ゆっくりと過ぎていく厳冬期の夕暮れと朝に(2020.2.11~2.29)

例年にない暖冬となったこの冬。

暖かな日が続きますが、それでも冬ならではの澄んだ空気に包まれるこのシーズン。透き通る空気に包まれる冬の山々の景色はこの時期だけの美しさ。朝、そして夕暮れに移り変わる空の色が彩を添えてくれます。

澄み切った夕暮れの空。夕焼けに焦がされた空がゆっくりと褪めていくと頃、入笠山の山裾にスキー場の夜間照明が浮かび上がります(2020.2.11)

節分を越えて日暮れの時刻が午後5時を大きく過ぎるようになる2月の中旬。すっかり日が落ちて街明かりが浮かび上がる、諏訪盆地を遠望する圃場。

オレンジに染まる山の端がゆっくりと夜の帳が落ちていきます(2020.2.15)

暖冬と叫ばれるこのシーズンですが、それでも季節は2月。久しぶりに氷点下5℃を超える朝、澄み切った空は眩しい八ヶ岳ブルーに染まります(2020.2.19)

例年であれば大雪となるような強い雨が降る日が繰り返し訪れる中、星空から一転して夜半に思いもよらぬ雪が舞った朝。日が昇って雪雲が離れていくと、八ヶ岳の山裾は新雪に覆われます(2020.2.27)

翌日。雪雲が綺麗に離れると、山頂部に新雪の残る八ヶ岳が抜けるような青空の下に裾野を延ばします。

冬の乾いた畑越しに望む、朝日に雪渓を輝かす甲斐駒。

火の見や櫓の向こうに望遠で臨む、勇壮な甲斐駒の雪渓。

厳冬の2月もそろそろ終わりです(2020.2.28)

少し早く目が覚めた週末の朝。

朝日で淡く色づく東の空。

早くなった朝の訪れ。午後6時半、南アルプス上空の雲がほのかに色づき始めます。

中望遠に切り替えて東の空を覗くと、秩父山地の向こう側では分厚く延びる雲を朝日が焦がしていきます。

桃色に染まる朝の鳳凰三山。

山の端から立ち上がる光芒が分厚い雲へと吸い込まれていく日の出。

朝焼けが褪せていくと、日差しを受けて甲斐駒の雪渓が浮かび上がってきます。

繰り返し訪れる冷え込みは徐々に穏やかになり、朝は早く、夕暮れは徐々に伸びていく、厳冬の季節がゆっくりと過ぎ去っていく2月の終わり。夜になると再び雨が降り始めた八ヶ岳南麓です。

今月の読本「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)農学と自然科学が背景を解く、多様なコメが作った列島の自然と人々の歴史

今月の読本「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)農学と自然科学が背景を解く、多様なコメが作った列島の自然と人々の歴史

本屋さんに数多並ぶ日本史の本。その殆どが作家や日本史研究者の方々など、史学、文学系の知識をベースとした内容で綴られているかと思います。

大きな歴史的な展開から治世に軍事的な内容。残された記録を頼りに築かれる人物像や、古文書に綴られる僅かな表記の揺れを捉え、その機微と思想に迫る内容まで。様々なテーマと切り口で描かれていく多くの書籍が出ていますが、その中でちょっと珍しいテーマを掲げた日本史の本。

今回は「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)をご紹介します。

著者の佐藤洋一郎先生は、イネ科植物の遺伝子生物学における著名な研究者、農学者。東南アジアにおけるイネ科植物の研究経験を下敷きにした、広く東アジア全般をカバーする文化人類学的な論考についても多数の著作を有される方です。本書も一連の著作に連なる内容ですが、テーマは日本史、それも日本史の中に描かれるコメという捉え方ではなく、コメそのものが日本史の背景を形作ったことを農学者の視点で描いていきます。

6つの時代に分けた通史としての日本史のテーマそれぞれにコメが与えてきた背景を織り込むという形で綴られる本書。自身は日本史の専門家ではないと本文中で度々述べるように、特に前半部分のコメの渡来から奈良時代の入り口までの古代史を扱った部分における通史としての日本史の著述はかなりイメージで語っている印象が強く、ややもすれば上滑り感すら感じられるところもありますし、読まれる方によってはかなり違和感を感じる部分もあるかもしれません。

日本史としての著述だけ見てしまうと、やはり農学者の方なのだから著述に無理があるのではと思わせてしまいますが、著者の意図は別のところにあります。それは本書が貴重な、日本の社会全般に浸透していた「コメの歴史」を日本史の流れの中に置いて描こうとしている点。

前述のような多くの日本史の著作で欠落する事の多い、自然科学的な視点で日本の歴史におけるコメ存在の必然性と社会、列島の自然に与えた影響を通史の中で示していきます。

数多に語られるコメの伝来と社会構造の変化。初めにその伝来と拡散の過程を議論していきますが、遺伝生物学が専門の著者は、その冒頭で日照時間と稲作の適応緯度、伝搬速度の関係を論じつつ、一般的に述べられる北方ルートでの伝来に対して、出土される炭化米の分析結果を添えて一定量の南方からの伝来、すなわち、特定のルートから単線的に稲作が持ち込まれた訳では無く、複数のルートから幾度かに分かれて伝わったはずであるとの自説を唱えます。

次に、稲作と社会性の関連についても、耕作道具が未熟な状況で、粗放な状況ではすぐに雑草との競争に敗れてしまうイネを育てる場所となる耕作地(水田)を起こす事は決して容易なことではなく、単にイネを携えた人々が海を渡って稲作を広めたという牧歌的なものではなく、かなりの強固な意図を抱いた一群が長期に渡って当地に定着しなければ稲作は広まらないと指摘します。主に考古学的な知見が用いられる稲作の伝搬の検討についても、水田は検知できるが、モンスーン気候の地で焼畑農耕の痕跡を発掘で検知することは極めて難しい点を指摘したうえで、それでも炭化米の分析結果などから、その初期から陸稲も伝来し、更には北方への拡散には既に苗代の存在があったのではないかと指摘します。

著者が伝来過程に拘る点。それは次の時代となる巨大古墳や建築物が次々と作られる古代王朝成立の過程において、その労働力を養う栄養価確保の問題から膨大な食料、すなわち穀物が必須であることを念頭に置いている事です。コメの伝来以前にあった他の雑穀類や堅果類ではそれだけの栄養価は得られず、得られたとしても下ごしらえの労力を考えると、相応の労働力(=食料)を賄えるのはやはりコメしかないと指摘します。

そして、著者は栄養価を得るための手段とその結果について、これまでに日本史で描かれる背景に疑問を呈します。農学者として東南アジアにおける豊富なフィールドワークを積んできた著者の視点は、現在の広い平野に水と緑を湛える水田が一面に広がる風景とは大きく異なる、もっと混とんとした稲作世界があった事を指摘します。

前述のように水田稲作において雑草との競争は永遠の課題(現代のそれは農薬の力を借りていたちごっこをしているに過ぎないと)であり、窒素肥料が用いられない水田では容易にイネの生育は雑草に敗れ、耕作を維持できないと指摘します。その結果、班田収授から墾田永年私財法に繋がる班田の不足とその中に荒田が多くみられる点を指摘して、単なる耕作放棄地ではなく輪作という観点を含めて「そうせざるを得なかった」のではないかと、農学者としての視点を添えていきます。その上で、古墳や宮殿などの巨大な土木事業を支える食糧増産を図るためには、耕作地の拡張と共にその肥料となる草木類の鋤き込みが必要であり、動力を用いた揚水(排水)に頼らないで水田が拓ける限られた土地と、その後背地に当たる所謂「里山」の開発が進められることになりますが、著者はそれらを以て画一的な水田稲作に傾斜した農耕の姿を歴史的な描写に投影する事に否定的な見解を述べます。

本書における中軸的な記述となると思いますが、歴史描写における多様な稲作とイネの姿への視点。

発掘された炭化米の粒度分布の調査結果による多彩な粒径、長さと圧倒的な粳の存在の中で限られた糯米から見出す、粉食や餅の存在。木簡に書かれた、全国に渡る、栽培地域ごとに異なる多様なコメの種類名称存在(品種ではない点に注意)。その中に見えてくる、早期に刈り入れが出来る、白米の系統とは異なる赤米、大唐米の存在が、白米だけでは成立しえない、農期、収穫時期の幅を確保し飢饉の発生を抑えると共に、年貢として、そして軍糧として(青田刈りへの対抗策としての存在であったとも)も使用されていた点を指摘し、調理法を含めて多彩な栽培、利用法が採られていたことを示していきます。

前述のような画一的な視点による白米至上主義の史観に対して農学者として明確な疑念を述べる一方、昨今多く述べられるようになった、前近代まで白米は年貢用であり、多くの農民たちは雑穀を食するに過ぎなかったという議論に対しても、前述の栄養価の側面からそれでは激しい肉体運動を要する前近代の農耕、労働に対して、高蛋白質の肉類を摂らず続けることは困難であったろうと指摘し、水田に抱き合わせる形で栽培されていた豆類と合わせて、これら多彩な「コメ類」が日常的に利用されていたと指摘します。更に、水田を作るために人為的に引かれた水路に定着する淡水魚類へのたんぱく質の依存という点を重ねることで、戦前まで長く続く稲作農耕を軸にした列島の姿、生き様が作られたと指摘します(ここで、ジャポニカ種という言葉の生まれた経緯とその分類について詳細な説明が綴られる点は、南方系の品種もテーマとするイネの研究者としての矜持を示すところで、インディカ品種への偏見と誤解を正したいと願う著者による強い思いが表れています)。

列島の姿を形作ってきた稲作とコメ。その姿は食料としてだけではなく年貢、更には金銭価値を持つ、基軸通貨に代わる役割を果たしてきた点は日本史の中でも多く語られる内容ですが、著者はもう一つの側面として、都市化を支えたのもまたコメの存在であった点を指摘します。税、年貢として各地から集積されるコメ。しかしながらその初期においては精米技術が未熟で、むしろ搗き過ぎで玄米と白米の中間的な状態で食していたと指摘します。所謂「江戸煩い」とも称された脚気、白米食によるビタミン不足である点はよく指摘される(この傾向は日露戦争の陸軍まで続く点も)事ですが、根源的な理由として白米の精米度が高まった訳ではなく、その前段階となる「玄米」を効率的に得る事が出来るようになった点を指摘します。籾を外した状態で保存できる玄米の存在こそが、コメの保存性と流通を飛躍的に高め、都市に集住する人々の膨大なエネルギー消費を支え、更には今日において日本の食文化と称される多様なコメを利用した菓子、料理、白米を主食として据える食文化を成立させたと指摘します(近世以前の人々は玄米食だったという表現も誤りであると)。

都市の膨大なコメ需要を担うために低湿地を干し上げ、山麓に通水することで水田を押し広げる事で列島の景観を一変させ、餅にも通じる白という色の意味と重なる都市が生み出した白米への強い思い。それらを追求し続けた先に近代の膨張と戦後の食糧増産の過程を描いていきます。著者はその中で、現在に繋がる品種を生み出した育種の発祥と既にその耕作技術が失われてしまった驚異的な収量を達成する事で要求に応えた篤農家達の存在を重ねながら、社会の近代化と全体主義的な傾向が増大する姿を大陸への進出に添えて述べていきますが、その著述はあくまでも農学者としての立場での言及に止められ、最後に近年の米食や棚田、稲架の景観への想いといった著者が現在最も力を入れている文化人類学的な議論へと移っていきます(コメに残る尺貫法を改める必要性など実に科学者、農学者らしい見解も)。

日本の歴史を背景から形作ってきたともいえるコメと稲作。その姿はコメ余りが叫ばれる一方、各地から送り出されるブランド米の勃興(これらがみなコシヒカリ一族であるという一抹の不安も含めて)というこれまでの時代背景とは全く異なる状況を迎えていますが、曲がり角を迎えた中で上梓された、碩学がこれまでのコメの研究者、文化人類学者としての想いを込めて綴られた一冊。またひとつ、日本史の背景描写に豊かな彩と視点を与えてくれる一冊です。

 

<おまけ>

本書のイネに関する著述内容のうち、著者の専門分野である東南アジアの稲作及びイネの遺伝学的な伝搬以外、その多くは著者を編者して昨年刊行された「日本のイネ品種考」(臨川書店)で執筆を担当した研究者の論考に依拠しており、一部の議論に対しては著者自身が別の見解も添えて述べる形で綴られています。少々お高いのですが、本書を読んでイネと稲作に関する各論についてご興味を持たれた方は、是非お読みいただければと思います(内容は一般読者向けなので平易です)

本書で議論の中核を担う、日本のコメ品種において否定的な捉えられ方をされる一方、実は陰の主役的な立場であった事を指摘する赤米、大唐米。その存在と広がりを史学の視点で地道な研究から描き出した、長野在住の在野の研究者が著わした「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)本書に於ける多くの指摘も当該書の記述に拠っていることを著者は明示しています。「ものの歴史」的な内容にご興味のある方はこちらの一冊もお勧めいたします。

今月の読本「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)その余韻に浸り続けたい、溢れる好奇心を繋いだ絶妙な訳で誘う食卓の向こう側

今月の読本「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)その余韻に浸り続けたい、溢れる好奇心を繋いだ絶妙な訳で誘う食卓の向こう側

昨年の11月頃にある書評で紹介された直後に入手してから3か月ほど。

昼休み、帰宅後、そして就寝前。普段の読書では一冊を一気に読み切るタイプなのですが、この一冊だけは、愛おしくも一篇、一篇とその余韻を噛み締めるかの如く、こつこつゆっくりと読み進めていました。

中国くいしんぼう辞典

今回は「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)をご紹介します。

原題の「吃貨」すなわち食いしん坊の事ですが、著者の想い、そして本書の内容を現すには最も叶った表現かと思います。中国語は音で表すことを重んじると著者が述べるように、その発音(チーフォ)のイメージ通りに唯、食べることが大好きな著者による、生粋のと称する著者の地元である北京を軸に中国全土に広がる数多な料理を訪ね、食した内容を綴る「辞典」。全部で83の料理が紹介されますが、そのスタイルは一貫しています。

著者が辞典というスタイルを採るために選んだ三つのテーマ、家庭、街角、そして飯店。語られる内容はその土地の物語から始まり仕込みから調理法、最も大切な食する姿とその味、そして料理に纏わるちょっとした蘊蓄と歴史のお話まで。ひと手間かける祝祭の料理から、今やその店はなくなり、周囲の光景が一変してしまった中で、変わり続けながらも作り続けられる精緻な技を凝らした名料理まで。著者の筆致はそれらを等しく扱っていきます。

著者が食していく世界は、家庭料理では北方の北京が中心となりますが、後半に行くと徐々に遼東や四川、杭州へと広がっていきますが、変化しつつもそれぞれの土地にしっかりと根付いた、その土地でなければやはり味は変わってしまうと述べていきます。土地を重んじ、土と水と海、移り変わる季節それぞれに獲られる食材に最も叶った調理法を時には凝らし時にはシンプルに、季節、そして食材の恵みを感じさせる一品。各地の料理を称揚しつつ綴っていきますが、それでも著者の故郷である北京、中国北方の家庭料理、そして羊肉の料理にはひとかたならぬ想いがあるようです。特に印象的だったのが、屠る肉は変わっても、それらがイスラム系の料理の系譜を継ぐものであることを明確に示す点。本書で初めて知った事柄ですが、アジアの東端でもある中国、地続きのそれは常にコスモポリタン的な世界を内包していた事を改めて教えてくれるようです。

そして、本書の最も印象的な部分、これは原著を読む事が出来ない身にとっては推察するしかない事なのですが、独特の味わいを持った訳が醸し出す、少し懐かしさと素朴さを漂わせる活字の向こうに広がる食卓の姿。

著者は1960年代末生まれの編集者と称しており、決して往年の大家、美食家、名料理人という訳ではなさそうです。しかしながら胡同が残る古い北京の街並みを記憶に残す著者(とその訳者)の筆致は、何処となく現代の急激な発展を遂げる中国のひとつ前の世代の雰囲気を濃厚に伝えてくれるような気がします。家族が一堂に会する春節を迎える料理を仕込む家人の姿、活気溢れる労働者の騒めきすら伝わってくる街角で振舞われる、素朴で人の温もりを感じる湯気が上がる風景。そして、秘められた歴史とその背景、実際の姿を淡々と述べながら精緻な技に舌鼓を打つ、名店の卓。

一つの料理は僅かに4ページほど、中国料理に不慣れな私にとってはどの料理もほとんどが未知のもの(訳者あとがきにあるように、その日に合わせた(点菜)を要領よく選ぶ技は学問ですらあるというくらい、数多な料理がある)、それでも一品一品を読み進めていくのが楽しくなる、文章の向こうから物語とそれを食する著者の姿、美味しさと共に食卓の景色が、かぐわしい香りと共に緩やかに浮かび上がってゆったりとページの向こうに消えていく。その波のように寄せては引いていく姿についつい浸りたくなってしまい、次の一品へと読み進める手が止まってしまう。

シンプルで味わいのあるモノトーンの線描による、ちょっとノスタルジックなイラストがそのイメージを膨らます、愛おしく読み進めた本書を包み込む美味しい物語たち。前述のように著者は料理専門家でもなく、美食家という言葉にすらやや疑念を持たれている方。ではこのような滋味溢れる内容がどのように構築されたのかといえば、実に現在の中国を象徴する、数多に溢れるネット上の情報と著者と彼らとの情報交換により積み上げられた繋がりの上に生み出された物語。もちろん著者の旺盛な好奇心と食いしん坊としての姿がその下地にあるのですが、本書の全体を包む一貫したイメージの構築に成功したのは、広大な国土に広がる数多ある料理とその風物を自らのものとしている、各地に住まう人々を結び付けたネットの力が推し支えたもの。そして、著者の意図するところを充分に汲み取って、異邦人たる我々に伝えてくれた、中国語に練達され、ご自身も中国文化、中国食文化の研究をされている訳者の力量のなせる業。

暖かい料理が恋しくなる厳冬期、著者が愛おしむ北京同様に寒さ厳しいこの地で、活字の向こうに立ち上がる湯気に映る見知らぬ料理と風景を思い浮かべながら、穏やかなその筆致に身を委ねる幸せなひと時を届けてくれた素敵な一冊です。

厳冬を迎えた2月の八ヶ岳山麓(2020.2.6~9)

過去に例がないほどの暖冬と云われる今年。

暖かいままに節分を過ぎてしまいましたが、ここ数年で冷え込むのは2月の中旬。今年もやはり遅れて寒さがやってきたようです。

寒気が入り、南アルプスの上空に雲が広がる朝。

朝の気温が氷点下5度を下回ってくると、漸く厳冬期に入ったと実感できます。

月明かりが眩しい冷え込む夜。

雪の少ない八ヶ岳ですが、それでも月明かりに照らし出される雪渓が浮かび上がる夜の姿はこの時期ならではの風景。風を凌ぐ場所のない吹きさらしの圃場の隅、まだ20時前にもかかわらず、手が痺れてシャッターを押すことすら苦戦する冷え込んだ夜(2020.2.6)

夜が明けると、氷点下10度を下回る、この冬一番の冷え込みとなった朝。

枯れた野原の向こうに八ヶ岳ブルーの空をバックに聳える、冬の八ヶ岳の姿(2020.2.7)

冷え込みが続く週末土曜日の夕暮れ。

圃場に影が落ち始めると、東の空から月が昇り始めます。

西の山の端に沈んでゆく日差し。

冬の強い風が空の塵を吹き流した後、透明な夕日が輝いています。

山の端を焦がす厳冬の夕日。

厳冬の月明かりと八ヶ岳残照西の空に日差しが沈む中、残照の中を昇る月が八ヶ岳の峰々を照らし出していきます。

南アルプスの上空にかかる雪雲を赤々と焦がす夕暮れの残照。

夕日がすっかりと西の空に沈んだ後、雲が広がり始めた八ヶ岳の山並みを眩しい月明かりが照らし出していきます。深々と冷え込む週末、明け方にはさっと雪が舞い散りました(2020.2.8)

朝には雪雲が離れ、抜けるような青空が広がった日曜日。

冷え切った夕暮れの空の下に八ヶ岳の峰々が聳え立つ、八ヶ岳南麓の夕暮れ。

薄桃色の夕暮れと富士山振り返ると、甲府盆地の上空は薄紫色に染まっていました。

午後5時の時点で既に氷点下3度。もうしばらくの間、厳冬の真冬日が続く八ヶ岳山麓です。

ゆっくりと凍みていく冬(2020.1.15~2.1)

例年になく暖かな日々が続くこの冬。

それでも山に雪が降ると冬であることを思い出させてくれます。

雪が止んで晴れた朝。

重たく湿った雪は八ヶ岳の山裾を白く染めていきます。

朝日に照らされて淡く雪色に染まる甲斐駒(2020.1.15)

気温が高く、地温も高いこの冬。圃場の雪はすぐ溶けてしまいますが、山裾に降った雪は暫くの間、その姿を留めていきます(2020.1.16)

天候が変わりやすく、安定した晴れの天気がなかなか訪れないこの冬。

雲間から日差しが差し込み始めた昼下がり、しっかり根雪となった甲斐駒の頂上部に積もった雪が輝いています(2020.1.24)

大雪の予報が発表された月曜日の朝。

鱗雲が広がる南アルプスを望む圃場(2020.1.27)

本格的な降雪となった八ヶ岳山麓。

予報より少ない降雪量となりましたが、それでも周囲の道路には除雪車が入り、今シーズン初めての雪かき。夜半から降り続いた雪は昼頃には雨に変わり、翌朝には路面の雪はほとんど溶けてしまいました。

雪雲が離れつつある南アルプスの上空。薄く雪に覆われた圃場の上に、鮮やかな青空が広がります(2020.1.29)

厳冬期の甲斐駒雪渓2再び新雪に覆われた甲斐駒の山頂。

凛とした朝の空気に包まれる雪渓戴く甲斐駒を望めるようになると、漸く冬も本番です(2020.1.30)

雲一つない、晴れ上がった冬の朝に。

南アルプスの山裾も雪で覆われ始めました(2020.1.31)

東沢大橋と雪の八ヶ岳宵のうちから冷え込み始めた八ヶ岳山麓。

朝を迎えると抜けるような青空が広がります。

まだまだ冷え込みは緩いですが、漸く訪れた八ヶ岳ブルー。

八ヶ岳横断道路の赤い橋(東沢大橋)から望む八ヶ岳。

雪の少ないシーズンと言われるとおり、清里までの途中の道には雪がなく、野辺山まで上がってきても圃場にはほとんど雪が残っていません。

雪の少ない野辺山と八ヶ岳例年なら行くこと自体を躊躇してしまう八ヶ岳の山裾に広がる牧草地の傍。

今年は路面には殆ど雪もなく、牧草地の雪もまばらです。

それでも目の前に広がる牧草地の上空には八ヶ岳ブルーの空が広がります。

雪の少ない野辺山と八ヶ岳3牧草地の脇に腰を下ろして暫し雪を戴く八ヶ岳の峰々に魅入る昼下がり。

午後になってくると、上空には少し雲が広がり始めました。

輝く雪渓が眩しい昼下がりの八ヶ岳。

冷え込みはそれほど厳しくなく、雪も少ないせいでしょうか、道行く車も少なく、観光客の方もまばらで静かな休日の野辺山界隈です。

用事を済ませた後、夕暮れになって再び外に出ると、夕日を浴びて雪渓が柔らかに色づく南八ヶ岳の峰々。

薄紅色に染まる蓼科山と北横岳日没を過ぎると、蓼科山と北横岳がほんのりと紅色に染まっていきます。

どっぷりと西の空に日が沈んだ後。

夕暮れと夜の帳の合間で雪渓を輝かせる八ヶ岳の峰々。

昼間は暖かな日差しが降り注ぎますが、八ヶ岳颪が冷たく感じられる夜。

カレンダーは2月となり、もうすぐ立春ですが寒さはこれから。凍みる日々が続く八ヶ岳山麓です。