今月の読本「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)考古学と文献史学が明滅する先に道の社会学を想う随筆

今月の読本「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)考古学と文献史学が明滅する先に道の社会学を想う随筆

日本の中世史を扱った書籍では通史としての大きな歴史と言うべき政治的な動きや、武士や公家、僧侶と言った個人、武士団、寺社などの集団をテーマにした歴史を扱った本が大多数を占めるかと思いますが、近年、それらの境界領域ともいえるテーマを扱った書籍も一般書として徐々に出回るようになってきています。

史料的な限界のある中世史という時代区分において、この分野では最も成功しているのではないかと思われるテーマとして、近年の進展が著しい考古学を援用した街道やその道を使った人々の動きを軸に歴史的な展開を描いていく著作群がありますが、更に一歩進めて「道」自体をテーマにしたこの一冊。非常に興味深いテーマではありますが、少々難物な読み物でもありました。

今回ご紹介するのは、吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの最新刊より「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)です。

冒頭で提示される「かまくらかいどう」「あずまかいどう」という呼び名に対して、数多に溢れているこれらを呼称する古道達に対する著者の大きな疑念。それらを結び合わせても一筋の道が描けない事からも判りますように、後年の人々がある仮託を込めてそれらの名前で呼び習わし、現在に伝わった道筋たち。本書がこれらの道筋がどのように変遷したのかを辿りながらその道を作り使い続けた人々の姿を描いていく、考古学と文献史学をベースに歴史地理学と社会学が交差するテーマを深化させながら綴られる事を期待して読み進めていくと、ある意味大きな失望を受けることになります。

このように表現することは珍しいのですが、あとがきに書かれた著者の懸念と抱え続けるわだかまりがそのまま文中一杯に散りばめられてしまったかのような内容が展開する本文(著者より若輩ですが老婆心から述べさせていただくと、本書だけは「あとがき」は最後まで読まずに、とにかく本文を冒頭から追われる事を切に願う次第です)。

「大道」という名称の位置付けを語るかと思うと疫病と怨霊が渡る異界の扉としての道の話に飛ぶ。道の変遷を語り始めると近江の葛川から一気に現在の著者の研究フィールドである須川峠の山懐にある開拓地と領家を繋ぐ道の変遷の史料検討へ繋ぎ、更には学生時代に携わっていた鎌倉、犬懸坂、杉本寺の考古発掘調査の考察へと変転しながら東国の首都、鎌倉の盛衰を語る。鎌倉に話を飛ばすと、今度は大道や橋の維持に対して当時の公儀である幕府にその代行を買って出る事になる宗教者達、特に真言律宗の存在との共存関係から、重層的な支配関係の元にある当時の姿と政と聖の相互関係に思いを馳せる。

大道という言葉を頼りに、数頁から10数頁程度の小テーマが著者の思い至る範疇で書き連ねられ、これまでの検討や議論に対する著者の考察とも懸念とも取れる内容が随筆のように綴られていく本書。200ページを切る事もある歴史文化ライブラリーのシリーズとしてはやや過大とも思える全編294ページと言うボリュームで、これまでの研究者として歩んできた路傍に散らばり播かれた種を拾い集め愛おしく抱き抱えていく様な著者初の単著。散文的なその内容の要所には実に興味深い思索が含まれています。

「中世」の大道には古代王朝が生み出した大道とは異なる意味合いを考慮すべきであるという点。地形を穿つようなものではなく、多数の支配関係の間を縫うように繋がり、村と村、山村と市が立つような集落がある拠点の間を馬が通える道が通じれば、それは大道と呼ばれると指摘します。また中世の道の成立が交通の便宜、即ち軍旅であったり年貢や貢納の輸送の為に必要に応じて変遷していく点が古代の大道と大きく異なると指摘します。

その指摘の先に見出すのが、中央政権ではない鎌倉幕府の組織成立上の限界点。著者は為政者はその支配機構としてインフラ整備を行う者であり、それが当然であるという視点に大きな疑問を呈し、幕府として纏まった彼らが中央政権からスピンオフした軍事・警察機構に過ぎない点を忘れて、為政者としての過大な評価と期待を抱き過ぎて観ているのではないかと強い懸念を示します、その先に「鎌倉街道」を代表とした、当時の文献では使われる事のない単語を用い、我々を含めた後代の人々が中央に繋がるものへの憧れ、憧憬としての「大道」という幻想を抱いているのではないかと指摘します。ここで、鎌倉より北方の人々が抱く「中央感」と、より東国の中核に住む人々のそれが異なる点を「かまくらかいどう(鎌倉街道、かまくらみち)」「あずまかいどう」の呼び名の違いに見出す著者の視点は実に刺激的です。

更には、著者自身議論を控えているようですが、奥州の深部、奥大道の終着点で研究を続けられる方らしい視点ともいえる、当時の文物はいずれも京を交点に取り交わされるという如何にも一般的な視点を強く意識された見解が僅かながら語られます。近江の杣に当時の金額としても大きな十五貫文の銭を携えて木材を買い付けに美濃からやって来た地頭の下人の姿や、常滑焼の出土分布の向こうに、中央や鎌倉と地方と言う二元的な交流だけではない、物産を生み出す産地である地方と地方同士の交流史が見出せる素地があるのではないかという想いを滲ませていきます。

その上で著者が願う、考古学とも文献史学とも異なる、大道をテーマにした中世社会史と言う姿が描けるのか。研究者として既にベテランの域に達しつつある著者に、抱え込んだご自身の課題を解消された先に、一般書とはいえもう少しテーマを精査された一作も期待して。

同じ吉川弘文館の書籍の中には、前述の交流史を念頭に置いた多数の書籍が揃っています。頭の中に地図を思い浮かべながら、どのような人々が何を求めて行き交ったのか、現在の姿と重ねながら考えてみると、歴史を見る視点が更に広がるようです。

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今月の読本「平氏が語る源平争乱」(永井晋 吉川弘文館)地理院地図と脇役達で淡々と描く、敗れ往く者達で綴る平家物語

今月の読本「平氏が語る源平争乱」(永井晋 吉川弘文館)地理院地図と脇役達で淡々と描く、敗れ往く者達で綴る平家物語

日本史に関する書籍の新刊が大挙して本屋さんに並ぶようになったここ最近。特に研究者の方が執筆される、これまでの歴史著述や教科書に対して議論を提起し、明確な訂正を求めていく筆致で綴られる書籍が多く見受けられるようです。

比較的若い研究者の方々によるこれらの著作。好評を以て読者に迎えられているようですが、読み物としてはやや背景描写の広がりに乏しいと感じる事があるのもまた事実。今回ご紹介するのは、それらの著者より一世代前に研究者としての足跡を刻み始め、豊富な著作歴を有する研究者の方がある疑問に対しての答えとして書かれた一冊です。

昨年末に読んでいた、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリー、12月の最新刊より「平氏が語る源平争乱」(永井晋)のご紹介です。

著者の永井晋先生は、長らく金沢文庫及び神奈川県立歴史博物館で研究活動に従事されていた方。近年、地元の関東学院大学に籍を移されています。主に源平合戦から鎌倉初期の鎌倉、関東をベースにした研究で知られる著者は、前述のように一般向にも多数の著作を有される方。本書も2015年に刊行された前著「源頼政と木曽義仲」(中公新書)の内容(と、今回と同じ版元さんから刊行された「相模武士団」に寄稿された論考)を受けた続編を意識された事をプロローグで述べています。

前著ではチェスのコマを動かすようにと自らを評された、著者にとっては手慣れた源平合戦が今回もテーマ。しかしながら、本書では詰将棋的な著述に陥らないようにと、偶然性や不確実性を織り込む事も念頭に置いていると述べています。また、著述のベースには平家物語を置いていますが、敢えて著者にとっては専門分野である筈の吾妻鏡からの引用を極力排除し、逆に京における公家の記録、特に玉葉の記述を重視し、史実としての主たる補正に用いています。

その目的は本質的に平家視点で描かれる平家物語を捉えるためのアプローチ。戦いを主導したいずれの勢力も武力による全国統一、全国の武権の結集を目指していた訳ではなく、あくまでも源平並立が成らなかった過程の積み重ねが武権の確立に至ったに過ぎない事を明確に提示し続けます。源平合戦を武士の時代の幕開け、武士の伸張の画期として捉える史実から遡るイメージからの脱却を図るために用いられた手法には、前著に続いて去りゆく者の視点へ心情的に寄り添う著述が伴われていきます。

研究者の方が書かれる日本史の一般書著述としては例外的な、本文中に於いて殆ど他の研究からの引用を明示せず(鵯越の逆落としの部分では、驚くような文献から傍証を引いていますが)、要所で援用される多くの研究成果を咀嚼した形で著者特有の淡々としたペースで綴られていく、平家を軸にした頼朝挙兵から壇ノ浦までという時間軸で描かれる本文の描写。そこには前著同様に八条院人脈を一つの軸に置く一方、平家視点という著者の狙いを具現化する為に、小松殿、小川殿、池殿といった一族内部と宗主宗盛との意識、距離感の違いが、八条院、頼朝、後白河等のキャスティングボードを握る人々(庇護者、複数に仕える主人のひとりであり授権者)と彼らの距離感から生み出されている事を繰り返し述べていきます(本書における平家内部を描く著者の考察と描写を読んでいくと、演出よりなにより、この部分における文芸的に見立てた際の判りにくさこそが、大河ドラマ「平清盛」不評の原因ではなかったかと思えてきます)。

心象的な駆け引きを持ち出すことで、繋がりや教養を有する事が何よりも大切だという暗喩すら感じられる登場人物たちの描かれ方。その結果、本書では頼朝や後白河といった大立者は完全に脇に置かれる一方、名だたる東国武士たちを宥めながら、兵糧に苦労しつつも九州まで着実に戦線を伸ばしていく、兵法にも明るかったはずと見做す範頼や、宗盛から疑心の目で見られ続けた末に八条院を通じて救いの手が差し伸べられた頼盛を好意的な眼差しで採り上げていきます。その一方で、一族の連携に疑念を抱かせる采配を執り続けた平家の宗主である宗盛や、強行突破攻勢の繰り返しが手勢の損耗から軍団の破たんをきたしている事を顧みず、自らの勝利だけに突出した義経、武人の境地と雅の心を踏みにじる東国武士たちの無粋な動きに対して明確な嫌悪感を示していきます。

そして通史としての源平合戦の推移。軍制の変化や平氏と源氏の軍事指揮権と率いた軍勢の逃散、揺れ動きの違いといった大局的な推移の記述は既にこの時代の歴史に詳しい方であれば、新たな知見や旧来の見解を明白に否定するような著述はあまり見当たらないかと思います(争乱終結後の武家に対する訴訟激増の遠因など、提起される内容が散発的に挿入されてはいますが)。その代りに持ち出されるのが、その年の気候条件による兵糧の集散やふんだんに掲載された地理院地図を用いた合戦場所の地形的な検討。そこには戦略面を綴る一方で、戦術面でその選択を行った背景を当時の軍制や輜重体制に問い、戦闘に至る経緯へ必然性と偶然性の双方を添えていきます。

闘う覇気が最初からなかったという旧来から述べられる見解を継承しながら、その背後にある過程を軟弱化ではなく、公卿を輩する家柄となった事による家職相応の姿からの乖離と捉え、彼らに従った家人たちの仕え方が軍制と合戦の経緯を通じて変化した結果が次の時代を生み出したのだというニュアンスを多分に含みながら。その流れの中で、玉である安徳天皇と三種の神器を奉ってしまったが故に源平並立と言う姿に立ち戻れず、繰り返し勢力を盛り返し、強力に抗いつつも西海に沈みゆく平氏への哀愁を、研究者としての筆致とのぎりぎりの狭間で描く本書。

著者の心象や偶然性の扱い方にやや疑問を持たない訳ではありませんが、史料だけではなくその背景までも描写しようと心掛けた著者の筆致による平家物語を描く本書。

一部の平氏の名のある武将たちが都度に死に場所を求めたために、特に撤兵時に纏まりに欠けた戦闘を強いられ続けたと見做すような見解や、これまでであれば後白河の風見鶏的な振る舞いが指摘される部分が逆に頼朝と後白河の提携が一貫して当然として取り扱われる一方、義経の突出の背景に彼が範頼に強い敵愾心を持っていた事を前提として西国での戦線進捗の背景を描く点など。

プロローグとエピローグで丁寧に述べられる著者が描きたいと望んだ叙述や疑問と実際の筆致を比較しながら、考えながら読みたい一冊。歴史を背景を含めて描いていくという命題と、それを研究、史実として扱うという筆致のバランスを再び考えされられる著者の手による平家物語の先には、どんな歴史描写を見出されるでしょうか。

今月の読本「中世武士 畠山重忠」(清水亮 吉川弘文館)在地領主と御家人の狭間で二俣川の地に「武士の鏡」が生み出される時

今月の読本「中世武士 畠山重忠」(清水亮 吉川弘文館)在地領主と御家人の狭間で二俣川の地に「武士の鏡」が生み出される時

平安時代後半から徐々に浸透が始まり、その後明治維新まで長く長く続く、武士を支配層の中心に置く社会構造。

支配層となった彼ら武士達の多くが崇敬したのは、その体制を確立した源頼朝ですが、武士個人が自らの範として捉えらて来たのは、同じ時代を生きた畠山重忠ではないかと思います。

常に頼朝の先陣を務める誉を与えられる名誉に浴するだけの武勇を誇る一方、京の音曲にも通じた雅の心を併せ持つ東国無双の武人。その一方で謀反の疑いを掛けられても「名誉である」と受け応える傲慢さ、万騎が原の合戦による一族滅亡に仕掛けられた陰謀を知ってなお、嫌疑を晴らし矛を収める事を潔しとしない苛烈さと併せて、愚直で悲劇的なイメージすら有する人物かと思います。

同じ東国無双の勇者とされる熊谷直実と並び称される事もありますが、苗字の地たる熊谷を維持するのに汲々とせざるを得なかった直実に対して、畠山の地とは大きく離れた小山田氏が抑えていた武蔵の南限、終焉の地に当たる二俣川(鶴ヶ峰、万騎が原)もその勢力下に収めていたとされる、武蔵の国内で広大な領域に影響を及ぼす惣追捕使(惣検校職)という国衙の顕職を帯びる地域支配者としての重忠。宇治川渡河の一番乗りや一の谷合戦のイメージから、一人の武将として同列に語られる事も多い二人ですが、その姿や立ち位置は大きく異なるようです。

今回は、武士の鏡と称された伝説的な武人の英雄譚から少し距離を置いて、そのバックボーンから人物像を浮かび上がらせることを目指した一冊をご紹介します。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリーから、今月の新刊「中世武士 畠山重忠」(清水亮 吉川弘文館)です。

著者の清水亮先生は鎌倉幕府のお膝元、神奈川の出身で一貫して関東地方の大学で研究歴を積まれた方。現在は重忠の本拠があった菅谷館も近い、埼玉大学で教鞭を執られています。郷土史の委託研究をきっかけに重忠の研究に取り組むようになった著者。その中で、鎌倉幕府草創期前後で常に議論される「武家」の位置付けについて、下向井龍彦氏が従来から提唱する見解に基づいて、所謂軍事貴族の下向、土着化と言う姿は認めつつも、勲功を得て在地に根付いてから長い期間を経た先に築き上げた地盤を背景とした彼らを「在地領主」として再定義していきます。

近年活発な研究が続く、中世期の発掘成果や街道、交通に関する交流史の成果をふんだんに取り入れて描き出す源平争乱期前から鎌倉幕府草創期に掛けての東国一の大国、武蔵に割拠した在地領主たちと、その影響下に置かれた「党」を主体とした武士団。その中でも、軍事貴族としての村岡五郎良文の系譜を継ぐ秩父平氏の一群、その頭目格としての畠山氏の発展と一族の継承争いから、在地領主としての姿を描き出していきます。

重忠個人の伝記としてではなく、近年の研究成果を踏まえた浅間山大噴火以降に始まる東国の大再開発時代に、広大な関東平野に流れる河川と交通路の要衝に蟠踞して勃興する武蔵の武士勢力。その頭目争いの推移と在地の武士たちと共存関係にある、彼らの利権に便宜を与えつつ群がる京の貴族層、争いに介入した河内源氏一族の動きから、畠山家の成立(ここで畠山という荘園は存在しないが「庄司」を名乗る点にも注目)と頼朝挙兵前の重忠の立ち位置を確認していきます。

重忠同様に軍事貴族としての系譜を有し、国衙の顕職を名乗り相互にネットワークを張る東国の在地領主たち。川合康氏の提唱に基づき著者は彼らを「在地系豪族的武士団」と称し、その影響領域「軍事的テリトリー」に付随する党や武士団を取り纏める立場であると定義します。その姿は軍記で描かれるものとは異なり、自らが弓馬を駆り白刃を交わして軍功を挙げる立場ではなく、彼らを取り纏め率いる長であった事を認めていきます。

婚姻関係で結ばれる彼ら在地領主たち。此処で興味深い点として、著者は重忠が三浦義明の継子孫という記述は間違いであり、それは頼朝の挙兵より前に亡くなった彼の兄に当たり、重忠自身は一族の江戸重次の娘が母であると指摘します。源氏と深い繋がりがある三浦氏の血筋ではなく平家との関係を取り持つ立場として生まれた重忠。その後、父親の重能と共に京に出仕していた事が想定されており、平家との深い繋がり、所縁を持つ人物であったことを示唆します。

棟梁である父親の重能が不在の中、ぎりぎりのタイミングで四代相伝の君に伺候する事になった、軍事貴族の末裔で平家に仕える京仕込というプライドが嫌でも高くなりそうな、武蔵の在地でも筆頭格に位置する豪族の若君。新たな主君となった頼朝からは常に警戒の目で見られ続ける関係であったようです。

その結果、頼朝を中心として東国の武士たちを取り纏めていく体制の先に構築される鎌倉殿を核に置いた御家人制度萌芽の中で、重忠は微妙な立場に置かれ続けます。遥か後年の室町時代に鎌倉公方の鎌倉府が古河へ動座するまで続く、鎌倉を中心とした為政者に纏め上げられる周辺の武士(党、一揆、武士団)たちと、その外縁に位置した軍事貴族の血統を引き継ぐ在地の有力者(小山、足利、新田にしても同じ)との熾烈な駆け引きの端緒。著者は同じような立場に立った御家人たちとの比較を試みていますが、上総広常のように討滅されなかったのは、ひとえに京の文化に親しみ、音曲にも優れた才能を持っていた重忠個人の人物を頼朝が好んでいたのかもしれません(弓の技量は怪しいが軍の先頭を担うに相応しい風格の持ち主だったとも)。

高い権威と家柄を誇りながらも鎌倉殿の権力の中枢からは遠ざけられていた重忠。しかしながら頼朝の死によりそのバランスが崩れると、権力抗争に自ら足を踏み入れてしまったようです。著者によると領地や権益を守る事に自覚的になったとする、御家人に成り得なかった在地領主としての矜持が頭を擡げた先に突かれる事になる、北条時政による謀略から二俣川(鶴ヶ峰)の戦場での滅亡。

著者による重忠の人物評と併せて語られる、合戦の際に御家人たちが見せた重忠への立ち向かい方(此処でも三浦氏との確執の片鱗が浮かび上がります)。議論が分かれる北条義時の重忠への評価、更には歴史的な重忠の評価についても、この戦をピークとして、それまでに御家人たちが積み重ねてきた記憶が重なり合って、英雄譚としての重忠像を作り出したと認めていきます。重忠自身が抱く背景と、当時の知識階級の人々や御家人たちが彼に仮託した在地領主たる「武士」の生き様。その中から後代の武士たちが模範とした、家名と伝領する領地を誇り、武勇を貴び、礼儀と教養を兼ね備えた英雄としての姿が生み出された瞬間。更には英雄像としての重忠の伝承を強く意識し続けたのが、血縁に当たるあの島津家であったという著者の指摘も実に興味深いです。

表題にある重忠の物語は此処までですが、その栄光に生まれ変わった家名の行く末を伝える為でしょうか、本書ではその後に畠山の家名を継いだ源姓畠山氏、室町時代に三管領と称される家系に繋がる物語を最後に綴ります。

武士の鏡と称される人物像を周辺から描き込む一冊。ほんの少しロマンチシズムを漂わせる重忠本人の人物伝としてはもちろん、重忠、秩父平氏一門の動きから、武士の勃興から始まり、鎌倉幕府草創期前後までの東国、武蔵の状況と、鎌倉殿を軸にした御家人制度が生み出される過程を流れで捉える事が出来る好著。

流石は歴史専門出版社の吉川弘文館さんらしく、歴史文化ライブラリーだけでも関連書籍がこれだけ揃います(私が現在持っているのはこの10年程度で刊行された分だけですから、実際にはさらに多くの関連書籍がシリーズとして収蔵されています)。

巻末に豊富に掲載された参考文献をご覧頂ければ判りますように、掲載した書籍は相互に深い関連があるものばかり。色々と読み比べてみると、更に東国の歴史への興味が深まるのではないでしょうか。

<おまけ>

本サイトの何処かで書いていたと思いますが、私が長く暮らしていた場所は重忠終焉の地のすぐ近く。北条の大群と遭遇した場所とされている万騎が原が幼少時代の遊び場でした。当時、区役所が主催していた地元の歴史史跡や企業を探訪する企画に参加して重忠の旧跡を訪ね歩いたのが小学校四年生の頃。私が歴史好きになったきっかけは、実に畠山重忠の物語とその史跡にあります。地元の歴史に触れる事は、きっと歴史好きになる扉を開いてくれる。そんな想いを抱かせてくれた重忠の物語と、最新の研究成果で描かれるその背景を改めて噛み締めながら。

今月の読本「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)帯刀から廃刀まで、武装と虚栄の狭間を綴る近世史

今月の読本「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)帯刀から廃刀まで、武装と虚栄の狭間を綴る近世史

日本では銃刀類を所持する事は法律で厳しく規制されていますが、太平洋の向こう側、アメリカでは様々な議論や悲劇的な事件が繰り返されつつも決して全面規制には至らない理由に「所持する権利と自己防衛」という論点が繰り返し述べられている事は、よく知られていると思います。

時に野蛮なと捉えられるアメリカでの銃の所持。では日本では昔から武士以外は武器を持つ事も、それを使用する事もなかったなどという筈は無いかと思います。

何時の頃からか武装することを止めた日本人。今回ご紹介するのは、その変遷を近世史として俯瞰で教えてくれる一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリーより、7月の新刊から「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)です。

著者の経歴を見るとおやっと思ってしまいます。仏教系大学で学位を修められていますが、その専攻は近世の農村と百姓の研究。本書の表題だけに着目してしまうと、今年は多数の新刊が各社から刊行されている、幕末から明治維新期を扱った作品の一環とも見えますが、本書の過半は江戸開府以前から幕末までの記述で占められており、より広範な近世史として捉えられる一冊になっています。

200ページ前後が多い本シリーズの中では少しボリュームのある260ページオーバーの前後編に近い形で綴られる本書。明治維新を境にその内容は大きく変わりますが、著者が着目するテーマは一貫しています。刀を帯びる(=帯刀)という意味合いと、庶民は武装していたのかという二つの扱いが混乱している点を整理したうえで、近世史におけるその推移を追っていきます。

刀を帯びる事の事例を拾うに当たり、著者が選んだ場所は幕府の法令が明確に示される江戸と、旧来からの因習が江戸期に入っても強く残る京、そして都市部との比較としての農村と言う三つの舞台を比較していきますが、冒頭である通説に対する否定を述べていきます。

即ち、秀吉の刀狩によって民衆が刀の所持を放棄し、それによって兵農分離が進んだという教科書的な見方は極めて限定的であると明確に否定し、江戸幕府は刀を保持することを否定しておらず、旅行時や特に農村において刀を帯びる事は明治の廃刀令が出されるまで営々と続いていた事を明示します。その上で、武士以外の刀を携帯する様式を規制したのは、傾き者対策の一環として、都市部における町人と武家の識別を行う事(=帯刀、二本差し)から始まったと指摘します。市中の風俗対策として始まった制度、従って幕府としては町民や農民が刀を帯びる事を全く否定はしておらず、そのような意味では西部開拓時代同等、自力救済的な武装を容認していた事が判ります。但し、威圧的な形で刀を帯びる事自体が風紀を乱すと見做された経緯からも、その形態には様々な規制が掛けられ、アメリカの銃規制そのままに、長大な刀から脇差として寸法が狭められていく過程を、刀剣の形態や携帯する方法の変化から示していきます。

また、本書で極めて興味深いのが、前述のような経緯を更に補完する為に京における事例を添えていく点です。近世の特徴として為政者たちの支配領域の重複が数多ある中、支配する側としては相互の干渉を嫌う一方、その立ち位置故に双方に従属せざるを得なかった、旧来の支配家の差配による朝廷の行事や神事、仏事に携わる市中の町民(広義の地下官人)や郷士(土佐の郷士とは異なる、由緒のある農家)に対して、非常帯刀という、その職務に当たる時だけ帯刀を許すという、回避手段を設けた点を示しています。

武士とその他の人々を峻別し、それを苗字帯刀と言う形で示すようになったのは漸く元禄を越えた辺り、更には前述の人々や修験者など例外が数多くあった事を示し、此処に初めて武士だけではない、現代で云う公職に限りなく近い身分を示す「帯刀人」という、新たな階層が生まれた事を見出していきます。

前述のように、その規制が始まった段階から複雑な例外が設けられていた帯刀と帯刀する人々。幕府が安定してくると、早くもその例外を通じて帯刀を求め始める人が現れてきます。始めは前述の京における非常帯刀と同じ、元来町民身分でありながら幕府の役を務めていた家の当主が、規制によって生じた(差)を埋める事を求めて運動を始めます。町民と武士を識別する為に生み出された、見える形での差を示す帯刀。既に武器としての役割を果たさなくなった帯刀が生み出す、今度は視認による身分差、家格差、優越感。更には火事場、大工や水主等の現場作業における上下関係を威圧として示すため、標識としての帯刀が渇望されていく様子が描かれていきます。

田中丘隅の言葉を借りて、他者に対する優越感を生み出すその悪弊を指弾する意見に同意を示す著者は、これ以降に頻発される(田沼時代から増加するという見解に対して、そのように見做せると)褒賞や対価を伴う利権化した「名字帯刀」に対して苦々しい想いを隠さず、更には由緒を捻じ曲げてでも帯刀する格式を求める人々に対して否定的な想いを込めて、その推移を虚栄と弛緩と捉えて述べていきます。また、褒賞を受けて権利を得た町民たちだけでなく、武家奉公人としての職務を離れた者や神人、医師、鋳物師等の旧来の免許制度の延長に帯刀を求める人々が刀を帯びる姿から、江戸時代は武士だけが刀(=帯刀、二本差し)を帯びるというイメージとは大きく異なり、多くの町民や農民たち、更には女性であっても護身のためには当然として、普段は腰に帯びなくても仏事や神事ではいずれも威儀を正すために刀を差し、数多の武士以外の帯刀人も都度に合わせて帯刀をしていた事を示していきます。

自己防衛のための武器と言う位置付けから大きく離れて、威儀やステータスとして刀を持つ事は当たり前のように記される江戸期から、明治維新期に入るとその姿は大きく変わっていきます。所謂廃刀令をピークに段階的に規制される刀の所持。その意義を検討する中で、著者は興味深い視点を提示していきます。すなわち、明治新政府にとっての廃刀令の端緒は、幕末に弛緩した帯刀の権利を制限する過程で生まれたと見做していく点です。表面上は四民平等を謳いながらも、実質的には新たな官吏とそれまでの権利を保持する士族、その他の平民と言う3段の階層構造を持ち込む事で、旧来から続く、藩と幕府、武家と町民、更には公家や地下官人、神社寺院などの複雑に入り組む階層構造と、顕彰や一種の公職としての地位の清算を狙った政策。この政策の完成された姿としての、士族を含む官吏以外のすべての市民の武装を取り除く(所持までは否定されていない点に注意)事で、平等化したことを視覚的にも示す廃刀令。

ここで更に興味深い点が、刀を携帯するという、江戸時代にはステータスとされた権利を旧弊の象徴として意味づけを置換していく過程で、著者が福沢諭吉を持ち出す点です。曰く、「斬捨御免」と言う言葉自体、彼が生み出した造語であり、旧弊の象徴として、その武具である刀を保持する事への、幕末期の世情を踏まえた嫌悪感を醸成させたと見做していきます。加えて、官吏の洋装化が帯刀の不便さを助長させ、官吏側から常時帯刀の解除を求める請願が集まって来た点を捉えて、最終的には帯刀だけではなく刀(=武器)を保持する事自体に否定的な世情を生み出した上での廃刀令に至った点を当時の新聞記事などを援用しながら解説していきます。

戦国の混乱期から長く続いた全員武装状態から、現在まで続く自衛手段を含めて日常的に非武装となった日本人。その過程で生じた「帯刀」という名の、識別子がどのように変化していったのかを辿る本書。著者は刀狩りから続く偃武の完成が武装を放棄させたと見做す視点に明確な否定を示し、むしろ江戸時代を通じて遥か彼方に遠ざかっていた武装する意味合いを再び目の当たりにする事になった、白刃が斬り交わされた幕末維新期の不穏で殺伐とした状況への嫌悪感が、個人が武装するという中世末から連綿と続く状況の否定を容易に受け入れる素地となったと指摘します。

廃刀令によって生み出された物、それは近世と言う封建身分制最後の時代にその象徴として捉えられる感もある帯刀に重ねられた虚飾に対しての否定ではなく、その本質であった武装するという姿が否定された結果、初めて武器を持たない市民と言う現代の姿が生まれた事を示唆します。

歴史文化ライブラリーらしいテーマの中に、当時の識者の言に託して要所に著者の想いを織り込みながら。江戸期における為政者側の認識や視点がやや見え難い点がちょっと残念なところもありますが、興味深い著者の視点が豊富に盛り込まれた、余りに当たり前のようで実は充分に理解されていない歴史上のポイントとして、改めて考え直してみたくなる一冊です。

 

今月の読本「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)聖具から道具へ、 行政史が示す踏ませることの意味

今月の読本「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)聖具から道具へ、 行政史が示す踏ませることの意味

今年は長崎のキリスト教関連史跡が2度目の挑戦となる世界遺産登録を目前としている事もあり、各社から多数の関連書籍が刊行されています。

特に、歴史的な悲劇としての迫害と弾圧、奇跡と復興と言うイメージを強く印象付ける作品や、それらの視点の根底にあるカトリックとしてのキリスト教受容を問う内容に関する書籍は既に一部で採り上げられるようになってきましたが、その素地となる史学としての研究成果については、あまり言及されていないのが実情のようにも感じられます。

そのような中で、禁教期の象徴として捉えられる遺物に纏わるテーマを史学として正面から捉えようという一冊が登場しました。

今回ご紹介するのは、何時も新刊を楽しみにしている、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリー最新刊から、「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)をご紹介します。

本作の著者は熊本大学で教職に就かれている近世史の研究者、特に江戸時代の長崎を中心とした行政、法制史を専門とされている方です。従って、昨今多く刊行されている関連書籍の著者や登場される方々とは逆の立場、禁教を推進した側、当時の江戸幕府や長崎奉行、九州各地の藩や天領支配からみた禁教政策を描くことになります。

一時期、カトリック系の大学に籍を置かれていた事をあとがきに記されていますが、本書では中立的な著述を踏まえると敢えて述べており、心情的な筆致は最後に述べられる遠藤周作の『沈黙』が描く踏絵の姿を評する際に、僅かに添えられるに過ぎません。

長崎に生まれ、九州をフィールドとする近世史の研究者である著者が綴る「踏絵」のストーリー。冒頭では教科書記述の錯誤を正し、読者の歴史認識を整理する為に、ザビエルによるキリスト教の伝来から禁教に至る経緯から述べる本書。禁教期の幕府や各藩の政策やキリシタンの露見、そして開国後の禁教政策の段階を追った解除に至るまでの概要を示しますが、まずは多く流布しているこれらに関するお話や認識が、あまりにも誤謬と誤解に塗れている事に改めて気づかされます。前述のように総論の記述は高等学校の日本史教科書レベルの筈なのですが、江戸時代の禁教政策がどのような形で始まり、開国後も最終的には大日本帝国憲法の発布を待つまで(ほぼ)解除されなかったのかを、史学、特に法制史や外交史として再認識する必要がある事を指摘します。其処には、江戸幕府から明治新政府における文書行政による法秩序、対外的な施策を含む政策の継承性、一貫性と言う近世国家が作り上げていった規範の推移が、禁教政策を事例として示されていきます。

史学としての理解を前提とした上で述べられる各論。長崎奉行、代官の成立から職務範囲、その中で踏絵の発祥と成立から議論が始められますが、ここで判っているようで全く判っていなかった事実に突き当たります。踏絵が何処までの範囲でどのように実施されていたのか。本書の中核となる、九州各地における踏絵の実態に追っていきます。「絵踏」(「踏絵」と、この呼び方の検証は本書の冒頭にて議論されています)と呼ばれる行為自体が九州でも限られた地域、そして踏まれた遺物の分布をみても、長崎奉行と九州の極僅かな藩が所有する以外には会津に存在したことが判っているだけで、極めて限られた地域での実施であった事を示します。また、各地で鋳造や絵で描かれた踏絵が作られたとされていますが、その殆どが明治以降のキリシタンブームによって捏造、模造された物であると指摘します。現在東京国立博物館に収蔵されている、長崎県令から明治政府の教部省を経て、最終的には時の太政大臣、三条実美の決裁により国が管理する事になったこれらの踏絵や江戸時代に長崎奉行が管理していたキリスト教関連遺物。外交問題としても捉えられるほどに重要な物品として取り扱われる踏絵の管理は幕末まで厳重を極め、その管理や連年繰り返される各藩への貸与自体が、九州における幕府、特に出先機関である長崎奉行の権威と統制を示す行為の一環であったことを認めます。

そして、絵踏みを行う行為について、著者は行政史の専門家としてその実態を各地の記録から丹念に拾い上げていきます。その中で著者が繰り返し述べていく事、「踏絵」という行為の変質。本来はカクレキリシタンをしらみつぶしに探し出すために、メダイやプラケット、宗教画をモチーフにした「聖具」を踏ませることによる、信仰心を突き、宗教的良心の圧迫と背徳感をもたらせるための異端探索であった絵踏みが、寺請制度と組み合わされた、人別帳確認としての行政行為の一環、制度が守られている事を確認する作業を遂行するための「道具」へと、長崎奉行所が主導して造られた、現在残されている鋳造品の踏絵を用い始めた時点で変質していったと指摘します。

為政者によってコピーされ、聖具としての魂の込められていない「道具」としての踏絵。それでも、連年九州各地(ここで薩摩や福岡、佐賀といった大藩や薩摩の属領を含む日向では行われていなかった点にも注目)、後に天領となった五箇荘にまで長崎代官所の役人を送り込んで行われる絵踏み。その行為は、前述のように長崎奉行所を軸に九州各地の藩や天領における住民に対する支配体制や法令順守の再確認の場であったことを示していきます。その結果、人別確認的な指向の強い非常に厳密に行われていた制度自体が、江戸後期になると藩によっては名誉的な名字帯刀を与えるのと同じような形で免除を与えたり、絵を踏む側の住民達にとっても、大勢が集まり、並んで絵踏みを待つ人を目当てにした屋台などが並ぶ「ハレの場」へと変容を遂げていた事を記録から認めていきます。

では、踏絵の本質であったキリシタンの詮索という目的が失われてしまったのか。此処で、著者は思いがけない見解を示します。禁教が続いてからも断続的に発覚した「崩れ」と呼ばれる潜伏キリシタン(この表現にしておきます)の発覚。しかしながら、江戸後期に至ると、発覚者自体を「キリシタン」とは認めず、別の理由を付けた処置を行う事になります。法制史が専門の著者の見解が存分に示される部分。天草崩れや浦上三番崩れ処置の過程から、為政者にとって「踏絵」を行っている以上、キリシタンは存在しないものという行政にとっての一貫性に対する誤謬を認める事は出来ず、類似した行為が発覚したとしても、それを「キリシタン」であると証明する手段が踏絵以外に存在しなければ、「キリシタン」ではない別の異端者である(この辺りは江戸時代の本山制度の理解も。処罰の対象は檀家寺側に)と定義づけられることになります。

隠れでもカクレでもない、もちろん(潜伏)でもない。そもそも「幕府が公認する」キリシタンではない。踏絵を踏み続け、先祖伝来の「異宗」を守り唱え続けた「心得違い」の者たち。

更には、天草崩れ発覚の経緯から、これらの前提がむしろ支配体制の弛緩をカクレキリシタン探索として幕府に暗示された先に発覚(島原藩が自ら長崎奉行に届け出る形に)した可能性すら匂わせていきます。本書でも述べられるように、余りの発覚者の多さに地域社会が崩壊することを懸念した長崎奉行を始めとした幕閣が敢えてカクレキリシタンとしての認定を回避したとも謂われる、江戸後期に起こった一連の崩れの処分(一方で、浦上四番崩れは自ら教会に駆け込みキリシタンであることを明確にしており、開国後の対外的な禁教維持の姿勢を示す必要性からも処罰に至ったと)。穿った見方をすれば、この本質の変容が、カクレキリシタンをしてカトリックとしての信仰継承性を有しないという一部にある論に対する、近世史からの暗喩にも思えてきます

その延長として、一部で喧伝される「出島のオランダ人も毎年踏絵を行った」という記述に対しても、その後のペリーによる回顧通り、唐人屋敷に集住する清から往来した貿易従事者達や漂流者(帰還した日本人を含む)と異なり、オランダ人には外交上の配慮から踏絵を課される事が無かったと改めて指摘します。

内政だけではなく、貿易や外交なども包括する時の政府(幕府)としての政策の一環であった、九州地方における絵踏という行為と、その継続性を示す道具である「踏絵」。

幕府のお膝元から遠く離れた地における支配体制の強化の一環とも捉えられるその制度の本質が変化していく過程を、行政としての「絵踏」から捉えた本作。表題にある「キリシタン」の部分は巻末の僅かな記述に留められていますが、その道具に秘められた歴史的な位置づけを史学として冷静に捉える。歴史と文化、其処に残された文物を学問的背景に基づいて綴る事をテーマにした本シリーズらしい一冊。

折角の機会ですので、豊富になってきたこれらのテーマを扱った書籍を手に取って、色々と読み比べてみるのも面白いかもしれませんね。

 

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

年末年始のシーズン。

慌ただしい時間が流れる一方で、日常の喧騒を離れて、じっくりと何かに取り組める時間が巡って来る貴重な日々でもあります。

バタバタと年末の後始末を終えて、ほっと一息つきながら読んでいた一冊からご紹介です。

今月の読本、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーから12月の新刊「渤海国とは何か」(古畑徹)をご紹介します。

まず、この渤海国という名称にどのような印象をお持ちになるでしょうか。ユーラシアの東端に忽然と現れて消滅した幻の王国、もしくは当時の古代王朝、王朝国家との交流史を有する、中華帝国、半島諸国とは異なる、第三の国というイメージでしょうか。近世、近代史にご興味のある方にとっては、後の清朝の揺籃たる女真が勃興した故地、更にはその後の満州へイメージを抱かれるかもしれません。

本書はこれらの日本人が抱くイメージが、実際には戦後の教育、歴史研究環境が生み出したものであり、渤海、更には北東アジアの地域史としての一側面しか捉えていない点への懸念を込めて綴られています。

学生時代からはじまり、40年の経歴を有する北東アジア史を専門とする著者は、それらのイメージがある時点を契機に生み出されたと指摘します。戦前日本の大陸侵攻と軌を一として生まれた「東洋学」が生み出した落とし子。敗戦によって一度は散逸した研究成果は、その後の日本に於いて、更にはかの地に於いて再構築される過程で、自らのイメージに合わせた歴史著述の一ページとして利用されてしまっているとの大きな懸念を抱いていきます。

「東洋学の挫折」という刺激的な表現を用いて、その経緯を綴る著者が本書で描こうとする内容、それは海東の盛国と称された謎の国、渤海をその後の歴史研究における位置づけの争奪から擁護せんと願い綴る、汎北東アジアの視点を掲げた検討過程から輪郭を示す事。

従って、題名に示される様な渤海の歴史のについての詳述を本書に求められる方には、少々残念な想いをされるかもしれません。前半は渤海の勃興から滅亡までの概略が時間軸を追って綴られていますが、著者がここに述べるほどにしかと感嘆されるように、そもそも渤海に関する文献資料は極めて限られています。その中でも彼ら自身が残した文献は僅少であり、殆どが周辺の国々の記録に語られるに過ぎません。

そこで、著者は逆にその周辺の国々の記録に残された点から、彼らがどのような位置にあったのかを見出していこうとしていきます。渤海国の概要をお知りになりたい方であれば、確かにwikiでも充分かもしれませんが、本書の魅力は後半で述べられる、その位置付けを北東アジアの中から浮かび上がらせるアプローチにあります。

日本の歴史教育で渤海を扱う時に語られる、唐を模した、ないしは日本の律令制や王都を参考にしたともされる律令や兵制、都の構造について、確かにその影響を強く受けている点を指摘する一方、唐における外藩と内属国の扱いと王に与える称号の違いから、契丹や遼などの北方騎馬系民族として包括される扱いとは異なる、比較的内属国に近い位置付けを与えられていた事を見出します。更には、彼らが独自の文字を持たず、漢字を用いた点からも、実質的には中華帝国の冊封体制に準じる(年号は独自のため)位置にある、北方騎馬系民族に対する東方からの牽制勢力の一翼を担っていたとの位置付けを見出していきます。

その一方で、遥かに三国志「東夷伝」まで遡り、伝統的に北狄と称されたその土地は、東夷と称された半島、そして倭の諸国とは決定的に認識が異なっていたと指摘します。この事実は、冊封を奉じた半島の諸国や高句麗、その後に統一を果たした新羅の勢力が及んだ範囲と、交錯する渤海とでは異なる民族的アイデンティティ、むしろ更に北方に存在した黒水靺鞨との類似性を示唆します。

中華帝国の一翼を担う一方で、更に北方の遊牧民側(但し、渤海が勢力を伸張させた時代は現在より温暖な気候であったとみられています)の立場に近い極めて微妙な渤海の位置付け。著者はその位置付けを雄弁に物語る手掛かりとしての、彼らが残した交易の跡を追い求めます。

東北地方に集中的に残る、7世紀の遺跡から発掘される錫製品。北方の地で育まれる体格の優れた馬、そして渤海と一時的に対立した唐の前線基地である節度使が、「熟銅」の交易だけは禁止しないように中央に対して請願を出していたという点を見出し、当時の唐王朝にとっても、渤海が重要な銅の産地であった事を指摘します。

北方の優れた産物を集散させる諸民族。更には、彼らが渤海使として日本に訪れた際に引き連れたとされる首領たちもその実は商客であるとの当時の認識も添えて、彼らの求心力が商業的なもの、交易による利を供せられるかによって支配体制が左右されるとの認識を提示ます。中でも本書では、他の研究者の指摘を引用して、その本質として、狩猟、漁撈民はその生産物の農耕民との交換の必要性から、一般的に交易民であるという、核心を突く一説を提示します。ユーラシア東方における政治的な求心力を農業的な集散と見るか交易による利益と見るかで分かれるという根源的な認識。一方で、同じ北方遊牧民族でも、独自の文字を持つなどアイデンティティの明確化を見せていた契丹は、後に燕雲十六州を得る事で、自らを中華帝国の一部へと転換させたと指摘します。

後に清朝を生み出すことによって、中華帝国としてのアイデンティティの一部として埋没していた「満州」を再発見した、戦前の東洋史が残した足跡を辿りながら、渤海をテーマに北東ユーラシアにおける位置付けの再構築過程を示す本書。複雑な歴史の推移同様に、複合的な内容が、それこそテーマを縦横に展開されるために、一度読んだ程度では容易に全容を把握できる内容ではありません(門外漢なので更に)。

この本を手掛かりに、巻末に掲載する関連書籍を跋渉しながらも、もう少し読み込んでみたい、歴史著述、理解の奥深さへと誘うような一冊です。

なお、著者は非常に寡作な方で、提示される参考文献を含めて、主著と見做せる一般書籍が見当たりません。中華帝国たる隋、唐自体また北方遊牧民族が発祥であるという視点は、契丹、奚の扱いを含めて、講談社学術文庫から現在刊行が続いているシリーズの一冊、「興亡の世界史 シルクロードと唐帝国』(森安孝夫)を、本文中で繰り返し引用されています。

今月の読本「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)シーカヤックを漕ぐ古代ラピタ人研究者がGISから描く、ラグーンから始まる古代史

今月の読本「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)シーカヤックを漕ぐ古代ラピタ人研究者がGISから描く、ラグーンから始まる古代史

近年積極的なコラボレーションが行われる、歴史研究における人文系と情報技術系分野。

でも、その成果を喧伝されたり、積極的に発信されるのは、どちらかというとサプライヤーサイドとなる情報技術系の皆様で、実際にそれらを成果として活用されている人文系の皆様のレスポンスは、利用させてもらっています、もしくはこんな事も出来るんですねと言った、ある意味、受け身な反応の方が多いような気がします(すみません、私自身が技術系の人間なので余計に)。

そんな中で、人文系の研究者の方が、自ら積極的にこれらのツールを使用されている事を全面に掲げて執筆された一冊が上梓されました。

今回は、何時も新刊を心待ちにしている吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーより、10月の最新刊「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)をご紹介します。

冒頭に述べましたように、本書では地形的な検証過程に於いて、著名な地図、地形表示ソフト(GISの一種と称しても誤解は無いでしょう)であるカシミール3D®を全面的に利用し、著者自身が現地に赴いた際の写真と、考古学的な知見を重ね合わせる事で、より実体感のある著述を行おうという意図が全編で貫かれています。

このような著述を可能とする所以は、著者の現職(無形文化財の音声映像記録研究室長)からある程度理解できます。考古学者としては少し異色な、デジタルを含むメディアによる文化財の記録と保存を専門とされる研究者。それ故に、これらのツールを利用することに対する敷居の低さが当初よりあったようです。

そして、元々は南太平洋の失われた民族であるラピタ人の研究という、日本の考古学者としては異色で極めて貴重なキャリアを有し、広くアジア圏で考古学に関する活動に携われた上で、その後に共同研究として参加した、日本の考古学についての成果を、補足すべき雑感を纏めて一書を著したという点。

日本の考古学者としては極めて特徴あるキャリアを有する著者は、更に前述の研究テーマを直接体現するかのように、シーカヤックによる海からのアプローチにも長じており、それら全てを包括する著者ならではの独創的な視点が本書には溢れています。

日本の考古学、歴史研究において常に核心として扱われる、稲作農耕と、大陸、半島との関わり。その反動ともいうべき南方からの伝播や北方への移転といった議論を超越して、古代ポリネシアの人々同様に、そもそも人は目の前に海があれば、その海原を渡り、行き交うものという、極めてシンプルな立ち位置で議論を進めていきます。その想いは、著者がミクロネシアで伝統的な航海術を継承する方に高松塚古墳の天文図を紹介したときの、彼の感慨へと繋がっていきます。

そして、著者の着目する海からの視点、そこには現代と異なる、丸木舟の延長であるカヌー(カノーと軽野の語源についての極めて興味深い一文も)のような、構造船が登場する前の段階とその後で、船底構造と喫水線の違いから、現在の港湾として良港と見做される、水深があり、深く切り込んだリアスや湾ではなく、ラグーンと呼ばれる、葦等の植物が生い茂り、水深が浅い、遠浅の入り江、遡上する川縁こそが彼らの舫う場所であったと考えていきます。

瀬戸内海(この名称自体、明治維新時に欧米人に説明する為に用いられた用語であるという意外な紹介も。それ以前は「灘」と「瀬戸」が繰り返し現れる場所)及び、丹後、若狭地方における、古墳時代における集落遺跡の分布と古墳の位置関係を地図上に落とし込むと、交錯はあるものの、時代を経るに従って、その分布がラグーンから水深のある湾へと遷っていったことを見出していきます。そして、現在では内陸に存在するように見える巨大古墳の配置が、実はラグーンの畔、海側から望める格好の場所に位置している事をカシミールの図上で示していきます。

まるで、その姿を航行する人々に見せ付けるために海岸に添うように配置された巨大古墳とその葺石(ここでカヤックから陸上への視点と地球の円弧の影響という、操船経験のある方なら実感の解説も)。著者は、その配置の変化や船底構造の変化を併せて考える事で、当地における社会構造の変化、居住する人々の交流する対象に変化があったのではないかと想定していきます。そして、ラグーンを拠点に発展していった氏族の中に、後の内膳司となる御食国としての、膳氏と安曇氏という古代の「食と猟」を司った氏族の動きを重ねていきます。

ラグーンから望む海で繋がる人々。著者の視点は、その海流に乗って、更に西へと進んでいきます。遣唐使、新羅使が航海した瀬戸と灘。現在の動力船でも充分影響を受ける、急激な潮流変化が絶えず繰り返す瀬戸内の海を航海する為に各地に設けられた泊の変遷を訪ねながら、鞆の浦から厳島と音戸の瀬戸の謎を追い、周防灘を渡るルートを探り、宇佐、宗像の神々と、何故海神、そして八幡社がいずれも三女神(三柱)なのかを波間に問いながら、玄界灘を世界遺産の地、沖ノ島へと渡っていきます。

ここで、東南アジアの考古学に精通する著者は、此処まで辿ってきた海路沿いのラグーンに残された遺跡の発掘物に見出される、東南アジアで作られたであろうガラス器を示しながら、海のシルクロードへの想いを馳せていきます。列島の中に閉じ込められたかのような、あるいは一方通行的な、僅かな窓口を介したように綴られる歴史展開に対して、はっきりとそうではない、遥か先史時代からこの列島は広大な海の世界に脈々と繋がっていたのだと述べていきます。

その想いを抱きながら綴る後半。瀬戸内海を中心に纏まって描かれた前半から大きく飛躍して、その道筋は、海の都である難波宮と陸の都とのダブル、マルチメトロポリス論を挟んで、伊豆半島、北海道、そして先島諸島へと続いていきます。著者の専攻であったポリネシアとの繋がりすら想定させる、伊豆半島の南端に点在する入り江とラグーンを拠点にした古代の賀茂氏と弓ヶ浜、源平合戦期の伊東氏の交易拠点だった河津を梃に望む、伊豆七島、小笠原、その先まで続く大海原の道筋。まだ手つかずのままに発掘される時を待つ、広大なラグーンに存在した幻の街と其処に集ったアイヌの人々は、北方アジアと海を通じて繋がり合い、今は廃村となって船でしか訪れる事が出来ない西表島の網取に残る最後の風俗から、遥か南方の人々が行き交ったであろうとの想い描く。

地上における推移と発掘成果、記録を残した側の視点で描かれる、ややもすれば二元的、対峙的な歴史の叙述に対して、全く別次元で列島の人々同士が、更には世界へと繋がっていた事を海の視点を踏まえて捉えようとする著者。

その視点を描き込み、歴史の交点となるその場所を探り出すために、著者はラグーンと湊の跡を求めて、海ではシーカヤックを漕ぎ失われた姿を想像し、丘に上がってはGISを積極的に活用してその実像を示そうとしていきます。

歴史文化ライブラリーに相応しい、新しいアプローチに満ちた考古学の可能性を示してくれる本書。著者が述べるように、GISによって見出される古代のラグーンだった場所には、まだ手つかずの遺跡が多く眠っている筈。それらが見いだされた時、我々の知っている「陸上」の考古学とは全く異なる姿を見せてくれるかもしれません。

こちらに載せています歴史文化ライブラリー既刊の数々。意外かもしれませんが、全てが本書の内容と直接、間接的に繋がっているのです。

繋がる歴史の面白さを是非皆様にも。