初冬の点描(2018.11.24)

初冬の点描(2018.11.24)

好天に恵まれた11月終盤の3連休。

八ヶ岳山麓の紅葉は既に終わり、季節は初冬へと進んでいきます。

既に山上の道路は冬季閉鎖、特に出掛ける予定もない土曜日の午後、お散歩がてらに撮った何枚かを。

すっかり葉を落とした落葉松林に囲まれる、奥蓼科、御射鹿池。

農閑期となるこの時期、農業用ため池としての役割も一休みで流れの少なくなる池の水は驚くほど澄んでいます。

穏やかな湖面の水面に映り込む、落葉した落葉松の木々。

湖面が凍結して雪で覆われる厳冬期を前にした、初冬の鏡像。

夕暮れの諏訪湖。

大きく南へと遷った初冬の夕日が、穏やかな湖面に差し込んできます。

暫く湖畔で佇んでいると、杖突峠の向こうに沈んだ夕日が雲を焦がし始め、真っ赤に染まる雲の羽を羽ばたかせ西の空へと飛び去っていきました。

日暮れを過ぎた後、所用を済ませて八ヶ岳の懐深く、原村の八ヶ岳美術館前を通ると、冬の一大イベント、星空のイルミネーションが始まっていました。

連休中日の土曜日、イベントが開催されていたようで、美術館の駐車場も周囲の路上も車が溢れ、普段は静かなこの場所もちょっと賑やかな夜を迎えていました。

午後7時を前にして気温は既に1℃を下回る、初冬らしい冷え込みとなった夜。地上より半月早い山の季節は、徐々に本格的な冬へと進んでいきます。

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縄文の街で映画「縄文にハマる人々」を(私だけの自分を映し出す1万年のドキュメント)2018.11.25

縄文の街で映画「縄文にハマる人々」を(私だけの自分を映し出す1万年のドキュメント)2018.11.25

New!(2018.11.26) : 今週末30日からの岡谷での上映が決定したようです。縄文を熱く語り続ける人々の言葉を是非スクリーンで。

今年は国宝土偶や各地の土器を一挙に集めて国立博物館で開催された縄文展に多数の来場者が押し掛け、マスメディアや書籍などでも多くの縄文に関するテーマが扱われた年でした。

主に美術やサブカルチャーサイドで大いに盛り上がった「縄文ブーム」とも呼べるムーブメント。その一方で苦言を呈される論調も出てくるのは、このテーマがより普遍的に扱われるようになってきた証拠。そんな中で登場したこの作品、パンフレットのデザインやPR内容からは正に今回のブームの落とし子のような感触を受けますが、果たしてどうでしょうか。

茅野駅に直結する形で建てられた、美術館とホールを兼ね備えた茅野市民館。

公開から4ヶ月を経た11月末の連休最終日。松本で映画上映活動を続けているプロジェクトが茅野に出張上映する形で実現した、映画「縄文にハマる人々」を観に、八ヶ岳南麓から足を延ばしてやってきました(とは言っても、茅野へは日常的に行き来しているのですが)。

収容780席を誇る、近年のミニシアターに慣れた人間からすると驚きの大ホールですが、2回公演の1回目で日曜日の朝10時開演と言う事で、観客は100人少々とこじんまりとした入り。多くは年配の方々ですが、如何にもな方もちらほらと…という形で上映スタート。

102分の上映時間の後に舞台に上がった、監督である山岡信貴さんのトークが30分ほど続きましたが、大変残念なことにトークの間もぱらぱらと席を立たれる方が続く状態に。12時には終わるだろうと踏んでいた方が多かったようなのでそのギャップからとも思われましたが、縄文文化の本拠地を自負するこの街の皆様とその上映内容のギャップもやはりあったようにも感じられます。

トークで述べられていたように監督は縄文遺跡や文化とは縁遠い、奈良県の出身。本作の制作も、何れ使えるだろうというスタンスによる折々のインタビュー蓄積の過程から映画化を視野に入れ始めたと述べられており、当初から本作を作るために取材を重ねてきたわけではない事を認めています。

13章に分けて、26人の「縄文」を自らのテーマとした人々の語りで、それこそあらゆる角度から「縄文」という認識を積み重ね確認していく、極めて真っ当な自己検証型のドキュメンタリー。そこには、縄文ブームに乗るかのようなカラフルなポスターや紹介されるコメントとは全く異なる、彷徨いながら帰着点を探す、制作者が自らに課したテーマを辿るロードムービーが描かれていきます。

自らの考え方、縄文への想いをそれこそ滔々と語り続ける登場人物達と対極をなす、水曜日のカンパネラ、コムアイさんの高いキーで甘く乾いたナレーションに乗せて響く、デジタルな傍観者としての醒めた視線。まるで縄文をテーマにしたドキュメント72時間を観ている気分にさせられる時間が過ぎていきます。次々と登場する方々が語る内容に、「縄文の」文化や考古学、「縄文」をモチーフとしたテーマにご興味を持たれている方であれば、余り疑問を持たれないかもしれませんが、その範疇の外にある制作者の視点は、熱っぽく語る彼らの話を積み重ねてもなお、疑問を抱えたままに進んでいきます。その疑問は縄文文化の核心とも称されるこの地に住む私にとっても依然として溶けないもの。解のない問題を解き続け、答える事のない世界に対して向けられる、如何にも解でありそうな事を事実であるとして語り、時に学問として述べ続ける事に対する素朴な疑問。

制作者の視点は上映後のトークそのままに、ラストカットに添えられた映像で表現されるように、作品中で常によろよろと揺れ動き続けているようにも見えますが、終盤に向けて徐々にピッチを伸ばしながら、キャッチーなフレーズのナレーションを減らしながら探し続けた着地点は映像作家らしい、言葉では届かないものとしての、自らが縄文からインスパイアされた現代を映し出す映像詩。

その結論に対してはご覧になられた方によって色々な意見があるかと思いますが、辿り着いた事を示す際に添えられた「言葉では届かない」というイメージとは真逆の、登場されてきた方々が雄弁に述べる言葉の数々を聞き続けてきた中でふと思った事。

縄文に魅せられ、縄文をテーマにされる方々が語るほどに「言葉では届かない」その先に、私にしか見えない、私だけの自分を映し出しているのだという感触。その中の一つとしての、制作者が縄文というテーマの向こうに、映像作家としての自らの世界を映しだすまでのアプローチを綴った作品だと思えてきました。

一万年の過去から未来まで、私だけの思いを私の形で映し出せる、時の向こうにあるもう一つの世界の入口へ。