今月の読本(特別編)「地形図でたどる長野県の100年」(長野県地理学会:編 信濃毎日新聞社)二つの地図に刻み込まれた、変わりゆく信州の産業史と残り続ける人と自然の足跡

今月の読本(特別編)「地形図でたどる長野県の100年」(長野県地理学会:編 信濃毎日新聞社)二つの地図に刻み込まれた、変わりゆく信州の産業史と残り続ける人と自然の足跡

ブラタモリの人気と高校の地理必修化を目前に控えた昨今、本屋さんの書棚にはこれまでになく多くの地理関係の書籍が並ぶようになってきました。

そんな中で刊行された大判のこの本。ちょっと興味深い切り口でそのポイントを捉える一冊です。

今回は、普段とちょっと異なる一冊、「地形図でたどる長野県の100年」(長野県地理学会編 信濃毎日新聞社)を簡単にご紹介します。

地方出版社の中でもオリジナリティあふれる企画と、高品位な装丁と編集、美しい製版を伴った大手出版社に引けを取らない作品を積極的に送り出している信濃毎日新聞社。今年も年初早々から民俗学、信仰をテーマとした作品で注目を浴びる本も刊行されていますが、こちらも注目すべき内容を備えています。

地理ファンの皆様の中では既に多くの方が活用されているであろう電子版の地理院地図今昔マップ。本書は二つの特徴をそのまま紙の書籍に持ち込んだ一冊ですが、書籍ならではの大きなポイントがあります。Webの場合、解説もほぼなく比較と表示だけですので、その背景や地形図の読み方を知らないままに、だだ表示される地図を見ただけで要領を掴める方はかなり限られるはずです(クラスターの方は…ぜひどっぷりで)。

特にはじめて地形図と向き合う方にとっては、まずはその見方や身近なテーマから捉えていきたいところ。本書は、そんなこれから地理、地理学(自然/人文双方)を学んでいこうという方々に向けた、長野県をテーマにした53のストーリーを、2枚(複数枚のテーマもあり)の地図の比較で読み解きながら学んでいく一冊。

編者の長野県地理学会は地元教員の方も多数参加されているグループ。そのような教育者の方々を含めた執筆陣の知見と、地元地方紙である信濃毎日新聞社が培ってきた歴史的な取材写真、資料をフル活用して、明治から戦前の地図と現行の地理院地図を並べて比較したうえで、読み解きのポイントを示していきます。

冒頭は地理院地図の読み方、地形の読み方の解説。

本書で初めて地理院地図に触れる方も多いかもしれませんから、説明は絶対に必要ですね。地図を漫然と眺めてしまうと折角の気付きも見逃してしまうかもしれません。

そして、昔の地図が左、現在の地理院地図が右に表示された各テーマのページ。開発、発展、変容の3つの章に分けられたそれぞれのテーマは2~4ページほどでフォーマットが統一されていますが、その表記は流石は新聞社さんといったところでしょうか、イラストや写真、統計資料のグラフなどを挿入した版組は、図面に合わせ視覚効果を得られるようにページごとに変幻自在、所謂「まとめ系」サイトにあるような固定フォーマットでトピックスが垂直方向に延々と続く形では怠惰になってしまう解説も、アクセントを付けた書籍ならではの凝った版組なら飽きることなく見続ける事が出来ます。

主に中学生や高校生を念頭に置いた飽きさせない多彩なフォーマットを擁する本書ですが、固定された表記も存在します。塗枠で囲まれ、コンパスマークが添えられる「読図ポイント」。そして「今・昔」と添えられた地図記号のピックアップ。前述のように、どうしても地形図を見比べるだけではピンとこない点も、ポイントを示すことで理解の入り口を広げようという編者達の意図が見えてきます。

美しく印刷された地形図と見比べる際に確認しておきたいポイントを押さえた上で添えられた記事を読んでいくと、その地で何が起きていたのか、どんな歴史が育まれてきたのかが明瞭に浮かび上がってきます。特に地元に住まわれている方であれば頷くことも多いであろう内容。社会科の学習を念頭に置いているためでしょうか、長野県の特徴に繋がるテーマとなる、林業、養蚕、製糸業、精密機械、高原野菜、観光業など、農業を含む主に産業史的な発展のお話が多いのですが、決して良い事ばかりが書かれている訳ではありません。

先般の水害も思い起こさせる、三六災害をはじめとする災害の爪痕とその復旧の跡。大規模な耕作地開拓、工業団地の造成、高原リゾートの開発には広大な山林、従前の自然環境減少という側面が常に付きまとい、高度成長期を過ぎて過疎化が進む中山間地域からは人の痕跡が地図上からも失われていく様子がじわじわと伝わってきます。

明治から現在まで、信州、長野県の産業の発展が明瞭に刻まれる地図上の変遷ですが、私にとって印象的だったのが、どんなに画一的な開発が進んでも、その中に過去から続く人々と自然が残した痕跡は明瞭に残り続けるという点。

私にとっても身近な生活の場でもある諏訪湖の周辺。

江戸時代からの干拓による圃場化によって、その湖面は旧地図の作られた昭和六年時点でほぼ現在と同じ面積にまで狭まっていますが、干拓地の上にくねくねと集落(上・中・下の金子)を繋ぐように引かれた、自然堤防上の道筋と集落、そして排水路でもある河道の位置は現在でも驚くほど変化がありません。

現在の居住地と比べると集住していたことがわかる一方、旧来の道筋や集落の痕跡は今でも地図上で、そして車や徒歩で周辺を巡ると明瞭に分かる。人々が住んできた場所、選んできた場所や道筋、自然が作り出す川筋の意味は、歳月を重ねて刻み込まれていくことが地図を見比べることで改めて理解できるような気がします(人文学系、考古学の発掘研究成果によると、これら集落の場所は概ね鎌倉期以降に固定化が進むとされています)。

美しく製版された地形図と分かり易く丁寧な解説を読みながら、自分たちが住んでいる場所の昔と今の繋がりを理解する。編者達は、その更に一歩先に、今度は紙の地図を片手に、自分たちの住んでいる場所を実際に歩いて実感してほしいという願いを込めていきます。

この本から地形図と地理が好きになってくれる人が一人でも増えてくれたらいい、地形図を入り口に地元の歴史と産業にもっと興味を持ってもらいたいという願いを編み込んだ素敵な一冊。長野県外の本屋さんで入手することはちょっと難しいかもしれませんが、地図、地形図を眺めるのってこんなに楽しいんだという体験の入り口として、ご興味があれば是非ご一読を。

今月の読本「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)農学と自然科学が背景を解く、多様なコメが作った列島の自然と人々の歴史

今月の読本「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)農学と自然科学が背景を解く、多様なコメが作った列島の自然と人々の歴史

本屋さんに数多並ぶ日本史の本。その殆どが作家や日本史研究者の方々など、史学、文学系の知識をベースとした内容で綴られているかと思います。

大きな歴史的な展開から治世に軍事的な内容。残された記録を頼りに築かれる人物像や、古文書に綴られる僅かな表記の揺れを捉え、その機微と思想に迫る内容まで。様々なテーマと切り口で描かれていく多くの書籍が出ていますが、その中でちょっと珍しいテーマを掲げた日本史の本。

今回は「米の日本史」(佐藤洋一郎 中公新書)をご紹介します。

著者の佐藤洋一郎先生は、イネ科植物の遺伝子生物学における著名な研究者、農学者。東南アジアにおけるイネ科植物の研究経験を下敷きにした、広く東アジア全般をカバーする文化人類学的な論考についても多数の著作を有される方です。本書も一連の著作に連なる内容ですが、テーマは日本史、それも日本史の中に描かれるコメという捉え方ではなく、コメそのものが日本史の背景を形作ったことを農学者の視点で描いていきます。

6つの時代に分けた通史としての日本史のテーマそれぞれにコメが与えてきた背景を織り込むという形で綴られる本書。自身は日本史の専門家ではないと本文中で度々述べるように、特に前半部分のコメの渡来から奈良時代の入り口までの古代史を扱った部分における通史としての日本史の著述はかなりイメージで語っている印象が強く、ややもすれば上滑り感すら感じられるところもありますし、読まれる方によってはかなり違和感を感じる部分もあるかもしれません。

日本史としての著述だけ見てしまうと、やはり農学者の方なのだから著述に無理があるのではと思わせてしまいますが、著者の意図は別のところにあります。それは本書が貴重な、日本の社会全般に浸透していた「コメの歴史」を日本史の流れの中に置いて描こうとしている点。

前述のような多くの日本史の著作で欠落する事の多い、自然科学的な視点で日本の歴史におけるコメ存在の必然性と社会、列島の自然に与えた影響を通史の中で示していきます。

数多に語られるコメの伝来と社会構造の変化。初めにその伝来と拡散の過程を議論していきますが、遺伝生物学が専門の著者は、その冒頭で日照時間と稲作の適応緯度、伝搬速度の関係を論じつつ、一般的に述べられる北方ルートでの伝来に対して、出土される炭化米の分析結果を添えて一定量の南方からの伝来、すなわち、特定のルートから単線的に稲作が持ち込まれた訳では無く、複数のルートから幾度かに分かれて伝わったはずであるとの自説を唱えます。

次に、稲作と社会性の関連についても、耕作道具が未熟な状況で、粗放な状況ではすぐに雑草との競争に敗れてしまうイネを育てる場所となる耕作地(水田)を起こす事は決して容易なことではなく、単にイネを携えた人々が海を渡って稲作を広めたという牧歌的なものではなく、かなりの強固な意図を抱いた一群が長期に渡って当地に定着しなければ稲作は広まらないと指摘します。主に考古学的な知見が用いられる稲作の伝搬の検討についても、水田は検知できるが、モンスーン気候の地で焼畑農耕の痕跡を発掘で検知することは極めて難しい点を指摘したうえで、それでも炭化米の分析結果などから、その初期から陸稲も伝来し、更には北方への拡散には既に苗代の存在があったのではないかと指摘します。

著者が伝来過程に拘る点。それは次の時代となる巨大古墳や建築物が次々と作られる古代王朝成立の過程において、その労働力を養う栄養価確保の問題から膨大な食料、すなわち穀物が必須であることを念頭に置いている事です。コメの伝来以前にあった他の雑穀類や堅果類ではそれだけの栄養価は得られず、得られたとしても下ごしらえの労力を考えると、相応の労働力(=食料)を賄えるのはやはりコメしかないと指摘します。

そして、著者は栄養価を得るための手段とその結果について、これまでに日本史で描かれる背景に疑問を呈します。農学者として東南アジアにおける豊富なフィールドワークを積んできた著者の視点は、現在の広い平野に水と緑を湛える水田が一面に広がる風景とは大きく異なる、もっと混とんとした稲作世界があった事を指摘します。

前述のように水田稲作において雑草との競争は永遠の課題(現代のそれは農薬の力を借りていたちごっこをしているに過ぎないと)であり、窒素肥料が用いられない水田では容易にイネの生育は雑草に敗れ、耕作を維持できないと指摘します。その結果、班田収授から墾田永年私財法に繋がる班田の不足とその中に荒田が多くみられる点を指摘して、単なる耕作放棄地ではなく輪作という観点を含めて「そうせざるを得なかった」のではないかと、農学者としての視点を添えていきます。その上で、古墳や宮殿などの巨大な土木事業を支える食糧増産を図るためには、耕作地の拡張と共にその肥料となる草木類の鋤き込みが必要であり、動力を用いた揚水(排水)に頼らないで水田が拓ける限られた土地と、その後背地に当たる所謂「里山」の開発が進められることになりますが、著者はそれらを以て画一的な水田稲作に傾斜した農耕の姿を歴史的な描写に投影する事に否定的な見解を述べます。

本書における中軸的な記述となると思いますが、歴史描写における多様な稲作とイネの姿への視点。

発掘された炭化米の粒度分布の調査結果による多彩な粒径、長さと圧倒的な粳の存在の中で限られた糯米から見出す、粉食や餅の存在。木簡に書かれた、全国に渡る、栽培地域ごとに異なる多様なコメの種類名称存在(品種ではない点に注意)。その中に見えてくる、早期に刈り入れが出来る、白米の系統とは異なる赤米、大唐米の存在が、白米だけでは成立しえない、農期、収穫時期の幅を確保し飢饉の発生を抑えると共に、年貢として、そして軍糧として(青田刈りへの対抗策としての存在であったとも)も使用されていた点を指摘し、調理法を含めて多彩な栽培、利用法が採られていたことを示していきます。

前述のような画一的な視点による白米至上主義の史観に対して農学者として明確な疑念を述べる一方、昨今多く述べられるようになった、前近代まで白米は年貢用であり、多くの農民たちは雑穀を食するに過ぎなかったという議論に対しても、前述の栄養価の側面からそれでは激しい肉体運動を要する前近代の農耕、労働に対して、高蛋白質の肉類を摂らず続けることは困難であったろうと指摘し、水田に抱き合わせる形で栽培されていた豆類と合わせて、これら多彩な「コメ類」が日常的に利用されていたと指摘します。更に、水田を作るために人為的に引かれた水路に定着する淡水魚類へのたんぱく質の依存という点を重ねることで、戦前まで長く続く稲作農耕を軸にした列島の姿、生き様が作られたと指摘します(ここで、ジャポニカ種という言葉の生まれた経緯とその分類について詳細な説明が綴られる点は、南方系の品種もテーマとするイネの研究者としての矜持を示すところで、インディカ品種への偏見と誤解を正したいと願う著者による強い思いが表れています)。

列島の姿を形作ってきた稲作とコメ。その姿は食料としてだけではなく年貢、更には金銭価値を持つ、基軸通貨に代わる役割を果たしてきた点は日本史の中でも多く語られる内容ですが、著者はもう一つの側面として、都市化を支えたのもまたコメの存在であった点を指摘します。税、年貢として各地から集積されるコメ。しかしながらその初期においては精米技術が未熟で、むしろ搗き過ぎで玄米と白米の中間的な状態で食していたと指摘します。所謂「江戸煩い」とも称された脚気、白米食によるビタミン不足である点はよく指摘される(この傾向は日露戦争の陸軍まで続く点も)事ですが、根源的な理由として白米の精米度が高まった訳ではなく、その前段階となる「玄米」を効率的に得る事が出来るようになった点を指摘します。籾を外した状態で保存できる玄米の存在こそが、コメの保存性と流通を飛躍的に高め、都市に集住する人々の膨大なエネルギー消費を支え、更には今日において日本の食文化と称される多様なコメを利用した菓子、料理、白米を主食として据える食文化を成立させたと指摘します(近世以前の人々は玄米食だったという表現も誤りであると)。

都市の膨大なコメ需要を担うために低湿地を干し上げ、山麓に通水することで水田を押し広げる事で列島の景観を一変させ、餅にも通じる白という色の意味と重なる都市が生み出した白米への強い思い。それらを追求し続けた先に近代の膨張と戦後の食糧増産の過程を描いていきます。著者はその中で、現在に繋がる品種を生み出した育種の発祥と既にその耕作技術が失われてしまった驚異的な収量を達成する事で要求に応えた篤農家達の存在を重ねながら、社会の近代化と全体主義的な傾向が増大する姿を大陸への進出に添えて述べていきますが、その著述はあくまでも農学者としての立場での言及に止められ、最後に近年の米食や棚田、稲架の景観への想いといった著者が現在最も力を入れている文化人類学的な議論へと移っていきます(コメに残る尺貫法を改める必要性など実に科学者、農学者らしい見解も)。

日本の歴史を背景から形作ってきたともいえるコメと稲作。その姿はコメ余りが叫ばれる一方、各地から送り出されるブランド米の勃興(これらがみなコシヒカリ一族であるという一抹の不安も含めて)というこれまでの時代背景とは全く異なる状況を迎えていますが、曲がり角を迎えた中で上梓された、碩学がこれまでのコメの研究者、文化人類学者としての想いを込めて綴られた一冊。またひとつ、日本史の背景描写に豊かな彩と視点を与えてくれる一冊です。

 

<おまけ>

本書のイネに関する著述内容のうち、著者の専門分野である東南アジアの稲作及びイネの遺伝学的な伝搬以外、その多くは著者を編者して昨年刊行された「日本のイネ品種考」(臨川書店)で執筆を担当した研究者の論考に依拠しており、一部の議論に対しては著者自身が別の見解も添えて述べる形で綴られています。少々お高いのですが、本書を読んでイネと稲作に関する各論についてご興味を持たれた方は、是非お読みいただければと思います(内容は一般読者向けなので平易です)

本書で議論の中核を担う、日本のコメ品種において否定的な捉えられ方をされる一方、実は陰の主役的な立場であった事を指摘する赤米、大唐米。その存在と広がりを史学の視点で地道な研究から描き出した、長野在住の在野の研究者が著わした「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)本書に於ける多くの指摘も当該書の記述に拠っていることを著者は明示しています。「ものの歴史」的な内容にご興味のある方はこちらの一冊もお勧めいたします。

今月の読本「日本思想史」(末木文美士 岩波新書)超特急通史のキーワード文末に織り込まれる宗教史から日本の思想史への問いかけ

今月の読本「日本思想史」(末木文美士 岩波新書)超特急通史のキーワード文末に織り込まれる宗教史から日本の思想史への問いかけ

本屋さんの特等席、お客さんからよく見える平置きの書台や壁越しの面陳を埋め尽くす、毎月のように刊行される新書シリーズ。

一時期のブームからは少し鎮静化したようですが、それでも数多くの出版社から様々なテーマを掲げた作品が毎月、大量に送り出されています。本屋さんにとっても新刊という名の書棚のラインナップ新陳代謝を維持するためにはもはや欠かせない存在となった新書ですが、その中でも古参中の古参とされる岩波新書。

他の新書シリーズに対してやや古典的(エバーグリーン)なテーマであったり、特定の指向性のある読者層に向けた、強い問題提起を含む作品が多くラインナップされているかと思います。

今回ご紹介する本も、かなり強いテーマ性と問題提起を掲げた一冊。

日本思想史日本思想史」(末木文美士 岩波新書)をご紹介します。

著者は東京大学に所属された(現在は名誉教授)著名な古代、中世の仏教研究者で、比較的穏当な筆致で中華世界へ請来する以前の仏典から日本に導入された仏教の定着、日本におけるローカライズされる姿までを宗派に拘ることなく通史として描くことができる稀有な方。その通史としての筆致も平板なものではなく、日本仏教の特異点や宗派、宗祖に拘る著述や議論に対して敢然と疑問を投じつつ、冷静に通史の中にそれらを位置づけていく、一般書籍としては貴重な、宗派に囚われない日本の宗教史を描ける方です。

そのような碩学が敢えて冒頭に刻み込んだ言葉に衝撃が走ります。曰く、

「最新流行の欧米の概念を使って、その口真似のうまい学者が思想家としてもてはやされた」

「思想や哲学は一部の好事家の愛好品か、流行を追うファッションで十分であり、そんなことには関係なく、国も社会も動いてきた」

本屋さんに大量に積み上げられる、ビジネスマンに向けた思想や哲学に類する書籍のなんと多いこと、その内容の殆どが西洋哲学のいいところ取り的な著述である点に大きな疑問を持っていた私にとっては非常に腑に落ちる一文ではあったのですが、それ故に本書の内容に大きな不安を抱いたこともまた事実です(僅か3ページほどですが、驚愕の「はじめに」は是非ご一読で(立ち読みでもいいかな、と))。

日本で思想、哲学を扱う研究者、出版、マスコミ関係の方々すべてを敵に回すような強烈な巻頭辞に対して、果たして本書の内容が応えているのか、更には著者が敢えて新書というフォーマットの特性を用いて表現するという内容に危うさを感じつつも、非常に興味を持って読み始めました。

私自身は思想も哲学も論じるに足りる知見を持ち合わせていませんので、あくまでも単なる本読みとしての感想ですが、流石に200ページ少々で思想史概論から始まり、古代から東日本大震災までの時間軸を通史として綴るには絶対的に分量が不足しており、表題にある内容を本書だけで満たすことは全くできません。特に初学者にとってはコンパクトすぎる記述を単純化して捉えてしまう恐れがあり、全く勧めることはできません。

むしろかなりの程度、日本史についての知識を有されている方が読まれることを当然として綴られたと思われる省力化された筆致。表面的にその内容は、文学、思想、宗教面でポイントとなる事項、人物を極端に圧縮した日本史通史にキーワードとして添えていくという体裁かと思います。

著者が得意とする通史を超特急で綴る本書、しかしながら著者のこれまで数多く手がけてきた通史のスタイルと少し様相が異なります。これまでの著作では主に中世まで、特に平安から鎌倉時代の著述に重点を置く著作が多かったと思いますが、本書では全体の半数以上を江戸時代以降の内容を描くことに充てていきます。多くの日本の思想史を綴る著作においても同じように、それ以前の歴史上で思想史を描き込むための前提となる内容が極めて限られるために致し方ないところかとは思いますが、冒頭の著者の言葉を享けて読み始めると、分量以上に江戸時代以前の内容には物足りなさを感じることも事実です。

そして、著者が本書を手掛ける大きな理由であり、特徴的な内容と思われるのが、超特急で綴られる日本史通史の文末に忍ばせる、仏教史としての視点、仏教が日本の思想に与えた影響が余りにも軽視されていることへの憤り。

著者の著述における特徴かと思いますが、通り一辺倒に読んでしまうと前述のように日本史の通史に添えた、単なる思想関係のキーワード集にも捉えられてしまうのですが、文末にぽつりと語られる内容こそが重要なポイント。新書というフォーマットの限界を超えるために著者が用意した仕掛けを注意深く確認することが求められます。

このような著述を採られているため、各論に関する著述においては、神話の成立や集積過程の論述に見えるように「重要ではない」とばっさり切り捨ててしまう部分が認められる一方、宗教的な視点でその後の歴史における思想面で多大な影響を与える部分については、相応に記述を割いていきます。

まず、国家神道に至る道筋では、その前時代から神道がひとつの信仰の形態として整備されていく過程を要所できっちり繋がるように指摘を入れていきます。儒教に関しても、神道、国学の相互関係と教育勅語、帝国憲法に繋がる過程の連動性にも配慮を示していきます(小中華論を含めて)が、その一方で日本において仏教のような定着を見せなかった結果、特に民衆にとっての思想、宗教としての影響は限定的であったことを明確に示していきます。その上で、著者が最も述べたいと願う仏教の思想面での影響。神道が信仰としての体系を整える呼び水となり、儒教と共に日本にもたらされた際に、その新しさと高度な体系を有していた事から時の為政者たちにとって、儒教ではなく仏教が国家の支柱として受容されたと読み解いていきます。その上で、葬送儀礼に加われなかった点を指摘して、日本における儒教の限界を指摘します。

国家を動かす王権と鎮魂と冥を司る仏法、仏法の顕現として祀られる神々。日本史の中で描かれた物語、文学たちも多くはこの二つの軸に沿った内容であったことを再確認していきます。

宗教という側面で文学、思想史を語る著者。その結果、著者の歴史的な転機における表現もその影響を強く受けていきます。中世の幕を開ける鎌倉新仏教という表現は今では避けられる傾向にありますが、著者は大仏復興と勧進聖、重源の活動がその幕開けであることを明確に述べ、近世の始まりとしては元和偃武を位置づけていきます。さらに、多くの場合明治維新という表現を添える近代の起点を示す表現には「御一新」の語を繰り返し用い、あくまでも王権と仏法の動きとして時代の推移を綴っていきます。

王権と仏法のバランスが徐々に崩れ始める近世。平時における武家の統治を思想的に支えるために儒教の影響がより大きくなり、庶民の文学へも儒教の影響が見えるようになる点を指摘します。この流れの中で国学の勃興、神道の浮上、その先に尊王攘夷を見出していきますが、著者は起点として復古主義的な荻生徂徠の存在を指摘し、古典解釈の厳密な再検討による読み直しという行為自体が思想面で強い影響を与えたと述べる一方、鬼神論に対しては極めて先進的な唯物論者であった新井白石から逆行する形となる平田篤胤の思想(冥界に関する二元論)と津和野国学による転換がその後の国家神道、皇室の信仰へ強い影響を及ぼしたことを指摘します。儒教の影響が次の時代の萌芽となる一方、葬送儀礼としては儒教形式が幕府により否定された結果、民衆においては葬式檀家として現在にまで繋がる冥の部分、仏教の影響が思想面でも強く残ることを明確にしていきます。

著者による王権と仏法による二つの軸で描かれる思想の歴史。そのような姿は御一新による「神武創業」と太平洋戦争の敗北による「国民の総意」体制によって二度、大きく様変わりしたと述べていきます。中央集権と親和性の高い儒教の思想が持ち込まれた上での天皇を頂点に置く家父長制に倣う国家体制と、それを支える皇室の冥を司る神道と民衆の冥を司る仏教。近代国家としての憲法とその枠組みから逸脱した天皇の存在の危うさの先が近代の軸として語られていきますが、著者の専門分野から離れていくためでしょうか、全体の著述はやや雑多に綴られる近代史へと移り変わっていきます。

流石に近代史の範疇になると数多くの人物がキーワード的に綴られていきますが、冒頭の著述からすると拍子抜けするほど淡白な近代の思想を語る部分。そして、近代から現代に至り、著者が描いてきた思想の枠組みがほぼ潰えたその後(天皇の行動「象徴としての勤め」を国民の総意という形で追従的に容認し蓄積されていく過程と戦後体制による表層的な国民主権の推移を小伝統と称する)を描く段になると、その想いは自らの研究者としての歩みを投影するようになります。

戦後の学制改革を以て、大学がエリート養成機関からテクノクラート養成へと転換したことによって、「文豪」そして知識人という存在が生まれることがなくなった、その結果が現在に続く思想としての日本の低迷の発端であることを濃厚に漂わせて、道筋なき現代の姿と、改めて日本に視点を据えた思想史を過去に遡って丁寧に掘り起こしていく必要性を述べていきます。

新書という限られたフォーマットの中で綴られる、著者がこの数年来積極的に上梓されてきた著作群の交差点となる、次へ進むためのキーワードを整理し、再確認するための一冊。

新書という誰でも手軽に読むことができるフォーマットでありながら、素手で触るとちょっと火傷しそうなくらい極限まで絞り込まれた内容故に読む方をかなり選ぶ一冊ですが、著者が囁く指摘に耳を傾けながら、自らの持っている歴史的な理解を見つめなおすと、その中に織り込まれた、思想としての日本史の姿がほんの少し見えてくるようです。

他社さんの書籍で申し訳ないのですが、通巻300冊を達成した人物叢書の販促史料にある、登場人物別の教科書採用率。

じつは、近代以前においても文人、僧侶の登場人物はかなり多いのですが、教科書採用率が極めて低いことが判ります。多くの方々の歴史的な知識の下敷きとなる教科書の記述を考慮すると、著者の懸念、危機感と本書の位置づけが見えてくるようです。

今月の読本「新しい古代史へ2 文字文化のひろがり-東国・甲斐からよむ」(平川南 吉川弘文館)地域史を越えて広く北東アジアへ、考古学と文字が結ぶ歴史の架け橋

今月の読本「新しい古代史へ2 文字文化のひろがり-東国・甲斐からよむ」(平川南 吉川弘文館)地域史を越えて広く北東アジアへ、考古学と文字が結ぶ歴史の架け橋

本屋さんに並んでいる日本史の書籍。時代史であったり、著名な人物像を描く内容が多いかと思いますが、特定のテーマ、地域に絞った内容の書籍もまた多く並んでいます。

所謂郷土史、地域史とも呼ばれる分野ですが、読者にとって最も身近な歴史を伝えてくれる本達。そのようなジャンルの一冊として、少し珍しい切り口を持ったシリーズが刊行されました。

新しい古代史へ2文字文化の広がり

今回ご紹介するのは、山梨日日新聞の紙面に連載されたコラムを全三冊のシリーズとして刊行(予定)される「新しい古代史」の中から「新しい古代史へ2 文字文化のひろがりー東国・甲斐からよむ」(平川南 吉川弘文館)をご紹介します。

前述のように、2009年から2018年までの約9年間に渡って新聞紙面上に連載されたコラムを増補、再編集して刊行されるシリーズ。全編を前山梨県立博物館館長の平川南先生が一人で執筆されています。著者の専門分野である古代史に特化して、テーマ毎に3巻に分けて刊行される予定のうち、本書はその中軸を担う1冊。著者は「自治体史」の可能性を願って綴った事を冒頭に記していますが、副題に示されるように「東国・甲斐からよむ」とされており、地域史としての領域を逸脱することが想定されています。

各都道府県、市町村にそれこそ数多存在する歴史館、考古館、博物館の展示を見ていて常に疑問に思う点。特に考古学的なテーマを前提に置いた展示で首を傾げる事が多い事として、出土物自体の解説には他の地域との連携性や時代の前後性を強く示す一方、「おらが村のお宝」ではないでしょうが、その中で如何にも中核や枢要を担っているかのような、他と比べて突出的な出土品であるという表現を付されている点、自らの地域性に殊更の優位性を綴る(京都、奈良、大阪は別の意味もあるので)解説に奇妙さを感じないわけではありません。

本書も県域紙である山梨日日新聞の連載記事(なぜこの本が出版部も持つ同社から刊行されなかったのかは首を捻る点ですが…愛読している版元さんから刊行された事に感謝しております)、しかも他県と比べても強固に纏まった郷土意識を有する土地柄故に同様の懸念があったのですが、むしろそのような懸念を大きく裏切る内容の幅広さを具えています。

新聞の連載記事という事で一つの話題について僅かに4~10ページ程。フルカラーで非常に多くの写真も併せて掲載している事もあり、特定のテーマを深堀出来る構成ではありません。むしろ博物館の展示と解説ボードをそのまま本に収めた様な感もある本書ですが、テーマに挙げられた「文字」という着目点(帯の書体にも滲み出ています)が自治体史という範疇を許さない、広大な視点を与えてくれることを明瞭に示しています。

全3章で綴られる内容はテーマ毎に纏められている一方、連載時期が前後している部分もあり、一貫した通読性がある訳ではありません。更に、シリーズを通貫する筈の甲斐、山梨をテーマとした内容は本書の半分を割り込み、北東アジアから広く日本国内、南は大宰府から北は多賀城までという広範な地域を舞台に描かれていきます。もちろん著者にしてもそれでは自治体史の体裁を逸脱しすぎてしまうと考えられたのでしょうか、山梨県内の出土例/事例についてはご自身も現地に赴いて、発掘内容や心象を添えながら丁寧に著述されています。

山梨県の古代史を綴る一方で、その通貫するテーマを描くためには是が非でも必要であった文字文化の「ひろがり」。コラム形式のために重点が見えにくいのですが、著者が研究に直接携わった部分には相応の力点が注がれており、その著述からある程度テーマの要点が見えてきます。

第一部として纏められる「文字を書く」。文字を書くためのフォーマット、素材となる木簡や筆、硯。単純な文字が書かれた土器に込められた想いは甲斐の出土物単独で理解することは出来ず、その伝来から変化と言った考古学が最も得意とする形態的な編年分類を重ねて理解することが求められます。中でも非常に興味深かったテーマは、徳川光圀を引き合いに出しながら、土器に記された墨書に残る特殊な漢字、則天武后が定めたとされる則天文字が其処に残されている例を紹介する段。出土品の時代確定に用いるだけではなく、その背景を金石文から篆書、隷書へと繋げながら為政者による権力の存在を指摘する点は、出土物の歴史的背景を矮小化せずに広く視点を持つ事を求める考古学らしい読み解き方を感じさせます。また著者の研究テーマでもあった定木の利用法解明とその背景となる和紙と硯、墨の利用に対する歴史的な展開は、専門的な研究書はもちろんあるのかと思いますが、このような一般向けの書籍でその一片を見せて下さる点はとても貴重かと思われます。

文字を綴るための前提を記す第一部を受けた第二部は、少し寄り道気味な内容も含まれる「人びとの祈り」。経典埋納の壺に刻まれた人物名の驚くような広がりや相撲人とアーリア人系の顔が描かれた木簡(本当に甲斐に在住していたとすると、その背景含めて実に愉しいですね)といった文字として残された記録の側面も綴られますが、主に文字に込められた呪術的な側面を取り上げていきます。特に山梨県在住の方には興味深いであろう道祖神としての丸石、男根のお話は、文字からはやや離れてしまいますが、仏教伝来以前の日本の在来信仰的な捉え方や仏教受容後の変形ではなく、韓国、扶餘の出土例を通じて、仏教文化と並立する大陸文化に通じる点を指摘します(私も現地を訪れた事があります)。その上で、朝鮮半島で出土した椀に鋳出された文様も、国内で出土した土器に刻まれ、墨で書かれた文様も、民俗学で述べられる五芒星や海女の呪い模様と同じものであり、道教に繋がる点を指摘することで、古代史から認められる姿が、広くアジア各地で遥か現代にまで繋がっている事を示していきます。

そして、本題の舞台から遥かに離れた多賀城碑と上野三碑から綴り始める第三部「文字文化のひろがり」。著者の専門分野が存分に発揮される、3回連続で綴られた多賀城碑偽作説の再検証から重要文化財への指定の根拠となった周辺の発掘調査の結果と、上野三碑を世界記憶遺産へと推す根拠とした、半島文化と大和王権、北方文化が交錯した事実を現在まで伝え続ける石碑がなぜピンポイントにこれらの土地に残されたのか(意外な事に、戦後の高度成長期から現在に至るまで、日本国内で新たな石碑の発掘例は皆無との事)を説き起こしていきます。また、著者の専門分野でもある漆紙文書がなぜ時代を越えて残る事が許されたのか、更にはその分析に威力を発揮した赤外線カメラによる古文書分析の威力を綴る部分は、考古学の研究が発掘や類型調査だけではなく、最新の測定、分析技術を巧く活用する事で更なる進化を得られる点を明確に示します(お線香で煤けた先祖のご位牌の文字を確認して欲しいという地元の方からの依頼も。県立博物館も色々大変ですね)。

限定的な碑文の分布から文字文化が明らかに遅れて伝わったと想定される日本列島。その後に生み出された万葉仮名と平仮名への変遷を綴る段で本書は終わりますが、大幅に加筆された最終盤の内容が本書のハイライト。ニュースでも大きな話題となった、ほぼ完全な形で出土した仮名文字による歌が刻まれた土器(甲州市ケチカ遺跡出土「和歌刻書土器」)。この土器の読み解きを行った解読検討委員会の委員長を務めた著者によるその検討結果と、併論となったいきさつが前後約30ページに渡って綴られていきます。

既に文字資料が揃いはじめた時代の出土物ですが、僅か31文字の来歴を知るには余りにも不足。しかしながらこの読み解きを果たす事は、日本における仮名文字の発達の過程を知るため極めて重要な契機。土器編年法から始まり文字の形、綴られた歌の内容とその読み解きといった、考古学と文献史学、美術史と国文学がまさにがっぷり四つで組み合った結果が初学者にも伝わるように丁寧に説明されていきます。未だ歴史書の中で本件を扱った具体的な著作が無い中で、唯一無二の一般向け解説。本書の巻末、実は本連載の掉尾を飾る(翌月の2018年3月掲載分を以て館長離任により連載終了)、地域史を開拓する地道な発掘成果はまた、全体史を大きく動かす力を持っている事を雄弁に示す紹介内容。

甲斐、山梨という山深く狭い地域で語られる歴史が、その範疇の中だけで語られるのではなく、広く世界に繋がっている事をまざまざと示すシリーズ中でも白眉な一冊。甲斐・山梨の古代史に興味がある方だけではなく、広く古代史、考古学がどのように歴史を捉えようとしてるのかを理解するためのきっかけを、文字という共通な文化の基盤を通じて具体的な事例から多面的に、しかも判り易く、丁寧に教えてくれる一冊です。

今月の読本「地質学者ナウマン伝」(矢島道子 朝日新聞出版)スケープゴートに埋もれた近代地質学の立役者が辿った道程

今月の読本「地質学者ナウマン伝」(矢島道子 朝日新聞出版)スケープゴートに埋もれた近代地質学の立役者が辿った道程

最近、「ブラタモリ」が人気になった事で、地理学、地質学への興味が高まっていますが、中でも地質学に関しては、番組に登場される「案内人」を称される方が多く関係する「ジオパーク」の存在も、近年注目を浴びつつあります。

日本で初めてユネスコの世界ジオパークに認定された新潟県の糸魚川ジオパークにある中核施設、フォッサマグナミュージアム。このミュージアムの一画に、あるドイツ人の足跡を記念したコーナーが設けられています。

その名前は考古学や古生物学で語られる事が多い一方、彼が日本に於いて為し得た業績は遥か以前に忘れられ、むしろ「森鴎外が留学中のドイツで論戦を挑んで沈黙させた人物」として、近代文学史の片隅で紹介される事の方が多いかもしれません。

在日僅か10年間で、現在でも通用する北海道を除く本州、九州、四国全域の地質図を作り上げるという驚異的な業績を残した地質学者であり、現在の産業技術総合研究所の前身となる地質調査所を立ち上げ、現代にまで続く東京大学の地質学科初代教授として日本の地質学の水準を当時の国際レベルにまで引き上げた教育者。更には近年議論となっている、モースに先んじてシーボルト(息子の方)と共に大森貝塚を発見したと目され、連年野尻湖で発掘が続くナウマンゾウにその名を残す古生物学者・考古学者、エドムント・ナウマン。

現代に至るまで日本の地質学者、地球物理学者を悩ませ続ける大いなる問題「フォッサマグナ」の提唱者である一方、その業績は黙殺され続け、明治のお雇い外国人一般に付されるネガティブな人物の代表例として扱われる事の多い彼への評価。そのような扱われ方に敢然として否定を掲げた古生物研究者の方が書かれた一冊。

今回は、一般書としてはほぼ初めてとなる彼の評伝「地質学者ナウマン伝」(矢島道子 朝日新聞出版)をご紹介します。

著者の矢島道子先生は古生物研究者である一方、多数の科学史に関する一般書を執筆されている方。中学、高校の教員経験もお持ちで、今回のような一般の読者へ向けた科学者の評伝を書かれるのに最も相応しい方です。但し、著者の専門分野である古生物学や、ナウマンの主な業績となる地質学に関する内容はごくごく触りの部分のみに触れるだけで、本書では人物伝としての内容を綴る事に注力していきます。

冒頭からナウマンへの私的な心象を込めた手紙で始まる本書。女性の著者故でしょうか、恋愛や愛憎といった部分を語る際には一際、著者の私的な思いも織り込まれていきますが、全体としては科学者の評伝として、その生い立ちから没後まで手堅く纏められている本書。その中で著者はある点に於いて一貫した視点に立脚します。

前述のような否定的な捉え方をされるナウマンの言動とその業績について、なぜネガティブな評価をされているのかを当時の事情、背景から説き起こし、現代の視点で再評価を与える事に注力していきます。

彼自身の言動に対して、当時のお雇い外国人一般の認識とそれに対する日本人側からの評価を分別することで、日本と日本人を毛嫌いし、帰国後も与えられた勲功章などに対する不当に低い評価に鬱積しつつ埋没していったという日本人側から見た彼への評価を否定し、彼自身は様々な困難に直面しながら、決して日本と日本人の事を否定的には捉えていなかったことを明確に示していきます。巷間に伝わる鴎外との論戦に対しても、掲載されたドイツの新聞における論調迄を含めて検証し、彼自身は鴎外の挑発的な言動に対しても丁寧に議論に応じていた事を示します。更に、後年になっても教え子との手紙のやり取りが続き、彼らがドイツに訪れた際には歓待し、日本の地質学が長足の進歩を遂げている事を率直に喜んでいた事が記録として残っている点を取り上げます。むしろ、急速に近代化が進む日本と日本人にとって乗り越えるべき相手として、自らが近代化を遂げ、自立を果たした事を示すためのスケープゴート役を担わされてしまっているという心象を文中で強く与えていきます。

冒頭のナウマンへの手紙で著者が述べるように、近代化を遂げつつある日本人に対しての悪役を演じる事となった彼。しかしながら彼自身も当時のお雇い外国人に多く見られた傲慢さを有し、大学出たてで満足な実績もなかった若者にして本国では為し得なかったであろう、当時の日本人から見れば嫌悪感を持つほどの豪華な生活を謳歌していたという事実が、後の非難の根底にある事は否定できません。また、学生を引き連れた現地調査の際にはかなり高圧的な態度を取っていた事も記録には残っており、決して付き合いやすい人物ではなかったようです。そして抜群な業績を残しながらも彼の評価を決定的に悪くしたある事件。当時としては当たり前だったのかもしれませんが、その場に置かれた鞭と拳銃、その後の領事裁判の内容を読んでいくと、彼自身に含む部分が少なからずあった点も見えてきます。

この事件の背景にある、彼の一生をあらゆる意味で左右することになる最初の妻、ゾフィーの存在。大学入学資格を持たない彼がミュンヘン大学へ進み、僅か在学2年で博士号を取得したことも、日本で卓越した業績を上げながらも帰国後に正規の大学の教員として職を得る事が出来なかった事も、もしかしたら大学卒業後すぐに日本で職を得る事を考えた事も…、すべては不釣り合いとも思われる、職人階級に生まれ、専修系の教育課程を経たに過ぎない彼が、現在も顕彰され続けるドイツで初めての蒸気機関車を設計した著名な学者の愛娘である彼女との結婚を成し遂げるために行われた事に対する裏返しとしての結果だったのかもしれません。彼自身がそのことに対して何らの言葉も残していないため本当の所は判らない(著者は敢えて踏み込んだ見解を示していますが)所ですが、彼のその後を大きく決定付ける存在であった事は間違いないようです。

なかなかに難しい人物像を綴る中で同時並行で描かれる彼の活躍。その中でも中核に置かれるのが、最大の業績とも考えられる本州以南の地質図制作の為に全国を調査した足取の追跡。地質学に関する著書でも彼の超人的な働きは特筆すべき内容として採り上げられる事もありますが、実際にどのような足取りを残していたのかは語られる事は少なかったかと思います。本書ではその調査行について、国内に残る史料のみならず、ドイツに赴いて当地で研究をされていた方の協力を得ながら、彼の足取りを復元してきます。

北は函館から南は九州の開聞岳まで、約10年間で各地を廻った記録から彼が作り上げた地質図の作成過程を読み解いていきますが、著者の読み解きを辿っていくと地質学を多少知っている方であれば、ある点に気が付かれるはずです。航空機も自動車もない、未発達な交通網をそれこそ殆どの場合自らの足で踏破し、メモとスケッチのみに記録を頼る必要があった当時の調査。その迅速な成果を支えたのは彼と彼が率いた調査隊の驚くほどの踏破力に基づくわけですが、極めて小規模だった彼らの調査行で闇雲に歩き回ったのではこれらの成果は得られなかったはずです。其処には彼の卓越した「地形を読み取る能力」があった筈、彼の地質学的な抜群のセンスは、残された山体のスケッチや四国における調査行を著者が再現した文章からも把握する事が出来ます。

地形を俯瞰できる場所へまず赴き、山脈や山体を読み取って調査が必要と思われる場所を正確に判断する、地形を読みとる能力。執拗なまでに野帳の記録へ正確さを求め、調査内容を厳密に纏め上げようとする意志の強さ。残されたスケッチの清書からも見て取れる、現代の状況を照らし合わせる事が出来る程の正確な地形描写力。来日前に僅か半年ほどのキャリアしかない筈のフィールド調査の経歴には似つかわしくない、現場に徹した抜群のセンスを持つ地質学者としての横顔が見えてきます。更には地質調査の要として幾度も訪れた、中央構造線(この言葉と想定も彼の発案)が横断し、火山活動の影響を受けていない四国に着目した点は、現代の地質学に於いても極めて妥当な判断と見做せるようです。

フィールドを重んじ、野外観察による実証的な地質学を重んじた彼。尤も、それ故に地質学の研究者としては理論的な裏付けが弱く、やや格が低く見られ続けた事も事実であり、そのギャップが後に日本の地質学から業績が忘れ去られ、帰国後も大学教授としての地位が得られず、実利に適う探鉱会社のエンジニアとして暮らしていく事となったようです。

主たる業績である本州以南の地質図制作のみならず、噴火中の伊豆大島の火口まで赴き調査を行い、調査行の途中では各地の火山の山容をスケッチ、登頂を果たし、御来光を共に望んだ富士講の人々が見せる敬虔な思いに強く胸打たれた富士山では詳細な火口の記録を残した、日本の地質学を開闢する膨大な業績。調査行と共に各地で依頼を受けた探鉱や水文、更には飛砂の解消に対する提言。ナウマンゾウの化石紹介から古生物の化石と年代検討、更にはモースに先んじた大森貝塚の発見や発掘された土器の検討、ライバルと目されたライマンから委ねられた化石の同定と言った古生物学(ナウマンの学位は地質学ではなく、実は古生物学)、考古学の研究、帰国後には人類学に類する検討まで。膨大な業績を残した彼ですが、現在殆ど顧みられない理由として、本国では前述のように大学に籍を得る事が出来なかった点が多分に大きいようですが、日本に於いては近代化の過程に於ける学問の自立化、即ちお雇い外国人への依存から脱却し、日本人の研究者、教員による研究推進への転換点に於いて、敢えて黙殺するような動きがあったのではないかと著者は推測していきます。特に、実質的に彼が地質学の講座を立ち上げた東京大学(著者にとっても母校)に於いては、その業績や史料が封じられているのではないかという認識を滲ませます。

日本に於いても、母国ドイツに於いても顧みられることが少ない彼の業績。しかしながら、彼の残した大きな問題は未だに日本の地質学者が越えられない大きな壁となって立ちはだかっています。

プレートテクトニクスという概念が生まれる前に導き出した、真っ二つに割れて曲がった日本列島の真ん中を貫通する奇妙な地形、その只中に聳え立つ富士山と北へと連なる八ヶ岳、浅間山、そして草津白根山の雄大な景色と、眼前を遮る壁のように南北に聳える南アルプスの山並。彼を魅了してやまなかった秩父の渓谷に横たわる地形の妙。フォッサマグナという彼の残した置き土産は、その業績がどんなに埋もれようとも厳然と彼の後輩達の目の前に立ちはだかっているようです。

その業績が顧みられることが少ない彼の業績を改めて見つめ直す本書。約300ページに渡って綴られる彼の生涯を述べ、現代の血縁者への取材内容までも語る構成はやや散漫気味な部分もありますが、彼が生きた時代の風景を添えて綴られる内容には、人物伝を越えて当時のドイツにおける学術的な背景や、ドイツ人を中心とした日本におけるお雇い外国人たちの生活の一端、彼ら同士の競合する姿も描き出す貴重な一冊。

ハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト)と共に、数少ないナウマンの友人として登場するエルヴィン・フォン・ベルツ。本書では宮内省の侍医として紹介されていますが、草津温泉を広く紹介した人物でもあり、当地には記念館も作られています(道の駅に併設)。草津温泉(草津白根山)もまた、ナウマンが調査に訪れ、危険を冒して噴火中の湯釜の温度を計ろうとした場所として、その詳細なスケッチと共に紹介されています。

ナウマンの記念展示室がある、糸魚川のフォッサマグナミュージアムで入手できる、生誕150年を記念して制作された、数少ないナウマンの略歴紹介とフォッサマグナ及び新潟の地質入門書「フォッサマグナってなんだろう」(内容は少し古いです、ニッセイ財団の助成事業)と、昨年に刊行されて以降、ブルーバックスとしては異例の増刷を重ねた事で注目を浴びた、最新の知見と現時点で最も信頼のおける内容で綴られる入門書「フォッサマグナ」(藤岡換太郎)。併せてご紹介しておきます。

今月の読本「戸籍が語る古代の家族」(今津勝紀 吉川弘文館)反故紙を捲り音で読み解く、家と女、遥かなる記憶の断片

今月の読本「戸籍が語る古代の家族」(今津勝紀 吉川弘文館)反故紙を捲り音で読み解く、家と女、遥かなる記憶の断片

最近色々と騒がしかった「公文書」に関する一連の話題。

後年の人々にとって記録が残る事の大切さとその内容に対する興味深さ、時に恐ろしさは、歴史が好きな方であればご理解されるところかと思いますが、偶然に残ってしまった記録から辿られる歴史もまた興味深い一面を持っています。

今回ご紹介するのは、その偶然残った極めて貴重な記録から、より深く議論を掘り下げて語られる一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊より「戸籍が語る古代の家族」(今津勝紀 吉川弘文館)です。

本書でメインに据えられる「戸籍」、著者はその制度や記録自体が古代の律令制以降、近代、実に明治に入るまで全国的な規模で整えられていない点をまず明示します。

巻末で「都市平安京の王朝政府」と述べられる、対外的な危機が遠ざかり、統一的な国内政策を行う必然性が薄れて地方行政が国司へと分権縮小化され、人身課税から土地課税へと転換した結果失われた「戸籍」をベースにした人身管理。明治以降に整備された戸籍法による人身管理まで大きく断絶するその制度の歴史的な空白を埋めてくれるものが、遥か過去に存在した戸籍、それも反故紙として偶然残された「裏紙」(コピーの裏紙も怖いのですが)に書かれた内容からの復元。

その保存過程から非常に断片的な内容(後年の整理で更に複雑化したとも)に留まる当時の戸籍、それでもこれまでの研究結果に基づき、他分野の成果も加える事で、当時日本列島に居住した人口を見出すことが(大まかにですが)可能となってきている事を示します。急激な人口減少に対して様々な警句が発せられる昨今ですが、歴史にご興味のある方ならご存知のように、明治初頭の人口は約3480万人と現在の人口の1/3程度に過ぎません。遡って近世初頭の人口はさらに減って1200~1800万人、著者の指摘する八世紀初頭の人口の推定はぐっと少なく僅かに450万人程度に過ぎないと指摘します。人口増加が年率1%を越えるのは漸く近代に入ってから、それ以前は0.1~0.2%という極めて低位な人口増加を示すに過ぎない点を、断片的に残った戸籍から見出す事が出来ることになります。

僅かな断片からでもその史料を繋ぎ合わせ、他に残された史料を突き合わせる事で復元されていく、古文献の検証による研究。著者は古代の戸籍が作られた事情とその形式から議論を始めますが、現在の戸籍の姿と大きく異なる点をまずは明確にします。当時の大陸との緊張した関係から生じた、兵力の確保と戦力の源となる生産力の正確な把握を目的とした極めて軍事的な色彩の濃い戸籍作成の経緯。そのため、記録される内容も兵士を供給できる単位としての「家」の姿を現している事を示します。古代の氏族制が徐々に形作られる中で編成された戸籍、家を構成する形にもその過程が色濃く反映されている事を示します。その結果、数値で復元された古代日本の姿は、典型的なピラミッド型年齢構成を取り、若年での婚姻と多産多死の傾向を明瞭に示す一方、残存する戸籍によって男女比が著しく異なるという奇妙な構成を示します。

残された戸籍の断片から見出す、現在の家族や親族とはかなり異なる様相を呈する「家」の姿。著者は其処に生きたであろう人々の姿をさらに掘り下げるために、戸籍に残された「家」姿からもう一歩踏み込んで、残された言葉の中にその核となる「男女」の姿を求めて踏み入っていきます。

兵站の基礎として整備された戸籍、徴税の元となる戸籍に残された成人男性を核に記録される家の姿。其処には妻と言う表現と共に付される女性と共に多くの妾、そして年齢がかみ合わない多数の子どもたちが存在する点を指摘します。多くは年長の男性に対して不釣り合いな若年の女性が複数含まれるという家の構成。経済力のある男性が複数の女性を妾として住まわせるという視点だけでは補正しきれない、明らかに連れ子と見做せる子どもの年齢。前述の婚姻傾向と高い出生率を添えてその主因を述べていきますが、著者は敢えてある問題について提起を行います。

現代に繋がる大きなテーマとなる「家」と「家族」という姿が、古代ではどのように構築されてきたのか。

近年まで続く家父長制が定着する前に、貴族の姿を綴る平安文学で語られる「通い婚」という形で男女が結ばれ、妻の住まいに夫が居住するという姿。貴族と言う限定的な範囲で残された記録から更に議論を発展させて「妻問婚」という生涯に渡っての通い婚という姿がそれ以前には存在していたのではないかと言う説に対して、その反証を試みます。

これまで述べてきた戸籍の内容を踏まえた上で、古代史を扱う者としては必須となる、万葉仮名(上代特殊仮名遣い)による音の読み分けを示した上で、これらの議論で着目される内容に対して改めて検証を加えていきます。本書の後半部分ほぼ全てを注ぎ込んで積極的に議論される、古代における男と女の関係から導き出されれる女性の一生、「家」が形作られる姿。その議論には当該する分野に強いご興味のある方にとっては看過できない論旨も含まれるかもしれませんが、著者はあくまでも古代史の研究家としての視点で、その姿の復元を述べていきます。

偶然の記録として残された断片から復元される、古代の「家」に示される姿。あくまでも断片である一方、最終章で語られる「改竄された戸籍」との対比から、明らかに当時の一側面を示す史料から述べられる内容は、これが全てであると言い切る訳にはいきませんが、現代的な家族と家というテーマにも一石を投じる内容。記録が残る事の大切さと、そこから何を読み解くのか、歴史研究者の方の視点を知る上で、興味深い一冊です。

同じく歴史文化ライブラリーより、本書と同じような経緯で残された史料、発掘される木簡から、その戸籍を綴る側の立場にあった官人、特に国造達の系譜に繋がる地方官人たちの姿を軸に、律令制、中央集権制という制度が日本に於いてどのようにローカライズされていたのかを再現する一冊「地方官人たちの古代史」併せてご紹介しておきます。

今月の読本「菅原道真」(滝川幸司 中公新書)文学者の視点で読む漢詩人、道真の揺れ動く想い

今月の読本「菅原道真」(滝川幸司 中公新書)文学者の視点で読む漢詩人、道真の揺れ動く想い

余りに有名な歴史上の人物を扱った評伝。本新書シリーズでこれまで取り上げられてこなかった事にむしろ驚くくらい、教科書はもとより、既に多くの一般向け書籍でも語られているその人物像ですが、少し立ち読みした際に切り口の特異性に非常に興味を持って読んでみた一冊。

今回は「菅原道真」(滝川幸司 中公新書)のご紹介です。

本書の著者である滝川幸司先生は平安文学の研究者。あとがきでも述べられているように、平安文化の象徴的存在でもある和歌が政治的な存在としてどのように当時の王朝国家に取りいれられたか、その経緯を研究されている方です。このように書いてしまうと、如何にもその発祥期を生きた道真の研究テーマに相応しい、和歌の研究者から見た、文学の神様として祀られるに至る彼の生涯を綴るように思えてしまいますが、本書に於いては敢えて道真をそのような位置付けに置く部分にまで議論を至らせない事を示します。

著者が専門分野である和歌を離れて、道真の研究として敢えて検討を加える必要を感じた事。それは、和歌が宮廷政治の中で重んじられる以前から貴族にとっては必須の素養であった「漢詩」として残された道真の言葉を辿る事。

遥か未来の戦前期まで続く、日本人のみならず、広く北東アジアの儒学文化圏で文人を標榜する人々にとっての基礎教養、コミュニケーションを取るための共通言語ともいえるその技能に於いて頂点を極めた大学者である道真が、日本人にもなじみの深い白居易の体を具えたと評された漢詩として残した歌と自注を読み込む事で、歴史学や通史で描かれる道真の姿に別の側面を与えていきます。

特に本書では、その華麗なる遍歴と悲惨な末路に対して大きく二分される傾向にある道真の評価について、これまでの認識を改めるべき点を明確に示した上で、双方極端な視点に偏り過ぎないように配慮を求めていきます。

まず、文章博士を歴代輩する俊英の誉れ高き菅家の跡継ぎと言うイメージに対して、彼が残した漢詩では、その試験勉強に苦しみ青息吐息で対策に及第、年齢的には若かったが秀逸と言う位置付けではなかったことを示します。そのような結果を強く意識していたのでしょうか、著者は道真が繰り返し起こる他者からの誹謗中傷に悩まされ、その状況を改善することを求める動きを取っていた事を見出します。その結果、当時の官僚制度の中で貴人と言われる五位以上の貴族の家系ではなく、より低い位階からステップを上がっていく事になる道真にとって、当時の貴族(官僚)一般の生き様から、昇進を果たす事自体は当然の目標と捉える一方、官僚としての評価にはかなり神経を尖らせ、早い昇進の裏返しとなる複数の官職を兼ねながら本職と弁える文章博士を並行して務める激務に精勤するも、かなりの苦痛であったこと示していきます。

そして、著者が極めて重視する点。道真が用いたとされる「詩臣」という言葉への強い自負心と、紀伝道と明経道という二つの科を経て官界に出た大学寮出身者達の本質的な考え方の違い。どうしても儒学として包括的に捉えてしまう事が多いのですが、著者はその違いを阿衡事件の際に交わされた議論を用いて明確化していきます。

紀伝道としてのスタンスを重んじる一方、当時の官界の情勢にも敏感で父の時代から藤原北家との関係を有する道真の揺れ動く態度。本職と任じる文章博士を務め、菅家廊下の門下を率いる学寮の雄としての姿は父親と同じ歩みである一方、文章博士を離れ、国司として心ならずも在地に下向している最中に起きた阿衡事件によって、大きなうねりの中に取り込まれていく事になります。

著者が指摘する「詩臣」という立場が、宮廷政治の中で政治的な意味合いを持つ「詩宴」へと組み込まれていく中で、菅家にとって破格の位階へと地位を上げていく道真。此処で著者は宇多天皇の藤原北家に対する牽制人事であるという見解に対してやや否定的な立場を採ります(大師としての極端な優遇に傾いた理由は是非ご一読で)。道真がまだ若く官界に出る以前から上表の代筆を頼むなど、父親の代から藤原北家にとって菅家、道真はむしろ協調すべき相手であったことを、醍醐天皇即位後に生じた納言達のサボタージュに共に対処した道真と時平を捉えて、旧来述べられてきた言説が誤っている事を指摘します。また、遣唐使派遣を道真が中止したとされる理解についても、道真が詠んだ漢詩の解釈を読み違えており、彼が醍醐天皇が即位する頃まで遣唐大使の職位を帯び続けていた点からも、その間も派遣を模索し続けていたのではないかと指摘します。

破格の優遇による職位と先の天皇の大師、新天皇の父師としての存在。では何故、大宰府へ流される事になってしまったのか。三善清行の書簡と彼の立場を指摘した上で、終盤でその引き金となった可能性を指摘しますが、著者が挙げる説とその後、大宰府幽閉時に綴られる、漢詩として残された道真の言葉、無実を信じつづけていたという想いとの微妙なずれは少々気になる所ではあります。

最後に紀長谷雄の言葉から引く「卿相の位に居た雖も、風月の遊を抛てなかった。」実際はその間で大きく揺れ動く想いを文学者の視点として漢詩の解釈から示しながら綴られる本書は、数多ある人物評の中でも興味深い指摘を伴いながら、一般人にとって歴史に触れるという事に対してより立体的な視野を与えてくれる一冊。

もしかしたら偉大な漢詩人、紀伝道を修めた文学者であった道真の姿に、同じく文学研究者である著者の研究への想いを少し重ねながら、その姿を描きこんでいるのかもしれません。