今月の読本「ウナギの保全生態学」(海部健三 共立出版)生物学が社会学へと繋ぐ、生態系サービスという名の架け橋は

今年もこのシーズンがやって来ました。

近頃では年間を通して話題に上る事もありますが、やはりピークは盛夏のひと時。庶民の贅沢、夏の滋養の源としてもてはやされたのは既に昔、今や自然環境保護のシンボルに掲げられるようになったその魚が、一時に大量に流通する土用の鰻のシーズンです。

食として、漁獲や養殖として、更には生態の神秘について昨今色々と語られていますが、本書はその先へのアプローチを求めて上梓された一冊のようです。

ウナギの保全生態学今月の読本、「ウナギの保全生態学」(海部健三 共立出版)のご紹介です。

この耳慣れない「保全生態学」という言葉。はじめににもあるように、分量の割には決して安価とは言えない、しかも版元さん故もあって専門書のコーナーに置かれるであろう本書を手に取られる方にとっては、本書の1,2章で述べられる、ウナギの生態や巷間で喧伝される事柄については既にご承知かと思います。ウナギの生態と生息環境についての問題点、そして経済活動上の問題や課題をコンパクトに判りやすくまとめていますので、これらの問題点について理解するための取っ掛りとしても充分有用な一冊です(お値段が許せば)。

その上で本書のキーワードとなる保全生態学という言葉、昨今随分増えてきた、何でも詰め込めば良いと言わんばかりの表記に時に首を傾げてしまう、大学の新たな学科名の一形態にも思えてしまいますが、実際はどうなのでしょうか。

表紙にわざわざコーディネーターとして名前を連ねられている、著者の研究上の指導者である鷲谷いづみ氏が寄稿した巻末辞をご覧頂ければそのアプローチが判るかと思います。生物学がそのフィールドを広げて、広くその生息環境、更には生息環境に関与する社会的な構成にまで議論を広げていくために用いられる、幅広い領域をカバーする名称としての保全生態学。その象徴として、資源的にも有用かつ貴重であり、海と川を行き交い、魚類としては極めて長命を誇るこの奇妙な魚が最も相応しいと感じた著者の想いが述べられていきます。

アリストテレスを持ち出すまでもなく、このようなアプローチを突き詰めていくと最後は哲学に行き着くのは、もはや必然ではありますが、保全生態学はまだもう数歩手前、生物学がそのフィールドを研究室の水槽やフィールドでの調査活動からもう一歩進んで、社会的な価値やインパクトを与える事が出来るのかという道程を模索しているようにも思えます。その中で著者が用いるのが「生態系サービス」という聴き慣れない言葉。環境、経済に対して影響する区分を表を用いてその構成要素を示していますが、ちょっと首を傾げてしまうかもしれません。

人文社会学へのアプローチとして生物学側から提示された枠組み(フレームワーク)なのだと思いますし、その範疇が広く社会全般をカバーしている事はよく判ります。また、その象徴として声なきウナギを掲げる点は理念としては理解できます。一方で、主にサービスの受益者として、その枠組みの観察者として登場する生物学に対して、同じフィールドを経済活動として実際にサービスを供与すべき側に立つであろう水産学から見たとすれば、その捉え方はちょっと外的目線かつ、社会活動的側面が強く出ている気もします(これは理学と工学の分野でも同じことが言われています)。

そのような感覚を最も強く感じたのが、少ないページ数(本文140頁、参考文献を除けば130頁弱)の中で1割を費やして述べる、漁業法第127条(義務放流)に言及する部分。生態学の研究者の方々の多くが、漁獲制限を含む経済的な側面を指摘して(更には水産学に対して)統計的な資源量の調査の不備を指摘される度に引っ掛かる点でもあるのですが、一方で職漁者(特に内水面)にとっては、農業従事者が農地を所有し、里山を入会として管理しているのと同様に、職漁の場もまた同じであるという点が欠落しているように思えるのです。占有面である農場や圃場に対して公害抑止の観点で議論が求められる場合はありますが、それ以外の農耕や収穫に対して第三者の議論が持ち込まれる事はあまりないかと思います(本書では圃場整備による流路の固定化について言及していますが)。一方で、水面に対して完全な占有所有権を設定できず、川や海などが多くの場合、共用すべき空間、資源として認識されているが故に、一方的な漁獲が許されず、持続可能性が求められるが故にこのような条文が用意されており、逆に言えば、職漁者にとっては自らの漁獲の補償の範囲内の責任を有するに過ぎないとも捉えられます(減反やTPPのお話は別としたいですが、ことウナギに関しては、当事者から見れは同じように映る点があるのかもしれません)。

農業者にとっては自らの収穫や自らが所属する社会性の範疇における責任を有するのに対して、職漁者だけが自らの漁獲に対する弁済と規制のみならず、遥かに広範囲な責任を、自らが所属する社会性の外に対してまで負わなければいけないのであれば、その生物学からのアプローチは少々厳しすぎるようにも見受けられます。このような着目点において、職漁者自らが自然遡上を促したり、漁獲削減を含む活動を起こす例も既に出てきており、海洋水産物に関しては行政によるより強力な、資源調査や補償を含む禁漁等の資源回復策が試みられています(その活動には水産学系だけではなく、生物学系の研究者の方が多数協力されているのも事実です)。

その中で、著者が自然の生態を遡る事は既に困難になっていると評するように、コンクリート固めの養殖池然と化してしまった各地の湖沼や河川に於いてこれらの実現を図るためにどうすればよいのか。著者は保全生態学が望むテーマに則り、持続可能な社会の追及を標榜し、市民、そして国際的なステークスホルダーによる協業や意思の集約といったスケールの大きな議論に進む事を望んでいるようですが、その中に河川の水産資源を日々の生業として生きている方々の影があまり見えてこない点に、幾ばくかの違和感を感じながら。

その一生の多くの時間を淡水の影響を受ける水域で過ごすことが求められるが故に、極めて馴染み深い魚種故に環境変化の象徴として捉えられるようになりつつあるウナギ。一方で研究者にとっては、そのヌルヌルとした体のように捉える事を容易に許さず、分らないことだらけ故に、もしかしたら細分化の極限に行こうとする生態学的、分類学的な研究の狭路から、生物学の研究者自らが抜け出すための道筋を描き出そうとしている一冊なのかもしれません。

夕暮れの諏訪湖とシジミの放流実験看板時に「養殖池」とも揶揄される諏訪湖で実施されている、人工砂洲でのヤマトシジミの放流実験湖畔にて。

シジミを始め、江戸時代以降、繰り返し続けられてきた、各地から移植された魚介類によって漁撈が成り立っている諏訪湖。同じく移植されてきたワカサギの採卵事業は、今や日本中の湖沼におけるワカサギ供給の中核を担うようになっています。

この湖にも以前はウナギが遡上しており、対岸の岡谷市は今でもウナギを始め淡水漁獲物料理を名物としていますが、ウナギは完全に養殖頼り。それでも、職漁者や養殖業者が、これらのサイクルの最先端にある事で成り立っている事実を忘れないために。

<おまけ>

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