今月の読本「サケをつくる人びと」(福永真弓 東京大学出版会)人と社会を重層的に描く、宮古・津軽石の地域史と近現代水産増殖歴史に霞む水面の向こう側

興味を持った一冊を本屋さんで拾い集めながら読み続ける日々の中。

今年最初の本は、表題を見て是非買って読んでみたいと思っていた一冊。しかしながら、その内容には大いに悩まされる一冊でもありました。

サケをつくる人びと

今回は「サケをつくる人びと」(福永真弓 東京大学出版会)をご紹介します。

食べ物や生き物、特に魚類が大好きな私にとって、川と海を行き来する「脂鰭」を持った鮭・鱒の一族は特に興味を引く存在。特に鮭については、水産資源として重要なだけではなく、東日本、北海道(アイヌ)において民俗学的にも特異な存在にあることはよく知られているかと思います。

本州における鮭の多く遡上する場所としても知られる宮古、津軽石に幼少時代の所縁を持つ著者による、水産資源としての著述内容である事を匂わせる副題の付くこの一冊。書店に並ぶ一般書としてはかなり高額(6000円超)かつ、大型のA5版で本文も450ページを超えるという、昼休みと就寝前の数時間という限られた読書時間と、趣味のお小遣いの中から月々の読書代を捻りだす身としては、おいそれと手を出せる領域の本ではありません(買うの、辛かった)。それでも表題に期待する所が大であったため、本屋さんで手に取ってさらっと読んでみたのですが、これはちょっと苦しいことになりそうだという予感を秘めてレジに向かうことになりました。

魚類、水産学の本ということですと、読み物系であっても大抵は左綴じ右開きで横書きで書かれた本というイメージが強いのですが、本書はその版型には不釣り合いな右綴じの左開き、縦書きで綴られる、人文学系の書籍を思わせるスタイルを採っています。そして、綴られる内容も装丁の通り、人文系の視点に立った記述であることが濃厚に伝わってきます。著者は版元さんと同じ大学に所属されていますが、所謂学際領域と呼ばれる分野に属される方。その所属学部が標榜される姿のままに、近現代の東北から北海道における鮭の人工ふ化増殖の歴史的な推移を水産学から引く一方、国際情勢や政治的な背景を織り込みながら、ご自身にとってゆかりの地である、津軽石の地域史の中にある鮭漁、増殖の歴史というふたつのテーマをバインドしていきます。

本文中では江戸時代から現在へと著述は進められていくのですが、双方の物語が交互に描かれていくなかで、重複する内容が繰り返し語られ、時代描写もその都度巻き戻されて書かれていくため、記述内容が冗長でお世辞にも通読性が良いとは言えません。その結果、同じような内容が重複するたびに章立ての前後の関連性を繰り返し指摘する事となり、さらには著者が掲げるある種のビジョンがその都度文中で繰り返され続けるため、一冊を冒頭から読み進めながら、文章の流れや行間にある著者の意図や背景を認識したいという読み方を採るには煩雑過ぎて極めて苦しかったという事を述べておきたいと思います。

本質的には宮古、津軽石川を軸に置いた、鮭の増殖とその環境、周囲にある人々の物語へ近現代の水産増殖史を添えながら描くという手法でよかったと思われるのですが、あとがきにもあるように著者の指向性はそれを許さず、結果として著者は単線的な著述になったと述べていますが、地域史と水産増殖史の二つのテーマを著者のもう一つの想いで編み上げる、三つの物語が同時並行で描かれることになっています(さらにもう一本(いや二本でしょうか)の軸を置こうとしたようですが)。かなりのボリュームを持つ一冊である一方、二つの主軸(正確には三つでしょうか)がそれぞれに描かれていくため何とも消化不良な感が拭えない内容。その著述にも少し考えさせられるところがあります。

表題にあるような水産増殖としての長い歴史を有する、水産学や生物学的な鮭の物語を読んでいこうと思うと、どちらかというと当時の時代背景や社会的な要請、政治的な背景を描く(北洋漁業の転進と増大する鮭の増殖、ふ化増殖と対立軸に置く栽培漁業)事に力点が置かれている水産学、水産史、研究者の人物史としての内容。一方、宮古、津軽石を舞台にした江戸時代から続く津軽石川を軸に置いた鮭漁とふ化増殖の歴史。漁場としての川、湾内の漁獲権の争いから始まった遡上河川としての津軽石川の保全から、漁業者にとっての川の利権としての人工ふ化事業への傾斜。戦後の漁協の統合を通した宮古湾全体の地域史、人物史と描かれる内容は、近現代の水産増殖史へとバインドされる際にも、同じ内容が章立てで分断されてしまっていることもあり、登場する人々が大きく行き交う姿の背景を描く際に折角の積み上げられてきた著述が生かしきれない、相互の連動性へ繰り返し繰り返し文中で別途に指摘し続けなければならない、分離しがちな筆致に終始します。

そして、本書を読んでいてどうしても引っかかっていた点。前述の二つのストーリーを織り込むために著者が繰り返し述べ、最後に一章を立てて述べられる視点の向こうに映らない、主題であるはずの「鮭の姿」。

あとがきにも綴られる、多大な労力を掛けて津軽石で多くの方に取材された人物、地域史としての内容(ほんの少し民俗学的な視点も差し挟んで)。ご本人の研究分野である水産増殖史から浮かび上がる戦前、戦後の水産行政と急激なふ化増殖による、北洋から沿岸への水揚げのコンバート、そして社会学、倫理学としての学術的な視点。自然環境や社会性への問いかけと、その中でも人を介することなしに生きることはできないという、強い暗示を込めた漁獲物としての鮭へ対する永続性への想い。それぞれの著述に対して著者はまだまだ書き足りないことを訴えていますが、相対的に見ても一般書としては大きなボリュームを割いて書かれる本書。その内容は歴史的な推移であり、社会的な構造変化の物語であり、その中に生きた人々の物語。その枠組みの中にテーマを形作るはずの「鮭の姿」が浮かび上がってこない。もちろん、あらゆる場所で「鮭・鱒」という単語は用いられるのですが、著者がどんなに繰り返し述べられていても、それらは研究対象としての「もの」以上に読み手には映らない。著者が述べ続ける、人が介在することを前提とした「わたしたちのもの」という、漁業を描くとすれば当然とはいえある種独善的な視点。鮭と人という二項における片側、地域と人の推移、水産業としての時代要請、人にとっての環境や未来を描く姿へと想いを馳せていきますが、もう片方にある、水面の向こう側で人の手が介在されようが、環境が激しく改変されようが自らの生を以て生き抜き、自律的に変化してるはずの鮭・鱒の姿。彼らの生きる姿や変化をあまり捉えることなく、研究対象を相対化するために用いられる、静物的な「もの」として固定化されたままに思考停止してしまっているように思えてならなかったのです。

本書の謝辞にも挙げられている宮内泰介氏や、農学ではない、食と農業史を標榜されて活発な執筆・講演活動をされている藤原辰史氏の著作に通じる視点を感じる、社会学、倫理学としての人文系の方々が読みたい、議論されたいと思われているであろうシナリーとビジョンを示される著者の筆致。彼らの学術的なスタンスがそうさせるのでしょうか、その内容にはテーマに置かれている「もの」に対する視点が余りに「褪めて」おり、人や社会、描きたいと願う人の未来の姿ばかりが浮かび上がってきてしまうようにも思われます。

地域史でも水産学でもない、著者の所属される研究分野である学際領域という姿が目指す内容、実際に本書で描かれる内容と、鮭と人との関わり合いを双方の視点から読んでみたかったと思う中で、その小さくないギャップに苛まれながらページを閉じた次第です。

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