今月の読本「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)地図の片隅で波間に揺れる、人が刻んだ白昼夢の欠片

今月の読本「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)地図の片隅で波間に揺れる、人が刻んだ白昼夢の欠片

余りにも不思議な本。

本書と同じフォーマットを持つ、同じ版元の新刊「呪われた土地の物語」と多分一緒に本屋さんに入ってきた、2016年刊行のこの一冊。綺麗な水色の装丁に誘われてページを開き始めると…、読者は見知らぬ物語へといきなり旅立たされることになります。

今回ご紹介するのは「奇妙な孤島の物語(原題:ATLAS OF REMOTE ISLANDS)」(ユーディット・シャランスキー:著 鈴木仁子:訳 河出書房新社)です。

まず、2009年にドイツで原書が刊行された本書を、フランスの書籍見本市で発掘して日本語訳を与えて刊行するという、殆ど蛮勇ともいえる英断を下した版元さんと編集者さん(あとがきで訳者の方が紹介しています)に深い敬意を表します。このようなマイナーを超越した、それもとびっきりに不思議な内容の一冊。部数が出るとは到底思えませんが、本書の刊行1年前に送り出した「秘島図鑑」が余程好調だったのでしょうか、「何故か」出てしまったと評したくなる一冊です。

但し、本書は前述の書籍とは全くフォーマットが異なります。世界の秘境の果てとも言える絶海の孤島の概要をお手軽に紹介するガイドブックや孤島の写真集、wikiまがいのトリビア本だと思って本書を手に取ると、瞬時に振り落とされます。また、地理好き、地図好きの方にとっては、ページの左側に描かれた、ドットパターンで陰影が描かれ、人が刻み込んだ跡を蛍光オレンジの眩しい色で記す地図に興味を持たれるかもしれませんが、右のページに綴られる文章には一貫した記述もなく、その内容には首を傾げっぱなしになるかもしれません(嗚呼、これをにやけながら読んでいる私はどうしようもない人間かも…)。

地理の本でも歴史の本でもない、もちろん旅行ガイド(そもそも「冒険家」でも辿り着けるかどうかすら怪しい島も数多)な訳もありません。更に言えば、日本語の副題にあるように、著者はこれらの島に一カ所も訪れた事が無く、今後も多分訪れないであろうと表明されています。

旧東ドイツ生まれのブックデザイナーが手掛けたこの一冊。冒頭のはじめにと、巻末の訳者あとがきには、流石に内容を気にされたのか、どちらも細々とその経緯が書かれていますが、更には文学かもしれないなど言い出す始末。その内容に振り回されるといたずらに混乱を招くだけで、多くの方には依然としてその経緯も筆致も、意図すらも判然としないかもしれません。

地図に惚れ込んでしまったデザイナーでもある著者がその片隅に描かれた、巨大な地球儀の中にポツンと描かれた離島を見た時のインスピレーション。そのインスピレーションのままに、一つの島に一つのストーリーを捧げて描く本書。

発見し、訪れ、領土とした人々の複数の言語で示される島の名前や、山や川、岬の名前。各島から三方位で示される近隣の島/大陸までの距離と、人が辿った跡を示す月日を示す線表。

ドライでシンプルすぎる程の表記ですが、左のページに描かれる海を示す水色と点描による陰影、そして蛍光オレンジと言う僅か3色で示す、絶海の孤島を印象付ける絶望的な程の寒々しさがデザインからも確かに伝わってくるその構成に、ページを開く毎に戦慄が走ります。

そして、右のページに描かれる、各島に添ったストーリーには一貫性はありませんが、一つだけはっきりしている事があります。そこに「人が居たらしいという事」。もはや無人島になってしまった島も、元々無人島だった島も、多くの人がひしめき合う島も、独り取り残されてしまった島も。ユートピアと称される島も、人の手で住めない場所に仕向けてしまった島も。全ては「人がなし得た物語」が添えられていきます。

人なしでは地図は生まれず、人が辿り着いた証として地図が描かれ、地名が付され、道が切り開かれ、住み、そして去る。地図が描かれるという行為自体、人のみが為し得る事である本質を、地図の片隅にそっと添えられる離島に見出した著者は、その愛おしい程の場所にそっと付された物語へと視線を向けていきます。その著述の裏側にある膨大なバックグラウンドとしての物語の中で、著者の意図が敢えてそうしたのか、はたまた偶然か。ページをめくる度に、左のページの寒々しい孤島の地図に呼応するように、絶海の孤島への悲壮な旅路を思わせるように、寒々しい余韻を残す物語ばかりが綴られていきます。

著者のインスピレーションによって選び取られた絶海の孤島、最果ての地図に添えられた人々の物語。その物語は本当に起きた事なのか、単なる絵空事なのか。その姿を見たものは、その物語を伝えたのは、僅かにかの地に「辿り着いたはず」の人々だけ。著者が地図の片隅から掬い上げた、波間の向こうに見え隠れする島影のように、波濤に消える白昼夢のように、浮かんでは消えていく物語。

波間に揺れるその島影に何が見えましたか。

 

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今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

毎月新刊が刊行される新書は、各社のレーベルである程度得意分野やテイストでセグメントが分かれるようですが、今回ご紹介するのは、明らかに中公新書さんや岩波新書さんが得意とされるテーマ。しかしながら、この分野では珍しい、ちくま新書さんから刊行された一冊のご紹介です。

世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)です。

著者は地理学の研究者。地理学とは非常に広範な分野をカバーするので、果たしてこのテーマを掲げた場合、どの部分に着目して描くのかにまずは興味を惹かれます。著者は植生及びその環境を研究されていますが、同時に世界50か国以上を廻ったフィールドワークの達人。その知見を最大限に生かした内容は、単なる地球環境や植生を取り扱った本とは一線を画する内容になっています。

全地球の気候区分(ケッペン気候区分)の説明から始まる冒頭や、地形、気象に関する解説は文系の方にとってははちょっと頭が痛くなり始めるかもしれませんが(ブルーバックスではないので数式は出てこないですよ)、ここは我慢で読み進めていただきたいところです。なぜなら、著者の想いはその後に綴られる豊富なテーマが地球の気候と環境によって形作られていることを理解してほしいと願っているからです。

その先に広がる世界。美しくも豊富な写真(電子書籍版はフルカラーらしいです、ちょっと羨ましいかも)で飾られる、地球を代表する自然や動植物の姿、その地に暮らす人々。これらはすべて営々として続いてきた地球環境そのものが作り出した事を、その仕組みとともに丁寧に説明していきます(お約束の場所以外にも、マンハッタンやストックホルムなど、ちょっと意外な場所も紹介されます)。

これだけですとやはり自然環境の本なのではと思われてしまうかもしれませんが、本書が出色なのは、さすがに人文に強い筑摩書房らしく、その環境で暮らす人々の姿、所謂人類学や農業、経済学的な視点の記述を、自然環境を語る以上に詳細に述べていきます。世界を廻った著者の豊富な知見と、他の研究者の成果、提供された写真を豊富に掲載することで、自然環境の幅広さ、素晴らしさを伝えると同時に、そこに生きる人々の、我々の想像を超える生活する知恵とその姿も併せて述べていきます。特に各気候区分に特有のその地に長く住み続ける人々の姿を、狩猟採集民、牧畜民、極地の生活、山岳民、そして都市住民と、生活スタイル、地形や環境ごとに述べていきます。世界中に暮らす人々がなぜそのような生活をしているのか、人類学や民俗学的視点の根底は、自然環境に強く影響を受けている事を明確に示していきます。

すばらしい世界旅行や兼高かおる世界の旅といった往年のTVドキュメンタリーが伝えてくれた、人と自然が交わる世界の広大さ、自然と人々の生きる姿と、その先に繰り広げられる歴史や経済活動は、決して切り離すことなく密接に結び付いて、我々はその中で生きていることを教えてくれたあの作品たちを見た時の感動をそのままに伝えてくれる本書。

そして、本書で忘れてはいけない点は、文中の引用や巻末の参考文献をご覧頂ければ分かりますように、その多くの成果が日本人の研究者たちによってもたらされたと言う点です。地球をフィールドに世界に飛び出した日本の地理学、人類学といった人文系の研究者や、動植物の研究者、地形、土壌、気象、地球環境といった科学者、さらにはプランテーション植物やその取引といった農学や経済学まで。豊かな研究環境の発展の中で世界中で活躍するたくさんの日本人研究者たちの成果を著者は自らの研究分野を述べる以上に取り上げていきます。

今や世界中で研究をリードする立場となったこれらの研究分野における日本人の研究者たちの成果が豊かに語り出す、気候区分で世界を巡る地球の物語。

あの頃、TVのブラウン管から覗く事しか出来なかったフィールドで、多くの日本人研究者の方々が活躍されていることを実感しながら、その世界の広さと美しさに心打たれる一冊です。

 

今月の読本「ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)新大陸へのゲートウェイは最初で最後の落ちこぼれドミニオン

今月の読本「ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)新大陸へのゲートウェイは最初で最後の落ちこぼれドミニオン

とても珍しいテーマの一冊。

カナダ、ニューファンドランド。この名称に何らかのイメージを持たれる方は決して多くはないかもしれません。

犬がお好きな方には、その地名が冠された2種類の犬種の原産地としてご承知かもしれません。赤毛のアンにご興味のある方であれば、プリンスエドワード島の北側の辺り、というイメージがあるかもしれません。またはお魚好きの方には、北大西洋の一大タラ漁場としての認識もあるかもしれません。理系の皆様には、マルコーニの無線実験の地と聞けば、高校時代を思い出されるかもしれませんし、「ダンガー空港」とフェリーパイロット、大西洋横断飛行の物語における最西端の進出地などと言い出せば、完全に飛行機マニアな皆様ですね(著者がトリビアとして本文中に挙げた内容ですが、全部大好物だった…嗚呼、このブログは不幸にも、上記のネタを全部カバーしています)。

日本人にとっては殆ど縁のない(コラムによると、日系人の居住者は僅かに140名、人口比では0.1%以下です)この地をテーマに、しかもイギリス植民地史の一側面として描こうという、レア度満開の一般書をご紹介です。

ニューファンドランド いちばん古くていちばん新しいカナダ」(細川道久 彩流社)です。

著者は現在鹿児島大学で教鞭を執られる方。軽妙で、ちょっと脱線気味な筆致もありますが、北米大陸のそれこそ東端という未知の世界の歴史へと、易しく楽しく誘ってくれます。また、何分こんなレアなテーマですから、本書の内容は、科研費による研究成果の一部である事をあとがきで示されています。貴重な研究成果、ありがたく読みたいところですが、なにせこのニューファンドランド、単なるカナダの一州だと思うと大間違い、英連邦の自治領から同じく英連邦のカナダへと大戦後の1949年に併合されるまでは、行政府の財政破たんにより自治すら許されなかった(破産自治「領」です)、一筋縄ではいかない場所のようです。

カナダが連邦国家である事はご承知でしょうが、一番大西洋側にあるこの場所が、一番最後に連邦に加盟したという、アメリカ独立13州をイメージしていると足元をすくわれる、摩訶不思議な地勢感。しかも英連邦の自治領から住民投票によるカナダへの併合は、腹黒紳士イギリス一流のカモフラージュなお仕着せで、実は、大戦で疲弊したイギリスからカナダに、借金棒引きの代わりに売り飛ばされたという疑惑(ドキュメンタリータッチで描く、著者の検証は読みごたえ充分)のおまけ付き。

これだけでも充分驚かされますが、更に追い打ちを掛ける内容が、ドミニオンというカナダやオーストラリア、インドと並ぶ、大英帝国内でもっとも高度な自治権を与えられていながら、大恐慌時に地元政府が破たんしたため、大英帝国に自治権を停止された挙句に、制度的には植民地に後戻りした末でのカナダ併合。

前述までの内容だけでも、初学者には大英帝国の植民地政策の検討テーマとしてはもう満腹なのですが、恐ろしい事に、これらは単に結果に過ぎません。

著者は冒頭から、その結果が特異なニューファンドランドの地勢が生み出したものである事を丁寧に説明していきます。

バイキングが既に北米大陸で漁撈などの活動をしていた事は歴史的な事実として認識されつつありますが、その舞台となった場所こそ、このニューファンドランド。そして「再発見」以降、最も早くに北米大陸で産業が成立したのも、このニューファンドランドの沖合にそれこそ海から湧き出すほどに生息していたタラを使った干しダラ生産。更には、カナダの歴史において今でも複雑な影を落とすイギリス系とフランス系の確執が、この地では、目の前に残された「フランス領」の島との経済水域争いという、厳然たる外交問題として今も突きつけられているという厳しい側面。

まるで、16世紀がそのまま現代に取り残されてしまったような感すらある場所ですが、此処まで複雑な経緯を辿る事になったのも、その地が今も昔も新大陸と旧大陸とを結ぶゲートウェイである点に集約されるようです。

大西洋を挟んだ宗主国である大英帝国への入口ゆえに、大陸内での合同よりも宗主国への恋慕の想いを抱き続けるニューファンドランドとラブラドール。北米にとっても、大西洋を経由して旧大陸へ至る最短距離となるこの地は、戦略上からも重要な拠点と見なされていました。9.11の際にアメリカに向かっていた数多くの航空機を一時的に退避させ、急遽降りる事となった乗客に対する地元住民の暖かい支援が行われた事で一躍有名になった、ガンダー国際空港。この空港の発祥もイギリスとアメリカを結ぶ空路の中継地点として、更には北米防空の要として、大戦時から冷戦が終結するまで重要視され続けました。

豊富なタラ漁による自主財源と、旧大陸への玄関を押さえた地勢。更には沖に浮かぶフランス領となる小島(何と、フレンチ・インディアン戦争の名残)の対岸は「フランス海岸」としてフランスが戦後まで漁業権を維持するという、大陸内以上に複雑な事情が、大陸国家を目指したカナダに与することに躊躇をもたらし続けたようです。

逆に、タラ漁の低迷と、世界恐慌による脆弱な経済構造への深刻なダメージも、宗主国に助けてもらえる、更には既に基地を擁していたアメリカに救ってもらおうという、ご都合主義を持ち続けた末に、遂にはデフォルトの危機へ。結果として、折角カナダと同格の大英帝国内の自治領・ドミニオンとしての扱いを受けていたにもかかわらず、自治権停止、行政管理下という、著者によると植民地以下の扱いに転落してしまいます。ここで、カナダによる救済統合という案もあったようですが、この時点では統合には至りません。

一般的に考えれば、カナダ自体も世界恐慌によるダメージを強く受けており、統合による財政負担の問題がまずは取り沙汰されるかと思いますが、著者は此処で大英帝国特有の問題点を指摘します。即ち、英連邦制度の根幹を成すウェストミンスター憲章の規定により、当時のカナダ政府が「憲法」たる、大英帝国が制定したイギリス領北アメリカ法の改正権限を有していないために、統合に踏み切れなかった点を明示します(更にはニューファンドランド自体も、前述の立ち位置故に、ウェストミンスター憲章をあえて受け入れず、ドミニオンだが植民地という「半人前」の地位に留まっていた)。本書がカナダ一州の物語ではない事を雄弁に示す著述。実際にカナダ自身が憲法を含む完全な立法権を獲得したのが20世紀も末の1982年と聞くと、更に驚かれるかもしれません。

北米で最初の地は、最後に大陸国家としてのカナダに併合されましたが、その根本的な原因となったタラ漁の不振から始まる経済の低迷は、禁漁を続けても戻る事のない、絶望的な資源低迷(払底という言葉の方が正しいかと思います)同様に、低空飛行を今も続けています。

著者が表紙に掲げたカラフルな家並み。常に霧に包まれる北大西洋の海での漁から戻る漁師たちが自分の家を認識するために彩ったと云われるその景色が数少ない慰めとなっている、ちょっと忘れられそうなその場所に潜む、余りにも意外な歴史に驚きつつも、こんなテーマの本が本屋さんで手軽に購入できる環境に感謝しながら。

フィッシュアンドチップスに隠された、もう一つの北米植民地史を。

今月の読本「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社学術文庫)快活に冷静に描く、刺激的な人々が貿易で結ぶ3つの海

今月の読本「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社学術文庫)快活に冷静に描く、刺激的な人々が貿易で結ぶ3つの海

実は昨年中に読み終わっていたのですが、文庫なのでこちらでのご紹介が後回しになってしまった一冊。

昨年読んだ本の中でも、一番のお気に入り。ここ数年来でも、個人的には好著の筆頭に挙げたい一冊を、年の初めにご紹介いたします。

今月の読本、年初の一冊は「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社学術文庫)のご紹介です。

本書は同じ版元から10年前に刊行されたシリーズ「興亡の世界史」の15巻目として刊行された本の文庫への収蔵版。今回の収蔵に当たっての大きな補記等はなく、著者のあとがきと、新出の参考文献が追加されている程度です。

しかしながら、著者が今でも十分に通用すると明言するように、本書の内容は今でも極めて特徴的かつ刺激的です。

原著刊行時点の編纂でも議論を呼び、版元自体もシリーズ屈指の異色作と評した、多様な時代と世界のテーマを扱う本シリーズを以てしても白眉な「会社」を軸に描くテーマ設定。更には、まるで往年の「世界歴史百科」をめくる時の喜びを、スケールはそのままに、文庫サイズにまで凝縮してしまったような、広範でダイナミックな内容。

そこにみえるのは、陸上と海のアジア史双方を全部カバーしてしまいそうな勢いで描く、広範で旺盛な視点。政治体制がそれぞれ全く異なるアジア側の各国の事情を綴ると同時に、その中庭たるアジアの海に乗り込んできた各国の東インド会社の資産形成や役員形態、運営、指揮系統といった特徴の裏に、国政の事情や経済的な問題点を読み解くといった内容を平然と織り込んでしまう、圧倒される著者の見識(あっさりと、アダム・スミスまで登場させてしまいます)。通史だけでは面白みに欠けてしまうかもしれませんが、著者は『冒険商人シャルダン』という著作を有するほどに個人史にも長けていらっしゃる方。バックボーンに潜むアルメニア人商人が切り開いてきたルートに乗るように行き交う、アジアを渡り歩いた冒険商人や、商人崩れの政治家、軍人。本国の投資家たちの目を盗んで海域内貿易で稼ぎ過ぎて、総督まで上り詰める名声は得たけれど、追及を恐れて帰国するのが困難になってしまった、エリフ・イェールといった新大陸生まれのコスモポリタン(名字をご覧頂ければ判りますよね)。更には、再婚した夫との資産争いの末、老年になって本国オランダにまで乗り込んで裁判を続け、死後になって勝訴を勝ち取った、日本人の血を受け継ぐ一人の勇猛な女性、おてんば(ontembaar)コルネリアといった、個々人をテーマにした内容を同時に織り込む事で、華やかに、時には悲惨に、アジアの海で繰り広げられた物語を「歴史ストーリーの一ページ」として描き出していきます。

広範な内容を綴る本書。その中で、本筋となるアジアの海の歴史について、著者はある一点について、本文中で繰り返し見識を改める事を読者に求めてきます。

ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰廻りによるインドへの航海から、イギリスによるインドの保護領化と東インド会社体制の終焉までの約200年を綴る本書。その後のアジア史をご承知の方にとって、前時代は「植民地」としてのアジアの前駆のような、素朴で平和的に暮らしていた人々に対する、軍事力による蹂躙の先に行われた暴力的な収奪といった、アフリカや南北アメリカと同じようなイメージの延長で、ポルトガルが築き上げ、列強がその道筋の上に続いた姿を描く、「海の帝国」といった歴史描写への嫌悪感をもたれるかもしれません。しかしながら、イスラーム建築史が専攻の著者はそのような認識、描写について、断固として異なるという点を提示し続けます。

著者が断言する根拠となる考え方。そこにはアジアの海と商業に関わる際に、3つの海に3つの政体が存在したことを示していきます。蒸気機関発明前の風力による航海が前提となる時代。貿易風と地域内の海流に添った航海を求められるその海に於いて、どのような戦力を有していても、どれだけ大きな船舶を擁していても、その環境に立脚した航海と、拠点となる商館の設営=貿易港の設定、季節的な周期航海のルールからは逃れられない点をしっかり認識することを求めます。

その上で、3つの海を目の前にする陸の帝国の姿を提示します。一つ目は、著者の専門分野でもあるペルシャ湾及びアラビア半島周辺の海域。この地域では王国の首都たる場所は内陸に位置しており、海沿いの交易地は、目の前の海を往く商人たちの貿易における中継点として、税収が望める都市の一つとしての認識しかなかったとします。各国の東インド会社の居館が立ち並ぶその場所。徴税を司り、西ヨーロッパ諸国同士がその場所で紛争を越した場合に制すべき立場にあるのは、その港を押さえている王国側にある事を明確にします。一方で、貿易拠点としての西側の海に対して、東端の海は著者が「政治の海」と称する、陸上の王国が海上の支配権も御する場所。倭寇や鄭成功の事例を用いて、域内における自由な航行は望めない点を示し、その海では陸上の王権(これは豊臣政権や徳川幕府にしても同じ)に対して、へりくだる事で貿易を認めてもらう立場に過ぎない点を明確化します。国家を代表して貿易を行う一方、共同出資者達による私営としての側面も持つ東インド会社という特殊な形態ゆえの限界。その地では、収奪はおろか、自らの生死与奪の権限すら、陸上の王国に握られていた事は、日本に於ける当時の貿易体制と、インドのそれが、同じ「東インド会社」を通じて行われていたという点に於いて、余りの違いを説明する明快な事例ではないかと思われます。それ故に、賃料を払って出島に押し込められるという屈辱的な待遇に甘んじてでも、バタビアと長崎の間で中継貿易を継続し続けた、オランダの東インド会社が如何に稼いでいたのかが判りますし(時に本国ベースの純利益が200%に達する事も。域内貿易ではどれだけ荒稼ぎしていた事か)、利益を追求する株主資本会社としての側面があったからこそ、そのような扱いがあっても貿易を続けられたともいえます。

そして、西の交易としての海と、東の政治の海に挟まれた、中央部に突きだしたインド亜大陸の沿岸地域。著者はここにもう一つの海の姿を見出します。「迎え入れる海」、貿易がもたらす利益を喜び、その繁栄こそが支配する王としての懐の深さを示すものだという価値観が生んだ貿易。それが、国家を代表する形での貿易を望んだ東インド会社に対して便宜を与え、貿易を行うための居館の建築を認め、更には要塞を築き、居留地や域内での徴税権を与える事すら憚らなかったインド諸王に共通するスタイルだと看破します。日本人にはイメージしにくいこの事実、著者は最も近い事例として、戦国時代の大村氏によるイエズス会への長崎の割譲を持ち出して、貿易による利益と提供される武力を求める権力が、有利な形で取引が望める宗教を受容、時には自ら改宗し、その便宜を図るために土地を割譲する動きと、その後の歴史で展開される軍事的な侵略とは異なると指摘します(陸の帝国に楔を打ち込んだように見えるマカオにしても、実体は租借であった点もここで再確認します)。

最初の接触から戦闘的な態度で臨み、持ち込んだ産物の余りの価値のなさに憐れまれるほどの屈辱を味わったが故に、かの地に於いて、何処ででも暴力的な制圧と搾取を行ったかのように見られる、西ヨーロッパ諸国の東インド会社による貿易。しかしながら、著者はそのような見方は偏見であり、彼ら自身も香辛料や綿製品貿易に代表される西ヨーロッパとアジア間の貿易に匹敵するほどに、資産運用と貿易物資を獲得する為に、アジアの海の中で現地の商人を相手にして、傭船すら行いつつ大規模な中継貿易を行っていた事を見出していきます(もちろん、日本と南米が生み出した、交易を飛躍的に伸ばす結果となった銀バブルのお話も出て来ます)。その上で、彼らは数多くの商人たちが行き交ったアジアの海における、数多の「外国人」集団の一つに過ぎなかったという点を見失ってはならないと、繰り返し指摘します。なお、南アジアにおける収奪的なプランテーション経営とイギリスとオランダの武力を以ての争奪戦については一通りの記述がありますが、著者は限定的であるとの認識に立っています。

最後に述べられる、インド亜大陸におけるイギリスの植民地化への歩み。その背景として、フランスとイギリスの東インド会社における国家の関与の違いを見出した上で、東インド会社の影響力を背景に対立するインド諸王に関与する際の軍事力への「国家」の関与こそが、「東インド会社」というシステムの限界点であり、その限界点の先に、近代となって誕生する国民国家が東インド会社という商業資本が遠隔地で期せずして獲得し、ある種、野放図にされてきた権益に対して、政治、軍事的に直接掌握する、次の時代である「植民地帝国」へ至る姿を見出していきます。

冒険的商人と高い資産運用を目指した初期の資本家、そして国王の特許やフランスのように国家からの金銭的な後押しを受けて設立された株式会社の端緒となる「東インド会社」がアジアの海を縦横に行き交った時代を綴る本書。ダイナミックに行き交う人物模様を描く一方で、その中で刻々と進む時代背景や経済、政治状況まで克明に拾い込む見事な筆致が、この著述範囲では僅かと言わざるを得ない400ページ程の紙面を一杯に使って、存分に展開されます。

本書の執筆後、著者は本務校の東洋文化研究所所長と副学長を兼ねるという激務から、一般読者向けの単著を殆ど執筆されなくなってしまいました。しかしながら、刊行時から10年を経て、アジアのグローバル化が次のステージに向かう中、今こそ本書のような多角的で広い視点を持ったアジア史が求められる筈。著者の手による、本書に続く作品を是非読んでみたいと強く願う次第です。

 

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

年末年始のシーズン。

慌ただしい時間が流れる一方で、日常の喧騒を離れて、じっくりと何かに取り組める時間が巡って来る貴重な日々でもあります。

バタバタと年末の後始末を終えて、ほっと一息つきながら読んでいた一冊からご紹介です。

今月の読本、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーから12月の新刊「渤海国とは何か」(古畑徹)をご紹介します。

まず、この渤海国という名称にどのような印象をお持ちになるでしょうか。ユーラシアの東端に忽然と現れて消滅した幻の王国、もしくは当時の古代王朝、王朝国家との交流史を有する、中華帝国、半島諸国とは異なる、第三の国というイメージでしょうか。近世、近代史にご興味のある方にとっては、後の清朝の揺籃たる女真が勃興した故地、更にはその後の満州へイメージを抱かれるかもしれません。

本書はこれらの日本人が抱くイメージが、実際には戦後の教育、歴史研究環境が生み出したものであり、渤海、更には北東アジアの地域史としての一側面しか捉えていない点への懸念を込めて綴られています。

学生時代からはじまり、40年の経歴を有する北東アジア史を専門とする著者は、それらのイメージがある時点を契機に生み出されたと指摘します。戦前日本の大陸侵攻と軌を一として生まれた「東洋学」が生み出した落とし子。敗戦によって一度は散逸した研究成果は、その後の日本に於いて、更にはかの地に於いて再構築される過程で、自らのイメージに合わせた歴史著述の一ページとして利用されてしまっているとの大きな懸念を抱いていきます。

「東洋学の挫折」という刺激的な表現を用いて、その経緯を綴る著者が本書で描こうとする内容、それは海東の盛国と称された謎の国、渤海をその後の歴史研究における位置づけの争奪から擁護せんと願い綴る、汎北東アジアの視点を掲げた検討過程から輪郭を示す事。

従って、題名に示される様な渤海の歴史のについての詳述を本書に求められる方には、少々残念な想いをされるかもしれません。前半は渤海の勃興から滅亡までの概略が時間軸を追って綴られていますが、著者がここに述べるほどにしかと感嘆されるように、そもそも渤海に関する文献資料は極めて限られています。その中でも彼ら自身が残した文献は僅少であり、殆どが周辺の国々の記録に語られるに過ぎません。

そこで、著者は逆にその周辺の国々の記録に残された点から、彼らがどのような位置にあったのかを見出していこうとしていきます。渤海国の概要をお知りになりたい方であれば、確かにwikiでも充分かもしれませんが、本書の魅力は後半で述べられる、その位置付けを北東アジアの中から浮かび上がらせるアプローチにあります。

日本の歴史教育で渤海を扱う時に語られる、唐を模した、ないしは日本の律令制や王都を参考にしたともされる律令や兵制、都の構造について、確かにその影響を強く受けている点を指摘する一方、唐における外藩と内属国の扱いと王に与える称号の違いから、契丹や遼などの北方騎馬系民族として包括される扱いとは異なる、比較的内属国に近い位置付けを与えられていた事を見出します。更には、彼らが独自の文字を持たず、漢字を用いた点からも、実質的には中華帝国の冊封体制に準じる(年号は独自のため)位置にある、北方騎馬系民族に対する東方からの牽制勢力の一翼を担っていたとの位置付けを見出していきます。

その一方で、遥かに三国志「東夷伝」まで遡り、伝統的に北狄と称されたその土地は、東夷と称された半島、そして倭の諸国とは決定的に認識が異なっていたと指摘します。この事実は、冊封を奉じた半島の諸国や高句麗、その後に統一を果たした新羅の勢力が及んだ範囲と、交錯する渤海とでは異なる民族的アイデンティティ、むしろ更に北方に存在した黒水靺鞨との類似性を示唆します。

中華帝国の一翼を担う一方で、更に北方の遊牧民側(但し、渤海が勢力を伸張させた時代は現在より温暖な気候であったとみられています)の立場に近い極めて微妙な渤海の位置付け。著者はその位置付けを雄弁に物語る手掛かりとしての、彼らが残した交易の跡を追い求めます。

東北地方に集中的に残る、7世紀の遺跡から発掘される錫製品。北方の地で育まれる体格の優れた馬、そして渤海と一時的に対立した唐の前線基地である節度使が、「熟銅」の交易だけは禁止しないように中央に対して請願を出していたという点を見出し、当時の唐王朝にとっても、渤海が重要な銅の産地であった事を指摘します。

北方の優れた産物を集散させる諸民族。更には、彼らが渤海使として日本に訪れた際に引き連れたとされる首領たちもその実は商客であるとの当時の認識も添えて、彼らの求心力が商業的なもの、交易による利を供せられるかによって支配体制が左右されるとの認識を提示ます。中でも本書では、他の研究者の指摘を引用して、その本質として、狩猟、漁撈民はその生産物の農耕民との交換の必要性から、一般的に交易民であるという、核心を突く一説を提示します。ユーラシア東方における政治的な求心力を農業的な集散と見るか交易による利益と見るかで分かれるという根源的な認識。一方で、同じ北方遊牧民族でも、独自の文字を持つなどアイデンティティの明確化を見せていた契丹は、後に燕雲十六州を得る事で、自らを中華帝国の一部へと転換させたと指摘します。

後に清朝を生み出すことによって、中華帝国としてのアイデンティティの一部として埋没していた「満州」を再発見した、戦前の東洋史が残した足跡を辿りながら、渤海をテーマに北東ユーラシアにおける位置付けの再構築過程を示す本書。複雑な歴史の推移同様に、複合的な内容が、それこそテーマを縦横に展開されるために、一度読んだ程度では容易に全容を把握できる内容ではありません(門外漢なので更に)。

この本を手掛かりに、巻末に掲載する関連書籍を跋渉しながらも、もう少し読み込んでみたい、歴史著述、理解の奥深さへと誘うような一冊です。

なお、著者は非常に寡作な方で、提示される参考文献を含めて、主著と見做せる一般書籍が見当たりません。中華帝国たる隋、唐自体また北方遊牧民族が発祥であるという視点は、契丹、奚の扱いを含めて、講談社学術文庫から現在刊行が続いているシリーズの一冊、「興亡の世界史 シルクロードと唐帝国』(森安孝夫)を、本文中で繰り返し引用されています。

今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

最近特に話題となる事が多い、この単語。

我々の日常生活でも、気に掛けるシーンが随分あるかもしれません。

そのようなきっかけ、気づきを得た場合、我々が感じる感覚、感触が複数の人々の間で奇妙に同期したとき、大きなムーブメントとなって社会や行政が大きく動き出す時があります。特にネット社会と叫ばれるようになった昨今、そのようなムーブメントが巨大な力を得た時、言語的、物理的な暴力となって、制止出来ない暴走に繋がる事すらあります。

そんな時、複数の見解、カウンターとなる見解を持ち得る事は、物事を客観的に判断する際に特に大切な事。たとえ反対意見であっても、傾聴に値することには真摯に向き合う必要がある筈です。奔流の如く流れ込んでくる情報を捉える時に重要なのは、即断せずにより良く多く読む事。依然豊かな出版環境に恵まれた極東の島国には、多くの出版社と優れた翻訳者の方々が存在する事で、世界中の知識を母国語で触れられるチャンスがたくさん存在しています。

今月の読本は、そんな時にカウンター的な見解を大上段に掲げて論争を挑んだ、ある英国の植物学者が2冊目として上梓した、イギリス人らしい、物事を見る、考える側面を痛烈に突く一冊のご紹介です。

外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)です。

邦訳題名より、よほど原題の方がその内容を痛烈に表しているようです(邦訳:ラクダは何処から来たか。答えは北米原産で、自然繁殖しているのはオーストラリアのみです)。

本書は、2011年に雑誌「ネーチャー」に掲載された論文「生物を出生地で裁くなかれ」を執筆した18人の共同研究者を代表して、英国シェフィールド大学で教鞭を執る著者が、一般向けにその趣旨を、敢えて対抗する議論へぶつける形で執筆した物です(なお、前述の論文を発表した直後、実に141人の研究者が連名で反論の書簡を発表したそうです)。イギリス人らしいウィットと厳しいジョークが最大限に似合うであろうテーマ構成、文体がこれでもかと続く本書を読み抜くには、そのページ数を含めて(本文288ページ)、ナイーブでせっかちな、更に読書時間も限られている日本人にとって、たとえ手に取ったとしても読み抜くにはかなりハードルが高い一冊かもしれません(訳書であるという点も加味すれば尚更)。更に、読者がこのテーマに期待する何らかの結論について本書は一切語ってくれないどころか、その期待する結論なるものを読者が安易に持たない事を著者は切実に望んでいます。

ではなぜ、このような暴論を企てるような一冊を送り出したのか(正確には2冊目)。それは著者の経歴を考えると良く判ります。著者の専門は植物学で趣味はガーデニング。良く知られているように、徹底的な環境の人為改変が進んだため、世界で最も在来種が少ないとされる(約1500種、高尾山の一つでそれを遥かに上回るとよく比較されます)島国、英国。その反動として、自然保護政策や在来種管理では世界的に最も進んだ政策を展開しており、更にはそれらに携わる研究者の数も他国を圧倒しています。そのような環境で教鞭を執り、庭園を愛する著者があらゆる事例を通して述べていく事、それは所謂外来種による影響と言われる一連の研究結果やデータ、マスコミ等で伝えられる報道の大部分が、アイコンとしての外来種に囚われ、短絡的に着目しすぎているという点を明確にするためです。

まず、著者は外来種に対する最もインパクトのある活動である駆除について、孤島やサッカー場程度の面積までであれば効果があると認めますが、それ以上の範囲に広がった外来種を駆除することは現実的にも経済的にも不可能であると述べていきます(それ以上の範囲で行った駆除効果と環境変化とを分離して評価する事は出来ないと)。更に、人為的な駆除の限界を悟った場合に導入される外敵の導入による撲滅についても、単純な確率計算上の結論同様に、導入した場合の16%については定着に成功する可能性があるが、その場合でも撲滅は出来ず、せいぜい共存する程度であると明確に突き放します。つまり、一度入ってきた外来種を人為的に駆逐することはほぼ不可能であると看破します(それでも膨大な資金と安全性評価の時間を投じて、日本から外敵種の導入を図る実験を進めている例を紹介します)。

一方で、その侵入から定着についての視点も明確に述べており、大英帝国時代に世界中にまき散らしたヨーロッパの動植物の導入記録(従って、年号まで確定できてしまう。ヨーロッパ内での移植種でも同じ)から、100個体未満であれば定着がおぼつかない一方、それを越えると、適当な環境が存在すれば確実に定着が進むと指摘します。また、導入を伴わない侵入の場合、その種の遺伝的多様性は極めて貧弱であり、適応出来た場合は一気に増加する一方、何らかの阻害要因が生じた場合には一気に減少に転じるという、増加と減少の特異性(中にはナミテントウのように、パージングという小個体群特有の超越法を具えている例も)が付きまとう点も指摘していきます。

これらの動物、植物学的な定着/放散過程について、専門家としての明確な視点を与えていく一方、本書はより根源的な外来種の問題点を指摘します。

それは、外来種と枠組み付ける物が何処まで行っても「人為的」選択の結果である事。在来か外来かの定義は全く以て後天的(イギリスの場合は15世紀以降、アメリカは物凄く判りやすく、コロンブスの「発見」1492年で線を引く。日本ならさしずめ、ペリー来航でしょうか)であり、生物学的な論拠とは言えない点。在来種より目立つ事、その特性として一気に増えるために目立つ事、自国原産、「在来」種というその地に住む人々の感性で容易に変化する枠組みである事。経済性を阻害する種である事(これは雑草や、漁獲、養殖を阻害する種であれば、在来種ですら容易に外来種と曖昧になる)。それが、人為的導入種であれば、その益害(当初の想定を逆転して害が上回ると判断された場合は更に)によって簡単に逆転してしまう事を示していきます。

更には、これらの外来種の在来種への影響について、多くの事例から生物多様性との相反に基づき、2項対立で評価を行う多くの外来種の影響評価には誤りがあり、環境系全体で俯瞰した場合、外来種が他の種類の植生を圧倒するのは一時的であり、その後の植生は多くの場合、外来種が侵入する前より豊かになる(特に外来種が侵入する様な脆弱な環境では)点を採り上げて、外来種の問題も、逆の立場となる在来種の場合でも、その種を用いたスケープゴートとして祭り上げている点に強く警鐘を鳴らしていきます。この議論を推し進めた先に、過去に環境が殆ど人為的に改変された英国らしく、在来種が本当に絶滅の危機に瀕しているのであれば、それが地球環境の変化によって生じる大きな変化の過程で生じていると判断できるのであれば、現在の生息場所に拘らず生息可能な場所へ人為的に移植することを否定してはならないと、その適用可能性の例までも示します。

著者は『沈黙の春』やダーウィニズムを採り上げて、それらに逆行する様な外来種を魔女狩りのように駆逐するために膨大な資金と労力を投じ、人為的な区分によって作られた在来種だけを囲い込むように保護する活動や、それらに対して学術的に不均等な示唆を与える事に対して、リンネ、ダーウィン以降が積み上げてきた自然科学に対する逆行だと強く非難し、我々は外来種の侵入を予測制御できる「聖杯」などを手にする事は出来ず、生態学に過剰な期待を持つことを止めてほしいと、研究者への過大な期待を持たれる事すらも拒否します。

あらゆる事を拒否してしまう本書。では、著者の本当の想いは何処にあるのでしょうか。

それは、要所要所に伏せられていますが、かつて世界を蹂躙した英国人だから立ち得る境地。外来種がはびこる場所、外来種が辿るルート、そして外来種を駆除しようとする場所。全てに於いて、其処に人の存在が介在している点です。ネイティブアメリカンが入植者たちが通った道筋を称して「白人の足」と呼んだように、ミツバチを「イギリスの羽虫」と呼んだように。人によってもたらされた自然の改変を、果たして人が御し得るのか。それが如何に難しい事かは多くの事例が示していますし、本書に於いても外来種の駆除の殆どが無駄に終わる点を明確に示していきます。その一方で、本書の原著題名に示されるように、著者が指摘するように、古生物学における知見から行けば、人が有する時間軸が変化として捉えている事象はスナップショットに過ぎず、環境の激変と捉えられる事象も、捉えらた時点における過程の微分を述べているに過ぎません。森林更新に極相がある一方、極相自体も時に一斉に更新される事は既に指摘されており、そのスタート時点において最も優勢なのは、外来種や在来種という枠組みではなく、極限的な環境に適応した先駆種であるに過ぎません(これは山の崩落地に落葉松がしがみ付く様にヒョロヒョロと育っている様子を見た事があれば、容易に理解できるはず)。そのような人為的な環境破壊を含む極限的な環境、更には農地やコンクリートで固めた護岸など限定的な環境に、人と一緒に(靴や衣服、作物種子を媒介に)渡ってきた外来種が優先して優勢となるのは当然であり、これを以て外来種が悪で、在来種が正であるという2元論は稚拙であるという点を、しっかり理解して欲しいという想い。

人がその営為を為す限り、その活動に付いてくる外来種の放散は決して止まらず、一度侵入した外来種はその環境の中で多様性の一翼として調律されるまでは、人為的な放伐はほぼ無力である事を明白に示し、その上で、過剰な発言や偏向、無意味な対策への浪費に対して、例え研究者が相手であっても、厳しい警鐘を鳴らす本書。

著者が願う、外来種の問題をより深く議論するテーブルに着くためには、イギリスの皮肉たっぷりに、黄金の時代にしがみ付いたと称する、時代が造ってきた時計の針を逆戻りさせるのではなく、もう一つの得意である、スコッチのようにじっくりと時をかけて、まだまだ数多くの議論と検証を闘わせ続けなければならないようです。

誰もがその議論に振り回されないよう、しっかりとした足腰を鍛えるための一冊として。

 

<おまけ>

本書に関連する書籍をご紹介します。

今月の読本「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)カトリック視点で読むアメリカ政治の原動力

今月の読本「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)カトリック視点で読むアメリカ政治の原動力

これほど不思議な展開を見せるとは誰も予想していなかったかもしれない、ここ最近の国際政治状況。

特に、あまりに極端な候補者が両党から擁立される事が確定的になった今回のアメリカ大統領選挙の行方は、外の人間から見ると余りに不可思議に思えてきてしまいます。

この状況を誰も読み切れなかった中で執筆の準備がなされ、続々と本屋さんの店先に送り込まれる関連書籍の中で、それを何とか補正するためでしょうか、更に異色なキャッチコピーの帯を巻いて並べられた本書は、内容もアプローチも、これまでの「アメリカ本」とは一線を画す内容を持っています。

熱狂する「神の国」アメリカ今月の読本、「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)のご紹介です。

本ページでは著者の前著「バチカン近現代史」(中公新書)もご紹介していますが、本書はその続編として捉えて良い一冊。題名だけ見ると、類書にあるようなプロテスタントの国としてのアメリカ政治における福音派の政治的影響力が描かれるように思われますが、実際にはプロテスタントの動向を描くより遥かに多くのページをアメリカにおけるカトリックとその政治的な影響力の変化を描くために費やしていきます。

前著で触れられたバチカンとアメリカの外交関係を持つ前から現在まで続く水面下での関係や、バチカンの影響力の行使と共に、プロテスタント国におけるマイノリティとしてのカトリックの社会的地位の推移とそれに伴う政治的な影響力の変化を、ケネディの就任をピークとしてアイリッシュカトリックから現在の中南米の移民(サンベルト)への流れとして描いていきます。プロテスタント視点で描かれる本が圧倒的なアメリカのキリスト教関係の書籍で極めて珍しいカトリック視点(著者は前著のあとがきでクリスチャンではないと明言していますが、カトリック系の学校で教育を受けています)で描かれる本書は、やや傾倒気味ながら、それだけでも興味深く読む事が出来ると思います。

カトリック視点でのアメリカキリスト教史が描かれる一方、もちろん主要なプロテスタント宗派の動向とその政治的な影響力、特に各大統領の信仰する宗派から見た影響勢力の変遷についてもきっちりと述べられていきます。更には前著に続いて、新書という限られたページ数にも拘らず要所を抑えた判りやすい記述には特に感心させられます。

交わるところが無いように見えるカトリックとプロテスタントの政治的影響力が、ニクソンからカーターへというアメリカ政治の失望期に、プロライフを代表とした宗教的保守の思想の元で、レーガンを支えていく重要な勢力として纏め上げられ、結果的に共闘する形が採られていくという点を、歴代大統領の通例である記念博物館、公文書館の史料から見出していくのが本書最大の白眉。前著を読まれた方であれば、この共闘の先に冷戦終結の道筋が開き始めたと読み解く事が出来る筈です。また、キリスト教シオニストに言及して一章を起こし、戦前に遡って英国との関係に言及する点は、アメリカが何故イスラエルをこれほどまでに擁護する事への疑問に対する一つの回答として、ヨーロッパ史の研究を主軸に置く著者の面目躍如といえる著述かと思います。

コンパクトに纏められたカトリック視点でのアメリカのキリスト教と政治の切り離せない関わり合いを述べる本書。ブッシュ・ジュニアを支えた福音派とネオコンの台頭と、その後の潜伏状態までで本書の著述は終わっており、オバマ時代の宗教的な動きや帯にあるようにトランプ云々はほんの付け足し程度に述べられるに過ぎません。その代りに最終章で描かれる内容が本書のもう一つのハイライト。アメリカのカトリック礼拝に訪れるだけでなく、福音派の結集力の源泉でもあるメガチャーチで実際に礼拝に参加した体験が述べられていきます。万を超える聴衆を集める集客?力、それを支える魅力的な説教と、広大な土地に散在して生活するバイブルベルトの生活環境における、普段は希薄な対人関係を繋ぎ合わせるコミュニティとしての存在感の大きさに打たれる著者の想いが切々と伝わってきます。

その上で、現法王(著者はやはり教皇と表現しますが)フランシスコと穏健な福音派との相互理解の先に社会的な問題点の解決策を見出そうとする著者の視点は、何処までもカトリック的である所には、やむを得ないとはいえちょっと片手落ちな気もしながら、著者が述べているように、日本では余りにも希薄な宗教を視点から決して逸らしてはいけない事を改めて見つめ直させる一冊です。

熱狂する「神の国」アメリカと類書<おまけ>

本ページより関連する書籍をご紹介。