今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

現在においても日本語以外でのコミュニケーションを取る事は大変な事。

それでも、中学高校と大抵の皆様は6年間の英語の学習を経られる訳ですし、外来語が溢れている今日であれば、アルファベットが読めないなんてことはないと思います。

それでは、時代を200年ほど遡って江戸時代に戻ったら…どうでしょうか。

そんな著者自らの疑問に対しての回答と、そのベースとなる研究成果について、当該分野研究の第一人者が語る一冊が上梓されました。

江戸時代の通訳官今月の読本、「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)です。

本書は全体を4章に分けて語っていきますが、そのうち中間の2,3章については、既に著者の手による別の書籍で語られた内容と多くが重複しているようです。そのためでしょうか、当該章においては、まるで端折るような筆遣いで話を進めていく点は、本書を機会に阿蘭陀通詞の事を知りたいと思って手に取られた方にはやや残念な感もあります。それでも、描かれる内容は通詞の家柄であったり、職務、家職の継承といった通詞としての営みといった余り知られていない事柄であったり、カピタンとの僅かな会話でも手紙を用いて(殆ど筆談)やり取りをしているのですが、その内容が複雑な貿易処理や政治的な会話かと思いきや、ほんのささやかな事でも手紙がやり取りさせていた(しかもその書きつけが残っていた)点には驚かされるかと思います。

興味深い通詞という役職や長崎特有の貿易に関わる事情、実務の実態。江戸における通詞たちの職務や、本書以外では殆ど語られないであろう、カピタンの代参で江戸に上った際の段取り全容。さらには微笑ましく、時に緊迫感もある阿蘭陀人とのやり取りを読んでいるだけでもかなり楽しめるのですが、本書に於ける著者の狙いがそこではない事は明白です。著者が本書で述べたいと思っている事、それは冒頭の1章と末節の4章に集約されています。

その成果と業績に割には余りにも扱われる事が少ない、江戸時代の阿蘭陀通詞に対する再評価を促す事。そして、彼らがどのようにして触れる事すら難しかったオランダ語を習得していったかを探り出していく事。

多くの教科書や歴史書では、解体新書とそれを著した杉田玄白をはじめ蘭方医たちが江戸時代の蘭学の開花を促した、さもなければ青木昆陽が江戸の蘭学の揺籃を担ったと描かれていますが、その背後には当時の阿蘭陀通詞たちが陰となって活躍をしていた事が本書を読んでいくと明確になっていきます。更に遡って、新井白石がシドッチの尋問を行った際にも、白石自身は会話を続けていくうちに、通詞には頼らず、ある程度かの地の言葉を解したと自著で述べているようですが(自信家の白石らしい点でもあります)、実際には大通詞の解釈に多くの部分で拠っていた、その結果を著述していたに過ぎないと著者は看破していきます。

そして、幕末になってペリーが浦賀に初めて来訪した際に、阿蘭陀通詞であった堀辰之助が艦隊に向かって「I can speak Dutch!」と呼びかけた事でも知られるように、阿蘭陀通詞と言いながらも、既にオランダ人から英語の基礎的な会話すら会得しており、蝦夷地や関東周辺に出没していた外国船の応接の度に、長崎、そして江戸から度々にオランダ語のみならず、英語やロシア語の通訳として、更には重要な外交官として派遣されていた事が判ります。英語学習の先駆者的に謂われる福沢諭吉にしても、その初歩段階は阿蘭陀通詞の元に通って教え請うのが実情であった事からも判るように、英語学習についても、その先駆は阿蘭陀通詞たちであった事がはっきりと判ってきます。

江戸中期から幕末にかけて江戸、そして大阪で花開く蘭学。著者はそのような歴史著述に対して異を唱え、江戸時代の初期、まだポルトガルとの交易が続いていた頃から、平戸、そして長崎で活躍した通詞たちが営々と培ってきた家職制に基づいた蘭学の学習体系がその基礎にある事を指摘していきます。更には、本書を読んでいくと、入門から学問体系としてのオランダ語学を体系化していったのも彼ら阿蘭陀通詞だったことが判ります。

本書の冒頭から全体の約40%のページ(本文348頁に対して140頁)を注ぎ込ん展開していく、阿蘭陀通詞が如何にしてオランダ語を習得していったのか、その文献資料、実際に利用したと思われる書籍を追跡する一連の探究が本書の白眉。熱っぽく語る、導入で用いられた入門書と思われる「A-B BOEK」原著に辿り着くまでのいきさつと、そこで用いられたであろうオランダ語学習のシラバス。通詞たちが自らの学習、習得のために私的に纏めていった著作、言語学的知見と、その後に現れてくる蘭学者たちの著作との記述内容の高い一致性。

まるで、蘭学者たちの言語学的な研究成果の殆どが、阿蘭陀通詞たちの成果を援用するに過ぎないと言い出しかねない勢いで検証の筆致を進め、最後にはこれ以上、読者に忍耐を求めるのは忍びないと述べて、省略という名で一方的に議論を打ち切る。

他の箇所にも散見される、読者を置き去りにするかのような筆致には、一般向け類書の少ないこの分野第一人者の著作として、正直残念な点でもあるのですが、それだけ著者の阿蘭陀通詞への想いが現れているとも考えられるかもしれません。

4章で語られる、著名な歴代通詞の業績を纏めた「二十三名の通詞たち」。その筆致には、著者の通詞たちへの深い畏敬の念と、当時の為政者へのわだかまりすら感じさせるやるせない想い、その業績を何とかして称揚したいと願う、強い想いが滲み出ているかのようです。

海外との限られた窓口であった長崎、そして江戸の長崎屋を舞台に繰り広げられた貿易と外交という舞台の最前線で活躍を続けた阿蘭陀通詞たちの歩みと、その背景を俯瞰する本書を読んでいくと、他者、そして違う価値観、文化を持つ人々とのコミュニケーションにとって何が大事で、どのような積み重ねの上に実現していったのかという事を改めて思い返させる、現代にも通じるテーマが見えて来るようです。

江戸時代の通訳官と、それでも江戸は鎖国だったのか本書を通じて、通詞の学習や業績ではなく、2,3章で述べられる、通詞とカピタン達との異文化コミュニケーションやオランダ貿易自体にご興味を持たれた方は、同じ著者のこちらの本「それでも江戸は鎖国だったのか」(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)がお勧めです。江戸時代の蘭僻、西洋趣味の一端を味わいたい方にも良い本だと思います。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。

春めいた午後には雪景色残る奥蓼科、御射鹿池へ(2016.3.13)

寒々とした曇り空の土曜日から、予報がちょっと外れて暖かな日差しがこぼれる、小春日和となった日曜日。読書三昧を決め込んでいた予定をちょっと変更して、お散歩に出掛けます。

春先の八ヶ岳全景まだ冬の気配が残る圃場から眺める八ヶ岳連峰の山々。

先週以来降り続いた雪で真っ白になりました。冬の始まりのころは雪が無くて驚かされたものですが、ここに来て何時もの冬の八ヶ岳の姿を見せています。

春先の蓼科山蓼科山も北横岳も真っ白に雪化粧しています。

霞んだ空の色が、ちょっと春を思わせる午後の昼下がり。

御射鹿池の樹氷9ならばと、何時もの奥蓼科、御射鹿池まで上がってみました。

霞んだ青空の下、雪化粧した木々が一面に広がります。

御射鹿池の樹氷5

湖面の氷はすっかり解けてしまいましたが、木々は真っ白にお化粧をしています。

御射鹿池の樹氷10

何時もは数人は必ず居るであろう休日の御射鹿池の湖畔。今日は誰もいません。

御射鹿池の樹氷7ひんやりとした風が吹き抜けていく湖面はゆらめき、鏡のような湖面はちょっとお預け。

御射鹿池の樹氷8

さざ波立つ湖面を何時ものカモがゆっくりと進んでいきます。

御射鹿池の樹氷6午後の日差しを受けて影を延ばす、雪化粧した湖畔の木々。

御射鹿池の樹氷1

湖面に映る、雪化粧した木々。

御射鹿池の樹氷2

 

御射鹿池の樹氷4

 

御射鹿池の樹氷3

時折、木々に降り積もった雪が風に乗って舞い込んできます。

御射鹿池の樹氷11

静かな御射鹿池で、暫し散策。春を目前に迎えてちょっと暖かな午後の日差しの中で巡り合った、冬の名残を収めて。

春先の南アルプス

薄ぼんやりとした、春めいた空の向こうに沈む南アルプスの山並み。

今夜から明日にかけて、断続的に雪の予報が出ていますが、そろそろ名残雪となるのでしょうか。

雪原と樹氷の野辺山にて(2016.3.12)

再び雪が降った週末。

上着が要らないほど暖かかった先週末と打って変わって、冬らしい寒さが戻ってきました。

雪色の南アルプス1遠くに臨む南アルプスが久々に真っ白になった金曜日の朝。

木曜日の午後辺りから、八ヶ岳南麓はずっと雪雲に覆われた天気が続いています。

雪色の南アルプス2麓に広がる白州の集落と圃場も再び白く雪化粧。

雪雲の向こうに、うっすらと雪化粧をした甲斐駒が見え隠れしてます(小淵沢町、城山公園)。

樹氷と雪原の野辺山3土曜日を迎えても山々は雪雲に覆われたまま。

東麓側はしっかりと降雪だったと聞いて、野辺山方面に足を延ばします。

海ノ口別荘地のエントランスに伸びる落葉松林も真っ白に雪化粧していました。

樹氷と雪原の野辺山6ぱらぱらと雪が舞う午後、周囲の森は樹氷に覆われます。

樹氷と雪原の野辺山5

樹氷と雪原の野辺山4風もなく、しーんと静まり返る海ノ口牧場にて。

うっすらと雪化粧する木々を愛でながら。

樹氷と雪原の野辺山8海ノ口から野辺山側に戻ってくると、少し雲が切れてきて、飯盛山を始め野辺山の西に延びる秩父山塊の山並みが見えてきました。

樹氷と雪原の野辺山7八ヶ岳の西麓側は殆ど降雪がありませんが、東麓側はここ数日続けての降雪で山並みも真っ白に雪化粧しています。

樹氷と雪原の野辺山10僅かに切れた雲間から、男山が姿を見せてくれました。

樹氷と雪原の野辺山9八ヶ岳側の山裾、雪原の向こうに雪化粧した落葉松の列が伸びていきます。

樹氷と雪原の野辺山2八ヶ岳は姿を見せてくれませんでしたが、落葉松林が伸びる雪原に一瞬、日差しが戻ってきました。

樹氷と雪原の野辺山1落葉松の樹氷に僅かな日差しが射していきます。

樹氷と雪原の野辺山11平沢峠から八ヶ岳方向を望みます。

眼前に広がる野辺山の高原地帯は一面に白く雪に覆われています。

樹氷と雪原の野辺山12なかなか雲が切れてくれず、時折雪が舞う生憎の天気。その天気が、広がる雪原と樹氷を楽しむには丁度いい寒さを保ってくれているようです。

樹氷と雪原の野辺山13

こんなシーンを楽しめるのも、冬ならでは。道路には殆ど雪が残っていない点が如何にも3月らしい、ちょっと名残惜しさもある雪原と樹氷の眺めを堪能して。

 

 

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

本著が上梓されてほぼ一月後の2月18日、私が本書を読んでいる最中に、著者である梅溪昇先生(大阪大学名誉教授、近代史)が逝去されました。

享年95歳、本書が生前に刊行された最後の一冊となってしまいましたが、この一冊が94歳の時に書かれた事にまずは驚嘆せざるを得ません。無駄のない美しい筆致、積み重ねられた研究の成果に基づいて明白に述べられる洪庵の足取り、それでも判らない点について、力たらずだと述べられた上で最後まで新出の史料を期待しつつ筆を進め、検討を加えていく飽くなき探求心。

著者がその研究生活で最も心血を注いだテーマの集大成が、最後にこのような形で多くの方が手に取れる本として刊行して頂けた事に深く感謝する次第です。刊行を待たずに執筆者の方が鬼籍に入られる事も稀ではない、永遠に続くかの如く続く本シリーズに、貴重な一冊がまた加えられたようです。

人物叢書_緒方洪庵

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)のご紹介です。

幕末、明治維新期の歴史にご興味のある方ならどなたでもご存知かとは思いますが、多くの場合は福沢諭吉とセットで述べられたり、緒方貞子さんの祖先として紹介される例が多いように思われますが、その際にどのような業績を残したのかが述べられる事は少ないようです。そして、今も大阪の街に残る適塾の遺構を何故大阪大学が管理しているのか、不思議に思われたことは無いでしょうか。

本書に述べられるように、洪庵没後の適塾が発展解消して成立したのが現在の大阪大学医学部の母体であり、本書の著者、梅溪昇先生こそが、その適塾の保存を推進し、現在の大阪大学適塾記念センター発足の立役者となった、明治維新期の著名な研究者であり、緒方洪庵研究の第一人者であられます。

大阪の高等教育、否、近代日本の入口における最大の高等教育機関の主宰であり、幕末大阪の医師番付で唯一の蘭方医かつ、最高位に位置付けられ、病苦を押して就任した幕府奥医師、西洋医学所頭取として在職中に江戸に没した、幕末最高の医師にして蘭学者。

巻末に掲載された600人以上にも及ぶ門下生と、語られる事は少ないですが、コレラの治療に奔走し、大阪、そして西日本全般に広がった種痘所の先駆を開き、後の公設種痘所に繋がる道筋を付けた、大阪の街を守った町医者としての側面。

あまり成果を顧みられることが少ない(東日本では特に)洪庵の偉大な足跡でですが、彼が備中の足守というかなり辺鄙な土地に生まれ、主に大阪で活躍していた事が影響しているのでしょうか。しかしながら、本書を読んでいくと、当時の中国地方には医師の一大人脈網が張り巡らされていた事が判ります。医師免許も、国家機関による専門教育機関もなかった当時、学閥と人脈作りこそが医師にとって最も重要だったことは、洪庵が大阪で中天遊に入門し、その紹介で江戸に出て、坪井信道に師事し、その師である宇田川玄真の系譜に繋がった事で、望まざるとも、最後の職となった奥医師、西洋医学所頭取への道に進む事になります。本書では、当時の人脈主義ともいえる医師同志の繋がりを紐解く事で、洪庵の人脈(息子を修行として加賀、大聖寺に送り出すも、其処を脱走した息子たちが、越前、大野の門下に飛び込むというおまけ付き)から、広く西日本に広がった彼の業績を俯瞰していきます。

広がる医師のネットワークを通じて流れ込んでくる情報と、それを頼って入門してくる門弟たちが更に各地に移っていく事で、彼の大きな業績である種痘の普及も、彼らのネットワークを通じて広がっていく事になります。当時としては最大であったと思われる600余人を数える門弟たち、その教育方法も独特のものがあったようです。先駆的な塾頭を筆頭に習熟度別の等級制を採る一方、飲酒喫煙をあまり咎めず、医学に限らず塾生同士が自由闊達に学ぼうとする雰囲気を良しとした、商都、大阪らしい気風。町医師としての収入を投じ続けなければならないほど経費の面では常に苦しく、原書は乏しく、独特の輪読法を用いたその教育システムは現在の水準からすると首を傾げる点も多々あります。しかしながら、大きな負担も顧みず、闊達な若者達を我が子のように可愛がり、受け入れていった洪庵の家族、特に妻である八重の苦労と、時に逸脱が過ぎて破門もされながらも、長くその恩に報いつづけた門弟たちの物語からは、豊かな人間関係が其処にあった事を感じさせます(八重の墓を最初に詣でた際の諭吉のエピソードには、驚かされると同時に、その師弟愛の深さを感じさせます)。

更に、町医者として、蘭医の研究者としての矜持には強い感銘を受けます。海外への扉が開かれた直後に流れ込んできたコレラ。その治療、感染対策が急務となった際に、打算や迷信ではなく、急ぎ乏しい書籍の中の情報を読み解き、実際の治験を加えた治療を進める実践的な医療態度。そして、洪庵が長年を掛けて著述を成した「扶氏経験遺訓」。後に遣欧使節によってオランダ・ライデン大学に収められた、当時の日本が到達した西洋医学受容の成果を示す訳文に添えられた、自抜の編「扶氏医戒之略」。

本書では原文(写真)と読み下し文の全文を掲載して、その意図する所を述べていますが、著者の解説はあくまでもその著述至った経緯を述べるに過ぎず、その文意を述べる事はありません。敢えて解説せずとも、その丁寧な十二条に渡る説を読めば誰しも納得されるはず。そこに書かれた意図は医師ならずとも、あらゆる「先生」と形容される方々が持つことを求められるであろう矜持が記されています。

私が特に感銘を受けた、第九条を掲示させて頂きます

「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依托し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも白し、最辱の懺悔をも状せざること能わざる所なり。常に篤実温厚を旨として、多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論を俟ず。」

著者は洪庵がその学歴において、儒学にあまり感化を受けずに年少時代を過ごした事が後の蘭学、キリスト教的自然科学を素直に受容する素地となったと述べていますが、この一文には著者の指摘にもあるように、見事に儒教的思想と当時の西洋的な思考が交差、醸成されていると思えます。

日本一の私塾の主宰者として、大阪一の町医者として一生を終える事も出来た筈の洪庵。しかしながら、時代の奔流の中で儒教的(ないしは武士的)素地を有する彼は、病の体を押して、江戸に出府し、最後は大儀に殉じる道を選んだようです。その命を以て報じた成果が、後の幕府解体によってあまり残らない結果となってしまった点は大変残念な事だったかとは思いますが、著者はそれでも彼が蘭医として将軍を直接診察する奥医師、そして実質的に最高の格式を有する法印に任じた事により蘭科医が幕府に公式に認められた点を評価していきます。

刻苦勉学を積み、医師として、研究者としての矜持を持ちつつ大儀に殉じた形となった洪庵ですが、本書では一方であまり顧みられなかったと思われがちな、洪庵とその家族の物語も存分に述べていきます。実に七男六女を儲けた糟糠の妻である八重と、実家からの多大なる支援(洪庵の才能を見込み、適塾移転の際の費用工面や孫の出奔の弁明に遠路越前まで出向く塩名の名家でもある薬種商の義父)。少年時代から大阪、江戸と度々行動を共にし、よき理解者でもあった父と、足守の家を守り続け長寿を全うした母、備中備前に広がる親族たち。厳しい躾と教育の賜物として、早くから海外留学を成し遂げ、後の緒方病院、大阪大学へと繋がっていく息子たちの足取り。このような人物伝でなければ取り上げられない家族の物語も語られていきます。

緒方洪庵の研究と顕彰を一生のテーマとした著者にとって、まだまだ述べておきたい事は沢山あったのかとは思いますが、その先の研究は大阪大学、そして後進の研究者の皆様がきっと引き継ぎ、発展させていってくれるはず。

著者が伝えたいと願った、幕末が生んだ偉大な「先生」が為し得た想いが、本書を通じて多くの方に伝わる事を願って。

人物叢書_緒方洪庵と江戸時代の医師修行

本書と一緒に是非お読みいただきたい一冊、同じ吉川弘文館より刊行されています、歴史文化ライブライリーより「江戸時代の医師修行」(海原涼)を。江戸時代の医師ネットワーク形成について詳しく書かれています。本書にも直接関連する、幕末期の種痘の伝播についても述べられています。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。

天正壬午の乱対峙の地は静かな農村公園として(須玉の若神子城跡)

天正壬午の乱対峙の地は静かな農村公園として(須玉の若神子城跡)

引き続き好調な視聴率をマークし続けている今年の大河ドラマ、真田丸。

韮崎の新府城からスタートした物語は、東信、吾妻、沼田、そして川中島と北へ東へと歩みを進めてきましたが、ここで再び南に転じて、北から南を目指す北条氏と南から北上を図る徳川氏が甲斐、南信濃で激突する、天正壬午の乱に突入していきます。

このシリーズでたぶん山梨が舞台になるのは最後?(いや、実際には諏訪辺りでの話までで終わってしまうかも)かもしれませんので、ここで両者が対峙した七里岩の東の縁、前回ご紹介した新府城に布陣した徳川家康に対して北条氏直が布陣した若神子城跡をご紹介します。

IMG20160306141645まず、この若神子城跡、入口が非常に判り辛い、須玉から国道141号線を暫く北上して、長坂方面に上がっていく県道28号線(北杜八ヶ岳公園線)の西川橋西詰交差点からヘアピンカーブを数回重ねた後、突如左に見えてくる「ふるさと公園」の看板が入口です。

IMG20160306145154クルマの入口の手前に、人が入れる入口もあるのですが、入口を示す杭が汚れきっているので、気が付く方は殆どいないでしょう。

IMG20160306145248そのまま登っていくと、入口に繋がっていますが、本来はこの石垣の左側に虎口の跡があるらしいのですが、把握する事は出来ません。

IMG2016030614181510台ほどの車が止められるスペースが用意されている入口。

うらぶれた公園といった感じで、城跡の雰囲気は感じられません。

IMG20160306145057城跡全体がふるさと公園という名称の公園として整備されています。

若神子城跡解説板解説板のアップ、画像をクリックして頂くとフルサイズで表示されます。

IMG20160306144853駐車場横の斜面側。枯葉がびっしりと埋まっている部分に溝が切られており、フェンスの向こうの斜面との間に一段、段差が設けられている事が判ります(足を取られて、危うく捻挫しそうになりました)。右手の畝との組み合わせて、搦め手を構成していたと考えられています。

IMG20160306153304若神子城跡の解説板です。

何故か、烽火台について積極的に訴えようとしている文面が気に掛かります。

IMG20160306144304ゲートボール場として整備された跡を進んでいくと、煉瓦敷きの広い広場に出て来ます。

此処が主郭のように見えますが、残念ながら違うようです。

生け垣の向こうに少し小高くなった畝の跡のような地形が見えます。

IMG20160306144355正面の生け垣、左側の中にあるのがこの城跡でほぼ唯一の痕跡、薬研堀の跡とみられる遺構です。

三連の畝が見えています。芝生になっているので、夏場になれば、美しい凹凸が認められるようになる筈です。

IMG20160306144204右側の生け垣も薬研堀の跡らしいのですが、こちらには石で丸く囲った跡が残っています。

IMG20160306144432薬研堀の解説板です。

北条氏が陣を構えた場所、しかも北条流築城術の流れを汲む遺構の可能性が高いのに、何故か解説板には他の城での徳川家康と武田家遺臣活躍の話題が書かれています。

IMG20160306142435気を取り直して、もう一つの看板へ。

こちらも「烽火」をテーマにしたい想いが充満しています。

あ、素直なスマホをお持ちの方は、右のマップからQRコードで北杜市内各地の山城、城郭跡解説を見る事が出来ますよ(たぶん)。

IMG20160306142549と、いう訳で、復元された教育用に設けられた摸擬烽火台。

足元には須玉の街並みと、遠くには茅ヶ岳の美しい裾野を望む事が出来ます。

IMG20160306142807摸擬烽火台から主郭に向かう小路。

道を横切り、切り取るように溝が左右から伸びているのが判ります。

IMG20160306144005主郭から西側を望みますが、眺望が取れません。

木立の向こうに見える木々との間に、もう一つ谷筋が伸びていて、この主郭が両方の谷に囲まれて搦め手から伸びている事が判ります。

IMG20160306142915主郭にある解説板。文面は正面にあった看板と同じで、此処でも烽火の話が出て来ます。

IMG20160306143108主郭からは、谷筋に向かって急に道が下っていきます。

一応、通行に邪魔になる木は伐採されていますが、足元はかなり悪いです。

IMG20160306143157ずりずりと足場の悪い道を下がっていくと、小さな休憩所の先に大きな岩が見えてきます。

IMG20160306143524大手の虎口と見られる、宿借石と呼ばれる石が門型に構えています。

小路はこの石を潜るように寄せ手側に下っていきます。

IMG20160306143731寄せ手側から望む、宿借石に上る通路。

麓側の入口から宿借石迄は坂は急ですが、比較的整備された遊歩道になっています。

IMG20160306145507山城跡というより、地元高齢者向けの施設であったり、山梨県在住者に向けた学習施設としての側面が強い若神子城跡。

上着を着ていなくても少し気分が悪くなるくらい暖かな日曜の午後。時折雨が降る、誰もいない山中を巡りながらふと目をやると、入口側の畑の先には既に満開の花が。

この山間の土地を離れて、大阪に向かって進んでいく物語の中で、武田の事は残っても甲斐はすっかり忘れ去られていく事でしょうが、それでもこの地には確実に春が近づいて来ているようです。