今月の読本「コロンブスの図書館(原題:The catalogue of shipwrecked books)」(エドワード・ウィルソン=リー 五十嵐加奈子:訳 柏書房)海洋の提督が遺した知られざる息子が指し示す、知の大海原を導くコンパスローズ

今月の読本「コロンブスの図書館(原題:The catalogue of shipwrecked books)」(エドワード・ウィルソン=リー 五十嵐加奈子:訳 柏書房)海洋の提督が遺した知られざる息子が指し示す、知の大海原を導くコンパスローズ

スペイン・セビリアのセビリア大聖堂に付属するコロンブス図書館(コロンビーナ図書館)。海外の図書館の事について興味のある方ならご存じかもしれませんが、その名が示す通り、コロンブスに関する書籍、史料を収めた図書館。しかしながらその名前がイメージする所とはちょっと異なる人物とその蔵書が数多く含まれています。

セビリア大聖堂からコロンビーナ図書館が引き継いだ蔵書の中核をなすのは「コロンブスの「息子」が西ヨーロッパを回って蒐集した、当時ヨーロッパ最大の個人蔵書の遺された一部」であるということです。

本書の帯にあるように、扱われるテーマとなるのはコロンブスの次男。放蕩の息子であったスペイン貴族の血を引く長男で、インディアス提督となったディエゴ・コロンの陰に隠れるような私生児としての存在でありながら、イザベル女王の宮廷に小姓として入り、のちに当時のヨーロッパで覇権を築いたカール大帝に側近として仕えた宮廷政治家。マゼランの世界周航達成後に噴出した、かの有名なトルデシーリャス条約境界論争において、スペイン側代表の一員として会議を主導したスペイン主席航海士代理。そして、少年時代に父親であるコロンブス最後の大西洋航海に同行し、間近でその姿を見続けてきた肉親として自らペンを執って書き残した、現在でも議論が続く有名なコロンブス提督伝を執筆した人物。

本書は、これらの実績を積む過程で彼が遺したもう一つの物語を綴ることになります。

今回は「コロンブスの図書館(原題:The catalogue of shipwrecked books)」(エドワード・ウィルソン=リー 五十嵐加奈子:訳 柏書房)をご紹介します。

本書の原題、The catalogue of shipwrecked books.(Young Columbus and the Quest for a Universal Library.)訳者の方による表現では「海に沈んだ本の目録」といったところで、本文でも描かれる、コロンブスの息子、エルナンド・コロンがベネチアで蒐集した1000冊以上の本や版画をスペインに送り届ける際に船が難破して沈んでしまったエピソードから名付けられていますが、もう少し深いテーマが添えられています。

著者はイギリス、ケンブリッジ大学に所属する中世ヨーロッパ文学の研究者。巻末に解説が掲載されている、エルナンド・コロンが執筆した「コロンブス提督伝」に記述される、現在でも議論の多いコロンブスがスペインに現れる以前の経歴のうち、特に議論が多い冒険譚的な著述を綴る部分について、他の著述者による後年の挿入ではないかという意見に対して、前述の彼が遺した蔵書と目録を調べ上げる中で、本人による他の書籍からの挿話であることを明らかにした人物です。

コロンブスの息子が自らの父親の業績に瑕疵を与えないように、明白な役割を与えられた人物として綴られる伝記の中で唯一残された、主題から逸脱する筆致に息子であるエルナンドの想いを見出した著者。本書では著者が見出したエルナンドの姿と足取りを追って幼少時代から綴り始めますが、一つの大きなテーマを当てはめていきます。

本書の邦題に繋がるテーマ。彼が父親であるコロンブスの死去後に着々と積み上げ、晩年には加速度的に増加した書籍と版画の蒐集。その数、実に15000点とも20000点とも伝えられていますが、その中に多く含まれるルネサンス期を象徴する印刷製本で大量に刊行された、下世話な風物を描いた小冊子や版画の類。言語的にも母国語のスペイン語に留まらずラテン語やギリシャ語、アラビア語、宮廷人として仕えたカール大帝の広大な版図にも通じるヨーロッパ各国の幅広い言語が含まれており、当時のバチカンを含む教会や修道院、大学等が所蔵する書籍とは大きく異なる、あらゆる出版物、手稿を集めようとした痕跡が残されています。

表題だけを見ると、これらの書籍コレクション(500年を経て尚、4000冊ほどが伝わる)をテーマとした内容にも見えますが、著者の視点はさらに別の指向を求めていきます。残された蔵書と共に伝わる、蔵書の記録やエルナンドが残した記録、その記述内容。のちに初期の司書とも捉えられる彼の元で書物の整理に当たっていた人物たちが語るその手法。どのように蒐集された書籍たちを「識別」していくかという方法論に興味の焦点を当てていきます。

コロンブスにとって最大の支援者であったイザベラ女王の王宮に小姓として入った後、父親との第四回目の航海に同行し、辛くも生き残り再びスペインに戻ったエルナンド。父の死後、復権を果たした腹違いの兄であるディエゴの名代を担うためにスペイン王室の宮廷人として活動を続け、父が獲得した新大陸での権利を争う論争、裁判を続けるために、ヨーロッパ中を移動し続ける帝国の王座と共に、またバチカンの法院での審理に出席するためにローマへと、晩年の5年ほど以外の殆どの期間、スペイン国内にとどまらず、広く西ヨーロッパの各地を転々と移動し続けながら、書籍の蒐集を続けていきます。

著者はコロンブスの継承者たちの利益を代弁する人物として王座と共に移動するエルナンドの姿に、各王国の状況や神聖ローマ帝国、ローマ教皇の動き、更には(残された蔵書からごっそりと抜けているために判断はできないとしているが)エラスムスの思想への格別の共感とルターから始まる宗教改革の影響、トマス・モアの作品と収集された小冊子類に残された当時の風刺に見られる思想的な共通性などを挿入する事で、ルネサンス晩期の歴史的な背景が同時に見えるように著述を進めます。文学研究者の方らしい配慮ともいえる内容ですが、その中で稀代の書籍蒐集者としてだけ捉えられるエルナンドの業績に対して、更にもう一つの側面を与えていきます。

海洋の提督と称されたコロンブスの息子、2度目の大西洋横断の帰路では船団のカピタン・ヘネラルを称し、スペインの海外事業を取り仕切る通商院の首席航海士代理を後に務め、当時のポルトガルから最新の海図と測量技術を密かに奪取する事すらも使命とした航海士としての側面。更には途中で挫折した「スペインの描写」と称した、封建領主の力が強かった当時としては余りにも先進的であった詳細なスペイン地理誌編纂の着手という、宮廷政治家、地理学者としての側面。

ここまで長々と書いてきましたが、著者が語りたいと願ったメインテーマ。エルナンドが残した蔵書とそれに添えられた「目録」をどのように作り出していったのかを知るためには、前述の内容を全て辿ることが求められます。神聖ローマ皇帝として西ヨーロッパ全体にその影響力を行使したカール大帝時代の宮廷人にして、新世界を押し開いた「提督」の息子。旧世界の知識の中心地ローマと、ルネサンスの息吹とイスラム世界の空気を存分に浴びるベネチアでの滞在。次の時代の幕開けを担う震源地となるイングランド、低地地方とドイツが生んだ思想。更には父親であるコロンブス同様にその恩恵を深く受けた、知識を大衆化する事に決定的な役割を果たした印刷物、海図へも繋がる版画への強い想い。

新世界という扉が開かれ、ルネサンスから宗教改革という中世のキリスト教世界が培ってきた世界観、知識の集積体系自体が全面的に見直される時代背景の中を生きた、当時最先端の数学、天文学の知識と技術を理解する航海士にして、東西の歴史と実体験としての新世界の知識をも併せ持つ宮廷人が編み出した知の羅針盤。それは現在の図書館、更には無限の奔流とも思えるネットワーク社会に溢れる情報を検索する際にカギとなる考え方。

現在ではデジタル化されて図書館の片隅に眠る、私が図書館に入り浸っていた頃には入り口の一番良いスペースを占めていた、アルファベット順による配列から始まり、概要を示す「目録」、題材を示す「目録」そして「著者・科目一覧」という図書館における書籍分類の基礎となる考え方を生み出した、言語、時代、世界感に囚われない知識の体系化と集積を生涯のテーマとした人物のレガシー。そして、訳者の方が記念に覚えておいて欲しいと書き添えた、訳本らしいボリュームを有する本編約390ページを読破された方だけが思わず膝を打つことになる、当たり前すぎて全く意識する事がなくなっている「あること」。

ルネサンス期に生まれつつあった新たな知識を集積する理論体系を、航海士、地理学者(言語学者としての側面も)としえて捉え直したロジックは、姿を変えながらも今を生きる我々の中に脈々と伝えられているようです(著者はテクノロジーの進化を得て、500年を経て漸くその姿に追い付いたと。ネットワークを軸とした集団知の追求を生涯のテーマとした、私が敬愛するダグラス・エンゲルバートの知に対する考え方にも通じる内容です)。

確かに、その蒐集された内容が彼にとって危急の(そして彼自身は全く報われることがなかったという皮肉を含めて)問題、父親であるコロンブスがスペイン王室と取り交わした約束の履行と、代理人としての大西洋の向こう側に居る兄が継承したその遺産と権利の恢復と保持。更には、汚辱に塗れ失意のうちに亡くなった偉大な父親の功績を再び称揚するために必要となる証拠資料を取り揃える必然性から生じた部分があるにしても、他愛もない小冊子の蒐集など大半は自らの知的好奇心がさせたもの。

中世の世界に溢れ出した印刷技術がもたらした知識の記憶を留め置き、新たに開かれた世界の姿を書き加えながら膨らみ続ける共通の世界知の(言語という姿で)集積を目指した、当時のコスモポリタンが見据えた知の大海原を漕ぎ往く海図と指し示すコンパスを生み出す過程を添えた物語。

膨大な背景を個人史と時代史の中に織り交ぜながら綴られていく一冊。一気に読み進められる内容ではなかったですが、著者の強い思いを感じながら、中世ヨーロッパ史に添えられた一人の人物ともう一つの物語をリフレインを掛けながら一歩ずつ着実に読ませる内容。

表題に興味を抱かれたコロンブス(父親の方)の人物像や航海の姿、美しい中世の図書館や書籍に惹かれる方には少しイメージが異なる部分もあるかもしれませんが、その中で培われた、現在でも褪せる事のない、知の集積とそのアプローチを人物像から描き出すという実に興味深いテーマに触れられる一冊です。

今月の読本「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)その余韻に浸り続けたい、溢れる好奇心を繋いだ絶妙な訳で誘う食卓の向こう側

今月の読本「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)その余韻に浸り続けたい、溢れる好奇心を繋いだ絶妙な訳で誘う食卓の向こう側

昨年の11月頃にある書評で紹介された直後に入手してから3か月ほど。

昼休み、帰宅後、そして就寝前。普段の読書では一冊を一気に読み切るタイプなのですが、この一冊だけは、愛おしくも一篇、一篇とその余韻を噛み締めるかの如く、こつこつゆっくりと読み進めていました。

中国くいしんぼう辞典

今回は「中国くいしんぼう辞典(原題:吃貨辞典)」(崔岱遠 李楊樺:画 川浩二:訳 みすず書房)をご紹介します。

原題の「吃貨」すなわち食いしん坊の事ですが、著者の想い、そして本書の内容を現すには最も叶った表現かと思います。中国語は音で表すことを重んじると著者が述べるように、その発音(チーフォ)のイメージ通りに唯、食べることが大好きな著者による、生粋のと称する著者の地元である北京を軸に中国全土に広がる数多な料理を訪ね、食した内容を綴る「辞典」。全部で83の料理が紹介されますが、そのスタイルは一貫しています。

著者が辞典というスタイルを採るために選んだ三つのテーマ、家庭、街角、そして飯店。語られる内容はその土地の物語から始まり仕込みから調理法、最も大切な食する姿とその味、そして料理に纏わるちょっとした蘊蓄と歴史のお話まで。ひと手間かける祝祭の料理から、今やその店はなくなり、周囲の光景が一変してしまった中で、変わり続けながらも作り続けられる精緻な技を凝らした名料理まで。著者の筆致はそれらを等しく扱っていきます。

著者が食していく世界は、家庭料理では北方の北京が中心となりますが、後半に行くと徐々に遼東や四川、杭州へと広がっていきますが、変化しつつもそれぞれの土地にしっかりと根付いた、その土地でなければやはり味は変わってしまうと述べていきます。土地を重んじ、土と水と海、移り変わる季節それぞれに獲られる食材に最も叶った調理法を時には凝らし時にはシンプルに、季節、そして食材の恵みを感じさせる一品。各地の料理を称揚しつつ綴っていきますが、それでも著者の故郷である北京、中国北方の家庭料理、そして羊肉の料理にはひとかたならぬ想いがあるようです。特に印象的だったのが、屠る肉は変わっても、それらがイスラム系の料理の系譜を継ぐものであることを明確に示す点。本書で初めて知った事柄ですが、アジアの東端でもある中国、地続きのそれは常にコスモポリタン的な世界を内包していた事を改めて教えてくれるようです。

そして、本書の最も印象的な部分、これは原著を読む事が出来ない身にとっては推察するしかない事なのですが、独特の味わいを持った訳が醸し出す、少し懐かしさと素朴さを漂わせる活字の向こうに広がる食卓の姿。

著者は1960年代末生まれの編集者と称しており、決して往年の大家、美食家、名料理人という訳ではなさそうです。しかしながら胡同が残る古い北京の街並みを記憶に残す著者(とその訳者)の筆致は、何処となく現代の急激な発展を遂げる中国のひとつ前の世代の雰囲気を濃厚に伝えてくれるような気がします。家族が一堂に会する春節を迎える料理を仕込む家人の姿、活気溢れる労働者の騒めきすら伝わってくる街角で振舞われる、素朴で人の温もりを感じる湯気が上がる風景。そして、秘められた歴史とその背景、実際の姿を淡々と述べながら精緻な技に舌鼓を打つ、名店の卓。

一つの料理は僅かに4ページほど、中国料理に不慣れな私にとってはどの料理もほとんどが未知のもの(訳者あとがきにあるように、その日に合わせた(点菜)を要領よく選ぶ技は学問ですらあるというくらい、数多な料理がある)、それでも一品一品を読み進めていくのが楽しくなる、文章の向こうから物語とそれを食する著者の姿、美味しさと共に食卓の景色が、かぐわしい香りと共に緩やかに浮かび上がってゆったりとページの向こうに消えていく。その波のように寄せては引いていく姿についつい浸りたくなってしまい、次の一品へと読み進める手が止まってしまう。

シンプルで味わいのあるモノトーンの線描による、ちょっとノスタルジックなイラストがそのイメージを膨らます、愛おしく読み進めた本書を包み込む美味しい物語たち。前述のように著者は料理専門家でもなく、美食家という言葉にすらやや疑念を持たれている方。ではこのような滋味溢れる内容がどのように構築されたのかといえば、実に現在の中国を象徴する、数多に溢れるネット上の情報と著者と彼らとの情報交換により積み上げられた繋がりの上に生み出された物語。もちろん著者の旺盛な好奇心と食いしん坊としての姿がその下地にあるのですが、本書の全体を包む一貫したイメージの構築に成功したのは、広大な国土に広がる数多ある料理とその風物を自らのものとしている、各地に住まう人々を結び付けたネットの力が推し支えたもの。そして、著者の意図するところを充分に汲み取って、異邦人たる我々に伝えてくれた、中国語に練達され、ご自身も中国文化、中国食文化の研究をされている訳者の力量のなせる業。

暖かい料理が恋しくなる厳冬期、著者が愛おしむ北京同様に寒さ厳しいこの地で、活字の向こうに立ち上がる湯気に映る見知らぬ料理と風景を思い浮かべながら、穏やかなその筆致に身を委ねる幸せなひと時を届けてくれた素敵な一冊です。

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

またしても不思議な一冊に巡り合ってしまいました。

テーマに惹かれたのは確かなのですが、果たして地理学で呑む事とは何ぞやと悩みつつ、内容を想像しつつ手にとって、読み始めたこの本。正直に言って、読みこなすのは非常に厳しかったです(未だに読み切った、という感触は希薄です)。

決して小難しい内容と言う訳でも、文章が難解と言う訳でもありません。共同訳者の皆様と、版元さんの粘り強い翻訳、校訂作業積み重ねの結果、一般書籍として充分平易で読みやすい内容となっているかと思います。しかしながら、その平易な文章で綴られた内容に、別の意味で苦しめられ、考えさせられる一冊でもありました。

今回ご紹介するのは「アルコールと酔っぱらいの地理学」(著:マーク・ジェイン、ジル・バレンタイン、サラ・L・ホロウェイ/訳:杉山和明、二村太郎、荒又美陽、成瀬厚 明石書店)のご紹介です。

原著は2011年にイギリスで刊行された、学術論文をベースに要約として纏められた書籍。冒頭に著者陣から日本語訳刊行にあたっての紹介が述べられていますが、のっけからそのスタンスに驚かされてしまいます。曰く、アルコール・スタディーズには地理学が欠落している、と。そのことを西洋、イギリスと北米を基軸とした文化圏に基底を持つ執筆者たちは、訳本と言う形で広く世界に対して訴え、議論を求めるきっかけとなる事を願います。

公衆衛生と社会学で語られる当該分野の学術的成果に対して、人文地理学者として内容への不満と検討の欠落を明確に述べた上で、その状況に乗り遅れてしまったことへの焦燥感を滲ませながら、人文地理学を用いた分析手法を以て、これまでの飲酒に対する議論の再検証を行い綴られる本書。その筆致は何処までも人文地理学者の視点、思考で貫かれているようです。

前述しましたように、平易な筆致にも拘わらず読みこなすのに長時間を要する事となった本書に通貫する、人文地理学という学問規範による視点。その範疇と視点の置き方が私が理解していた地理学の領域を遥かに超えている事に、驚きと戸惑いを受けながら読み進めることになりました。

テーマに対する地理学者としてのスタンスを示す序章と実際に地理学に相応しいセグメントの取り方となる、都市や田園をテーマにした1,2章。確かにイギリスと言う地理的遠隔性と社会構造に対してある程度理解が無いと読みにくい内容かもしれませんが、近現代史の一端や社会学的な知見をある程度お持ちの方であれば、決して初見でかつ驚かれる内容が綴られている訳ではない筈です。但し、その着目点が「呑む場所、環境」で貫かれているのは流石に地理学だなと思わせる点もあります。

しかしながら、3章以降はそのような私の理解、読み方を徐々に越えていく内容が綴られていきます。地理学のイメージに繋がる、位置や場所を示すアイコンを軸に語られていく事自体は変わりませんが、その場所が「ホーム」、即ち自宅での飲酒について検討を加えてく部分に入ると、議論の焦点は飲酒の行為自体や酩酊、忌避の検証へと移っていきます。

場所とも異なる、地勢とも地域とも異なる。コミュニティや個々人の飲酒/禁酒という行為を理解する為に、場所と言う基軸を越えて人文地理学が持ち出す手法、それは座標系のようにも見える飲酒という行為そのものを分解して空間座標的にセグメント化していく分別過程。

そのような印象を強く受けたのが4~6章で語られるジェンダーとエスニシティ、そして世代感への議論。共に飲酒に対して懸念や否定感、禁忌というセグメントを嵌められた領域に対して、その中で飲酒を行うという事、または飲酒を退ける事について、飲酒を行う場所やシチュエーションを重ねるように対比しながら、社会性や年齢までを含めてセグメントの中に割り付け、その狭間に落ち込んでしまう部分に対して着目すべき点を示す。

私の理解していた地理学と言う言葉が辿るイメージを大幅に逸脱する内容でありながら、著者達は全くそのようなそぶりも見せず議論を進めていく。そのギャップに苛まれながら更に読み進めていくと、決定的な一文に突き当たりました。

最終盤で語られる、凡そ地理学とは縁遠いテーマとも思える「感情と身体」。その中で、パブに集う老境の男性が抱く想いと繋がりを求める社会性という、如何にも社会学が扱う内容を分析する考察で語られる、

「アルコールがいかに多くの問題をめぐる感情の地理と関係しているのかを示している。」

感情の地理。果たして地理学とはいったい何なんだろうと、読んでいた本を机に置き首を振りながらふと眺めた、表紙の帯に書かれた「居酒屋の戦後史」著者で社会学者の橋本健二先生が捧げた一文、

「地理学は、人間の行動に関することなら何でも研究できる学問だったのだ。」

そのコメントを直視させられた一瞬。

本書をパブや居酒屋のような飲酒と呑む空間に関する概説書として捉えると見えてこない、人文地理学がどのような手法でどんなテーマに向かおうとしているのか、その学問分野に強い矜持を持つ著作と訳者たちが、飲酒と言うテーマを一端として地球の反対側にある呑み人の天国である島国に送り出した、自らの座標軸を示す一冊。そして、投網を手に大海原を漕ぎ進む船のようにも思えてしまうそのテーマの広がりの中で、進むべき針路を示すコンパスとして示された一冊。

場所を基軸にセグメントとして細密に空間化されたその検証手法に対して、飲酒と言う行為に対する、人々の意思、意識が重なり合う場所としての示唆的な全体像を捉えたいと思っていた私自身の想いと、著述される内容の折り合いに悩みながら。

巻末までぎっしりと綴られる著者陣、訳者陣の強い想い。その規範となる人文地理学が掲げる理論構築については判らないことだらけですが、その手法の一端を垣間見る想いを抱いた次第です。

まだまだ暑い日が続きますが、日が落ちて少し凌ぎ易くなった夕暮れ。そちらのカウンターで一杯飲みながら、もう少しお話を聞かせて頂けませんでしょうか。

今月の読本「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)大陸と辺境の格差と制約を人文地理学で積み上げる島嶼学へ

今月の読本「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)大陸と辺境の格差と制約を人文地理学で積み上げる島嶼学へ

大きな本屋さんにぶらりと立ち寄った時、頭の中に常に入れてある数十冊程の読んでみたいと思っていた本を偶然書棚で見かけてしまうと、果たして買ってよいものか少しばかり緊張が走ります。大抵普段は手に取る事が出来ないハードカバーの本、お値段よりも読書時間のやりくりをこの一冊の為に割けるのかと悩み込む事、暫しとなります。

今回もそんな葛藤の中で手に取った一冊。予想通り読みこなすには相応の時間を要する結果となりましたが、テーマである人文地理学と言う世界にほんの少し触れられたように感じた本になりました。

今回ご紹介するのは「島の地理学」(スティーヴン・A・ロイル 中俣均:訳 法政大学出版局)です。

大学の出版事業で刊行するこの本、現在では島嶼学という区分を用いられる人文地理学の一分野を開拓されたイギリスの地理学者の方が書かれた概説書にして、決定版と評される一冊。内容的にもお値段的にも決して一般向けとは言えない本ですが、その分、表題のテーマについて濃厚に述べられていきます。

著者自身が住まわれている場所自体が「島」であるイギリス。世界の海を制覇した大英帝国の残滓が残り、未だ海外領土(植民地とは言わない)としての島々を多数有していますが、著者自身もそれらの離島を含めて世界中の島嶼、孤島を巡られた(あとがきによると2016年時点で864島)先に綴られた本書。

表紙の写真からトロピカルな南洋の島々のお話が中心かと思われますが、前述のように著者は世界中の離島を廻った方、更には解説文にあるように、数々の離島を擁する北アイルランドで教鞭を執るようになってからこれらのテーマに打ち込むようになった経緯からも判りますように、如何にもと言った南洋の島々の姿だけを描く事を良しとしていません。

人文地理学という言葉の通り、本書では歴史的な推移を踏まえた膨大な知識と経験の蓄積の上に描かれる離島の姿をテーマごとに重層的に積み重ねることで、現在では「島嶼学」と呼称されるようになった、その特異な地勢の輪郭像を定義して描き上げていきます。

結論だけ述べてしまえば、読まれる方が凡そ把握されているように、モノカルチャーである一方、少数の人員で生活に必要なあらゆる要務を担う必要から、行政や事業体を含めて複数の職種に就く事が当たり前となる経済的な自立性と多様性の低さ。輸送面の不利を含めてあらゆる面で高コストな社会基盤構造。競争的な側面が生まれにくい事からその地に生きる人々は常に著者の言う「大陸」からの波濤に対して余りにも脆弱で、一度その波に呑まれてしまい、経済活動の影響下に置かれると、途端に政治的にも脆弱な立場に立たされることを地域性、経済性、そして地政学的な観点から繰り返し指摘します。

世界的な経済活動の中では存在自体が埋没してしまうこれらの離島。特に著者が居住するイギリスの場合、周辺には特異な自治制度を持つ島々や、中米、南洋、更には大西洋の果てまでに海外領土を有しているため、これらの島々の事例を積み重ねてくことで、それぞれの島が自立した経済活動を維持する事が極めて困難であることを示していきます。

もちろん、その中にあるオフショア金融で繁栄する島や低廉な人件費を武器に進出するテレワークといった現代の情報通信の発展がもたらした新たな産業へのアプローチ、比較的恵まれた条件下で教育を始めとする社会基盤からの再構築を目指す、プリンスエドワード島(赤毛のアンですね)の例も示されますが、成立や収益の基盤を「大陸」の経済活動とその競争の中に委ねている点では変わらないと指摘します。

一方で、この書籍にご興味を持たれる方であれば、必ず着目されるであろうクルーズを含めた観光やエコツーリズムに対しても、島の乏しいインフラ基盤(水源、電力、乏しい可住面積自体)を枯渇させ、彼らが望む物品はまた島外から持ち込まれる事を指摘した上で、興業化された「伝統」からの収益を目指さなければならなくなる、経済性に埋没していく事に対して、平穏な暮らしを求める島民たちとの軋轢へのバランスのとり方の難しさも、実際のツアーの姿を示しながら指摘されます。

また、本書はあくまでも「島嶼」をテーマとして多面的な側面をからその姿を描く事を目的としているため、離島自体が抱える経済的、物質的な課題を解決する方策が述べられる訳ではありません。しかしながら、その分析手法を実践として示すために終章に於いて著者が用意した「島嶼学」の検討テーマが、大西洋の絶海の孤島たちである英国海外領土の三つの島。

余りにも有名(この表現、特定の方にと但し書きが必要でしょうか)な、トリスタンダクーニャは成立の過程から居住者の特異な病歴と言った島嶼の孤立性の典型例として本文中で語られますが、検討のメインに据えられるのは、以前はその主島としての役割も果たしていた、セントヘレナ。

昨年2月に最後の郵便船と称されたRMS St Helenaが遂に退役、直後に待望著しかった空港が開設されましたが、本書はそれ以前のケープタウンからの船便か空軍による空路があるアセンション島経由でしか辿り着けない絶海の孤島の姿から、島の自律性と本国との関係を分析する事例として検討を加えていきます。

本国からも遠く離れ、特産となる物産も途絶え(以前は亜麻のモノカルチャーと言う点も離島的だと)経済的な自立も立ち行かない島に対して、著者が指摘する重要な「資産」、それはナポレオン終焉の地であるという歴史的な事実、そして当時の姿を依然として色濃く残すタイムスリップしたかのような街並み。

離島にとって最も大切なもの、それは大陸との経済競争の中を生き抜く先鋭化したプランテーションのような単品種産業でも、隔絶性がもたらす孤独と悲惨さでもない。もちろん国際法の抜け穴を利用したり、大国の意向を呈する事で資金援助を掻き集め続けるという依存でもない。その地に根付いた歴史的な背景の蓄積を如何に大切にアピールしていくかと言う点であると述べていきます。

離島と言う極限の辺境がもたらす姿を人文地理学と言う視点で描き出す本書。実は本文中に繰り返し指摘されるある点に於いて、離島に限らず極めて普遍的な事が述べられている事が判ります。それは、大陸と離島の関係を述べる際に語られる「中央と辺縁」という視点。

経済的にも文化的にも大陸と言う中央から離島と言う辺縁へ傾斜的に波及するものであり、それはたとえ島嶼群であっても主島と属島の間では深刻な格差が生じる点からも厳然たる事実であると指摘されます。その中で、第二次大戦で敗北する以前の日本は唯一例外的に自分たちの範疇で自律的に取り仕切る事が出来たと指摘する、同じ島国であっても大陸との切り離せない関係の中で歴史を刻んできた地に住む著者。

その指摘は地方に在住する私にとっても直視せざるを得ない内容を含んでいます。離島と言う極限の例を用いて、自立した地方などと言う存在は無いことを冷徹に指摘する著者(かのトリスタンダクーニャにしても、経済的自立の根底には日本を含むロブスターの輸出がある点は否定できません)。その上で、地方にとって本当に必要なものは何か(著者は人口と教育であるという、現在の日本が抱える問題と同じ点を明快に指摘します)を考えるきっかけを与えてくれる一冊です。

 

今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

昨年は宗教改革500年と言う事で、日本でもルターを始め中世キリスト教に関する多くの書籍が刊行されています。

日本人にとってはどうしても馴染みの薄いキリスト教世界とその歴史。今回ご紹介するのは、長くその研究を続けられ、日本にその姿を紹介され続けてきた研究者の方による一冊です。今回は「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)をご紹介します。

本作は、同じ著者の方による執筆で2014年から刊行が続けられている「ヨーロッパ」シリーズの最新作(次回作もあるらしいです)。これまでに以下の3冊が刊行されています。

今回の一冊も副題に[大航海時代のイエズス会と托鉢修道会]という副題が添えられており、シリーズに一貫した著者の専門分野である中世修道院の世界を軸に描いていくように見えますが、内容は少し異なります。

研究テーマ故かと思いますが、カトリックに対して強い思い入れがある事が明瞭に判る著者の筆致。しかしながら本書の前半はその教会を永遠に分かつことになってしまった、ルターからカルヴァン、そして英国国教会に至る宗教改革の推移を歴代の教皇や世俗の君主たちの動きと対比しながら綴る事に注力していきます。

此処で著者が指摘する点が、所謂贖宥状に対する義憤的な表現がなされる宗教改革の発端について、それ以上に各地の司教職を兼任し、その収益である膨大な聖職禄を運用する聖職者たちが金銭行為に携わる事の憤りと、兼職により教会で満足な礼拝も行われなくなったことによる、信仰心の希薄化と教会の本義である、信徒に対する霊的な救済がおざなりにされていく憂いである事を指摘します。

修道院の研究者である著者が明確に指摘するように、ルター自身も自省的な修道的生活に明け暮れた先で聖書に立ち返る事を見出した事は良く知られており、決して新たな宗派を求めていた訳ではない筈でした。しかしながら前述の聖職者たちの姿とモザイク模様であった神聖ローマ帝国、教皇権力との駆け引きの先に、本人の意思を越えて、その改革が広がっていく姿を、当時のヨーロッパ世界の複雑な政治状況を含めて丁寧に書き起こしていきます。

外から見るとキリスト教内部の世俗を巻き込んだ主導権争いにも見える一連の宗教改革の推移。しかしながらカトリックの視点で描いていく著者はもう一つの見方を示していきます。宗教改革によって進取の精神を持ったプロテスタントと旧態依然なカトリックと言う誤解しがちな視点を明確に否定するもう一つの改革。宗教改革期を含む18年にも渡り続いたトレント公会議がもたらした、ルターを始めとしたプロテスタントから投じられた疑問に対して明確な反論を示す、カトリック改革としての宗教的覚醒(聖職禄の問題を残しながらも)。それこそがキリスト教、カトリックが世界に羽ばたいていく起点となった事を示します。

そして、我々日本人にとってキリスト教(カトリック)と接触する発端にあったザビエルと彼も創設に携わったイエズス会。ここで著者はもう一人のキリスト教を改革した人物として、その創始者であるロヨラの出自をイエズス会の成立に添えて述べていきます。ユーラシア東方世界で大きな足跡を残したその布教と信仰はカトリックの本質を伝えているように思われますが、前述のルター以上にとても興味深い内容が示されていきます。

騎士を目指し、戦傷で右足が不自由になった後で巡礼者から求道の道に入ったロヨラ。ラテン語の教養不足を補うために学び続けることになるきっかけが、東方、聖地巡礼への強い想いからであったことを示していきます。そしてイエズス会の根幹を成す、彼の信仰の実践を認めた『霊操』。新書としては極めて珍しいかと思いますが、本書ではこの内容を丁寧に解説することで、一度はドミニコ会の異端審問にも掛けられ投獄もされたロヨラとその仲間たちが実践した特異な信仰の姿(ドクマティックとも)を示します。そこには彼が決別したはずの騎士としての残影が会則の根底にある「神の戦士」として活動する姿に映り込んでいるようです。

強い信仰心の先に異端と断じられてもその想いを綴り、実践し続けてきた二人の改革者が強く押し広げた、キリスト教信仰の復興と激しい論争の過程。その先に大航海時代を迎えたポルトガル、スペインの動きを重ねていきます。

十字軍の逼塞に対して期待された、モンゴルの西方進出とプレスター・ジョンの登場を願う想いを受けて送り出された、草原の道を経て東方へと向かった托鉢修道会の活動と挫折(ここで宣教師たちの人的資源の不足がその布教拡大の足枷となったという興味深い指摘も)。その後に登場することになる、喜望峰を越えてゴアに拠点を置いたポルトガルの貿易路に乗って東方へと向かった、托鉢修道会の後を追ったイエズス会とザビエル。

後半ではコロンブスに始まる新大陸の「発見」、両国の征服的な活動とその道筋を辿るカトリック伝教の様子を通史に添えて述べていきますが、終盤に掛けてはザビエルとその後に続いたイエズス会、托鉢修道会による日本布教の推移を綴る事に注力していきます。

貿易のルートに乗って陸上の拠点を築いた先に布教を拡大したインド、侵略と征服の後に進む事になる新大陸(特に中南米)と異なり、貿易と言う橋頭堡を持たないままに進む事になる日本における布教。その姿は為政者の貿易に対する熱量と入港する貿易船の推移によって常に揺れ動いていく事を示していきます。不安定な日本における宣教の成果を詳細に綴る中で、本書に通底する、シリーズの副題にも繰り返し用いられてきた禁欲と清貧という、著者が修道者に映し出す姿とは相反する、自ら生糸貿易に携わり膨大な利潤を挙げつつ、その利潤を以て布教活動を継続せざるを得なかった宣教師たちの姿と活動に、大きな疑問の念を滲ませていきます。

結果として、その後の禁教により日本におけるキリスト教の伝道は途絶え、僅かに潜伏キリシタン(カクレキリシタン)として姿を変えつつ信仰が伝えられていく事になりますが、著者は最後に二十六聖人の遺骸が運ばれ、その後に支倉常長が訪れた、メキシコ・シティでアステカの言葉で綴られた記録を引用して、カトリック、キリスト教が世界の周回を成就させたことを印象付けていきます。

宗教改革、大航海時代そして世界を廻るカトリックの伝教。密接に関わり合う三つのテーマを二人の修道者を軸に書き起こして新書として纏めるという稀有なアプローチを成す一冊。それぞれのテーマごとにやや離散的な部分もありますが、カトリック視点で描く大航海時代前後のヨーロッパ史、日本のカトリック伝教史としても興味深い一冊かと思います。