今月の読本「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)飛ぶ事への憧れを叶えた三本線さんがそっと奏でる、空へと誘う美しい詩。

2/24午後、羽田空港国際線ターミナル。

ひと月と空けずに再びの海外出張。フライトまでの待ち時間に飛び込んだ改造社書店さんの中をウロウロしながら、やっぱりブックスフジさんとは品揃えが違って普通の本屋さんだよなぁ等と思いつつ、めぼしい本もなくお店を出ようとした瞬間に、その本が目に入ってきたのでした。

ちょうど発売日を迎えてカウンター横の壁に飾られていた一冊の本。いくら空港にある本屋さんだからってちょっと推し方間違ってない?と思いながら頁をめくり始めて30秒後、ニコニコしながらレジカウンターに本を置く私がいたのでした。この本はこれまでのパイロット本、フライト本とは全く違う、楽しい本だとの確信を得ながら。

WP_20160224_15_06_28_Proターミナルラウンジでゲートオープンを待つ間に。あっ、映っているのは乗ったフライトとは違う機体です。

現役のBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)のB747-400パイロットが綴るその本は、唯の一枚の写真もありませんが、まるで旅の最中、たまたま隣り合わせた機内の窓際の席に座る著者が語りだすかのように、空への想いを静かに、ゆっくりと描いていきます。

skyfaring今回ご紹介するのは、本ページでは珍しい一冊「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)です。

まず、驚かされるのは著者が極めて若いという事でしょうか。多くのパイロットの方が手掛けられる作品は、リタイヤ後であったり、現役でも機長として既に管理職クラスにまでキャリアを積み重ねた方が、地上勤務とフライトの合間に書かれる(時にはプロの作家に転向する)といった例が殆どであったと思います。そこに描かれるのは、自身のキャリアを淡々と述べる回顧録や往年のグレートパイロットの荒唐無稽な話であったり、自身のフライトを追体験させる迫真の記録であったり、専門用語を駆使して空の安全への警鐘やフライトの厳しさをを綴る、ちょっと教訓じみた内容が詰め込まれた、マニアにはたまらないですが一般の読書好きの方にはちょっとお勧めしにくい本が大多数だと思います(普段はご紹介しませんが、空もヒコーキも大好きなので、この手の本は見かける度に買って読んでいます)。

ところが、本書ではこれらの記述が殆ど出て来ません。それどころか、著者のキャリアは民間のフライトスクール出身でパイロットはサードキャリアとなる、フライト中は右のシートが指定席の所謂三本線さん(ファーストオフィサー、古い言葉でいえばコ・パイ、副操縦士)と極めて異色なのです。総飛行時間は流石に国際線パイロットらしく、9000時間弱と中堅クラスのキャリアを有していらっしゃいますが、B747-400が2機種目(初めはA320)、今後機長昇格訓練に入るのか否かもここでは語られません。

更に、子供の頃からの空への憧れ、飛ぶ事への想いから、現在の世界を旅するパイロットしての生活(BAの国際線ともなると、流石に大英帝国の残滓もあって北極圏から南極すれすれまで全世界をカバーします)へ至る経緯を、離陸から着陸までのストーリーに仕立てて語る構成は、数多あるパイロット本の中では決して珍しい事ではありません。しかしながらその筆致は極めて特徴的です。

SNSで翻訳者の方からご紹介を頂きましたが、かなり難解な原文(著者の父親は牧師でヨーロッパからアフリカ、南米と移り住み、ソーシャルワーカーをしていた母にボストンで巡り合って腰を落ち着けたという強烈な国際派、本人もアフリカでのインターンを打ち切ってアメリカに戻ってコンサルタント、フライトスクール、そしてロンドンでパイロットと)のイメージをなるべく崩さないように丁寧に丁寧に翻訳された本書は、著者の生い立ちやフライト中の想いから、フライトのテクニカルな話題、そして天文や気象の話へと緩やかに、お互いの話題をシームレスに移ろっていきます。時に、散りばめられた内容がかなり専門的かつ、マニアック過ぎる(誰が空域名称(日本を表するのは福岡センター….嗚呼、其処で来るか)、VOR/NDBやウェイポイントの名付けパズルを解いたり、VOR/NDB伝いに旅をするシーンを空想するのかと…(苦笑))拘りを見せてしまいますが、その筆致は「薀蓄を振り回す」ようなものではなく、淡々と、でも少し笑みを浮かべながら述べていく姿が手に取るように判るのです。

豊かに語られる、パイロットへ進む彼の人生の足並みと、パイロットへの背中を押してくれた、今は体験できないフライト中のコックピットに訪問した際に交わされた言葉の数々。今も地上で、そしてHF/VHFの向こうから聞こえてくる、気の置けないフライトスクール同期面々との大切な絆。優しく見守ってくれた、今なお愛してやまない両親との深い繋がりの物語。憧れが日常へと移り変わった現在の日々の心象。フライト毎に異なる景色や街、押し寄せる空間と時差の波(これらを表して、プレイス・ラグと呼んでいます)に揉まれながらも、未だ褪せることは無い、いやもっと強くなる空への想いを、こちらも淡々と語っていきます。

憧れの原点ともなった、フライト中のキャビン窓側からの眺め、そしてフライト中に客室で感じるちょっとしたシチュエーションにも、パイロットになった今だから判る心象を込めて。シェードを閉めて、読書やパーソナルTVに没頭している間にも音速に近い速度で移り往く、その飽きる事のない空と大地の景色の美しさ(でも大陸横断のフライトはコックピットでもちょっと飽きるようですね)、正確な天文と気まぐれな気象現象が起こす、キャビンの窓を彩る幻想的な風景にほんの少し気が付いて欲しいという、想いを重ねて述べていきます。

眼前に広がる白い雪の山々、緑の大地。寒々とした海辺から陽射しが燦々と降り注ぐ、成層圏という名の大洋に乗り出し、再び陸地を迎える嬉しさ。茫々たるアフリカの大地を南北に渡る想い。そして、雲の森が陸地から立ち昇る中を抜けていく南アジアの空。客室の窓から憧れ続けたその景色を、今はコックピットから望める光悦。昼と夜が水平線で交わり続ける太陽を追いかけて西へ向かうフライトと、漆黒の向こうに太陽を迎えに飛ぶ東へのフライト。真っ暗な夜のフライトでも、宇宙と交わる空の色は刻々と移り変わり、時には流れ星やオーロラが迎えてくれる。

サン=テグジュペリが「夜間飛行」で描きだした、フライトという行為の心象と風景描写への強い想いと、そのオマージュである事がはっきりと判る、美しい訳文で語られる美しい空の姿を伝える言葉の数々。まるで往年の「ジェットストリーム」を本で読んでいるかのように、言葉の中から、移り変わる世界と空への憧れ、美しい空への想いが溢れ出していきます。そして、何時も心に残る故郷、ボストンからニューイングランドに向けた大西洋への道と、父の故郷であるドナウを行き交うヨーロッパの空、最後はやはりドーバーを渡ると迎えてくれるロンドンの街並みへと心寄せる筆致には、人はどんなに遠くへ旅立っても、やはり故郷、住んでいるところへの想いを募らせるものだという事を改めて思い出させてくれます。

WP_20160203_10_37_04_Pro南アジアのハブ空港から1時間少しのインターアイランドフライト中に撮影した一枚。著者が言う様に、やはり翼が入っている写真の方がしっくりくる事を本書で再認識させられたのと同時に、この直後に大きくバンクを取って地上少し上から森のように林立する雲たちの写真を撮り損ねた事に後悔しつつ。同じ景色への驚き、その中を縫うように降下していくパイロットたちのフライトを綴った著者の想いに少し嬉しくなりました。バンクを取る時に繰り広げられる窓からのダイナミックな風景の変化、降下中、離陸直後や着陸寸前のフレアを掛けた際の独特の浮揚感への想いを述べる段では頷くことしきり。こんな客室の窓際目線で描かれたパイロット本、今までありませんでした。

そして、著者がイギリス在住と聞くと、きついユーモアにうんざりさせられるのではないかと懸念する向きもあるかもしれませんが、主にニューヨーク・タイムズに寄稿したエッセイを再編成したと思われる本書には、そんな「ひねくれた」表現は全くというほど出て来ません。むしろ、日本にホームステイをした事もある、今も年に何回か訪れる日本行きのフライト(既にB747-400の東京便は無くなってしまったので過去形で…)の際には、怪しくなりつつある日本語をキャビンアテンダントに修正してもらったメモを片手に、キャビンアナウンスをすることを定例にするほどに日本の事も好いて下さっている著者の筆致は、ニューイングランドの気候が育み、世界の空の行き来する方らしい無国籍で少しウェットな心象を綴る詩作とも思えてくる内容です。

元ネタは早川書房さんからと同じですね…。

ひとつのフライトが最後を迎えると、電波高度計のマシンボイスがカウントダウンを始め、着陸の決断を迫るボイスがコックピットに響く頃、もう一つの物語は都心の森に囲まれた神社の鳥居を潜ってラストを迎えます。ロンドンに置き去りにされた半身と、プレイス・ラグに苛まれながら、成田から極東の島国に広がる世界一の大都市に同僚たちと歩き出すもう一つの自分との語り合いは、たっぷり取られた本書のページが尽きてもまだまだ続くようです。

P1060493長距離の国際線フライト中、通路側のシートに座ってじっくりと読みながら。たぶん、この本をテーマにしたラジオドラマ、朗読を聴きながら窓際のシートに座って移ろう空の色を追いかけていたら、ちょっと退屈になるフライトもきっと素敵になるだろうな等と、考えながら読んだ一冊。

P1060403空と地上と人が交わる場、空港という空間が与えてくれた、嬉しい巡り合わせに感謝しつつ。

 

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