過ぎゆく夏の空に(2019.8.25,31)

8月も今日で最後。高原の空の色は既に秋模様となってきました。

標高1000m、網笠山を目前に望む圃場の蕎麦畑。8月末になると蕎麦の花が咲き始めます。

すっきりと晴れ渡った空の下に広がる蕎麦畑。ひんやりとした風が吹く朝はもう秋の心地です。

夕方、思い切って車山の肩まで一気に車で登っていくと、西の空に広がる雲間から琥珀色の光芒が伸びていきます。

御嶽山の方向に沈んでいく夕日が雲を焦がす草原の夕暮れ。夜7時前ですが、標高1800mの鞍部を越えていくビーナスラインでは既に気温17℃と、ひんやりとした風が吹き抜けていきます(2019.8.25)

酷い夏風邪で寝込んでしまった今週。

まだ立ち上がると頭がくらくらする最悪な体調ですが、日射しが戻ってきた週末の夕暮れ。買い物へ出る途中に圃場に寄ると、雨上がりのウエットな空の下、蕎麦の花が満開を迎えていました。

八ヶ岳を望む蕎麦畑をぐるりと廻り込んで。

2段目の花が咲き揃った蕎麦畑、雨上がりでちょっと霞んだ空の下、最も美しい瞬間です。

夏色に染まる八ヶ岳をバックに広がる蕎麦畑。

八ヶ岳西麓の初秋を彩る景色です。

午後の青空の下で花を開く小さな小さな蕎麦の花たち。

買い物を終えて家路につく頃、西の空は赤々とした夕日が雲を焦がしています。

蕎麦の花が広がる圃場の脇に車を止めて暫し夕暮れを見送ります。

夏の前にはあれほど長かった日暮れも、8月最後の日となると6時半を過ぎてあっという間に暗くなってしまいます。

昼間はまだまだ暑い日が続きますが、季節は秋、明日から9月のスタートです。

 

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今月の読本「金魚と日本人」(鈴木克美 講談社学術文庫)身近過ぎて忘れがちな「魚」に凝縮された自然を愛でる想い

今月の読本「金魚と日本人」(鈴木克美 講談社学術文庫)身近過ぎて忘れがちな「魚」に凝縮された自然を愛でる想い

夏になると縁日等で頻繁に見かける「金魚」

もう、金魚売りが家々を廻る事はないかと思いますが、それでも夏の風物詩として語り継がれる風景に重ねられる、赤金色に輝く魚が涼しげな桶の中を群泳する姿は、ちょっとした懐かしさも添えた一服の涼。

最近では綺麗な金魚鉢や江戸時代に回帰してしまったかのような小さな鉢の中で金魚を飼うのが静かなブームにもなっていますが、そもそもなぜ、日本人は金魚を飼育し、飼い続けたのでしょうか。

そんな疑問の一端に答える、真夏を迎えて文庫へ収蔵された一冊のご紹介です。

高原は既に秋空ですが、盛夏の最中に読み続けていた「金魚と日本人」(鈴木克美 講談社学術文庫)です。

著者の鈴木克美先生は、戦後最も早い時期にオープンした民間の水族館である(旧)江ノ島水族館開設当初のスタッフとして、その後、現在のテーマパークの先駆けとなった娯楽施設、金沢ヘルスセンターに併設された金沢水族館を立ち上げ、科学教育機関と本格的な水族館の融合を目指した東海大学海洋科学博物館の館長、東海大学海洋学部の教授を務められた方。同時にスキューバ(アクアラング)を使用した水中写真撮影の先駆者として数多くの写真集、書籍を著されている方です。

水族館学、魚類生態学が専門の著者作品群ではちょっと異色な文化史をテーマにした一冊。原著は1997年刊行とほんの少し古い作品ですが、唯一無二と言っていい、魚類学と文化史としての日本の金魚を同時に語る貴重なポジショニングが評価されたのでしょうか、この度、版元さんを超えての文庫収蔵となったようです(このようなポジショニングにある作品は、著者も「鯛」をテーマに一冊を執筆されている、法政大学出版局が刊行を続けている「ものと人間の文化史」というシリーズがあります)。

生物学、遺伝学的な好奇心から始まる日本への金魚伝来と在来魚種とのルーツを探る内容から始まる本書。今回の文庫化に当たって新たに用意された、金魚絵師(金魚養画)、深堀隆介氏による美しくも涼やかな表紙と帯の内容に惹かれて文化史の本だと思って手に取られると、少々面食らう内容も挿入されていきますが、魚類としての金魚、更には品種改良の歴史を理解するためには必須の内容。むしろ著者の専門分野である魚類生態学をある程度封印して、専門外とも思われる日本、更には中国における歴史的な金魚の扱われ方、江戸の文化史をそれこそ該博な知識を以て伝説から物語、実録を含めてふんだんに拾い上げていきます。

本書を読んでいて驚く点、それは日本人にとって最も馴染みが深い魚(今では鮪、サーモンの方かも…)、江戸の文化史ではあらゆるシーンで語られ、現在は何処でも簡単に手に入って見る事が出来る金魚ですが、意外な事に伝来のタイミングも、大流行した江戸時代における金魚生産の姿も、現在はある程度固定化されている品種固定の過程も、文化史の根底になくてはならない背景、そのほぼすべてが「判らない」という事実に突き当たります。

本書では一般的に流布しているこれらの言説について、著者が直接の教えを乞うた金魚研究の第一人者と呼ばれた故・松井佳一博士の説を含めて各種の書籍や言説を比較しながら検討を加えていきますが、特に江戸時代における江戸近郊での金魚の育成、供給の実態ついては全く判らないと述べています(上野、池之端の件については本文中で繰り返し検討を行っていますが結論には至らず)。名付けについても「りゅうきん」「おらんだししがしら」などの名称が直接琉球やオランダから渡って来た訳ではないとはっきり否定した上で、日本人特有の舶来指向(唐物指向)や長崎方面から伝わった事を示す表記であることを示唆します。また品種改良の歴史についても、江戸時代のそれは中国で営々と続けられてきた品種改良の歴史と比較して、珍しい物が偶然に現れる、単に飼育していたに過ぎないと、魚類学者としてやや厳しめの断定をしていきます。

更に著者は、中国における金魚の飼育史と好まれる品種の違いからその経緯を見出していきます。

赤い色、金色を尊ぶのは中国も日本も同じですが、中国で春節の際に貼られる金魚の切り絵のように目が上を向いた姿を珍重する、成長と上昇志向の現れ、珍奇な物を秘蔵する文士層の存在が素地にある中国における金魚の姿。一方で日本に於いては疱瘡除けとしての願いをその色に込める一方、生き物の美しさを小さな鉢の中で楽しむ、植木や朝顔と同じような、自然を矮小化して愛でる江戸の住人たち、特にそれらを広大な屋敷の中で飼育し、実際に副収入の糧としていたのではないかと推察する江戸の御家人層や、地方から転がり込むように都市に集住した欠落農民層が往時の姿を鉢植えや水鉢の中に見出していたのではないかと考えていきます。

第一線の水族館運営を長く続けた著者から見る、日本人と金魚を愛でるその姿。

用水の溜池や庭の池から、水鉢、金魚鉢から観魚室と水槽(紀伊国屋文左衛門の天井水槽は強度/防水構造上も有り得ず、フィクションだとも)そして水族館へ。日本人の群衆指向と見世物好き、舶来崇拝。その根底に伏流する厳しい自然と折り合う姿を美しくも矮小化した様式として昇華させた、箱庭の自然美を突き詰めた一つの姿としての金魚を愛でる日本人の嗜好。

その扱いが水族館では蔑まされ、学術的にも疎外されている感が長く続いてきた点に対して、当事者の一人として、魚が好きになった著者の原風景を回顧しながら贖罪の想いも込めて綴られた一冊。

実は近年の分子遺伝学の分野で、金魚の遺伝子系統分析が顕著に進んできている点を文庫版のあとがきで述べて、著者の想いが僅かながらも後継の研究者達に受け継がれている事に喝采を与える本書は、科学的な理解が飛躍的に進む中でも、生活のほんの片隅を捉えて自然を愛おしむ事を忘れられない、日本人が抱く心の原点を思い出させるきっかけとして、再び登場する機会が巡って来たようです。

著者である鈴木克美先生には多数の著作がありますが、その水族館人生を綴った自伝的な一冊「水族館日記 いつでも明日に夢があった」(東海大学出版部)も併せてご紹介させて頂きます。

盛夏から風吹く晩夏へ(2019.8.13~18)

暑い日が続いた今年のお盆休み。今日が最終日の方が多いでしょうか。

酷暑から台風そして再びの暑さ。でも標高の高いこの八ヶ岳山麓はもう次の季節の足音が聞こえ始めています。

そんな日々のカットから。

八ヶ岳と美ヶ原を望む山裾に拓かれた溜池。

空の青が水面に映り込んでいきます(2019.8.13)

台風へと流れ込む風が次々と運んでくる雲たち、蓼科山の上空で渦巻く夕暮れ。

時折青空が覗く中、山裾は激しい雨が断続的に降り続きましたが、同じ諏訪地域でも盆地の底になる諏訪湖の花火大会会場は殆ど雨が降らなかったそうです(2019.8.15)

台風が過ぎ去った翌日の午後。

まだ風が残る圃場から望む、雲巻く八ヶ岳の上空。

風が止んだ夕暮れ。

台風が残していった湿った雲が柔らかな薄桃色に染まります(2019.8.16)

雲が晴れて再び厳しい暑さとなった週末。

山並の向こうに沈む、光芒を曳く夕日が雲を焦がします。

雲がゆっくりと切れて、どっぷりと日が暮れた後。

暗くなると急に急に気温が下がり始め、足元の畔端からは虫の音が響いてきます(2019.8.17)

再び雲が多めとなった日曜日の午後。

八ヶ岳の山裾は沸き立つ雲にびっしりと覆われます。西の端、蓼科山方向。

沸き立つ雲の更に上まで上昇気流が昇っていきます。

東から吹き込む風で沸き立つ雲。

南八ヶ岳は真っ白な雲に覆われていました。

西の空に広がる雲から零れる日射しが、夏の湿った空気を照らし出す午後。

すっかり高くなった青空に向かって、光と雲が重なり合って伸びていきます。

雲間から広がる光芒が射す中で。

足元に広がる圃場。風に揺れる稲穂。

結実が進み、重たくなった頭を垂れる稲穂が広がり始めると、季節はもう晩夏。

雲を沸き立たせた、ひんやりとした東風が吹く中、少し寂しい夏の終わりを感じさせる夕暮れです。

 

 

嬬恋村のキャベツ畑にて(2019.8.13)

このページは全くの個人的に好きで撮っているカットのみですのであしからず。

嬬恋村のキャベツ畑2019_1浅間山をバックに。

嬬恋村のキャベツ畑2019_2

もう一枚、浅間山をバックに。

嬬恋村のキャベツ畑2019_3

時折、雲の切れ間が覗く昼下がり。嬬恋村、千俣。

嬬恋村のキャベツ畑2019_4草津白根山を望むキャベツ畑を何枚か。

嬬恋村のキャベツ畑2019_5雲がどんどんと流れていきます。

嬬恋村のキャベツ畑2019_6一面にキャベツが広がる、嬬恋村を象徴する姿。

嬬恋村のキャベツ畑2019_7緑に染まる夏の一コマ。

今月の読本「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)著者と全国を巡る古文書の蓄積から見出す情報ネットワークの変遷

今月の読本「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)著者と全国を巡る古文書の蓄積から見出す情報ネットワークの変遷

近年、江戸時代の行政システムや市民生活に対する積極的な再評価が行われつつありますが、これら再評価の大前提となっているのが、各地に集積、翻刻されつつある古文書の蓄積、その分析にあるかと思います。

幕藩体制と呼ばれる江戸時代、統治機構は御領と私領、寺社領の縦割り的な分断、身分制度は武士を頂点とした垂直・固定的と評される事が多いですが、これらの認識も近年の研究により大分異なる様相が見えてきています。

今回ご紹介するのも、そのような旧来の視点に立脚した江戸時代の統治機構に対して、横断的な検討からその変化を読み解こうとする一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊から「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の水本邦彦先生は近世幕藩体制下における村落行政史研究者の方。既に第一線の教壇から降りられた方ですが、一般向けの書籍を含めて、現在に至るまで多くの著作を有されています。

非常に手慣れた筆致で描かれる本作。本書で描かれる内容を手掛けるきっかけとなった伊予、大洲と三河、刈谷に残された古文書に書かれた、長崎へ渡航する筈が遥か銚子に流されてしまった清からの貿易船乗組員を帰帆させるために行われた長崎への回航と沿岸各集落に対してその航海への援護を求める一文。「浦触」と呼ばれたその書面の文面が全く同一であることに驚く一方、付けられた発送元と廻覧先に興味を抱いた著者はその送付ルートの変化に着目していきます。

この南京船の漂流と帰帆の物語については、別の書籍(書名失念)で読んだ際にその経緯や帰帆するまでの足取を追った記録に大いに興味を抱いたのですが、本書では事情を知らせる浦触、その文書自体に焦点を当てていきます。

流石に多数の著作を有する著者と版元さんの連携が産んだのでしょうか、ここで本書はその発送ルートや廻覧方法の時系列変化やイベントに対して章を設けるのではなく、著者自らがその変化を探るために全国の古文書の原本や翻刻、研究者達の元を訪ね巡るというスタイルを用いていきます。

愛媛大学に籍を置いていた著者にとって馴染みの深い伊予、大洲を旅立ち、四国を巡り南の九州からもう一つの文書と巡り合った刈谷を経て北へ。陸奥、津軽藩と松前との関わりを追った後は日本海を下って西へ廻り瀬戸内海へ至る。浦触を探し求める旅を著者と共に続けることで、浦触のはじまりやその目的、廻覧されるパターンの変化を辿る事になります。各地に数多残る古文書、それらを翻刻する地元の教育委員会や研究者達が積み重ねてきた研究成果、著者と同世代の研究者達による古文書研究の過程で見出された浦触に関する情報を集めながら、事例を重ねながら全国を通じて行われた文書行政の変化を丁寧に紐解いていきます。

著者が見出したその変化、所謂幕藩体制の中核をなす、幕府、老中から各藩(留守居などを通じて)、所領に対して下達という形で伝えられ、各藩が有する藩内の伝達ルートを伝わっていく垂直型の伝達ルートに対して、特定の幕府職制、又はその業務を請け負った大商人や特定の藩が発信元となり、指定された廻覧ルートを辿り連判状のように各集落毎に印をおしていく(時には印を集めておいて藩庁や郡奉行所で一括押印、到着時刻表記の捏造?いえいえ、ISO運用にも見える日本の文書システムらしい形式主義を端から見透かす現場主義が掲げるルーズさまで…)姿が出来上がっていく事を見出していきます。

本来であれば支配違いの領地を跨ぐ行政文書の受け渡しなど想定しにくい江戸時代の支配制度ですが、多い時には年に数回と言う頻度で昼夜を問わずこれらの文書を所領を越えて隣り合う集落間で受け渡し、藩庁側の確認が後手に回る事すらあったことを古文書から見出していきます。浦々を伝わってそれこそ全国の海岸線を巡った文書行政の通達システム、浦触。徐々に完成を見た、浦々を継ぎながら繋ぎ合わされて押印された膨大な請印帳を見ると、その貫徹振りに、幕藩体制のもう一方の側面、全国政権であった徳川幕府の支配領域を超えて発揮、駆使された行政能力(実際に受け持つのは末端の各名主層と郡奉行たち)に感嘆させられます。

最後に著者は浦触の類似の姿としての広域行政文書の伝達例として、街道を継がれた伝達や海陸を含めた好事例である伊能忠敬の全国測量に伴う伝馬証文に続く先触の文書を示すことで、海陸を含むこのような文書行政による所領支配を越えて地域を水平に繋いでいく全国的な指示系統が存在した点を認めていきます。また、最後の指摘として、幕末の長州征伐中に発送された浦触に添えられた文書と配送結果から、その後の中央集権的な近代国家に脱し得ない幕藩体制の限界も併せて示していきます。

幕府による全国的な行政システムの実例を示す「浦触」の推移を著者と一緒に海岸線を巡りながら理解を深めていく本書。実例を理解しつつ網羅的に変遷を追いかけたいと願う読者にとって非常に楽しく、興味深く読む事が出来る内容なのですが、ひとつ、とても残念な点があります。

浦触れの伝達形態が各領地の行政権に委ねられる下達型から直接住民が携わる著者曰くの横断型へ、発信元が老中から勘定奉行や各地の代官所、大阪船手等の実務部門、現地部門へと移っていく点は、正に権限と運用が実情に合わせて現場へと委譲されている姿を明確に示しているのですが、惜しい事にその移譲の経緯や該当する幕府内での議論の推移に対して、本書では殆ど言及が為されていない事です。

著者には主著として「近世の村社会と国家」(東京大学出版会)があるので、前述のような疑問であればそちらを参照せよという事なのかもしれませんが、本書の帯にも描かれた、副題にも掲げられた「徳川の情報網、国家統治システム」を描くにあって、上位の為政者である幕府の動きをほぼスポイルしてしまった上で、終盤で「公儀」が与る情報伝達への言及がなされても、その背景が見えてこないようにも思われます。

主題である浦触の姿を著者と一緒に全国を追いかけるという文意に沿った内容としては素晴らしいと思いますが、掲げられた表題からみると、ちょっと片手落ちの感が否めなかったのは致し方ないのでしょうか。

 

長かった梅雨から盛夏へ(2019.7.16~8.10)

長かった梅雨から盛夏へ(2019.7.16~8.10)

 

長い長い梅雨が明けて、いきなりの暑さが列島を覆う今年の夏。

梅雨の間は連日の冷たい雨、明けては猛暑と写真も撮りに行くのも億劫となる中、移り変わる日々のカットを集めて。

しっとりとした朝の雑木林(2019.7.16)

梅雨の狭間、粗放となった畑で花を咲かせる、夏蕎麦の花。今年は梅雨の最中での開花となりました(2019.7.23)

暑くなった夕暮れ、八ヶ岳の裾野に沸き立つ雲。

夕暮れが迫ると、真っ白な入道雲と、夕日が青空の下で混じり合っていきます。

琥珀色の夕日に染まる雲。梅雨明けまであともう少し(2019.7.28)

月末、梅雨明けとなった朝の八ヶ岳南麓。少しウェットな鱗雲が空を覆っています。季節がもう一歩先へ進んでしまったような空模様です(2019.7.30)

眩しい日射しが戻ってきた八ヶ岳南麓。朝から暑い日でも、雑木林の中は涼しい風が抜けていきます。

暑い日が続きますが、午後のお天気は相変わらず不安定。日暮れ前に雨雲に覆われ始めた八ヶ岳の裾野。不思議な空色が広がります(2019.8.1)

強い通り雨が去った夕暮れ。八ヶ岳の上空に広がる空にゆっくりと夕闇が迫ってきます。

雲を焦がす華やかな色合いを魅せる夕暮れの空。

日射しが西の雲の中に沈んだ後、残り火のような夕日が雲間から差し込んできました(2019.8.3)

夕暮れ前の野辺山、平沢峠。朝は雲一つない青空でしたが、午後になると沸き立つ雲に覆われる八ヶ岳山麓。雲の切れ間から差し込む光芒が広大な山裾を照らし出します。

雲が広がる八ヶ岳の稜線にゆっくりと隠れていく夕暮れの日差し。

権現岳と赤岳の間に沈んでいく夏の夕日が雲を焦がします。

どっぷりと暗くなった後、八ヶ岳の向こうに沈んだ夕日からの照り返しがゆっくりと雲間に揺らめいています(2019.8.4)

夜半の雨が止んですっきりと晴れ渡った南アルプスを望む朝の圃場。

気持ちの良い夏の青空が広がります(2019.8.5)

夜半の雨の名残、雲海をたなびかせる朝の甲斐駒。

梅雨は明けましたが不安定な天候が続く8月の八ヶ岳南麓は連夜、雷雨に見舞われています(2019.8.6)

久しぶりに雨が降らなかった夕暮れ。

空を覆う滑らかな雲を夕日が照らし出しています(2019.8.7)

いっぱいの緑に包まれる水田越しに望む朝の八ヶ岳。

雨上がりの朝、時折吹き抜ける涼しい風が眩しい日射しの暑さを和らげてくれます。稲の花

水田を覗き込むと、開花が始まった稲の花。今年も盛夏を迎えた八ヶ岳南麓(ここだけトリミング済み2019.8.9)

夏らしい雲が沸き上がる、稲穂が一斉に伸びた夕暮れ前の圃場。

日射しが傾き始めると、漸く凌ぎ易くなってきます。

トウモロコシ畑越しに望む八ヶ岳。

日射しを浴びてうっすらとアイスグレイに輝く雲が東に沸き立つ雲へと合流していきます。

アイスグレイの雲の下に廻り込むと、虹のアーチが掛かっていました。東の空にびっしりと雲が沸き立っていますが、雲の色が灰色にくすまない限り、雨の心配はありません。西の空を望むと、熱波に包まれる釜の底に沈む諏訪の空と、夕暮れになって爽やかな風が吹き始める、雲の上に広がる高い高い青空のコントラスト。高原の空からは秋の足音が聞こえ始めています。

厳しい暑さを迎えた今年の夏ですが、雨上がりの晩に鳴き始めた鈴虫の音を聞くと盛夏も終盤。標高1000mに迫るここ八ヶ岳南麓の夏は足早に過ぎていきます。

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

またしても不思議な一冊に巡り合ってしまいました。

テーマに惹かれたのは確かなのですが、果たして地理学で呑む事とは何ぞやと悩みつつ、内容を想像しつつ手にとって、読み始めたこの本。正直に言って、読みこなすのは非常に厳しかったです(未だに読み切った、という感触は希薄です)。

決して小難しい内容と言う訳でも、文章が難解と言う訳でもありません。共同訳者の皆様と、版元さんの粘り強い翻訳、校訂作業積み重ねの結果、一般書籍として充分平易で読みやすい内容となっているかと思います。しかしながら、その平易な文章で綴られた内容に、別の意味で苦しめられ、考えさせられる一冊でもありました。

今回ご紹介するのは「アルコールと酔っぱらいの地理学」(著:マーク・ジェイン、ジル・バレンタイン、サラ・L・ホロウェイ/訳:杉山和明、二村太郎、荒又美陽、成瀬厚 明石書店)のご紹介です。

原著は2011年にイギリスで刊行された、学術論文をベースに要約として纏められた書籍。冒頭に著者陣から日本語訳刊行にあたっての紹介が述べられていますが、のっけからそのスタンスに驚かされてしまいます。曰く、アルコール・スタディーズには地理学が欠落している、と。そのことを西洋、イギリスと北米を基軸とした文化圏に基底を持つ執筆者たちは、訳本と言う形で広く世界に対して訴え、議論を求めるきっかけとなる事を願います。

公衆衛生と社会学で語られる当該分野の学術的成果に対して、人文地理学者として内容への不満と検討の欠落を明確に述べた上で、その状況に乗り遅れてしまったことへの焦燥感を滲ませながら、人文地理学を用いた分析手法を以て、これまでの飲酒に対する議論の再検証を行い綴られる本書。その筆致は何処までも人文地理学者の視点、思考で貫かれているようです。

前述しましたように、平易な筆致にも拘わらず読みこなすのに長時間を要する事となった本書に通貫する、人文地理学という学問規範による視点。その範疇と視点の置き方が私が理解していた地理学の領域を遥かに超えている事に、驚きと戸惑いを受けながら読み進めることになりました。

テーマに対する地理学者としてのスタンスを示す序章と実際に地理学に相応しいセグメントの取り方となる、都市や田園をテーマにした1,2章。確かにイギリスと言う地理的遠隔性と社会構造に対してある程度理解が無いと読みにくい内容かもしれませんが、近現代史の一端や社会学的な知見をある程度お持ちの方であれば、決して初見でかつ驚かれる内容が綴られている訳ではない筈です。但し、その着目点が「呑む場所、環境」で貫かれているのは流石に地理学だなと思わせる点もあります。

しかしながら、3章以降はそのような私の理解、読み方を徐々に越えていく内容が綴られていきます。地理学のイメージに繋がる、位置や場所を示すアイコンを軸に語られていく事自体は変わりませんが、その場所が「ホーム」、即ち自宅での飲酒について検討を加えてく部分に入ると、議論の焦点は飲酒の行為自体や酩酊、忌避の検証へと移っていきます。

場所とも異なる、地勢とも地域とも異なる。コミュニティや個々人の飲酒/禁酒という行為を理解する為に、場所と言う基軸を越えて人文地理学が持ち出す手法、それは座標系のようにも見える飲酒という行為そのものを分解して空間座標的にセグメント化していく分別過程。

そのような印象を強く受けたのが4~6章で語られるジェンダーとエスニシティ、そして世代感への議論。共に飲酒に対して懸念や否定感、禁忌というセグメントを嵌められた領域に対して、その中で飲酒を行うという事、または飲酒を退ける事について、飲酒を行う場所やシチュエーションを重ねるように対比しながら、社会性や年齢までを含めてセグメントの中に割り付け、その狭間に落ち込んでしまう部分に対して着目すべき点を示す。

私の理解していた地理学と言う言葉が辿るイメージを大幅に逸脱する内容でありながら、著者達は全くそのようなそぶりも見せず議論を進めていく。そのギャップに苛まれながら更に読み進めていくと、決定的な一文に突き当たりました。

最終盤で語られる、凡そ地理学とは縁遠いテーマとも思える「感情と身体」。その中で、パブに集う老境の男性が抱く想いと繋がりを求める社会性という、如何にも社会学が扱う内容を分析する考察で語られる、

「アルコールがいかに多くの問題をめぐる感情の地理と関係しているのかを示している。」

感情の地理。果たして地理学とはいったい何なんだろうと、読んでいた本を机に置き首を振りながらふと眺めた、表紙の帯に書かれた「居酒屋の戦後史」著者で社会学者の橋本健二先生が捧げた一文、

「地理学は、人間の行動に関することなら何でも研究できる学問だったのだ。」

そのコメントを直視させられた一瞬。

本書をパブや居酒屋のような飲酒と呑む空間に関する概説書として捉えると見えてこない、人文地理学がどのような手法でどんなテーマに向かおうとしているのか、その学問分野に強い矜持を持つ著作と訳者たちが、飲酒と言うテーマを一端として地球の反対側にある呑み人の天国である島国に送り出した、自らの座標軸を示す一冊。そして、投網を手に大海原を漕ぎ進む船のようにも思えてしまうそのテーマの広がりの中で、進むべき針路を示すコンパスとして示された一冊。

場所を基軸にセグメントとして細密に空間化されたその検証手法に対して、飲酒と言う行為に対する、人々の意思、意識が重なり合う場所としての示唆的な全体像を捉えたいと思っていた私自身の想いと、著述される内容の折り合いに悩みながら。

巻末までぎっしりと綴られる著者陣、訳者陣の強い想い。その規範となる人文地理学が掲げる理論構築については判らないことだらけですが、その手法の一端を垣間見る想いを抱いた次第です。

まだまだ暑い日が続きますが、日が落ちて少し凌ぎ易くなった夕暮れ。そちらのカウンターで一杯飲みながら、もう少しお話を聞かせて頂けませんでしょうか。