好評を以て迎えられた大河ドラマ「真田丸」の船出を祝して、最初の舞台へご案内(韮崎、新府城跡)

好評を以て迎えられた大河ドラマ「真田丸」の船出を祝して、最初の舞台へご案内(韮崎、新府城跡)

先週からスタートした、大河ドラマ「真田丸」。久々の本格時代劇を期待された方も、ここ最近の劇画的な作りの大河ドラマの新たな進歩に期待された方も、双方から好評を以て迎えられたようですね。

そして、物語の始まりの舞台となった新府城。

実は、実際の新府城を使用してロケーションが行われていた事をご存知でしょうか。

こちらに、韮崎市観光協会さんの紹介記事のリンクを掲載しておきますが、遥か400年以上前の事柄にも関わらず、まさにその現場でロケをするという力の入れよう。その想いを是非汲み取って頂きたく、何時もはスルーしている新府城に皆様をご案内させて頂きます(ご注意、私は城郭プロではありませんので、誤謬等は平にご容赦を。ご指摘は大歓迎です)。

WP_20160117_13_57_59_Pro七里岩ライン沿いの駐車場から眺める新府城(左)と解説の看板。

奥の方には南アルプスの前座、鳳凰三山を望みます。

WP_20160117_13_58_58_Pro道路の反対側には、山からせり出す形で作られた出構が見えています(手前と、奥の2か所)。

WP_20160117_15_15_40_Pro駐車場を少し下ると、入口の看板が出ています。

さて、入ってみましょう(要注意andお願い : 駐車場から入口まで、歩道が無いカーブの道路を歩くことになります、七里岩ラインは地元の皆様にとって主要な交通路であり、車のスピードもかなり出ていますので、くれぐれも車の動きには注意して歩いて下さい)。

新府城跡入口新府城跡の入口です。

WP_20160117_14_02_20_Pro2解説の看板です。

入口から直登する階段は、後日作られた山頂の神社へ登る階段です。

城郭ファンの皆様は、もう少し下にある、大手から入りましょう。

WP_20160117_14_07_38_Pro上りきった階段の上から、七里岩ラインを望みます。

結構急な階段ですので、健脚な方以外は、前述の大手から緩やかに上るルートか、階段に沿ってジグザグに登っていく女坂をご利用された方が良いと思います。

WP_20160117_14_08_56_Pro正面に神社が見えてきますが、こちらは後に作られたものです。

WP_20160117_14_21_11_Pro神社の裏に廻ると、小学校の校庭程の広い空間が広がります。

WP_20160117_14_22_36_ProWP_20160117_14_22_53_Pro

新府城本丸跡です。

韮崎市が設置したこちらの標識。築城者や落城日まで書いてあって、今回のドラマをご覧になった方であれば、ちょっと感傷に浸ってしまうかもしれませんね。

WP_20160117_14_13_33_Pro本丸の北西には勝頼と長篠の戦いで落命した十四武将の慰霊碑が建てられています。

WP_20160117_14_14_50_Pro勝頼を祀った石祠です。

神社(藤武神社と稲荷社)とは別に祀られてます。

WP_20160117_14_19_57_Proドラマでも使われた、麓に広がる桃畑を望む、新府城跡からの遠望。

正面には八ヶ岳と、七里岩を象徴する岩屑流れ(新府城が乗っている七里岩台地自体が、奥に聳える八ヶ岳が崩壊して流れ下った跡。一緒に崩れてきた岩が集まって出来た小山の群)の小山を見渡すことができます。

ドラマのシーンで、「この風景も見納め」と述べていた場所が、こちらですね。

WP_20160117_14_11_23_Pro新府城の解説板です。

WP_20160117_14_24_55_Pro解説板をもう一枚。

WP_20160117_14_11_50_Pro新府城の想定復元図です。

新府城略図1縄張略図です。

新府城略図2もう一枚ですが、こちらは城の北側です。

ここまでは名所としての新府城跡のご紹介。それでは、ここからはエセ城郭ファンが、城跡としての新府城をご案内します。

WP_20160117_14_53_01_Pro①県道を見下ろす帯曲輪から。足元には大手に入る遊歩道が見えています。

WP_20160117_15_13_27_Pro②帯曲輪(上)と遊歩道(下、砂利道)の合流点。曲輪といってもこの通り、武者走り程度の幅です(遊歩道を作る際に伐り落とされている可能性もあります)。

WP_20160117_14_54_59_Pro③南大手門へのアプローチ。

WP_20160117_14_55_51_Pro④上からのぞくと、このように土手が切られています。

WP_20160117_15_14_14_Pro⑤大手の足元を観ます。一段下にも曲輪のような地形が見えます。WP_20160117_15_00_43_Pro⑥ここが一番判りやすい場所でしょうか。

大手です。しっかり土手に道筋が切られています。

WP_20160117_14_57_41_Pro大手の中に入ってみると、更にその下にも曲輪が出来ています(その下が三日月堀らしいです)。

WP_20160117_14_58_45_Pro大手から釜無川沿いを望みます。

WP_20160117_15_12_04_Pro⑦東三の丸ですが、ここからでは地形がよく判りませんね。

WP_20160117_15_02_16_Pro⑧一段上の西三の丸です。

WP_20160117_15_04_00_Pro広いスペースが確保されています。

WP_20160117_15_02_50_Pro人工的に作られた土手の構造がよく判ります。

WP_20160117_15_05_48_Pro⑨少し登って、馬出の手前から眺めると、大手、三の丸の輪郭が判るかと思います。

WP_20160117_15_07_12_Pro⑩馬出です。中央を遊歩道が貫通しているため、下半分を。遠くに如何にも人工的に作られた土手が続いているのが判るかと思います。

WP_20160117_14_27_03_Pro⑪二の丸の入口です。

WP_20160117_14_28_02_Pro二の丸の内部です。こちらも広々としたスペースを有しています。

新府城を単なる山城だと思うと、意表を突かれる広さ。本格的な築城が行われていた証拠です。

WP_20160117_14_32_27_Pro⑫二の丸の裏手にある大きな窪地。城内には井戸が無く、一方でこの場所は岩盤に至るまで掘り込まれていたことから、集水施設であったと考えられています。

WP_20160117_14_34_56_Pro⑬二の丸の裏手は七里岩の険しい崖が迫ってきます。

WP_20160117_14_35_25_Pro乾門に下る道は残念ながら整備作業中で入る事が出来ません。

WP_20160117_14_36_11_Pro直線的な土手が灌木の中を抜けていきます。

WP_20160117_14_35_56_Pro複雑に切り込まれた堀状の溝がそこかしこに見受けられます。

WP_20160117_14_43_34_Pro⑭二の丸から下っていくと、遠くに水平の土塁がずっと続いてきます。横矢掛りの防塁と呼ばれる土塁です。

WP_20160117_14_44_58_Pro⑮二の丸を下りきって、穴山側に廻り込むと、土塁が伸びているのが判ります。西出構です。

WP_20160117_14_46_05_Pro西出構から乾門方面を望みます。

堀のような窪地が城を取り巻いているのが判るでしょうか。

WP_20160117_14_49_57_Pro⑯こちらが東出構。実際にはどのような目的で作られたか判っていないそうです。

WP_20160117_14_47_55_Pro西出構から本丸を俯瞰で。鎧を付けて、これだけの高さを寄せていくのは至難であることがよく判ります。

このまま七里岩ライン側に廻り込むと終点。フルに一周すると大体1時間ほど必要ですが、大手から遊歩道を本丸まで往復するだけならゆっくり歩いても30分程と、手軽に戦国城郭の跡を楽しむことができます。

比較的遺構がはっきり残っている箇所と、判りにくい個所が入り混じっていますので、もう少し丁寧な解説板が欲しい所です(特に整備途中の大手の部分は、ドラマ最終盤でキーとなる、丸出しの構造を端的に示す例ですので)。

城跡巡りには藪の木々が葉を落とす冬場が一番なのですが、ちょっと味気ないのも事実。

新府城跡の周囲はご覧のように春になれば桃源郷と呼ばれる桃の花で囲まれます。

真田丸を観て武田勝頼の最後と新府城にご興味を持たれた皆様、この後、山梨は舞台から遠ざかってしまいますが、春のシーズンになりましたら、復習がてらお越しになられては如何でしょうか。

 

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雪のない1月の八ヶ岳西麓(2016.1.16)

漸く寒さが少し強まってきた今年の冬。

それでも、山々の雪は前例のないほど少ない状態が続いています。

このページをご訪問の方の中にも雪の状況に気を揉んでらっしゃるようですので、好天となった土曜日に何時もの場所を覗いてきました。

雪の無い御射鹿池1真っ青な、冬の八ヶ岳らしい碧空に恵まれた、午後の奥蓼科、御射鹿池。

この時期であれば、麓からのアプローチルートの路肩に雪が残っているのが普通なのですが、全く見当たりません。

雪の無い御射鹿池2池の上流側に廻り込んでみると、堰堤の日影の部分に僅かに雪が残っているようですが、それ以外の場所には全く雪が見えません。

スノーシューで散策される方のために立てられている(正確には違いますよ…)湖畔の赤旗が、空しく風に揺れています。

雪の無い御射鹿池3湖面を窺うと、うっすらと凍っているのが判ります。

日影となる、反対側の湖畔には氷の上に雪が残っているようです。

雪の無い御射鹿池8湖畔から望む、凍った湖面が広がる御射鹿池。

雪の無い御射鹿池4午後3時を過ぎて、そろそろ西日が杖突峠の向こうに沈むころ。

御射鹿池からも日差しが遠ざかっていきます。
雪の無い御射鹿池5麓に流れ出す水路(御射鹿池は農業用ため池です)には飛沫が凍りついて、つららになっています。

雪の無い御射鹿池6湖畔からの全景。

空の蒼さが、凍らずにまだ残る水面に映っていきます。

雪の無い御射鹿池7氷が横断する湖面に映る、落葉松林。

夕暮れ前の最後の西日を受けた枝がはっきりと湖面に映り込みます。

雪の少ない夕暮れの八ヶ岳1麓に降りるともう夕暮れ。

この時期、八ヶ岳で一番雪が多い筈の西麓に廻っても、山頂部の僅かな場所にしか冠雪していません。

雪の少ない夕暮れの八ヶ岳2日没を迎えた八ヶ岳西麓から望む、赤岳。

雪が少ないせいで、むしろごつごつとした岩肌がはっきりと見て取れます。

P1060403西の山に日が落ちると、夕焼け空に。

冬の高い空には、ジェット機が北に向かって飛行機雲をたなびかせています。

この時間で八ヶ岳実践大学の気温は-2℃と、暖冬とはいえ確実に冷え込んできた厳寒期の八ヶ岳西麓。

明日の午後以降の天気は、約一か月ぶりの雪の予報。果たしてどうなるでしょうか。

 

今月の読本「日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会」(坂上康俊 吉川弘文館)摂関政治を支える地方の変容と受領

今月の読本「日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会」(坂上康俊 吉川弘文館)摂関政治を支える地方の変容と受領

中世の歴史に興味があると、どうしても遡りたくなるのが、武士の発祥とその下地となる社会構造が古代から中世に向かってどのように変化していったのかという点ではないでしょうか。

中世側からのアプローチでは数多くの書籍が登場しており、既にある議論に帰着しつつあるようですが、では古代側から見た場合に、その行く末はどのように見えてくるのでしょうか。そんな疑問に応えてくれる一冊が、この度、遅ればせながらも、漸く刊行に漕ぎ着けたようです。

摂関政治と地方社会吉川弘文館の歴史シリーズの中から「日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会」(坂上康俊)をご紹介します。

平安時代初期を扱った4巻から時を経る事2年、シリーズが途絶えてしまったのかと思う程に待たされた感のあった5巻目ですが、通史を判りやすく叙述することを目指した本シリーズにとって、日本史の中でも史料が最も乏しくなる時期に相当する9~10世紀を叙述するにあたって、相当の苦労をされたであろうことが行間からも伺えます。また、通読性を犠牲にしてでも引用文献への引用をこれでもかと括弧付で記述していく点には、中世史の側から見た場合、既に議論は済んでいるとの認識を肯定しつつも、それでも新たな見解を提示する余地のある、面白い時代であるとの著者の認識から、それら多彩な見解にも目を配って欲しいとの想いが伺えます。

本書は清和天皇の即位から後三条天皇の実質的な院政開始までの時代を扱いますが、表題にありますように、通史を描きながらも主に3つのテーマを掲げていきます。一つは中央政治としての摂関政治、二つ目には地方支配としての受領、三つ目には精神文化、そして海外との関わり合いに着目した浄土信仰。

これら三つのテーマは切り離されることなく、連動して動いていく事になります。そして、本書が通史たる所以は、これらの繋がり合いによって古代史の社会構造が中世へと向かっていく事を描き出す事。

藤原北家の伸張により朝廷における力関係が後の摂関家へ収斂していく様子は、そのまま地方支配における受領を中核とした負名体制への転換と軌を一にしていきます。その流れの中で、中央に流入する膨大な利潤が生み出した資産は、豪華な王朝文化を花開かせ、同時に交流が閉ざされたかに見えた北方アジア、中華圏との貿易関係は貿易商と公式な交流を補完する僧侶を通じてますます発展し、彼らのもたらした浄土信仰は受領たちからもたらされる豊富な資産の上に建立された豪華な仏像、寺院群として歴史に記録されることになります。

どれ一つ欠けても成り立たない中世への足取り。その中で著者はその足取りの前提として、これまで言われてきた議論に対して、改めて検討を加えていきます。

班田収受をなし崩し的に荘園公領制に転換したのは王家や摂関の意向ではなく、当初は摂関にしても班田による収入を期待していた事、それ故に新たな地方支配体制として貢納の完遂が望める受領というシステムを作りだしたことが最初に述べられます。出来るだけ前例主義に則りながらも実利を目指す、令の運用による改善。摂関等の為政者を追い詰めていった、彼らの収入の基盤となる班田、そして人と土地を結びつけた支配システム崩壊過程を受領の登場を軸に解説していきます。

ここでポイントとなるのが、前世代の奈良、平安時代前期の地方行政が所謂中央集権的に京から派遣された四等官達によって支配されていたという前提ではなく、多くの国において地方行政はそれ以前の国造に由来する地方豪族たちによって支えられていたという点。此処を見誤ると、受領の登場が支配体制の弛緩を引き締めるための中央集権制の強化に見えてきてしまいますが、著者は班田制度の崩壊による地方豪族たちの没落に着目していきます。

受領による国衙支配体制と並行して生じる班田に拠らない、負名と呼ばれる徴税可能人員による納税の請負と貢納の集約化。ここで、従来の中世地方社会を描写する際にトリガーとなっていた、負名の存在と発祥を、それ以前の国造に由来する地方豪族たちやその後に現れる富農と呼ばれる、農耕地集積者ではなく、単に班田という土地と対になった耕作者としてではなく、土地と切り離されて個別収納化された納税者の納税単位を表すに過ぎないと看破します。

地方豪族の末裔でもなく、所謂墾田永年私財法による私有地の集積でもない、農民たちを取り纏めて、後の武家の発祥となる中核とはなり得なかった、個別の徴税請負者である負名。そこには、地方の農民たちこそ武士の萌芽であったとする、旧来の見方を根底から覆す理論が展開されていきます(今や既定の理論ではありますが)。このアプローチに於いて、開発領主の土地に対する権利は極めて限定的であり、所謂土地私有が何処まで下っても大寺院や中央の権力者にしか許されない(のちの寄進型荘園)、封戸から続く奈良以来の律令制の建前を崩さずに運用でカバーしようという、前例主義に基づく当時の摂関政治が彼らに有利に働いた事が判ります。

強力な国内支配権を委ねられた受領。その支配権を確固たるものにするためには実効力のある支配体制を築ける武力と徴税史を確保する事が求められます。そこに生じたのが、都で受領になる事を願う中小の貴族たち。受領郎党と呼ばれた彼らこそが、その後土着して負名達を束ね、ある時には反乱への対処として、ある時には文士とし、後の在庁官人や地方武士団に繋がっていったことを暗示させます(実は、この部分について本書では明確に記載されていません。本書で一番惜しいと思う点)。更には、彼らの血縁者、妻たちが王朝国家に彩を加え、時には実質的な権力を掌握するもう一方の役割「イエのなかの女性たち」を兼ねていた事も漏れなく述べていきます。

律令制崩壊の過程で発生した、摂関と受領。方や平安期までのイエの形式としては普通であった、母系の血脈によって皇位を制御しつつ朝議における発言権を固める摂関(摂政と関白の朝議に関する扱いの違い、官位の逆転時における沙汰、太政大臣は何処までも名誉職であった点など、後もう一歩知りたかった内容がふんだんに述べられています)。方や地方行政を集権的に掌握することで徴税を確保していく受領。受領の横領に対して権門や摂関に近づく事で緩和を図ろうとする地方と、両者の利潤の上に成り立つ浄土信仰。ある意味、矛盾の上に矛盾を重ねる様な循環を見せる構図ですが、根本にはやはり地方行政を受領に委ねる事で実質的に国政を放棄した、イエの集合体として縮小化していく当時の中央政権(=王朝国家)の在り方が問われていく事になるかと思います。

そのような中央政権の在り方を検証する事例として、本書では平将門、藤原純友の乱を以て国内事情を、刀伊の乱入事件と大宰府における大陸との交渉過程を以て海外事情に対する対応を検証していきます。いずれも、本来であれば中央政権が主体的に活動すべき事柄にも関わらず、反乱の鎮圧であれば出先である各受領が有する権能において勇士を募り、押領使を任命して任せるが、褒賞に当たる任官処遇は中央が行う。大宰府に対しても、舶来品の調達には積極的に乗り出す(横流しも)一方、外交文章のやり取りは行わず、前述のように僧侶の渡来に任せたり、大宰府から返牒を出させるなど、地方分権と言えば聞こえがいいですが、どちらかと言えば消極的態度の方がより強く感じられる政策と言えるかと思います。

本書でも述べられるように、これらを穏便な外交政策として語り、中央政府が貢納の不足や荘園の増加に対応して積極的に自らの政体を柔軟に変えていった結果であると述べる事も可能かと思います。しかしながら、本書を読んでいくと、後の清盛の外交政策や知行国主に帰着していく、実を伴わない前例主義を前面にして、その上で利潤や貢納だけを追求する、極めてエコノミックな政体に収斂していくようにも感じられます。更には、その体制を背景に伸張する浄土信仰が次の時代により大衆化を目指す理由が見え隠れしているようです(ここで、著者が京都御所の年中行事御障子成立の由来や皇朝十二銭の途絶に言及したり、空也と勧学会を持ち出して中小貴族の刹那主義を語らせる点は出色です)。

本書でも述べられているように、既に草深い田舎の自営農民から中世が生まれたという歴史的叙述は過去のものとなりつつあるかと思います。一方で、王朝国家体制によって生じた矛盾に向き合った、地方へ下向した受領、その属僚たちの末裔が地方行政の混乱を掌握する為に乱発された賞典を得て、自らのステータスを引き上げ、地盤となる拠点を持つことで、王朝国家に寄生しながら経済的にも実力を備えていったと考えると、やはり王朝国家が自らの意思を以て体制を柔軟に作り変えていったという議論にも疑問を持たざるを得ない事も事実。

中世史に入ると文献資料が揃い始めるため、勢い文献重視で組み立てていく事でこのような「定説」が導き出されるようですが、本書の前半に書かれているように、平安時代前半から中盤までの考古学成果は驚くほど少なく、文献も空白期に当たるため、どうしても検証が難しくなるようです。それ故に、古代史が得意とする、正に考古学的な物証から新たな知見が得られる可能性が高いのではないかと考えるところです。

古代史からアプローチする中世への架け橋となる時代を扱った一冊。まだまだ分からない事が多々ありますが、それでも貴重な現在の歴史研究の水準で時代史を俯瞰で見る事が出来る本が登場したことを素直に喜びつつ、この空白を打破するような平安前期の考古学的なアプローチが(マイナーの極みでもありますが)今後進んでいく事に強く期待したいと思った次第です。

<おまけ>

摂関政治と地方社会と類書たち本ページでご紹介しています、同じようなテーマを扱った本のご紹介。

インプレッサのTV-CMって清里なんですか?(答え:野辺山の海ノ口です)

インプレッサのTV-CMって清里なんですか?(答え:野辺山の海ノ口です)

八ヶ岳山麓の写真(も)扱っている本サイト。

そんな関連かもしれませんが、最近「インプレッサのCM撮影場所」を探しに本サイトに訪れている方がいらっしゃるようです。

山下達郎は大好きなのですが、今更の高気圧ガールにちょっと能天気とも思えるキャッチコピーを聴くたびにsubaruの広報戦略も変わったなぁ等と、しみじみとしながらサンソンでCM聴いている訳ですが、TV版の方はこの休みの間に拝見して、ああ、あそこだなと、大体で割り出してみました。

2一番印象的なこちらの映像、もちろんご存知の方は多数いらっしゃるかと思います。橋しかないと揶揄された旧清里高原有料道路の唯一無二の名所、八ヶ岳高原大橋ですね。

午後の日差しと雪を戴く八ヶ岳振り返るとこんな感じで八ヶ岳のパノラマを望むことができます。

PC155868c清里から下ってくるカーブする橋の先には、南アルプスの山並みを正面に臨む事も出来ます。

眺めの良い事で知られるこちらの橋の映像だけを観てしまうと、CM自体も清里で撮影されているかと思われますが…。

1まずはこちらの写真、綺麗なヘアピンカーブから立ち上がって来る上り坂に、溢れる木漏れ日。清里界隈ではちょっと観られない風景です。更に街路の脇に立つ、連続して並ぶ反射板のポールとその外に広がる整備された芝生は、ちょっと一般の道とは思えません。

5後半のシーンも同じような道路が映っています。

思い当たる場所はと言いますと

image_sengatakiこちらの、①で示します、海ノ口別荘地へのアプローチ、千ヶ滝のヘアピンカーブです(地理院地図を使用)。海ノ口別荘地の内部もロッジの前まで同じようなシチュエーションの道路が続きますので、カーブの部分以外はそちらで撮影されている可能性もあります。

別荘orロッジに行かれる方以外はめったに通る事のない道、でも国道の市場坂をショートカットするルートをご存知の方であれば、ああ、あそこねと納得されるのではないでしょうか。

そして、この近くでドッグランを自由にできる場所と言えば、消去法で決まってしまいます。

4他のサイトでも紹介されているように②で示しています、八ヶ岳犬の牧場が正解かと思います(注記:GWになって現地にも看板が出ましたが、アプローチ道路が通行困難となり、昨年末9月末に閉鎖されました。施設は野辺山駅前に移転しました)

ポイントとなるのはこちら

3後ろに映っている山、一見すると男山にも見えるのですが、実際は周囲の山並みとの配置を考えると、川上村と南相木村の境界に聳える天狗山(角度的には手前の男山では?と指摘を頂きました)である事が判ります。

7公式サイトでも紹介されているこちらの動画に映っている山と、牧場内の2本の灌木、たぶん間違いないでしょう。

P1050595

沸き立つ雲と高原野菜の畑

秋色の野辺山22犬の牧場は来園者以外入場できませんが、周囲を散策すれば、この通り気持ちの良い景色に包まれる野辺山、海ノ口界隈。

もし、TV-CMに興味を持たれたら、次のシーズンには清里から一歩足を延ばして、野辺山にも来てみませんか。

image_kiyosato_to_uminokuchi清里方面からのルートマップ。

国道141号線を佐久方面に進んで、板橋の集落の先にある「海ノ口別荘地」の案内看板に従って折り返すか、野辺山駅手前で八ヶ岳側に折れて(滝沢牧場の看板が目印ですが、滝沢牧場へ向かわず、一番左の道に入りましょう)別荘地の中を抜けていくルートの2パターンが選べます。海ノ口牧場と書かれた部分が、現在の犬の牧場です。

秋色の海ノ口別荘地1

南牧村海ノ口

 

キーボードギミックと言えば(往年の迷機、バタフライPCことThinkPad701c)

キーボードギミックと言えば(往年の迷機、バタフライPCことThinkPad701c)

タブレットの流行ですっかり脇役に追いやられた感の強いキーボード。

でも、文字入力やゲーム用としてキータッチに拘った高級外付けキーボードが良く売れたり、Bluetoothの定着によってタブレットとキーボードの連携運用も当たり前になってきました。

そんな中で、昨年末に登場が予告されたキングジムのPortabook XMC10。

 

 

価格帯も用途も全く違いますが、コンセプト的には、あれのテイクオーバーだねとすぐ判ってしまうのがキャリアの長さゆえの悲しさ。そんな訳で、年末に自宅の倉庫を漁って出て来た一台をご紹介。

tp701c-1電源は入るのですが、残念ながらシステムエラーで立ち上げる事はもう叶わなくなってしまった、往年のThinkPadの中でも異端な一台、ThinkPad701cです。お分かりのように、キーボードが大胆にも本体から大きくはみ出しています。

当時のThinkPad、ライオスのThinkPad220があったり、大和開発モデルの530やChipCardやウルトラマンPCと呼ばれたPC110があったりと、バリエーションの大発散状態(または進化の大発展期)だった訳ですが、こちらは米国本社企画製品群のトップレンジに付される、7xx系列のプレミアムモデル。

発売当時は75万円という信じられないような価格(当時、ThinkPad7シリーズでカラーLCDモデルの中には100万円超えるモデルもありましたし、Macも似たようなものでしたから…はぁ)、しかしながら後述の理由で、T-Zone名物の投げ売りモデルに成り下がった購入時は20万円弱で買ったような記憶があります。年始の売り出しで購入して、大急ぎでWordPerfectとLotus1-2-3だけをインストールして、ひたすら学位論文を書くためだけに「使い捨てた」一台でした(あのときのWindows版のWordPerfectはバグだらけだった)。

tp701c-3蓋を閉めた状態。

サイズはちょうどB5サイズ位になりますが、厚さはけっこうあります。

当時はThinkPad購入者にオリジナルのネームプレート(個人名を入れてくれます)をプレゼントするサービスがあり、こちらも手前に液晶の縁に取り付けてありますが、そんなプレートが付けられるくらい、液晶側の蓋の厚さがありますね。今のモデルと見比べるとかなり分厚く思われますが、それにも訳があります。

スペックは80486DX75MHzという、今となっては気の遠くなるような貧弱なスペック。液晶はTFT-VGA(640×480)でしたが、カラー液晶自体がまだ貴重だった当時としてはかなりの豪華スペックです。ちなみにシールが貼られているように、末期にはこの個体にOS/2とブートマネージャーを突っ込んでOS/2 (include Windows3.1) ,Windows95のデュアルブートにして使っていました。

tp701c-4キーボードのアップ。

本体の側面からキーボードが飛び出しているのが判るでしょうか(黄色い補助線の外側)。

それ以外は、当時のミドルモデル、一回り大きなセミA4サイズのThinkPad600とほぼ同じキーボードレイアウト(7xxシリーズはA4ファイルサイズと呼ばれるサイズ感です)と、キーの打感を持っています。

ほぼA4サイズの名機ThinkPad600のキーボードサイズと機能を、一回り小さいThinkPad530(時代は逆ですが)とおなじフットプリントで実現する…これがThinkPad701cのコンセプトであり、ある種の限界の原因でもあります。

tp701c-2この本体からはみ出したキーボードを収容するギミックがThinkPad701cの真骨頂。

バタフライPCと呼ばれた、蝶の羽をイメージした特異な機構を本体に仕込んであります。機構を動かすための軸となるのがこちらの太い液晶ヒンジに彫り込まれたスプリット。メカにご興味のある方なら、あぁ、と頷かれるかもしれませんね。螺旋スリットに合わせて直動軸を動かすギミックを作り出すキーとなる部分です。

このごついスプリットの中に液晶へ向かう配線がきっちりと収められている事もあって、後のThinkPad570が苦しんだ、液晶配線切れが多発するようなトラブルは皆無だったようです(ThinkPadの液晶ヒンジがアルミ製になったのはThinkPadが2桁Noモデルになった後)。

tp701c-6ちょっと汚くて申し訳ございませんが、このように液晶の蓋を閉めていくと、キーボードが斜めに分割して、右側のキーボードが上にスライドしながら、左側に寄っていきます。左側のキーボードは本体の前縁をそのまま右にスライドしていきます。

tp701c-5キーボード部をアップで。

スライドしたキーボードの右側はそのまま本体の奥側にスライドした状態で格納されます。液晶側が平面で、キーボード自体が最初から沈ませて配置されている今時のノートPCと異なり、液晶蓋側の側面がカバーとなって、キーボードを保護する形になっています。

キーボードのストロークを減らすとことなく、キーピッチを詰めることなくフルサイズのキーボードを搭載することに成功したThinkPad701cですが、一方で、キーボードを本体内に格納する必要があった事もあり、本体の厚みが増してしまうという弱点も抱え込むことになります。

そして、もう一つの弱点、ノートPCを使っている方なら誰しも悩むパームレストの存在。単に手の甲を置くという機能性の欠片のない部分にも拘わらず、歴代のThinkPadでは機能性の観点や熱の問題、更には塗装剥げ(ないしはコーティング剥がれ)で常に話題となる重要な単なる手置き台。このモデルでは、その特異な機構ゆえにパームレストが全くないという大きな問題が生じてしまいます。

キーボードを本体の下に収納する必要があるが、手前側にボディを伸ばす訳にはいかず、結局キーボードを収納するスペースを本体奥側に確保したわけですが、そのために本体手前側スペースが窮屈になってしまい、ボディの厚さも加えて、常に手首を浮かせたままでキーを叩くという、ユーザーにとって苦痛を強いる構造となったのでした(私はOS/2のノベルティ品のパームレストを愛用してました)。

革命的な機構によって実現したフルサイズキーボードの搭載とサイズの縮小化。一方で、優秀なキーボードを搭載する為に犠牲となった本体の厚さとパームレストの存在。その二つが同時に欠ける事はキーボード入力を常に重視してきた欧米のビジネスマンにとって耐えられないトレードオフであったようで、法人を主力とした本来の販路での販売は低迷。サイズの小ささに重きを置かない顧客層がターゲットだった欧米では早々と消え去り、ギミックとサイズの小ささを重視する特異な市場である日本で販売が継続されていましたが、最後は大量な法人向け在庫を処分する為に、前述のように特定販売店でコンシューマー向けに投げ売り状態となってしまったようです。

トップレンジでも、701という異端モデルを表す01のナンバリングの呪縛から逃れられなかったこのモデル。キーボードを本体からはみ出させるギミックは、その後もThinkPad S30でトライされることになりますが、最後まで地位を得ることができませんでした。今とは違って、各社設計もまちまちでさまざまな展開を見せていた当時のノートPCたち。中でも、当時のThinkPadたちの小型化コンセプトより、技術的には同水準でも、その後に出て来た、国際的にも人気のあったDECのDigital HiNote ultraのコンセプト(薄い本体、表示エリアを確保する為のやや大きめの本体サイズ、パームレスト装備の広いキーボード、センターに於かれたトラックボール)が、紆余曲折を経ながら辿り着いた現在のノートPCの基本コンセプトを完全に 整合している点と比較すると(トラックボールはパッドへ)、ギミックに訴えたそのアプローチの違いは際立ちます。

今回登場したPortabook。小さなボディサイズのトレードオフとしての小さな液晶サイズ、解像度と、分厚い本体と浮き上がったキーボード。パームレストのエリアを少しでも確保するための光学式ポインター。これらのコンセプトは全く以てThinkPad701cと同じもの。そのコンセプトからは明らかにThnkPad701や往年のThinkPadたちが放った、拘りのガジェットといったオーラと同じものを感じさせますが、一方でThinkPadが持ち合わせていた、道具としての所有欲が湧くような品質感を全く感じない点(これをキングジムに求めるのは酷かもしれません)は如何にも残念でもあります。

ギミック的にはPortabookは凄く好きなのですが、商品としての完成度と使用感といった意味ではこちらのSurface bookが2016年的には本流なのかもしれません。

とりあえず、実機が触れるようになったら、触ってみて試してみたいと思います。