今月の読本「北の無人駅から」(渡辺一史 北海道新聞社)カニとミツバチが抱いた想いが北の大地で人と交わる場所で

夏休みに入って地元の本屋さんで始まった、全国の地方紙が刊行する本を集めた、ふるさとブックフェアで手に取った一冊。

以前からネット通販で見かけて読んでみたいと思ってはや数年、このような機会を得て、漸く手に取る事が出来ました。

私の夏休みの過半を持って行ってしまった、全ページ数791、原稿用紙1600枚分の言葉を刻み込んだ分厚い一冊に込めた著者の想いとは何だったのでしょうか。

北の無人駅から今月の読本、2011年と少し以前に刊行された「北の無人駅から」(渡辺一史 北海道新聞社)をご紹介します。

表紙の美しくも寂しさが付きまとう写真と表題から、郷愁を感じさせる鉄道エッセイなのかなと思わせますが、内容は大きく異なります。全7章で語られる物語のうち、無人駅や鉄道に関わる人物を主たるテーマにして語られるのは第1章の小幌駅と第4章の北浜駅(部分的には第2章の茅沼駅を含む3つ)。それ以外のお話に於いて、無人駅は話の導入に使われるに過ぎないばかりか、第3章の新十津川駅と第6章の増毛駅(下)は、全くと言っていいほど駅について語られる事はありません。

無人駅をテーマにしたエッセイだと思って本書を手に取られた方、特に鉄道ファンの方にとっては、読んでいくうちに首を傾げてきてしまうかと思われますし、最後の方に行くと読むことを躊躇ってしまうかもしれません。その内容の変化は、正に著者の視点の変化と軌を一にしています。

内地に生まれて、学生時代に渡道して憧れの地となった北海道。その後、北大に進学し、そのまま札幌を拠点としたライター活動を続けてきた著者の筆致には、当初、著者自らも指摘するように、ライターとして手掛けたパンフレットや雑誌の記事に見られる、明らかに、憧れの大地・北海道を描写するという旋律が流れています。高度成長期からバブル崩壊前までに繰り返し北海道に押し寄せた若者の波、カニ族やミツバチ族と呼ばれた彼ら、彼女らの視線そのままに、北海道という大地の中に、都会の生活にない自然や環境、素朴な風俗を見出していこうという想いが全面に出ています。

観光ガイドやネットで供される情報の更にディープな部分に潜む風景の断片や、根底に横たわる暮らし往く人々の姿を掘り起こして伝えていこうという、ライターとしての好奇心と取材意欲が軸となって描き込まれる冒頭部分。鉄道ファンや北海道のコアな部分をもっと知りたいと思う読者を惹きつける内容が存分に展開されます。

ところが、読み進めていくと、徐々にそのようなイメージと異なる内容が散見され始めます。コウノトリや野生動物の農害との折り合いに悩む農家の側面を描きつつ、オオカミ再導入も念頭に、釧路湿原でオオカミと共同生活を営む夫婦。北海道一の米どころになった新十津川で苦悩しつつも大規模営農を行うコメ農家と根深く絡み合うJA、曲折を経る北海道のブランド米戦略。北洋漁業の盛衰とニシン漁、僅かに残った漁の仕掛けを狙うトドの食害。そして、白滝シリーズの向こうに見る、小さな自治体における自治のあり方。

欄外に「CLICK!」と表記して、各章の後ろにそれこそ通常の補記を遥かに上回る分量で記載された解説文章を用意されている点は極めて親切かつ、著者の研究熱心さを表す体裁だと思います(その分、極端に分厚い一冊となっていますが)。北海道の魅力や実情の一端を感じたい読者や、表題に惹かれて読まれた鉄道ファンに向けた配慮としてはとても素晴らしい事だと思います。一方で、これらの事情に個別に詳しい方であったり、歴史や民俗学、地方政治や農業、漁業政策に多少なりとも知識のある方(類書を数冊読まれている程度でも)が読まれると、本文はおろか丁寧に纏められた補足すら物足りなさを感るのではないかと思わせるのも、また事実です。

少し強引さも残しながら、年数をかけて繰り返された丁寧なインタビューを積み重ねた、コアなテーマに沿って描かれる北海道の新たな魅力の側面を浮かび上がらせるという、著者の手掛けられてきたライターとしての見識で魅力的に描かれた前半。対して、後半に行けばいくほど、それを描きたいと著者が強く願っているにも関わらず、フォーマット的にも量的にも薄味感を感じる、ライターという職種に対して多少の劣等感を抱きつつ綴る、北海道の今の現実を見つめるルポルタージュとしての側面。

著者がそうであったように、カニ族やミツバチ族だった内地の人間が抱いた想い、その魅力をさらに引き出そうとして描く筆致と対峙する、それより遥か前から入植し、その地に根付きながら代を重ねて生きてきた人々と長年に渡って関わり合ってきたことで生まれた想い。余所者だけど内地の人間じゃない、もう何年にも渡って、同じ大地で、目の前に見続けてきた人間として、その裏側に潜む本質を描きたいと願って描いた部分に対して、自らの知見を補うかの如く、補足説明に詰め込んで描かざるを得なかった部分の微妙な乖離。どちらの内容を本書に期待したかによって、大きく印象が異なって来るようにも思えてきます。

二つの筆致が遊離してしまいそうな中で、著者の想いは何処にあったのでしょうか。それは、2章に渡って描かれる、増毛のニシン漁の盛衰と、僅かに街路に残る当時の様子を踏まえつつ面倒がりながら往時を語る人々。そして、ニシンが海岸から離れ、人がめっきり減った今もその不便さをそうとは捉えず留まり続ける増毛、そして雄冬の人々との繰り返される交流の中に描き込まれているようです。

著者があとがきの最後の最後に述べている一文がそれを雄弁に物語っています。

「最後に白状してしまえば、私は無人駅にも鉄道にも、じつは大して興味はなかったのだ。興味があるのは人だった。

無人駅をテーマにしながらも、私は人を求めて旅をしていた。」

表題を放り出す様な発言に、本書を読まれた方であれば、もうとっくに気が付いていたはずです(思わず笑いながら、頁を閉めた本書を布団に放り出してしまいました)。

あの時代、多くの若者が北の大地に思いを馳せて、赴いて、求めた疑問の答えを、自らの筆で紡ぎ出し、見出した著者と、北の大地に根を張る人々との語り合いの物語は、今も続いているようです。

<ちょっと補足>

帯にありますように、本書は2012年度のサントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞しています。この選考について選考者評(袴田茂樹氏)が余りにも明快に本書の立ち位置を指摘されています。本書を読んだ後に見たのですが、読後の微妙な感覚を見事に言い表していて、ちょっと驚いた次第です。

民俗学でも、社会学でもない、もちろん新聞記事でもない。「ライター」だから描き得る視点の大切さを感じて。

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