農家にとっては厄介な土壌です。これらの土壌は全国の約20%を占めており、日本の土壌の中核を成していますが、その存在は偏在しており、多くは火山に付随するため、火山活動による影響によって生成されたものと従来は考えられてきました。しかしながら、著者たちの調査結果は異なっているようです。土壌の調査と、その地層やそこに含まれている植生の年代調査が実施できるようになった結果、驚くべき傾向が見受けられています。それは、土壌に含まれる植生が樹木ではなく、殆どが草木類であることと、その年代が約1万年まえから急激に増えてくる点です。そして、黒ボク土が偏在する地域には考古学的に縄文時代から人が居住していたと考えられる事です。

前述のように、モンスーン気候に恵まれた東アジアにおいて、開けた土地があれば数十年を経ずに樹木が繁茂する事が良く知られています。しかしながら、黒ボク土からは草木類ばかりが検出される。火山活動が原因であれば樹木が検出されてもよさそうなのに、そのような結果に繋がらないばかりか、火山とは関係ない場所でも黒ボク土は存在する。更には、火山活動と関連があれば、もっと古い時代の地層に存在しても構わない筈なのに、特定の年代以降で発生する。

これらを勘案した結果、著者達は大胆な想定を打ち立てます。すなわち「縄文人以降の日本人によってはじめられた焼畑、ないしは定期的な焼き入れによって、黒ボク土が生成された」と。

また、縄文びいきの信州人たちが、更なる大胆な縄文農耕論を引っ提げて、人文学から今度は科学にまで乗り込んでくるのかと罵られそうですが、もう少し著者達の話を聞いた方がよさそうです。その理由は、日本の歴史上、草原が必要不可欠かつ、欠かせない存在であった事。

既に歴史学の知見において、戦前までの日本の風景は、草木が広がる丸裸の山々の麓に水田が広がるという、現在の景色からは想像もできない姿であった事が明らかにされつつあります。その原因は、木造建築の膨大な需要による森林の枯渇と、それ以上に必要であった、燃料としての炭、薪と、材料としての萱、肥料としての草木(柴)を必要する農耕生活の姿。その結果、所謂里山と呼ばれる、農村に付随する山裾の殆どは年間を通して農民が草を刈り取るために裸地化し、新田開発の進んだ江戸時代の後半には、水争いと並んで、これらの草木を刈り取るための山裾(入会地)の権利争いが頻繁に発生することになります(補足:霧ヶ峰を始め、八ヶ岳西麓に多くの草原が残っている理由の一つとして、多くの山裾が未だに当時の権利関係を引き継ぐ「財産区」によって共有されているからです)。

そして、黒ボク土が出来る大きな理由、現在のような強力な土木機械が存在しない中で、自然更新してしまう森林を切り開くなり、維持する為にもっとも手っ取り早い方法、すなわち「火を入れる」という合理的な選択が、結果として黒ボク土を生み出し、草原を維持する事となったと考察していきます。

その結果として、戦後の大造林政策が始まるまでの長きに渡って、日本は草原と水田が広がる景色であったと見做していきます。そこには、人の手入れによって生成された環境である「半自然」状態でのみ生存できる植生があった事を見出していきます。そして、その片鱗は現在の田圃の畔にも見いだせる事を見つけ出していきます。

本書が語るもう一つのテーマ、それは人との共生によってのみ成し得る植生が、日本の生物多様性の一翼を担っている事を明らかにする事。ライチョウが氷河期の環境の名残でもある高山に点々と存在することと同じ視点で、人の手によって切り開かれた草原や田圃の畔で生きる植物たちもやはり、過去の環境からの生き残りの植生であることを明らかにしていきます。モンスーン気候の地では人が手を入れ続ける事によって維持される日射条件が良く開けた環境、しかも過度の開発ではなく「ほどほど」の利用でのみ共存できる植物たち。そんな危ういバランスの上に成り立っている植生に目を配る事で、人と自然の関わり合いを改めて見直そうと、著者達は提案していきます。

富士見台展望台からガボッチョ火入れの延焼による山火事から2か月後の同じ場所(2013年6月撮影)。

失火後、僅か2ヶ月ですが、既に新たな緑が芽吹き始め、火に強いのでしょうか、レンゲツツジは花を咲かせていました。これがモンスーン気候における草原の遷移力の強さ。

ヨーロッパを引き合いに出して、日本人は自然をありのままに受け入れるという考え方に対して、正面から異議を唱える「自然の遷移を利用しながら手を加えてきた日本人」という、新たなイメージを提案する本書。その内容は、現代を生きる我々が忘れてしまっている自然観、実は人手によって維持される自然環境という事に改めて目を向ける必要がある事を思い出させてくれる一冊です。

<おまけ>

本書の内容のうち、土壌学やいわゆる「縄文農耕論」に更にご興味がある方には、同社の近刊でもあるこちらの「日本の土」をお勧めします。私は結論への誘導が怖くて未読なのですが、八ヶ岳を前にして居住し、本書を読んでしまった以上、読まざるを得ないのかも…。

<おまけの2>

2013年4月に起きた、霧ヶ峰の野焼きの延焼による景観変化と、その後の植生の比較写真です

本書と関連するテーマの本を、ご紹介。