今月の読本「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)その余韻に浸り続けたい、溢れる好奇心を繋いだ絶妙な訳で誘う食卓の向こう側

今月の読本「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)その余韻に浸り続けたい、溢れる好奇心を繋いだ絶妙な訳で誘う食卓の向こう側

昨年の11月頃にある書評で紹介された直後に入手してから3か月ほど。

昼休み、帰宅後、そして就寝前。普段の読書では一冊を一気に読み切るタイプなのですが、この一冊だけは、愛おしくも一篇、一篇とその余韻を噛み締めるかの如く、こつこつゆっくりと読み進めていました。

中国くいしんぼう辞典

今回は「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)をご紹介します。

原題の「吃貨」すなわち食いしん坊の事ですが、著者の想い、そして本書の内容を現すには最も叶った表現かと思います。中国語は音で表すことを重んじると著者が述べるように、その発音(チーフォ)のイメージ通りに唯、食べることが大好きな著者による、生粋のと称する著者の地元である北京を軸に中国全土に広がる数多な料理を訪ね、食した内容を綴る「辞典」。全部で83の料理が紹介されますが、そのスタイルは一貫しています。

著者が辞典というスタイルを採るために選んだ三つのテーマ、家庭、街角、そして飯店。語られる内容はその土地の物語から始まり仕込みから調理法、最も大切な食する姿とその味、そして料理に纏わるちょっとした蘊蓄と歴史のお話まで。ひと手間かける祝祭の料理から、今やその店はなくなり、周囲の光景が一変してしまった中で、変わり続けながらも作り続けられる精緻な技を凝らした名料理まで。著者の筆致はそれらを等しく扱っていきます。

著者が食していく世界は、家庭料理では北方の北京が中心となりますが、後半に行くと徐々に遼東や四川、杭州へと広がっていきますが、変化しつつもそれぞれの土地にしっかりと根付いた、その土地でなければやはり味は変わってしまうと述べていきます。土地を重んじ、土と水と海、移り変わる季節それぞれに獲られる食材に最も叶った調理法を時には凝らし時にはシンプルに、季節、そして食材の恵みを感じさせる一品。各地の料理を称揚しつつ綴っていきますが、それでも著者の故郷である北京、中国北方の家庭料理、そして羊肉の料理にはひとかたならぬ想いがあるようです。特に印象的だったのが、屠る肉は変わっても、それらがイスラム系の料理の系譜を継ぐものであることを明確に示す点。本書で初めて知った事柄ですが、アジアの東端でもある中国、地続きのそれは常にコスモポリタン的な世界を内包していた事を改めて教えてくれるようです。

そして、本書の最も印象的な部分、これは原著を読む事が出来ない身にとっては推察するしかない事なのですが、独特の味わいを持った訳が醸し出す、少し懐かしさと素朴さを漂わせる活字の向こうに広がる食卓の姿。

著者は1960年代末生まれの編集者と称しており、決して往年の大家、美食家、名料理人という訳ではなさそうです。しかしながら胡同が残る古い北京の街並みを記憶に残す著者(とその訳者)の筆致は、何処となく現代の急激な発展を遂げる中国のひとつ前の世代の雰囲気を濃厚に伝えてくれるような気がします。家族が一堂に会する春節を迎える料理を仕込む家人の姿、活気溢れる労働者の騒めきすら伝わってくる街角で振舞われる、素朴で人の温もりを感じる湯気が上がる風景。そして、秘められた歴史とその背景、実際の姿を淡々と述べながら精緻な技に舌鼓を打つ、名店の卓。

一つの料理は僅かに4ページほど、中国料理に不慣れな私にとってはどの料理もほとんどが未知のもの(訳者あとがきにあるように、その日に合わせた(点菜)を要領よく選ぶ技は学問ですらあるというくらい、数多な料理がある)、それでも一品一品を読み進めていくのが楽しくなる、文章の向こうから物語とそれを食する著者の姿、美味しさと共に食卓の景色が、かぐわしい香りと共に緩やかに浮かび上がってゆったりとページの向こうに消えていく。その波のように寄せては引いていく姿についつい浸りたくなってしまい、次の一品へと読み進める手が止まってしまう。

シンプルで味わいのあるモノトーンの線描による、ちょっとノスタルジックなイラストがそのイメージを膨らます、愛おしく読み進めた本書を包み込む美味しい物語たち。前述のように著者は料理専門家でもなく、美食家という言葉にすらやや疑念を持たれている方。ではこのような滋味溢れる内容がどのように構築されたのかといえば、実に現在の中国を象徴する、数多に溢れるネット上の情報と著者と彼らとの情報交換により積み上げられた繋がりの上に生み出された物語。もちろん著者の旺盛な好奇心と食いしん坊としての姿がその下地にあるのですが、本書の全体を包む一貫したイメージの構築に成功したのは、広大な国土に広がる数多ある料理とその風物を自らのものとしている、各地に住まう人々を結び付けたネットの力が推し支えたもの。そして、著者の意図するところを充分に汲み取って、異邦人たる我々に伝えてくれた、中国語に練達され、ご自身も中国文化、中国食文化の研究をされている訳者の力量のなせる業。

暖かい料理が恋しくなる厳冬期、著者が愛おしむ北京同様に寒さ厳しいこの地で、活字の向こうに立ち上がる湯気に映る見知らぬ料理と風景を思い浮かべながら、穏やかなその筆致に身を委ねる幸せなひと時を届けてくれた素敵な一冊です。

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

またしても不思議な一冊に巡り合ってしまいました。

テーマに惹かれたのは確かなのですが、果たして地理学で呑む事とは何ぞやと悩みつつ、内容を想像しつつ手にとって、読み始めたこの本。正直に言って、読みこなすのは非常に厳しかったです(未だに読み切った、という感触は希薄です)。

決して小難しい内容と言う訳でも、文章が難解と言う訳でもありません。共同訳者の皆様と、版元さんの粘り強い翻訳、校訂作業積み重ねの結果、一般書籍として充分平易で読みやすい内容となっているかと思います。しかしながら、その平易な文章で綴られた内容に、別の意味で苦しめられ、考えさせられる一冊でもありました。

今回ご紹介するのは「アルコールと酔っぱらいの地理学」(著:マーク・ジェイン、ジル・バレンタイン、サラ・L・ホロウェイ/訳:杉山和明、二村太郎、荒又美陽、成瀬厚 明石書店)のご紹介です。

原著は2011年にイギリスで刊行された、学術論文をベースに要約として纏められた書籍。冒頭に著者陣から日本語訳刊行にあたっての紹介が述べられていますが、のっけからそのスタンスに驚かされてしまいます。曰く、アルコール・スタディーズには地理学が欠落している、と。そのことを西洋、イギリスと北米を基軸とした文化圏に基底を持つ執筆者たちは、訳本と言う形で広く世界に対して訴え、議論を求めるきっかけとなる事を願います。

公衆衛生と社会学で語られる当該分野の学術的成果に対して、人文地理学者として内容への不満と検討の欠落を明確に述べた上で、その状況に乗り遅れてしまったことへの焦燥感を滲ませながら、人文地理学を用いた分析手法を以て、これまでの飲酒に対する議論の再検証を行い綴られる本書。その筆致は何処までも人文地理学者の視点、思考で貫かれているようです。

前述しましたように、平易な筆致にも拘わらず読みこなすのに長時間を要する事となった本書に通貫する、人文地理学という学問規範による視点。その範疇と視点の置き方が私が理解していた地理学の領域を遥かに超えている事に、驚きと戸惑いを受けながら読み進めることになりました。

テーマに対する地理学者としてのスタンスを示す序章と実際に地理学に相応しいセグメントの取り方となる、都市や田園をテーマにした1,2章。確かにイギリスと言う地理的遠隔性と社会構造に対してある程度理解が無いと読みにくい内容かもしれませんが、近現代史の一端や社会学的な知見をある程度お持ちの方であれば、決して初見でかつ驚かれる内容が綴られている訳ではない筈です。但し、その着目点が「呑む場所、環境」で貫かれているのは流石に地理学だなと思わせる点もあります。

しかしながら、3章以降はそのような私の理解、読み方を徐々に越えていく内容が綴られていきます。地理学のイメージに繋がる、位置や場所を示すアイコンを軸に語られていく事自体は変わりませんが、その場所が「ホーム」、即ち自宅での飲酒について検討を加えてく部分に入ると、議論の焦点は飲酒の行為自体や酩酊、忌避の検証へと移っていきます。

場所とも異なる、地勢とも地域とも異なる。コミュニティや個々人の飲酒/禁酒という行為を理解する為に、場所と言う基軸を越えて人文地理学が持ち出す手法、それは座標系のようにも見える飲酒という行為そのものを分解して空間座標的にセグメント化していく分別過程。

そのような印象を強く受けたのが4~6章で語られるジェンダーとエスニシティ、そして世代感への議論。共に飲酒に対して懸念や否定感、禁忌というセグメントを嵌められた領域に対して、その中で飲酒を行うという事、または飲酒を退ける事について、飲酒を行う場所やシチュエーションを重ねるように対比しながら、社会性や年齢までを含めてセグメントの中に割り付け、その狭間に落ち込んでしまう部分に対して着目すべき点を示す。

私の理解していた地理学と言う言葉が辿るイメージを大幅に逸脱する内容でありながら、著者達は全くそのようなそぶりも見せず議論を進めていく。そのギャップに苛まれながら更に読み進めていくと、決定的な一文に突き当たりました。

最終盤で語られる、凡そ地理学とは縁遠いテーマとも思える「感情と身体」。その中で、パブに集う老境の男性が抱く想いと繋がりを求める社会性という、如何にも社会学が扱う内容を分析する考察で語られる、

「アルコールがいかに多くの問題をめぐる感情の地理と関係しているのかを示している。」

感情の地理。果たして地理学とはいったい何なんだろうと、読んでいた本を机に置き首を振りながらふと眺めた、表紙の帯に書かれた「居酒屋の戦後史」著者で社会学者の橋本健二先生が捧げた一文、

「地理学は、人間の行動に関することなら何でも研究できる学問だったのだ。」

そのコメントを直視させられた一瞬。

本書をパブや居酒屋のような飲酒と呑む空間に関する概説書として捉えると見えてこない、人文地理学がどのような手法でどんなテーマに向かおうとしているのか、その学問分野に強い矜持を持つ著作と訳者たちが、飲酒と言うテーマを一端として地球の反対側にある呑み人の天国である島国に送り出した、自らの座標軸を示す一冊。そして、投網を手に大海原を漕ぎ進む船のようにも思えてしまうそのテーマの広がりの中で、進むべき針路を示すコンパスとして示された一冊。

場所を基軸にセグメントとして細密に空間化されたその検証手法に対して、飲酒と言う行為に対する、人々の意思、意識が重なり合う場所としての示唆的な全体像を捉えたいと思っていた私自身の想いと、著述される内容の折り合いに悩みながら。

巻末までぎっしりと綴られる著者陣、訳者陣の強い想い。その規範となる人文地理学が掲げる理論構築については判らないことだらけですが、その手法の一端を垣間見る想いを抱いた次第です。

まだまだ暑い日が続きますが、日が落ちて少し凌ぎ易くなった夕暮れ。そちらのカウンターで一杯飲みながら、もう少しお話を聞かせて頂けませんでしょうか。

今月の読本「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)大陸と辺境の格差と制約を人文地理学で積み上げる島嶼学へ

今月の読本「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)大陸と辺境の格差と制約を人文地理学で積み上げる島嶼学へ

大きな本屋さんにぶらりと立ち寄った時、頭の中に常に入れてある数十冊程の読んでみたいと思っていた本を偶然書棚で見かけてしまうと、果たして買ってよいものか少しばかり緊張が走ります。大抵普段は手に取る事が出来ないハードカバーの本、お値段よりも読書時間のやりくりをこの一冊の為に割けるのかと悩み込む事、暫しとなります。

今回もそんな葛藤の中で手に取った一冊。予想通り読みこなすには相応の時間を要する結果となりましたが、テーマである人文地理学と言う世界にほんの少し触れられたように感じた本になりました。

今回ご紹介するのは「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)です。

大学の出版事業で刊行するこの本、現在では島嶼学という区分を用いられる人文地理学の一分野を開拓されたイギリスの地理学者の方が書かれた概説書にして、決定版と評される一冊。内容的にもお値段的にも決して一般向けとは言えない本ですが、その分、表題のテーマについて濃厚に述べられていきます。

著者自身が住まわれている場所自体が「島」であるイギリス。世界の海を制覇した大英帝国の残滓が残り、未だ海外領土(植民地とは言わない)としての島々を多数有していますが、著者自身もそれらの離島を含めて世界中の島嶼、孤島を巡られた(あとがきによると2016年時点で864島)先に綴られた本書。

表紙の写真からトロピカルな南洋の島々のお話が中心かと思われますが、前述のように著者は世界中の離島を廻った方、更には解説文にあるように、数々の離島を擁する北アイルランドで教鞭を執るようになってからこれらのテーマに打ち込むようになった経緯からも判りますように、如何にもと言った南洋の島々の姿だけを描く事を良しとしていません。

人文地理学という言葉の通り、本書では歴史的な推移を踏まえた膨大な知識と経験の蓄積の上に描かれる離島の姿をテーマごとに重層的に積み重ねることで、現在では「島嶼学」と呼称されるようになった、その特異な地勢の輪郭像を定義して描き上げていきます。

結論だけ述べてしまえば、読まれる方が凡そ把握されているように、モノカルチャーである一方、少数の人員で生活に必要なあらゆる要務を担う必要から、行政や事業体を含めて複数の職種に就く事が当たり前となる経済的な自立性と多様性の低さ。輸送面の不利を含めてあらゆる面で高コストな社会基盤構造。競争的な側面が生まれにくい事からその地に生きる人々は常に著者の言う「大陸」からの波濤に対して余りにも脆弱で、一度その波に呑まれてしまい、経済活動の影響下に置かれると、途端に政治的にも脆弱な立場に立たされることを地域性、経済性、そして地政学的な観点から繰り返し指摘します。

世界的な経済活動の中では存在自体が埋没してしまうこれらの離島。特に著者が居住するイギリスの場合、周辺には特異な自治制度を持つ島々や、中米、南洋、更には大西洋の果てまでに海外領土を有しているため、これらの島々の事例を積み重ねてくことで、それぞれの島が自立した経済活動を維持する事が極めて困難であることを示していきます。

もちろん、その中にあるオフショア金融で繁栄する島や低廉な人件費を武器に進出するテレワークといった現代の情報通信の発展がもたらした新たな産業へのアプローチ、比較的恵まれた条件下で教育を始めとする社会基盤からの再構築を目指す、プリンスエドワード島(赤毛のアンですね)の例も示されますが、成立や収益の基盤を「大陸」の経済活動とその競争の中に委ねている点では変わらないと指摘します。

一方で、この書籍にご興味を持たれる方であれば、必ず着目されるであろうクルーズを含めた観光やエコツーリズムに対しても、島の乏しいインフラ基盤(水源、電力、乏しい可住面積自体)を枯渇させ、彼らが望む物品はまた島外から持ち込まれる事を指摘した上で、興業化された「伝統」からの収益を目指さなければならなくなる、経済性に埋没していく事に対して、平穏な暮らしを求める島民たちとの軋轢へのバランスのとり方の難しさも、実際のツアーの姿を示しながら指摘されます。

また、本書はあくまでも「島嶼」をテーマとして多面的な側面をからその姿を描く事を目的としているため、離島自体が抱える経済的、物質的な課題を解決する方策が述べられる訳ではありません。しかしながら、その分析手法を実践として示すために終章に於いて著者が用意した「島嶼学」の検討テーマが、大西洋の絶海の孤島たちである英国海外領土の三つの島。

余りにも有名(この表現、特定の方にと但し書きが必要でしょうか)な、トリスタンダクーニャは成立の過程から居住者の特異な病歴と言った島嶼の孤立性の典型例として本文中で語られますが、検討のメインに据えられるのは、以前はその主島としての役割も果たしていた、セントヘレナ。

昨年2月に最後の郵便船と称されたRMS St Helenaが遂に退役、直後に待望著しかった空港が開設されましたが、本書はそれ以前のケープタウンからの船便か空軍による空路があるアセンション島経由でしか辿り着けない絶海の孤島の姿から、島の自律性と本国との関係を分析する事例として検討を加えていきます。

本国からも遠く離れ、特産となる物産も途絶え(以前は亜麻のモノカルチャーと言う点も離島的だと)経済的な自立も立ち行かない島に対して、著者が指摘する重要な「資産」、それはナポレオン終焉の地であるという歴史的な事実、そして当時の姿を依然として色濃く残すタイムスリップしたかのような街並み。

離島にとって最も大切なもの、それは大陸との経済競争の中を生き抜く先鋭化したプランテーションのような単品種産業でも、隔絶性がもたらす孤独と悲惨さでもない。もちろん国際法の抜け穴を利用したり、大国の意向を呈する事で資金援助を掻き集め続けるという依存でもない。その地に根付いた歴史的な背景の蓄積を如何に大切にアピールしていくかと言う点であると述べていきます。

離島と言う極限の辺境がもたらす姿を人文地理学と言う視点で描き出す本書。実は本文中に繰り返し指摘されるある点に於いて、離島に限らず極めて普遍的な事が述べられている事が判ります。それは、大陸と離島の関係を述べる際に語られる「中央と辺縁」という視点。

経済的にも文化的にも大陸と言う中央から離島と言う辺縁へ傾斜的に波及するものであり、それはたとえ島嶼群であっても主島と属島の間では深刻な格差が生じる点からも厳然たる事実であると指摘されます。その中で、第二次大戦で敗北する以前の日本は唯一例外的に自分たちの範疇で自律的に取り仕切る事が出来たと指摘する、同じ島国であっても大陸との切り離せない関係の中で歴史を刻んできた地に住む著者。

その指摘は地方に在住する私にとっても直視せざるを得ない内容を含んでいます。離島と言う極限の例を用いて、自立した地方などと言う存在は無いことを冷徹に指摘する著者(かのトリスタンダクーニャにしても、経済的自立の根底には日本を含むロブスターの輸出がある点は否定できません)。その上で、地方にとって本当に必要なものは何か(著者は人口と教育であるという、現在の日本が抱える問題と同じ点を明快に指摘します)を考えるきっかけを与えてくれる一冊です。

 

今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

昨年は宗教改革500年と言う事で、日本でもルターを始め中世キリスト教に関する多くの書籍が刊行されています。

日本人にとってはどうしても馴染みの薄いキリスト教世界とその歴史。今回ご紹介するのは、長くその研究を続けられ、日本にその姿を紹介され続けてきた研究者の方による一冊です。今回は「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)をご紹介します。

本作は、同じ著者の方による執筆で2014年から刊行が続けられている「ヨーロッパ」シリーズの最新作(次回作もあるらしいです)。これまでに以下の3冊が刊行されています。

今回の一冊も副題に[大航海時代のイエズス会と托鉢修道会]という副題が添えられており、シリーズに一貫した著者の専門分野である中世修道院の世界を軸に描いていくように見えますが、内容は少し異なります。

研究テーマ故かと思いますが、カトリックに対して強い思い入れがある事が明瞭に判る著者の筆致。しかしながら本書の前半はその教会を永遠に分かつことになってしまった、ルターからカルヴァン、そして英国国教会に至る宗教改革の推移を歴代の教皇や世俗の君主たちの動きと対比しながら綴る事に注力していきます。

此処で著者が指摘する点が、所謂贖宥状に対する義憤的な表現がなされる宗教改革の発端について、それ以上に各地の司教職を兼任し、その収益である膨大な聖職禄を運用する聖職者たちが金銭行為に携わる事の憤りと、兼職により教会で満足な礼拝も行われなくなったことによる、信仰心の希薄化と教会の本義である、信徒に対する霊的な救済がおざなりにされていく憂いである事を指摘します。

修道院の研究者である著者が明確に指摘するように、ルター自身も自省的な修道的生活に明け暮れた先で聖書に立ち返る事を見出した事は良く知られており、決して新たな宗派を求めていた訳ではない筈でした。しかしながら前述の聖職者たちの姿とモザイク模様であった神聖ローマ帝国、教皇権力との駆け引きの先に、本人の意思を越えて、その改革が広がっていく姿を、当時のヨーロッパ世界の複雑な政治状況を含めて丁寧に書き起こしていきます。

外から見るとキリスト教内部の世俗を巻き込んだ主導権争いにも見える一連の宗教改革の推移。しかしながらカトリックの視点で描いていく著者はもう一つの見方を示していきます。宗教改革によって進取の精神を持ったプロテスタントと旧態依然なカトリックと言う誤解しがちな視点を明確に否定するもう一つの改革。宗教改革期を含む18年にも渡り続いたトレント公会議がもたらした、ルターを始めとしたプロテスタントから投じられた疑問に対して明確な反論を示す、カトリック改革としての宗教的覚醒(聖職禄の問題を残しながらも)。それこそがキリスト教、カトリックが世界に羽ばたいていく起点となった事を示します。

そして、我々日本人にとってキリスト教(カトリック)と接触する発端にあったザビエルと彼も創設に携わったイエズス会。ここで著者はもう一人のキリスト教を改革した人物として、その創始者であるロヨラの出自をイエズス会の成立に添えて述べていきます。ユーラシア東方世界で大きな足跡を残したその布教と信仰はカトリックの本質を伝えているように思われますが、前述のルター以上にとても興味深い内容が示されていきます。

騎士を目指し、戦傷で右足が不自由になった後で巡礼者から求道の道に入ったロヨラ。ラテン語の教養不足を補うために学び続けることになるきっかけが、東方、聖地巡礼への強い想いからであったことを示していきます。そしてイエズス会の根幹を成す、彼の信仰の実践を認めた『霊操』。新書としては極めて珍しいかと思いますが、本書ではこの内容を丁寧に解説することで、一度はドミニコ会の異端審問にも掛けられ投獄もされたロヨラとその仲間たちが実践した特異な信仰の姿(ドクマティックとも)を示します。そこには彼が決別したはずの騎士としての残影が会則の根底にある「神の戦士」として活動する姿に映り込んでいるようです。

強い信仰心の先に異端と断じられてもその想いを綴り、実践し続けてきた二人の改革者が強く押し広げた、キリスト教信仰の復興と激しい論争の過程。その先に大航海時代を迎えたポルトガル、スペインの動きを重ねていきます。

十字軍の逼塞に対して期待された、モンゴルの西方進出とプレスター・ジョンの登場を願う想いを受けて送り出された、草原の道を経て東方へと向かった托鉢修道会の活動と挫折(ここで宣教師たちの人的資源の不足がその布教拡大の足枷となったという興味深い指摘も)。その後に登場することになる、喜望峰を越えてゴアに拠点を置いたポルトガルの貿易路に乗って東方へと向かった、托鉢修道会の後を追ったイエズス会とザビエル。

後半ではコロンブスに始まる新大陸の「発見」、両国の征服的な活動とその道筋を辿るカトリック伝教の様子を通史に添えて述べていきますが、終盤に掛けてはザビエルとその後に続いたイエズス会、托鉢修道会による日本布教の推移を綴る事に注力していきます。

貿易のルートに乗って陸上の拠点を築いた先に布教を拡大したインド、侵略と征服の後に進む事になる新大陸(特に中南米)と異なり、貿易と言う橋頭堡を持たないままに進む事になる日本における布教。その姿は為政者の貿易に対する熱量と入港する貿易船の推移によって常に揺れ動いていく事を示していきます。不安定な日本における宣教の成果を詳細に綴る中で、本書に通底する、シリーズの副題にも繰り返し用いられてきた禁欲と清貧という、著者が修道者に映し出す姿とは相反する、自ら生糸貿易に携わり膨大な利潤を挙げつつ、その利潤を以て布教活動を継続せざるを得なかった宣教師たちの姿と活動に、大きな疑問の念を滲ませていきます。

結果として、その後の禁教により日本におけるキリスト教の伝道は途絶え、僅かに潜伏キリシタン(カクレキリシタン)として姿を変えつつ信仰が伝えられていく事になりますが、著者は最後に二十六聖人の遺骸が運ばれ、その後に支倉常長が訪れた、メキシコ・シティでアステカの言葉で綴られた記録を引用して、カトリック、キリスト教が世界の周回を成就させたことを印象付けていきます。

宗教改革、大航海時代そして世界を廻るカトリックの伝教。密接に関わり合う三つのテーマを二人の修道者を軸に書き起こして新書として纏めるという稀有なアプローチを成す一冊。それぞれのテーマごとにやや離散的な部分もありますが、カトリック視点で描く大航海時代前後のヨーロッパ史、日本のカトリック伝教史としても興味深い一冊かと思います。

 

今月の読本「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)地図の片隅で波間に揺れる、人が刻んだ白昼夢の欠片

今月の読本「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)地図の片隅で波間に揺れる、人が刻んだ白昼夢の欠片

余りにも不思議な本。

本書と同じフォーマットを持つ、同じ版元の新刊「呪われた土地の物語」と多分一緒に本屋さんに入ってきた、2016年刊行のこの一冊。綺麗な水色の装丁に誘われてページを開き始めると…、読者は見知らぬ物語へといきなり旅立たされることになります。

今回ご紹介するのは「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)です。

まず、2009年にドイツで原書が刊行された本書を、フランスの書籍見本市で発掘して日本語訳を与えて刊行するという、殆ど蛮勇ともいえる英断を下した版元さんと編集者さん(あとがきで訳者の方が紹介しています)に深い敬意を表します。このようなマイナーを超越した、それもとびっきりに不思議な内容の一冊。部数が出るとは到底思えませんが、本書の刊行1年前に送り出した「秘島図鑑」が余程好調だったのでしょうか、「何故か」出てしまったと評したくなる一冊です。

但し、本書は前述の書籍とは全くフォーマットが異なります。世界の秘境の果てとも言える絶海の孤島の概要をお手軽に紹介するガイドブックや孤島の写真集、wikiまがいのトリビア本だと思って本書を手に取ると、瞬時に振り落とされます。また、地理好き、地図好きの方にとっては、ページの左側に描かれた、ドットパターンで陰影が描かれ、人が刻み込んだ跡を蛍光オレンジの眩しい色で記す地図に興味を持たれるかもしれませんが、右のページに綴られる文章には一貫した記述もなく、その内容には首を傾げっぱなしになるかもしれません(嗚呼、これをにやけながら読んでいる私はどうしようもない人間かも…)。

地理の本でも歴史の本でもない、もちろん旅行ガイド(そもそも「冒険家」でも辿り着けるかどうかすら怪しい島も数多)な訳もありません。更に言えば、日本語の副題にあるように、著者はこれらの島に一カ所も訪れた事が無く、今後も多分訪れないであろうと表明されています。

旧東ドイツ生まれのブックデザイナーが手掛けたこの一冊。冒頭のはじめにと、巻末の訳者あとがきには、流石に内容を気にされたのか、どちらも細々とその経緯が書かれていますが、更には文学かもしれないなど言い出す始末。その内容に振り回されるといたずらに混乱を招くだけで、多くの方には依然としてその経緯も筆致も、意図すらも判然としないかもしれません。

地図に惚れ込んでしまったデザイナーでもある著者がその片隅に描かれた、巨大な地球儀の中にポツンと描かれた離島を見た時のインスピレーション。そのインスピレーションのままに、一つの島に一つのストーリーを捧げて描く本書。

発見し、訪れ、領土とした人々の複数の言語で示される島の名前や、山や川、岬の名前。各島から三方位で示される近隣の島/大陸までの距離と、人が辿った跡を示す月日を示す線表。

ドライでシンプルすぎる程の表記ですが、左のページに描かれる海を示す水色と点描による陰影、そして蛍光オレンジと言う僅か3色で示す、絶海の孤島を印象付ける絶望的な程の寒々しさがデザインからも確かに伝わってくるその構成に、ページを開く毎に戦慄が走ります。

そして、右のページに描かれる、各島に添ったストーリーには一貫性はありませんが、一つだけはっきりしている事があります。そこに「人が居たらしいという事」。もはや無人島になってしまった島も、元々無人島だった島も、多くの人がひしめき合う島も、独り取り残されてしまった島も。ユートピアと称される島も、人の手で住めない場所に仕向けてしまった島も。全ては「人がなし得た物語」が添えられていきます。

人なしでは地図は生まれず、人が辿り着いた証として地図が描かれ、地名が付され、道が切り開かれ、住み、そして去る。地図が描かれるという行為自体、人のみが為し得る事である本質を、地図の片隅にそっと添えられる離島に見出した著者は、その愛おしい程の場所にそっと付された物語へと視線を向けていきます。その著述の裏側にある膨大なバックグラウンドとしての物語の中で、著者の意図が敢えてそうしたのか、はたまた偶然か。ページをめくる度に、左のページの寒々しい孤島の地図に呼応するように、絶海の孤島への悲壮な旅路を思わせるように、寒々しい余韻を残す物語ばかりが綴られていきます。

著者のインスピレーションによって選び取られた絶海の孤島、最果ての地図に添えられた人々の物語。その物語は本当に起きた事なのか、単なる絵空事なのか。その姿を見たものは、その物語を伝えたのは、僅かにかの地に「辿り着いたはず」の人々だけ。著者が地図の片隅から掬い上げた、波間の向こうに見え隠れする島影のように、波濤に消える白昼夢のように、浮かんでは消えていく物語。

波間に揺れるその島影に何が見えましたか。

 

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

毎月新刊が刊行される新書は、各社のレーベルである程度得意分野やテイストでセグメントが分かれるようですが、今回ご紹介するのは、明らかに中公新書さんや岩波新書さんが得意とされるテーマ。しかしながら、この分野では珍しい、ちくま新書さんから刊行された一冊のご紹介です。

世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)です。

著者は地理学の研究者。地理学とは非常に広範な分野をカバーするので、果たしてこのテーマを掲げた場合、どの部分に着目して描くのかにまずは興味を惹かれます。著者は植生及びその環境を研究されていますが、同時に世界50か国以上を廻ったフィールドワークの達人。その知見を最大限に生かした内容は、単なる地球環境や植生を取り扱った本とは一線を画する内容になっています。

全地球の気候区分(ケッペン気候区分)の説明から始まる冒頭や、地形、気象に関する解説は文系の方にとってははちょっと頭が痛くなり始めるかもしれませんが(ブルーバックスではないので数式は出てこないですよ)、ここは我慢で読み進めていただきたいところです。なぜなら、著者の想いはその後に綴られる豊富なテーマが地球の気候と環境によって形作られていることを理解してほしいと願っているからです。

その先に広がる世界。美しくも豊富な写真(電子書籍版はフルカラーらしいです、ちょっと羨ましいかも)で飾られる、地球を代表する自然や動植物の姿、その地に暮らす人々。これらはすべて営々として続いてきた地球環境そのものが作り出した事を、その仕組みとともに丁寧に説明していきます(お約束の場所以外にも、マンハッタンやストックホルムなど、ちょっと意外な場所も紹介されます)。

これだけですとやはり自然環境の本なのではと思われてしまうかもしれませんが、本書が出色なのは、さすがに人文に強い筑摩書房らしく、その環境で暮らす人々の姿、所謂人類学や農業、経済学的な視点の記述を、自然環境を語る以上に詳細に述べていきます。世界を廻った著者の豊富な知見と、他の研究者の成果、提供された写真を豊富に掲載することで、自然環境の幅広さ、素晴らしさを伝えると同時に、そこに生きる人々の、我々の想像を超える生活する知恵とその姿も併せて述べていきます。特に各気候区分に特有のその地に長く住み続ける人々の姿を、狩猟採集民、牧畜民、極地の生活、山岳民、そして都市住民と、生活スタイル、地形や環境ごとに述べていきます。世界中に暮らす人々がなぜそのような生活をしているのか、人類学や民俗学的視点の根底は、自然環境に強く影響を受けている事を明確に示していきます。

すばらしい世界旅行や兼高かおる世界の旅といった往年のTVドキュメンタリーが伝えてくれた、人と自然が交わる世界の広大さ、自然と人々の生きる姿と、その先に繰り広げられる歴史や経済活動は、決して切り離すことなく密接に結び付いて、我々はその中で生きていることを教えてくれたあの作品たちを見た時の感動をそのままに伝えてくれる本書。

そして、本書で忘れてはいけない点は、文中の引用や巻末の参考文献をご覧頂ければ分かりますように、その多くの成果が日本人の研究者たちによってもたらされたと言う点です。地球をフィールドに世界に飛び出した日本の地理学、人類学といった人文系の研究者や、動植物の研究者、地形、土壌、気象、地球環境といった科学者、さらにはプランテーション植物やその取引といった農学や経済学まで。豊かな研究環境の発展の中で世界中で活躍するたくさんの日本人研究者たちの成果を著者は自らの研究分野を述べる以上に取り上げていきます。

今や世界中で研究をリードする立場となったこれらの研究分野における日本人の研究者たちの成果が豊かに語り出す、気候区分で世界を巡る地球の物語。

あの頃、TVのブラウン管から覗く事しか出来なかったフィールドで、多くの日本人研究者の方々が活躍されていることを実感しながら、その世界の広さと美しさに心打たれる一冊です。

 

今月の読本「ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)新大陸へのゲートウェイは最初で最後の落ちこぼれドミニオン

今月の読本「ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)新大陸へのゲートウェイは最初で最後の落ちこぼれドミニオン

とても珍しいテーマの一冊。

カナダ、ニューファンドランド。この名称に何らかのイメージを持たれる方は決して多くはないかもしれません。

犬がお好きな方には、その地名が冠された2種類の犬種の原産地としてご承知かもしれません。赤毛のアンにご興味のある方であれば、プリンスエドワード島の北側の辺り、というイメージがあるかもしれません。またはお魚好きの方には、北大西洋の一大タラ漁場としての認識もあるかもしれません。理系の皆様には、マルコーニの無線実験の地と聞けば、高校時代を思い出されるかもしれませんし、「ダンガー空港」とフェリーパイロット、大西洋横断飛行の物語における最西端の進出地などと言い出せば、完全に飛行機マニアな皆様ですね(著者がトリビアとして本文中に挙げた内容ですが、全部大好物だった…嗚呼、このブログ主は不幸にも、上記のネタを全部カバーしています)。

日本人にとっては殆ど縁のない(コラムによると、日系人の居住者は僅かに140名、人口比では0.1%以下です)この地をテーマに、しかもイギリス植民地史の一側面として描こうという、レア度満開の一般書をご紹介です。

ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)です。

著者は現在鹿児島大学で教鞭を執られる方。軽妙で、ちょっと脱線気味な筆致もありますが、北米大陸のそれこそ東端という未知の世界の歴史へと、易しく楽しく誘ってくれます。また、何分こんなレアなテーマですから、本書の内容は、科研費による研究成果の一部である事をあとがきで示されています。貴重な研究成果、ありがたく読みたいところですが、なにせこのニューファンドランド、単なるカナダの一州だと思うと大間違い、英連邦の自治領から同じく英連邦のカナダへと大戦後の1949年に併合されるまでは、行政府の財政破たんにより自治すら許されなかった(破産自治「領」です)、一筋縄ではいかない場所のようです。

カナダが連邦国家である事はご承知でしょうが、一番大西洋側にあるこの場所が、一番最後に連邦に加盟したという、アメリカ独立13州をイメージしていると足元をすくわれる、摩訶不思議な地勢感。しかも英連邦の自治領から住民投票によるカナダへの併合は、腹黒紳士イギリス一流のカモフラージュなお仕着せで、実は、大戦で疲弊したイギリスからカナダに、借金棒引きの代わりに売り飛ばされたという疑惑(ドキュメンタリータッチで描く、著者の検証は読みごたえ充分)のおまけ付き。

これだけでも充分驚かされますが、更に追い打ちを掛ける内容が、ドミニオンというカナダやオーストラリア、インドと並ぶ、大英帝国内でもっとも高度な自治権を与えられていながら、大恐慌時に地元政府が破たんしたため、大英帝国に自治権を停止された挙句に、制度的には植民地に後戻りした末でのカナダ併合。

前述までの内容だけでも、初学者には大英帝国の植民地政策の検討テーマとしてはもう満腹なのですが、恐ろしい事に、これらは単に結果に過ぎません。

著者は冒頭から、その結果が特異なニューファンドランドの地勢が生み出したものである事を丁寧に説明していきます。

バイキングが既に北米大陸で漁撈などの活動をしていた事は歴史的な事実として認識されつつありますが、その舞台となった場所こそ、このニューファンドランド。そして「再発見」以降、最も早くに北米大陸で産業が成立したのも、このニューファンドランドの沖合にそれこそ海から湧き出すほどに生息していたタラを使った干しダラ生産。更には、カナダの歴史において今でも複雑な影を落とすイギリス系とフランス系の確執が、この地では、目の前に残された「フランス領」の島との経済水域争いという、厳然たる外交問題として今も突きつけられているという厳しい側面。

まるで、16世紀がそのまま現代に取り残されてしまったような感すらある場所ですが、此処まで複雑な経緯を辿る事になったのも、その地が今も昔も新大陸と旧大陸とを結ぶゲートウェイである点に集約されるようです。

大西洋を挟んだ宗主国である大英帝国への入口ゆえに、大陸内での合同よりも宗主国への恋慕の想いを抱き続けるニューファンドランドとラブラドール。北米にとっても、大西洋を経由して旧大陸へ至る最短距離となるこの地は、戦略上からも重要な拠点と見なされていました。9.11の際にアメリカに向かっていた数多くの航空機を一時的に退避させ、急遽降りる事となった乗客に対する地元住民の暖かい支援が行われた事で一躍有名になった、ガンダー国際空港。この空港の発祥もイギリスとアメリカを結ぶ空路の中継地点として、更には北米防空の要として、大戦時から冷戦が終結するまで重要視され続けました。

豊富なタラ漁による自主財源と、旧大陸への玄関を押さえた地勢。更には沖に浮かぶフランス領となる小島(何と、フレンチ・インディアン戦争の名残)の対岸は「フランス海岸」としてフランスが戦後まで漁業権を維持するという、大陸内以上に複雑な事情が、大陸国家を目指したカナダに与することに躊躇をもたらし続けたようです。

逆に、タラ漁の低迷と、世界恐慌による脆弱な経済構造への深刻なダメージも、宗主国に助けてもらえる、更には既に基地を擁していたアメリカに救ってもらおうという、ご都合主義を持ち続けた末に、遂にはデフォルトの危機へ。結果として、折角カナダと同格の大英帝国内の自治領・ドミニオンとしての扱いを受けていたにもかかわらず、自治権停止、行政管理下という、著者によると植民地以下の扱いに転落してしまいます。ここで、カナダによる救済統合という案もあったようですが、この時点では統合には至りません。

一般的に考えれば、カナダ自体も世界恐慌によるダメージを強く受けており、統合による財政負担の問題がまずは取り沙汰されるかと思いますが、著者は此処で大英帝国特有の問題点を指摘します。即ち、英連邦制度の根幹を成すウェストミンスター憲章の規定により、当時のカナダ政府が「憲法」たる、大英帝国が制定したイギリス領北アメリカ法の改正権限を有していないために、統合に踏み切れなかった点を明示します(更にはニューファンドランド自体も、前述の立ち位置故に、ウェストミンスター憲章をあえて受け入れず、ドミニオンだが植民地という「半人前」の地位に留まっていた)。本書がカナダ一州の物語ではない事を雄弁に示す著述。実際にカナダ自身が憲法を含む完全な立法権を獲得したのが20世紀も末の1982年と聞くと、更に驚かれるかもしれません。

北米で最初の地は、最後に大陸国家としてのカナダに併合されましたが、その根本的な原因となったタラ漁の不振から始まる経済の低迷は、禁漁を続けても戻る事のない、絶望的な資源低迷(払底という言葉の方が正しいかと思います)同様に、低空飛行を今も続けています。

著者が表紙に掲げたカラフルな家並み。常に霧に包まれる北大西洋の海での漁から戻る漁師たちが自分の家を認識するために彩ったと云われるその景色が数少ない慰めとなっている、ちょっと忘れられそうなその場所に潜む、余りにも意外な歴史に驚きつつも、こんなテーマの本が本屋さんで手軽に購入できる環境に感謝しながら。

フィッシュアンドチップスに隠された、もう一つの北米植民地史を。