今月の読本「紫外線の社会史」(金凡性 岩波新書)科学が求められ伝えてきた健康と有害の狭間で揺れる見えざる光の両側面

今月の読本「紫外線の社会史」(金凡性 岩波新書)科学が求められ伝えてきた健康と有害の狭間で揺れる見えざる光の両側面

そろそろ暑いシーズンを迎える頃。燦燦と降り注ぐ太陽が眩しくなると気になるのが紫外線。最近ではオゾン層破壊との関連で盛んに議論され、天気予報にも紫外線情報が毎日伝えられ、その防御(著者の言う日傘男子は果たして…)が盛んに取り上げられますが、ちょっと時間を巻き戻すと「小麦色の肌」「逞しく健康的な日焼けした体」「日焼けサロン」「ガングロ女子高生」等々…積極的な日焼けを推奨するシーンも繰り返し訪れていたように思われます。

今回ご紹介する一冊は、そんな両極端に扱われる「見えない光」をどのようにして科学が伝えてきたのかを解説する一冊です。

今回は「紫外線の社会史」(金凡性 岩波新書)をご紹介します。

まずはじめに、本書は紫外線に対する光学的な特性や太陽、天文学的な要素、工業利用を含む産業としての紫外線利用や研究史を語る本ではありません。また、表題には社会史とありますが、紫外線に対する健康面での有害性や危険性を前提にした、社会学が求める枠組みに沿った倫理、思想面を下敷きにした推移を述べる内容でもありません。

著者はちょっと珍しい「科学史」を専攻される方。前著の上梓後、その内容から地震研究者と誤認されていることを嘆かれていますが、著者の研究内容はその分野における科学的な知見が一般社会にどのように伝えられていったのかを歴史的な推移を添えて述べていくことであり、ある科学的なテーマが社会へと受容されていく過程を多面的に捉えていく事を主眼とされているようです。

最近一般書でも多く見かけるようになってきた人文系の研究者、著者の方による「ものの歴史」をテーマにした書籍。しかしながら、その内容には物に息づく歴史や文化、人と技術の推移を語る以上に、テーマに仮借される著者の倫理観、社会性や思想的な立場を投影するために選定された対象物として取り扱うという内容が散見するように思われます。本書のテーマである「目に見えない」光である紫外線。著者も指摘するように同じく目には見えない放射能(放射線)同様に、その科学的な特性が分からない段階では極端な期待や著しい恐怖を生み出すことは繰り返し述べられてきましたし、人文系の視点でそれら双方を強調する著作も多くあるかと思います。

一方、著者による科学史のアプローチでは前述の切り口とやや様相を異にしていきます。表題に示されるように本質的には社会への影響を綴っていきますが、そのアプローチは「科学」が伝えた内容から説き起こしてく点。本書では紫外線の人工的な利用の発端となる紫外線照明(人工太陽、紫外線ランプ)実用化以降、太陽光線を含む紫外線の利用や弊害に対して、科学、工業、医療の立場から各種の媒体を通じてどのように伝えられてきたのかを多面的に紹介していきます。

科学の発展と共にその役割が把握されつつあった太陽とその光に含まれる見えない二つの「ひかり」紫外線と赤外線。赤外線は温熱効果など常に有用性がもてはやされますが、一方で紫外線はその発見時から人体への悪影響(日焼けと目の負担)というネガティブな存在として位置づけられます。一方で当時深刻な問題であった脚気、くる病、そして日本では亡国病とまで呼ばれた結核。これら当時は治療法や原因が未確定な病気に対して太陽療法と呼ばれたサナトリウム(富士見高原療養所と正木俊二先生の名前も)での療養を核にした健康療法、治療法の一分野としての紫外線照明が見出されます。また江戸煩いとも呼ばれた、日本の都市生活が生んだ病気、当時の陸軍を悩ませた脚気。ビタミン博士、鈴木梅太郎を軸に健康とビタミン、その先にあるビタミンDと日光浴の効用から紫外線ランプの普及を狙うマツダランプ(東芝ですね)の動きを描く日本。一方、海外では大都市居住者に対するくる病発生率の高さとその解決策として、健康増進と社員の福利厚生の一環としての大企業のビタミン剤配布、人工太陽照明の採用。更には鶏や牛乳への紫外線照射による骨の強化やビタミンD不足対策という微妙に異なる推移を示していきます。

何れも都市生活というキーワードで語られる病気の治療法として期待された人工太陽照明。その効用と疑問の双方を述べる科学者、医師たちの言葉とともに、著者が示す2枚の写真から浮かび上がる特異的なシーン。今から見るともはやオカルトにも感じる姿ですが、これが当時、最先端科学とされた姿を捉えたもの、そして効用を期待された結核や脚気にはあまり意味を為さなかったことを現代の我々は知っていますが、当時は疑念的な意見がある中でも科学的な議論の遡上にあった事を指摘します。著者はこれらの議論が現在まで続いていることをその解説を述べる文章(新聞記事や広辞苑を引いて)と共に提示して、科学的な認識が社会にどのように受容され、変化してきたのかを示します。

そして、戦前から現在まで繰り返される日焼けによる健康的な肌色と紫外線、太陽光からの暴露を抑えた肌色への憧れ、美白の狭間で揺れる人々の健康と美の意識。著者はその推移を最も明確に残す資生堂の社内誌に記載された内容を示しつつ背景を探っていきますが、ここで非常に興味深い着目点を提示します。

前述のような都市生活という新たな生活シーンにより生まれた病気、その病気の罹患率と日焼けを健康的と見做すか否か。国と地域、貧富の差、人種、そしてジェンダー。健康というテーマの背景には敢えて語らずともこれらの断面が色濃く刻まれていることを当時の記録の中から読み解いていきます。

特に著者が指摘する、健康と美という側面を強く意識し、更にはその知識を理解し伝える事が求められた「科学的母性」という存在。明らかにジェンダーに偏ったその存在と提供された科学知識。その見えざる光が有する科学的な有用性と有害性に最も敏感(と定尺された)女性、母親たちに対する科学知識の伝え方の変化、端的に言えば「科学に対する需要」の変化から、社会の一側面を見出していきます(なお、美白と健康美の変遷はそれだけでは理解しきれないと)。

外出が憚られる事も多い昨今。屋内生活が続き運動不足で日差しをたっぷりと浴びることが少ない方も多くいらっしゃるかと思いますが、都市に集住し同じような悩みを漠然と抱え健康に懸念を持った当時の人々に対して科学がどう応えたのか。ちょっと歴史を振り返ってみると、現在数多に溢れるそれらに対する情報や科学的と称される見解にどのような背景があるのか、多面的に考えるきっかけを与えてくれる一冊かと思います。

 

今月の読本「新種の発見」(岡西政典 中公新書)フィールドの好奇心は世界の文献と知識を跋渉する先に結実する。体系を蓄積する「分類学」は全ての人々へ

今月の読本「新種の発見」(岡西政典 中公新書)フィールドの好奇心は世界の文献と知識を跋渉する先に結実する。体系を蓄積する「分類学」は全ての人々へ

毎月、多数の新刊が本屋さんに送り出される新書のシリーズ。

毎月刊行に合わせた、移り変わりの速いテーマをキャッチアップする事が求められるジャンルではありますが、一方でシリーズ刊行に相応しい、ラインナップとして長く読み継がれる作品が登場する分野でもあります。

今回ご紹介するのは、まさに後者に相応しい内容と筆致を備えた一冊。

新種の発見 見つけ、名づけ、系統づける動物分類学」(岡西政典 中公新書)をご紹介します。

ニュースなどで話題となる「新種」の発見。何やら奥深い山中や未開の土地、深海を捜索し続けて漸く発見される、宝探しのようなイメージを持たれるかもしれませんが、著者はまずそのようなイメージの修正から着手します。

各地に保管された標本を探し出し、詳細にその形態を調べ、場合によっては一部を切除して分析に回す。自らの頭の中に築かれたアンテナの感度を頼りに、世界中の言語を駆使して、データベースと史料の叢林に分け入り、誤謬を排除しながらその原点となる記載を見つけ出すor見つけていないことを執拗に調べ尽くす。その上で、初めて学術誌への掲載に向けた執筆と数多の修正、編集者、査読者からの膨大な質問に苦悶した末に、漸く「掲載」という名の「発見」に至る。

著者が冒頭で綴る、自らが新種登録を行った手順をまずは概要で示した上で、その背景をステップを追って解説していきます。

著者は三崎、油壷にある東京大学臨海実験所に所属する海洋生物に関する分類学の専門家。国内の専門学会大会参加者が100人にも満たない(最近100人以上に増えたと後半で喜んでいらっしゃいます)膨大な範疇を扱う分野の割には極めて限られた研究者の一員、更に言えば専門分野はクモヒトデ類の分類研究(テヅルモヅルの研究者と言って分かる方はもうエッジな「マニア」ですよ。喜んで読んでいる自分は…)というニッチ過ぎる分野の研究者の方ですが、そのテーマは極めて普遍的です。

リンネから始まる近代的な分類学が築き上げてきた知識、記録体系。その体系へと織り込んでいく過程と分類学が培ってきたロジック(命名則)を、自らの研究分野の事例を用いながら丁寧に綴っていきます。

フィールドワークをも得意とする自然科学系の研究者の方としては例外的と言えるでしょうか、誇張を抑えつつも小気味よさと落ち着きも備えた著者の筆致(ジョジョは思わず吹きましたが)。その筆致を背後から支える、編集者の方のアドバイスもあったであろう、著者の研究を前面に掲げるのではなく、背景を織り交ぜながら、丁寧にステップを追った構成。往年の中公新書に通貫するスタイルを思い出させる、四六判の叢書のようにじっくりと丁寧に読みたい、とても良い雰囲気を持った本文。

著者の大好きな想いと読者にも興味を持ってもらいたいという願いが滲み出る、海洋深海生物から大きく離れて、森林の昆虫から土壌生物の採集法。海辺に向かって潮だまりから砂浜に潜む極小の生き物たちを眺めた後にはメインフィールドである海洋から深海へ。広く標本採集のフィールドガイドを述べつつも、フィールドを害する無理な採集への警鐘や洋上作業、スキューバの危険性をしっかりと添える。日本の海洋生物学揺籃の地となった、三崎の臨海実験所の歴史的な役割や成果についても分類学を背景に述べる一方で、稀代の採集人、青木熊吉の業績を紹介する内容もしっかりと織り込む。更には、新種の登録過程、命名則については自らの過ちも率直に述べながら、日本の「サザエ」に実は学名が与えられていなかったというタイムリーな話題、題材を用いて、歴史的な背景から始まり利害や名誉(混乱を防ぐために存在する調停機関も)を含めた国際的な学名登録の複雑な一面を(一般の読者が理解できる形で)丁寧に説明していきます。

そして、まだ若い著者が見据える未来の分類学。分類学という分野自体、著者が述べるように、事前の知識的な蓄積や前述のように長期に渡る手続きを求められる体系的な学問のため、自然科学の分野の中でも特に文系的な分野といえるかもしれません。著者はそれ自体が新種の登録や新たなフィールドワークへの妨げになっている点を認めていますが、同時にこれらの分野における情報技術の進歩は正に秒速で進んでおり、分析機器の進化もこれまでであれば抽出不可能であった標本からDNA情報を迅速に取り出すことが出来るようになるなど、形態を軸にした文献と標本の蓄積による分類学が大きく塗り替えられつつある状況にあります。著者はそれらの動向の何れにも好意的な眼差しを向け、分類を支援する技術の普及によって(ご自身が大好きであろう)フィールドワークへの時間を今以上に割けるようになる事を願いますが、一方で変わってはいけない点も明示します。

それは、分類学がやはり蓄積に基づく学問体系であること。人が訪れて初めて地図が描かれるように、人が見つけ、認知し、識別し、体系化した上で命名する事により初めて「種」として位置づけられる。その位置づけは時代と研究の進歩により変化し続ける事項ではありますが、リンネ以来築いてきた安定した体系があればこそ、その変化を見定める事が出来る。他の研究分野に対しても指標としての位置づけを与える事が出来る。フィールドワークへの深い想いと同じように、学問としての分類学への強い矜持を示す著者。

そんなちょっとお堅い話となってしまう終盤ですが、著者が求める分類学はより多くの方へ門戸を開くことを望んでいきます。近年活発に行われるようになった、フィールドワークを専門とされるダイバー、水中写真家の方が日々撮影される膨大な映像、画像から認識される水中生物の驚くような分布傾向とそれを体系として支える分類学の役割。更には多くの一般の方の参加やSNSを通じた外来生物の分布調査にも分類学が役立てる部分がある事を示した上で、みんなが新種発見の主人公になりうる(巻末の付録をみてちょっと微笑んでしまいました)、そうなれば分類学が永遠テーマとして掲げる、地球上の全生物を分類する事すらも夢ではなくなる時が来るかもしれません。

「新種」とうテーマを梃に、フィールド研究者というもう一つの視点から分類学という名の研究室で埃を被った資料や標本を向き合う人々というイメージを塗り替える、丁寧な筆致で綴られた素晴らしい入門書。

フィールドワークが好きな方も、体系学としての分類学に興味のある方も、もちろんちょっと強面系だったり奇妙奇天烈な深海生物や、テヅルモヅルファン?の方にも(あの本、何冊売れたのでしょうか…)、是非お勧めしたい一冊です。

<補足>

著者の方がご自身のHPに本書の紹介と正誤表を出されています。ご参考まで。

今月の読本「タコの知性 その感覚と思考」(池田譲 朝日新書)日本人研究者が綴る、もう一つの知性が魅せる広がるその先

今月の読本「タコの知性 その感覚と思考」(池田譲 朝日新書)日本人研究者が綴る、もう一つの知性が魅せる広がるその先

人間をはじめとする脊椎動物が有する知性や認知とかけ離れた世界にある一方、極めて高度な認知性や特異な感性を有しているのではないかという事が近年盛んに述べられている、タコやイカといった軟体動物の頭足類。

特に、日本人にとって馴染み深く、そのユーモラスな姿と多彩で驚くような行動様式から書籍をはじめ積極的に紹介されることも多いタコ。一般向けの書籍でも度々紹介されますが、ダイオウイカ撮影で一躍有名となった、日本の頭足類研究の第一人者である奥谷喬司先生の著作(ブルーバックスの名著「イカはしゃべるし。空も飛ぶ」は是非ご一読で)以外、何故か外国書籍の訳書が多かったように思われます。

そのような中で、忽然と新書として刊行された一冊。実質的に初めてとなる、日本人著者の手による「タコ本」。真正面に掲げられた表題に対してどんな内容となっているのでしょうか。

今回は「タコの知性 その感覚と思考」(池田譲 朝日新書)をご紹介します。

著者は現在琉球大学で教鞭を執られる研究者の方。頭足類の研究、特にイカの行動様式や認知性の研究を長年続けられている方です。単著としては2011年に刊行された「イカの心を知る 知の世界に生きる海の霊長類」(NHKブックス)に続く一冊。前著については、魚類関係の書籍が大好きな私にして滅多に無い(魚類関係以外の書籍でも数少ない)、途中で読むのを放棄してしまった一冊でもありました。

冒頭とあとがきに書き連ねられた余談と、その筆致に対する自己解釈。理解されているにも関わらず綴ってしまう点は、如何にも自然科学系の研究者の方にある筆致(これが人文系研究者の著作になると、敢えて読者を誘導する意図が組み込まれている時もあるので少々怖いのですが)ですが、空振り気味な比喩と導入、「痛い」余談が散見する本文(50代後半の著者であれば尚更)は正直に言って読まれる方をかなり選ぶ文体かもしれません。

近年、複数の訳書が登場しているタコの生態や知性に関する訳本。その中でも「タコの心身問題-頭足類から考える意識の起源」(みすず書房)の著者及びその内容をかなり意識されて書かれる本文。あとがきでも述べられるように、本文の過半は上記の書籍や、それ以前に刊行された訳書、雑誌、TV等でも紹介される内容とオーバーラップしており、前半は著者のセレクションによる「タコの知性」関連研究の概要紹介的な内容が主体になっています。従って基本的な頭足類の説明、タコの生態や所謂文化的な側面の記述はかなり絞り込まれており、表題に掲げられたテーマ「知性」にほぼ特化した内容となっています。

人間の手によって研究され、人間の思考や行動を出発点に研究が進められていく動物行動学的な視点。その中でも特異な位置付けを有しているタコの行動、学習研究。ヨーロッパ(ナポリ、日本同様にタコを食する地であることが大きいのでしょうか)を中心に膨大な研究がなされていますが、そのような中で著者が特に注目する点、

まず、多くの先行研究がマダコをテーマにしており(実際には日本のそれとは別種である可能性が指摘されているとの事)、約250種いるとされるタコ類全体の僅か1種の傾向を捉えているに過ぎない点。次に、その巨大な目と脳へと繋がる構造からどうしても研究のテーマが視覚に対する反応や学習が中心となる中で、自在に動く8本の脚から繰り出される、膨大な数を有する吸盤を伝わる触覚から対象物を認知する範囲の広さへの着目、更には単独性とされる生態に対する個体相互、鏡に対する反応(鏡像自己認知)への疑問。

これらの着目点と前述の研究成果を自らの研究室に在籍する(在籍した)学生たち、研究者たちが記録した観察結果を比較する事で、新たな知見が認められる可能性を指摘する、著者の研究室による研究成果紹介が中心なる後半。

前著でも同じだったと思うのですが、実はこの部分が読んでいて非常に悩ましかった点。著者は研究中の内容であるとの但し書きを添えていますが、結果として述べられる内容が(定性的な研究であるとはいえ)、何とも捉え難いままに著述が進んでいきます。

著者たちの研究結果により、行動特性や社会性の発端or退化した片鱗を認める一方、その解釈を根本から覆してしまう、前述の250種に上る種ごとの活動性の差異や、事例を示した上で個体差へ言及する内容も、前述の特性を述べる際と同じようなペースで綴られていくため、帯に書かれた「解明」には程遠い、本書の内容を以て何を評したいのかが見えてこないというもどかしさを度々感じる事になります。特に、そのような行動を認めた際の解釈に入ると、どうしても人間目線(著者目線)での認識が入り込む余地が大きくなり、その筆致は定性性として括られるはずの領域から離れ、その行動に対して著者の思索的な要素、希求を映し出そうとする傾向がより大きくなっていきます。

更には、容易に見出す事が出来ない、これら「知性」研究の先にある姿。

イカやタコの行動を研究する事は漁獲物である対象を知るうえで重要であると冒頭で述べる一方、その導入に当たる水産学に対してやや否定的な感情を述べ、生物学であり、ある種の心理学的な要素を求める著述や研究内容(このような研究に対して本文中で紹介される、投稿され、発表される学術誌の殆どが海外で刊行されているものであるという点も実に興味深いです)。知的好奇心としては非常に興味深い内容なのですが、果たして何処へと行ってしまうのだろうかという、糸の切れたタコのようにも見える思索の広がりに困惑しつつ(前著ではその困惑が抑えきれず、途中で読み進める事が出来なくなりました)。

既に刊行されている「タコの知性」に関する書籍は、訳書らしくいずれも相応な分量(とお値段)があるため、興味があっても本を読み慣れている方でないと手に取るのが少し厳しいことも事実。

そのような中で、日本人の研究者の方による、手軽に手に取れる新書というフォーマットで刊行された貴重な入門書となる一冊。文章はかなり癖が強いですが、その興味深い生態と、未知なる「思考」の片りんにご興味のある方へ。

今月の読本「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)農学と自然科学が背景を解く、多様なコメが作った列島の自然と人々の歴史

今月の読本「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)農学と自然科学が背景を解く、多様なコメが作った列島の自然と人々の歴史

本屋さんに数多並ぶ日本史の本。その殆どが作家や日本史研究者の方々など、史学、文学系の知識をベースとした内容で綴られているかと思います。

大きな歴史的な展開から治世に軍事的な内容。残された記録を頼りに築かれる人物像や、古文書に綴られる僅かな表記の揺れを捉え、その機微と思想に迫る内容まで。様々なテーマと切り口で描かれていく多くの書籍が出ていますが、その中でちょっと珍しいテーマを掲げた日本史の本。

今回は「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)をご紹介します。

著者の佐藤洋一郎先生は、イネ科植物の遺伝子生物学における著名な研究者、農学者。東南アジアにおけるイネ科植物の研究経験を下敷きにした、広く東アジア全般をカバーする文化人類学的な論考についても多数の著作を有される方です。本書も一連の著作に連なる内容ですが、テーマは日本史、それも日本史の中に描かれるコメという捉え方ではなく、コメそのものが日本史の背景を形作ったことを農学者の視点で描いていきます。

6つの時代に分けた通史としての日本史のテーマそれぞれにコメが与えてきた背景を織り込むという形で綴られる本書。自身は日本史の専門家ではないと本文中で度々述べるように、特に前半部分のコメの渡来から奈良時代の入り口までの古代史を扱った部分における通史としての日本史の著述はかなりイメージで語っている印象が強く、ややもすれば上滑り感すら感じられるところもありますし、読まれる方によってはかなり違和感を感じる部分もあるかもしれません。

日本史としての著述だけ見てしまうと、やはり農学者の方なのだから著述に無理があるのではと思わせてしまいますが、著者の意図は別のところにあります。それは本書が貴重な、日本の社会全般に浸透していた「コメの歴史」を日本史の流れの中に置いて描こうとしている点。

前述のような多くの日本史の著作で欠落する事の多い、自然科学的な視点で日本の歴史におけるコメ存在の必然性と社会、列島の自然に与えた影響を通史の中で示していきます。

数多に語られるコメの伝来と社会構造の変化。初めにその伝来と拡散の過程を議論していきますが、遺伝生物学が専門の著者は、その冒頭で日照時間と稲作の適応緯度、伝搬速度の関係を論じつつ、一般的に述べられる北方ルートでの伝来に対して、出土される炭化米の分析結果を添えて一定量の南方からの伝来、すなわち、特定のルートから単線的に稲作が持ち込まれた訳では無く、複数のルートから幾度かに分かれて伝わったはずであるとの自説を唱えます。

次に、稲作と社会性の関連についても、耕作道具が未熟な状況で、粗放な状況ではすぐに雑草との競争に敗れてしまうイネを育てる場所となる耕作地(水田)を起こす事は決して容易なことではなく、単にイネを携えた人々が海を渡って稲作を広めたという牧歌的なものではなく、かなりの強固な意図を抱いた一群が長期に渡って当地に定着しなければ稲作は広まらないと指摘します。主に考古学的な知見が用いられる稲作の伝搬の検討についても、水田は検知できるが、モンスーン気候の地で焼畑農耕の痕跡を発掘で検知することは極めて難しい点を指摘したうえで、それでも炭化米の分析結果などから、その初期から陸稲も伝来し、更には北方への拡散には既に苗代の存在があったのではないかと指摘します。

著者が伝来過程に拘る点。それは次の時代となる巨大古墳や建築物が次々と作られる古代王朝成立の過程において、その労働力を養う栄養価確保の問題から膨大な食料、すなわち穀物が必須であることを念頭に置いている事です。コメの伝来以前にあった他の雑穀類や堅果類ではそれだけの栄養価は得られず、得られたとしても下ごしらえの労力を考えると、相応の労働力(=食料)を賄えるのはやはりコメしかないと指摘します。

そして、著者は栄養価を得るための手段とその結果について、これまでに日本史で描かれる背景に疑問を呈します。農学者として東南アジアにおける豊富なフィールドワークを積んできた著者の視点は、現在の広い平野に水と緑を湛える水田が一面に広がる風景とは大きく異なる、もっと混とんとした稲作世界があった事を指摘します。

前述のように水田稲作において雑草との競争は永遠の課題(現代のそれは農薬の力を借りていたちごっこをしているに過ぎないと)であり、窒素肥料が用いられない水田では容易にイネの生育は雑草に敗れ、耕作を維持できないと指摘します。その結果、班田収授から墾田永年私財法に繋がる班田の不足とその中に荒田が多くみられる点を指摘して、単なる耕作放棄地ではなく輪作という観点を含めて「そうせざるを得なかった」のではないかと、農学者としての視点を添えていきます。その上で、古墳や宮殿などの巨大な土木事業を支える食糧増産を図るためには、耕作地の拡張と共にその肥料となる草木類の鋤き込みが必要であり、動力を用いた揚水(排水)に頼らないで水田が拓ける限られた土地と、その後背地に当たる所謂「里山」の開発が進められることになりますが、著者はそれらを以て画一的な水田稲作に傾斜した農耕の姿を歴史的な描写に投影する事に否定的な見解を述べます。

本書における中軸的な記述となると思いますが、歴史描写における多様な稲作とイネの姿への視点。

発掘された炭化米の粒度分布の調査結果による多彩な粒径、長さと圧倒的な粳の存在の中で限られた糯米から見出す、粉食や餅の存在。木簡に書かれた、全国に渡る、栽培地域ごとに異なる多様なコメの種類名称存在(品種ではない点に注意)。その中に見えてくる、早期に刈り入れが出来る、白米の系統とは異なる赤米、大唐米の存在が、白米だけでは成立しえない、農期、収穫時期の幅を確保し飢饉の発生を抑えると共に、年貢として、そして軍糧として(青田刈りへの対抗策としての存在であったとも)も使用されていた点を指摘し、調理法を含めて多彩な栽培、利用法が採られていたことを示していきます。

前述のような画一的な視点による白米至上主義の史観に対して農学者として明確な疑念を述べる一方、昨今多く述べられるようになった、前近代まで白米は年貢用であり、多くの農民たちは雑穀を食するに過ぎなかったという議論に対しても、前述の栄養価の側面からそれでは激しい肉体運動を要する前近代の農耕、労働に対して、高蛋白質の肉類を摂らず続けることは困難であったろうと指摘し、水田に抱き合わせる形で栽培されていた豆類と合わせて、これら多彩な「コメ類」が日常的に利用されていたと指摘します。更に、水田を作るために人為的に引かれた水路に定着する淡水魚類へのたんぱく質の依存という点を重ねることで、戦前まで長く続く稲作農耕を軸にした列島の姿、生き様が作られたと指摘します(ここで、ジャポニカ種という言葉の生まれた経緯とその分類について詳細な説明が綴られる点は、南方系の品種もテーマとするイネの研究者としての矜持を示すところで、インディカ品種への偏見と誤解を正したいと願う著者による強い思いが表れています)。

列島の姿を形作ってきた稲作とコメ。その姿は食料としてだけではなく年貢、更には金銭価値を持つ、基軸通貨に代わる役割を果たしてきた点は日本史の中でも多く語られる内容ですが、著者はもう一つの側面として、都市化を支えたのもまたコメの存在であった点を指摘します。税、年貢として各地から集積されるコメ。しかしながらその初期においては精米技術が未熟で、むしろ搗き過ぎで玄米と白米の中間的な状態で食していたと指摘します。所謂「江戸煩い」とも称された脚気、白米食によるビタミン不足である点はよく指摘される(この傾向は日露戦争の陸軍まで続く点も)事ですが、根源的な理由として白米の精米度が高まった訳ではなく、その前段階となる「玄米」を効率的に得る事が出来るようになった点を指摘します。籾を外した状態で保存できる玄米の存在こそが、コメの保存性と流通を飛躍的に高め、都市に集住する人々の膨大なエネルギー消費を支え、更には今日において日本の食文化と称される多様なコメを利用した菓子、料理、白米を主食として据える食文化を成立させたと指摘します(近世以前の人々は玄米食だったという表現も誤りであると)。

都市の膨大なコメ需要を担うために低湿地を干し上げ、山麓に通水することで水田を押し広げる事で列島の景観を一変させ、餅にも通じる白という色の意味と重なる都市が生み出した白米への強い思い。それらを追求し続けた先に近代の膨張と戦後の食糧増産の過程を描いていきます。著者はその中で、現在に繋がる品種を生み出した育種の発祥と既にその耕作技術が失われてしまった驚異的な収量を達成する事で要求に応えた篤農家達の存在を重ねながら、社会の近代化と全体主義的な傾向が増大する姿を大陸への進出に添えて述べていきますが、その著述はあくまでも農学者としての立場での言及に止められ、最後に近年の米食や棚田、稲架の景観への想いといった著者が現在最も力を入れている文化人類学的な議論へと移っていきます(コメに残る尺貫法を改める必要性など実に科学者、農学者らしい見解も)。

日本の歴史を背景から形作ってきたともいえるコメと稲作。その姿はコメ余りが叫ばれる一方、各地から送り出されるブランド米の勃興(これらがみなコシヒカリ一族であるという一抹の不安も含めて)というこれまでの時代背景とは全く異なる状況を迎えていますが、曲がり角を迎えた中で上梓された、碩学がこれまでのコメの研究者、文化人類学者としての想いを込めて綴られた一冊。またひとつ、日本史の背景描写に豊かな彩と視点を与えてくれる一冊です。

 

<おまけ>

本書のイネに関する著述内容のうち、著者の専門分野である東南アジアの稲作及びイネの遺伝学的な伝搬以外、その多くは著者を編者して昨年刊行された「日本のイネ品種考」(臨川書店)で執筆を担当した研究者の論考に依拠しており、一部の議論に対しては著者自身が別の見解も添えて述べる形で綴られています。少々お高いのですが、本書を読んでイネと稲作に関する各論についてご興味を持たれた方は、是非お読みいただければと思います(内容は一般読者向けなので平易です)

本書で議論の中核を担う、日本のコメ品種において否定的な捉えられ方をされる一方、実は陰の主役的な立場であった事を指摘する赤米、大唐米。その存在と広がりを史学の視点で地道な研究から描き出した、長野在住の在野の研究者が著わした「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)本書に於ける多くの指摘も当該書の記述に拠っていることを著者は明示しています。「ものの歴史」的な内容にご興味のある方はこちらの一冊もお勧めいたします。

今月の読本「日本思想史」(末木文美士 岩波新書)超特急通史のキーワード文末に織り込まれる宗教史から日本の思想史への問いかけ

今月の読本「日本思想史」(末木文美士 岩波新書)超特急通史のキーワード文末に織り込まれる宗教史から日本の思想史への問いかけ

本屋さんの特等席、お客さんからよく見える平置きの書台や壁越しの面陳を埋め尽くす、毎月のように刊行される新書シリーズ。

一時期のブームからは少し鎮静化したようですが、それでも数多くの出版社から様々なテーマを掲げた作品が毎月、大量に送り出されています。本屋さんにとっても新刊という名の書棚のラインナップ新陳代謝を維持するためにはもはや欠かせない存在となった新書ですが、その中でも古参中の古参とされる岩波新書。

他の新書シリーズに対してやや古典的(エバーグリーン)なテーマであったり、特定の指向性のある読者層に向けた、強い問題提起を含む作品が多くラインナップされているかと思います。

今回ご紹介する本も、かなり強いテーマ性と問題提起を掲げた一冊。

日本思想史日本思想史」(末木文美士 岩波新書)をご紹介します。

著者は東京大学に所属された(現在は名誉教授)著名な古代、中世の仏教研究者で、比較的穏当な筆致で中華世界へ請来する以前の仏典から日本に導入された仏教の定着、日本におけるローカライズされる姿までを宗派に拘ることなく通史として描くことができる稀有な方。その通史としての筆致も平板なものではなく、日本仏教の特異点や宗派、宗祖に拘る著述や議論に対して敢然と疑問を投じつつ、冷静に通史の中にそれらを位置づけていく、一般書籍としては貴重な、宗派に囚われない日本の宗教史を描ける方です。

そのような碩学が敢えて冒頭に刻み込んだ言葉に衝撃が走ります。曰く、

「最新流行の欧米の概念を使って、その口真似のうまい学者が思想家としてもてはやされた」

「思想や哲学は一部の好事家の愛好品か、流行を追うファッションで十分であり、そんなことには関係なく、国も社会も動いてきた」

本屋さんに大量に積み上げられる、ビジネスマンに向けた思想や哲学に類する書籍のなんと多いこと、その内容の殆どが西洋哲学のいいところ取り的な著述である点に大きな疑問を持っていた私にとっては非常に腑に落ちる一文ではあったのですが、それ故に本書の内容に大きな不安を抱いたこともまた事実です(僅か3ページほどですが、驚愕の「はじめに」は是非ご一読で(立ち読みでもいいかな、と))。

日本で思想、哲学を扱う研究者、出版、マスコミ関係の方々すべてを敵に回すような強烈な巻頭辞に対して、果たして本書の内容が応えているのか、更には著者が敢えて新書というフォーマットの特性を用いて表現するという内容に危うさを感じつつも、非常に興味を持って読み始めました。

私自身は思想も哲学も論じるに足りる知見を持ち合わせていませんので、あくまでも単なる本読みとしての感想ですが、流石に200ページ少々で思想史概論から始まり、古代から東日本大震災までの時間軸を通史として綴るには絶対的に分量が不足しており、表題にある内容を本書だけで満たすことは全くできません。特に初学者にとってはコンパクトすぎる記述を単純化して捉えてしまう恐れがあり、全く勧めることはできません。

むしろかなりの程度、日本史についての知識を有されている方が読まれることを当然として綴られたと思われる省力化された筆致。表面的にその内容は、文学、思想、宗教面でポイントとなる事項、人物を極端に圧縮した日本史通史にキーワードとして添えていくという体裁かと思います。

著者が得意とする通史を超特急で綴る本書、しかしながら著者のこれまで数多く手がけてきた通史のスタイルと少し様相が異なります。これまでの著作では主に中世まで、特に平安から鎌倉時代の著述に重点を置く著作が多かったと思いますが、本書では全体の半数以上を江戸時代以降の内容を描くことに充てていきます。多くの日本の思想史を綴る著作においても同じように、それ以前の歴史上で思想史を描き込むための前提となる内容が極めて限られるために致し方ないところかとは思いますが、冒頭の著者の言葉を享けて読み始めると、分量以上に江戸時代以前の内容には物足りなさを感じることも事実です。

そして、著者が本書を手掛ける大きな理由であり、特徴的な内容と思われるのが、超特急で綴られる日本史通史の文末に忍ばせる、仏教史としての視点、仏教が日本の思想に与えた影響が余りにも軽視されていることへの憤り。

著者の著述における特徴かと思いますが、通り一辺倒に読んでしまうと前述のように日本史の通史に添えた、単なる思想関係のキーワード集にも捉えられてしまうのですが、文末にぽつりと語られる内容こそが重要なポイント。新書というフォーマットの限界を超えるために著者が用意した仕掛けを注意深く確認することが求められます。

このような著述を採られているため、各論に関する著述においては、神話の成立や集積過程の論述に見えるように「重要ではない」とばっさり切り捨ててしまう部分が認められる一方、宗教的な視点でその後の歴史における思想面で多大な影響を与える部分については、相応に記述を割いていきます。

まず、国家神道に至る道筋では、その前時代から神道がひとつの信仰の形態として整備されていく過程を要所できっちり繋がるように指摘を入れていきます。儒教に関しても、神道、国学の相互関係と教育勅語、帝国憲法に繋がる過程の連動性にも配慮を示していきます(小中華論を含めて)が、その一方で日本において仏教のような定着を見せなかった結果、特に民衆にとっての思想、宗教としての影響は限定的であったことを明確に示していきます。その上で、著者が最も述べたいと願う仏教の思想面での影響。神道が信仰としての体系を整える呼び水となり、儒教と共に日本にもたらされた際に、その新しさと高度な体系を有していた事から時の為政者たちにとって、儒教ではなく仏教が国家の支柱として受容されたと読み解いていきます。その上で、葬送儀礼に加われなかった点を指摘して、日本における儒教の限界を指摘します。

国家を動かす王権と鎮魂と冥を司る仏法、仏法の顕現として祀られる神々。日本史の中で描かれた物語、文学たちも多くはこの二つの軸に沿った内容であったことを再確認していきます。

宗教という側面で文学、思想史を語る著者。その結果、著者の歴史的な転機における表現もその影響を強く受けていきます。中世の幕を開ける鎌倉新仏教という表現は今では避けられる傾向にありますが、著者は大仏復興と勧進聖、重源の活動がその幕開けであることを明確に述べ、近世の始まりとしては元和偃武を位置づけていきます。さらに、多くの場合明治維新という表現を添える近代の起点を示す表現には「御一新」の語を繰り返し用い、あくまでも王権と仏法の動きとして時代の推移を綴っていきます。

王権と仏法のバランスが徐々に崩れ始める近世。平時における武家の統治を思想的に支えるために儒教の影響がより大きくなり、庶民の文学へも儒教の影響が見えるようになる点を指摘します。この流れの中で国学の勃興、神道の浮上、その先に尊王攘夷を見出していきますが、著者は起点として復古主義的な荻生徂徠の存在を指摘し、古典解釈の厳密な再検討による読み直しという行為自体が思想面で強い影響を与えたと述べる一方、鬼神論に対しては極めて先進的な唯物論者であった新井白石から逆行する形となる平田篤胤の思想(冥界に関する二元論)と津和野国学による転換がその後の国家神道、皇室の信仰へ強い影響を及ぼしたことを指摘します。儒教の影響が次の時代の萌芽となる一方、葬送儀礼としては儒教形式が幕府により否定された結果、民衆においては葬式檀家として現在にまで繋がる冥の部分、仏教の影響が思想面でも強く残ることを明確にしていきます。

著者による王権と仏法による二つの軸で描かれる思想の歴史。そのような姿は御一新による「神武創業」と太平洋戦争の敗北による「国民の総意」体制によって二度、大きく様変わりしたと述べていきます。中央集権と親和性の高い儒教の思想が持ち込まれた上での天皇を頂点に置く家父長制に倣う国家体制と、それを支える皇室の冥を司る神道と民衆の冥を司る仏教。近代国家としての憲法とその枠組みから逸脱した天皇の存在の危うさの先が近代の軸として語られていきますが、著者の専門分野から離れていくためでしょうか、全体の著述はやや雑多に綴られる近代史へと移り変わっていきます。

流石に近代史の範疇になると数多くの人物がキーワード的に綴られていきますが、冒頭の著述からすると拍子抜けするほど淡白な近代の思想を語る部分。そして、近代から現代に至り、著者が描いてきた思想の枠組みがほぼ潰えたその後(天皇の行動「象徴としての勤め」を国民の総意という形で追従的に容認し蓄積されていく過程と戦後体制による表層的な国民主権の推移を小伝統と称する)を描く段になると、その想いは自らの研究者としての歩みを投影するようになります。

戦後の学制改革を以て、大学がエリート養成機関からテクノクラート養成へと転換したことによって、「文豪」そして知識人という存在が生まれることがなくなった、その結果が現在に続く思想としての日本の低迷の発端であることを濃厚に漂わせて、道筋なき現代の姿と、改めて日本に視点を据えた思想史を過去に遡って丁寧に掘り起こしていく必要性を述べていきます。

新書という限られたフォーマットの中で綴られる、著者がこの数年来積極的に上梓されてきた著作群の交差点となる、次へ進むためのキーワードを整理し、再確認するための一冊。

新書という誰でも手軽に読むことができるフォーマットでありながら、素手で触るとちょっと火傷しそうなくらい極限まで絞り込まれた内容故に読む方をかなり選ぶ一冊ですが、著者が囁く指摘に耳を傾けながら、自らの持っている歴史的な理解を見つめなおすと、その中に織り込まれた、思想としての日本史の姿がほんの少し見えてくるようです。

他社さんの書籍で申し訳ないのですが、通巻300冊を達成した人物叢書の販促史料にある、登場人物別の教科書採用率。

じつは、近代以前においても文人、僧侶の登場人物はかなり多いのですが、教科書採用率が極めて低いことが判ります。多くの方々の歴史的な知識の下敷きとなる教科書の記述を考慮すると、著者の懸念、危機感と本書の位置づけが見えてくるようです。