今月の読本「武士の町 大坂」(薮田貫 講談社学術文庫)武鑑と日記を読む楽しさから見える、幕臣達が観た商都、大坂の姿

今月の読本「武士の町 大坂」(薮田貫 講談社学術文庫)武鑑と日記を読む楽しさから見える、幕臣達が観た商都、大坂の姿

その昔、大阪出身の司馬遼太郎は自らの著作の中で、その独自性を強調するが如く、其処に居る武士といえば諸藩の蔵役人以外、町奉行所の与力同心、二百人程だと記したとされます。ほんの少しでも幕府の職制をご存じであれば、そんな筈はない、城代から始まり地役人迄含めればもっと居た筈だという事がお判りでしょうが、このような論法を用いて、商都としての独自性を誇り、封建性のドグマ、更には東国を一際卑下する見解を公然と綴る関西系の著述者は意外と多かった(今でも)ようです。

そのような風潮に憤慨する、同じ大坂を地元とする歴史研究者が、彼の地での見識を改めることを狙って一般書として送り出した一冊。刊行後10年を経て、この度、文庫へと収蔵されることになりました。

今回は「武士の町 大坂」(薮田貫 講談社学術文庫)をご紹介します。

本書は比較的最近となる、2010年に中公新書から刊行された一冊。本来ですと、これほど早く版元を変えて文庫化されることはなかったと思われますが、近年積極的に他社の刊行物の再収蔵を進める学術文庫、そのテーマがシリーズに相応しい、普遍的価値を持つ、学術規範に則って綴られた手頃な一冊と判断されての今回の収蔵となったようです。

著者の薮田貫先生は関西大学名誉教授、現在は兵庫県立歴史博物館の館長を務められる近世史の研究者。大阪出身で、一貫して関西方面で研究を続けられてきた方ですが、前述のように、商人の町、大坂という表現とそれを大上段に構えて語られる内容に疑念を持ち続けた上で、研究を進められた内容を一般書として上梓された一冊。あとがきにもあるように、寝転がってでも読める余裕が必要との中公新書編集者の方による指摘を受けて綴られた内容は、抑揚を持ったテンポのある筆致で、大変読みやすく纏められています。

幕府の役職制度をある程度御存じの方であればすんなり読む事が出来る、刊行される書籍も少ない大坂の役人たちの姿を捉える本書。城代、定番、大番、加役、町奉行に与力・同心。そして代官と地役人達。彼らの動向がなぜ現在の大阪で語られないのか、彼らがどの程度の規模で、どのような職務に就き、日常を暮らしていたのか。その好奇心を追い求める過程を、著者と共に辿っていく事になります。

40万とも50万ともよばれた当時の大坂に住む住人達、それに対して8000人程とみられる武家とその使用人、家族。江戸に比べると圧倒的に少ない武士の数ですが、特定の日(本書をご覧いただければ)以外、彼らにとって武士たちは比較的身近な存在だったようです。江戸の屋敷に豊川稲荷を勧請して、初午の際に町人たちに参拝を許し開放した西大平藩(大岡忠相の後裔ですね)の姿と同様に、毎年初午の際には城代の下屋敷はもちろん、町奉行や代官まで屋敷の門を開け広げ、町奉行に至っては奉行自らが腰掛を出して訪れた町民たちに茶を振舞ったことが分かっています。一方、町人たちにしても、金銭を含むあらゆるトラブルを持ち込む場所、更には自らの仕事を円滑に進めるために必要となる口添えを得るために、彼らとの関係は非常に大切。そんな時に町人たちにとってのバイブルとなる、江戸の武鑑同様に存在した、大坂武鑑と大坂独特の様式で作られた浪華御役録の成立過程とその読み解きを行っていく、著者の研究における中核を成す部分を紹介する段は本書前半のハイライトです。

町人たちと町奉行の親しい関係と相互の依存。その象徴して導き出される、現在の大阪におけるランドマークでもある天保山。流域村落の様々な利害を調整することで実現した、河川による船運を確保し洪水を防ぐために浚渫した川砂を積み上げて出来上がった人工の山。その天保の大川浚を指揮した人物である新見正路が、浚渫を見届けたあと退任して江戸へと出立する際に、実に1000人近くの町民たちが奉行所に集まり、彼らからの礼を受けたと記されています。

江戸から幕府の役職に就任する事で大坂に訪れた役人たち。著者の弁を借りると、彼らの史料が現在の大阪に残らないのは、彼らが幕府の役人、大名たちだったため。著者の史料跋渉は城代、定番を務めた大名たちの領地から江戸に残る記録へと移っていきますが、その際に辿る人物たちには非常に興味深い点が見えてきます。前述の奉行である新見正路から始まり、矢部定謙、久須美祐明、跡部良弼、久須美祐雋。そして、代官の竹垣直道。いずれも江戸時代の幕府行政史に興味のある方ならご存じの人物たち。彼らのキャリアの途上にあった大坂への赴任、そこで綴られた私的、準公的な日記たち。東京大学在籍中にこれら史料を見出してきた、幕末の行政史研究に関する第一人者、藤田覚先生による研究成果を用いながら、その一端として、彼らが観た当時の大坂の姿を描き出していきます。

武士が少ない商都。物見遊山と食事には事欠かない一方、江戸に住んでいた彼らにとって夏は灼熱の地。文化的な豊潤さと豊かな資力を持つ住人達の姿(奉行着任の祝儀だけでも年収の約半分と。長崎奉行は蔵が建つではないですが、八朔含めて年間幾らの付け届けを手にすることになったのかと)。幕末期の幕臣らしい、学も教養も備えた彼らが綴る内容と交遊録は、東西の文化の懸け橋としての役割を図らずも(実は求めて)彼らが担っていた事がわかります。

中盤から後半にかけては、幕臣と大坂町人の友好的な関係が綴るられる内容ですが、その中に大きく横たわる、カネの匂い。本書のもう一方のクライマックスとなる、大坂の武士として象徴的に扱われる二人の町奉行与力、大塩平八郎とそのライバルに擬される内山彦次郎を巡る、大坂を発し、江戸表の政治すらも揺るがす事になる金の流れとその結末。乱を鎮める決定的な役割を果たした玉造口定番の与力であった坂本鉉之助と文人でもあった代官、竹垣直道との交遊録。大坂の地役を代表する人物たちの姿から、もう一方の大坂の武士の姿、豊かな資力と文化的素養を有するも昇進する事は叶わず、在地で年月を重ねながら内部昇格を続けるしかない彼らの屈折した思いと、その間を行き交う商人、町人たちとの密接な関りの一端を覗かせます。

現在に続くまで、武家の色合いを殆ど感じさせない大阪。その逆の姿を江戸時代の記録に求める著者ですが、最後は維新以降の姿に打ち消された武家の姿を見つけ出します。春になると桜の通り抜けで全国的に報道される大坂造幣局。その立地を示すことで、大坂に刻まれた武士の刻印の消滅を認める著者。

現在でも商人の町、天下の台所とステレオタイプに称されることに深い疑念を持った著者が、その姿の片りんを探し当てた足取りを綴る本書。

史料が語りだすその姿と、どうしても江戸からの視点で見てしまう幕府と大名、旗本たちの姿の中にある、密接な関わり合いがあった「商人の町」を生きた姿を捉える切っ掛けとして、大変楽しく読む事が出来た一冊です。

今月の読本「日本の開国と多摩」(藤田覚 吉川弘文館)郷土史に記す数字が語りだす、終焉期の幕府を支えた飛躍する多摩とその背景

今月の読本「日本の開国と多摩」(藤田覚 吉川弘文館)郷土史に記す数字が語りだす、終焉期の幕府を支えた飛躍する多摩とその背景

歴史の本をよく読みますが、その多くは国や広い地域の政治、文化的な動きや、中心となった人物を題材にした内容ではないかと思います。よく「大きな歴史」と称される枠組み。学生時代に授業で習うメインストーリーの元となるそれらの著述以外に、「郷土史」と呼ばれる、ある特定の地域に絞った歴史、人物について著述する分野もあるかと思います。

時に、大きな歴史無くして地域史、郷土史の議論はあり得ないと語られる事もありますが、その大きな歴史を長きに渡って研究されてきた方が郷土史を見つめなおすと、どんな世界が見えてくるのでしょうか。

今回は、毎回新刊を楽しみにしている、吉川弘文館の歴史文化ライブラリーより「日本の開国と多摩」(藤田覚)をご紹介します。

著者の藤田覚先生は、近世の幕府、朝廷政治史の研究者として大変著名な方。現在は東京大学名誉教授で、先年、通巻300冊を達成した、同版元さんから長年に渡って刊行が継続されている叢書シリーズ「人物叢書」の編集も行っている、日本歴史学会の会長を務められる、日本史研究の第一人者の方です。

江戸時代初期から幕末にかけての政治、行政、人物に関する一般向けの膨大な著作も有する歴史著述家としても有名な著者ですが、実は2009年から長らく居住されている八王子市の委託を受けて、『新八王子市史』の編纂を手掛けられており(編集委員長、近世部会長)、本書は2017年に刊行された新八王子市史、通史編4近世下を執筆する際に纏められた内容を下敷きとして綴られています。

徳川幕府政治史の大家ともいえる方が、これまでの自らの研究内容を「上からの目線」と称し、課題だとされる市井から成長していく民衆の姿を捉える事を目指した、郷土史研究で見出した興味をテーマ別のダイジェストで綴る本書。

その着目点は、著者の前著である「勘定奉行の江戸時代」(ちくま新書)にも通じる、大きな歴史の著述ではほとんどの場合省かれてしまう、残された史料に綴られた「数字」に着目し、現代の我々ではイメージしにくい当時の姿を、数字の変化から読み解けるように綴られていきます。

本書でインデックスとして用いられる三つのテーマ、「生糸・農兵・武州一揆」そのいずれの姿を示す際にも、当時の人々が書き残した「数字」を多数引用していきます。

甲州街道が山裾へと差し掛かる入り口に位置し、物資の集散地として繁栄する宿場町、八王子。千人同心でも知られる幕府にとって要地ともいえる場所に更なる繁栄をもたらした横浜開港による膨大な生糸、蚕の需要。物資の集散地、養蚕地帯として出発した八王子は、既に国内製糸産業で著名であった上州や信州上田には劣る存在だったようですが、その後の品質の向上と貿易港である横浜に近いという有利な立地、更には外国人が移動できる範囲(10里、約40km)に含まれる事もあり、製糸業の一大集積地へと飛躍したようです。

日本の近代シルクロード、現在の横浜線の沿線に並行して伸びる道筋に位置する鑓水に史料を紐解きながら、その利益(年間取引1000両以上が鑓水だけで5家も現れる)の膨大さと取引の大きさを示します。そして、開港による激しいインフレが生活を困窮させたとよく綴られる幕末の経済状況ですが、著者はその中で驚くような記録を見出します。開港とそれに伴う幕府の膨大な出費を賄うために繰り返された「出目」(改鋳)によるインフレは実に物価を4倍に引き上げる事になりますが、それにも拘らず米を買っている(買えるだけの金銭収入が得られている)と綴る日記。一方、寒冷な春が訪れると桑が育たず、蚕を育てる事も叶わなくなると途端に苦しくなる、近代の到来を待たず、一足早く商品経済に組み込まれていく近郊農村の姿を映し出していきます。

膨大な利益が舞い込む一方、大きな浮沈を繰り返すことになる経済状況の中、自力救済が求めらえる社会からあぶれ出す人々により不穏な世相が生み出されることは自明の結果ですが、その中からもう一つのテーマ、農兵が生まれます。

当時の幕府は博徒などの傾奇者が生み出されることを抑制するため、農民に対して武芸稽古の禁止を通達していましたが、不穏な情勢に対応すべく、武芸の稽古に没入していく地域や、道場を中心とした彼らを指導する人物たちの存在を指摘します。ここで、八王子を含む南関東広域の幕領を支配していた韮山代官(江川家)は不穏な情勢への対処と幕府自体の戦力確保を目指し農兵の創設を目指しますが、武家政権として四民(士農工商、この表現は最近避けられる傾向にありますが)にそれを委ねる事を躊躇する幕府首脳陣を粘り強く説得する事で実現を見る事になります。農民自らが与えられた銃を持ち自ら戦う姿を示した農兵。更に、旗本の戦力補充のために多摩地域各地に対して兵卒の供出を求めていきますが、此処で興味深いのが、割り当てれた人数を差し出すはずが、順次金納、傭兵化へと進んでいってしまう点。多摩地域の経済的な繁栄がここでも見出されますが、更に興味深い著述が加えられます。

詳細に残された史料を辿る事で分かる、兵卒を送り出す費用とその給金の姿。近年、もてはやされる感もある江戸時代の生活を称揚する文筆。その中に描かれる江戸の町民や武家奉公人の最下層を示す所謂「三一」(給金が年3両のこと)というイメージと大きく異なる、江戸に出るだけで一人当たりの支度金が10両単位、更に従軍などに要する費用や旗本領や組合村が供出した軍役金の金額を見ていくと、インフレと出目による通貨価値下落による影響の大きさから、江戸時代末期の金銭生活は決して楽ではないことががまざまざと映し出されます。このような供出、実は幕府や代官所に対してだけではなく、関東取締出役の了解を得て徘徊する浪人に対しても金銭を渡す、一揆を防ぐためにやむを得ず供出金を出す、禁令に触れる形でも「押借」を認める等、不安定な情勢すら、その根源である金銭で解決していく姿が見出されていきます。特に宿場町として繁栄してた八王子と、佐藤彦五郎が在住した日野とその周辺の村落から生み出された幕末の浪士たち、武州一揆での農兵の活躍を比較して、地域の中に息づく気風の違いを著者は興味深く指摘します。その違いは、後に多摩地方西部から秩父にかけての広い範囲で発生した武州一揆、その一揆勢をけん制するために農兵たちが出撃する際に明らかになるのですが、数千人規模の群衆に対して僅かな人数に過ぎない農兵たちが銃を構えて数人を打ち取ると群衆は四散する。当時の一揆の姿と格段の装備の違い(それ以前からあった拝借鉄砲や猟師では全く役に立たず、新たに輸入した銃を支給していた)、弱さと苦しさゆえに集まった一揆勢の戦力的な脆弱さと対照的に好戦的な農兵たちの様子、その双方が見えてきます。

商人的な気質を有し、開港による飛躍的な発展を遂げる八王子と、水田には恵まれない一方、早くから江戸の商品経済圏の一翼を担い、家康の関東入部から続く甲州筋の喉元を抑える要地としての韮山代官支配領域と多数の旗本領が錯綜する、武張った流儀を良しとする幕府、江戸の後背地としての多摩地域。

開港から幕府倒壊までの僅か14年間、傾き続ける幕府を支えたのは一方では通貨発行権を握る「出目」による膨大な改鋳差益ですが、それを側面から支えたのが前述の素朴で武張った、佐幕的な兵卒、農兵の供給地としての存在と、開港というチャンスを掴み、逞しい商才を発揮して稼ぎ出した利益から膨大な上納金を納め続けた多摩地域の経済力であった事が見えてきます。

本書の全般を通して綴られていく膨大な金銭の上納、軍費の負担。形としては「受け取って頂く」という体裁なのでしょうが、実際には旗本領含めて殆ど浪人賄いに等しい「巻き上げ」に過ぎないのですが、それに応え続けた地域の経済力の大きさ、綴られる金額の大きさ。数百両単位は当たり前、千両を軽く超える数字が並んでいくと、自分の知識の中にある江戸時代の金銭感覚が麻痺していきます(因みに将軍、家茂の三度目となる上洛に掛った費用は実に437万両…と)。著者はこれらの経済資本の立ち上がりを明治期に於ける殖産興業の勃興として好意的に認めつつも、その高騰するインフレ対策が後の新政権への重い課題として残された点を指摘します。

開国という未曽有の変化の中、一躍飛躍のきっかけを掴んだ地域の繁栄する姿と、同時進行で進む幕府倒壊への動きの中で渦巻く不穏な動きの双方を人と金銭の動きを綴る事で具体性を持たせて示す本書。

大きな歴史の動きを描く中では失われてしまう民衆の姿という輪郭を、金銭という尺度が判る形で示すことでその一端を補い、地域の歴史をから大きな歴史へのアプローチを示す著者の新たな試み。

歴史を多面的に捉えるために、郷土史とその編纂が果たす役割の一端を示すインデックスとして。

今月の読本「列島の戦国史1 享徳の乱と戦国時代」(久保健一郎 吉川弘文館)都鄙を行き交い二つの引力がゆっくりと幕を開けるプロローグ

今月の読本「列島の戦国史1 享徳の乱と戦国時代」(久保健一郎 吉川弘文館)都鄙を行き交い二つの引力がゆっくりと幕を開けるプロローグ

近年、多くの一般書が刊行されて大いに盛り上がっている室町中期から戦国期に掛かる時代を扱った歴史関係の書籍群。本屋さんの歴史コーナーに並ぶ本たちの様変わり振りには感嘆とする事もありますが、あまりのハイペースで刊行されるそれらの書籍たちすべてに目を通すのは時間的にもお財布的にもちょっと厳しいのも事実。

そんな時に一般の読者として助かるのが「通史」としての本。数多に刊行される書籍へのアプローチとして、更には時代背景を理解する手がかりとしてシリーズで刊行される通史の本は貴重な存在といえます。

今回ご紹介するのはそのようなブームの真っただ中に企画され、足掛け3年を費やして準備が進められてきたシリーズの第一回配本となる一冊です。

今回は「列島の戦国史1 享徳の乱と戦国時代」(久保健一郎 吉川弘文館)をご紹介します。

吉川弘文館さんの新しいシリーズ「列島の戦国史」全8巻が予定されるシリーズですが、享徳の乱から始まり、予定される内容では徳川家康による政権掌握までを区切りとする時代を捉える内容(江戸開府で終わるのか元和偃武で終わるのか、現時点では分かりかねます)。編者のイメージとしては全体を4期に分けてそれぞれの執筆者に委ねる形を採るようです(なお、執筆者間で見解の相違が生じる部分も敢えてそのままにすると明言されています)。中核となるテーマも東国、畿内、そして西国、最後は全国政権という形で分割されますが、特定の地域、時間軸に偏った視点を置かず、表題にある、列島全体を俯瞰する時代史としての刊行を目指す事を念頭に置かれています。

「列島」を冠に置き、日本史の大転換点を多面的に示すことを目指したシリーズ。オープニングの第一巻となる本書は編集委員を共同で務める著者によるシリーズの導入、リファレンスとしての内容を求められる一冊ですが、著者は小田原北条氏の研究を主とされる方。本書で綴られる時代はご自身の専門分野ではないと語られていますが、それ故に通史シリーズに求められる歴史的な背景を前後の時代に配慮して著述する事に意を砕かれていることが感じられます。

戦国時代の始まりは何時だったのかというシリーズの一大テーマを掲げられて綴られる本書ですが、実際には三つのテーマが描かれていきます。近年、別の研究者の方による著作でも唱えられるようになった、戦国時代の幕開けであると指摘される享徳の乱を中軸に綴る前半。インターセクションとして配される、極めて史料の乏しい中で拾い出される、彼の地に蒔かれた文化や行き交った人物を描く事で東国の社会とその時代背景を導き出すことを主眼とする中盤。そして、近年飛躍的に研究が進み、その位置づけが大きく変化している、従来、戦国大名の発祥としての位置付けがなされてきた北条早雲(本書では史実に寄せて伊勢盛時・宗瑞の呼び名を使います)の出自から伊豆制圧迄を追う後半。

特に前半と後半については、近年意欲的な筆致を備えた一般書が次々と刊行されており、その刊行を好意的に捉えつつも、著述内容と著者の見解については文中の要所で引用を付ける際に、かなり慎重な配慮を加えた形で適時指摘を織り込んでいきます。

通史というスタイル上、特定の見解を前面に置き提唱する事を少し控えつつ、他の論調に対しての丁寧な指摘や他の見解との推移を加えていく穏当な筆致で描かれる本書。しかしながら大きな枠組と要所では著者の明確な見解が見えてきます。

遙か鎌倉幕府の崩壊から書き起こすことを求められる室町中期の東国の歴史。戦国時代と単純に言葉を使ってしまいますが、こと東国に於いては特定の画期を見出す以前に、長大な時間軸の中で徐々に変化していった結果であろうという点を改めて指摘します。本書で綴られる時代範疇全体を通して指摘される、京と鎌倉という二つの武士権力が有する引力。その引力の中心にあった将軍と鎌倉公方。彼らを支えつつも反目する管領と将軍の血縁者達。周囲を固める各国の守護と地方の管領、現地を取り纏める守護代、家宰そして鎌倉以来の系譜を継ぐ在地の有力者たちと一揆に対抗する京都扶持衆に堀越公方が連れ込んだ在京奉公衆たち。相互関係のバランスが複雑に動く中で、二つの引力とその周囲を取り囲む「包囲網」が激しく駆け引きをする中で時代が動いていく点を指摘します。東国の引力である鎌倉公方を囲む包囲網、著者は遙か蝦夷地にまで目を配りながらその姿を俯瞰していきますが、その後の動きから特に駿河と越後の地理的な重要性を指摘します。いずれも鎌倉幕府最末期まで関東御分国であった場所。東海道及び日本海海運の結節点として京都との関係も深く、安定した守護権力(もしくは守護代の現地支配)が比較的長く維持されていた場所。東国の動乱を軍事的に左右したのはこれら包囲網の戦力が重要なカギを握っていた事を改めて指摘します(逆に南朝勢力が強かったため、守護である小笠原家の威勢が浸透しきれない信濃や、それ以前の上杉禅秀の乱に続く介入により、守護が纏まった勢力を築けなかった甲斐はその包囲網の穴となった点も)。

前半のメインに据えられる享徳の乱へのアプローチと長享の乱終焉までの長い戦乱。記録の残る範疇での話となるのため、どうしても太田道灌の姿がクローズアップされてきますが、著者はその人となりを文人としては高く評価しますが、かの有名な「当方滅亡」を語る段に於いて、卓越した軍事的能力以上に毀誉褒貶さまざまに評される、人格面にかなり問題があった人物と想定していきます(自信家だったのではとの指摘も)。また、道灌のライバルとしても配される長尾景春に対しては、その粘り強い抵抗を半ば呆れ顔で綴っていきますが、一方で古河公方となる足利成氏による庇護は、その軍事的才能のみならず、関東管領家に繋がる家宰の息子として、京の幕府要路への交渉チャンネルを期待した点に存在意義があったのではないかと指摘します。

そして著者の筆致で印象的であった東国、伊豆に散らばった歴代公方たちと関東管領としての上杉氏、その中でも印象的に語られていく上杉憲実。

鎌倉公方の藩屏を期待されて南奥州に送り込まれた公方たちは逆に東国包囲網へ在地勢力を引き込む側へと立場を変える一方、京から送り込まれたにも関わらず伊豆に留まり続けた堀越公方、足利政知の動きは、元来、複層的な支配が行われてきた南関東で更なる支配関係を増やし混乱を助長しただけで最後まで明確ではないと首を傾げます。また、歴代の鎌倉/古河公方たちが、改元以降も以前の年号を使うことで反抗の旗幟を鮮明にしたと称される点について、強固な意志の表明や反旗を翻した確証という断定的な捉え方は適当ではなく、たとえそれが意志の表明であれ、どのような状態においても全面的な対峙を望んでいたわけではなく、常に京側との交渉、和睦を模索する立場を堅持し続けていたとします。その上で、鎌倉に戻ることが出来ず古河を拠点としながらも、粘り強くその機会を窺い続けた足利成氏の政治手腕に評価を与えていきます(但し、失墜した鎌倉公方の権威は以降、決して取り戻すことは出来なくなったとも)。

鎌倉公方以上に著者がキーパーソンとして前半を通じて挙げ続ける人物、上杉憲実。本書を通貫するテーマである二つの引力を繋ぎ合わせ、京側の意向を東国に示す役割を果たし続けた関東管領、上杉家。本人の政治力や人格、出奔に際して子供たちへ残した指示などを通じて様々に語らえる憲実の姿ですが、著者はその息子を謀殺しておきながら、足利成氏が後に添えた書状の文面に憲実の名前を引く点を捉えて、その存在が遙か以前に失われても尚、隠然たる意義を持ち続けた、京と鎌倉双方にとって、その間を取り次げる人材の欠如(自ら葬り去ったともいえますが)こそが、東国の大乱を惹き起こし、その収拾に長大な時間を要する原因となった点を暗示させます。

通史の中に個別の人物像を織り込み描き込む前半。主題に北条早雲(伊勢宗瑞)を掲げ、その生い立ちから綴る後半についても、通史に立脚した著述となっており、京の政治状況と東国の軍事情勢との関連を示しながら宗瑞の動きを綴っていきます。最新の研究成果を織り込みながら綴られる遠江、駿河、そして伊豆の情勢の中を動く宗瑞(この時点では今川側から甲斐への介入は限定的で、その視線は常に遠江の併呑にあると)。その中で著者は一部に指摘のある、堀越公方の動きを起点に捉えた、列島を縦断する大掛かりな勢力が生まれつつあり、その動きの中で先兵としての宗瑞の伊豆打ち入りと平定戦を位置づける説について疑問を挟んでいきます。打ち入り時点での動きまでは肯定的に捉え、動機付けとして伊豆の権限を与える内意があった可能性を認める一方、足利茶々丸の強硬な抵抗(一度は伊豆七島に逃亡した後、再度上陸を果たしていたと)と在地の守護の権限を否定する形となる平定戦を6年にも渡って続けた点を鑑みると、前述の構想を組み立てた際に宗瑞に与えられるであろう役割に対してその行動は過大であるとして、ある段階で独力による平定、即ち戦国大名化の第一歩を踏み出した可能性を滲ませます。

巻頭に述べられた、東国を舞台に戦国到来のきっかけとそのタイミングを探る本書のテーマ。直近に刊行された、同一テーマを扱った本に対する著者の見解を述べる形で意図する所を示す巻末ですが、あとがきでの内容を含めて、極めて微妙な見解を示されます。戦国大名の一歩手前の段階として、散在した所領を戦陣や主たる拠点に近い場所へと集めつつ成立していく戦国領主という存在(当初の言葉の定義と変わってきている点を注意するように求めながら)を肯定的に捉える著者。その一方で、当該書では「上克下」と称された姿と言葉にやや否定的な見解を示し、本書で扱われる時代に於いて、確かに自らの上位者である守護代や守護、公方の位ですら恣意的に挿げ替える事実があった事を認める一方、完全に廃する事が出来なかった、それだけ旧来の権威が依然強かったという点をもう一つのテーマに重ねていきます。

本書が通史であることを明瞭に示す中盤。鶴岡八幡宮の社領支配や僧侶、社人の記録から、誰しもが武力を威嚇の手段としながらも、それらを調整する権能として期待された、旧来からの寺社勢力や領主層の存在、彼らの執行役としての守護代家、家宰家の存在。超越的な力を発揮し続けた神意への少なからぬ畏敬の念。在地の動きは、依然としてその相互依存体制の中にあった点を文献史料を引きつつ再度指摘していきます。

そして、限られた史料の中で語る文化的な側面。特に都を離れ東国に下向した連歌師達が残した歌や書き残した随筆からある点を明確にしていきます。特に応仁の乱による京の戦乱と荒廃から東国に「逃れてきた」ように捉えがちな彼らの姿。更に時代が進むと明らかに金銭目的での下向も現れていきますが、この時代の姿からは地方の側から積極的に誘う形で訪れる、京と地方を繋ぐ商業的な繋がり、前述の乱の終息が大きく滞った原因としても捉えられる幕府の要路との人的、文化的な繋がりの中で彼らが行き交っていた事が見えてきます。その上で、野卑な東国では富士山を愛でるくらいで彼らは何も得る事が無かったのか、そのような視点に対して敢えて、彼らの思索を深めるだけの素地が彼の地にも確実にあった事を指摘し続けます。

本書がその表題に「列島」を掲げる意義。昨今のブームともいえる中世史の書籍が多く刊行される背景には、本書の後半で詳述される北条早雲の出自に関する大転換となる知見の見直しに代表されるように、そのバックボーンとなる研究者層が旧来になく厚みが増し、これまで未整理、未発掘だった数々の文献資料に対する検討、解釈が大きく進んだ点にあるかと思います。一方、本書でも述べられるように、辺縁に位置する東国、そしてシリーズで今後取り扱われるもう一方の西国、九州。限られた史料、(本書では扱われませんが)発掘成果を改めて見つめなおし、史料集積の絶対的な格差から、どうしても中央から地方へという視線に陥りやすい文献史学の成果に対して、翻って地域が相互に与えた影響、発する姿にも配慮していこうという意義を、そのリファレンスたる1巻目として示す一冊。

本書でも要所で繰り返し引用される2冊。

同じ吉川弘文館さんのシリーズから、幕府による鎌倉府包囲網のうち、語られることの少ない「もう二つの御所」の姿と、南奥州の勢力と幕府との関係を詳述する貴重な一冊「動乱の東国史5 鎌倉府と室町幕府」(小国浩寿、特異な見解を示す上杉憲実の描かれ方にも注目)。

題名からは意識しにくいですが、時間軸は若干手前で終わりつつも、同一の題材を通して、通史としての前駆する東国の姿を描く。文人、歌人としての道灌が持つ横顔への指摘や、東国を巡った文人を代表する万里集九の姿から東国の経済、文化面の存在意義を示す点など、本書にも多大な影響を与えていると思われる「敗者の日本史8 享徳の乱と太田道灌」(山田邦明、著者の手による、複雑な経緯の筋立てをまずはっきりとさせてから時間軸を追って綴る通史の描き方は非常に魅力的でもあります)を。

後半部分で随所にその指摘が取り上げられる、最新の研究成果を織り込み、治世面を含め現時点で理解される最新、最良と思われる北条早雲の人物像を提示する一冊「日本史リブレット人042 北条早雲」(池上裕子 山川出版)

そして、本書の著者をあとがきに至るまで悩ませ続けた、その乱の名称と枠組みを提示したとする著者による、最後と称された著述と新たに提示される内容。その見解は是非、両書を手に取られて、お考えいただければと思います「享徳の乱」(峰岸純夫 講談社選書メチエ)

最後に、昨夏に横浜市歴史博物館で催された、本書がカバーする範囲の後半からシリーズの最後に至るまでの時代背景を、道灌の子孫たちと関係する人物たちが残した「ほぼ書状の展示だけで」描き出していくという、到底一般受けするとは思えない企画展。ひっそり静かに見れるだろうなと思い夏休みの昼前に伺った際に衝撃を受けた、展示室に列を成す小学生からご老人まで。グループで訪れる歴女の方々に家族連れからSNSコーナーで楽しそうに自撮りに励む学生の皆さんまで。展示室内では真剣に書状と解説文を読みふける方々があらゆるガラスケースの前でじっと立ち止まり、傍らでは学芸員さんへ質問を次々と問いかけていく。地元の歴史への熱い思い。皆さんの熱意がある限り、日本史の研究、研究者層はまだまだ厚くなっていくという実感を得たひと時を思い出しながら。

今月の読本「紫外線の社会史」(金凡性 岩波新書)科学が求められ伝えてきた健康と有害の狭間で揺れる見えざる光の両側面

今月の読本「紫外線の社会史」(金凡性 岩波新書)科学が求められ伝えてきた健康と有害の狭間で揺れる見えざる光の両側面

そろそろ暑いシーズンを迎える頃。燦燦と降り注ぐ太陽が眩しくなると気になるのが紫外線。最近ではオゾン層破壊との関連で盛んに議論され、天気予報にも紫外線情報が毎日伝えられ、その防御(著者の言う日傘男子は果たして…)が盛んに取り上げられますが、ちょっと時間を巻き戻すと「小麦色の肌」「逞しく健康的な日焼けした体」「日焼けサロン」「ガングロ女子高生」等々…積極的な日焼けを推奨するシーンも繰り返し訪れていたように思われます。

今回ご紹介する一冊は、そんな両極端に扱われる「見えない光」をどのようにして科学が伝えてきたのかを解説する一冊です。

今回は「紫外線の社会史」(金凡性 岩波新書)をご紹介します。

まずはじめに、本書は紫外線に対する光学的な特性や太陽、天文学的な要素、工業利用を含む産業としての紫外線利用や研究史を語る本ではありません。また、表題には社会史とありますが、紫外線に対する健康面での有害性や危険性を前提にした、社会学が求める枠組みに沿った倫理、思想面を下敷きにした推移を述べる内容でもありません。

著者はちょっと珍しい「科学史」を専攻される方。前著の上梓後、その内容から地震研究者と誤認されていることを嘆かれていますが、著者の研究内容はその分野における科学的な知見が一般社会にどのように伝えられていったのかを歴史的な推移を添えて述べていくことであり、ある科学的なテーマが社会へと受容されていく過程を多面的に捉えていく事を主眼とされているようです。

最近一般書でも多く見かけるようになってきた人文系の研究者、著者の方による「ものの歴史」をテーマにした書籍。しかしながら、その内容には物に息づく歴史や文化、人と技術の推移を語る以上に、テーマに仮借される著者の倫理観、社会性や思想的な立場を投影するために選定された対象物として取り扱うという内容が散見するように思われます。本書のテーマである「目に見えない」光である紫外線。著者も指摘するように同じく目には見えない放射能(放射線)同様に、その科学的な特性が分からない段階では極端な期待や著しい恐怖を生み出すことは繰り返し述べられてきましたし、人文系の視点でそれら双方を強調する著作も多くあるかと思います。

一方、著者による科学史のアプローチでは前述の切り口とやや様相を異にしていきます。表題に示されるように本質的には社会への影響を綴っていきますが、そのアプローチは「科学」が伝えた内容から説き起こしてく点。本書では紫外線の人工的な利用の発端となる紫外線照明(人工太陽、紫外線ランプ)実用化以降、太陽光線を含む紫外線の利用や弊害に対して、科学、工業、医療の立場から各種の媒体を通じてどのように伝えられてきたのかを多面的に紹介していきます。

科学の発展と共にその役割が把握されつつあった太陽とその光に含まれる見えない二つの「ひかり」紫外線と赤外線。赤外線は温熱効果など常に有用性がもてはやされますが、一方で紫外線はその発見時から人体への悪影響(日焼けと目の負担)というネガティブな存在として位置づけられます。一方で当時深刻な問題であった脚気、くる病、そして日本では亡国病とまで呼ばれた結核。これら当時は治療法や原因が未確定な病気に対して太陽療法と呼ばれたサナトリウム(富士見高原療養所と正木俊二先生の名前も)での療養を核にした健康療法、治療法の一分野としての紫外線照明が見出されます。また江戸煩いとも呼ばれた、日本の都市生活が生んだ病気、当時の陸軍を悩ませた脚気。ビタミン博士、鈴木梅太郎を軸に健康とビタミン、その先にあるビタミンDと日光浴の効用から紫外線ランプの普及を狙うマツダランプ(東芝ですね)の動きを描く日本。一方、海外では大都市居住者に対するくる病発生率の高さとその解決策として、健康増進と社員の福利厚生の一環としての大企業のビタミン剤配布、人工太陽照明の採用。更には鶏や牛乳への紫外線照射による骨の強化やビタミンD不足対策という微妙に異なる推移を示していきます。

何れも都市生活というキーワードで語られる病気の治療法として期待された人工太陽照明。その効用と疑問の双方を述べる科学者、医師たちの言葉とともに、著者が示す2枚の写真から浮かび上がる特異的なシーン。今から見るともはやオカルトにも感じる姿ですが、これが当時、最先端科学とされた姿を捉えたもの、そして効用を期待された結核や脚気にはあまり意味を為さなかったことを現代の我々は知っていますが、当時は疑念的な意見がある中でも科学的な議論の遡上にあった事を指摘します。著者はこれらの議論が現在まで続いていることをその解説を述べる文章(新聞記事や広辞苑を引いて)と共に提示して、科学的な認識が社会にどのように受容され、変化してきたのかを示します。

そして、戦前から現在まで繰り返される日焼けによる健康的な肌色と紫外線、太陽光からの暴露を抑えた肌色への憧れ、美白の狭間で揺れる人々の健康と美の意識。著者はその推移を最も明確に残す資生堂の社内誌に記載された内容を示しつつ背景を探っていきますが、ここで非常に興味深い着目点を提示します。

前述のような都市生活という新たな生活シーンにより生まれた病気、その病気の罹患率と日焼けを健康的と見做すか否か。国と地域、貧富の差、人種、そしてジェンダー。健康というテーマの背景には敢えて語らずともこれらの断面が色濃く刻まれていることを当時の記録の中から読み解いていきます。

特に著者が指摘する、健康と美という側面を強く意識し、更にはその知識を理解し伝える事が求められた「科学的母性」という存在。明らかにジェンダーに偏ったその存在と提供された科学知識。その見えざる光が有する科学的な有用性と有害性に最も敏感(と定尺された)女性、母親たちに対する科学知識の伝え方の変化、端的に言えば「科学に対する需要」の変化から、社会の一側面を見出していきます(なお、美白と健康美の変遷はそれだけでは理解しきれないと)。

外出が憚られる事も多い昨今。屋内生活が続き運動不足で日差しをたっぷりと浴びることが少ない方も多くいらっしゃるかと思いますが、都市に集住し同じような悩みを漠然と抱え健康に懸念を持った当時の人々に対して科学がどう応えたのか。ちょっと歴史を振り返ってみると、現在数多に溢れるそれらに対する情報や科学的と称される見解にどのような背景があるのか、多面的に考えるきっかけを与えてくれる一冊かと思います。

 

今月の読本「コロンブスの図書館(原題:The catalogue of shipwrecked books)」(エドワード・ウィルソン=リー 五十嵐加奈子:訳 柏書房)海洋の提督が遺した知られざる息子が指し示す、知の大海原を導くコンパスローズ

今月の読本「コロンブスの図書館(原題:The catalogue of shipwrecked books)」(エドワード・ウィルソン=リー 五十嵐加奈子:訳 柏書房)海洋の提督が遺した知られざる息子が指し示す、知の大海原を導くコンパスローズ

スペイン・セビリアのセビリア大聖堂に付属するコロンブス図書館(コロンビーナ図書館)。海外の図書館の事について興味のある方ならご存じかもしれませんが、その名が示す通り、コロンブスに関する書籍、史料を収めた図書館。しかしながらその名前がイメージする所とはちょっと異なる人物とその蔵書が数多く含まれています。

セビリア大聖堂からコロンビーナ図書館が引き継いだ蔵書の中核をなすのは「コロンブスの「息子」が西ヨーロッパを回って蒐集した、当時ヨーロッパ最大の個人蔵書の遺された一部」であるということです。

本書の帯にあるように、扱われるテーマとなるのはコロンブスの次男。放蕩の息子であったスペイン貴族の血を引く長男で、インディアス提督となったディエゴ・コロンの陰に隠れるような私生児としての存在でありながら、イザベル女王の宮廷に小姓として入り、のちに当時のヨーロッパで覇権を築いたカール大帝に側近として仕えた宮廷政治家。マゼランの世界周航達成後に噴出した、かの有名なトルデシーリャス条約境界論争において、スペイン側代表の一員として会議を主導したスペイン主席航海士代理。そして、少年時代に父親であるコロンブス最後の大西洋航海に同行し、間近でその姿を見続けてきた肉親として自らペンを執って書き残した、現在でも議論が続く有名なコロンブス提督伝を執筆した人物。

本書は、これらの実績を積む過程で彼が遺したもう一つの物語を綴ることになります。

今回は「コロンブスの図書館(原題:The catalogue of shipwrecked books)」(エドワード・ウィルソン=リー 五十嵐加奈子:訳 柏書房)をご紹介します。

本書の原題、The catalogue of shipwrecked books.(Young Columbus and the Quest for a Universal Library.)訳者の方による表現では「海に沈んだ本の目録」といったところで、本文でも描かれる、コロンブスの息子、エルナンド・コロンがベネチアで蒐集した1000冊以上の本や版画をスペインに送り届ける際に船が難破して沈んでしまったエピソードから名付けられていますが、もう少し深いテーマが添えられています。

著者はイギリス、ケンブリッジ大学に所属する中世ヨーロッパ文学の研究者。巻末に解説が掲載されている、エルナンド・コロンが執筆した「コロンブス提督伝」に記述される、現在でも議論の多いコロンブスがスペインに現れる以前の経歴のうち、特に議論が多い冒険譚的な著述を綴る部分について、他の著述者による後年の挿入ではないかという意見に対して、前述の彼が遺した蔵書と目録を調べ上げる中で、本人による他の書籍からの挿話であることを明らかにした人物です。

コロンブスの息子が自らの父親の業績に瑕疵を与えないように、明白な役割を与えられた人物として綴られる伝記の中で唯一残された、主題から逸脱する筆致に息子であるエルナンドの想いを見出した著者。本書では著者が見出したエルナンドの姿と足取りを追って幼少時代から綴り始めますが、一つの大きなテーマを当てはめていきます。

本書の邦題に繋がるテーマ。彼が父親であるコロンブスの死去後に着々と積み上げ、晩年には加速度的に増加した書籍と版画の蒐集。その数、実に15000点とも20000点とも伝えられていますが、その中に多く含まれるルネサンス期を象徴する印刷製本で大量に刊行された、下世話な風物を描いた小冊子や版画の類。言語的にも母国語のスペイン語に留まらずラテン語やギリシャ語、アラビア語、宮廷人として仕えたカール大帝の広大な版図にも通じるヨーロッパ各国の幅広い言語が含まれており、当時のバチカンを含む教会や修道院、大学等が所蔵する書籍とは大きく異なる、あらゆる出版物、手稿を集めようとした痕跡が残されています。

表題だけを見ると、これらの書籍コレクション(500年を経て尚、4000冊ほどが伝わる)をテーマとした内容にも見えますが、著者の視点はさらに別の指向を求めていきます。残された蔵書と共に伝わる、蔵書の記録やエルナンドが残した記録、その記述内容。のちに初期の司書とも捉えられる彼の元で書物の整理に当たっていた人物たちが語るその手法。どのように蒐集された書籍たちを「識別」していくかという方法論に興味の焦点を当てていきます。

コロンブスにとって最大の支援者であったイザベラ女王の王宮に小姓として入った後、父親との第四回目の航海に同行し、辛くも生き残り再びスペインに戻ったエルナンド。父の死後、復権を果たした腹違いの兄であるディエゴの名代を担うためにスペイン王室の宮廷人として活動を続け、父が獲得した新大陸での権利を争う論争、裁判を続けるために、ヨーロッパ中を移動し続ける帝国の王座と共に、またバチカンの法院での審理に出席するためにローマへと、晩年の5年ほど以外の殆どの期間、スペイン国内にとどまらず、広く西ヨーロッパの各地を転々と移動し続けながら、書籍の蒐集を続けていきます。

著者はコロンブスの継承者たちの利益を代弁する人物として王座と共に移動するエルナンドの姿に、各王国の状況や神聖ローマ帝国、ローマ教皇の動き、更には(残された蔵書からごっそりと抜けているために判断はできないとしているが)エラスムスの思想への格別の共感とルターから始まる宗教改革の影響、トマス・モアの作品と収集された小冊子類に残された当時の風刺に見られる思想的な共通性などを挿入する事で、ルネサンス晩期の歴史的な背景が同時に見えるように著述を進めます。文学研究者の方らしい配慮ともいえる内容ですが、その中で稀代の書籍蒐集者としてだけ捉えられるエルナンドの業績に対して、更にもう一つの側面を与えていきます。

海洋の提督と称されたコロンブスの息子、2度目の大西洋横断の帰路では船団のカピタン・ヘネラルを称し、スペインの海外事業を取り仕切る通商院の首席航海士代理を後に務め、当時のポルトガルから最新の海図と測量技術を密かに奪取する事すらも使命とした航海士としての側面。更には途中で挫折した「スペインの描写」と称した、封建領主の力が強かった当時としては余りにも先進的であった詳細なスペイン地理誌編纂の着手という、宮廷政治家、地理学者としての側面。

ここまで長々と書いてきましたが、著者が語りたいと願ったメインテーマ。エルナンドが残した蔵書とそれに添えられた「目録」をどのように作り出していったのかを知るためには、前述の内容を全て辿ることが求められます。神聖ローマ皇帝として西ヨーロッパ全体にその影響力を行使したカール大帝時代の宮廷人にして、新世界を押し開いた「提督」の息子。旧世界の知識の中心地ローマと、ルネサンスの息吹とイスラム世界の空気を存分に浴びるベネチアでの滞在。次の時代の幕開けを担う震源地となるイングランド、低地地方とドイツが生んだ思想。更には父親であるコロンブス同様にその恩恵を深く受けた、知識を大衆化する事に決定的な役割を果たした印刷物、海図へも繋がる版画への強い想い。

新世界という扉が開かれ、ルネサンスから宗教改革という中世のキリスト教世界が培ってきた世界観、知識の集積体系自体が全面的に見直される時代背景の中を生きた、当時最先端の数学、天文学の知識と技術を理解する航海士にして、東西の歴史と実体験としての新世界の知識をも併せ持つ宮廷人が編み出した知の羅針盤。それは現在の図書館、更には無限の奔流とも思えるネットワーク社会に溢れる情報を検索する際にカギとなる考え方。

現在ではデジタル化されて図書館の片隅に眠る、私が図書館に入り浸っていた頃には入り口の一番良いスペースを占めていた、アルファベット順による配列から始まり、概要を示す「目録」、題材を示す「目録」そして「著者・科目一覧」という図書館における書籍分類の基礎となる考え方を生み出した、言語、時代、世界感に囚われない知識の体系化と集積を生涯のテーマとした人物のレガシー。そして、訳者の方が記念に覚えておいて欲しいと書き添えた、訳本らしいボリュームを有する本編約390ページを読破された方だけが思わず膝を打つことになる、当たり前すぎて全く意識する事がなくなっている「あること」。

ルネサンス期に生まれつつあった新たな知識を集積する理論体系を、航海士、地理学者(言語学者としての側面も)としえて捉え直したロジックは、姿を変えながらも今を生きる我々の中に脈々と伝えられているようです(著者はテクノロジーの進化を得て、500年を経て漸くその姿に追い付いたと。ネットワークを軸とした集団知の追求を生涯のテーマとした、私が敬愛するダグラス・エンゲルバートの知に対する考え方にも通じる内容です)。

確かに、その蒐集された内容が彼にとって危急の(そして彼自身は全く報われることがなかったという皮肉を含めて)問題、父親であるコロンブスがスペイン王室と取り交わした約束の履行と、代理人としての大西洋の向こう側に居る兄が継承したその遺産と権利の恢復と保持。更には、汚辱に塗れ失意のうちに亡くなった偉大な父親の功績を再び称揚するために必要となる証拠資料を取り揃える必然性から生じた部分があるにしても、他愛もない小冊子の蒐集など大半は自らの知的好奇心がさせたもの。

中世の世界に溢れ出した印刷技術がもたらした知識の記憶を留め置き、新たに開かれた世界の姿を書き加えながら膨らみ続ける共通の世界知の(言語という姿で)集積を目指した、当時のコスモポリタンが見据えた知の大海原を漕ぎ往く海図と指し示すコンパスを生み出す過程を添えた物語。

膨大な背景を個人史と時代史の中に織り交ぜながら綴られていく一冊。一気に読み進められる内容ではなかったですが、著者の強い思いを感じながら、中世ヨーロッパ史に添えられた一人の人物ともう一つの物語をリフレインを掛けながら一歩ずつ着実に読ませる内容。

表題に興味を抱かれたコロンブス(父親の方)の人物像や航海の姿、美しい中世の図書館や書籍に惹かれる方には少しイメージが異なる部分もあるかもしれませんが、その中で培われた、現在でも褪せる事のない、知の集積とそのアプローチを人物像から描き出すという実に興味深いテーマに触れられる一冊です。