今月の読本「イワナとヤマメ」(今西錦司 平凡社ライブラリー)フィールド分類学の金字塔はフラットに追及するエッセイとして

今月の読本「イワナとヤマメ」(今西錦司 平凡社ライブラリー)フィールド分類学の金字塔はフラットに追及するエッセイとして

一昨年の秋だったでしょうか、平凡社ライブラリーさんがSNSを通じて募集していた復刊アンケート。

最近は何やらBLやちょっとキワモノ系(腐ですかぁ…)の作品推しのようですが、バブル前後の一時期、このシリーズは自然科学に関する多くの作品を取り揃えていました。

当時は本屋さんというより釣具屋さんの書籍コーナーで見かけた懐かしい作品を推させて頂いたところ、復刊リストに載せて頂けた一冊。

昨年の復刊以来、出歩く先で本屋さんの前を通りかかる度に飛び込んでは探し続けても見つける事が出来ず。マイナーな復刊作品は全国チェーンの本屋さんでも地方支店には廻って来る事はないようで(本屋さんで注文せいというのはごもっともなのですが…)、結局ネット通販経由で買うことになってしまった、復刊一年後に漸く読む事が出来た一冊のご紹介です。

今回は「イワナとヤマメ」(今西錦司 平凡社ライブラリー)をご紹介します。

本書の著者である今西錦司先生は既に故人ですが、釣り人や淡水生物学の分野では極めて有名な方。後に日本モンキーセンターを設立され、日本における霊長類学の基礎を築かれるという多彩な経歴を持つ研究者です。元来は水生昆虫の研究者だったのですが、金字塔ともいうべき成果は、本職の分野だけではなく、その水生昆虫を餌とした渓流の魚たちの分類でも打ち立てたもの。更に述べれば、その論考は論文としてではなく、学会誌以外の雑誌などで発表され、学会側が追認せざるを得なくなったという、当時としても破天荒ともいえるアプローチと壮挙。現在の釣り師やアングラーをはじめ、写真家や収集家といった学術的な資質、経歴とは別次元の立場でも、フィールドで活躍されている方が学術的な成果に寄与出来る事を他分野の研究者として実地を以て示された、フィールド生物学の先駆となった事例を示した内容で綴られる一冊です。

本書は、その代表的な論考である「イワナとヤマメ」および「イワナ属-その日本における分布」の2編と、その論考を纏めるに当たって、広く全国をそれこそ網の目のように釣り歩いた登山家にして渓流釣り師としての視点で語るエッセイに、戦前を含めて、釣りに纏わる数点の小作品をまとめた一冊。戦前の1930年代から主著を含めて最も新しいものでも1960年代末の作品と少々古いのですが、そのような感じを全く受けない、研究者の方の著作らしい、平明な筆致で貫かれています。

地方によって呼び名が異なり、河川毎に、更には降海や本流、湖への回遊によって形態や模様も変化に富むイワナ、ヤマメ。現在のような遺伝子分析による分類学が未成熟な段階における、形態や生息環境に基づく分類が主であった当時。学会でも百家争鳴状態にあったその分類に対して、魚類は本職ではないが、山を歩き渓流を跋渉する事を生業としてきた、水生昆虫の研究者であった著者は、その後に覚えた玄人肌の釣技を駆使しつつ、当時はまだ豊かに残っていた(1960年代前半、著者は既に憂いの言葉を述べているが)各地の渓流を、地元の協力者や著者の研究に興味を持った研究者の協力を得ながら事細かに探索していきます。その結果、各地でそれぞれに呼ばれていたイワナ属たちのすべてが一つの属に集約される事を明確化し、遺伝子分類学が発達した現在でも、著者が提唱した分類定義(水温による棲み分けという考え方を含めて)が依然として利用され続けています(ヤマメの方については少し議論を先走りすぎたようですが)。

ここで著者の筆致に特徴的なのが、所謂釣り師や自然愛護家によって書かれた著作にみられる、自然への畏敬に満ちた、渓と魚たちへの哀歓を込めた詩情にも似た想いを綴る内容に対して、研究者らしく極めてドライに綴っていく点です。現地での行動やその釣果、最も注目していた彼らの形態や模様を、自らの検証と真正面から照らし合わせていく。他の研究者たちのこれまでの報告内容への厳しい指摘、詳述される自らの結論への揺ぎ無い想いを積み上げていく過程。その冷静な筆致は、終章として掲載された、若くして山で命を落とした芦峅寺の案内人へ送る哀別の辞においても崩れることはありません。

本書に釣り師が書かれた釣魚礼賛といった内容をご期待される方には、正直にいってお勧めできないのですが、もう少し視点を広げて、彼らの生活する場と、その多様な形態への不思議さを追求していく、自然科学の研究者としての矜持とその足取りを綴った一冊として位置付けるのであれば、これほど快活に、雄弁に物語る作品はありません。

また、現在の淡水生物の研究において、分析技術の進化や社会的道義性の延長とも捉えられる生態系サービスといった考え方がそれをもたらしたのでしょうか、時に悩みこんでしまうことがある点について、著者は極めて合理的に述べていきます。曰く、水系を跨いで別亜種が紛れ込むのは、聞き取りを行えば分かるように以前から人がその魚たちを渓を跨いで放流しているからであり、生息の減少については、釣り人の自制とともに、人工養殖技術の確立とその放流による回遊の解明、人工養殖による増殖を図ることを考えるべきである、と。その内容は、種の多様性と環境を時に無垢の宝石のように、介入する事を時に破壊と断じる現在の風潮をもってすれば、暴論とも見做されるような見解かもしれません。しかしながら、後の文化人類学者として片鱗が見受けられる、人が山々を跋渉し、生活していく事を至極当然とした著者の視線はそのようには捉えないようです。そこには、生物学の研究者としての現実を踏まえた、更には著者のそれまでの歩みが明瞭に刻まれているようです。

その印象を伝える、後半に纏められた三編の海外における釣行記。戦前の大興安嶺での探検における食料調達の為の釣行と、戦後に調査のために訪れたカラコルムにおける釣行を綴ったエッセイなのですが、その筆致には現在では多分描き得ない視点で綴られます。

遥かヒマラヤの懐までに自分たちの生活スタイルを持ち込み、放流され、丸々と太ったブラウントラウトを釣りに向かう、既に植民地としての立場ではなくなったにも拘わらず、召使のごとく地元の人を使いながら悠然と釣行に訪れる英国紳士親子。その一行に加わり、さもありなんという様子で描く著者。大興安嶺を往く探検行でも、現地の人々を使役している事が明白に判るにも著述にも拘わらず、それを意識することなく綴り、ロシア人の駄馬使いが使う目新しいスプーンでの釣りを一緒になって興じる姿を描く、なんともフラットな描写。

グローバリゼーションと地域への回帰が双方で論じられ、遺伝子分類学が急速な発展を遂げる中では余りにも古典に類する内容かもしれませんが、それでも強く惹かれる透徹した視点と筆致に魅せられながら。

戦前の京都学派の雰囲気が漂う、卑屈さや狭隘さを感じさせない(釣技や釣果については、釣り人の性故か、ちょっとした屈折感はありますが)往年の大研究者が自らのフィールドの周辺で見つけた好奇心への探求する想いに触れる一冊です。

 

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藍の空、八ヶ岳ブルーの下で(2018.2.18)

藍の空、八ヶ岳ブルーの下で(2018.2.18)

春節を迎えた今週。

長くて寒い、八ヶ岳山麓の冬も漸く折り返し点。

寒さはまだまだ続きますが、冬の八ヶ岳が最も美しく映えるシーズンは、冷え込みが続くこの時期です。

ピークを迎えて藍色に染まる八ヶ岳ブルーの空の下、快晴になった日曜日にぐるっと一周です。

冷え込みが再び戻ってきた朝の八ヶ岳。中央線や中央道から眺められる方にとってはお馴染みの八ヶ岳を南側から望む冬の景色です。中央高速の八ヶ岳P.Aを見下ろす場所から。

粉雪に塗された八ヶ岳が美しく映えるのは、やはり朝の青空です(2018.2.14)。

午前中は八ヶ岳の東側、野辺山から清里の方向が順光になります。

東沢大橋の赤と雪を戴く八ヶ岳の前衛、権現岳のコラボレーションが楽しめます。

清里を越えて野辺山側まで廻り込むと、標高は1300mを越えてきます。

正面に主峰の赤岳と後方には横岳が望めるようになります。

高原地帯の牧場を抜けていくと、八ヶ岳を側面から一望できる場所に至ります。

冬の低い太陽が真上に上る頃、八ヶ岳の雪渓が八ヶ岳ブルーの空から浮かび上がります。

唯々、藍色の空が広がる下で、暫し風の音に身を委ねながら。

今年は降雪が多いのですが、一方で風も強く、地温も高いのでしょうか、広大な牧草地の所々に枯れた牧草が顔を覗かせています。

冬の低い太陽は、お昼を過ぎると急速に角度を低くします。

ぐっと海ノ口側に廻り込むと、傾き始めた陽射しが柔らかな表情を作り出します。

野辺山を離れて、八ヶ岳の裾野を北側を廻り込んでから、再び山懐に飛び込んでいきます。

西に傾いてきた日差しを受ける、蓼科牧場から眺める蓼科山。

昨日までの強い北風が収まって、穏やかな表情を見せてくれました。

3時を過ぎて日差しが西に傾いてきましたが、既に春節。まだ日差しが充分に残っています。

もう少し足を延ばしてみましょう。

大門峠を越えて八ヶ岳の西側に廻り込みます。

ビーナスラインから望む八ヶ岳のパノラマ。気温-9℃と地上に比べればぐっと冷え込んでいますが、風が穏やかなので寒くは感じません。

先ほどは足元から見上げていた蓼科山を今度は正面から。

標高1800mに迫る車山の肩にある、伊那丸富士見台からは、南北双方の八ヶ岳連峰の全てを俯瞰で望む事が出来ます。

そして、陽射しが西へと落ちてくると、空の色は藍色から柔らかな青へと移り変わっていきます。

夏のシーズンであればハイカーが昇るであろう車山の山頂へ至る小路も、今は小動物の足跡が残るばかり。

西日が低く山裾から照らし出すようになると、木が殆ど生えない車山の山裾が真っ白に染め上げられていきます。柔らかな夕暮れの青。

振り返ると、霧ヶ峰の向こう、西の空には既に次の雲たちがやって来ました。

5時近くなっても山の上は明るく、随分と夕暮れの訪れが遅くなってきた春節の夕暮れ。

厳冬の空を藍色に染める八ヶ岳ブルーが楽しめるのも、あと一ヶ月ばかりとなりました。

 

今月の読本『勘定奉行の江戸時代』(藤田覚 ちくま新書)幕府270年を実力と出目で支えたノンキャリアの「山師」たち

今月の読本『勘定奉行の江戸時代』(藤田覚 ちくま新書)幕府270年を実力と出目で支えたノンキャリアの「山師」たち

江戸の三奉行といえば寺社奉行を筆頭に町奉行、最後に連なるのが勘定奉行であることはご存知かと思います。

大名役の寺社奉行は確かに影の薄い存在ですが、やはり一番有名で、取り上げられる機会も多いのは町奉行。江戸の町民たちと密接に接していると感じられる彼らですが、そのキャリアパスは名門旗本でも最上位に位置付けられる両番からの出身者でほとんどが占められ、実際には江戸の町民たちとかなり距離がある、当時のスーパーエリート達だったことはよく知られているところです。

では、町奉行と対比するように扱われる勘定奉行のキャリアパス。格式では町奉行に僅かに劣りますが、万石以上の大名と並ぶ五位の諸大夫にして旗本が務める最高職の一つである、幕臣中でも最高位に位置付けられる彼らの約1割が、出自もあやふやなお目見え以下の御家人や、御家人株を買った、または御家人株を買った上で、旗本家等に養子で入った武士とも言えない人物やその子供たちが務めたと聞くと、少々驚かれるかもしれません。

今月の読本は、そんな彼らの姿を近世史の大家が興味深く解説してくれる一冊をご紹介します。

今月のちくま新書新刊より『勘定奉行の江戸時代』(藤田覚)のご紹介です。

著者の藤田覚先生は、日本の近世史、特に江戸後期の幕府、朝廷関連の政治史の専門家で、一般向けにも数多くの著作を著されています(現在は東京大学の名誉教授です)。すでに大家と呼ぶべき研究者の方が改めて新書として送り出す一冊は、研究者向けの書籍とは異なる、著者の研究上で抱いた好奇心を広く知って欲しいという思いで綴られています。

それは、最後の武士の時代である江戸幕府において、そのトップにまで上り詰めた人物への興味と特異なキャリアパス、彼らが行った施策がどんな内容であったかという点。この二つを幕府の財政政策と結び付ける事で、270年も続いた幕府におけるターニングポイントには、常にノンキャリアの勘定奉行が存在していたことを浮かび上がらせていきます。

前半で述べられる、幕臣の昇進ルートの解説と勘定所の構成。ご承知のように町奉行所の構成は、大枠で与力、同心の2段階しかなく、御家人役である与力の石高は200石と高くても、転属や昇格は殆どなく、彼らの中から町奉行となった人物は一人もいません。一方で、勘定奉行のオフィスである勘定所の構成はより複雑であり、後期には勘定方と公事方の2系統に分かれ、道中奉行を兼帯し、その人員は運用や調査業務も担っていた評定所への出役や、郡代に代官、更には金銀銅座、長崎会所へも出役をするなど、全国にその組織は広がっていました。

格式では町奉行や寺社奉行に劣るものの、業務規模では圧倒的に広大な勘定所を所轄する勘定奉行。広範な業務を遂行するためには多彩な人材を擁することが求められ、それ故に勘定所への採用は、いわゆる番方のような、出自や家格、人物を以て番入りするというスタイルではなく、早くから算筆吟味で採用されるという、科挙を否定した近世までの日本の行政としては異例の、選抜主義が採用されていたことを示していきます。

そして、多彩な業務に携わるということは、新たに発生する業務に対して柔軟に対応できる人材の供給源でもあったという点。彼ら勘定所を振り出しに幕臣としての業務に就いた人々は、勘定所の中でステップを上り、さらには勘定所を離れ、出役や他の職場(普請系や御三卿の家老など財務に関わる職種が多い)へと広がっていくことになります。エリート旗本の昇進コース(この辺りの構造的な解説は山本博文先生の、家格については故・小川恭一先生の著作に詳しいです)である、番入りから目付を経て遠国奉行などへと昇格する、現在のキャリア職にもその影響が強くみられるルートとは異なる、勘定奉行特有の昇格ルート。勘定所の内部昇格から、または目付ルートへと乗り換えての昇格、更には多額の金銭と業務を扱うが故に、老中からの掣肘を本来の目的として設けられた勘定吟味役からの昇格(もう一つには金さんこと、遠山景元のように将軍家の側近である御納戸や小姓から下三奉行を経て送り込まれるパターンも)と多彩なルートを経て幕政のトップへと就任した彼らには、江戸時代を通じて常にある重要な目的が課せられることになります。

本書の中盤以降で5章に分けて時代ごとに語られる、歴代の勘定奉行の活躍と幕政。皆様がよくご存じの江戸時代における時代区分ごとに、ノンキャリアといえる勘定奉行が輩出され、彼らの手を通じて様々な施策が繰り広げられることになります。

その施策の中核となるのが、緊縮と改鋳による出目。特に本書は、その時々の勘定奉行の特異な出自や時代背景における、活躍した人物を紹介する内容と同じくらいに、出目による幕府への財政貢献と、その反動である通貨品位の下落の対比を綴ることに力を注いでいきます。

トップバッターとなる、もはやお約束の荻原重秀。ここで著者は新井白石とのし烈な反目を扱う一方、昨今特に言及されるようになった、元禄経済の繁栄をもたらしたのが、荻原重秀の通貨政策であり、そのインフレ誘導政策による物価上昇率(年率で3%程度)は、経済成長のためには、充分に穏便であるという論拠に疑問を挟みます。古典的な封建的重農主義者で経済音痴の学者に過ぎない白石に対して、実務家として、商業資本主義を見据えた、開明的で極めて有能な財政政策者であったとの経済系学者の皆様からの荻原重秀に対する評価に対して、あえてその著作を指名して、近世史の専門家としての反論を述べていきます。

いわく、現在の水準における経済成長率と当時の低成長社会における経済成長率を同じ視点で述べること自体着眼点がずれており、その意味では幕末の開港直後の物価上昇率(これも出目でカバーすることになるのですが)は、ハイパーインフレと称すべき水準であったとします。また、改鋳率と物価上昇率を比較すると、比較的類似の数値が得られる点を指摘して、通貨供給量を増やしたことで経済の循環がよくなったわけではなく、単純に改鋳によって、インフレが誘発されたに過ぎない(特に銀使いの西国を狙い撃ちにした点は従来から指摘されているとおりです)と指摘します(荻原重秀が残した瓦礫云々の口伝について、幕末には現実となるのですが、大局的にはこの時点や更には大恐慌を経て戦後のニクソンショックの頃まで、世界的にも貴金属本位制を志向していたはずです)。

その上で、著者は根本的には経済政策ではなく幕府の財政運営の問題として、全国政権としての国家規模での事業を賄う必要に迫られる一方で(本文中にもあるように、御手伝い普請という技も使うのですが)、武家政権に伝統的に期待される(と、儒者や歴史学者が抱く)矜持を離れて弛緩した将軍家の浪費と、そのことに極めて関心が薄い、大名出身者で占められる閣老に対して、実務官僚として、更にはノンキャリアの叩き上げである勘定奉行が最後の切り札として放つ、キャリア官僚では踏み込めない決断を迫る算段としての改鋳と、その絶大な効果である出目による膨大な財源補てんの推移を、ほかの施策と併せて捉えていきます。

元禄を起点に繰り返される倹約を主体とした緊縮財政と農業振興、特に新田開発を中心とした収穫量増長政策とそれに伴う課税体制の強化といった予算均衡、重農主義的な財政政策と、貨幣供給を源泉とする株仲間や冥加金、更には御用金といった商業資本からの徴収を基軸に置いた、拡大経済、重商主義的な財政政策が鋭く対立する江戸中期以降。著者は米本位制を軸に置いた新田開発が曲がり角を過ぎた享保以降に繰り返される「改革」も、結局としては、その後に展開される勘定奉行が主導する出目による収納補填に頼る財政政策に依存せざるを得なくなっていく過程を示していきます。

その過程で登場するのが、大型の干拓や蝦夷地開発、商人からの御用金を集めての国家による金融や財政投資の萌芽を見る、ノンキャリアである勘定奉行が主導する大規模な投資政策。著者が指摘するように、海防や学問、外国の技術取得に対しては極めて消極的な立場を採った一方で、自らの成果は何としても出すことを迫られ、それを自らに課したが故に山師とも取られるような危ない橋を渡る事も辞さない彼ら。これら勘定所が主導した政策も決して上手くいったわけではなく、政権の交代に伴って、かれらもその浮沈を共にすることになります。

経済政策としては上手くいった例が決して多くないため、彼らが巨額の賄賂を取ったとか、成り上がり故の身贔屓や閨閥作りなど負の側面が殊更に取り上げられることもありますが、著者はその一方で、彼らのような勘定所を入口としたノンキャリアたちという、能力主義のステップを経た血の入れ替えがあったからこそ、270年もの間、幕府が曲がりなりにも全国政権として維持し続けることができた点を忘れてはならないと指摘します。

開国前夜における外国との交渉の最前線にも立つことになった勘定奉行とその属僚たち。ここで、著者は彼らの業務に対する高い順応力を認める一方、内政と財務をベースとした人材の限界を暗示していきます。ノンキャリアの勘定奉行の掉尾を飾る存在として川路聖謨を取り上げて、開国前後から余多輩出されてくる、彼とまったく同じように小身から一気に駆け上がってきた幕末の幕臣たちに対して、川路の政策と視点の限界を示すことで、彼らノンキャリアの活躍する舞台としての幕府の終焉を見つめていきます(小栗上野介はバリバリの旗本ですので本書の扱い外で)。

昨今、歴史関係の研究から少し離れて盛んに唱えられるようになった、楽観的な江戸時代への懐古主義にも感じられる数多の書籍の内容に対して近世史の大家が示す、ノンキャリアの勘定奉行たちの姿から見た財政史としての江戸時代の実情を丁寧に綴る本書。

碩学の思いが込められた筆致に暫し思考を委ねていくと、歴史研究の狭間から、平板だった歴史著述の中にもう一つの展開が明確な輪郭を伴ってすっと浮かび上がってくる、そんな一冊です。

厳冬の朝に、神が渡る湖上の道筋(諏訪湖の御神渡)2018.2.9

厳冬の朝に、神が渡る湖上の道筋(諏訪湖の御神渡)2018.2.9

厳冬と雪が繰り返される今年の八ヶ岳山麓の冬シーズン。

月曜日の5日には、諏訪の皆様が待ち焦がれた御神渡の拝観式が八釼神社の氏子の皆様が氷上に居並ぶ中、無事に執り行われ、諏訪湖の湖面を渡る氷の道が正式に御神渡と認定されました(この記録は、後ほど諏訪大社に報告され、更に気象庁と宮内庁へと報告があげられる事になっています)。

冷え込みが続いたために、一度凍った諏訪湖の湖面は容易には溶けることも無く、日々成長を続ける御神渡の氷の道。平日にもかかわらず、続々と湖畔に訪れる皆様をちょっと羨ましく思いながら、山懐に近い、こちら八ヶ岳南麓も厳冬の日々が続いています。

再び夜半にサラサラの粉雪が舞った火曜日の朝。

甲斐駒と周囲の山々も雪雲に覆われています。

朝8時を過ぎて、雪雲が離れつつある南アルプス、鳳凰三山。

雪煙を上げながら離れていく雪雲を眺める、節分を過ぎても厳冬の日々が続きます。

そして、週末の悪天候と気温の上昇が伝えられる中、やはりどうしても見ておきたいという欲望には勝てず、金曜日の朝に諏訪湖へと足を向けます。

諏訪湖の西岸、湊小学校前の船溜まり近くには、沖へと向けて伸びていく氷の道がくっきりと表れていました。

沖合を下諏訪方面へと延びていく氷の道。

船溜まりから伸びた氷の道は、沖合でもう一本の氷の道に繋がっています。

近づいていくと、八ヶ岳をバックに、昇りはじめた朝日を受けて、氷の道が輝いています。

湖畔の岸辺に降りてみます。

氷の道が岸辺へと寄り添うように伸びてきていました。

霧ヶ峰をバックに岸辺から沖合へとうねるように伸びる、氷の道。

道の先は、対岸の諏訪大社下社がある、赤砂崎へと繋がっていました。

肌が切れるほどに冷たい、気温-10℃を記録した午前7時過ぎの諏訪湖畔。

厳冬期に訪れた、冬の奇跡ともいうべき景色に、訪れていた多くの方が魅入っていました。

日が昇ってきて、氷の道が浮かび上がって見えて来る頃、御来光を目当てに訪れていた皆さんが徐々に帰られる中、少し静かになった湖畔から、南八ヶ岳の峰々を望んで。

厳冬を待ちわびた先で、再び見る事が出来た、素敵な冬の朝の一ページとして(あ、このあと車を飛ばしてぎりぎりでの出社となったのは言うまでもありません…というか、地元の皆様も「朝活」ご苦労様です)。

暖かな3連休最初の土曜日、夕方から「かみ雪」が降りしきる中、湖に浮かび上がった氷の道はどうなっているでしょうか。

注記:

本来の御神渡はこちらのリンクの図にありますように、上社側の渋崎から、今回ご覧頂いた氷の道の先に繋がって下社側の赤砂崎に弧を描く様に繋がる事となっており、写真で掲載している部分は「本当の意味での」御神渡ではない事をご承知おきください。

神事としての御神渡や諏訪大社の特殊神事にご興味のある方は、非常に有名な八ヶ岳原人さんのサイトをご参照願います(今回の写真も掲載されています)。

 

立春の午後に(2018.2.4)

厳冬の満月と月食の夜を越えて、5年ぶりの御神渡確認の知らせに歓喜湧く諏訪の皆様がちょっと羨ましかったりするこの週末。

日曜日、季節の移り変わりを知らせる立春を迎えました。

昼下がりの長坂、清春白樺美術館前。

輝く雪渓を戴き厳然と眼前に佇む威容。厳冬期の昼下がりに、この場所から望む甲斐駒は、他を圧倒する威厳を放っています。

気温5℃と標高800m近いこの場所にしては暖かな、立春の名に相応しい眩しい日差し溢れる午後。

凍結した溜池越しに望む八ヶ岳も、先週の降雪で再び白さを取り戻しています。

麓に降りて用事を済ませて再び戻ってくると、陽射しをたっぷりと浴びていた甲斐駒は、再び雪雲の中に。

穏やかだった昼下がりと打って変わって、冷たい風が吹き抜け、気温は0℃程まで下がってきました。

今年の冬は、本当に風が吹く日が多いです。

天候が悪くなる前にと、夕飯の食材を調達するために、峠を越えて諏訪湖側に降ります。

普段は静かで、ランニングをする方がちらほらと見受けられる程度の湖畔には、驚くほど多くの方々が訪れています。

日没を迎える頃、正面の雪渓を戴く美ヶ原は、うっすらと夕日に染まり始めています。

雪雲に覆われた塩嶺の向こうから、柔らかな夕日が凍った湖面を照らしています。

そろそろ日没。

湖面を這うように進む氷の裂け目の先に、夕日に染まる美ヶ原を望みます。

流石にこの時間になると湖畔を歩かれる方もまばらに。

湖面を伝う冷たい風を受けながらも、暫し、移りゆく空の色を眺めつづけていました。

陽射しがぐっと長くなってきましたが、まだ厳冬の只中にある諏訪湖。明日の朝、氏子の皆様がこの5年間、願って止まなかった御神渡の拝観式を迎えます。