今月の読本「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)大陸と辺境の格差と制約を人文地理学で積み上げる島嶼学へ

今月の読本「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)大陸と辺境の格差と制約を人文地理学で積み上げる島嶼学へ

大きな本屋さんにぶらりと立ち寄った時、頭の中に常に入れてある数十冊程の読んでみたいと思っていた本を偶然書棚で見かけてしまうと、果たして買ってよいものか少しばかり緊張が走ります。大抵普段は手に取る事が出来ないハードカバーの本、お値段よりも読書時間のやりくりをこの一冊の為に割けるのかと悩み込む事、暫しとなります。

今回もそんな葛藤の中で手に取った一冊。予想通り読みこなすには相応の時間を要する結果となりましたが、テーマである人文地理学と言う世界にほんの少し触れられたように感じた本になりました。

今回ご紹介するのは「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)です。

大学の出版事業で刊行するこの本、現在では島嶼学という区分を用いられる人文地理学の一分野を開拓されたイギリスの地理学者の方が書かれた概説書にして、決定版と評される一冊。内容的にもお値段的にも決して一般向けとは言えない本ですが、その分、表題のテーマについて濃厚に述べられていきます。

著者自身が住まわれている場所自体が「島」であるイギリス。世界の海を制覇した大英帝国の残滓が残り、未だ海外領土(植民地とは言わない)としての島々を多数有していますが、著者自身もそれらの離島を含めて世界中の島嶼、孤島を巡られた(あとがきによると2016年時点で864島)先に綴られた本書。

表紙の写真からトロピカルな南洋の島々のお話が中心かと思われますが、前述のように著者は世界中の離島を廻った方、更には解説文にあるように、数々の離島を擁する北アイルランドで教鞭を執るようになってからこれらのテーマに打ち込むようになった経緯からも判りますように、如何にもと言った南洋の島々の姿だけを描く事を良しとしていません。

人文地理学という言葉の通り、本書では歴史的な推移を踏まえた膨大な知識と経験の蓄積の上に描かれる離島の姿をテーマごとに重層的に積み重ねることで、現在では「島嶼学」と呼称されるようになった、その特異な地勢の輪郭像を定義して描き上げていきます。

結論だけ述べてしまえば、読まれる方が凡そ把握されているように、モノカルチャーである一方、少数の人員で生活に必要なあらゆる要務を担う必要から、行政や事業体を含めて複数の職種に就く事が当たり前となる経済的な自立性と多様性の低さ。輸送面の不利を含めてあらゆる面で高コストな社会基盤構造。競争的な側面が生まれにくい事からその地に生きる人々は常に著者の言う「大陸」からの波濤に対して余りにも脆弱で、一度その波に呑まれてしまい、経済活動の影響下に置かれると、途端に政治的にも脆弱な立場に立たされることを地域性、経済性、そして地政学的な観点から繰り返し指摘します。

世界的な経済活動の中では存在自体が埋没してしまうこれらの離島。特に著者が居住するイギリスの場合、周辺には特異な自治制度を持つ島々や、中米、南洋、更には大西洋の果てまでに海外領土を有しているため、これらの島々の事例を積み重ねてくことで、それぞれの島が自立した経済活動を維持する事が極めて困難であることを示していきます。

もちろん、その中にあるオフショア金融で繁栄する島や低廉な人件費を武器に進出するテレワークといった現代の情報通信の発展がもたらした新たな産業へのアプローチ、比較的恵まれた条件下で教育を始めとする社会基盤からの再構築を目指す、プリンスエドワード島(赤毛のアンですね)の例も示されますが、成立や収益の基盤を「大陸」の経済活動とその競争の中に委ねている点では変わらないと指摘します。

一方で、この書籍にご興味を持たれる方であれば、必ず着目されるであろうクルーズを含めた観光やエコツーリズムに対しても、島の乏しいインフラ基盤(水源、電力、乏しい可住面積自体)を枯渇させ、彼らが望む物品はまた島外から持ち込まれる事を指摘した上で、興業化された「伝統」からの収益を目指さなければならなくなる、経済性に埋没していく事に対して、平穏な暮らしを求める島民たちとの軋轢へのバランスのとり方の難しさも、実際のツアーの姿を示しながら指摘されます。

また、本書はあくまでも「島嶼」をテーマとして多面的な側面をからその姿を描く事を目的としているため、離島自体が抱える経済的、物質的な課題を解決する方策が述べられる訳ではありません。しかしながら、その分析手法を実践として示すために終章に於いて著者が用意した「島嶼学」の検討テーマが、大西洋の絶海の孤島たちである英国海外領土の三つの島。

余りにも有名(この表現、特定の方にと但し書きが必要でしょうか)な、トリスタンダクーニャは成立の過程から居住者の特異な病歴と言った島嶼の孤立性の典型例として本文中で語られますが、検討のメインに据えられるのは、以前はその主島としての役割も果たしていた、セントヘレナ。

昨年2月に最後の郵便船と称されたRMS St Helenaが遂に退役、直後に待望著しかった空港が開設されましたが、本書はそれ以前のケープタウンからの船便か空軍による空路があるアセンション島経由でしか辿り着けない絶海の孤島の姿から、島の自律性と本国との関係を分析する事例として検討を加えていきます。

本国からも遠く離れ、特産となる物産も途絶え(以前は亜麻のモノカルチャーと言う点も離島的だと)経済的な自立も立ち行かない島に対して、著者が指摘する重要な「資産」、それはナポレオン終焉の地であるという歴史的な事実、そして当時の姿を依然として色濃く残すタイムスリップしたかのような街並み。

離島にとって最も大切なもの、それは大陸との経済競争の中を生き抜く先鋭化したプランテーションのような単品種産業でも、隔絶性がもたらす孤独と悲惨さでもない。もちろん国際法の抜け穴を利用したり、大国の意向を呈する事で資金援助を掻き集め続けるという依存でもない。その地に根付いた歴史的な背景の蓄積を如何に大切にアピールしていくかと言う点であると述べていきます。

離島と言う極限の辺境がもたらす姿を人文地理学と言う視点で描き出す本書。実は本文中に繰り返し指摘されるある点に於いて、離島に限らず極めて普遍的な事が述べられている事が判ります。それは、大陸と離島の関係を述べる際に語られる「中央と辺縁」という視点。

経済的にも文化的にも大陸と言う中央から離島と言う辺縁へ傾斜的に波及するものであり、それはたとえ島嶼群であっても主島と属島の間では深刻な格差が生じる点からも厳然たる事実であると指摘されます。その中で、第二次大戦で敗北する以前の日本は唯一例外的に自分たちの範疇で自律的に取り仕切る事が出来たと指摘する、同じ島国であっても大陸との切り離せない関係の中で歴史を刻んできた地に住む著者。

その指摘は地方に在住する私にとっても直視せざるを得ない内容を含んでいます。離島と言う極限の例を用いて、自立した地方などと言う存在は無いことを冷徹に指摘する著者(かのトリスタンダクーニャにしても、経済的自立の根底には日本を含むロブスターの輸出がある点は否定できません)。その上で、地方にとって本当に必要なものは何か(著者は人口と教育であるという、現在の日本が抱える問題と同じ点を明快に指摘します)を考えるきっかけを与えてくれる一冊です。

 

広告
今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

昨年は宗教改革500年と言う事で、日本でもルターを始め中世キリスト教に関する多くの書籍が刊行されています。

日本人にとってはどうしても馴染みの薄いキリスト教世界とその歴史。今回ご紹介するのは、長くその研究を続けられ、日本にその姿を紹介され続けてきた研究者の方による一冊です。今回は「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)をご紹介します。

本作は、同じ著者の方による執筆で2014年から刊行が続けられている「ヨーロッパ」シリーズの最新作(次回作もあるらしいです)。これまでに以下の3冊が刊行されています。

今回の一冊も副題に[大航海時代のイエズス会と托鉢修道会]という副題が添えられており、シリーズに一貫した著者の専門分野である中世修道院の世界を軸に描いていくように見えますが、内容は少し異なります。

研究テーマ故かと思いますが、カトリックに対して強い思い入れがある事が明瞭に判る著者の筆致。しかしながら本書の前半はその教会を永遠に分かつことになってしまった、ルターからカルヴァン、そして英国国教会に至る宗教改革の推移を歴代の教皇や世俗の君主たちの動きと対比しながら綴る事に注力していきます。

此処で著者が指摘する点が、所謂贖宥状に対する義憤的な表現がなされる宗教改革の発端について、それ以上に各地の司教職を兼任し、その収益である膨大な聖職禄を運用する聖職者たちが金銭行為に携わる事の憤りと、兼職により教会で満足な礼拝も行われなくなったことによる、信仰心の希薄化と教会の本義である、信徒に対する霊的な救済がおざなりにされていく憂いである事を指摘します。

修道院の研究者である著者が明確に指摘するように、ルター自身も自省的な修道的生活に明け暮れた先で聖書に立ち返る事を見出した事は良く知られており、決して新たな宗派を求めていた訳ではない筈でした。しかしながら前述の聖職者たちの姿とモザイク模様であった神聖ローマ帝国、教皇権力との駆け引きの先に、本人の意思を越えて、その改革が広がっていく姿を、当時のヨーロッパ世界の複雑な政治状況を含めて丁寧に書き起こしていきます。

外から見るとキリスト教内部の世俗を巻き込んだ主導権争いにも見える一連の宗教改革の推移。しかしながらカトリックの視点で描いていく著者はもう一つの見方を示していきます。宗教改革によって進取の精神を持ったプロテスタントと旧態依然なカトリックと言う誤解しがちな視点を明確に否定するもう一つの改革。宗教改革期を含む18年にも渡り続いたトレント公会議がもたらした、ルターを始めとしたプロテスタントから投じられた疑問に対して明確な反論を示す、カトリック改革としての宗教的覚醒(聖職禄の問題を残しながらも)。それこそがキリスト教、カトリックが世界に羽ばたいていく起点となった事を示します。

そして、我々日本人にとってキリスト教(カトリック)と接触する発端にあったザビエルと彼も創設に携わったイエズス会。ここで著者はもう一人のキリスト教を改革した人物として、その創始者であるロヨラの出自をイエズス会の成立に添えて述べていきます。ユーラシア東方世界で大きな足跡を残したその布教と信仰はカトリックの本質を伝えているように思われますが、前述のルター以上にとても興味深い内容が示されていきます。

騎士を目指し、戦傷で右足が不自由になった後で巡礼者から求道の道に入ったロヨラ。ラテン語の教養不足を補うために学び続けることになるきっかけが、東方、聖地巡礼への強い想いからであったことを示していきます。そしてイエズス会の根幹を成す、彼の信仰の実践を認めた『霊操』。新書としては極めて珍しいかと思いますが、本書ではこの内容を丁寧に解説することで、一度はドミニコ会の異端審問にも掛けられ投獄もされたロヨラとその仲間たちが実践した特異な信仰の姿(ドクマティックとも)を示します。そこには彼が決別したはずの騎士としての残影が会則の根底にある「神の戦士」として活動する姿に映り込んでいるようです。

強い信仰心の先に異端と断じられてもその想いを綴り、実践し続けてきた二人の改革者が強く押し広げた、キリスト教信仰の復興と激しい論争の過程。その先に大航海時代を迎えたポルトガル、スペインの動きを重ねていきます。

十字軍の逼塞に対して期待された、モンゴルの西方進出とプレスター・ジョンの登場を願う想いを受けて送り出された、草原の道を経て東方へと向かった托鉢修道会の活動と挫折(ここで宣教師たちの人的資源の不足がその布教拡大の足枷となったという興味深い指摘も)。その後に登場することになる、喜望峰を越えてゴアに拠点を置いたポルトガルの貿易路に乗って東方へと向かった、托鉢修道会の後を追ったイエズス会とザビエル。

後半ではコロンブスに始まる新大陸の「発見」、両国の征服的な活動とその道筋を辿るカトリック伝教の様子を通史に添えて述べていきますが、終盤に掛けてはザビエルとその後に続いたイエズス会、托鉢修道会による日本布教の推移を綴る事に注力していきます。

貿易のルートに乗って陸上の拠点を築いた先に布教を拡大したインド、侵略と征服の後に進む事になる新大陸(特に中南米)と異なり、貿易と言う橋頭堡を持たないままに進む事になる日本における布教。その姿は為政者の貿易に対する熱量と入港する貿易船の推移によって常に揺れ動いていく事を示していきます。不安定な日本における宣教の成果を詳細に綴る中で、本書に通底する、シリーズの副題にも繰り返し用いられてきた禁欲と清貧という、著者が修道者に映し出す姿とは相反する、自ら生糸貿易に携わり膨大な利潤を挙げつつ、その利潤を以て布教活動を継続せざるを得なかった宣教師たちの姿と活動に、大きな疑問の念を滲ませていきます。

結果として、その後の禁教により日本におけるキリスト教の伝道は途絶え、僅かに潜伏キリシタン(カクレキリシタン)として姿を変えつつ信仰が伝えられていく事になりますが、著者は最後に二十六聖人の遺骸が運ばれ、その後に支倉常長が訪れた、メキシコ・シティでアステカの言葉で綴られた記録を引用して、カトリック、キリスト教が世界の周回を成就させたことを印象付けていきます。

宗教改革、大航海時代そして世界を廻るカトリックの伝教。密接に関わり合う三つのテーマを二人の修道者を軸に書き起こして新書として纏めるという稀有なアプローチを成す一冊。それぞれのテーマごとにやや離散的な部分もありますが、カトリック視点で描く大航海時代前後のヨーロッパ史、日本のカトリック伝教史としても興味深い一冊かと思います。

 

今月の読本「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)地図の片隅で波間に揺れる、人が刻んだ白昼夢の欠片

今月の読本「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)地図の片隅で波間に揺れる、人が刻んだ白昼夢の欠片

余りにも不思議な本。

本書と同じフォーマットを持つ、同じ版元の新刊「呪われた土地の物語」と多分一緒に本屋さんに入ってきた、2016年刊行のこの一冊。綺麗な水色の装丁に誘われてページを開き始めると…、読者は見知らぬ物語へといきなり旅立たされることになります。

今回ご紹介するのは「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)です。

まず、2009年にドイツで原書が刊行された本書を、フランスの書籍見本市で発掘して日本語訳を与えて刊行するという、殆ど蛮勇ともいえる英断を下した版元さんと編集者さん(あとがきで訳者の方が紹介しています)に深い敬意を表します。このようなマイナーを超越した、それもとびっきりに不思議な内容の一冊。部数が出るとは到底思えませんが、本書の刊行1年前に送り出した「秘島図鑑」が余程好調だったのでしょうか、「何故か」出てしまったと評したくなる一冊です。

但し、本書は前述の書籍とは全くフォーマットが異なります。世界の秘境の果てとも言える絶海の孤島の概要をお手軽に紹介するガイドブックや孤島の写真集、wikiまがいのトリビア本だと思って本書を手に取ると、瞬時に振り落とされます。また、地理好き、地図好きの方にとっては、ページの左側に描かれた、ドットパターンで陰影が描かれ、人が刻み込んだ跡を蛍光オレンジの眩しい色で記す地図に興味を持たれるかもしれませんが、右のページに綴られる文章には一貫した記述もなく、その内容には首を傾げっぱなしになるかもしれません(嗚呼、これをにやけながら読んでいる私はどうしようもない人間かも…)。

地理の本でも歴史の本でもない、もちろん旅行ガイド(そもそも「冒険家」でも辿り着けるかどうかすら怪しい島も数多)な訳もありません。更に言えば、日本語の副題にあるように、著者はこれらの島に一カ所も訪れた事が無く、今後も多分訪れないであろうと表明されています。

旧東ドイツ生まれのブックデザイナーが手掛けたこの一冊。冒頭のはじめにと、巻末の訳者あとがきには、流石に内容を気にされたのか、どちらも細々とその経緯が書かれていますが、更には文学かもしれないなど言い出す始末。その内容に振り回されるといたずらに混乱を招くだけで、多くの方には依然としてその経緯も筆致も、意図すらも判然としないかもしれません。

地図に惚れ込んでしまったデザイナーでもある著者がその片隅に描かれた、巨大な地球儀の中にポツンと描かれた離島を見た時のインスピレーション。そのインスピレーションのままに、一つの島に一つのストーリーを捧げて描く本書。

発見し、訪れ、領土とした人々の複数の言語で示される島の名前や、山や川、岬の名前。各島から三方位で示される近隣の島/大陸までの距離と、人が辿った跡を示す月日を示す線表。

ドライでシンプルすぎる程の表記ですが、左のページに描かれる海を示す水色と点描による陰影、そして蛍光オレンジと言う僅か3色で示す、絶海の孤島を印象付ける絶望的な程の寒々しさがデザインからも確かに伝わってくるその構成に、ページを開く毎に戦慄が走ります。

そして、右のページに描かれる、各島に添ったストーリーには一貫性はありませんが、一つだけはっきりしている事があります。そこに「人が居たらしいという事」。もはや無人島になってしまった島も、元々無人島だった島も、多くの人がひしめき合う島も、独り取り残されてしまった島も。ユートピアと称される島も、人の手で住めない場所に仕向けてしまった島も。全ては「人がなし得た物語」が添えられていきます。

人なしでは地図は生まれず、人が辿り着いた証として地図が描かれ、地名が付され、道が切り開かれ、住み、そして去る。地図が描かれるという行為自体、人のみが為し得る事である本質を、地図の片隅にそっと添えられる離島に見出した著者は、その愛おしい程の場所にそっと付された物語へと視線を向けていきます。その著述の裏側にある膨大なバックグラウンドとしての物語の中で、著者の意図が敢えてそうしたのか、はたまた偶然か。ページをめくる度に、左のページの寒々しい孤島の地図に呼応するように、絶海の孤島への悲壮な旅路を思わせるように、寒々しい余韻を残す物語ばかりが綴られていきます。

著者のインスピレーションによって選び取られた絶海の孤島、最果ての地図に添えられた人々の物語。その物語は本当に起きた事なのか、単なる絵空事なのか。その姿を見たものは、その物語を伝えたのは、僅かにかの地に「辿り着いたはず」の人々だけ。著者が地図の片隅から掬い上げた、波間の向こうに見え隠れする島影のように、波濤に消える白昼夢のように、浮かんでは消えていく物語。

波間に揺れるその島影に何が見えましたか。

 

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

毎月新刊が刊行される新書は、各社のレーベルである程度得意分野やテイストでセグメントが分かれるようですが、今回ご紹介するのは、明らかに中公新書さんや岩波新書さんが得意とされるテーマ。しかしながら、この分野では珍しい、ちくま新書さんから刊行された一冊のご紹介です。

世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)です。

著者は地理学の研究者。地理学とは非常に広範な分野をカバーするので、果たしてこのテーマを掲げた場合、どの部分に着目して描くのかにまずは興味を惹かれます。著者は植生及びその環境を研究されていますが、同時に世界50か国以上を廻ったフィールドワークの達人。その知見を最大限に生かした内容は、単なる地球環境や植生を取り扱った本とは一線を画する内容になっています。

全地球の気候区分(ケッペン気候区分)の説明から始まる冒頭や、地形、気象に関する解説は文系の方にとってははちょっと頭が痛くなり始めるかもしれませんが(ブルーバックスではないので数式は出てこないですよ)、ここは我慢で読み進めていただきたいところです。なぜなら、著者の想いはその後に綴られる豊富なテーマが地球の気候と環境によって形作られていることを理解してほしいと願っているからです。

その先に広がる世界。美しくも豊富な写真(電子書籍版はフルカラーらしいです、ちょっと羨ましいかも)で飾られる、地球を代表する自然や動植物の姿、その地に暮らす人々。これらはすべて営々として続いてきた地球環境そのものが作り出した事を、その仕組みとともに丁寧に説明していきます(お約束の場所以外にも、マンハッタンやストックホルムなど、ちょっと意外な場所も紹介されます)。

これだけですとやはり自然環境の本なのではと思われてしまうかもしれませんが、本書が出色なのは、さすがに人文に強い筑摩書房らしく、その環境で暮らす人々の姿、所謂人類学や農業、経済学的な視点の記述を、自然環境を語る以上に詳細に述べていきます。世界を廻った著者の豊富な知見と、他の研究者の成果、提供された写真を豊富に掲載することで、自然環境の幅広さ、素晴らしさを伝えると同時に、そこに生きる人々の、我々の想像を超える生活する知恵とその姿も併せて述べていきます。特に各気候区分に特有のその地に長く住み続ける人々の姿を、狩猟採集民、牧畜民、極地の生活、山岳民、そして都市住民と、生活スタイル、地形や環境ごとに述べていきます。世界中に暮らす人々がなぜそのような生活をしているのか、人類学や民俗学的視点の根底は、自然環境に強く影響を受けている事を明確に示していきます。

すばらしい世界旅行や兼高かおる世界の旅といった往年のTVドキュメンタリーが伝えてくれた、人と自然が交わる世界の広大さ、自然と人々の生きる姿と、その先に繰り広げられる歴史や経済活動は、決して切り離すことなく密接に結び付いて、我々はその中で生きていることを教えてくれたあの作品たちを見た時の感動をそのままに伝えてくれる本書。

そして、本書で忘れてはいけない点は、文中の引用や巻末の参考文献をご覧頂ければ分かりますように、その多くの成果が日本人の研究者たちによってもたらされたと言う点です。地球をフィールドに世界に飛び出した日本の地理学、人類学といった人文系の研究者や、動植物の研究者、地形、土壌、気象、地球環境といった科学者、さらにはプランテーション植物やその取引といった農学や経済学まで。豊かな研究環境の発展の中で世界中で活躍するたくさんの日本人研究者たちの成果を著者は自らの研究分野を述べる以上に取り上げていきます。

今や世界中で研究をリードする立場となったこれらの研究分野における日本人の研究者たちの成果が豊かに語り出す、気候区分で世界を巡る地球の物語。

あの頃、TVのブラウン管から覗く事しか出来なかったフィールドで、多くの日本人研究者の方々が活躍されていることを実感しながら、その世界の広さと美しさに心打たれる一冊です。

 

今月の読本「ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)新大陸へのゲートウェイは最初で最後の落ちこぼれドミニオン

今月の読本「ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)新大陸へのゲートウェイは最初で最後の落ちこぼれドミニオン

とても珍しいテーマの一冊。

カナダ、ニューファンドランド。この名称に何らかのイメージを持たれる方は決して多くはないかもしれません。

犬がお好きな方には、その地名が冠された2種類の犬種の原産地としてご承知かもしれません。赤毛のアンにご興味のある方であれば、プリンスエドワード島の北側の辺り、というイメージがあるかもしれません。またはお魚好きの方には、北大西洋の一大タラ漁場としての認識もあるかもしれません。理系の皆様には、マルコーニの無線実験の地と聞けば、高校時代を思い出されるかもしれませんし、「ダンガー空港」とフェリーパイロット、大西洋横断飛行の物語における最西端の進出地などと言い出せば、完全に飛行機マニアな皆様ですね(著者がトリビアとして本文中に挙げた内容ですが、全部大好物だった…嗚呼、このブログは不幸にも、上記のネタを全部カバーしています)。

日本人にとっては殆ど縁のない(コラムによると、日系人の居住者は僅かに140名、人口比では0.1%以下です)この地をテーマに、しかもイギリス植民地史の一側面として描こうという、レア度満開の一般書をご紹介です。

ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)です。

著者は現在鹿児島大学で教鞭を執られる方。軽妙で、ちょっと脱線気味な筆致もありますが、北米大陸のそれこそ東端という未知の世界の歴史へと、易しく楽しく誘ってくれます。また、何分こんなレアなテーマですから、本書の内容は、科研費による研究成果の一部である事をあとがきで示されています。貴重な研究成果、ありがたく読みたいところですが、なにせこのニューファンドランド、単なるカナダの一州だと思うと大間違い、英連邦の自治領から同じく英連邦のカナダへと大戦後の1949年に併合されるまでは、行政府の財政破たんにより自治すら許されなかった(破産自治「領」です)、一筋縄ではいかない場所のようです。

カナダが連邦国家である事はご承知でしょうが、一番大西洋側にあるこの場所が、一番最後に連邦に加盟したという、アメリカ独立13州をイメージしていると足元をすくわれる、摩訶不思議な地勢感。しかも英連邦の自治領から住民投票によるカナダへの併合は、腹黒紳士イギリス一流のカモフラージュなお仕着せで、実は、大戦で疲弊したイギリスからカナダに、借金棒引きの代わりに売り飛ばされたという疑惑(ドキュメンタリータッチで描く、著者の検証は読みごたえ充分)のおまけ付き。

これだけでも充分驚かされますが、更に追い打ちを掛ける内容が、ドミニオンというカナダやオーストラリア、インドと並ぶ、大英帝国内でもっとも高度な自治権を与えられていながら、大恐慌時に地元政府が破たんしたため、大英帝国に自治権を停止された挙句に、制度的には植民地に後戻りした末でのカナダ併合。

前述までの内容だけでも、初学者には大英帝国の植民地政策の検討テーマとしてはもう満腹なのですが、恐ろしい事に、これらは単に結果に過ぎません。

著者は冒頭から、その結果が特異なニューファンドランドの地勢が生み出したものである事を丁寧に説明していきます。

バイキングが既に北米大陸で漁撈などの活動をしていた事は歴史的な事実として認識されつつありますが、その舞台となった場所こそ、このニューファンドランド。そして「再発見」以降、最も早くに北米大陸で産業が成立したのも、このニューファンドランドの沖合にそれこそ海から湧き出すほどに生息していたタラを使った干しダラ生産。更には、カナダの歴史において今でも複雑な影を落とすイギリス系とフランス系の確執が、この地では、目の前に残された「フランス領」の島との経済水域争いという、厳然たる外交問題として今も突きつけられているという厳しい側面。

まるで、16世紀がそのまま現代に取り残されてしまったような感すらある場所ですが、此処まで複雑な経緯を辿る事になったのも、その地が今も昔も新大陸と旧大陸とを結ぶゲートウェイである点に集約されるようです。

大西洋を挟んだ宗主国である大英帝国への入口ゆえに、大陸内での合同よりも宗主国への恋慕の想いを抱き続けるニューファンドランドとラブラドール。北米にとっても、大西洋を経由して旧大陸へ至る最短距離となるこの地は、戦略上からも重要な拠点と見なされていました。9.11の際にアメリカに向かっていた数多くの航空機を一時的に退避させ、急遽降りる事となった乗客に対する地元住民の暖かい支援が行われた事で一躍有名になった、ガンダー国際空港。この空港の発祥もイギリスとアメリカを結ぶ空路の中継地点として、更には北米防空の要として、大戦時から冷戦が終結するまで重要視され続けました。

豊富なタラ漁による自主財源と、旧大陸への玄関を押さえた地勢。更には沖に浮かぶフランス領となる小島(何と、フレンチ・インディアン戦争の名残)の対岸は「フランス海岸」としてフランスが戦後まで漁業権を維持するという、大陸内以上に複雑な事情が、大陸国家を目指したカナダに与することに躊躇をもたらし続けたようです。

逆に、タラ漁の低迷と、世界恐慌による脆弱な経済構造への深刻なダメージも、宗主国に助けてもらえる、更には既に基地を擁していたアメリカに救ってもらおうという、ご都合主義を持ち続けた末に、遂にはデフォルトの危機へ。結果として、折角カナダと同格の大英帝国内の自治領・ドミニオンとしての扱いを受けていたにもかかわらず、自治権停止、行政管理下という、著者によると植民地以下の扱いに転落してしまいます。ここで、カナダによる救済統合という案もあったようですが、この時点では統合には至りません。

一般的に考えれば、カナダ自体も世界恐慌によるダメージを強く受けており、統合による財政負担の問題がまずは取り沙汰されるかと思いますが、著者は此処で大英帝国特有の問題点を指摘します。即ち、英連邦制度の根幹を成すウェストミンスター憲章の規定により、当時のカナダ政府が「憲法」たる、大英帝国が制定したイギリス領北アメリカ法の改正権限を有していないために、統合に踏み切れなかった点を明示します(更にはニューファンドランド自体も、前述の立ち位置故に、ウェストミンスター憲章をあえて受け入れず、ドミニオンだが植民地という「半人前」の地位に留まっていた)。本書がカナダ一州の物語ではない事を雄弁に示す著述。実際にカナダ自身が憲法を含む完全な立法権を獲得したのが20世紀も末の1982年と聞くと、更に驚かれるかもしれません。

北米で最初の地は、最後に大陸国家としてのカナダに併合されましたが、その根本的な原因となったタラ漁の不振から始まる経済の低迷は、禁漁を続けても戻る事のない、絶望的な資源低迷(払底という言葉の方が正しいかと思います)同様に、低空飛行を今も続けています。

著者が表紙に掲げたカラフルな家並み。常に霧に包まれる北大西洋の海での漁から戻る漁師たちが自分の家を認識するために彩ったと云われるその景色が数少ない慰めとなっている、ちょっと忘れられそうなその場所に潜む、余りにも意外な歴史に驚きつつも、こんなテーマの本が本屋さんで手軽に購入できる環境に感謝しながら。

フィッシュアンドチップスに隠された、もう一つの北米植民地史を。

今月の読本「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社学術文庫)快活に冷静に描く、刺激的な人々が貿易で結ぶ3つの海

今月の読本「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社学術文庫)快活に冷静に描く、刺激的な人々が貿易で結ぶ3つの海

実は昨年中に読み終わっていたのですが、文庫なのでこちらでのご紹介が後回しになってしまった一冊。

昨年読んだ本の中でも、一番のお気に入り。ここ数年来でも、個人的には好著の筆頭に挙げたい一冊を、年の初めにご紹介いたします。

今月の読本、年初の一冊は「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社学術文庫)のご紹介です。

本書は同じ版元から10年前に刊行されたシリーズ「興亡の世界史」の15巻目として刊行された本の文庫への収蔵版。今回の収蔵に当たっての大きな補記等はなく、著者のあとがきと、新出の参考文献が追加されている程度です。

しかしながら、著者が今でも十分に通用すると明言するように、本書の内容は今でも極めて特徴的かつ刺激的です。

原著刊行時点の編纂でも議論を呼び、版元自体もシリーズ屈指の異色作と評した、多様な時代と世界のテーマを扱う本シリーズを以てしても白眉な「会社」を軸に描くテーマ設定。更には、まるで往年の「世界歴史百科」をめくる時の喜びを、スケールはそのままに、文庫サイズにまで凝縮してしまったような、広範でダイナミックな内容。

そこにみえるのは、陸上と海のアジア史双方を全部カバーしてしまいそうな勢いで描く、広範で旺盛な視点。政治体制がそれぞれ全く異なるアジア側の各国の事情を綴ると同時に、その中庭たるアジアの海に乗り込んできた各国の東インド会社の資産形成や役員形態、運営、指揮系統といった特徴の裏に、国政の事情や経済的な問題点を読み解くといった内容を平然と織り込んでしまう、圧倒される著者の見識(あっさりと、アダム・スミスまで登場させてしまいます)。通史だけでは面白みに欠けてしまうかもしれませんが、著者は『冒険商人シャルダン』という著作を有するほどに個人史にも長けていらっしゃる方。バックボーンに潜むアルメニア人商人が切り開いてきたルートに乗るように行き交う、アジアを渡り歩いた冒険商人や、商人崩れの政治家、軍人。本国の投資家たちの目を盗んで海域内貿易で稼ぎ過ぎて、総督まで上り詰める名声は得たけれど、追及を恐れて帰国するのが困難になってしまった、エリフ・イェールといった新大陸生まれのコスモポリタン(名字をご覧頂ければ判りますよね)。更には、再婚した夫との資産争いの末、老年になって本国オランダにまで乗り込んで裁判を続け、死後になって勝訴を勝ち取った、日本人の血を受け継ぐ一人の勇猛な女性、おてんば(ontembaar)コルネリアといった、個々人をテーマにした内容を同時に織り込む事で、華やかに、時には悲惨に、アジアの海で繰り広げられた物語を「歴史ストーリーの一ページ」として描き出していきます。

広範な内容を綴る本書。その中で、本筋となるアジアの海の歴史について、著者はある一点について、本文中で繰り返し見識を改める事を読者に求めてきます。

ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰廻りによるインドへの航海から、イギリスによるインドの保護領化と東インド会社体制の終焉までの約200年を綴る本書。その後のアジア史をご承知の方にとって、前時代は「植民地」としてのアジアの前駆のような、素朴で平和的に暮らしていた人々に対する、軍事力による蹂躙の先に行われた暴力的な収奪といった、アフリカや南北アメリカと同じようなイメージの延長で、ポルトガルが築き上げ、列強がその道筋の上に続いた姿を描く、「海の帝国」といった歴史描写への嫌悪感をもたれるかもしれません。しかしながら、イスラーム建築史が専攻の著者はそのような認識、描写について、断固として異なるという点を提示し続けます。

著者が断言する根拠となる考え方。そこにはアジアの海と商業に関わる際に、3つの海に3つの政体が存在したことを示していきます。蒸気機関発明前の風力による航海が前提となる時代。貿易風と地域内の海流に添った航海を求められるその海に於いて、どのような戦力を有していても、どれだけ大きな船舶を擁していても、その環境に立脚した航海と、拠点となる商館の設営=貿易港の設定、季節的な周期航海のルールからは逃れられない点をしっかり認識することを求めます。

その上で、3つの海を目の前にする陸の帝国の姿を提示します。一つ目は、著者の専門分野でもあるペルシャ湾及びアラビア半島周辺の海域。この地域では王国の首都たる場所は内陸に位置しており、海沿いの交易地は、目の前の海を往く商人たちの貿易における中継点として、税収が望める都市の一つとしての認識しかなかったとします。各国の東インド会社の居館が立ち並ぶその場所。徴税を司り、西ヨーロッパ諸国同士がその場所で紛争を越した場合に制すべき立場にあるのは、その港を押さえている王国側にある事を明確にします。一方で、貿易拠点としての西側の海に対して、東端の海は著者が「政治の海」と称する、陸上の王国が海上の支配権も御する場所。倭寇や鄭成功の事例を用いて、域内における自由な航行は望めない点を示し、その海では陸上の王権(これは豊臣政権や徳川幕府にしても同じ)に対して、へりくだる事で貿易を認めてもらう立場に過ぎない点を明確化します。国家を代表して貿易を行う一方、共同出資者達による私営としての側面も持つ東インド会社という特殊な形態ゆえの限界。その地では、収奪はおろか、自らの生死与奪の権限すら、陸上の王国に握られていた事は、日本に於ける当時の貿易体制と、インドのそれが、同じ「東インド会社」を通じて行われていたという点に於いて、余りの違いを説明する明快な事例ではないかと思われます。それ故に、賃料を払って出島に押し込められるという屈辱的な待遇に甘んじてでも、バタビアと長崎の間で中継貿易を継続し続けた、オランダの東インド会社が如何に稼いでいたのかが判りますし(時に本国ベースの純利益が200%に達する事も。域内貿易ではどれだけ荒稼ぎしていた事か)、利益を追求する株主資本会社としての側面があったからこそ、そのような扱いがあっても貿易を続けられたともいえます。

そして、西の交易としての海と、東の政治の海に挟まれた、中央部に突きだしたインド亜大陸の沿岸地域。著者はここにもう一つの海の姿を見出します。「迎え入れる海」、貿易がもたらす利益を喜び、その繁栄こそが支配する王としての懐の深さを示すものだという価値観が生んだ貿易。それが、国家を代表する形での貿易を望んだ東インド会社に対して便宜を与え、貿易を行うための居館の建築を認め、更には要塞を築き、居留地や域内での徴税権を与える事すら憚らなかったインド諸王に共通するスタイルだと看破します。日本人にはイメージしにくいこの事実、著者は最も近い事例として、戦国時代の大村氏によるイエズス会への長崎の割譲を持ち出して、貿易による利益と提供される武力を求める権力が、有利な形で取引が望める宗教を受容、時には自ら改宗し、その便宜を図るために土地を割譲する動きと、その後の歴史で展開される軍事的な侵略とは異なると指摘します(陸の帝国に楔を打ち込んだように見えるマカオにしても、実体は租借であった点もここで再確認します)。

最初の接触から戦闘的な態度で臨み、持ち込んだ産物の余りの価値のなさに憐れまれるほどの屈辱を味わったが故に、かの地に於いて、何処ででも暴力的な制圧と搾取を行ったかのように見られる、西ヨーロッパ諸国の東インド会社による貿易。しかしながら、著者はそのような見方は偏見であり、彼ら自身も香辛料や綿製品貿易に代表される西ヨーロッパとアジア間の貿易に匹敵するほどに、資産運用と貿易物資を獲得する為に、アジアの海の中で現地の商人を相手にして、傭船すら行いつつ大規模な中継貿易を行っていた事を見出していきます(もちろん、日本と南米が生み出した、交易を飛躍的に伸ばす結果となった銀バブルのお話も出て来ます)。その上で、彼らは数多くの商人たちが行き交ったアジアの海における、数多の「外国人」集団の一つに過ぎなかったという点を見失ってはならないと、繰り返し指摘します。なお、南アジアにおける収奪的なプランテーション経営とイギリスとオランダの武力を以ての争奪戦については一通りの記述がありますが、著者は限定的であるとの認識に立っています。

最後に述べられる、インド亜大陸におけるイギリスの植民地化への歩み。その背景として、フランスとイギリスの東インド会社における国家の関与の違いを見出した上で、東インド会社の影響力を背景に対立するインド諸王に関与する際の軍事力への「国家」の関与こそが、「東インド会社」というシステムの限界点であり、その限界点の先に、近代となって誕生する国民国家が東インド会社という商業資本が遠隔地で期せずして獲得し、ある種、野放図にされてきた権益に対して、政治、軍事的に直接掌握する、次の時代である「植民地帝国」へ至る姿を見出していきます。

冒険的商人と高い資産運用を目指した初期の資本家、そして国王の特許やフランスのように国家からの金銭的な後押しを受けて設立された株式会社の端緒となる「東インド会社」がアジアの海を縦横に行き交った時代を綴る本書。ダイナミックに行き交う人物模様を描く一方で、その中で刻々と進む時代背景や経済、政治状況まで克明に拾い込む見事な筆致が、この著述範囲では僅かと言わざるを得ない400ページ程の紙面を一杯に使って、存分に展開されます。

本書の執筆後、著者は本務校の東洋文化研究所所長と副学長を兼ねるという激務から、一般読者向けの単著を殆ど執筆されなくなってしまいました。しかしながら、刊行時から10年を経て、アジアのグローバル化が次のステージに向かう中、今こそ本書のような多角的で広い視点を持ったアジア史が求められる筈。著者の手による、本書に続く作品を是非読んでみたいと強く願う次第です。

 

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

年末年始のシーズン。

慌ただしい時間が流れる一方で、日常の喧騒を離れて、じっくりと何かに取り組める時間が巡って来る貴重な日々でもあります。

バタバタと年末の後始末を終えて、ほっと一息つきながら読んでいた一冊からご紹介です。

今月の読本、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーから12月の新刊「渤海国とは何か」(古畑徹)をご紹介します。

まず、この渤海国という名称にどのような印象をお持ちになるでしょうか。ユーラシアの東端に忽然と現れて消滅した幻の王国、もしくは当時の古代王朝、王朝国家との交流史を有する、中華帝国、半島諸国とは異なる、第三の国というイメージでしょうか。近世、近代史にご興味のある方にとっては、後の清朝の揺籃たる女真が勃興した故地、更にはその後の満州へイメージを抱かれるかもしれません。

本書はこれらの日本人が抱くイメージが、実際には戦後の教育、歴史研究環境が生み出したものであり、渤海、更には北東アジアの地域史としての一側面しか捉えていない点への懸念を込めて綴られています。

学生時代からはじまり、40年の経歴を有する北東アジア史を専門とする著者は、それらのイメージがある時点を契機に生み出されたと指摘します。戦前日本の大陸侵攻と軌を一として生まれた「東洋学」が生み出した落とし子。敗戦によって一度は散逸した研究成果は、その後の日本に於いて、更にはかの地に於いて再構築される過程で、自らのイメージに合わせた歴史著述の一ページとして利用されてしまっているとの大きな懸念を抱いていきます。

「東洋学の挫折」という刺激的な表現を用いて、その経緯を綴る著者が本書で描こうとする内容、それは海東の盛国と称された謎の国、渤海をその後の歴史研究における位置づけの争奪から擁護せんと願い綴る、汎北東アジアの視点を掲げた検討過程から輪郭を示す事。

従って、題名に示される様な渤海の歴史のについての詳述を本書に求められる方には、少々残念な想いをされるかもしれません。前半は渤海の勃興から滅亡までの概略が時間軸を追って綴られていますが、著者がここに述べるほどにしかと感嘆されるように、そもそも渤海に関する文献資料は極めて限られています。その中でも彼ら自身が残した文献は僅少であり、殆どが周辺の国々の記録に語られるに過ぎません。

そこで、著者は逆にその周辺の国々の記録に残された点から、彼らがどのような位置にあったのかを見出していこうとしていきます。渤海国の概要をお知りになりたい方であれば、確かにwikiでも充分かもしれませんが、本書の魅力は後半で述べられる、その位置付けを北東アジアの中から浮かび上がらせるアプローチにあります。

日本の歴史教育で渤海を扱う時に語られる、唐を模した、ないしは日本の律令制や王都を参考にしたともされる律令や兵制、都の構造について、確かにその影響を強く受けている点を指摘する一方、唐における外藩と内属国の扱いと王に与える称号の違いから、契丹や遼などの北方騎馬系民族として包括される扱いとは異なる、比較的内属国に近い位置付けを与えられていた事を見出します。更には、彼らが独自の文字を持たず、漢字を用いた点からも、実質的には中華帝国の冊封体制に準じる(年号は独自のため)位置にある、北方騎馬系民族に対する東方からの牽制勢力の一翼を担っていたとの位置付けを見出していきます。

その一方で、遥かに三国志「東夷伝」まで遡り、伝統的に北狄と称されたその土地は、東夷と称された半島、そして倭の諸国とは決定的に認識が異なっていたと指摘します。この事実は、冊封を奉じた半島の諸国や高句麗、その後に統一を果たした新羅の勢力が及んだ範囲と、交錯する渤海とでは異なる民族的アイデンティティ、むしろ更に北方に存在した黒水靺鞨との類似性を示唆します。

中華帝国の一翼を担う一方で、更に北方の遊牧民側(但し、渤海が勢力を伸張させた時代は現在より温暖な気候であったとみられています)の立場に近い極めて微妙な渤海の位置付け。著者はその位置付けを雄弁に物語る手掛かりとしての、彼らが残した交易の跡を追い求めます。

東北地方に集中的に残る、7世紀の遺跡から発掘される錫製品。北方の地で育まれる体格の優れた馬、そして渤海と一時的に対立した唐の前線基地である節度使が、「熟銅」の交易だけは禁止しないように中央に対して請願を出していたという点を見出し、当時の唐王朝にとっても、渤海が重要な銅の産地であった事を指摘します。

北方の優れた産物を集散させる諸民族。更には、彼らが渤海使として日本に訪れた際に引き連れたとされる首領たちもその実は商客であるとの当時の認識も添えて、彼らの求心力が商業的なもの、交易による利を供せられるかによって支配体制が左右されるとの認識を提示ます。中でも本書では、他の研究者の指摘を引用して、その本質として、狩猟、漁撈民はその生産物の農耕民との交換の必要性から、一般的に交易民であるという、核心を突く一説を提示します。ユーラシア東方における政治的な求心力を農業的な集散と見るか交易による利益と見るかで分かれるという根源的な認識。一方で、同じ北方遊牧民族でも、独自の文字を持つなどアイデンティティの明確化を見せていた契丹は、後に燕雲十六州を得る事で、自らを中華帝国の一部へと転換させたと指摘します。

後に清朝を生み出すことによって、中華帝国としてのアイデンティティの一部として埋没していた「満州」を再発見した、戦前の東洋史が残した足跡を辿りながら、渤海をテーマに北東ユーラシアにおける位置付けの再構築過程を示す本書。複雑な歴史の推移同様に、複合的な内容が、それこそテーマを縦横に展開されるために、一度読んだ程度では容易に全容を把握できる内容ではありません(門外漢なので更に)。

この本を手掛かりに、巻末に掲載する関連書籍を跋渉しながらも、もう少し読み込んでみたい、歴史著述、理解の奥深さへと誘うような一冊です。

なお、著者は非常に寡作な方で、提示される参考文献を含めて、主著と見做せる一般書籍が見当たりません。中華帝国たる隋、唐自体また北方遊牧民族が発祥であるという視点は、契丹、奚の扱いを含めて、講談社学術文庫から現在刊行が続いているシリーズの一冊、「興亡の世界史 シルクロードと唐帝国』(森安孝夫)を、本文中で繰り返し引用されています。