今月の読本(番外編)「かなりや荘浪漫」(村山早紀 集英社オレンジ文庫)新ジャンル文庫が送る一作目は、小劇場の舞台を観るような、想いが赦しへと昇華するストーリーのプロローグを

今月の読本(番外編)「かなりや荘浪漫」(村山早紀 集英社オレンジ文庫)新ジャンル文庫が送る一作目は、小劇場の舞台を観るような、想いが赦しへと昇華するストーリーのプロローグを

New!(2015.10.31):あとがきで著者より予告が出ていましたが、本書の続編「かなりや荘浪漫 星めざす翼」が11/20に刊行されることになりました。本ページが番外編とありますように、イントロダクション的であった本作。2巻目では徐々にストーリーの中核に進んでいくようです。

 

かなりや荘浪漫 星をめざす翼

2巻目「かなりや荘浪漫 星をめざす翼」のご紹介は、こちらから。

 

<本編此処から>

これまでも各社から複数のシリーズが登場していた、新刊としての文芸作品の文庫シリーズ。

これまでであれば、ライトノベルかファンタジーノベルとして扱われていたであろう、これらの作品群が、昨年の新潮社による大々的な参入を受けて、いよいよボーダレスになって来たようです。

そんな新ジャンル文庫に今回参入したのが集英社。新潮社が男性読者寄りでライトノベルタッチのラインナップを揃えてきた事に対抗したのでしょうか、女性読者寄りのファンタジーノベル基調のラインナップを投入するようです。

初回配本となった今回のラインナップのうち、こちらのページでもご紹介したことのある村山早紀さんの新刊をご紹介します。

かなりや荘浪漫かなりや荘浪漫」(村山早紀 集英社オレンジ文庫」です。

著者があとがきで述べているように、本書はシリーズ化を前提とした1巻目としての体裁をとっているようです。そのため、ストーリー的には主人公である茜音の物語の導入部分が語られるに過ぎません(そのような意味で、番外編です)。

著者の多くの作品が舞台とする風早の街。

本作品も、風早の街にある洋館を改装したアパート「かなりや荘」に集う、心にいくばくかの想いを抱えて暮らす人々の物語が綴られます(今後もそのはず、です)。今回のお話では、著者特有のゆっくりとした導入部で語られる、独白としての茜音の物語や風早の街に巡らされた伏線はあまり使われませんが、次回作以降で徐々に明らかにされていく事でしょう。

そして、ストーリーは明らかに以前の作品である「竜宮ホテル」のテイストを反映したもの。ファンタジーノベル系の読者層に合わせて、少し主人公たちの年齢層を下げて親しみやすさを与えてはいますが、描こうとしている方向性はほぼ同じ。

風早の街を舞台に、其処に居る事に疑問を抱えた登場人物たちの傷ついた想いと、願いと祈りが赦しへと昇華していく物語。

そんな姉妹のような両作品ですが、読んでいくと少し違った見え方もしてきます。舞台がアパートという事もあるのでしょうか、これまでの著者の作品より少し登場人物たちへの距離感が縮まっているような感じをうけます。竜宮ホテルがすこし大きな舞台かスクリーンに映し出される映画の演技を見ている感じがするのに対して、本作ではアパートのダイニングに、そして茜音がこの後に暮らすことになる部屋に入れ替わりで登場する人物たちの息遣いが感じられる、小劇場の舞台で演じられる群像劇を観ているような感触を受けます(本当は感触も息遣いも感じない筈の登場人物も)。これは後半に向かってテンポを上げていく著者の筆致に委ねられる点が大きいかと思いますが、読んでいて親近感が湧いてくる、嬉しい変化かもしれません。

そして、竜宮ホテルとは大きく異なる点。それは、竜宮ホテルが著者と同じ「文章(本)」を以てストーリーが開かれていくのに対して、本作では著者の憧れでもある「絵(漫画)」でストーリーを紡いでいく物語である点でしょうか。そこに重ねる想いは、著者の作品を通して語られる「時を越えて、想いを未来へ届ける事」。

本作の今後の展開は、作品の骨子としては出来上がっているようですが、著者のあとがきのようにまだ未確定のままのようです。著者の想いが、新しい文庫シリーズを支える作品として続いていく事を願いながら。

<おまけ>

本ページでご紹介している村山早紀さんの作品を。

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今月の読本「オオカミの護符(文庫版)」(小倉美恵子 新潮文庫)一枚のお札を巡る、谷戸から山へと昇る繋がりの物語と、不思議な一方向感

今月の読本「オオカミの護符(文庫版)」(小倉美恵子 新潮文庫)一枚のお札を巡る、谷戸から山へと昇る繋がりの物語と、不思議な一方向感

数年前の新刊以来、書評やネットでの評判、書店でのpopなどを通して、随分評判になっているのだなと、思いながらもなかなか手に取る事はなかった一冊。

たまたた茅野の書店で、著者が主宰するプロダクションの次回作「ものがたりをめぐる物語」のPR用として刊行された、諏訪の風物を扱った小冊子「そもそも」と一緒に置かれていたために、手の取った次第(ちなみに、私が「そもそも」を手にした書店は、プロダクションの公式サイトの取り扱いでは紹介されていません。所謂観光スポットではなく、地元の方が最も身近に手に取れる場所なのに…ちょっと残念)。

オオカミの護符とPR誌そもそもオオカミの護符(文庫版)」(小倉美恵子 新潮文庫)です。

この物語を巡るアウトラインを述べるのは、映画として、TVのスペシャル番組として、そして現在では溢れんばかりに流れる情報ソースの中で色々と語られれていると思いますので、今更かと思います。

著者の人となりと、その溢れる好奇心。川崎北部の谷戸を故郷に持つという妙な親近感(私の本籍は川崎の中部辺りにあり、先祖を辿ると多摩川の川渡しの家系に繋がる事を、幼い頃によく聴かされた)と、登場する地名の懐かしさから、少し嬉しくなりながら読み進めていたのですが、巻末に行くに従って微妙な感触を持ち始めます。

一枚の札を巡る著者の想いが、オオカミへの信仰という一側面を離れて、秩父の山々そのものの信仰へ向かって収斂していく過程の描写は見事で、納得させるものがあります。しかしながら、同時に語られる、失われようとしている谷戸や山里における慣習や、風俗への想いに著者が満たされていく様子を読んでいくうちに、何故か7000戸にも達するという、現在の谷戸に住む人々が、筆致の中から徐々に消え去られていく様な感触を得てしまったことです。それでも、著者は要所で配慮を示す筆致を入れていますが、その想いの馳せる先は、一途に山へと延びていき、今の里に住む人々への想いには、なかなか戻ってこないようです。

その上で、著者は里で農耕を行う「お百姓さん」が山へ山へと集っていく、そして山で彼らを迎え入れる風物について、失われないうちにという強い想いを込めて、精力的に取材を続けていきます。また、そのお札を奉り、彼らに対して供物を捧げた人々の営みについても、著者の経験と取材を通して述べられていきますが、何故、山の人々がそのお札を里に配る必要性があったのかという事が、すっぽりと抜けているように思えたのでした。著者は里の「お百姓さん」が、農作物の豊作と天候の安定を願ってそれを求めた事を丁寧に説明されていますが、そもそも御師にしても山から下って来るものであり、講はその御礼として組織されるものの筈。そこには山の側から求められる、経済的な結びつきが生じていたはずなのですが、本書では最後まで述べられることはありません。

図らずも直近で読ませて頂いていた、本書(文庫版)でも解説を書かれてる内山節氏の著作で、著者が指摘している点と同じ点に着目します。山の生活における「稼ぎ」と「仕事」。そこには山里の暮らしが山里だけでは完結しえない事を明確に示しています。「稼ぎ」としての経済活動。川の流れ、峠に沿った往来との関わり合いがあって初めて山里の生活が成り立つことを述べています。著者はその中で「仕事」としての側面に強く印象付けられたようですが、一方でほとんどの生活が「稼ぎ」の場となっている現在の里にも、何らかの想いは宿っている筈なのですが、その想いを描くことは本書の範疇を越えてしまうようです。

そして、内山節氏が著書で暗示するように、現在の山里の「稼ぎ」の場が「公共工事」であることも。

繋がりを求めて描かれた、著者の山へ対する強い希求の念の一方にある、山の人々が欲したであろう里との繋がりが語られることのない本書を読みながら、少しばかりの困惑を感じながら頁を閉じた次第です。

諏訪を起点にして語られる、次作「ものがたりをめぐる物語」が、山深い信州から飛び出して、東京へ、そして世界へ向かって活路を見出していった諏訪の人々の物語を汲み取ってもらえる事を。その昔の御師たちが、全国を廻って彼らの想いと、人々の想いを繋ぐ役割を果たし続けた事が汲み取られることを、(それこそ勝手に)願って。

<おまけ>

本書に関連するテーマの書籍を、本ページからご紹介。

今月の読本「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原題:No crystal stair)」(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン、原田勝:訳 あすなろ書房)本を通じて伝えたい想いと家族の記憶を

今月の読本「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原題:No crystal stair)」(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン、原田勝:訳 あすなろ書房)本を通じて伝えたい想いと家族の記憶を

New!(2016.6.15):ご紹介が少し遅くなってしまいましたが、本年度の第62回青少年読書感想文全国コンクール、高等学校の部課題図書に本書が推薦されました。いち通りがかりの読者ではありますが、このような機会に、本書がより多くの方の目に触れる事が出来ます事を願っております。

 

多分、普段なら全く買わないであろう一冊。

購入した本屋さんが、比較的思想系の書籍を推していらっしゃる関係で入ってきたのでしょうが、何故か歴史書の新刊として並べられていました。そのような背景を知らずに、単にアメリカの本屋さんの一代記、しかも歴史書にしてはA4変型判の随分不思議なフォーマットだなあと思って立ち読みをし始めると、その落差にある意味圧倒されて購入した次第。

絵本とも読み物とも違う。伝記とも物語とも違う。これまで見た事もない、不思議なスクラップブックのような構成と体裁。モノトーンで描かれる、エピソードの要所を締める挿絵。

読み始めてみると、更にその内容に圧倒されて、一気に読み進めてしまいました。

そんな、印象的な一冊をご紹介です。

ハーレムの闘う本屋ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原題:No crystal stair)」(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン、原田勝:訳 あすなろ書房)です。

本書の題名と、その帯の解説を読んでしまうと、少し身構えてしまいますが、原題の方がより本書の性格を正確に表しているようです。最後にルイスの言葉として語られる「水晶の階段じゃなかったけど」(この詩の出典は、訳者である原田勝氏のブログに掲載されています)。生年も、本名も判らなくなってしまった。そして、全米に名声を博す、ラジオエバンジェリストの兄に対して、鼻つまみ者として、荒れた青年、そして壮年時代を経て、片目を失いながらも、遂に自らの使命を悟って、ニューヨークのハーレムに、黒人の黒人の手による黒人が学ぶための膨大な書籍を集めた、伝説の書店「ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストア」を興した男の、屈曲しながらも登り続けた一代史としては、こちらの方が相応しいようです。

邦題では、僅か5冊の本からスタートして、35年を経て、閉店間際には22万冊の蔵書を誇るようになった本屋と、そこに集うマルコムXのような著名人や、黒人作家、詩人たちにとっての文化サロンといった後半部分の印象がどうしても大きくなってしまい、更には帯にあるような、暴力/非暴力活動に身を投じていたように感じさせますが、どうやらこれらの印象は大きく異なるようです。

わざわざFBIファイルを繰り返し載せているように、そしてフィクションとしてストーリーに重ねられていく記録を通して、議論好きで、店の前では何時も物議の醸す発言を集った人々へ声を上げて語り続けていたようですが、彼自身はこれらの活動に直接的には一切関わっていなかった事が判ります。

そのような活動に熱を入れる人々に対して、彼の取ったアプローチこそが本書の伝えたかったこと。それは、自分を知る事。そのためには自分の過去、自分たちの歴史を知る事。即ち、本と通して自らの歴史を学ぶこと。

アメリカのプロテスタント特有の思想に裏付けられた、一人一人が、神への敬意と自身の良心を信じることで、どのような権威にも負けない、自立した一人の人として生きていくために。その根本たる歴史を綴り、読む事を失ってしまった黒人たちに、本を通してその素地を養う事の大切さを語り続ける事で、その想いに共感した人々が彼の周りに集まってくる。その想いを綴り始める作家が現れ、そして彼ら書き手による書籍を率先して扱う事で、書棚を徐々に埋める蔵書が増えていく。自分たちの歴史と想いを綴る本達を、小さな書店を通じて自らの手で増やし、広めていく。遂には「教授」、「博士」とまで親しみを込めて呼ばれるまでに、ハーレムに、そして黒人社会全般に読書の、歴史を学ぶことの大切さを書店を通じて伝える役割を果たすことになります。

そして、本書自身も、巻末に掲載されるツリーダイアグラムが印象的な、ある黒人男性の家族と、その一生を、彼の弟の孫娘が描くという、彼の想いそのままに、家族の歴史を綴った一冊。同時代の黒人なら誰しも同じように、記録が散逸している彼の前半生について、現在も東部に存在する福音伝道神の教会の創設者でもある、彼の兄の伝道師としての活動との交点から描いていきます。

その商才や弁が立つことを認め、教会の一員として生きていく事を望む兄と、現世で生き抜く事を願い(この辺りが福音主義の思想的な分裂を感じさせます)、自らの信念で飛び出してしまう弟。その一生はルーズベルトやトルーマン、何とエドガー・フーバーとも親交があったとされる優秀な兄に対するアンチテーゼだったのかもしれません。そして、兄の活動に対する対抗勢力に肩を貸す結果となってしまった、マルコムXとの親密な関係や、膨大な兄の遺産相続処理(みずからは相続する遺産を削除されていたにも拘わらず)に悩まされる晩年の描写は、彼のやるせなさと、決して切り離すことのできない家族への想いを汲み取る事が出来ます。

他人と群れることなく、他人の思想に共感はすれど自らの信念を曲げることなく、42歳にして転身を遂げた後、精いっぱい生き抜いていった彼。その根底に息づいていた、自らを知るために読む事の大切さと、何時でもその「気づき」さえあれば、変わっていける、変えていけるという強い想いに打たれながら。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書と関連するアメリカ関係の書籍を。

今月の読本「未来のだるまちゃんへ」(かこさとし 文藝春秋)まっすぐに見つめ続けることの大切さを

今月の読本「未来のだるまちゃんへ」(かこさとし 文藝春秋)まっすぐに見つめ続けることの大切さを

色々と本を読み漁るたちですが、今回ご紹介する本は、本ページでご紹介する本とは一線を画した本になります。

そもそも、本書を知ったのは版元様のPRや書店店頭ではなく、SNSで拝見した、他の出版者様のご紹介文でした。

それまで著者の事も、代表作があの「だるまちゃんとてんぐちゃん」であったことも知らずに、ただ歴史的な内容を重視した面白いテーマで絵本を書かれている方だな、といった位の印象だったのです。それが、本書の紹介文を読んで、うん十年前の子供時代に愛読していた絵本たちの作者であったことを知った時の衝撃は大きなものがありました。

そのような訳で、通常ではご紹介することのないジャンルの本ですが、このような偶然は必然であるとのルールに従って購入してみた次第です(なかなか入れずらい、このような本を平置きで並べて下さった、富士見の今井書店様と、他社にも拘らずSNS上でご紹介を上げて頂いた小峰書店様に感謝を)。

みらいのだるまちゃんへ未来のだるまちゃんへ」(かこさとし 文藝春秋)です。

本書の表紙をご覧いただければ、誰しも一度は見かけたことのあるキャラクターが見つけられるのではないでしょうか。

その愛らしくも、温かみのあるキャラクターを生み出した著者であるかこさとし(加古里子)さんが、88歳にして初めて手掛ける自伝となる一冊です。

まず、著者の経歴をご覧頂くとちょっと不思議な気分に駆られるのではないでしょうか。東大工学部卒のエンジニアにして、昭和電工(きっちり社名出ていますのでそのままで)で研究職として47歳まで奉職した、工学博士(論博ですね)という、およそ絵本作家とは無縁の経歴が目を惹きます。そしてセツルメント活動という、聞きなれない福祉活動への参加と専業絵本作家への道筋と、あの絵本たちに描かれるキャラクターとの接点を見出すまで少々考え込んでしまったのも事実です。

そのような疑問は本書をご覧いただければすぐ解決します。丁寧でマメな筆致は、芸術家や作家というより、正にエンジニアらしい文体ですが、読者を意識して優しい表現で綴ろうとされているのがよく判ります(あとがきに見える、ご本人が通常使われているであろう、古風漂う、がちがちに固い文体との落差に驚かされます)。そして、デビュー作が当時は多く出されていた、大人たちの仕事を絵本を通して理解してもらう教材的な絵本でもある「だむのおじさんたち」であったことも、著者のエンジニアとしての素地を充分に生かせる素材であったからではないかと思います。

本書は中盤に挟まれた絵本作家としての作品をカラーで紹介するページを挟んで二つの章に分かれています。前半は氏が「一度死んだ」と述べる、戦前の物語。そして、後半は戦後大学を卒業後に手掛け始めたセツルメント活動と絵本作家への道筋が語られていきます。前半と後半で内容は大きく変わっていきますが、一貫して「子供の視点」というテーマを特に意識して書かれているようです。

親は子供の事など全然理解してくれない、子供は親を困らせないように生きているという、最近何処かの本で扱っているなあ…と思うような、自分自身の子供時代の経験からの書き出しで始まる本書は、たとえもっとも身近な肉親にさえ理解されずとも、自分の見つけた道をまっすぐに進んでいく事の大切さを語っていきます。子供の頃のあこがれ、それが叶えられない事への挫折や反動も、自身の事であってもやや傍観者的な視線で語っていきます。

戦後の章に入ると、氏自身の物語より、子供たちの視線に着目した話がメインになっていきます。一度死んだ者として、何を残していくのかの自問の経緯としてセツルメント活動と、そこに集まる子供たちの視線が語られていきます。その子供たちの視線は確かに刹那的かもしれませんが、決して幼稚でも独りよがりでもない。まっすぐに見据えた先に無限の広がりと、自由闊達な思考がある事に氏は気付いていきます。子供たちが観る視線の先には「世界の姿、実体を知りたい」と思っていると考えていきます。この想いは、何時でも好奇心のスタートラインに位置する疑問。きっかけさえ与えてあげれば、本人の力の限り好奇心の輪は広がっていく。氏はそこから細分化が始まると述べていますが、そんな点はエンジニアらしい発想であるとも思えますし、著作に多くみられる、テーマ性の高い作品群が、そんな子供たちへの好奇心の入口の役割を果たしている事に論を待たないと思います(氏の言葉を借りると、興味を対象を追いかけるうちに、世界の端っこに出てしまって、ぽつんとひとりでいる子どもに対して、この世界との有機的な繋がりを解き明かして、示してあげること)。

そして、氏の作品への想いは、子供向けの作品だからこそごまかしが効かない。気に入った内容であれば、大人なら簡単に読み飛ばしてしまうところにも、驚くほどの目配りで読んでくれる。だからこそ、そんな想いで絵本を見てくれる子供たちに届けばいい、セツルメント活動で見つけた、他に幾らでも楽しい遊びがある中で自分の紙芝居に目を輝かせて見入ってくれた、ほんの僅かでも目の前で喜んでくれる本当の「読者」に届けたいという、表現者の方々がよく仰る普遍的な想いに繋がっていきます。そのためには、徹底的な下調べと自らをさらけ出すことも厭わないという想いを述べていきます(「宇宙~そのひろがりをしろう」を製作する時間を取りたいがために退職し、7年をかけて製作。「万里の長城」は実に30年かかったと書かれています)。

そのようにして世に送り出された600冊にも及ぶ絵本たち。セツルメント活動で得た子供たちの眼差しにしっかりと視点を合わせるかのように、子供たちの行動をエンジニアらしく分析した結果をじっくりと盛り込んだこれらの絵本たちは、一方で氏の家族の犠牲に上に成り立っていたことをいみじくも述べています。この辺りの経緯について意外なほどあっけらかんと晒しているのですが、同時に社会人、会社人としての矜持を同じ筆致で述べられてしまうと、本書を読まれる現代の親御さん世代の方にとっては、氏への評価を大きく揺るがす内容かもしれません。

巻頭に掲載されている、悪戯っぽい笑顔の写真を眺めながら本書を読んでいると、そんな矛盾を孕みながらも、まっすぐな子供たちの視線に正面から応えようとしている、ちょっと子供の香りを残した「まっすぐな想い」を抱かせる生き様そのものが、氏の作品の魅力なのかもしれませんね。

<おまけの雑文>

氏が述べる「世界の端っこ」にもしかしたら私は今も留まっているのかもしれません。器用さもなく、決して体が強くなかった私にとって、読書は最大の慰めであり、世界に開かれた小さな窓口でした。学校や地区の図書館書棚を跋渉してあらゆる興味を渡り歩いた末に、最後に行きついたのが分厚い百科事典(一冊に集冊されたもので、講談社版だったように思います)。中学時代の図書館での自習の際、何時も抱えて片っ端から読んでいたのがよほど気になったのでしょうか、禁帯出にも関わらず休みの日に貸し出してくださった国語の先生には今でも感謝しています。その後、エンジニアの道に進むことになったのですが、あの時にたどり着いたであろう「世界の端っこは」は本当に誰もいない場所だったと思います。氏がそんな子供たちの興味は千を下らないだろうと述べているように、未だに誰もやって来ないその端っこで、世界の繋がりを探し続けているもう一人の自分が居るのかもしれません。

<おまけ>

本ページでご紹介している同じようなテーマについてご紹介

今月の読本「ヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英 新潮文庫)「マッサン」の原譜にしてニッカ創業80周年を記念して新装なった、日本初のウイスキー継承への伏線を描く物語

今月の読本「ヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英 新潮文庫)「マッサン」の原譜にしてニッカ創業80周年を記念して新装なった、日本初のウイスキー継承への伏線を描く物語

今年の秋冬シーズン(10月~15年3月)に放映予定のNHK大阪制作の朝の連続ドラマ「マッサン」は、朝の連続ドラマ史上初の外国人女性を主人公に置いている事でも話題となっていますが、それ以上に主人公のパートナーであり、夫でもある竹鶴政孝が創業したニッカウヰスキー創業80年を記念した営業活動の成果という、ちょっと斜に構えた見方も出来たりします。

今年のWWAで「竹 鶴17年ピュアモルト」がworld bestを射止めたのも、ISC2014では実に8商品ものゴールドメダルを獲得したのも、創業80年に花を添える執念の受賞と云われましたが、更に花を 手向けるかのような連続ドラマへの「創業者夫婦」の採用。毎年熾烈な勧誘があるとも謂われる連続ドラマの舞台勧誘から見てもちょっと意外な選定に驚くところで す。

何故北海道、余市が創業のニッカウヰスキーが大阪制作の連続ドラマのテーマとして採用されることになったのか。そして、なぜ連続ドラマを用いてまで80周年を盛り上げようとしているのか、この本をご覧頂くとちょっと見えてくるかもしれません。

ヒゲのウヰスキー誕生すヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英 新潮文庫)です。

本書は元々、昭和57年(1982年)に新潮社より刊行された書籍の文庫版ですが、今回のドラマ採用に際して表紙装丁の変更と、ドラマに合わせた帯の新調が行われています。また、冒頭カラーページに所謂「竹鶴ノート」の写真が掲載されており、新装版として版も改まっています(初版扱いです)。

新装版の表紙に大きく掲げられた、ニッカのトレードマーク「キング・オブ・ブレンダーズ」をご覧いただければ判るように、本書もニッカウヰスキーの強い後押しを受けての新装であることを滲ませています。

そこには長年のライバルである「サントリー」のここ数年来の広報戦略、そして世界企業への飛躍に対するニッカ、そして親会社であるアサヒビールの強い危機感を感じさせます。

本書は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝の準公式的な伝記ですが(公式な自伝としては「ウイスキーと私」という作品もありますが、こちらはニッカウヰスキーの刊行物のため、書店には出回りません。注:こちらのサイトの情報によりますと、NHK出版より版を改めて刊行されるようです。この力の入れようも尋常ではないですね)、単なる偉人伝ではありません。その書名から判りますように、本書は伝記体を採りながらも、実質的には「日本ウイスキー発祥物語」としての位置づけを持っています。

物語は大阪の大学卒業を前にした竹鶴が摂津酒造に押しかけ修行を願い出るところから始まりますが、社名を見て頂ければわかりますように、ニッカの創業地、北海道は余市ではなく、大阪の南部、住吉から物語はスタートします。竹鶴自身も広島の竹原(たまゆらの舞台ですね。日本酒ファンの方には吟醸酒の発祥でもある、広島軟水仕込みでも有名かと)出身であり、関西より西側を舞台にすることをセオリーとしている、NHK大阪制作の朝の連続ドラマテーマとしては決して場違いではないことが判ります。

そして、彼の摂津酒造での働きを興味深く見守る人物として常務の岩井喜一郎と、ここに鳥居信治郎が登場してきます。そう壽屋の、即ちサントリーの創業者である鳥居信治郎です。岩井喜一郎は後に本坊酒造に移籍、現在の信州マルス蒸留所の元となる山梨マルスワイナリーを立ち上げることになります(数年前まで休止中でしたが、ハイボール人気を受けて蒸留を再開しています。そのような意味でもこの三者の関わり合いは非常に興味深いですし、その外にあったメルシャン(旧三楽オーシャン)の軽井沢蒸留所の閉鎖も印象的です)。そして、鳥居信治郎、更には彼の残したサントリーとの物語は本書の最後まで続くことになります。

その後、摂津酒造の後押しを受けてイギリスに渡った竹鶴は生涯の伴侶であるリタを連れて帰国する訳ですが、彼が持ち帰ったもう一つの成果である「竹鶴ノート」として纏められたウイスキーの製法は紆余曲折を経ることになります。この辺りは本書に詳しいわけですが、結果として竹鶴ノート自体は摂津酒造に残り、岩井喜一郎の手を経てその技術は本坊酒造に渡ることになり、竹鶴自身は壽屋の社員として山崎蒸留所を開設することになります。更には鳥居信治郎と袂を分かった竹鶴は北海道に渡り、余市の地で現在のニッカウヰスキーの元となる大日本果汁を創業することになります。つまり、竹鶴が持ち帰ったウイスキーの製法という魔法の種は、彼自らの行動によって三つ木に分かれて果実を実らせる結果となったのです。

その結果が何を生み出したのかといえば、本坊酒造は竹鶴ノートの継承者を自認して「原点」を名乗り、竹鶴自身が起こした余市の蒸留所を継承するニッカ、そして親会社であるアサヒビールは彼を「日本のウイスキーの父」を称するようになります。では、本当に日本で初めてのウイスキー生産を達成した壽屋、即ちサントリーはどうでしょうか。そう、ウイスキー自体を作ることはしなかったが、その国産化に大きな力を与えた創業者である鳥居信治郎を「ジャパニーズウイスキーの創始者」と称し、竹鶴が残した原酒のエージングが充分に整った後に世に送り出された「角瓶」を以て、ジャパニーズウイスキーの始祖と位置付けたのです。竹鶴の名をまるで消し去るように扱いながら。

本書に於いてもその間の経緯(本坊酒造は出てきませんが)が語られていますが、その記述が三者それぞれに好意的に捉えられる筆致になっているのが非常に興味深い所です。まず、本坊酒造にとっては本人はさておき、彼が渡航の果てに結実させた竹鶴ノートの中身こそがスコッチ製法の秘密をすべて書き留めている証拠を本書が示している事になります。ニッカにとっては大事な創業者の伝記なのですが、その文面には竹鶴と鳥居の確執と、味覚に対する鳥居の鋭さを竹鶴が認めるように捉えられる内容が含まれています。更に驚くことに、巻末では回顧録的に竹鶴に壽屋時代に作っていたウィスキーはスコッチの模倣であり、日本人に合わせたものには至っていなかったことを自嘲させています。実は、現在のサントリーが行っている「ジャパニーズウイスキー」のプロモーションは、まさに著者が竹鶴の言葉として語らせた内容を地で行くような竹鶴、そしてニッカのウイスキー造りに対するアンチテーゼであり、本書は図らずも両社のプロモーションにとって、互いに重要な「理論的原典」として位置付けられるようです。

同じ人物によってウイスキーの蒸留を始めた両者はお互いをライバルと見做し、シェアと品質を争い続けてきたわけですが、品質面はともかく、シェアとその巧みな宣伝戦略においては、ハイボール人気を見るまでもなく、ニッカ、そして親会社でもあるアサヒビールにとって近年特に分が悪いようです。更に、ここに来て決定的な差を付けかねられないトピックが「ビーム・サントリー」の成立ではないでしょうか。苦難のビール事業を遂に軌道に乗せ、余勢を駆って「ジャパニーズウイスキー」の旗手として世界的な酒類メーカーの一翼に躍り出ようとしているサントリーと、国内でも主力のビールでシェアをじりじりと低下させて、往年のスーパードライ躍進も最近は影の薄いアサヒビールにとって、長年のお荷物でもあるニッカの処遇。この80周年にかける猛烈なプロモーション(ちょっとずれている気もしますが)には、そんな危機感が見え隠れしている気がします。

本書の後半は、竹鶴の英雄談よりも、そんな弱小ウイスキーメーカーとしての悲哀が存分に語られていきます。その苦境は当時よりは多少は穏やかにはなったのかもしれませんが、現在でも決して順風満帆といかないセカンドベンダーの悲しさと苦闘が見え隠れします。そのような中でも、「心を熱くするウイスキー」というテーマを掲げて、ブレンドに拘り、丁寧な造りと、原酒を守り続けるという、ウイスキーづくりの原点を守り抜こうとする人々に対しての、先人からのエールとも思える一冊です。

なお、本書を手に取られる方が期待するであろう、最愛の妻であるリタとの物語は要所で登場はしてくるのですが、構成バランスの関係でしょうか、彼女の物語はスポット的に挿入されていきます。したがって、本書の内容だけで連続ドラマ半年分のボリュームを導き出すのは難しいと思われますし、更には物語としての連続性が欠けているため、ドラマの方は脚本家の方の手腕にかかってきそうです。しかしながら、当時としては非常に珍しい「外人さん」を扱った物語。その中に、生真面目でお茶の時間には厳格な英国夫人としての矜持と、健気に日本人の妻としての生きていこうとした彼女の想いが汲み取られることを期待したいところです。

最後に、本書の骨子の殆どは、参考文献として挙げられているように、wikipediaに掲載されています。

wikipedia自体は知の拡散という意味で、非常に素晴らしい活動なのですが、このような形で書籍の骨子がもれなく掲載されてしまうと、その後に本書を手に取った際に少々寂しい想いをする事も事実です。特に人物伝などで骨子があらかた書かれてしまうと、後で書籍を読む理由すら減退しかねない事もあり、今回ばかりはwikipediaの記事に対して残念な思いをした事を留めておこうと思います。

<おまけ>

摂津酒造や壽屋時代以外の竹鶴の足跡については、上記のようにwikipediaに詳しいですが、公式録としてはニッカウヰスキーが纏めて取り上げていますので、併せてご覧頂くとよいかと思います。特にリタに関するエピソードは、養子で後の社長、2代目ブレンダーでもある竹鶴威氏のエッセイに多く語られています。

<おまけ>

今回の放映に際して、「番組公式」とも捉えられる書籍が刊行されるようです(ほんまもんのニッカファンさんのこちらのサイトで見つけさせていただきました)。東京書籍から番組放映間近の8/30に刊行される「竹鶴政孝とウイスキー」です。著者はスコッチ文化研究所主宰で、ウイスキーワールド編集長でもあり作品の監修を担当される土屋守氏。どのような構成になるか判りませんが、東京書籍の刊行ということもあり、番組の副読本といった体裁になりそうですね

竹鶴政孝とウイスキーという訳で買ってみました。まだ読んでいる最中ですが、全243ページに対して4割近い100ページ超を竹鶴ノートの詳細な検討によるウイスキー醸造法の紹介に充てられており、残りの半数が養子で二代目ブレンダーの竹鶴威氏へのインタビュー、残りが竹鶴の略歴と、ヒゲのウヰスキー誕生すのストーリーに則って、イギリスでの足取りを重ねたアウトラインとなっています(帰国後のお話は、巻末の2004年に行われた竹鶴威氏へのインタビューに引き継がれる形です)。

従いまして、ドラマをご覧になられる方への本というより、純粋にウイスキーファン、しかも醸造までに興味を持たれている方へ向けた書籍だとご理解いただいた方が良いと思います。特に本書のメインである竹鶴ノートの解説部分は流石に著者の専門分野だけあって非常に詳細です。そのため、ウイスキーに限らず、醸造一般にかなり興味のある方でないと内容的にはやや厳しいかもしれません。

 

本書と似たようなテーマを扱った書籍、話題のご紹介

今月の読本「魔法の夜 竜宮ホテル」(村山早紀 徳間文庫)今度は私が伝えてあげる

今月の読本「魔法の夜 竜宮ホテル」(村山早紀 徳間文庫)今度は私が伝えてあげる

New!(2016.2.15):竜宮ホテルシーズの最新刊「竜宮ホテル 水仙の夢」が刊行さました。

こちらにちょこっと紹介も書いています。

 

<本文此処から>

年末から続けていた村山早紀さんの著作シリーズも最後の一冊。

先に纏めのページを上げてしまいましたが、単巻としての感想も残しておこうかなと。

2011年に刊行された「竜宮ホテル」の続編。実際には2013年に徳間文庫に再収蔵された同作の続編として刊行された「魔法の夜 竜宮ホテル」のご紹介です。

竜宮ホテルシリーズ2冊本作は、クリスマスに関わる短編二編とエピローグが収められていて、一応、各編ごとに楽しむこともできるようになっていますが、やはりここは前作「竜宮ホテル」を読まれた後でご覧いただければと思います。

前作は、著者のシリーズ作品ではお馴染みの「風早の街」に建つ、竜宮ホテルの住人の一人となった主人公で小説家の響呼が、ホテルに住む不思議な住人との触れ合いを通して、自分自身の存在を見出していくお話となっています。

2013年の再収蔵時に追加された短編では、すっかり竜宮ホテルの住人の一人として馴染んでいる響呼と同居する、彼女を慕う妖怪の少女、ひなぎくの物語がモノローグとして語られていきますが、本作はこの追加短編を受ける形で、クリスマスシーズンをテーマにした物語が綴られています。本作でも、ひなぎく、そして響呼のモノローグが交差しながら物語は進んでいきます。

今回のゲストは元サーカスのピエロにして魔術師の佐伯老人と、ホテルのコーヒーハウスのアルバイトでもあり、ストリートミュージシャンでもある愛理ですが、二人に心を寄せる新しい登場人物や、響呼を竜宮ホテルに住むように誘った張本人でもある寅彦のお話も出てきます。

前作では、自分自身の居場所に不安を持ちながら、他人と接することが少なかった響呼ですが、本作ではまだまだ頼りないところを見せながらも、ひなぎくやゲストたちを見守る側の立場としての役割も演じていきます。

自分の能力に懐疑的て、自らを否定するように、自分の能力も否定してきた響呼が、自ら進んでその能力を発揮しようと動き出します。その目的は、自分の為ではなく、自分を必要としてくれる、自分を想ってくれる大切な人の為に。

本作はファンタジーなので、想ってくれている人が「人」であるとは限りませんが、それでも寄り添い、支え合う人がいることの大切さに改めて光を当てていきます。

そうしていくことで、響呼自身だけではなく、物語に登場してくるゲストたちの想いも少しずつ解き放たれていきます(登場人物の背景などに、同時期に書き下ろされた「ルリユール」の影響も見られますよね)。

逃げないこと、一瞬を大事にすること、時には演じ続けることで誰かの想いに応えること、それでも伝えたい気持ちを伝える事。

まだ、本当の意味で自らを解き放てたわけではない響呼を更に促すように、ちょっと厳しめな著者はこう語らせます

「知らないこと、気付かないことも罪だから」

響呼がもつもう一つの力「本を書く」は著者のものでもあります。物語のエピローグで、その想いをこう述べていきます(長文引用すみません)

—引用ここから—

人間は、魔法を使えないかもしれない。けれどきっと、ささやかな願いや、美しい祈りを未来に伝えて行くことは出来る。

遠い時の果てで、私たちの祈りは、未来の誰かを寒さから救い、その涙を乾かし、ふたたび微笑みを取り戻すための力になれるのかも知れない。

言葉は、傷を覆う薬になり、凍える体をふんわりと包む、優しい羽毛になるのかも知れない。

わたしの残したささやかな物語を、遠い未来の荒廃した日本で、日比木くんが喜び、その心の支えにしたように。

(言葉は、宇宙に残る・・・・・・)

だからわたしたちは祈る。そっと空に、星に願い事を託すのだ。

空を見上げて。星が灯るように輝く、この地上から。

街—わたしたちが生きる、大切なこの場所から。

—引用ここまで—

クリスマスをテーマにした作品らしい、想いの伝え方ですが、一方で著者がシリーズとして書き続けている「風早の街」への想いの一端をもここで伝えてくれています。

大切な場所、大切な人と一緒に。

<おまけ>

村山早紀さんの著作とSNSと伝えたい想い(コンビニたそがれ堂からルリユール、竜宮ホテルへ)

村山早紀さんの著作とSNSと伝えたい想い(コンビニたそがれ堂からルリユール、竜宮ホテルへ)

New!2015.3.3:著者の代表作でもある「コンビニたそがれ堂」。これまでのシリーズ作品からの選りすぐりと、新たな描き下ろしを加えた愛蔵版がこの度刊行されることになったようです。既に著者の村山早紀さんがtwitterで書影の見本を公開されています。ご興味のある方はこちらもどうぞ。

 

<本文此処から>

ルリユールをきっかけに、年末から年始にかけて、昨年刊行された村山早紀さんの著作を連続して読み続けること三作品。

村山早紀さんの著作達子供の頃から本が大好きで、手元に読みかけの本が途絶える事など考えられないような生活を続けてきたのですが、物語や小説だけは殆ど読むことはなく(星新一だけ例外)、只々、活字によって、底なし沼な知的欲求の飢えを潤してきたような気がします。

そんな、偏執的活字中毒者にとって、児童文学は禁断の世界。本屋さんに山籠もりするのは大好きですが、児童書のコーナーだけは例外。popなカラーが溢れ、子供たちの歓声がこだまする暖かそうなその空間には、決して近寄ろうなどという事を考えもしなかったのです。

そんな児童文学の世界を舞台に活躍されていた村山早紀さんの著作が、たとえ一般書として刊行されたとしても、巡り合う事はまず無かった筈なのですが(書棚をぱっと眺めても、著者が女性の本は指折り数えられるほどなのですから尚更です)、SNSの意外な効用なのでしょうか、こうして何冊かの著作を手にすることになったのでした。

丁度、毛色違いの仕事を一人で取り仕切るという厭な関門にぶつかっていた時、SNSで流れている書評に多く見られるように、そして最初に手にした「コンビニたそがれ堂」の帯にあるように「心の疲れをほぐします」という言葉に惹かれたのかもしれません。

その一方で、最初に著者を知ったきっかけとなった某作品の設定協力に関するコメントで、「もう少し暗い話だった」と述べられていたのが、妙に気になったのです。

その作品は販促用として製作された物でしたが、1年間というロングスパンを活用して、一人の少女の成長を丁寧に描写していったことで、一部で非常に高い評価を受けたいました。そのベースとなっていたのが、製作陣の丁寧な作業による美しい映像と、時に厳しい視線すらを厭わない、ベテラン女性脚本家の方による、しっかりと道筋の通った構成であった事は皆さんの一致する意見かと思います(放映前後のSNSを通じた製作陣のトークや、制作側の熱意もあり、不可能とも思われたBD化の際に新作映像まで制作されたこともSNSによる波及効果の一例ですね)。

そんな、販促番組としては異例の高水準で組まれ、子供向け作品にしては少々厳しめの内容にも思われた構成に対して、更に暗い話であったとは、どのような意味を持つのであろうか、そもそもナイーブな子供を相手に読後の満足感を得させることを生業とする児童文学者だぞ…と、更なるギャップを抱えたまま、「コンビニたそがれ堂」を手に取ったのでした。

そんな気楽さ半分、ちょっと心配半分で読み始めて僅か数分、既に私の心は氷のように固まり、字面を追う目と思考は緊張感に苛まれ続けていました。その本の中で語られていく物語の背後に流れる旋律が余りにも暗く、沈没してしまうようにも感じられたからです。そう、登場人物たちの背景を徹底的に突き落としていくような、そんな設定に戦慄を覚えたのでした。

強くまっすぐ願うこと。誰かを気にかけ続ける事。誰かの想いに答え続ける事。想いを強く強く馳せ続ける事。そんな聖人とも思える登場人物たちの真っ直ぐな想いとは裏腹に、著者によって彼らに与えられるのは、それほどの強い想いすら簡単に叩き潰してしまう程の暗い影、心の闇。そして根底に流れ続ける死への視線、死者への想い。

多くの読者の方は「心が温められた」「安らぎが得られた」と感じられるようなのですが、私にとってはひたすら崖っぷちに立たされた思いが残る作品だったのです。

なんで、そこまで潔く生きることを選択できるの、そんな絶望の淵でも希望を口にできるの、と。

その世界観は、キリスト教の「罪と赦し」の説話に通じる事は直感的に判っていたのですが、登場人物たちの真っ直ぐな想いの裏返しとして、正面から向き合わされることになったのです。

珍しく買った小説、それも癒し系なんだろなと思って、へとへとに疲れた出張帰りの車内で少し潤いが欲しかった最中の、決して後味が良い読み終わりではなかった私を辛うじて救ってくれたのが、巻末の瀧晴巳さんによるちょっと長めの解説文だったのです。作中では見せない著者のもう一つの想い。

それ以来、再び著作を手に取る事もなく、相変わらず好きな実録と歴史書で知識と活字への欲求を満たし続けていた中で、再び著作に巡り合うことになります。

一般向け書籍では文庫本の形態が多い著者の作品では珍しく、新書版として上梓された「ルリユール」。美しい装丁と、本を修理する事をテーマに扱ったこともあり、本屋さんの店員の皆さんや、読書ファンの皆さんの中でもかなりの評判が上がっていた事を、再びSNSを通じて知る事となったのでした。

最初は手に取るつもりはなかったのです。多分、読むと絶望の淵に再び立たされるのだろうな、と。ただ「本を愛する人の想い」というフレーズに心惹かれて再び手元にやってくることになったのでした。

文庫でも小説を買う事はまれ、更に言えば新書版自体も多くは買わない身としては、美しい装丁の女性作家の小説など遠い世界の物語、の筈だったのです。ところが、ある方の書評に対してコメントを入れてリプライした後に、ふとTLを眺めると、著者である村山早紀さんからのFavoが入っていてびっくり。もはや読むしかないと腹をくくって本屋さんに探しに出たのでした。

SNSが取り持った、ささやかな繋がりの末に手元にやって来た「ルリユール」。読み始めてみれば「コンビニたそがれ堂」で感じた著者特有の世界観が、本を直す仕事という、作家である著者により近い舞台故に、更に濃密に織り込まれて展開されている事を知る事になります。そう、心温まる物語の裏側に流れる、暗く深い闇夜のような旋律も含めて。

でも、一つだけ違って見えた事があります。登場人物に仮託する形ではありますが、著者のもう一つの想いが、少しずつ述べられ始めている事に気が付くのです。

その想いを誰かに伝えたい。本という箱舟に載せて、未来へ船出させたい。物語の後半に進むにしたがって、そんな想いが随所に述べられていきます。

「ルリユール」を読んだ後に感じた変化を更に確認したくなって読み始めたのが、同年にリニューアルと追加のエピソードが加えられた「竜宮ホテル」シリーズ。

こちらの主人公はストレートに女性小説家。綴られてく内容には、もちろんファンタジーとしての脚色がふんだんに盛り込まれていますが、「ルリユール」より踏み込んだ形で、著者のもう一つの想いが語られていきます。

物語作りという裏方に徹する女性小説家。ファンタジーが得意で、でも自身のいきさつにより、そんな部分に拒絶反応すら示していた私。それまでは物語を描く立場であった私が、今度は私の物語を演じ始めることになります。

最初はぎこちなく始まった私の物語も、周りの多くの人たちの支えによって、少しずつ世界が広がっていきます。私の世界が広がると、知らないうちにみんなの世界に私が繋がっている事を知っていきます。みんなの世界にとって、私がかけがいのない存在であった事を言葉を通して知って行く事になります。独りで生きいるんじゃない。みんなが居てくれるから、私は此処にいられる。

まだ、心の奥底には許せない自分が潜んでいるのかもしれません。それでも著者は登場人物たちに演じ続けさせます。その想いが誰も知らないものになってしまわないように、誰かの想いも失われないように、誰かに伝わるように…。

「私は誰かの言葉を聞くようにしよう、誰かの姿を見ているようにしよう」

今度は私が誰かの想いを支えてあげる。僅かだけど私の力「本を書く事」「未来に伝える事」を通して、今度は私があなたに伝えてあげたい。まだ見ぬ未来のあなたに伝えてあげたい。

「あなたは、この世界に生きていてもいいよ」

と。

本と、SNSは媒体は違えど「文章」を伝え合うツール。文章に込められた想いが、誰かの心に届くと信じ続けられれば、きっとあなたの想いも通じるはず。そんな妄想めいたことを考えながら3作品目の「魔法の夜 竜宮ホテル」のページを閉じたのでした。

<おまけ>

  • 村山早紀さんの著作の根底にある想いを考えた時に、どうしても思い出してしまうのが、古い作品で申し訳ないのですが「灰羽連盟」という安倍吉俊さんの同人誌を元にしたアニメーション作品。製作されてから10年以上が経過していますが、今でもカルトな人気を得ている作品となっています。物語の底流に流れている暗く、深い死の旋律と、物語の随所に現れるキリスト教的価値観からの援用だけでも充分相似性を感じさせるものですが、登場人物達が背負わされている背景や、主人公のお姉さん的立場で描かれる人物の振る舞いまで、村山早紀さんの著作に登場する人物たちと相通じるイメージがあります
  • 最近の作品で、同じようなシチュエーションを丁寧に描いてるのは「人類は衰退しました」における私と友人Yの物語でしょうか。主人公である「わたし」に独白させる「本当は一人ぼっちでいるのは寂しい、本当は仲間と和気藹々うまくやりたい、本当は…本当は、笑われたり馬鹿にされたりすることは死ぬほど辛い…」そして、独白の後に続く「独りは嫌です…ああ、言葉にしてしまった、言語化してしまった、そんなことをしたら、どんな強がりも腐ってしまうのに…」言葉を操る作家と呼ばれる方々の言葉に対する強い想いと、言葉にしない事がどれだけ心を頑なにしてしまう事になるのかを思わせる台詞でした
  • 「コンビニたそがれ堂」紹介のページでも書いていますが、キリスト教説話的だと思わせる例として、こちらは非常に古い作品となってしまいますが「雪のたらか」という童話があります。1970年代から90年代にかけて制作された日本アニメーションの「世界名作劇場」の第9作品目(アルプス物語・わたしのアンネット。現在ドラえもんの総監督を務める楠葉宏三さんの初監督作品)にもなったお話ですが、読むのが辛くなるほどの登場人物たちは徹底的に苛まれていきます。そして、ペギンじいさんとルシエンの邂逅は「魔法の夜 竜宮ホテル」で語られる佐伯老人とキャシーの巡り合いそのものです(この辺りのレトリックが意味する本質は、更に原典である旧約聖書などを読んでいただければと)
  • 村山早紀さんを知る事となった作品については、素人の私ではなく、プロの方の紹介記事があります。こちらへどうぞ(漫画研究家/ライターの泉信行さんによる『アニメ脚本家・島田満さんのお仕事と、イマジナリーフレンドの関係』ピアノ・ファイア)
  • 私自身、喋る事は嫌いではありませんが、元々吃音持ちにも拘らず、頭のてっぺんから出しているようなトーンの高い声と、江戸言葉の血筋を引くせっついたような語り口のため、今でも色々な誤解を受けることがあります。それでも話さない事には何も伝わりませんし、場所も立場も離れた人から理解を得ようとすれば苦手であっても文章の力を借りざるを得ません。そうやって、自分で苦しみながらも何かを伝えていく事自体が、生きて行く事と同義なのかもしれませんね
  • 村山早紀さんはかなりのデジタルガジェット好きで、作中に何度も最新型の製品の名称が出てきます。女性作家の作品では珍しい事ですよね。ルリユールにenchantMOONが出て来たときは正直、びっくりしましたが、ライブ感を大切にしているのかもしれませんね。今年あたりの作品にはウェラブルガジェットを使用しているシーンなどが出て来るかもしれませんね
  • こちらのページで紹介した、村山早紀さんの著作は以下のリンクより