再び猛暑の晩夏(2018.8.23~26)

再び猛暑の晩夏(2018.8.23~26)

台風が再びやって来た先週。

一度は秋の涼しさとなった八ヶ岳南麓ですが、台風が過ぎ去った後は猛暑が戻って来たようです。

台風の接近で、雲が山並みに集まりつつある朝。

台風の接近を感じさせる風に揺れる、例年より早く色付き始めた稲穂の群れ(2018.8.23)。

台風が過ぎ去った後、再び暑くなり始めた高原。

漸く30℃を切り始めた夕暮れの圃場。西日を浴びる満開の蕎麦畑。

圃場には暑い風が吹き続けますが、高い空はもう晩夏から秋へと向かっている事を教えてくれます。

西の空に沈んでいく夕日。

透明な空に秋の雲が広がります。

 

広告
今月の読本「天を相手にする 評伝 宮崎市定」(井上文則 国書刊行会)古代ローマ史研究者が敬愛してやまない宮崎史学の魅力を個人史に辿る

今月の読本「天を相手にする 評伝 宮崎市定」(井上文則 国書刊行会)古代ローマ史研究者が敬愛してやまない宮崎史学の魅力を個人史に辿る

東洋史学というジャンルを大成された所謂京都学派の巨塔にして、戦後から平成に入る頃まで、多くの読者を魅了してきた文筆家。京都大学教授、文化功労者の宮崎市定先生が鬼籍に入られてから、もう20年以上が経過しました。

既に過去に過ぎ去りつつある戦前派の歴史研究者なのですが、その著作は今も版を重ねて読み継がれ、2015年には『中国史(上下巻)』が岩波文庫へ収蔵、今月も『大唐帝国』が中公文庫で改版されるなど、近年に至ってもその著書が新刊、改版として送り出される、根強い人気を誇っています。

読書ファン、歴史好きな方にとって今なお魅力的な「宮崎史学」。その魅力に魅せられながら 京大大学院を経て古代ローマ史の研究者へと歩みを進めた著者が、自らの研究を放擲して(あとがきより)打ち込んだ、その筆致の魅力の源泉に迫る一冊をご紹介します。

天を相手にする 評伝 宮崎市定」(井上文則 国書刊行会)です。

まず本書をご紹介する前に、氏に対して色々と述べられている論争や歴史感、特に現代の考古学を含む学術研究成果に基づく視点に対する認識のずれについて議論することを本書は目指していません。

もちろん評伝なので、これらの議論の経緯やその応酬についても、触れられる範囲で最直近の研究者たちの発言まで拾って掲載していますが、特に研究史学的な論争については、著者は別分野の人間であると、明確に論証を行う事を否定します。

著者の想い、それは氏の著作に初めて触れた大学時代の想いを胸に秘めて、同じく歴史研究者の道を歩む著者にとっても極めて大切な、どのようにしてその視点を獲得していったのかを個人史から読み解いていく事。幸いなことに自跋の紹介文やエッセイ、同僚、子弟たちの記録が数多く残り、更には氏の高弟で数々の論考や著作の編纂を今も続ける、京都大学名誉教授の礪波護先生への複数回にわたる直接の取材が叶い、併せて資料の提供を受ける事で、記録に残る範疇における氏の生い立ちから死没に至るまでの全容を描き込んでいきます。

むしろ、第一人者である礪波先生自らも手掛けたかったのではないかと思われるテーマを、宮崎の史学そのままに敢えて東洋と正対する古代ローマ史を専攻し、私淑する著者が、評伝としてその執筆を手掛ける事の出来る嬉しさが行間を満たし、時に私的な想いも零れ滲み出る筆致。「読んでもらいたい人に分ればよい、学匠達に捧げるものではない」氏が残した言葉通り、天と読者を相手に真摯に研究と著述を進めた氏の作品に惹かれたファン、著作を手に取って興味を抱いた、多くの読書や歴史が好きになった方へ贈られる一冊。本編約370頁の更に先に50頁弱に渡って綴られる注記自体が、宮崎研究の索引にも相当する、丁寧な引用と確認を踏まえて綴られています。

東洋史の大成者であり、95歳で没する直前まで著述活動を続け、膨大な著作を有する氏の評伝(著者によると原稿用紙800枚分)のため、逐一ご紹介はできませんが、読んでいて興味深かった点をいくつか。

まず、巷間に伝えられるように、京都学派を代表する東洋史学者である内藤湖南の系譜を継ぐ存在であると云われる点について、宋を起点に近世が始まったとする認識を受け継ぐ程度で、京大在籍前後の湖南と氏の交流関係はかなり異なり、湖南の継承者とは言えないと言う点を、周囲の発言を含めて述べていきます。研究者として薫陶の受けた経緯、更には、信州の山奥、飯山出身で旧制松本高校を経た田舎者が京大での研究者としての地位を確立する強力な後押しをしたのは、むしろ桑原隲蔵であったとします。湖南のそれをシナ学と狭い範囲で捉える一方、特に著者にとって非常に密接となる東西交渉史としての視点を氏が早くから有する事になった点も、桑原の指導の先にフランス留学からその後の西アジアを歴訪する事で醸成されたようであり、後の『菩薩蛮記』へと繋がる源泉となったようです。フランス絡みと言う意味では、氏の代表作である『科挙』を書くように勧めたのは、フランス文化研究者で息子である桑原武夫であり、著者はそれを評して、親子二代続けて彼を世に送り出した名伯楽と評します(更には、退官パーティーの席上で、フランス留学時代に下宿で氏が探偵小説ばかり読み耽っていた事を暴露される一幕も)。

次に、国威啓発的な文人の従軍などではなく、意外な事に氏は一年志願兵を経て旧陸軍の少尉として実際に日中戦争時の中国大陸、そして終戦直前の本土防衛に士官として従軍していた点。時に豪胆な筆遣いで非難を恐れずに筆を進めた胆力の遠因もそのあたりにあるかもしれません。この話には更に興味深い内容が添えられており、戦後の一連の発言に繋がる一方、様々に論じられる「アジヤ史概説」の元となった、国策に従事した「大東亜史概説」を執筆する一方で、避戦、終戦も議題とした海軍の秘密会議にも参加していた(生前、礪波先生にすら話す事は無かった)事を紹介していきます。特に演習においてはその沈黙から学生たちに戦慄を走らせ、戦後の京大で政治的な活動にのめり込んでいく学生に対して非難を浴びせる一方、学部長として投獄された学生の保護にも尽力し、歴代の中国政治家として毛沢東に好意的な認識を持っていた氏の行動からは、単純に色分けできるような人物ではない事が窺われます。

そして、実証論的な研究を指向した桑原隲蔵に師事した氏にして、独自の史観を有することになる東西交流史の更に伏流に潜む、素朴民族と文明社会の対峙と言う視点。現代であれば非難を浴びるであろう見識かもしれませんが、当時の社会情勢や前述のように海外に居住し、旅した視点から得られた、文明間の摩擦や上下に列せられることを目の当たりにして来た氏にとっては、当時の日本もまた、素朴民族と認知すべき存在であった、その先に戦前日本の活動は是認されるという認識を持ち続けていた事は否定できないと、氏自身の発言からも認めていきます。

色々な側面を持ちながら、それでも多くの読者に愛される氏の著作。その面白さの源泉は、簡潔で明瞭、それでいながら時にダイナミックに持論を以て攻め立てる(『論語の新しい読み方』は金谷治訳版に親しんだ私も卒倒しっぱなしでした)筆致がぐいぐいと読者を引き込んでいく点では論を持たないかと思います。中でも、氏の著作と自跋を共に辿った著者にして述べる

「宮崎自身が本当に面白いと思っていることを面白く書いたからであろう。」

と察する、氏がその人物に惚れ込んだ『雍正帝』に最も現れているようです。

その上で、著者が氏の著作に興味を抱いた点と同じような部分がある事を、本書から見つける事が出来ました。

私が中国史の本を読むようになったのは、実はかなり遅く30歳を目前にした頃。そのきっかけは中公文庫への収蔵が始まった『中国文明の歴史(全12巻)』の1冊、貝塚茂樹先生の『春秋戦国』がきっかけでした。宮崎先生の著作に触れたのも、このシリーズの9冊目『清帝国の繁栄』(と、同じタイミングで刊行された岩波現代文庫版の「論語の新しい読み方」)という、氏の論点が一般読者向けの筆致として存分に振るわれている作品。そのいずれにも日本史や中国史と言った枠組みによる視点、個別の歴史研究分野に留まらず、広く社会全般、行政や経済、個人史や芸術に至るまでに渡る通史としての広大な視野が備わっている点に強烈な印象と魅力を感じたのでした(その後、中公クラッシック『アジア史論』(絶版)を暫し座右に留め続ける事に)。

今年の始めにご紹介した非常に興味深かった作品の著者を含むグループが近年提唱されている「グローバルヒストリー」という視点。何処かでこれと同じような読後感を感じたなと思って、本書をめくっていると、やはり著者も同じような印象を以て、氏の世界史に対する視点を言及されている箇所を見つけて、思わず嬉しくなってしまった次第です。

既に古典の領域に入りつつありますが、あらゆる読書が好きで、歴史が大好きな方にとって、畏敬の念を抱きつつも、今でも身近にその著作を手に取る事が出来る、今読んでも唸らせられるその筆致の神髄が生み出された経緯とバックボーンを評伝として纏められた一冊。

歴史を生み出すのは、史実と共にそれを描く歴史家の筆致があっての事。その史実の推移を広範かつ独創的な視点で(時に強烈な方向性を有しながら)構築した、三つの世界から並立する世界史を生み出そうとした足跡を人物史として追う一冊。万人向けの内容ではありませんが、歴史を描いていくというテーマにご興味のある方には、きっと興味深い内容の筈です。

2015年に岩波文庫に収蔵された、出版当時にその末文に驚嘆を持った事を、当時の読者として改めて解説で述べられている点も愉しい『中国史(上下)』と、没する直前の枕元で、上がって来た目次の原稿を最後に微笑みながら確認したという、氏の論考が濃密に収められた『中国文明論集』。どちらも一筋縄ではいかない一冊ですが、思わずのめり込んで読んでしまう本達です。

地域の記憶と想いを繋ぐ場所から日本のシルクロードへと繋がる記録達を(北杜市郷土資料館と企画展「北杜に汽笛が響いた日」)2018.8.19

地域の記憶と想いを繋ぐ場所から日本のシルクロードへと繋がる記録達を(北杜市郷土資料館と企画展「北杜に汽笛が響いた日」)2018.8.19

毎朝、その日に合わせた内容で所蔵する資料の紹介をSNSで発信されている、国立公文書館さん。ある日、こんな内容の投稿をされていました。

すぐ近くにある施設で開催中の企画展の紹介を添えた所蔵史料の紹介。近隣に住んでいてもこれらの企画展の開催情報は広報(観れる方は限られる)以外で全く告知される事は無く、ローカルニュースででも扱われない限り、実はこんな形でしか知る由が無いという非常に情けない状況ではあるのです。

各施設に訪れると、ロビーにそれこそ溢れ出しそうなくらいに並べてあるフライヤーと称される、各展示施設が発行している開催告知が掲載されているパンフレット。実際にこれらのパンフレットを手に出来るのは、公共施設やごく一部の観光案内所に限られるため、多くは一般の地元民や観光客の方には全く知られる事が無いままに開催されて閉幕してしまうであろうという悲しい現実を、今回も再び見せつけられることになりました。

実に8つの町村が合併してできた北杜市。旧町村が収蔵していた文化財、史料再編成のために集約された資料館の一つが、旧長坂町の清春芸術村の向かい側に建てられたこの北杜市郷土資料館。旧大泉村の谷戸城跡に建てられた考古資料館とペアで運営されています(北杜市のHPは悪夢のような非階層パラレル分岐構造をしているので直リンクで)。

綺麗で立派な建物ですが、写真の左手に少し映っている低層部はバスケットコートを有する体育館、本館のスペース約半分も市民向けの貸フロアと、やや実が備わらない嫌いもありますが、北杜市の学術課も設置される、市民教育の中核施設として位置付けられています。

エントランスを進むと、この館のメインテーマを伝える、長坂町から八ヶ岳を望む、東山魁夷の第10回帝展入選作である「山国の秋(試作)」複製画が出迎えてくれます(本番作は逸失、実物は兵庫県立兵庫高校武陽会所蔵)。

本館1階部分に押し込まれるように作られた、山国の秋に描かれた民家を完全に再現したセット。

馬屋を取り込んだ土間から座敷に直接上がる事も出来ますし、備え付けられた調度品は資料館が収蔵した当時の物。建物自体は全くのフェイクですが、座敷に囲炉裏、馬屋や竃まで(絵馬や秋葉様の札が添えられているのはとても嬉しい)細部に至る丁寧な作り込みがされており、本館のテーマの一つである、昭和初期の生活環境を伝える教育資料として、とても良い出来だと思います。

前述のように1階は主に市民向けの貸しスペースで、展示のメインは民家のセットを望みながら階段を上がった2階。

3つの展示フロアからなる展示室のうち、2部屋が常設展示。入口側の「通史の杜」と題されたスペースは旧石器時代から前述の町村合併までの地域の歴史を時代とポイントを絞って紹介しています。

考古資料館の展示内容と重複しないように配慮がされていますが、やはり重複の感も否めないのは事実。一応、金生遺跡を軸に縄文から古代までの考古学的な解説と、谷戸城を軸とした中世、近世初頭までの解説は考古資料館、地域の外縁部と近世以降はこちらという役割分担が為されているようです。

本館のメインテーマとなる、地域における生活の記録を残す点で印象的な二つの国指定重要文化財の紹介と添えられた屋根の修理道具。厳しい気候と、近世における殆どの期間、甲斐一国は天領であったため、今に至る博徒風儀の荒っぽい気風が培われた一方、天領故の税率の低さから豪農が成長する余地が大きかったことの一端を、現存の建築物から垣間見る事が出来ます。

何枚かある展示パネルの中で、非常に興味深い解説が述べられている部分。

養蚕が盛んになる前、切妻造りの家作は麦藁、入母屋造りの家作は茅掛けという、自然環境と作物が家作と密接に関わってきたことを示す解説です。また、稲藁葺きが甲府等の低湿地に限られる点も、甲州に於いて稲作を中心とした農業生産性は非常に低かったことを暗示させます。

もうひとつの展示室は「産業の杜」と題された、近現代をテーマにした展示(当日は展示スペースの一部が鉄道模型を置くために避けられていましたが)。主に農耕関係の解説が中心となりますが、実際に使われた道具をじっくりと眺める事が出来ます。標高1000mに至るまで水田の開墾を進めようとした、先人たちの稲作に対する執念の軌跡も綴られています。

現在は梨北米というブランドを打ち立てるまでに稲作が普及しましたが、やはり峡北は馬の里。平安時代まで遡る馬と人の歩みが近代に至ってどのように変化したのかを解説していきます。

とても珍しい「馬の鼻ネジリ」と称される、馬の鼻に差し込んで捻り上げると馬が大人しくなるという、獣医(当地では伯楽と呼ばれた)が使っていた道具も展示されています。

高根町の鎧堂観音で初午(この行事、構内に祠を構える地元の施設や工場などは今でも行うのです)の際に売り出された、馬屋に貼る御札。東西で向きの違う絵柄が用意されてるとの事。今でも牛の御札は頂けるそうです。

そして、この資料館が本邦唯一であろう展示内容がこちらの「国産ホップ・かいこがね」開発の歴史と峡北におけるホップ生産から一旦の終焉までの歴史を辿る展示。

キリンビールからの委託生産により、昭和20年代の末まで、全国屈指の生産高を誇ったホップ。その中から生み出された突然変異種を系統選抜した「かいこがね」は東北地方に生産拠点を移しながら、現在でも国産ホップとして作り続けられている事が紹介されています。なお、展示ボードでは平成6年(1994年)に県内でのホップ生産が終了したと書かれていますが、図録にあるように、その後2011年に地ビール向けとしての生産を再開、自ら醸造まで手掛ける事を目指した就農者も誕生したことは、今年の春に全国放映された番組でも紹介されている通りです。

二つの常設展示室に挟まれた形になる企画展示室。

今回のメインである企画展「北杜に汽笛が響いた日」の会場です。

ゆったりとしたスペースに展示された史料。期間中入れ替えながら1点ずつ貸与展示される国立公文書館収蔵の貴重な史料を含めて目録では全164点の展示とありますが、うち約60点は直接の関連性が薄い鉄道模型や鉄道趣味者のコレクション(廊下側に展示)で、実際の史料としては100点弱の展示。ここで本館と本企画展の立ち位置を明瞭に示すのが、大多数の展示史料の所蔵が地元の個人に委ねられているという点です。

地方ではまだまだ多く残る、近代に至り名士と呼ばれた地元の有力者、名望家の子孫の方々が継承されてきた古文書、史料を地域の歴史を伝える一環として広く公開することも命題とする、本資料館の存在意義を存分に示す企画展示であると思えました。

今回の展示のテーマとなる、日野春から小淵沢までの鉄道ルートと周囲の交通路の3Dマップ(地理院地図+陰影図+赤色立体地図の合成で作成)展示のメインは、今年開業100周年を迎えた、本館の所在する長坂駅が何故、中央線開通時に設置された日野春、小淵沢両駅に遅れて開設されたのかを、中央線敷設の背景から説き起こしていく事。地元の請願書面や、開業前の測量図。新たに開拓された長坂駅近辺への入植に関する書面や開業に関する祝辞、祝電。地元有力者が残した書面などが豊富に展示されています。

中央線のルート選定自体に、当時の輸出産業の原動力であった蚕糸の一大拠点である諏訪と横浜への積み出しにおける集積地であった八王子を結ぶことを強く求められていた点はよく知られている事かと思います。

日本のシルクロードと言うべき、横浜から内陸の製糸工場へと向かう鉄道網。その中でも最大の物量を誇った諏訪の製糸を支える養蚕、繭の集積は全国から行われましたが、至近であった伊那谷や峡北からも鉄道を通じて集積を行っていた事が知られています。

旺盛な繭の需要に応えるために沿線農家の開発にも意を注いだ諏訪の製糸業者たち。釜無川沿いを通る旧来の甲州街道から、花水坂を通って七里岩台地の上を走る信州往還、その後の中央線への荷受け地として成立した日野春。江戸時代から続く番所が林立する国境の集落、信州往還の継宿として成立していた小淵沢からの集荷だけに飽き足らず、その中間に位置する長坂への信号場開設に便乗しての駅設置に資金面(地元清春村に次ぐ出資率)でも多くの援助を与えた事が史料からも把握されてきます。

展示室の中央に飾られた、Nゲージのジオラマとして組まれた長坂駅と、駅開設と共に拓かれた長坂の街並み(奥側が小淵沢方向、傾斜を下る手前側が日野春方向)。

現在はスイッチバックが解消されて、ジオラマの手前に走る本線上にホームが設けられていますが、現在でも保線基地として残存している引き上げ線の跡と現在は商店街に転じた、鉄路から離れて台地の縁に切り拓かれた街並みが明瞭に判ります。

 

同じ場所を地理院地図を利用した3D地図で。

勾配を嫌う鉄路は今でも人家の少ない丘陵の低い場所を縫うように伸び、駅が開かれた後に成立した集落は鉄路より高い尾根筋、旧来の集落や田畑は更に鉄路から離れた尾根の外側に広がっている事が判るかと思います。

主な出資者であった清春村(本館の所在地、手前下側の博物館マークが本館の向かいにある清春白樺美術館)の集落は大深沢川の深い谷筋の西側に広がっており、駅からはかなり遠くに位置していました。

鉄路から離れた村々と諏訪地方の製糸業者からの出資、請願によって開設された長坂駅。大正7年と言うやや遅れたその成立において、旧来の集落に鉄路を引き込む訳ではなく、むしろ現在でも住居がまばらな中央線沿線の開拓、その拠点としての人工的に拓かれた開拓地、人工集落としての長坂の姿が映し出されていきます。

今でも市の中核が何処にあるのか判らないと評される峡北、北杜市ですが、その遠因が長坂駅の開設の経緯からも見て取れるようです。市の中心に位置し、高速のインターと各県道、広域農道が交差する峡北の交通の要衝である長坂ですが、市政の中心は七里岩の東端、塩川沿いの須玉にあり、観光の拠点は小海線の起点で特急も多く停車し、高速のインターを併せ持つ北端の小淵沢。域内でも唯一、商店街と称せる規模の街路を持つ、纏まった居住地域が存在する長坂の成立が、旧来の村落の成立とは乖離した、駅の開設と不可分の存在であったことを改めて教えてくれます。

更に、長坂駅が養蚕の為に作られた事を雄弁に示す、駅と共に開設された、小淵沢と長坂の繭取引所の存在。取引所に集まる人々の便を満たすために商店が集積され、繭だけではなく、農村の女性たちを職工として諏訪方面に送り出す為にも大いに活用された事を示す、自宅に届けられた製糸工場が仕立てた臨時列車への乗車を指示する案内等も展示されています。

周囲を歩いても、養蚕の名残など全く分からなくなっていますが、歴史を辿ると、峡北の発展もまた養蚕と深く結びついていた事を知る事となった今回の企画展。

発掘史料に特化した考古資料館に対して、むしろ産業館としての側面で地域の産業や歴史に寄り添い、掘り起こしていく位置付けを明瞭に見せてくれた考古資料館と今回の企画展。

外部の者にとっても非常に興味深い展示内容。しかしながら、タイアップイベントなどが日曜日を中心に組まれているとはいえ、お盆休み中の土曜日の午後にも拘らず、約2時間程の見学中に入館された方は、私のほかに地元の老人の方1名のみという、大変残念な状況。広報活動についてはHP編成の悲惨さを含めて改めて懸念を抱きますし、添えられる展示解説の文章表現には首を捻る点も散見されますが、地元に徹した、地元の記憶を伝え繋げていく施設から更に発信できる拠点として活用されていく事を願わずにはいられません。

爽やかな晩夏の空の下、緑広がる高原野菜畑にて(川上村、南牧村)2018.8.18

爽やかな晩夏の空の下、緑広がる高原野菜畑にて(川上村、南牧村)2018.8.18

急に涼しくなった今週末。

金曜日の朝に続いて10℃近くまで気温が下がった土曜日の朝。

清々しい風に誘われて、高原へ足を延ばします。

昼下がりの野辺山。牧草を撫でる様に風が吹き抜けていきます。

昨日より少し雲が多めとなった八ヶ岳東麓。空には筋雲が伸びていきます。

野辺山、そして川上村に広がる畑では、瑞々しい高原野菜たちが心地よい風と眩しい晩夏の陽射しを受けてぐんぐんと成長しています(南佐久郡南牧村野辺山)。

お昼を過ぎても気温20℃と、週前半の連日30℃を超える気温から10℃以上下がってぐっと晩夏の心地となった中、高く伸びる雲と瑞々しい緑を追って圃場を巡ります。

風は涼しくとも眩しい太陽の日射しが燦々と降り注ぐ昼下がり(南佐久郡川上村信州峠)。

心地よい風と空、眩しい日射しと土の匂いに包まれる週末です。

猛暑の後で(2018.8.9~17)

猛暑の後で(2018.8.9~17)

例年にない猛暑が続くこの夏。

このまま夏が留まり続けるのではないかと思ってしまいますが、季節の足取は駆け足で進んでいくようです。

雨上がり。すっかり夏の装いの甲斐駒を望む朝の圃場。

深くなる山の緑と、稲穂の軽やかな緑のコントラスト。

八ヶ岳を望む圃場の稲穂はもう頭を垂れ始めています。

例年より1週間以上も早い稲の生育。季節の移り変わりが前倒しになっているかのようです(2018.8.9)。

釜口水門から望む、沸き立つ夏の入道雲。

熱波が続き水門の閉じられた諏訪湖。じっとりと暑く、どんよりと淀んだ湖面に空の色が映し出されていきます(2018.8.11)。

涼しい風の吹く朝の圃場。

八ヶ岳の東側には早くも雲が沸いてきています。

圃場を埋める秋蕎麦の芽はぐんぐんと伸びていきます。

朝も8時を過ぎると沸き立つ雲に覆われる南アルプスの山並み。

八ヶ岳から吹き下ろす風と高く広がる空が、高原に一足早く晩夏の訪れを教えてくれます(2018.8.13)。

お盆を迎えて天候が崩れ始めた八ヶ岳界隈。

西側に廻り込んだ美ヶ原の麓、眼下に塩尻の街並みを望む圃場では既に稲穂が重たく頭を垂れ始めています。

山から吹き下ろす冷たい風が吹く午後、山々は雨雲に覆われていきます。

昨日の喧騒が嘘の様に静まり返った、低い雨雲に覆われる諏訪湖。

時折、冷たい雨が強く降ってきます。

夕暮れの圃場。立ち昇る雲が繰り返し山並みを乗り越えていきます。

日没前に既に20℃を下回るひんやりとした夕暮れを迎えたお盆休み。夜になると秋の虫の声が響き渡り、次の季節の訪れを伝えてくれます(2018.8.16)。

そして、ひんやりと冷え込んだ風が吹く、コスモスの花が誘う晩夏へ。

今月の読本「草津温泉の社会史」(関戸明子 青弓社)陰湿漂う湯治場から泉質主義の湯の里へ。東の大関が張り続ける日本近代リゾート史の縮図

今月の読本「草津温泉の社会史」(関戸明子 青弓社)陰湿漂う湯治場から泉質主義の湯の里へ。東の大関が張り続ける日本近代リゾート史の縮図

いつもお世話になっている本屋さん、それほど規模は大きくありませんが、人文系でも部数が望めないちょっと珍しい本が書棚に並んでいたりします。

暫し書棚を眺めていて思わず手に取った一冊。先月、長野県立歴史館で入手した、ずっと欲しかった信州の観光地を紹介した絵図をテーマにした企画展の図録に寄稿されていた研究者の方が出された、実に興味深い最新著作に巡り合う事が出来ました。

今月の読本「草津温泉の社会史」(関戸明子 青弓社)をご紹介します。

西の有馬に東の草津。歴史と伝統に彩られる草津温泉は、江戸時代から現在まで、東日本における温泉地の筆頭として高名を誇ってきました。

しかしながら保養地や観光地、リゾートとしてナンバーワンの存在かと言えば実際にはかなりマイナーな存在。東京から直接行き着ける鉄道もなく、新幹線や高速道路からも遠く離れ、抜群に風光明媚と言う訳でもないその地がなぜ長く名声を轟かせ続けるのかを、地元群馬大学で歴史地理学を専攻する著者がこれまでの研究の集大成として送り出した一冊です。

今年の冬に突如として噴火を始めた、草津温泉の源泉となる草津白根山(本白根山)の火山、温泉学的な解説は、同じ大学、学部の早川由紀夫先生などの研究成果を援用して冒頭に一章を立てて概要を述べていますが、著者は人文系の研究者の為、これらの説明はあくまでも本編の補足に過ぎません(あとがきにも、今回の噴火を受けて、入稿済みの原稿に急遽コラムとして挿入したと述べています)。

本書は著者の得意とする、どちらかと言うと地理学的な分析を通じた草津温泉の近現代史を述べていきますが、本書は敢えて社会史という題名を掲げています。これは草津と言う山間の小さな町が、近現代の社会構造の中で極めて特異な位置付けを持っている事を示すものです。

明治以降繰り返された市町村の合併、実は草津町は一度合併した村を明治時代のうちに改めて切り離し、温泉地域のみで構成される町として分離、縮小されたもの。それ以降、現在まで単独の自治体として存在してきています。町全体が温泉に依存し、温泉自体も町が実質的に所有する(これを合有と称する)、しかも歴代町長の多くは有力温泉宿の主人と言う、草津温泉に依存し、草津温泉の為に存在するという特異でストイックな自治体。このような温泉べったりの町政運営は、町の発展、存亡自体も温泉の顧客動向で左右されるため、その推移を追う事で、更には他の観光地と比較することで日本の近現代におけるあらゆる観光リゾート興亡の縮図を見ることになります。

高い効能を謳う山奥の湯治場、特にらい病や梅毒と言った当時としてはイメージ的にも好ましくない印象を受ける病気を患った人々がすがるように湯治に訪れる場所として、効能の高さからは東の大関として盤石な人気を誇る一方、行楽地としての人気は常に低調であったことを当時の観光案内や人気動向の記録から辿っていきます。不治の病人が奇妙な姿をして肌を爛れさせながら強烈な湯に浸かるという、衰亡する人々が集う地のような暗いイメージを漂わせる湯治場。草津温泉の歩みはそのネガティブな印象からの脱却を積み重ねる歴史であった事を、当時訪れた文人、著名人たちの言葉から拾っていきます。特に大正時代の若山牧水とバブル崩壊直後の赤瀬川原平さん。いずれ劣らぬ優れた観察眼を有する二人が綴る草津温泉、特に湯畑を囲む時間湯を中心に描かれた印象の違いは、草津温泉が何か月も籠る山深い湯治場から徐々に週末に訪れる郊外の歓楽街、そして湯煙漂うレトロで快適な温泉リゾートへと変遷する姿として見事に描写されています。

軽便鉄道、乗合自動車、そして鉄道と道路網の整備に伴い年々身近になる草津温泉ですが、それでも熱海や伊香保のように日帰りで湯を楽しむのは時間的にも今もって難しい場所。ライトなレジャースポットに成り切れない部分が逆に落ち着きのある雰囲気を醸し出し、今はショー的になってしまいましたが、湯治場としての歴史的な繋がりを演出面でも大切にして来た成果が現在の人気を支えていると指摘します。

そして、戦前から営々として続く、町政を挙げての温泉地、リゾートとしての開発。雄大な火山を望む清涼な高原地帯という立地と、ベルツ博士の紹介により世界に喧伝された高い効能を謳う温泉を有する草津。早くから温泉リゾート(所謂ホットスパ)としての開発が期待され、前述の著名人たちも旧態依然とした湯治場のイメージの刷新を望む声を残していますが、ここに草津温泉のもう一つの大きな特徴が現れてきます。その効能の高さ故に強烈な酸性の温泉水を流下させる以外に、温泉街の中を引き回す方法が1970年代まで無かったという点です。

更に、泉質と湯量の多さを誇る草津温泉ですが、現在の湯量が確保できるようになったのは戦後の硫黄鉱山開発の途中で噴出した源泉(万代鉱)から大量に流出した95℃にも達する温泉水を熱交換で供給できるようになってから。それ以前は内湯を引けるのは湯畑の周囲やその下流域、又は湧出量が少ない西の河原や白旗、地蔵等の源泉周辺に限られていた事を、観光地図や当時の絵葉書、更には旅館の分布、規模をGISを用いたmapデータとして示す、専門である地理学の分析手法を駆使して解説を加えていきます。

改築と更新を繰り返しながらも、旧来の湯治場のイメージが色濃く残る湯畑を中心とした狭い入り組んだ路地添いに密集する江戸時代以前から続く中心街。その周囲を取り囲むような形で温泉リゾートやリゾートマンションが林立するようになったのは、スキーブームやバブル期のリゾートブームによる影響もある一方、国内最大規模の10,000L/minという膨大な草津温泉の湯量の約半分を受け持つ、万代鉱を町が買収して源泉として供給を開始したことで初めて成立可能であったことを指摘します。

戦前から続く町政そのものである温泉観光地としての開発とその遅れを挽回する新しい源泉からの豊富な湯量の供給。その先に起こったスキーを軸にしたリゾート開発の多くはとん挫したり、急激なスキー離れ、更には今年の本白根山噴火に伴い、そのシンボルでもあったロープウェイの廃止と言う、決定的なダメージを受けることになってしまいます。一方で、著者はその間の観光客の入れ込みは極端に減少はしておらず、季節変動も徐々に縮小している点を指摘し、特に宿泊率はバブル崩壊後殆ど一定の水準で推移(ここ3年では上昇に転じる)している点を捉えて、温泉観光地としての再生に成功しつつあると、泉質主義のキャッチコピー戦略と、草津の象徴である湯畑周辺の景観改善について近年の施策を解説していきます。

高名ながら陰湿な湯治場から、大衆温泉歓楽地へ。近年の巨大スキーリゾート計画の凋落から復活を果たす、圧倒的な湯量と泉質を誇る歴史漂う湯の里へ華麗なる転身。まさに近代日本のリゾート史を地で行く様な草津温泉の変遷ですが、そこには前述の後ろ暗いイメージを切り離す意図も多分に含む、温泉地に隣接する湯之沢から更に離れた現在の療養園へと強制的に集団で移住、隔離された、多くのらい病(ハンセン病)患者の方々が居たという厳然たる事実もまた述べられていきます。

幾多の荒波を乗り越えながら掴みとった自らのアイデンティティを掲げた結果、14年連続の温泉100選第一位を誇るようになった草津温泉。

その間の変遷を見るのも楽しい豊富な図表、写真を添えながらも学術的な視点を加えて重層的に語る本書。町そのものが温泉と言う特異な位置付けを示すために述べられる議論とその培ってきた景観の推移を読んでいくと、この湯がある限り、今回の噴火もきっと乗り越えられる。そんな想いを抱かせる一冊です。

 

暑い高原の夏(2018.7.31~8.5)

暑い高原の夏(2018.7.31~8.5)

異例のルートを辿った台風が列島を東から西に抜けた後、更なる熱波がこの八ヶ岳南麓の高原も熱し続けています。

まだ涼しい朝。

眩しい圃場を照らす陽射しは厳しさを増し、南アルプスの上空には早くも雲が沸き立ち始めています(2018.7.31)。

暑さが続き、雨が少ない中でも、圃場の稲たちはぐんぐんと育っています。

朝の日射しの中で咲き始めた稲の花。秋の豊かな実りへと繋がる一瞬の輝きです(2018.8.1)。

八ヶ岳から高原の牧草地へ向けて広がる雲。

熱い夏空は、朝からダイナミックに移り変わっていきます。

男山をバックに眩しい陽射しを一杯に浴びて輝く高原野菜たち。暑さに備えて、各所でスプリンクラーが廻っています。

台地の上に拓かれた川上村の広大な圃場は農作業のピーク、朝からトラクターが忙しく走り回り、既に収穫の終わった圃場では秋に向けて、次の苗付けが始まっています(2018.8.3)。

野辺山でめったにない30℃を越えたという話が伝わってきた日曜日。

連日続く暑さ、でも空を見上げると、一面の鱗雲が広がっています。短い高原の夏空は、猛暑の中でも確実に次の季節へ移り変わる事を教えてくれます。

暑かった陽射しが西の空を埋める雲の中に沈むと、空に光芒が広がりました。

雲を焦がしながら西の空に沈んでいく暑い夏。

標高の高い高原は、日が暮れると気温が一気に下がり、遠雷が響き始めました。

暑さの続くこの夏、今週は再び台風の接近が予想される荒れた天候になりそうです。