上社の建御柱が終わった後に少し歴史のお勉強も(諏訪市博物館の企画展「御柱を知る」)

上社の建御柱が終わった後に少し歴史のお勉強も(諏訪市博物館の企画展「御柱を知る」)

New!(2016.6.25):明日6/26(日)のNHKスペシャルで御柱の特集が組まれます。古代史ミステリー 「御柱」 ~最後の“縄文王国”の謎~番組ホームページはこちらです。

 

GW連休後半の三日間に渡って行われた、諏訪大社上社の里引き、そして建御柱。

上社の本宮、前宮の8本の御柱が新しい柱に建て替えら、これから6年間、この地を守り続けることになります。

諏訪大社上社本宮一之御柱建て替えられた本宮一之御柱。

来週末の下社の里引き、建御柱まで一休みとなった週末。折角の機会なので、ここで御柱の歴史について改めてお勉強してみましょうという事で、格好の企画展が催されている場所に行ってみました。

諏訪市博物館場所といっても、何の事はありません。上社本宮の道路を挟んで反対側にある、諏訪市博物館

諏訪博物館前の摸擬御柱中庭には今回本宮二之御柱を曳行、建てられた湖南、中洲地区の皆さんが用意した摸擬御柱が用意されています。

こちらで、御柱の開催を記念した企画展「御柱を知る」が3/12から開催されています。

諏訪博物館企画展「御柱を知る」パンフレット残念ながら企画展の展示室及びロビーに展示している写真と絵葉書は撮影禁止の掲示が出ておりましたので、パンフレットでお茶を濁させて下さい…。

今回展示されている史料は摸刻、模写が殆どですが、江戸時代の騎馬行列に使われた道具類は実際の物が展示されています。史料の系統はすぐ近くの神長官守矢資料館が守矢家に伝わる資料を中心に構成されているのに対して、大祝諏方家、権祝矢島家に伝わった史料を中心に、諏訪大社が所有する史料で内容を補う形を採っています。珍しいのは冠落としの手斧を担当する原家が実際に大正時代まで使用していた装束が展示されている点。侍烏帽子に大紋(素襖とも思える)なのですが、紋が丸に四つ目菱(現在の冠落としの際の写真を見ると異なる紋を付けています)なのが、その職を世襲された時代と照らし合わせてみると、とても気になる点ではあります。

ロビーで流れる御柱解説ビデオの大音響が館内に響き渡る中、崩し字読み特訓しながら展示を観ていると、学芸員さんの展示説明が始まりましたのでちょっと混ざって聞いてみました。

  • 歴史史料上の御柱 : 鎌倉時代より遡る史料は無く、巷間に云わる平安時代に遡るとの史料も鎌倉時代に書かれたものを引用している(持統朝に遡る日本書紀の記述は社の存在を示すもの)。そう考えると、現在の形態の元を築いたのは、やはり東国の武士たちという事になるが…
  • 御柱の氏子 : 本来は信濃一国総出で奉仕するものであった(ここで2階の常設展示フロアにある解説パネルを見ると、戦国時代より前の御頭郷はすっぽりと諏訪郡が抜けている事が判ります)が戦国以降、徐々に縮小して諏訪郡一円に収斂していく
  • 祭祀の推移と復興、縮小 : 戦国時代以前の奉仕の史料を見ると、柱を建てること以外に宝殿(これは現在でも行われる)やその他の境内各所の建築物の造営が都度行われており、現在より遥かに規模も大きく、それだけ負担も大きかった(取り立ての史料や収支報告書が残る)。戦国時代の混乱による祭祀の縮小(甲斐への出陣により祭祀の引き延ばしを図った事により祟りが起き、その再発を恐れて、急ぎ甲斐から出陣中の兵を引き上げるなどという記録さえ残る)は、武田信玄による諏訪氏滅亡後に息子の勝頼共々に社殿と祭祀の復興を図ったが、その後信長の息子、信忠による天正十年の上社の焼き討ちにより灰燼に帰したことが現在の祭祀の起点となっている
  • 縮小後今日までの繋がり : 天正十二年に再興された際には御柱と宝殿、神輿(これは現在も使われていると云われる)が漸く揃えられたに過ぎず、その後社殿の復興が徐々に進んだが、これ以降宝殿以外の建て替えは行われない現在の形となった。また、江戸時代の史料から祭りの文字が見えてくるが、それ以前は「造営」と呼ばれ、祭りではなかった。現在のような祭りとして執り行われるのは明治以降と考えて良い(これも常設展示室に造営の主体が経済的な理由で領主層から町民層へ移っていった事を示唆する解説が出ています)

今回の展示物で最もポイントが高いと思われる御柱絵巻模写の展示なのですが(原本は岡谷市在住の個人蔵で、諏訪市博物館が所有する模写は明治17年に諏訪市の個人の方が明治維新で廃絶した騎馬行列の姿を記録する為に前述の絵巻を借用して模写したもの)、残念ながら全体の公開はされずに五祝家と謂われた神官たちと御柱が描かれた部分だけの公開に留まっています(その他藩主の代役の騎馬、家老、奉行の部分は抜き取りで写真掲示)。この絵巻の写真集が出されたら、さぞかし興味深い考察と共に、きっと人気が出る事かと思いますが、個人蔵故でしょうか、容易に入手できる刊行物はないようです。

ちょっと煮え切らない部分もある展示ではありましたが、これだけの内容が一堂に揃うのは多分御柱の時だけ。ロビーに飾られている写真は別途写真集が刊行されていますので見る事が出来ますが、当時の史料を模写とはいえじっくり拝見できるのは、二次文献ではイメージできない点(and必死に崩し字読む特訓)を補う意味でもありがたい事です。

諏訪博物館常設展示室1-1学芸員さんの解説が終わると、殆どの皆さん(and本日は長野日報の記者の方が取材に入っていました)は退出されてしまいましたが、折角なので2階の常設展示室もじっくりと拝見させて頂きます。

こちらが常設展示室1の原始から古代のエリア。ダウンライトとブラックアウトされた落ち着いた雰囲気の解説板をバックに、広いスペースにゆとりを持った展示…と言いたいのですが、界隈の各市町村にある資料館や縄文関係の考古館の、これでもかという出土品のオンパレードと比べると、どうも展示物に事欠いている(いやいや、絞り込んでいる)イメージを持ちます。やや啓蒙的な解説板をじっくり読ませるイメージが強い展示内容。

諏訪博物館常設展示室1-2こちらは同じ展示室の中世から近世のエリア。中央に曲線状に配置された御柱の解説スペースを挟んで正対するレイアウトになっています。各時代につき、展示物を数個に絞り込むスタイルはこちら側も同じです。

諏訪博物館常設展示、徳川家光の朱印状御柱関係で特徴的な展示物を。

徳川三代将軍家光が与えた諏訪神社領の朱印状の模写とそれ以前の所領比較図。1500石と決して小さくない社領ですが、それ以前の広く信濃国内に点在していた所領と御頭郷による奉仕を考えると、御柱(祭)の造営規模が縮小せざるを得なかった事情が実感できるかと思います。

諏訪博物館常設展示、御柱略年表ちょっと見づらいのですが、御柱の略年表。

企画展には出てこなかったのですが、寛永十五年に高遠藩が騎馬行列への参加を拒否(高遠藩が保科家から改易後の鳥居家が移ってきた初代、忠春の治世)したことに対して、諏訪社が幕府に訴え出ている点に注目します。戦国時代の大祝が諏訪と高遠に分かれた後に諏訪の大祝に収斂された経緯をそのまま江戸時代まで引き継いでいた事が判ります。企画展で展示されている原家の記録にも、高遠藩が送り出してくる騎馬行列(藩主の名代だと思いますが)に対しても挨拶に出向いていた事が記されています。

ここでちょっと面白い話。知人の氏子さんに聞いたのですが、今回の里引きで高部の公民館前(里引きで一番標高が高い場所、八ヶ岳と両宮が遠望できる)では辰野(小野)の地酒「夜明け前」が振る舞われていたそうです。諏訪の酒蔵でなくてなんで小野なの?と思ったそうですが、実にこの場所こそ原家が高遠藩に挨拶をしていた場所。その昔は桟敷の設置場所で諏訪と争ったとの記録も残る、高遠藩にとって御柱の際に藩主の名代が訪れる場所だったのでした。

諏訪博物館常設展示室2常設展示室2です。打って変わって博物館の外観のイメージを踏襲する明るい造りに、スポーク状のオブジェとピラミッド型の展示ケース、そして展示内容は在野の考古学者、今なお縄文史研究を悩ませる発端となった、縄文農耕論を提唱した在野の考古学者、藤森栄一の業績を紹介するコーナーになっています。

残りの右半面は片倉館から寄託された考古発掘資料を展示するコーナーと、実は左側がシンプルながら凄くコアな展示なのです。

諏訪博物館常設展示、肥水くみ上げ風車主に民俗資料の展示なのですが、ここにしかないであろう一品。今もガラスの里の周囲に行くと警告板が建てられていますが、諏訪湖畔で行われていた天然ガスの採取とその副産物を肥料として用いていた「肥水」と呼ぶ井戸をくみ上げていた風車。かん水だと思いますが、肥料に用いていたというのも聞くのは初めてですし、このような形で諏訪の産業史の一ページを採り上げられている点に物凄く好感を持ちます。

諏訪博物館常設展示、御渡帳そして、諏訪市博物館に行く以上、是非観たかった御神渡の歴史を綴る御渡帳と当社神幸記..って、貸し出し中だなんて(涙)。

諏訪博物館、御神渡関連掲示ちょっと気を取り直して、2階のロビーに飾られている平成18年度の御神渡関連のパネル展示を眺めながら。ついこの間、雑誌natureの電子版にヨーロッパとの比較で地球の気候変動を示すバロメーターとして御神渡の記録が使えるという論文が出て、俄然注目を浴びている諏訪湖の御神渡ですが、情報センターとしての役目を果たす諏訪市博物館としては、ぜひこの機会に企画展やシンポジウムの開催をご検討いただきたいと勝手にお願いしてしまいます。

諏訪市博物館寄贈展示品ミニチュア御柱なんだかんだ言ってタップリと楽しんでしまった諏訪市博物館。

でも、一番楽しかったのは、休憩コーナーに展示されていた、地元の方が寄贈した手作りのミニチュア御柱セット。前回の前宮一の御柱の建御柱つり上げ構造を忠実に再現した模型と、上社と下社の御柱曳行方法の違いをこれまた丁寧に作り分けている模型を眺めているだけで、はっきりとそのシーンを思い出す事が出来ますね(館内に飾っている曳き綱を巻いたミニチュアオブジェと一緒にキットで売って欲しいです!)。

諏訪市博物館の資料類本日のおみやげ類(購入資料)。

御柱関係の古い写真を集めた写真集「御柱とともに」。今回の件についていろいろ仰る方もいらっしゃいますが、まずはご覧頂きたい写真集です。次に、隣の山梨の方にとっても特に興味深い内容が書かれている「戦国時代の諏訪」そして、江戸時代初期の諏訪藩主(三代忠晴)が描かせた諏訪藩領の屏風絵図「御枕屏風」の解説写真集。博物館に展示されている模写品は既に読み取りにくくなっているため、このような写真集はとてもありがたいです。次は是非御柱絵巻の写真集も…。

左下にちょっと置いていますのが、上社で頂きました御柱御守です。

この6年間で色々な事がありましたが、2度目の御柱をこの地で無事に迎えられた事への御礼として。

<おまけ>

本サイトでご紹介している関連するページを。

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嵐の去った後、GWの中日に

大荒れの予報だったGW中盤。

夜半にやってきた強い雨と風は急速に通り過ぎて、昼前にはすっかり青空を取り戻した八ヶ岳南麓。

急遽予定を変更して、再び観音平に上がってみます。

GWの観音平遠望1富士山を正面に眺める、観音平の少し下にある富士見平。

GWのこの時期、これだけクリアーな空が望めるチャンスは決して多くありません。

GWの観音平遠望3甲斐駒と南アルプスの峰々もご覧の通り、クリアーに望めます。それにしても今年は雪が少ない!

GWの観音平遠望2皆様お好きなようなので、富士山のアップも(ハイコンで)。足元に大泉、長坂の街並みを遠望します。

観音平の新緑観音平の周囲は新緑真っ盛り、赤松と落葉松、そして白樺の緑のコントラストが青空の下に広がります。

GWの観音平遠望4麓に下る途中にて。落葉松林から甲斐駒を遠望。

GWのまるやち湖鉢巻道路を西に移動して、原村の八ヶ岳自然文化園にある、まるやち湖へ。西側にも拘わらず、八ヶ岳に雪が全くありません(驚!!)。

湿度が高いせいでしょうか、一度はきれいに流れ去った後、再びぷかぷかと雲が浮かび始めた午後のひと時。街中の賑やかなお祭りが嘘のように、周囲には静かな時間が流れていきます。

新緑と桜3周囲の松林には、所々に満開の山桜を見る事が出来ます。

新緑と桜1落葉松の新緑の先に咲く、桜の花。気持ちの良い風が林の中を抜けていきます。

新緑と桜2新緑と桜が同じタイミングで揃う、高原らしい景色を満喫しながら。

夜半になっても時折強い風が吹き続けるGW中日の夜。お休みの浮かれ気分からそろそろ普段の生活に向けてギヤチェンジするタイミングでしょうか。

 

今月の読本「こころはどう捉えられてきたか」(田尻祐一郎 平凡社新書)儒学が語らないテーマの研鑽から独自の思想開花を見出して

今月の読本「こころはどう捉えられてきたか」(田尻祐一郎 平凡社新書)儒学が語らないテーマの研鑽から独自の思想開花を見出して

儒学、儒教と読まれる方もいらっしゃいますが、本屋さんに行くと溢れるほどに並んでいるビジネス本や処世術を扱った本と、誰も近づかない思想史の棚で埃をかぶっている研究書や解説書との扱いの差の大きさに、何時もながら驚かされれます。

どちらがどうこうというつもりは無いのですが、そもそも日本人にとって儒学とはハウツーの類に位置する(私もそうかも)、そんなものなのかもしれません。では、もう少し歴史を遡って儒学(朱子学)が正当学問として扱われていた江戸時代の場合はどうだったのでしょうか。大量に本屋さんに並べられたハウツー本が仰々しく問うテーマは、何時の時代も同じような悩みを持っていたはず。そんな疑問点に柔らかめに応えようという一冊をご紹介です。

こころはどう捉えられてきたか今月の読本、「こころはどう捉えられてきたか」(田尻祐一郎 平凡社新書)のご紹介です。

平凡社新書は、毎月のように膨大に送り出される新刊新書シリーズの中でも、ちょっと硬派であったり、思想、哲学系に強いといったイメージを持たれるシリーズだと思います。本書もそのシリーズのテーマに沿った内容、著者も東海大学で近世思想史の教鞭を執られている方です。本書もその延長で、優しく江戸時代の思想史を解きほぐしてみましょうというテーマ(平凡社の雑誌「こころ」の連載記事が底本)に基づいて執筆されています。

思想史と書かれていますが、江戸時代に当該分野を担ったのは儒者と呼ばれる人々であったり、前述のようにすべての学問(医療や農学すら)の根本が儒学であった時代ですので、本書には多くの儒者の方が登場します(本当は僧侶も含まれる筈なのですが、本書ではほとんど語られません)。かなり丁寧にその辺りの系譜は説明が加えられていますが、抵抗感のある方にとっては冒頭から読むのが結構辛い事になるかもしれません。特に後半の仁斎、徂徠、宣長を扱った章では、著者自身がハードルを上げていると述べている事もあり、江戸文化史程度の事前知識ですと、ちょっと戸惑うことになるかもしれません。

江戸の儒者が総登場する本書が語るテーマ「こころ」。このテーマと登場人物を比べておやっと感じられる方もいらっしゃるかもしれません。鬼神を語らずという言葉を残した孔子の系譜を継ぐ儒者たちにとって、それらは語るに足らない事であったはず。本書は敢えて、その語らない筈の内容を江戸の儒者たちがどのように理解していたのかを突き合わせていこうという主題を置いています。鬼神、鏡と虚といった老荘に始まり道教や禅に由来する思考、そして自由、恋、愛…。一般的な儒学の解説書でもやはり語られない内容に対して、江戸の儒者たちがどのような解釈で挑んだのか、そして学問上のライバルたちが彼らの理解をどのように批判(時に攻撃)していたのかを、学統を含めて解説を加えていきます。

大陸の儒学が語らない内容。でも実際の生活にとっては身近なそれらの問題を解釈するために、本来の儒学とは異なる禅の思想であったり、阿弥陀教の信仰心や、伝統的な神仏混交の信仰心、伝説に依拠した解説を組み入れて理解していこうとした江戸の儒学者たちの姿と、その姿勢に対して明らかに批判を唱える儒学者たちの衝突を描くことで、初めて日本に思想と呼べる研鑽が生まれた事を見出していきます。

後半に登場する、江戸文化を代表する3人の著名な人物。ここでは既に思想家という言葉を使ってよいのかもしれませんが、著者が用意したこれら儒学が語らないテーマに対して彼らがどのように解釈したのか、その個別のアプローチを捉えていきます。

形を有さず、常に人を惑わす「こころ」という存在。仁斎の現在の日本人にも内面的に求められ続ける他者を慮りながら適切な距離を作り続けるというスタイル(その後、神道に傾倒する起源も)。一方で徂徠はそんなものは社会性が規定するもので、個々人の問題ではないと切り捨てる(正当な儒学の受容を徹底的に追及し、その社会性を規範するのは為政者であるという儒者の根本は外さない)。更に宣長に至っては、そんなものは移ろいゆくものであり規定すらできないと突き放す(もちろん医師であった宣長にしても儒学を具えており、その先に古典、古事記を読みぬく際の思想を重ねた結果として)。まるで現代の議論を見ているように纏めてられてますが、それはやむを得ない事。更に、本書で語られる儒学を規範として日本人の思想であったり文化にどのように定着していったのかという議論を続けていくと、それは宗教であると、現在であれば加地伸行先生の議論に行ってしまいそうなので(正直に言うと加地先生の著作は苦手なのです)。

一方で、これらの思想の展開に対して、仁斎や宣長(実際には徂徠も影響を受けている)の延長に国学の勃興を重ねて、儒学を脱却して国学に着目したことにより、日本が初めて儒学に基づいた思想から脱却した新しい思想を得るに至ったように見える筋書きを匂わせている点は、ちょっときな臭い感じもしてきたのですが、どうもこの部分は山本七平氏の著作にみられる流れと同じ伏線で書かれているようにも見えてきます。

江戸の儒者たちが挑んだ人のこころに対する解釈の問答とその変遷を綴る本書。実は読んでいくうちに、そのような想いに対して、全てを突き放して自らと外界との繋がりに向き合い、更には儒学の規範にすら疑問を呈することを良しとし、本質をひたすら追い続けようとした佐藤直方の思考に強く惹かれてしまったことに、如何にも私も現代人だなぁと、正直に述べておきます(入手可能な纏まった本が無いのが残念)。

<おまけ>

本書に関連する書籍を本ページよりご紹介

今月の読本「行商列車」(山本志乃 創元社)鉄路が繋ぐアキンドという名の商売の本質を描く二つのストーリー

今月の読本「行商列車」(山本志乃 創元社)鉄路が繋ぐアキンドという名の商売の本質を描く二つのストーリー

朝の登校時間、そのおばさんは何時も伊皿子坂の脇を背中が見えないほどの野菜を背負って登っていました。やおら荷を解き始める何時もの場所、定位置でもあった路地を入った坂の途中が商売の場所だったのでしょうか。

今から数十年前、バブル経済で潤う林立するオフィスビルの谷間に依然として残る下町風情溢れる街角で見られた大都会東京の朝の一ページ。そんな彼女たちが行き来する手段は何時も足元を行き交う地下鉄、その路線を経由して房総の地から早朝に送り出される「行商列車」でした。

昨年末に刊行された際に是非読んでみたいと思っていた、今や風前の灯火となった行商列車をテーマにした一般書では珍しい一冊を、半年を経てGWに漸く書店で手に取る事が出来ましたのでご紹介させて頂きます。

行商列車行商列車 <カンカン部隊>を追いかけて」(山本志乃 創元社)です。

著者は旅の文化研究所という聴き慣れない団体に所属される研究員の方(近畿日本ツーリスト、現近鉄グループのシンクタンクだそうです。出典は本書の版元さんでもある創元社の鉄道手帳編集部のブログより)ですが、本書をご覧頂ければ判りますように、主に日本の庶民文化史をテーマに研究をされている方です。本書は佐倉にある国立歴史民俗博物館の展示リニューアルを機会に(このパターン、どっかで観たような…縄文のあの本ですね)行った取材の記録と、著者の出身地でもある鳥取県歴史編纂事業の際の取材の記録を1冊の本に纏めたものです(もう一つは後ほど)。

従って、表紙に掲載される近鉄の鮮魚列車だけに注目して読んでしまうと、内容がかなり異なるのでちょっと困惑してしまうかもしれません。本文でも述べられているように、鮮魚列車の取材は以前にトラブルがあったようで、取材には最も有利と見做される著者の経歴にも拘らず、国立の博物館が行う収録作業(本書には、随所に当館所属の記録者の方が撮影された記録写真が掲載されています)にも拘わらず、組合を通したオフィシャルな取材は拒絶されてしまっています。そのため、本書では近鉄の鮮魚列車自体の取材はほんの僅か、むしろそのテーマに掲げられた<カンカン>を伝手に話を聞かせてもらえるようになった、松坂在住で鮮魚列車を使って大阪に通ってお店を開かれているご夫婦への個人的な取材記(実際の鮮魚列車への取材も撮影も、組合の幹部であったこの方の手引きで潜り込ませてもらっている)となっています。

所謂柳行李では水物を扱う水産物の行商で困った事になる荷扱いへの対処として、更には保健衛生上の要請から生み出された、ブリキ缶に水抜き穴の栓を取り付けたカンカンと呼ばれた行商行李。今では発泡スチロールに変わってしまいましたが、当時はこの箱の底に簀子を敷いて更に2段重ねで魚が入れられるように中子を入れていたという、モノを起点にした民俗学者らしい、実際の写真を掲載しての詳しい使い方の解説も述べられていきます(宮崎の事例でみられる保健所の合格シールが毎年交付されていた事実は、行商とはいえれっきとした一商店として扱われていた貴重な証拠)。

荷物も多く他の客とのトラブルにも繋がりかねない、このような商材を扱う事から各地で結成された行商人の組合と、それに対して鑑札を発行し、車内の専用区分や車両の設定などの特段の配慮を行った鉄道会社、国鉄(本書で扱われる倉吉線に対して、表現上の影響でしょうか、著者は繰り返し軽便鉄道(更には拡大地図に私鉄の記号を使うのは、創元社らしからぬ点)という言葉を使いますが、軽便線由来で設備は劣化していても国鉄線、しかも末期でも舞台となった倉吉-西倉吉間では10往復程度の便数があった事には言及しておきます)。細々とながら専用の列車を今でも走らせるほどに一時は拡大した鉄道を使った行商という職業は、何より職漁の不振と、プラザ合意と大店法の制定、そして国鉄分割民営化に伴う鉄道利便性の低下が、彼ら、彼女らの活躍の場を狭めていったのでしょうか。本書ではあくまでも民俗学に徹する為か、インタビューを行ったそれぞれの方がお辞めになったいきさつは語られますが、総論としてのその終末への路程は言及されません。

むしろ、本書では終焉を迎えつつあるその業種への哀愁を語るのではなく、インタビューから採録された、その業種の発展に至った経緯を述べていく事に注力していきます。

本書の中核を成す部分。二つのストーリーには直接的な繋がりはありませんし、近鉄の行商列車を使われている取材対象の方は大阪の中心部に店を持ち、一方の鳥取で取材された元行商の方は地方都市の辺縁部を廻る個別訪問型と営業エリアも業態も大きく異なります。鉄道で運ぶというキーワード以外全くつながらない二つのストーリー。しかしながら彼らのビジネススタイルと、その商売に携わる経緯には明確な共通点を見出せます。

いずれも主たる商売を持っていながら、または別の所に家を構えていながら敢えて鉄路を伝手に商売に出る。大阪の中心部と地方都市である倉吉の辺縁部という逆のポジショニングですが、其処に需要があり、その需要と供給を繋ぐ線として鉄道があった事を見出していきます。個々の需要は小さくてもバラエティに富んでいる、扱っている商材も決して地の物、前の浜で獲れたものだけではなく地方市場での買い入れや時には行商列者の中でお互いの商材を取引する。数多に広がるお客さんの需要、リクエストにこまめに応じて小口で受ける。人一人が持てる範囲での商売故に一日に扱える商材の数(=売上)には限りがあるが、その分リスクも小さく、逆に毎日毎日通う事で量の不足(これは購入側にとっても同じ、既に冷蔵庫が各家庭に普及し始めた段階)を補っていく。

そこには数多の商材からお客さんに自由に選ばせるために、資本と在庫を蓄積し、輸送路を確保し、膨大な物流を常時全国的に維持するという、現在の流通手法とは逆を行く発想が明瞭に記録されているようです。

そして、これらの商売を支えた「アキンド」と鳥取では呼ばれた行商の方々。多くが女性であった点において、本書では述べられませんが、所謂専業主婦と呼ばれる消費と育児を主に担う階層の存在が、実に戦後高度成長期以降のほんの1~2世代程度の時代でしか見いだせない事を雄弁に物語っているようです。日々の生活費、仕事の道具や材料、土地や家の購入資金は確かに男の稼ぎに一方的に負うところであった事は事実かと思います。しかしながら、晴れの席での装いであったり、子供のお菓子やお小遣い、そして養育資金といった間接的な支出は、彼女たち自らがこつこつと蓄えた財布が補っていた事がインタビューから見えてきます。

鉄路が繋いだドアtoドア、人to人のコミュニケーションを介した商取引。ここまで読んでいくと、現在の中山間地域で課題となっている、購買困難層の発生原因も少し見えてくるような気がします。そもそも動脈すら細かった物流網の更に最末端を担っていた彼女たち行商。血栓状態を起こして方々で通わなりつつある、現在の圧倒的な物流網の末端に目を向けた場合、人材の活用も含めて、その歴史的事実を再度見直す必要が生じてきているのかもしれません(このようなお話は本書では語られません。日本の近現代民俗学を扱った本で少し寂しいのが、社会学の隣接学問にも拘わらず、多くの記述が過去完了形で語られる点)。

偶然の繋がりを手繰り寄せるように、忘れ去られつつあるこのような商売の姿を丁寧に追って、失われる前に記録として残すことに注力した、鉄道とカンカンを梃に人とモノの流れを民俗学の立場から位置付けていこうという、表題帯にも書かれたオンリーワンを標榜するに相応しい本書の中核に対して、明確に毛色の異なる5章の魚食文化と地域性の議論。著者があとがきで述べているように、載せておきたいという想いは理解しますが、唐突な挿入は前後の議論を断絶しており、著者の想いとは裏腹に無理やり流行の魚食文化論へ寄り添わせようとした結果、折角の流通文化史として貴重な本書の位置づけをむしろ歪めてしまった感もある点は、少々残念でもあります。

著者の想いとはちょっと異なった見方になってしまうかもしれませんが、鉄路という広く大衆に便益された交通手段を伝って、本当の末端の物流と限りなく個人に依拠する商売を成立させた行商という姿を再構成していくという、無二のテーマを掲げて描かれた、著者の優れた取材能力が遺憾なく発揮された、生きたインタビューを詰め込んだ本書。その内容には、大きく曲がり角を曲がった先を見いだせない、でも決して失う事は出来ない、生きていくためのモノの取引を支えていくためのカギとなる豊かな知見を含んでいるとの想いを抱いて。

行商列車と移動販売車がゆく本書と併せて読んでいた本「移動販売車がゆく」(宮下武久 川辺書林)。こちらは地元のライターの方が洒脱に、やや皮肉交じりに描く、南信の町にある運送会社が始めた移動販売車に纏わる物語を描いた一冊。本書を読んでいると、その姿とお客さんに求められるものが、倉吉における行商の彼女たちに求められた内容、商売の姿とそっくり同じである事に驚かされます(商材は地場のスーパーとは異なり名古屋で調達、売りはその名古屋の市場から直送するふっくらと大きなアサリ、個別に必要な物を聞いて届けるだけではなく、移動販売中に商材が不足したり、お客さんが欲しがるものが出てくると、巡回はそのまま続けつつ、別の軽自動車を飛ばしてバイパス沿いのナショナルチェーンや地場のスーバーで買い足して僅かな手間賃を乗せて販売するetc.)。そして、なぜそのような商売が困難に直面しているのか、更には何処に問題を抱えているのかが両書を読んでいくと浮かび上がって来るようです。

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を

少し霞んだ五月晴の午後は新緑の落葉松日和

GWも中盤を迎えて気温がぐんぐんと上がって来た、今日この頃。

その代わり、お天気の方は少しずつすっきりしない空模様になって来たようです。

観音平から甲斐駒東京から列車で3時間ほど掛けて登って来ると標高881mの小淵沢駅。もう気温は25度目前と夏を想わせる昼下がりですが、そこから車で僅か20分ほど走れば、標高は一気に1500mを越えて気温は18度程とぐっと涼しい場所に到着します。この時期ならくっきりとした雪渓が眺められるはずの観音平から望む甲斐駒ですが、霞んで空に溶け込んでしまっています。

落葉松と山桜1観音平から少し下っていくと、一面の落葉松林。林の奥に白い花が見えています。

落葉松と山桜2林の中の小路を入っていくと、まだ花を咲かせている山桜が。

落葉松の新緑とのコラボレーションが楽しめるのも、1400m弱とちょっと標高が高いこの場所ならでは。

陽射しが差し込んでいても空が何となく霞んでいて遠望が利かない、そんな時にちょっと楽しみたいのは、八ヶ岳山麓ならではの落葉松の新緑です。

観音平の落葉松新緑3周囲は落葉松の若々しい緑に囲まれます。

観音平の落葉松新緑4鬱蒼とした林の中で輝く新緑。

人工林でもある落葉松林ならではの景色。

観音平の落葉松新緑1枝の先には可愛い若芽がびっしりとついています。

観音平の落葉松新緑2午後の日差しをいっぱいに受け止める落葉松の若芽。落葉松の人工林らしい、鬱蒼とはしていても明るい林間を生む理由はこの透き通るような小さな葉のおかげ。

牧草と八ヶ岳観音平から野辺山に足を延ばしても相変わらずの霞んだ陽射し。それでも5月を迎えて牧草の緑は美しく輝き始めています。

恵みの森の落葉松3野辺山で落葉松を楽しめる場所は多々ありますが、昨年末から解放された筑波大学の演習林「恵みの森」もそのひとつ。展示林となった落葉松林の向こうに野辺山天文台のパラボラアンテナ群を望みます。

恵みの森の落葉松4午後の陽射しを浴びるぐっと背の高い林冠部の新芽は黄緑色に輝いています。

恵みの森の落葉松5演習林なので、こんな小さな落葉松の幼木もあったりします。

恵みの森の落葉松2細い枝の先で若芽を開き始めた落葉松の幼木(トリミング済み)。

恵みの森の落葉松1可愛い落葉松の若芽。まるでリズムを刻むかのように、枝先に向かって芽を開いていくようです。

鉢巻道路の桜と新緑名残の桜を前に夕暮れの鉢巻道路の落葉松と赤松の混交林。

桜と針葉樹の新緑が交わるのも落葉松林ならでは。

落葉松の緑と赤松の緑が僅かに違う緑を湛えているのが判りますでしょうか。

水田の水面麓に下ると、水田には水が張られ始めました。

時刻は5時を過ぎたにも拘わらずまだ日差しがたっぷり。霞んだ空の向こうに西日がゆっくりと下っていきます。

南アルプスから続く山並みが途切れ、日が沈む先に位置するのは諏訪大社上社。明日から数えで7年に一度の盛儀、御柱祭のクライマックスとなる里引きと建御柱が始まります。