今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

本著が上梓されてほぼ一月後の2月18日、私が本書を読んでいる最中に、著者である梅溪昇先生(大阪大学名誉教授、近代史)が逝去されました。

享年95歳、本書が生前に刊行された最後の一冊となってしまいましたが、この一冊が94歳の時に書かれた事にまずは驚嘆せざるを得ません。無駄のない美しい筆致、積み重ねられた研究の成果に基づいて明白に述べられる洪庵の足取り、それでも判らない点について、力たらずだと述べられた上で最後まで新出の史料を期待しつつ筆を進め、検討を加えていく飽くなき探求心。

著者がその研究生活で最も心血を注いだテーマの集大成が、最後にこのような形で多くの方が手に取れる本として刊行して頂けた事に深く感謝する次第です。刊行を待たずに執筆者の方が鬼籍に入られる事も稀ではない、永遠に続くかの如く続く本シリーズに、貴重な一冊がまた加えられたようです。

人物叢書_緒方洪庵

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)のご紹介です。

幕末、明治維新期の歴史にご興味のある方ならどなたでもご存知かとは思いますが、多くの場合は福沢諭吉とセットで述べられたり、緒方貞子さんの祖先として紹介される例が多いように思われますが、その際にどのような業績を残したのかが述べられる事は少ないようです。そして、今も大阪の街に残る適塾の遺構を何故大阪大学が管理しているのか、不思議に思われたことは無いでしょうか。

本書に述べられるように、洪庵没後の適塾が発展解消して成立したのが現在の大阪大学医学部の母体であり、本書の著者、梅溪昇先生こそが、その適塾の保存を推進し、現在の大阪大学適塾記念センター発足の立役者となった、明治維新期の著名な研究者であり、緒方洪庵研究の第一人者であられます。

大阪の高等教育、否、近代日本の入口における最大の高等教育機関の主宰であり、幕末大阪の医師番付で唯一の蘭方医かつ、最高位に位置付けられ、病苦を押して就任した幕府奥医師、西洋医学所頭取として在職中に江戸に没した、幕末最高の医師にして蘭学者。

巻末に掲載された600人以上にも及ぶ門下生と、語られる事は少ないですが、コレラの治療に奔走し、大阪、そして西日本全般に広がった種痘所の先駆を開き、後の公設種痘所に繋がる道筋を付けた、大阪の街を守った町医者としての側面。

あまり成果を顧みられるこのが少ない(東日本では特に)洪庵の偉大な足跡でですが、彼が備中の足守というかなり辺鄙な土地に生まれ、主に大阪で活躍していた事が影響しているのでしょうか。しかしながら、本書を読んでいくと、当時の中国地方には医師の一大人脈網が張り巡らされていた事が判ります。医師免許も、国家機関による専門教育機関もなかった当時、学閥と人脈作りこそが医師にとって最も重要だったことは、洪庵が大阪で中天遊に入門し、その紹介で江戸に出て、坪井信道に師事し、その師である宇田川玄真の系譜に繋がった事で、望まざるとも、最後の職となった奥医師、西洋医学所頭取への道に進む事になります。本書では、当時の人脈主義ともいえる医師同志の繋がりを紐解く事で、洪庵の人脈(息子を修行として加賀、大聖寺に送り出すも、其処を脱走した息子たちが、越前、大野の門下に飛び込むというおまけ付き)から、広く西日本に広がった彼の業績を俯瞰していきます。

広がる医師のネットワークを通じて流れ込んでくる情報と、それを頼って入門してくる門弟たちが更に各地に移っていく事で、彼の大きな業績である種痘の普及も、彼らのネットワークを通じて広がっていく事になります。当時としては最大であったと思われる600余人を数える門弟たち、その教育方法も独特のものがあったようです。先駆的な塾頭を筆頭に習熟度別の等級制を採る一方、飲酒喫煙をあまり咎めず、医学に限らず塾生同士が自由闊達に学ぼうとする雰囲気を良しとした、商都、大阪らしい気風。町医師としての収入を投じ続けなければならないほど経費の面では常に苦しく、原書は乏しく、独特の輪読法を用いたその教育システムは現在の水準からすると首を傾げる点も多々あります。しかしながら、大きな負担も顧みず、闊達な若者達を我が子のように可愛がり、受け入れていった洪庵の家族、特に妻である八重の苦労と、時に逸脱が過ぎて破門もされながらも、長くその恩に報いつづけた門弟たちの物語からは、豊かな人間関係が其処にあった事を感じさせます(八重の墓を最初に詣でた際の諭吉のエピソードには、驚かされると同時に、その師弟愛の深さを感じさせます)。

更に、町医者として、蘭医の研究者としての矜持には強い感銘を受けます。海外への扉が開かれた直後に流れ込んできたコレラ。その治療、感染対策が急務となった際に、打算や迷信ではなく、急ぎ乏しい書籍の中の情報を読み解き、実際の治験を加えた治療を進める実践的な医療態度。そして、洪庵が長年を掛けて著述を成した「扶氏経験遺訓」。後に遣欧使節によってオランダ・ライデン大学に収められた、当時の日本が到達した西洋医学受容の成果を示す訳文に添えられた、自抜の編「扶氏医戒之略」。

本書では原文(写真)と読み下し文の全文を掲載して、その意図する所を述べていますが、著者の解説はあくまでもその著述至った経緯を述べるに過ぎず、その文意を述べる事はありません。敢えて解説せずとも、その丁寧な十二条に渡る説を読めば誰しも納得されるはず。そこに書かれた意図は医師ならずとも、あらゆる「先生」と形容される方々が持つことを求められるであろう矜持が記されています。

私が特に感銘を受けた、第九条を掲示させて頂きます

「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依托し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも白し、最辱の懺悔をも状せざること能わざる所なり。常に篤実温厚を旨として、多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論を俟ず。」

著者は洪庵がその学歴において、儒学にあまり感化を受けずに年少時代を過ごした事が後の蘭学、キリスト教的自然科学を素直に受容する素地となったと述べていますが、この一文には著者の指摘にもあるように、見事に儒教的思想と当時の西洋的な思考が交差、醸成されていると思えます。

日本一の私塾の主宰者として、大阪一の町医者として一生を終える事も出来た筈の洪庵。しかしながら、時代の奔流の中で儒教的(ないしは武士的)素地を有する彼は、病の体を押して、江戸に出府し、最後は大儀に殉じる道を選んだようです。その命を以て報じた成果が、後の幕府解体によってあまり残らない結果となってしまった点は大変残念な事だったかとは思いますが、著者はそれでも彼が蘭医として将軍を直接診察する奥医師、そして実質的に最高の格式を有する法印に任じた事により蘭科医が幕府に公式に認められた点を評価していきます。

刻苦勉学を積み、医師として、研究者としての矜持を持ちつつ大儀に殉じた形となった洪庵ですが、本書では一方であまり顧みられなかったと思われがちな、洪庵とその家族の物語も存分に述べていきます。実に七男六女を儲けた糟糠の妻である八重と、実家からの多大なる支援(洪庵の才能を見込み、適塾移転の際の費用工面や孫の出奔の弁明に遠路越前まで出向く塩名の名家でもある薬種商の義父)。少年時代から大阪、江戸と度々行動を共にし、よき理解者でもあった父と、足守の家を守り続け長寿を全うした母、備中備前に広がる親族たち。厳しい躾と教育の賜物として、早くから海外留学を成し遂げ、後の緒方病院、大阪大学へと繋がっていく息子たちの足取り。このような人物伝でなければ取り上げられない家族の物語も語られていきます。

緒方洪庵の研究と顕彰を一生のテーマとした著者にとって、まだまだ述べておきたい事は沢山あったのかとは思いますが、その先の研究は大阪大学、そして後進の研究者の皆様がきっと引き継ぎ、発展させていってくれるはず。

著者が伝えたいと願った、幕末が生んだ偉大な「先生」が為し得た想いが、本書を通じて多くの方に伝わる事を願って。

人物叢書_緒方洪庵と江戸時代の医師修行

本書と一緒に是非お読みいただきたい一冊、同じ吉川弘文館より刊行されています、歴史文化ライブライリーより「江戸時代の医師修行」(海原涼)を。江戸時代の医師ネットワーク形成について詳しく書かれています。本書にも直接関連する、幕末期の種痘の伝播についても述べられています。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。

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