今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

最近特に話題となる事が多い、この単語。

我々の日常生活でも、気に掛けるシーンが随分あるかもしれません。

そのようなきっかけ、気づきを得た場合、我々が感じる感覚、感触が複数の人々の間で奇妙に同期したとき、大きなムーブメントとなって社会や行政が大きく動き出す時があります。特にネット社会と叫ばれるようになった昨今、そのようなムーブメントが巨大な力を得た時、言語的、物理的な暴力となって、制止出来ない暴走に繋がる事すらあります。

そんな時、複数の見解、カウンターとなる見解を持ち得る事は、物事を客観的に判断する際に特に大切な事。たとえ反対意見であっても、傾聴に値することには真摯に向き合う必要がある筈です。奔流の如く流れ込んでくる情報を捉える時に重要なのは、即断せずにより良く多く読む事。依然豊かな出版環境に恵まれた極東の島国には、多くの出版社と優れた翻訳者の方々が存在する事で、世界中の知識を母国語で触れられるチャンスがたくさん存在しています。

今月の読本は、そんな時にカウンター的な見解を大上段に掲げて論争を挑んだ、ある英国の植物学者が2冊目として上梓した、イギリス人らしい、物事を見る、考える側面を痛烈に突く一冊のご紹介です。

外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)です。

邦訳題名より、よほど原題の方がその内容を痛烈に表しているようです(邦訳:ラクダは何処から来たか。答えは北米原産で、自然繁殖しているのはオーストラリアのみです)。

本書は、2011年に雑誌「ネーチャー」に掲載された論文「生物を出生地で裁くなかれ」を執筆した18人の共同研究者を代表して、英国シェフィールド大学で教鞭を執る著者が、一般向けにその趣旨を、敢えて対抗する議論へぶつける形で執筆した物です(なお、前述の論文を発表した直後、実に141人の研究者が連名で反論の書簡を発表したそうです)。イギリス人らしいウィットと厳しいジョークが最大限に似合うであろうテーマ構成、文体がこれでもかと続く本書を読み抜くには、そのページ数を含めて(本文288ページ)、ナイーブでせっかちな、更に読書時間も限られている日本人にとって、たとえ手に取ったとしても読み抜くにはかなりハードルが高い一冊かもしれません(訳書であるという点も加味すれば尚更)。更に、読者がこのテーマに期待する何らかの結論について本書は一切語ってくれないどころか、その期待する結論なるものを読者が安易に持たない事を著者は切実に望んでいます。

ではなぜ、このような暴論を企てるような一冊を送り出したのか(正確には2冊目)。それは著者の経歴を考えると良く判ります。著者の専門は植物学で趣味はガーデニング。良く知られているように、徹底的な環境の人為改変が進んだため、世界で最も在来種が少ないとされる(約1500種、高尾山の一つでそれを遥かに上回るとよく比較されます)島国、英国。その反動として、自然保護政策や在来種管理では世界的に最も進んだ政策を展開しており、更にはそれらに携わる研究者の数も他国を圧倒しています。そのような環境で教鞭を執り、庭園を愛する著者があらゆる事例を通して述べていく事、それは所謂外来種による影響と言われる一連の研究結果やデータ、マスコミ等で伝えられる報道の大部分が、アイコンとしての外来種に囚われ、短絡的に着目しすぎているという点を明確にするためです。

まず、著者は外来種に対する最もインパクトのある活動である駆除について、孤島やサッカー場程度の面積までであれば効果があると認めますが、それ以上の範囲に広がった外来種を駆除することは現実的にも経済的にも不可能であると述べていきます(それ以上の範囲で行った駆除効果と環境変化とを分離して評価する事は出来ないと)。更に、人為的な駆除の限界を悟った場合に導入される外敵の導入による撲滅についても、単純な確率計算上の結論同様に、導入した場合の16%については定着に成功する可能性があるが、その場合でも撲滅は出来ず、せいぜい共存する程度であると明確に突き放します。つまり、一度入ってきた外来種を人為的に駆逐することはほぼ不可能であると看破します(それでも膨大な資金と安全性評価の時間を投じて、日本から外敵種の導入を図る実験を進めている例を紹介します)。

一方で、その侵入から定着についての視点も明確に述べており、大英帝国時代に世界中にまき散らしたヨーロッパの動植物の導入記録(従って、年号まで確定できてしまう。ヨーロッパ内での移植種でも同じ)から、100個体未満であれば定着がおぼつかない一方、それを越えると、適当な環境が存在すれば確実に定着が進むと指摘します。また、導入を伴わない侵入の場合、その種の遺伝的多様性は極めて貧弱であり、適応出来た場合は一気に増加する一方、何らかの阻害要因が生じた場合には一気に減少に転じるという、増加と減少の特異性(中にはナミテントウのように、パージングという小個体群特有の超越法を具えている例も)が付きまとう点も指摘していきます。

これらの動物、植物学的な定着/放散過程について、専門家としての明確な視点を与えていく一方、本書はより根源的な外来種の問題点を指摘します。

それは、外来種と枠組み付ける物が何処まで行っても「人為的」選択の結果である事。在来か外来かの定義は全く以て後天的(イギリスの場合は15世紀以降、アメリカは物凄く判りやすく、コロンブスの「発見」1492年で線を引く。日本ならさしずめ、ペリー来航でしょうか)であり、生物学的な論拠とは言えない点。在来種より目立つ事、その特性として一気に増えるために目立つ事、自国原産、「在来」種というその地に住む人々の感性で容易に変化する枠組みである事。経済性を阻害する種である事(これは雑草や、漁獲、養殖を阻害する種であれば、在来種ですら容易に外来種と曖昧になる)。それが、人為的導入種であれば、その益害(当初の想定を逆転して害が上回ると判断された場合は更に)によって簡単に逆転してしまう事を示していきます。

更には、これらの外来種の在来種への影響について、多くの事例から生物多様性との相反に基づき、2項対立で評価を行う多くの外来種の影響評価には誤りがあり、環境系全体で俯瞰した場合、外来種が他の種類の植生を圧倒するのは一時的であり、その後の植生は多くの場合、外来種が侵入する前より豊かになる(特に外来種が侵入する様な脆弱な環境では)点を採り上げて、外来種の問題も、逆の立場となる在来種の場合でも、その種を用いたスケープゴートとして祭り上げている点に強く警鐘を鳴らしていきます。この議論を推し進めた先に、過去に環境が殆ど人為的に改変された英国らしく、在来種が本当に絶滅の危機に瀕しているのであれば、それが地球環境の変化によって生じる大きな変化の過程で生じていると判断できるのであれば、現在の生息場所に拘らず生息可能な場所へ人為的に移植することを否定してはならないと、その適用可能性の例までも示します。

著者は『沈黙の春』やダーウィニズムを採り上げて、それらに逆行する様な外来種を魔女狩りのように駆逐するために膨大な資金と労力を投じ、人為的な区分によって作られた在来種だけを囲い込むように保護する活動や、それらに対して学術的に不均等な示唆を与える事に対して、リンネ、ダーウィン以降が積み上げてきた自然科学に対する逆行だと強く非難し、我々は外来種の侵入を予測制御できる「聖杯」などを手にする事は出来ず、生態学に過剰な期待を持つことを止めてほしいと、研究者への過大な期待を持たれる事すらも拒否します。

あらゆる事を拒否してしまう本書。では、著者の本当の想いは何処にあるのでしょうか。

それは、要所要所に伏せられていますが、かつて世界を蹂躙した英国人だから立ち得る境地。外来種がはびこる場所、外来種が辿るルート、そして外来種を駆除しようとする場所。全てに於いて、其処に人の存在が介在している点です。ネイティブアメリカンが入植者たちが通った道筋を称して「白人の足」と呼んだように、ミツバチを「イギリスの羽虫」と呼んだように。人によってもたらされた自然の改変を、果たして人が御し得るのか。それが如何に難しい事かは多くの事例が示していますし、本書に於いても外来種の駆除の殆どが無駄に終わる点を明確に示していきます。その一方で、本書の原著題名に示されるように、著者が指摘するように、古生物学における知見から行けば、人が有する時間軸が変化として捉えている事象はスナップショットに過ぎず、環境の激変と捉えられる事象も、捉えらた時点における過程の微分を述べているに過ぎません。森林更新に極相がある一方、極相自体も時に一斉に更新される事は既に指摘されており、そのスタート時点において最も優勢なのは、外来種や在来種という枠組みではなく、極限的な環境に適応した先駆種であるに過ぎません(これは山の崩落地に落葉松がしがみ付く様にヒョロヒョロと育っている様子を見た事があれば、容易に理解できるはず)。そのような人為的な環境破壊を含む極限的な環境、更には農地やコンクリートで固めた護岸など限定的な環境に、人と一緒に(靴や衣服、作物種子を媒介に)渡ってきた外来種が優先して優勢となるのは当然であり、これを以て外来種が悪で、在来種が正であるという2元論は稚拙であるという点を、しっかり理解して欲しいという想い。

人がその営為を為す限り、その活動に付いてくる外来種の放散は決して止まらず、一度侵入した外来種はその環境の中で多様性の一翼として調律されるまでは、人為的な放伐はほぼ無力である事を明白に示し、その上で、過剰な発言や偏向、無意味な対策への浪費に対して、例え研究者が相手であっても、厳しい警鐘を鳴らす本書。

著者が願う、外来種の問題をより深く議論するテーブルに着くためには、イギリスの皮肉たっぷりに、黄金の時代にしがみ付いたと称する、時代が造ってきた時計の針を逆戻りさせるのではなく、もう一つの得意である、スコッチのようにじっくりと時をかけて、まだまだ数多くの議論と検証を闘わせ続けなければならないようです。

誰もがその議論に振り回されないよう、しっかりとした足腰を鍛えるための一冊として。

 

<おまけ>

本書に関連する書籍をご紹介します。

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今月の読本「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)カトリック視点で読むアメリカ政治の原動力

今月の読本「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)カトリック視点で読むアメリカ政治の原動力

これほど不思議な展開を見せるとは誰も予想していなかったかもしれない、ここ最近の国際政治状況。

特に、あまりに極端な候補者が両党から擁立される事が確定的になった今回のアメリカ大統領選挙の行方は、外の人間から見ると余りに不可思議に思えてきてしまいます。

この状況を誰も読み切れなかった中で執筆の準備がなされ、続々と本屋さんの店先に送り込まれる関連書籍の中で、それを何とか補正するためでしょうか、更に異色なキャッチコピーの帯を巻いて並べられた本書は、内容もアプローチも、これまでの「アメリカ本」とは一線を画す内容を持っています。

熱狂する「神の国」アメリカ今月の読本、「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)のご紹介です。

本ページでは著者の前著「バチカン近現代史」(中公新書)もご紹介していますが、本書はその続編として捉えて良い一冊。題名だけ見ると、類書にあるようなプロテスタントの国としてのアメリカ政治における福音派の政治的影響力が描かれるように思われますが、実際にはプロテスタントの動向を描くより遥かに多くのページをアメリカにおけるカトリックとその政治的な影響力の変化を描くために費やしていきます。

前著で触れられたバチカンとアメリカの外交関係を持つ前から現在まで続く水面下での関係や、バチカンの影響力の行使と共に、プロテスタント国におけるマイノリティとしてのカトリックの社会的地位の推移とそれに伴う政治的な影響力の変化を、ケネディの就任をピークとしてアイリッシュカトリックから現在の中南米の移民(サンベルト)への流れとして描いていきます。プロテスタント視点で描かれる本が圧倒的なアメリカのキリスト教関係の書籍で極めて珍しいカトリック視点(著者は前著のあとがきでクリスチャンではないと明言していますが、カトリック系の学校で教育を受けています)で描かれる本書は、やや傾倒気味ながら、それだけでも興味深く読む事が出来ると思います。

カトリック視点でのアメリカキリスト教史が描かれる一方、もちろん主要なプロテスタント宗派の動向とその政治的な影響力、特に各大統領の信仰する宗派から見た影響勢力の変遷についてもきっちりと述べられていきます。更には前著に続いて、新書という限られたページ数にも拘らず要所を抑えた判りやすい記述には特に感心させられます。

交わるところが無いように見えるカトリックとプロテスタントの政治的影響力が、ニクソンからカーターへというアメリカ政治の失望期に、プロライフを代表とした宗教的保守の思想の元で、レーガンを支えていく重要な勢力として纏め上げられ、結果的に共闘する形が採られていくという点を、歴代大統領の通例である記念博物館、公文書館の史料から見出していくのが本書最大の白眉。前著を読まれた方であれば、この共闘の先に冷戦終結の道筋が開き始めたと読み解く事が出来る筈です。また、キリスト教シオニストに言及して一章を起こし、戦前に遡って英国との関係に言及する点は、アメリカが何故イスラエルをこれほどまでに擁護する事への疑問に対する一つの回答として、ヨーロッパ史の研究を主軸に置く著者の面目躍如といえる著述かと思います。

コンパクトに纏められたカトリック視点でのアメリカのキリスト教と政治の切り離せない関わり合いを述べる本書。ブッシュ・ジュニアを支えた福音派とネオコンの台頭と、その後の潜伏状態までで本書の著述は終わっており、オバマ時代の宗教的な動きや帯にあるようにトランプ云々はほんの付け足し程度に述べられるに過ぎません。その代りに最終章で描かれる内容が本書のもう一つのハイライト。アメリカのカトリック礼拝に訪れるだけでなく、福音派の結集力の源泉でもあるメガチャーチで実際に礼拝に参加した体験が述べられていきます。万を超える聴衆を集める集客?力、それを支える魅力的な説教と、広大な土地に散在して生活するバイブルベルトの生活環境における、普段は希薄な対人関係を繋ぎ合わせるコミュニティとしての存在感の大きさに打たれる著者の想いが切々と伝わってきます。

その上で、現法王(著者はやはり教皇と表現しますが)フランシスコと穏健な福音派との相互理解の先に社会的な問題点の解決策を見出そうとする著者の視点は、何処までもカトリック的である所には、やむを得ないとはいえちょっと片手落ちな気もしながら、著者が述べているように、日本では余りにも希薄な宗教を視点から決して逸らしてはいけない事を改めて見つめ直させる一冊です。

熱狂する「神の国」アメリカと類書<おまけ>

本ページより関連する書籍をご紹介。

 

 

今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)理想の元となった原典へのアプローチ

今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)理想の元となった原典へのアプローチ

昨今、とかく話題になるこの表題。

本題のテーマとしては絶対に手を出さないのですが、著者を見て、そして副題(キャッチーな主題と帯に気を取られると選択を誤るのが、このシリーズの玉にキズ)に惹かれて、これは読まねばと手に取った次第。

現在では、ちくま学芸文庫に収蔵されている名著「憲法で読むアメリカ史」の著者、アメリカでのロイヤー経験を有する阿川尚之先生が再び一般向けに贈る、アメリカ憲法を解説した一冊です。

憲法改正とは何か今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)のご紹介です。

本書も前著と同じ、アメリカ合衆国憲法について書かれた一冊ですが、アプローチはやや異なります。前著が合衆国憲法の成立とその後を、憲法制定者達、そして憲法の最終判定者ともいえる合衆国最高裁判所の首席判事「コート」たちの判例の変化から読み解き、アメリカの歴史を著述するという、アメリカ史の著作としては極めて独創的なアプローチが話題を呼んだ訳ですが、本書ではその特徴であった通史としてのアメリカ史、合衆国憲法史が描かれる訳ではありません。

本書でも同じように合衆国憲法の解釈を基軸に置いていますが、そのアプローチは合衆国憲法の成り立ちを軸に置き、立法に与えられた憲法修正の権限の起源と修正条項成立の経緯、施行し時には超越する行政の運用。判例の積み重ねで乗り越え、確立した司法の違憲立法審査権という権能。それぞれの権能が有する憲法解釈の加え方の方法論を三権それぞれから個別に事例を挙げて列挙していく、合衆国憲法における憲法解釈を行う際の事例集といった纏め方になっています。従って、前著を読まれた方は内容的にある程度重複してしまうと思いますし、歴史的な連続性を確認しながら読まれたい方にとっても、やや読み辛い印象があるかもしれません。

更に言えば、本書を手に取られた多くの方が期待する、日本の憲法について本書を通して述べる事を著者は実質的に拒否(それでも1章を起こして、誤謬を含む事を当然として傍証を述べていますが、はじめにで、きっぱりと結論を述べる事は否定しています)しています。前著をそれこそ枕元に置いて繰り返し読むほど気に入っている私としては、著者のその見解に大いに同意した上で、本書を読んだことを述べておきます。

一方で、アメリカ通史など全部読んでいられない((全)と付されているにも関わらず、前後が大分圧縮された前著のちくま学芸文庫版でも約460頁、原著のPHP新書版は上下巻で600頁強)、とにかく合衆国憲法制定の経緯と修正の事例やきっかけを手短に理解したいという方には、本書の方が叶っているかと思います。特に前著ではどちらかというと判事たちの思想や法解釈感といった人物を軸に置いていましたが、本書ではむしろシステム、具体的に憲法解釈を変えていこうとするベクトルとそのアプローチ(もちろん拒絶例も含む)ついてより詳細に描かれていきます。

やや断片的な内容に終始する本書ですが(お時間が許す方は、是非本文だけでなく、註も読んで頂きたいです。本文より面白いかも)、それでも歴史的な成り立ちが合衆国憲法にとって特に重要な事を改めて示すように、「ザ・フェデラリスト」におけるジェームズ・マディソンの記述を繰り返し引用してきます。成立の時点から、契約社会として成立した植民地における危急に際して、統合の実として、とにかくその延長線である成文憲法を求めた制定者達と、それを阻止せんとした反対派への妥協としての改正方法の盛り込みと見做されがちな憲法改正条項(5条)ですが、著者は制定者達にとってもその危急さ故に完璧さに自信が持てない、それ故に改正の余地を残した(更には、それを実証する為に権利章典を承認させるように働きかけた)と見做してきます。制定者達の着目点も判断も今となっては知る事は出来ませんが、それでも現在の憲法判断に於いて、制定者達を想定した判例を積み重ねていく点を観ると、その制定の思想、理想を今でも掲げ続ける想いが見えてきます。

その上で、修正条項を提起して承認する、判例を積み重ねて既成事実として定着させる、時には解釈によって乗り越えていく。そのアプローチは様々ですが、共通する内容として理想は決して歪めず、事実と社会性の変化に基づいて適用を変えていくことで、憲法自体の価値を築き上げていくという点があると思えます。その際には、築き上げてきた判例の性急な変更は決して望ましい物ではなく、その経過した年月の重みも加味することが必要であることを述べる点は、社会安定性という観点からも着目すべき事柄かと思います。

著者が繰り返し述べるように、全文を書き換える様な改正を行えば、基準法典としての憲法の安定性を損なうことになりますし、それは革命と同義になってしまいます。また、社会的な要請をその都度書き込むと、これはまた変化に付いていけない時代遅れの条文が連綿と受け継がれる結果になってしまいます。それでも、変わらない、最古かつ最長寿の成文憲法といわれる(実質的には違いますが)合衆国憲法にも27の修正条項が付記される一方、その改正は決して容易ではなく(議員の2/3の賛成と州の3/4の批准が必要、日本の場合は議員の2/3は変わらないが、国民の過半数)、昨今では修正が極めて困難となっている事も述べられています。

改正は決して容易ではなく、大きな社会的要請や変化が充分に満たされた時にかぎり修正されるようにも見受けられる合衆国憲法ですが、リンカーンやルーズベルトの例を用いて、修正を行わず、時にその憲法解釈の拡大適用による危機の克服を述べると共に、終身制で憲法の最終判断者でもある最高裁判所判事たちの判断がたとえ下ったとしても、実際に施行するのは行政府であり、戦中や明らかに社会的に不適正な判決であればそれを執行する力は司法にはない事も明確に述べていきます。行政府と立法、司法が鋭く睨み合ったニクソンの事例を用いて、その理想が最後の最後で守られたと著者が述べる度に、共和制というシステムが極めて微妙なバランスの上で成り立っている事を思い知らされると共に、その理想の結集点としてのアメリカ国民の合衆国憲法への想いの強さを感じさせます。

最終章に述べられる日本国憲法の議論は、本質的に著者が望んでいらっしゃらないようですので割愛しますが、暗示として述べる「アメリカ人は憲法を大切にするが、神聖視しない。それに対して日本人は憲法を神聖視するものの、それほど大切にはしない」という一文だけ引用しておきます。

この国の現用憲法制定の歴史、そしてそれを提案した人々が理想として見た原典の成立と、それを現有の物として使い続けるために加えられてきた積み重ねの歴史をその方法論から述べる本書。その理想を更に推し進めるために織り込まれた仕組みをどう理解し、使いこなすかは我々自身に課せられた課題なのかもしれません。

著者が述べるように、憲法は解釈せずして運用できず。その解釈は時代と共にゆっくりと変容し、織り込まれた仕組みはその時のために備えられているものだから。

「憲法改正とは何か」と「憲法で読むアメリカ史」本書を読まれて、アメリカの憲法にご興味を持たれた方は是非お読みいただきたい、同じ著者の「憲法で読むアメリカ史」。現在は、ちくま学芸文庫版のみ入手可能です。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。

今月の読本「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳 築地書館)その神秘の魚は人と人が交わる中で密やかに物語を語り出す

今月の読本「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳 築地書館)その神秘の魚は人と人が交わる中で密やかに物語を語り出す

今年もこれから夏に向けて、あらゆる意味で再び話題となりそうな魚、ウナギ。

世界中のウナギを掻き集めて消費している日本人にとって、これから目の前で繰り広げられる狂想曲と、産卵場所探しや生育環境、更には人工養殖と飽くなき研究へのまい進。ウナギにまつわる物語の殆どがこの国にいれば把握できてしまうように思えてきますが、果たしてどうでしょうか。

サーモン、タラと並んで世界中の人々が好んで食する珍しい魚であるウナギ。その神秘に満ちた一生と特異な姿、人をも凌駕する長寿を誇る生態に魅せられたのは日本人だけではない筈。

そんな想いを改めて思い起こさせる一冊をご紹介します。

自然科学関連で、他の版元さんには見られないユニークな本を送り出してくる築地書館さんの最新刊からご紹介です。

ウナギと人間今月の読本、「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳)です。

本書を手に取られ、表紙や裏表紙に書かれた概要を読まれた多くの方は、おやっと思われるかもしれません。

著者があとがきで述べているように、そしてあとがきでまだ書き足らない想いを埋めるかの如く綴るヨーロッパにおけるウナギ料理の話や、ウナギのヤスのコレクションの雑感に観られるように、本書は当初、訳本に多くあるウナギをテーマにした広範囲な分野をカバーする文化史、生態学を纏めた一冊にする意図があったようです。日本の著作では珍しい、しかしながら訳本では当然とも見做される科学と文化の双方をカバーするウナギの概説書としての体裁。ところが、11年にも渡る取材の結果纏められた本書は、そのいずれにも当てはまらない内容へと着地しています。

著者は著名なアングラーであり、パタゴニアの創業者とコラボレーションを行うナチュラリストとしての側面も有する、自然科学関連ではかなり著名な方(本書の取材に於いても、ナショナルジオグラフィック協会の支援を受けた事が記されています)。多くの生物に関する著作を有する彼が本書で辿り着いた地平は、ウナギの物語ではなく、ウナギを挟んで語り合う著者と登場人物たちの人と人の物語。

冒頭と中盤に分けて描かれるサルガッソでの産卵場所の追跡や、シラスウナギのバイヤーの遍歴、中間に差し挟まれた、現:日本大学の塚本教授との語り合いの部分だけ見ていると、ライターの方が書かれた、良くあるウナギの不思議物語を読んでいるかにも思えてきます(塚本教授の印象を傍点付きで語る著者の視点には、氏の著作を複数読んだ身として深く同意するところです)。ウナギの生態や食材としてのウナギ、更には研究の物語など魚が好きな方なら思わず喜んで読んでしまう内容も豊富述べられています。

その一方で、3章から始まる(訳注を見ると、原著では3,4章で一つの章だったようです)マリオとウナギの物語を読んでいくと、その民俗学的なアプローチとルポルタージュ的な体裁の記述に困惑されるかもしれません。民俗学的なテーマを掲げた本では良く見られる、取材する側と取材される側の葛藤や迂遠に引きずり回させる回答への道筋、相手に徐々に呑まれていく著者とすっきりしない結末など、ウナギの生態や物語を知りたいと思われる方にとっては、時に苦痛すら感じる内容かもしれません。更には、アメリカの人里離れた川縁で大きな簗を毎年のように組み直しては、秋の増水時期に降下するウナギを待ち望む世捨て人のような燻製作りの男との会話、そして登場人物たちに誘われるように向かったポンペイでのウナギの伝説を追い求め、夜な夜なサカウに浸っていく著者と、そのアプローチに興味を抱き協力する若いCSPの職員。

ここまで読んでいくと、本書が単にウナギの物語を語っているとは思えなくなってきます。初めは乗り気ではなかった、あまり興味のなかった11年前の著者と、溢れるばかりの書き切れない内容をあとがきに綴り、それでも興味が留まるところを知らないと述べる著者。ウナギに魅せられていった著者と、おなじように著者が訪れた世界中の場所で、ウナギに興味を持ち、惹かれ、魅せられ、研究され、信仰し、神聖視し、恐怖し、稼ぎ、食し、育む…著者と交わった人々の物語。

春になると、金が舞い飛び密漁を含め多くのシラスウナギが東アジアに集結し、熱暑の時を迎えると、極東の島国に集められたウナギたちは鮮やかな手つきでかば焼きに仕立て上げられる。一方で、紫外線照明が降り注ぐ研究室ではシラスウナギの稚魚が水槽の中を舞い、雄ばかりの奇形ウナギにホルモン注射を与え続け、南の海では「科学者」でありつづけたい男たちが政府の資金でその産卵場所を嬉々として追う。

秋になれば、ニューヨークの奥地の川では黙々とひと夏をかけて巨大な簗を仕掛けた男が息子と二人、嵐の到来を待ちわび、南半球では、何十年もの間、川や湖で過ごして巨大に育ったウナギたちが満つる時を悟るかのように砂洲を越えて海に帰る時を男たちが見守る。その横で彼ら、彼女らが紡いできた物語に寄り添うかのように、窪地の水たまりに潜む巨大なウナギに餌をやり、時に手を差し伸べ、さするように愛おしむ人々。学問として語り継ぐことを決心した次の担い手たち。そして、南の島で自らの起源と生誕を来た道をその不思議な生き物に重ねて物語を編み、そっと伝えていく人々。

ウナギを介して交わった人と人の物語を編み重ねて綴られた本書は、その未だ生態の全容も判らず、生まれいづる場所すら容易に明かそうとしない、ウナギ自身の神秘のベールのように、著者の秀逸な筆致に載せて、大洋のようなその世界の広さを往きつつ、大海を渡って河口に辿り着いたシラスウナギを掬うかのように、僅かに捉えた事実をほんの少しだけ我々に垣間見せてくれるかのようです。

 

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を。

今月の読本「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)飛ぶ事への憧れを叶えた三本線さんがそっと奏でる、空へと誘う美しい詩。

今月の読本「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)飛ぶ事への憧れを叶えた三本線さんがそっと奏でる、空へと誘う美しい詩。

2/24午後、羽田空港国際線ターミナル。

ひと月と空けずに再びの海外出張。フライトまでの待ち時間に飛び込んだ改造社書店さんの中をウロウロしながら、やっぱりブックスフジさんとは品揃えが違って普通の本屋さんだよなぁ等と思いつつ、めぼしい本もなくお店を出ようとした瞬間に、その本が目に入ってきたのでした。

ちょうど発売日を迎えてカウンター横の壁に飾られていた一冊の本。いくら空港にある本屋さんだからってちょっと推し方間違ってない?と思いながら頁をめくり始めて30秒後、ニコニコしながらレジカウンターに本を置く私がいたのでした。この本はこれまでのパイロット本、フライト本とは全く違う、楽しい本だとの確信を得ながら。

WP_20160224_15_06_28_Proターミナルラウンジでゲートオープンを待つ間に。あっ、映っているのは乗ったフライトとは違う機体です。

現役のBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)のB747-400パイロットが綴るその本は、唯の一枚の写真もありませんが、まるで旅の最中、たまたま隣り合わせた機内の窓際の席に座る著者が語りだすかのように、空への想いを静かに、ゆっくりと描いていきます。

skyfaring今回ご紹介するのは、本ページでは珍しい一冊「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)です。

まず、驚かされるのは著者が極めて若いという事でしょうか。多くのパイロットの方が手掛けられる作品は、リタイヤ後であったり、現役でも機長として既に管理職クラスにまでキャリアを積み重ねた方が、地上勤務とフライトの合間に書かれる(時にはプロの作家に転向する)といった例が殆どであったと思います。そこに描かれるのは、自身のキャリアを淡々と述べる回顧録や往年のグレートパイロットの荒唐無稽な話であったり、自身のフライトを追体験させる迫真の記録であったり、専門用語を駆使して空の安全への警鐘やフライトの厳しさをを綴る、ちょっと教訓じみた内容が詰め込まれた、マニアにはたまらないですが一般の読書好きの方にはちょっとお勧めしにくい本が大多数だと思います(普段はご紹介しませんが、空もヒコーキも大好きなので、この手の本は見かける度に買って読んでいます)。

ところが、本書ではこれらの記述が殆ど出て来ません。それどころか、著者のキャリアは民間のフライトスクール出身でパイロットはサードキャリアとなる、フライト中は右のシートが指定席の所謂三本線さん(ファーストオフィサー、古い言葉でいえばコ・パイ、副操縦士)と極めて異色なのです。総飛行時間は流石に国際線パイロットらしく、9000時間弱と中堅クラスのキャリアを有していらっしゃいますが、B747-400が2機種目(初めはA320)、今後機長昇格訓練に入るのか否かもここでは語られません。

更に、子供の頃からの空への憧れ、飛ぶ事への想いから、現在の世界を旅するパイロットしての生活(BAの国際線ともなると、流石に大英帝国の残滓もあって北極圏から南極すれすれまで全世界をカバーします)へ至る経緯を、離陸から着陸までのストーリーに仕立てて語る構成は、数多あるパイロット本の中では決して珍しい事ではありません。しかしながらその筆致は極めて特徴的です。

SNSで翻訳者の方からご紹介を頂きましたが、かなり難解な原文(著者の父親は牧師でヨーロッパからアフリカ、南米と移り住み、ソーシャルワーカーをしていた母にボストンで巡り合って腰を落ち着けたという強烈な国際派、本人もアフリカでのインターンを打ち切ってアメリカに戻ってコンサルタント、フライトスクール、そしてロンドンでパイロットと)のイメージをなるべく崩さないように丁寧に丁寧に翻訳された本書は、著者の生い立ちやフライト中の想いから、フライトのテクニカルな話題、そして天文や気象の話へと緩やかに、お互いの話題をシームレスに移ろっていきます。時に、散りばめられた内容がかなり専門的かつ、マニアック過ぎる(誰が空域名称(日本を表するのは福岡センター….嗚呼、其処で来るか)、VOR/NDBやウェイポイントの名付けパズルを解いたり、VOR/NDB伝いに旅をするシーンを空想するのかと…(苦笑))拘りを見せてしまいますが、その筆致は「薀蓄を振り回す」ようなものではなく、淡々と、でも少し笑みを浮かべながら述べていく姿が手に取るように判るのです。

豊かに語られる、パイロットへ進む彼の人生の足並みと、パイロットへの背中を押してくれた、今は体験できないフライト中のコックピットに訪問した際に交わされた言葉の数々。今も地上で、そしてHF/VHFの向こうから聞こえてくる、気の置けないフライトスクール同期面々との大切な絆。優しく見守ってくれた、今なお愛してやまない両親との深い繋がりの物語。憧れが日常へと移り変わった現在の日々の心象。フライト毎に異なる景色や街、押し寄せる空間と時差の波(これらを表して、プレイス・ラグと呼んでいます)に揉まれながらも、未だ褪せることは無い、いやもっと強くなる空への想いを、こちらも淡々と語っていきます。

憧れの原点ともなった、フライト中のキャビン窓側からの眺め、そしてフライト中に客室で感じるちょっとしたシチュエーションにも、パイロットになった今だから判る心象を込めて。シェードを閉めて、読書やパーソナルTVに没頭している間にも音速に近い速度で移り往く、その飽きる事のない空と大地の景色の美しさ(でも大陸横断のフライトはコックピットでもちょっと飽きるようですね)、正確な天文と気まぐれな気象現象が起こす、キャビンの窓を彩る幻想的な風景にほんの少し気が付いて欲しいという、想いを重ねて述べていきます。

眼前に広がる白い雪の山々、緑の大地。寒々とした海辺から陽射しが燦々と降り注ぐ、成層圏という名の大洋に乗り出し、再び陸地を迎える嬉しさ。茫々たるアフリカの大地を南北に渡る想い。そして、雲の森が陸地から立ち昇る中を抜けていく南アジアの空。客室の窓から憧れ続けたその景色を、今はコックピットから望める光悦。昼と夜が水平線で交わり続ける太陽を追いかけて西へ向かうフライトと、漆黒の向こうに太陽を迎えに飛ぶ東へのフライト。真っ暗な夜のフライトでも、宇宙と交わる空の色は刻々と移り変わり、時には流れ星やオーロラが迎えてくれる。

サン=テグジュペリが「夜間飛行」で描きだした、フライトという行為の心象と風景描写への強い想いと、そのオマージュである事がはっきりと判る、美しい訳文で語られる美しい空の姿を伝える言葉の数々。まるで往年の「ジェットストリーム」を本で読んでいるかのように、言葉の中から、移り変わる世界と空への憧れ、美しい空への想いが溢れ出していきます。そして、何時も心に残る故郷、ボストンからニューイングランドに向けた大西洋への道と、父の故郷であるドナウを行き交うヨーロッパの空、最後はやはりドーバーを渡ると迎えてくれるロンドンの街並みへと心寄せる筆致には、人はどんなに遠くへ旅立っても、やはり故郷、住んでいるところへの想いを募らせるものだという事を改めて思い出させてくれます。

WP_20160203_10_37_04_Pro南アジアのハブ空港から1時間少しのインターアイランドフライト中に撮影した一枚。著者が言う様に、やはり翼が入っている写真の方がしっくりくる事を本書で再認識させられたのと同時に、この直後に大きくバンクを取って地上少し上から森のように林立する雲たちの写真を撮り損ねた事に後悔しつつ。同じ景色への驚き、その中を縫うように降下していくパイロットたちのフライトを綴った著者の想いに少し嬉しくなりました。バンクを取る時に繰り広げられる窓からのダイナミックな風景の変化、降下中、離陸直後や着陸寸前のフレアを掛けた際の独特の浮揚感への想いを述べる段では頷くことしきり。こんな客室の窓際目線で描かれたパイロット本、今までありませんでした。

そして、著者がイギリス在住と聞くと、きついユーモアにうんざりさせられるのではないかと懸念する向きもあるかもしれませんが、主にニューヨーク・タイムズに寄稿したエッセイを再編成したと思われる本書には、そんな「ひねくれた」表現は全くというほど出て来ません。むしろ、日本にホームステイをした事もある、今も年に何回か訪れる日本行きのフライト(既にB747-400の東京便は無くなってしまったので過去形で…)の際には、怪しくなりつつある日本語をキャビンアテンダントに修正してもらったメモを片手に、キャビンアナウンスをすることを定例にするほどに日本の事も好いて下さっている著者の筆致は、ニューイングランドの気候が育み、世界の空の行き来する方らしい無国籍で少しウェットな心象を綴る詩作とも思えてくる内容です。

元ネタは早川書房さんからと同じですね…。

ひとつのフライトが最後を迎えると、電波高度計のマシンボイスがカウントダウンを始め、着陸の決断を迫るボイスがコックピットに響く頃、もう一つの物語は都心の森に囲まれた神社の鳥居を潜ってラストを迎えます。ロンドンに置き去りにされた半身と、プレイス・ラグに苛まれながら、成田から極東の島国に広がる世界一の大都市に同僚たちと歩き出すもう一つの自分との語り合いは、たっぷり取られた本書のページが尽きてもまだまだ続くようです。

P1060493長距離の国際線フライト中、通路側のシートに座ってじっくりと読みながら。たぶん、この本をテーマにしたラジオドラマ、朗読を聴きながら窓際のシートに座って移ろう空の色を追いかけていたら、ちょっと退屈になるフライトもきっと素敵になるだろうな等と、考えながら読んだ一冊。

P1060403空と地上と人が交わる場、空港という空間が与えてくれた、嬉しい巡り合わせに感謝しつつ。

 

今月の読本「灯台の光はなぜ遠くまで届くのか(原題:A Short bright flash)」テレサ・レヴィット:著 岡田好恵:訳 講談社ブルーバックス)人物史と科学技術史が語る、受け継がれたその閃光は、今も導きの光を放つ

今月の読本「灯台の光はなぜ遠くまで届くのか(原題:A Short bright flash)」テレサ・レヴィット:著 岡田好恵:訳 講談社ブルーバックス)人物史と科学技術史が語る、受け継がれたその閃光は、今も導きの光を放つ

積読から脱却しつつも、ついつい新刊本に浮気をしてしまう悪い性分。

今回ご紹介する一冊も、twitter上での紹介文と素敵な表紙に惹かれて、読むあてもなくつい買ってしまったのですが、読み始めると他の積読本を後回しにしてしまう程、実に楽しい一冊でした。

科学入門書の中でも老舗中の老舗、学生時代からお世話になり続けた、講談社ブルーバックスの最新刊からご紹介です。

灯台の光はなぜ遠くまで届くのか灯台の光はなぜ遠くまで届くのか(原題:A Short bright flash)」テレサ・レヴィット:著 岡田好恵:訳 講談社ブルーバックス)です。

本書はブルーバックスの中では異色の、科学技術そのものを扱った内容ではなく、副題にあるフレネルレンズの発明者にして、偉大なる光学研究者でもあるオーギュスタン・フレネルと、彼の発明の恩恵を最も受けた灯台の発展史を一冊の本に纏めた「科学史」の読本です(正式な題名はA Short bright flash Augustin Fresnel and The Birth of modern lighthouseで、邦題とは大分ニュアンスが異なります)。

本書は原題にあるように、前半はフレネルの閃光のような僅か39年の半生とその研究開発成果、フランスにおける近代的な灯台システム(灯台を軸に置いた、沿岸海域における船舶航路、航行標識体系とでも呼んだ方がいいでしょうか)構築端緒の物語と、南北戦争前から戦中のアメリカを舞台にした、近代灯台システム導入と南北戦争という二つの物語が語られていきます。このため、表題にある様な「なぜ遠く」という、如何にもブルーバックスが好きそうな技術的な課題を解いていくという話が中心として語られる訳ではありません(そのため、当時を物語る精巧な図版は多く用いられますが、数式はほぼ出て来ません)。

ブルーバックスらしい表題とはちょっと様相の異なるテーマが綴られる物語は、著者の丁寧な取材と巧みな筆致により構築された、読物としての人物史にして科学技術史。

薄幸の代表格的な結核持ち(このネタが語られる一節でくすっと出来た方は、文学好きですね)で、少しオタクがかった主人公のフレネルに、情熱と野心を併せ持つ信頼すべき力強いパートナー、アラゴ。そして、フレネルが対峙することになる、物理学に造詣がある方なら誰しも知っている錚々たるフランス科学アカデミーの面々。相変わらずいがみ合う対岸のイギリスと、その中でもフレネルの成果に着目するスティーヴンソン。著者の生き生きとした筆致が当時の科学者たちの情熱と息吹、疑念と嫉妬を伝えてくれます。理論物理学の研究者としては超一流ではないが、子供の頃から器用であらゆる実験器具を作ってしまうフレネル。自身の理論を実験で証明して見せようと実験器具を作りながら、その理論を深めていく彼の特性は、現在の研究者の卵たちに求められる素養とほとんど同じである事が判ります。そして、学会の重鎮への反目もあってフレネルと組む事を選択したアラゴ。力のあるパートナーを得た事で、フレネルの実験は科学的探究からさらに前進して、実際の技術、灯台用の光源としてフレネルレンズと呼ばれるより強い照明を生み出す(光を絞り込む)光学的手法を編み出すことに踏み込んでいきます。更には航路標識システムとしての灯台照明の開発。明弧の間隔設定や現在でも用いられる光の強さの等級設定(第n等フレネルレンズ)の組み合わせによる、フランス海岸部分を全てカバーする灯台による灯火標識システムを構築していきます。

ナポレオン革命前後の激動の19世紀フランスを生きたフレネルは、自らが準備した灯火標識システムの完成を見ることなく、僅か39歳で亡くなってしまいますが、彼の残した偉大なる成果は、その後継者たちに脈々と受け継がれていきます。彼の弟、レオノールの手により、フランスの灯火標識システムは完成。彼が苦心して育てたガラスメーカーもレオノールの管理、指導の段階からステップアップを果たして、フランス、そしてイギリスでそれぞれ独自の発展を遂げていきます。両国が開催した万国博覧会の目玉展示として、同じようにフレネルレンズが設置されたように、ヨーロッパが海洋帝国として大きく飛躍した根底に、フレネルの為し得た技術と、それをシステムとして大きく普及させたフランス、イギリス両国の国を挙げての威信を賭けた開発競争があったようです。

本書が表題のように、フレネルの伝記と、彼と灯台に纏わる物語を描くだけであればここで終わっている筈です。しかしながら、著者はミシシッピ大学で歴史学の教鞭を執る科学史の研究家。本書の後半はフレネルの物語から大きく離れて、アメリカにおける灯台の時代史へと大きく舵を切っていきます。

当時の世界の片田舎、まだ太平洋に到達していない東海岸を中心としていたアメリカの遅れた灯台事情と、フレネルレンズを用いた照明を頑なに受け入れない当時の政治状況を、こちらも前半同様に豊かな人物描写を駆使して語っていきます。何とも悲しい理由で灯台の近代化が遅々として進まないアメリカのお家事情。著者の母国でもあるためでしょうか、歴史家としてのその筆致は、時に憂いを込めた辛辣さすら感じられます。それでも、船乗りたち、そしてもっとも安全な航海に対して敏感な海軍の軍人たちの粘り強い働きかけ(最後の一押しとなった事件と、その後の検証への道筋は、やはりこのルートを辿るのかと、技術導入を手掛ける方なら誰しも納得してしまうエピソードでしょう)によって、遂には全面的にフレネルレンズを用いた灯台と灯火標識システムへの切り替えに踏み出すことになります。ここで日本人読者にとってちょっと嬉しいのは、僅かではありますが条約灯台の話題が触れられる事と、最初にヨーロッパの進んだ蒸気機関船舶と灯台を調査する為に派遣されたのが、ペリーである事が紹介されている点です。新技術の導入について常に先進的であった彼の経歴をご存知の方なら、フレネルレンズを用いた灯台の導入の端緒にもペリーが居た事に対して、思わず頷かされるのではないでしょうか。

更に、著者の現在の奉職先からいって欠かす事が出来ない点もじっくり語られます。南北戦争における南部の灯台における争奪戦と、灯台守たちの活躍の記録。万国博覧会で展示されるほどに重要視された工業力の粋を集めたフレネルレンズとその駆動部は、両軍にとっても金銭に替え難い貴重な品。しかも、その光は敵味方何れも重要拠点へと導いてしまうため、両軍による激しい争奪戦と、レンズの隠匿、そして自らの手による破壊が行われてしまいます。暗闇が広がる南部の海岸線、その中でも、灯台の光は等しく船を導くものであり戦争とは関係ないと投光し続けた灯台守たち、追い込まれて消灯や破壊に至ってしまった灯台の物語も語られていきます。

歴史の荒波に揉まれながらも、安全な航海を守るために光を燈し続けた灯台と、その光を絞り出すフレネルレンズ。鯨油や石炭、石油ランプに頼ることなく、高輝度の照明が得られるようになり、レーダーによる航行が当たり前となった今、灯台の重要性が低下することで、既に第1等フレネルレンズの製造が止められている事は、御存じの方もいらっしゃるかもしれません。それでも、フレネルの残した偉大なる遺産は、彼の編み出したシステムに則って、今も海の安全を守るために、闇夜の海を照らし続けています。

彼の生き様と、その後の発展への曲折のストーリーを綴る本書。そこからは、研究者、技術者を目指す誰しもが直面する課題と、それを乗り越えていった人々の物語が浮かび上がってくるようです。彼が解き放った光の道筋が、後に続くエンジニアたちの道標となる事を。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。

今月の読本「第四の大陸」(トビー・レスター:著 小林力:訳 中央公論新社)ローマカトリック世界の閉塞から飛躍を地図の歴史に載せて

今月の読本「第四の大陸」(トビー・レスター:著 小林力:訳 中央公論新社)ローマカトリック世界の閉塞から飛躍を地図の歴史に載せて

本文ページ数474頁。

私の夏休みを半ば持って去ってしまった一冊は、かなり読む方を選ぶ一冊かもしれません(そして、幸運にも選ばれた方にとっては、嬉しくもちょっと悔しい時間泥棒でもあります)。

帯でも謳われる、1000万ドルという法外な価格を払ってまでアメリカ議会図書館が買い取ったという、地図が好きな方なら誰でも知っている伝説の地図「ヴァルトゼーミューラー世界図」。本書は史上初めて「アメリカ」の名が記された地図に纏わる物語が描かれた一冊のようですが…果たして。

第四の大陸第四の大陸」(トビー・レスター:著 小林力:訳 中央公論新社)のご紹介です。

本書のプロローグで描かれる「ヴァルトゼーミューラー世界図」発見までの胸躍る様なストーリー。そして良く知られたこの地図に初めて書かれたアメリカの名の由来ともなったアメリゴ・ヴェスプッチと、地図の製作者であるヴァルトゼーミューラー。冒頭だけを読むと、彼らと地図の成立に纏わる物語が全編に描かれているように思えますが、実体は大きく異なります。

全19章で語られる物語のうち、実際の「ヴァルトゼーミューラー世界図」の製作に関する記述は最後半の僅か3章、全体の2割を切っています。直前で語られるアメリゴの物語を加えても120ページほどで、全体の1/4に過ぎません(プロローグを入れて漸く3割程度)。では、本書は残りの3/4には何が描かれているのでしょうか。

冒頭の売り込みとの乖離に疑問を抱えながら読み続ける読者を遥かに置き去りにするように、著者が本書で描こうとしているテーマは始めから極めて明快です。そのポイントは類書が歴史の流れに準拠して描く事で欠落してしまう視点を、敢えて13世紀から描き始める点から明らかになります。

著者の描こうとするストーリー、それはローマカトリック視点での歴史と世界観の変貌を、地図という世界観を示す象徴を用いて示す事。その延長としての「ヴァルトゼーミューラー世界図」に込められた想いを描くことを主眼としています。

所謂TO図や、旅程、マッパ・ムンディといった表現手法。それは聖地への旅程やキリスト教的な世界観が成し得た世界を描写する為に作られたもの。その記述は地図とは地形そのものを表すという現代的な感覚が失ってしまった、表現すべき世界観を表すものであることを改めて思い起こさせてくれます。西を大西洋に仕切られ、東を聖地、そして南と聖地の先は異教徒によって抑えられ、閉塞した地中海を中心とした13世紀のキリスト教世界。旅程以外の方向性すら必要としないその狭い地図で描かれた世界の向こうからやって来るもの、モンゴルやオスマントルコのキリスト教世界への侵攻の衝撃が、その後の世界観を大きく広げる役割を果たしたことを示していきます。

外からのインパクトに対する対抗と憧憬として、同じく世界の外に存在するであろう、救世主プレスター・ジョンへの希求。キリスト教的世界観が生み出す、魑魅魍魎的な非人間の居住する世界とその先の世界の果て、地上の終端と水球の裏側にある反世界。今では妄想と軽く切って捨ててしまうような内容ですが、当時は絶対であったこれらの世界観。しかしながら、マルコ・ポーロに代表される大陸を東西に行き交った僅かな商人や、大ハーンの元まではるばる旅をした修道者、教皇使節、そして船乗りたちの知識により、これら旧来の縛られた視点が徐々に書き換えられていく過程を、地図の描写の変化と共に丁寧に記していきます。

そして、本書で最も重要なポイントとなる、フィレンツェで発祥した人文主義と、そこからもたらされたギリシャ文化の再評価としてのプトレマイオスの「ゲオグラフィア」再発見が語られていきます。類書では歴史の順序だての関係でどうしてもプトレマイオスが先に語られてしまいますが、本書ではビザンツ帝国の消滅と所謂イタリアルネッサンスの歴史的経緯の流れの中でプトレマイオスの再発見を描くことで、彼の図法がどのようにキリスト教的世界観の中で組み込まれていったのかを把握できるように述べていきます。その目的は科学的、商業目的の為ではなく、あくまでも人文主義のため。それは商業によって繁栄を築いたフィレンツェにとって、新たなキリスト教世界、新たな世界帝国を俯瞰する手法として復活を遂げた事が示されていきます。

新たな世界を表現する手法を手に入れた(再発見した)キリスト教(ローマカトリック)世界。その世界観が示す先の地へ向けて、今度はポルトガルとスペインが乗り出していきます。所謂大航海時代、香辛料と黄金を求めて「ゲオグラフィア」の先に描かれるはずの世界に乗り出していきますが、そこには必ずキリスト教的目的、プレスター・ジョンやキリスト教が示す世界の果てに存在する「楽園」探すことが当然のように求められていきます。新たに描かれる地上が出来る度にその先に描かれるプレスター・ジョンの存在とその王国。地図を描く目的の一つに宗教的な意義がある事をここでもはっきりと示されていきます。そして、コロンブスの新大陸発見とヴァスコ・ダ・ガマの南回り航路によるインド到達を以て、プトレマイオスが描いた地平を越えた先にキリスト教(ローマカトリック)世界が踏み出すことになります。そこにはプレスター・ジョンも灼熱帯、反世界もない、ただ3つの大陸が描かれた世界が広がっていますが、依然として世界の末端はあいまいなまま。魅惑の島ジパングへの道のりは東か西か、その先の海は繋がっているのか、それとも沈んでいくのか…。

最終的にはマゼランの世界一周航海でこの決着がつくわけですが、この決着がつく少し前、未だアメリカ大陸の存在もあやふやで、太平洋の存在も把握されていない時期に、本書のテーマである「ヴァルトゼーミューラー世界図」が登場してきます。そして、未だに多くの疑惑を抱えるアメリゴ・ヴェスプッチも(著者はそれでも比較的好意的な視点で彼を描いています)。

本書のハイライトの筈なのですが、此処までのこってりとした長い道程を読んできた読者にとっては、意外にもあっさりした内容と捉えられるかもしれません。そして、当時の政界の中心であったイタリアでもなく、航海の拠点であったポルトガルやスペインでもない、未だ後進国と見做されるドイツでこの地図が描かれた事に奇妙な感覚を持たれるかもしれません。ですが、そこには本書の一貫したテーマを汲み取る事が出来ます。ジェノバにとって新たな世界を示す手法としてのプトレマイオスが求められたように、後進のドイツにとっても、ローマ帝国の伝統を継承し、ドイツ中心主義となった神聖ローマ帝国の新たな世界観を示すための表現方法が求められていた事、それは旧来のキリスト教世界観を継承しながらも、新しい世界をも同時に示すことで初めて達成できると考えた事を、著者はこのパートのもう一人の主人公である「ヴァルトゼーミューラー世界図」と併せて刊行された解説書でもある「天地学入門」の著者でもあり、この地図の発刊に主たる役割を果たしたであろう、リングマンに仮託して語っていきます。

ここで歴史的に見て面白いのは、彼らがドイツという、グーテンベルグを生んだ土地で当時漸く普及が進んだ印刷技術を以て、その思想の浸透を図る事を当初から念頭に置いていた点。「ヴァルトゼーミューラー世界図」も当時としては多い1000部も刷られた地図なのですが、このような印刷物を通してヨーロッパ全体で爆発的にあらゆる知識の普及が広まっていったことを著者は指摘しています。そして、その恩恵に浴した人の中にはあのコロンブスも含まれている事、彼がポルトガルやスペインの宮廷でパトロン達を説得するに当たっての知識的素地を印刷物の普及によって安価に入手できるようになった各種の書籍に寄っていた点を指摘し、その結果、大西洋横断(正確には西回りのインド行き)のチャンスを得たとする、一連の著述は出色です。

リングマンの情熱とその思想、ヴァルトゼーミューラーの創意工夫の結果として生まれた「ヴァルトゼーミューラー世界図」の特徴を、著者はその仮託の検証として詳細に述べていきます。そして、新たな大地にアメリカと名付けられた理由、更には最も重要な点、その大地を「第四の大陸」として描いた理由と、その後ヴァルトゼーミューラーが取り下げた原因についても検討を加えていきます。本書を手に取られた方が最も気にされる個所かと思いますが、唐突でいささか淡泊な内容に終始しますので、その結論に拍子抜けされてしまうかもしれません。逆に、最後のコペルニクスへ繋がる物語は、その地図の偉大さを示すために用意されたストーリーのようですが、あっさりとした前述の内容と比較すると、少々虚飾気味であったりもします。

冒頭で著者が述べているように、本来の「ヴァルトゼーミューラー世界図」の経緯を述べるだけであれば、これほどの大著にならなかったはず。本書が語る物語は、その地図単体が導き出すストーリーを大きく離れて、地図の製作そのものが持つ目的、その変遷を示す事でキリスト教(ローマカトリック)世界観の変遷を紐解こうという、壮大なテーマに挑んだ一冊です。そして、その世界観の帰結を示す証拠の品は、今はうやうやしくアメリカ議会図書館に最高の額装を以て掲げられているそうです。その新世界、神に約束された地に到達した証として。

<おまけ>

本ページより、本書に関連するテーマ、書籍のご紹介。

第四の大陸と類書