今月の読本「マタギ奇談」(工藤隆雄 山と渓谷社)最後に伝えられる森と山々への畏敬の物語

今月の読本「マタギ奇談」(工藤隆雄 山と渓谷社)最後に伝えられる森と山々への畏敬の物語

インプレスグループに買収後、暫くは大人しい状況が続いていましたが、昨今の登山ブームの影響でしょうか、文庫、新書の創刊に続き、最近積極的に新刊を送り出すようになった山と渓谷社。

そんな元気を取り戻した名門出版社が、より一般の方に向けて送り出した近刊には山に纏わる奇談、珍談を集めた本が何冊か揃っています(ヤマケイの黒本というそうです)。その中でも「新編 山のミステリー」という、ちょっとおどろおどろしい装丁とキワモノとも取られかねないテーマの一冊がありましたが、山岳ミステリーという一風変わったテーマが好評だったのでしょうか、同じ著者による続編が登場しました。

マタギ奇談マタギ奇談」(工藤隆雄 山と渓谷社)のご紹介です。

著者は登山関係で多数の著作を有される方。本書も同じ山と渓谷社から1991年に上梓された「マタギに学ぶ登山技術」執筆の際に得た知見をベースに、その後も繰り返し東北に訪れて取材をした内容からピックアップして一冊に纏められたものです。

数頁から十数ページに纏められた物語風の「奇談」がぎっしりと詰まっていますが、取材対象がマタギであるという一点を除いて、章分けはなされているものの一貫したテーマがある訳ではありません。

冒頭の八甲田山雪中行軍における忘れられた「案内人」達の悲惨な末路に戦慄が走り、マタギたちの因習に首を傾げながらも「奇談」にじっと聞き入り、それを守らなかった事による厳しいしっぺ返しにも、まさかと思いながらも思わず身を乗り出してしまう著者の巧みな筆さばき。クマの驚くような能力と向き合いながら、生身でのぎりぎりの駆け引きをして来た彼らが伝え聞いた話を読んでいくと、軽妙さの中にも、体感した者だから言える言葉の重みを感じます。

山での掟や数字に秘める因習、そして強い印象を与える、因習を破ったある猟での出来事とその後。その一つ一つに、ある共通点がある事が見えてきます。

人間の存在をちっぽけなものに相対化してしまう東北の雄大な山々と深々とした森。そこに生きる植物、動物たちへの謙虚で繊細な眼差しと、その中から糧を与えられているという素朴な感謝の念。普段は完全に忘れてしまっている、自然と直接向き合い続けるという厳しさの裏返しとしての因習や伝承の姿が見えてきます。

少し長めに語られる、山津波で消滅してしまった集落で辛うじて生き残ったマタギが語る、遭難状況を克明に記憶する冷徹な観察眼と、それでもその地で生きていこうと決心する山に対する強い想い。最終章でじっくりと語られる、白神山地の奥深くにマタギ小屋を構える老齢のマタギが残した言葉の数々から汲み取る、マタギが山と森を守って来たという自負と、その後を予見するかのような冷静な視点と実際。山を相手に真剣に向き合ってきた人々故の鋭い着眼点に圧倒されます。

既に語れる人も少なくなり、猟場だった山と森は荒廃の進行と保護区の設定によりマタギの手が届かない世界になろうとしています。その地に住み着いた歴史と同じだけの時を刻んだであろうマタギの歴史とその想いを、本書に最後の記憶として残して。

シリーズ展開上、少し怪奇談的な面が強く出ている本書ですが、その行間に潜む、山と森を敬服するマタギ達の最後の言葉にじっと耳を傾けてみるのは如何でしょうか。

<おまけ>

本ページより、類似テーマの書籍のご紹介を。

今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)「高等遊民」を生み出した社会制度としての大学と学制への視点

今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)「高等遊民」を生み出した社会制度としての大学と学制への視点

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館さんの「歴史文化ライブラリー」。

気に入った内容の新刊が出るときには、発売早々に調達に奔走するのですが(田舎なので色々と)、積読中の書籍を読み終えてから漸く手に入れた今回。事前の刊行案内から興味津々だったので、取り急ぎ読み始めてみると、昨今のあらゆる状況が見事に反映されてるその内容に引き込まれて一気に読んでしまった次第。今回は、そんな近代史から現在を見通す様な視点に溢れる興味深い一冊のご紹介です。

近代日本の就職難物語今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)です。

本書は著者の博士論文に繋がる著作である、同社から以前に刊行された「近代日本と「高等遊民」」(版元絶版)を下敷きに、主に高等教育を受けた学生たちの就職問題をピックアップして取り上げた一冊。内容自体は戦前の大学教育修了者と就職活動という近代史に基づく著述を採っていますが、その筆致には著者の現職(大学教養課程の助教)における大学生の就職活動に対する所感が色濃く反映されています。

副題にもある「高等遊民」というある種の魅惑を含むような言葉の意味通りの、高学歴を誇りながら定職にも就かず、社会から一線を引いて茫洋として生きていく世捨て人達を扱ったような本にも見えますが、そんなものは一握り、しかも資力を許す余程初期の学生に限られるとしていきます(夏目漱石の著作に多く現れてきますね)。自らの意志で「高等遊民」を目指した極僅かな特異者ではなく、そうならざるを得なかった事情を読み解いていくのが本書の狙い。普通に考えれば、経済状況の変遷に基づく就職難発生と緩和の趨勢が繰り広げられると思われますが、著者は更にもう一段上の視点を見出していきます。

近代日本に於いて制定された高等教育の「学制」そのものの発祥とその変遷。

さまざまな大学が創設の理念であったり、学生に求める資質であったりという建学側の理想があるのは尤もですが、著者が着目する点は社会的要請とそれに基づく「社会制度」としての学制と、その制度を経て社会に出ていく学生たちのマッチングにおいて生じる問題。

そもそも帝国大学を創設した最大の眼目は、高等官吏の養成であった事は良く知られている事です。官吏養成機関、更には官吏養成者を養成し、下級の教育機関が必要とする人材を送り出すための機関としての帝国大学の卒業生に求められる進路は、もちろん官職や教職へ就く事だった筈です。校数や定員、更には下級学校との配置を含めて需要と供給のマッチングが取られた、政府へ人材を送り出すためのシステムとしての学制。しかしながら私学を含む専門学校が大学へと制度変更され、社会に近代的な企業が勃興してくると、本来の制度設計と異なる状況が生まれてくることになります。

家族や地域、その他多くの期待を受けて、全国から集まってくる俊英たちの受け皿としての高等教育機関、大学。近代社会の発展と日本の工業化の進展により、それらの専門分野を有する学生は官吏だけでなく企業側の需要も伸びて来る事で、送り出す側の大学学部と企業、政府機関それぞれが足並みを揃えて、好景気の時には抜け駆けしてでも優秀な人材の確保を求めていきます。一方で官吏、教員の充足を当初の設置目的とした学科では、供給が需要を常に上回る傾向が続く一方、既存の権益の延長による学科、定員増設の機会において、素よりあったそれらの学科の定員も同様に増やされる事により、更なる供給過多の状態が生み出された事を、当時の政治状況を俯瞰しながら指摘してきます。

つい最近でも大きな問題となった法科偏重による著しい弊害の発生、そして文系学科の就職困難の事情。これらが既に大学制度創設当時から内包していた事に驚かされると共に、昨今議論となっている大学の「専門学校化」と戦前の就職事情への対処を重ねると、既に戦前から議論が続いていて、当時において原因までも明確に把握されていた事を指摘する著者の筆致に戦慄すら覚えます。

当初から社会への入口としての制度設計の意味合いを持たされていた日本の学制。好況期にはそれでも需要が供給を上回る為に問題点が浮上しづらいのですが、一度不況期に入ると経済活動を生命線とする企業は敏感に人員計画を見直す必要が生じるため、まずはその入り口である高等教育を受けた人々の受け入れを絞り込む事になります。不安定な就職状況に陥った際に効力を発揮するもの、それこそが閨閥であり人脈、所謂伝手と縁故の力が背後に浮き上がって来る事になります。近代的な高等教育と制度設計を設けたとしても、やはり最後は人と人の関係が最も重要。状況が厳しくなれば尚更です。

では、そのような伝手を辿れない学生たちを支援するのが大学の就職課や就職あっせんを行う機関。強力な就職指導や産業界とのコネクションのチャンネルを積極的に開拓していく大学の就職担当部署の成立と、時にはコネで押し込めたり、就職に関して殊の外強い教授が学生に人気が出るのは今も昔も何ら変わらないようです。では、それらの救いの手も功を奏しない場合はどうなるのでしょうか。

本書は現在の事情にはほとんど言及しませんが、読まれた方が予想される通りのシナリオを勧められることになります。起業、地方就職、そして挫折を現すことになる帰郷…。周囲の期待を浴びつつ、不断の努力を払い、漸くの想いで手に入れた階段の先に観た絶望的な現実。ここまでの著述であれば、ああそうやって現実に絶望した学生たちの成れの果てとして「高等遊民」が生まれたのですねと、早合点してしまいそうですが、さに非ず。

確かに望まぬ職に就く事を潔しとせず、「避難所」として大学院に籍を置き、状況の改善をじっと待ちながら研鑽を続け本望を遂げる人。時には怠惰に流されつつも、文筆等の分野に活路を見出す方もいたようですが、現在と違いそのような恵まれた境遇を踏めた方はほんの僅か。著者の着目点は更にもう一段別の側面へと進んでいきます。そもそも将来的に政府の一員として国家運営に資する人物を養成するのが日本の高等教育の起源。その能力と資質を持ちながら、社会に組み込まれる余地を失った人々が向かう先は何処でしょうか。そう、彼らが社会を不安定化させる事を危惧する指摘が早くも日露戦争後の不況期には現れていた事を見出していきます。

繰り返し述べるように、著者は本文中で何ら現在の事情を指摘するところはありませんが、この着眼点が過去の話でななく、今、目の前に現実として現れているという点は、もはや改めて指摘するまでもない筈です(日本のみならず)。

その上で、大学自体も社会を構成する一員として決して遊離したものではなく、その入り口として(ここでは新卒偏重主義の議論はしませんが)の役割と、それを制度として担保する「学制」というロジック。その枠組を経る事でしか社会に出る事を許されない、現代の日本の学生たちに対して、大学というシステムが何を成せるのか、近代史の史実を読み解きながら研究者として思いを巡らす著者の想い。

丁寧な筆致のうちに、経済状態回復のみを当てにしてその手当をおろそかにし続ければ、社会不安の種を播く結果となってしまうという想いすら織り込んで、実際に学生を社会に送り出す立場として、歴史学から指摘する本書。

時に研究成果やテーマとかい離して、社会的な問題点を指弾し、それを顕現させるかのように研究史観を掘り下げ続ける著述に残念な想いをする事がある中で、決してそのような指摘を無理にせずとも、自らの所属する社会性に立脚しながらも、歴史的な事象から現代に通じる課題を読み解く事が出来る事を見せてくれた本書の筆致に深く感心した次第です。

良くも悪くも、近代化の特質とその中で連綿と続いてきたと著者が述べる、大学と社会の関係。その関係が社会への入口として今も機能している以上、採用する側の工夫や大学自体の努力と共に、志望する学生が入学する前の段階から、その先をしっかり見据えられる「学制」が求められているのかもしれません。

「高等遊民」は決して求め、求められて、生じるものではない筈なのですから。

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を。

今月の読本「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)カトリック視点で読むアメリカ政治の原動力

今月の読本「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)カトリック視点で読むアメリカ政治の原動力

これほど不思議な展開を見せるとは誰も予想していなかったかもしれない、ここ最近の国際政治状況。

特に、あまりに極端な候補者が両党から擁立される事が確定的になった今回のアメリカ大統領選挙の行方は、外の人間から見ると余りに不可思議に思えてきてしまいます。

この状況を誰も読み切れなかった中で執筆の準備がなされ、続々と本屋さんの店先に送り込まれる関連書籍の中で、それを何とか補正するためでしょうか、更に異色なキャッチコピーの帯を巻いて並べられた本書は、内容もアプローチも、これまでの「アメリカ本」とは一線を画す内容を持っています。

熱狂する「神の国」アメリカ今月の読本、「熱狂する「神の国」アメリカ」(松本佐保 文春新書)のご紹介です。

本ページでは著者の前著「バチカン近現代史」(中公新書)もご紹介していますが、本書はその続編として捉えて良い一冊。題名だけ見ると、類書にあるようなプロテスタントの国としてのアメリカ政治における福音派の政治的影響力が描かれるように思われますが、実際にはプロテスタントの動向を描くより遥かに多くのページをアメリカにおけるカトリックとその政治的な影響力の変化を描くために費やしていきます。

前著で触れられたバチカンとアメリカの外交関係を持つ前から現在まで続く水面下での関係や、バチカンの影響力の行使と共に、プロテスタント国におけるマイノリティとしてのカトリックの社会的地位の推移とそれに伴う政治的な影響力の変化を、ケネディの就任をピークとしてアイリッシュカトリックから現在の中南米の移民(サンベルト)への流れとして描いていきます。プロテスタント視点で描かれる本が圧倒的なアメリカのキリスト教関係の書籍で極めて珍しいカトリック視点(著者は前著のあとがきでクリスチャンではないと明言していますが、カトリック系の学校で教育を受けています)で描かれる本書は、やや傾倒気味ながら、それだけでも興味深く読む事が出来ると思います。

カトリック視点でのアメリカキリスト教史が描かれる一方、もちろん主要なプロテスタント宗派の動向とその政治的な影響力、特に各大統領の信仰する宗派から見た影響勢力の変遷についてもきっちりと述べられていきます。更には前著に続いて、新書という限られたページ数にも拘らず要所を抑えた判りやすい記述には特に感心させられます。

交わるところが無いように見えるカトリックとプロテスタントの政治的影響力が、ニクソンからカーターへというアメリカ政治の失望期に、プロライフを代表とした宗教的保守の思想の元で、レーガンを支えていく重要な勢力として纏め上げられ、結果的に共闘する形が採られていくという点を、歴代大統領の通例である記念博物館、公文書館の史料から見出していくのが本書最大の白眉。前著を読まれた方であれば、この共闘の先に冷戦終結の道筋が開き始めたと読み解く事が出来る筈です。また、キリスト教シオニストに言及して一章を起こし、戦前に遡って英国との関係に言及する点は、アメリカが何故イスラエルをこれほどまでに擁護する事への疑問に対する一つの回答として、ヨーロッパ史の研究を主軸に置く著者の面目躍如といえる著述かと思います。

コンパクトに纏められたカトリック視点でのアメリカのキリスト教と政治の切り離せない関わり合いを述べる本書。ブッシュ・ジュニアを支えた福音派とネオコンの台頭と、その後の潜伏状態までで本書の著述は終わっており、オバマ時代の宗教的な動きや帯にあるようにトランプ云々はほんの付け足し程度に述べられるに過ぎません。その代りに最終章で描かれる内容が本書のもう一つのハイライト。アメリカのカトリック礼拝に訪れるだけでなく、福音派の結集力の源泉でもあるメガチャーチで実際に礼拝に参加した体験が述べられていきます。万を超える聴衆を集める集客?力、それを支える魅力的な説教と、広大な土地に散在して生活するバイブルベルトの生活環境における、普段は希薄な対人関係を繋ぎ合わせるコミュニティとしての存在感の大きさに打たれる著者の想いが切々と伝わってきます。

その上で、現法王(著者はやはり教皇と表現しますが)フランシスコと穏健な福音派との相互理解の先に社会的な問題点の解決策を見出そうとする著者の視点は、何処までもカトリック的である所には、やむを得ないとはいえちょっと片手落ちな気もしながら、著者が述べているように、日本では余りにも希薄な宗教を視点から決して逸らしてはいけない事を改めて見つめ直させる一冊です。

熱狂する「神の国」アメリカと類書<おまけ>

本ページより関連する書籍をご紹介。

 

 

今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)理想の元となった原典へのアプローチ

今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)理想の元となった原典へのアプローチ

昨今、とかく話題になるこの表題。

本題のテーマとしては絶対に手を出さないのですが、著者を見て、そして副題(キャッチーな主題と帯に気を取られると選択を誤るのが、このシリーズの玉にキズ)に惹かれて、これは読まねばと手に取った次第。

現在では、ちくま学芸文庫に収蔵されている名著「憲法で読むアメリカ史」の著者、アメリカでのロイヤー経験を有する阿川尚之先生が再び一般向けに贈る、アメリカ憲法を解説した一冊です。

憲法改正とは何か今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)のご紹介です。

本書も前著と同じ、アメリカ合衆国憲法について書かれた一冊ですが、アプローチはやや異なります。前著が合衆国憲法の成立とその後を、憲法制定者達、そして憲法の最終判定者ともいえる合衆国最高裁判所の首席判事「コート」たちの判例の変化から読み解き、アメリカの歴史を著述するという、アメリカ史の著作としては極めて独創的なアプローチが話題を呼んだ訳ですが、本書ではその特徴であった通史としてのアメリカ史、合衆国憲法史が描かれる訳ではありません。

本書でも同じように合衆国憲法の解釈を基軸に置いていますが、そのアプローチは合衆国憲法の成り立ちを軸に置き、立法に与えられた憲法修正の権限の起源と修正条項成立の経緯、施行し時には超越する行政の運用。判例の積み重ねで乗り越え、確立した司法の違憲立法審査権という権能。それぞれの権能が有する憲法解釈の加え方の方法論を三権それぞれから個別に事例を挙げて列挙していく、合衆国憲法における憲法解釈を行う際の事例集といった纏め方になっています。従って、前著を読まれた方は内容的にある程度重複してしまうと思いますし、歴史的な連続性を確認しながら読まれたい方にとっても、やや読み辛い印象があるかもしれません。

更に言えば、本書を手に取られた多くの方が期待する、日本の憲法について本書を通して述べる事を著者は実質的に拒否(それでも1章を起こして、誤謬を含む事を当然として傍証を述べていますが、はじめにで、きっぱりと結論を述べる事は否定しています)しています。前著をそれこそ枕元に置いて繰り返し読むほど気に入っている私としては、著者のその見解に大いに同意した上で、本書を読んだことを述べておきます。

一方で、アメリカ通史など全部読んでいられない((全)と付されているにも関わらず、前後が大分圧縮された前著のちくま学芸文庫版でも約460頁、原著のPHP新書版は上下巻で600頁強)、とにかく合衆国憲法制定の経緯と修正の事例やきっかけを手短に理解したいという方には、本書の方が叶っているかと思います。特に前著ではどちらかというと判事たちの思想や法解釈感といった人物を軸に置いていましたが、本書ではむしろシステム、具体的に憲法解釈を変えていこうとするベクトルとそのアプローチ(もちろん拒絶例も含む)ついてより詳細に描かれていきます。

やや断片的な内容に終始する本書ですが(お時間が許す方は、是非本文だけでなく、註も読んで頂きたいです。本文より面白いかも)、それでも歴史的な成り立ちが合衆国憲法にとって特に重要な事を改めて示すように、「ザ・フェデラリスト」におけるジェームズ・マディソンの記述を繰り返し引用してきます。成立の時点から、契約社会として成立した植民地における危急に際して、統合の実として、とにかくその延長線である成文憲法を求めた制定者達と、それを阻止せんとした反対派への妥協としての改正方法の盛り込みと見做されがちな憲法改正条項(5条)ですが、著者は制定者達にとってもその危急さ故に完璧さに自信が持てない、それ故に改正の余地を残した(更には、それを実証する為に権利章典を承認させるように働きかけた)と見做してきます。制定者達の着目点も判断も今となっては知る事は出来ませんが、それでも現在の憲法判断に於いて、制定者達を想定した判例を積み重ねていく点を観ると、その制定の思想、理想を今でも掲げ続ける想いが見えてきます。

その上で、修正条項を提起して承認する、判例を積み重ねて既成事実として定着させる、時には解釈によって乗り越えていく。そのアプローチは様々ですが、共通する内容として理想は決して歪めず、事実と社会性の変化に基づいて適用を変えていくことで、憲法自体の価値を築き上げていくという点があると思えます。その際には、築き上げてきた判例の性急な変更は決して望ましい物ではなく、その経過した年月の重みも加味することが必要であることを述べる点は、社会安定性という観点からも着目すべき事柄かと思います。

著者が繰り返し述べるように、全文を書き換える様な改正を行えば、基準法典としての憲法の安定性を損なうことになりますし、それは革命と同義になってしまいます。また、社会的な要請をその都度書き込むと、これはまた変化に付いていけない時代遅れの条文が連綿と受け継がれる結果になってしまいます。それでも、変わらない、最古かつ最長寿の成文憲法といわれる(実質的には違いますが)合衆国憲法にも27の修正条項が付記される一方、その改正は決して容易ではなく(議員の2/3の賛成と州の3/4の批准が必要、日本の場合は議員の2/3は変わらないが、国民の過半数)、昨今では修正が極めて困難となっている事も述べられています。

改正は決して容易ではなく、大きな社会的要請や変化が充分に満たされた時にかぎり修正されるようにも見受けられる合衆国憲法ですが、リンカーンやルーズベルトの例を用いて、修正を行わず、時にその憲法解釈の拡大適用による危機の克服を述べると共に、終身制で憲法の最終判断者でもある最高裁判所判事たちの判断がたとえ下ったとしても、実際に施行するのは行政府であり、戦中や明らかに社会的に不適正な判決であればそれを執行する力は司法にはない事も明確に述べていきます。行政府と立法、司法が鋭く睨み合ったニクソンの事例を用いて、その理想が最後の最後で守られたと著者が述べる度に、共和制というシステムが極めて微妙なバランスの上で成り立っている事を思い知らされると共に、その理想の結集点としてのアメリカ国民の合衆国憲法への想いの強さを感じさせます。

最終章に述べられる日本国憲法の議論は、本質的に著者が望んでいらっしゃらないようですので割愛しますが、暗示として述べる「アメリカ人は憲法を大切にするが、神聖視しない。それに対して日本人は憲法を神聖視するものの、それほど大切にはしない」という一文だけ引用しておきます。

この国の現用憲法制定の歴史、そしてそれを提案した人々が理想として見た原典の成立と、それを現有の物として使い続けるために加えられてきた積み重ねの歴史をその方法論から述べる本書。その理想を更に推し進めるために織り込まれた仕組みをどう理解し、使いこなすかは我々自身に課せられた課題なのかもしれません。

著者が述べるように、憲法は解釈せずして運用できず。その解釈は時代と共にゆっくりと変容し、織り込まれた仕組みはその時のために備えられているものだから。

「憲法改正とは何か」と「憲法で読むアメリカ史」本書を読まれて、アメリカの憲法にご興味を持たれた方は是非お読みいただきたい、同じ著者の「憲法で読むアメリカ史」。現在は、ちくま学芸文庫版のみ入手可能です。

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本ページでご紹介している、関連する書籍を。

今月の読本「漂流の島」(髙橋大輔 草思社)そこは物語と強い想いが剥き出しの現実と交わる場所

今月の読本「漂流の島」(髙橋大輔 草思社)そこは物語と強い想いが剥き出しの現実と交わる場所

伊豆七島と小笠原の間に忽然と浮かび上がる孤島、鳥島。

アホウドリ繁殖の保護活動で有名な島ですが、絶滅のきっかけとなった入植、そして入植者を襲った噴火、新田次郎の小説でも知られている気象観測員の全員避難といった歴史までは比較的知られていると思います。では、それ以前にはどんな歴史があったのでしょうか。

江戸時代の歴史にお詳しい方ならご存知でしょうし、幕末のジョン万次郎の物語を読まれた方もお分かりかと思いますが、黒潮のど真ん中に浮かぶこの絶海の孤島は、太平洋を航行する船乗りたちが、時に漂流者となって辿り着く島でもありました。

歴史的な史料や書籍は相応にありますが、現在の姿を描いた本はアホウドリ関係の書籍にほぼ限定されており、一般の立ち入りも厳しく制限されているこの島の、しかも江戸時代の漂流者達に興味を持った一人の「探検家」が辿った道筋を自ら描く一冊をご紹介します。

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今月の読本「漂流の島」(髙橋大輔 草思社)です。

まず、このような珍しいテーマの一冊が上梓された事に驚かされると共に、出版までにかなりの紆余曲折があった事をストレートに記されたあとがきを読むと、豊かな出版環境が辛うじて持続している事の大切さを改めて思い起こす所です。著者は「探検家」を称される方で、海外では「ロビンソン・クルーソーのモデルとなった人物の住居跡」を発見した事で知られる人物だそうです(残念ながら私は知りませんでした)。

本書の舞台である鳥島に興味を抱いたのも、その発見と同じルーツを感じたからのようです。今は未知の場所の忘れられてしまった足取り、記憶。探検家として、その足取りを追い求めるのが必然という結論に至った著者は、現状で二つある鳥島への上陸可能性を有するアプローチ、アホウドリの研究者と同行する事、もしくは火山研究者に同行すること、その双方にトライすることで、極めて稀な一般人、それもアホウドリにも火山にも関係ない、一私人(表向きは火山研究者の助手として)としての鳥島への上陸を果たします。

そこは人の上陸すら困難な、依然として植生の回復がままならず、噴火の痕跡が島一面を覆う、剥き出しの自然が牙をむく場所。研究者、そしてその研究を助ける人々が、何時噴火するとも判らない、比較的海が平穏な状態でも接岸は困難で、戻れる日程すらままならないという厳しい状態で島と向き合っている場所(ゴムボードに乗り換えて、既に放棄された昔の着岸場所跡に乗りつける以外、上陸手段はない)。それでもいま保護しなければ後がないアホウドリの保護のため、ここでしか取れない貴重な活動中のデータが得られる火山の研究の為、その後戻りできない現実と向き合う最前線に研究者たちは赴いていきます。

その昔、繰り返し多くの漂流者たちが辿り着いた時の絶望感とは全く異なるかとは思いますが、それでも、明治期のアホウドリの羽毛収奪から噴火による全滅、戦中の守備隊、そして噴火の予兆を前に脱出を迫られた気象観測員たち、更には現在の研究者たちと、この島に至った人々は、ある意味常に切羽詰まった、限界の状況で渡ってきたことが見えてきます。

その中で著者が特に惹かれていく江戸時代の漂流者達。そして彼らが生活したであろう痕跡、洞窟跡へと興味は収斂し、その痕跡を史料から、そして現地で探し求める事になります。既に2度の大きな噴火で江戸時代とは大きく地形が変化し、過去の痕跡は溶岩の下。同行者達、そして関係者からその存在に否定を受ける度に、自らの目で確かめるまでは諦めないと渡島し、戦中の防空壕と謂われた場所に興味を絞り込んだ著者は、鳥島から戻った後もその確証を得るため、そして再度の「探検」を目指した活動を続けます。

その結論は本書をお読みいただきたいと思いますが、諦めきれずに連絡を取った後で著者に送られてきた、巻末に述べられる、最初に鳥島への道を開いてくれたアホウドリ研究者の方が伝えた回答メールに端的に示されていると思います。

鳥島探訪までの道程、その後の結末について自らの想いをストレートに克明に述べられた記録。一方で、著者の原体験でもある、物語としての「ロビンソン漂流記」への想いを現実に結びつけた、探検への想いそのままに、明治以降、そして戦後も何作にも渡って描かれた漂流者の物語と自らの探検への想いを重ねて、漂流者達の記録と自らの渡島経験を照らし合わせ、想いを募らせる程、探検の意義を語るほど、その筆致はリアルに描かれた鳥島の現実から徐々に離れていってしまいます。

絶望の中で希望を持ち続け、一人孤独に、時に仲間と共にその道筋を切り開き、戻る事が叶わなかった人々の思いを抱いて帰還を果たした漂流者達の道程に、少し嬉しそうに、まるでみずからの探検家としての想いを載せるように描かれる漂流者達の物語。帰還した後に歴史の中に忘れられていく漂流者達のように、あるいは今の探検家としての存在のように、着地点を得られないまま、その物語は著者の溢れる想いとは裏腹に、波間へゆっくりと沈んでいくかのようです。

著者が想い、奇しくも足を踏み入れた場所、そこは今でも剥き出しの現実と向き合い続ける場所。探検という名の物語の一ページとして語るには、未だ余りにも生々しい場所なのかもしれません。

貴重な鳥島探訪記として、鳥島の歴史ガイダンスとして、そして特異な切り口で描かれる江戸時代の漂流者の物語として、あるいは探検家の発露としての物語として。その道筋の先は大洋から打ち寄せる波濤のように四散してしまったようですが、想いを綴る物語は今もその島に寄り添っているようです。

版元さんの紹介記事はこちらで読む事が出来ます。

本書の巻末で語られる、著者が一縷の望みを繋ぐかのようなタイミングで取材協力を申し出ていた、NHKのドキュメンタリー制作スタッフ。その企画が著者の手を離れた後に完成した番組が今年の7月に放映されました。

著者との関わりについては一切述べられていないとの事ですし、番組をご覧になった方に伺った限りでは、上陸後は殆どアホウドリの事しか述べられなかったとの事。

こちらにありますように、JAMSTECが番組制作協力を行っていますが、「漂流」する事を追体験することと、「漂流生活」を遺跡、探検として扱う事を完全に分ける事で番組を成立させたようです。

著者はこの番組に対して、別段のコメントを残されていないようですが、本書をお読みになった方は、どのように感じられたでしょうか(2016.8.27追記)

今月の読本「行商列車」(山本志乃 創元社)鉄路が繋ぐアキンドという名の商売の本質を描く二つのストーリー

今月の読本「行商列車」(山本志乃 創元社)鉄路が繋ぐアキンドという名の商売の本質を描く二つのストーリー

朝の登校時間、そのおばさんは何時も伊皿子坂の脇を背中が見えないほどの野菜を背負って登っていました。やおら荷を解き始める何時もの場所、定位置でもあった路地を入った坂の途中が商売の場所だったのでしょうか。

今から数十年前、バブル経済で潤う林立するオフィスビルの谷間に依然として残る下町風情溢れる街角で見られた大都会東京の朝の一ページ。そんな彼女たちが行き来する手段は何時も足元を行き交う地下鉄、その路線を経由して房総の地から早朝に送り出されれる「行商列車」でした。

昨年末に刊行された際に是非読んでみたいと思っていた、今や風前の灯火となった行商列車をテーマにした一般書では珍しい一冊を、半年を経てGWに漸く書店で手に取る事が出来ましたのでご紹介させて頂きます。

行商列車行商列車 <カンカン部隊>を追いかけて」(山本志乃 創元社)です。

著者は旅の文化研究所という聴き慣れない団体に所属される研究員の方(近畿日本ツーリスト、現近鉄グループのシンクタンクだそうです。出典は本書の版元さんでもある創元社の鉄道手帳編集部のブログより)ですが、本書をご覧頂ければ判りますように、主に日本の庶民文化史をテーマに研究をされている方です。本書は佐倉にある国立歴史民俗博物館の展示リニューアルを機会に(このパターン、どっかで観たような…縄文のあの本ですね)行った取材の記録と、著者の出身地でもある鳥取県歴史編纂事業の際の取材の記録を1冊の本に纏めたものです(もう一つは後ほど)。

従って、表紙に掲載される近鉄の鮮魚列車だけに注目して読んでしまうと、内容がかなり異なるのでちょっと困惑してしまうかもしれません。本文でも述べられているように、鮮魚列車の取材は以前にトラブルがあったようで、取材には最も有利と見做される著者の経歴にも拘らず、国立の博物館が行う収録作業(本書には、随所に当館所属の記録者の方が撮影された記録写真が掲載されています)にも拘わらず、組合を通したオフィシャルな取材は拒絶されてしまっています。そのため、本書では近鉄の鮮魚列車自体の取材はほんの僅か、むしろそのテーマに掲げられた<カンカン>を伝手に話を聞かせてもらえるようになった、松坂在住で鮮魚列車を使って大阪に通ってお店を開かれているご夫婦への個人的な取材記(実際の鮮魚列車への取材も撮影も、組合の幹部であったこの方の手引きで潜り込ませてもらっている)となっています。

所謂柳行李では水物を扱う水産物の行商で困った事になる荷扱いへの対処として、更には保健衛生上の要請から生み出された、ブリキ缶に水抜き穴の栓を取り付けたカンカンと呼ばれた行商行李。今では発泡スチロールに変わってしまいましたが、当時はこの箱の底に簀子を敷いて更に2段重ねで魚が入れられるように中子を入れていたという、モノを起点にした民俗学者らしい、実際の写真を掲載しての詳しい使い方の解説も述べられていきます(宮崎の事例でみられる保健所の合格シールが毎年交付されていた事実は、行商とはいえれっきとした一商店として扱われていた貴重な証拠)。

荷物も多く他の客とのトラブルにも繋がりかねない、このような商材を扱う事から各地で結成された行商人の組合と、それに対して鑑札を発行し、車内の専用区分や車両の設定などの特段の配慮を行った鉄道会社、国鉄(本書で扱われる倉吉線に対して、表現上の影響でしょうか、著者は繰り返し軽便鉄道(更には拡大地図に私鉄の記号を使うのは、創元社らしからぬ点)という言葉を使いますが、軽便線由来で設備は劣化していても国鉄線、しかも末期でも舞台となった倉吉-西倉吉間では10往復程度の便数があった事には言及しておきます)。細々とながら専用の列車を今でも走らせるほどに一時は拡大した鉄道を使った行商という職業は、何より職漁の不振と、プラザ合意と大店法の制定、そして国鉄分割民営化に伴う鉄道利便性の低下が、彼ら、彼女らの活躍の場を狭めていったのでしょうか。本書ではあくまでも民俗学に徹する為か、インタビューを行ったそれぞれの方がお辞めになったいきさつは語られますが、総論としてのその終末への路程は言及されません。

むしろ、本書では終焉を迎えつつあるその業種への哀愁を語るのではなく、インタビューから採録された、その業種の発展に至った経緯を述べていく事に注力していきます。

本書の中核を成す部分。二つのストーリーには直接的な繋がりはありませんし、近鉄の行商列車を使われている取材対象の方は大阪の中心部に店を持ち、一方の鳥取で取材された元行商の方は地方都市の辺縁部を廻る個別訪問型と営業エリアも業態も大きく異なります。鉄道で運ぶというキーワード以外全くつながらない二つのストーリー。しかしながら彼らのビジネススタイルと、その商売に携わる経緯には明確な共通点を見出せます。

いずれも主たる商売を持っていながら、または別の所に家を構えていながら敢えて鉄路を伝手に商売に出る。大阪の中心部と地方都市である倉吉の辺縁部という逆のポジショニングですが、其処に需要があり、その需要と供給を繋ぐ線として鉄道があった事を見出していきます。個々の需要は小さくてもバラエティに富んでいる、扱っている商材も決して地の物、前の浜で獲れたものだけではなく地方市場での買い入れや時には行商列者の中でお互いの商材を取引する。数多に広がるお客さんの需要、リクエストにこまめに応じて小口で受ける。人一人が持てる範囲での商売故に一日に扱える商材の数(=売上)には限りがあるが、その分リスクも小さく、逆に毎日毎日通う事で量の不足(これは購入側にとっても同じ、既に冷蔵庫が各家庭に普及し始めた段階)を補っていく。

そこには数多の商材からお客さんに自由に選ばせるために、資本と在庫を蓄積し、輸送路を確保し、膨大な物流を常時全国的に維持するという、現在の流通手法とは逆を行く発想が明瞭に記録されているようです。

そして、これらの商売を支えた「アキンド」と鳥取では呼ばれた行商の方々。多くが女性であった点において、本書では述べられませんが、所謂専業主婦と呼ばれる消費と育児を主に担う階層の存在が、実に戦後高度成長期以降のほんの1~2世代程度の時代でしか見いだせない事を雄弁に物語っているようです。日々の生活費、仕事の道具や材料、土地や家の購入資金は確かに男の稼ぎに一方的に負うところであった事は事実かと思います。しかしながら、晴れの席での装いであったり、子供のお菓子やお小遣い、そして養育資金といった間接的な支出は、彼女たち自らがこつこつと蓄えた財布が補っていた事がインタビューから見えてきます。

鉄路が繋いだドアtoドア、人to人のコミュニケーションを介した商取引。ここまで読んでいくと、現在の中山間地域で課題となっている、購買困難層の発生原因も少し見えてくるような気がします。そもそも動脈すら細かった物流網の更に最末端を担っていた彼女たち行商。血栓状態を起こして方々で通わなりつつある、現在の圧倒的な物流網の末端に目を向けた場合、人材の活用も含めて、その歴史的事実を再度見直す必要が生じてきているのかもしれません(このようなお話は本書では語られません。日本の近現代民俗学を扱った本で少し寂しいのが、社会学の隣接学問にも拘わらず、多くの記述が過去完了形で語られる点)。

偶然の繋がりを手繰り寄せるように、忘れ去られつつあるこのような商売の姿を丁寧に追って、失われる前に記録として残すことに注力した、鉄道とカンカンを梃に人とモノの流れを民俗学の立場から位置付けていこうという、表題帯にも書かれたオンリーワンを標榜するに相応しい本書の中核に対して、明確に毛色の異なる5章の魚食文化と地域性の議論。著者があとがきで述べているように、載せておきたいという想いは理解しますが、唐突な挿入は前後の議論を断絶しており、著者の想いとは裏腹に無理やり流行の魚食文化論へ寄り添わせようとした結果、折角の流通文化史として貴重な本書の位置づけをむしろ歪めてしまった感もある点は、少々残念でもあります。

著者の想いとはちょっと異なった見方になってしまうかもしれませんが、鉄路という広く大衆に便益された交通手段を伝って、本当の末端の物流と限りなく個人に依拠する商売を成立させた行商という姿を再構成していくという、無二のテーマを掲げて描かれた、著者の優れた取材能力が遺憾なく発揮された、生きたインタビューを詰め込んだ本書。その内容には、大きく曲がり角を曲がった先を見いだせない、でも決して失う事は出来ない、生きていくためのモノの取引を支えていくためのカギとなる豊かな知見を含んでいるとの想いを抱いて。

行商列車と移動販売車がゆく本書と併せて読んでいた本「移動販売車がゆく」(宮下武久 川辺書林)。こちらは地元のライターの方が洒脱に、やや皮肉交じりに描く、南信の町にある運送会社が始めた移動販売車に纏わる物語を描いた一冊。本書を読んでいると、その姿とお客さんに求められるものが、倉吉における行商の彼女たちに求められた内容、商売の姿とそっくり同じである事に驚かされます(商材は地場のスーパーとは異なり名古屋で調達、売りはその名古屋の市場から直送するふっくらと大きなアサリ、個別に必要な物を聞いて届けるだけではなく、移動販売中に商材が不足したり、お客さんが欲しがるものが出てくると、巡回はそのまま続けつつ、別の軽自動車を飛ばしてバイパス沿いのナショナルチェーンや地場のスーバーで買い足して僅かな手間賃を乗せて販売するetc.)。そして、なぜそのような商売が困難に直面しているのか、更には何処に問題を抱えているのかが両書を読んでいくと浮かび上がって来るようです。

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を

今月の読本「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)飛ぶ事への憧れを叶えた三本線さんがそっと奏でる、空へと誘う美しい詩。

今月の読本「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)飛ぶ事への憧れを叶えた三本線さんがそっと奏でる、空へと誘う美しい詩。

2/24午後、羽田空港国際線ターミナル。

ひと月と空けずに再びの海外出張。フライトまでの待ち時間に飛び込んだ改造社書店さんの中をウロウロしながら、やっぱりブックスフジさんとは品揃えが違って普通の本屋さんだよなぁ等と思いつつ、めぼしい本もなくお店を出ようとした瞬間に、その本が目に入ってきたのでした。

ちょうど発売日を迎えてカウンター横の壁に飾られていた一冊の本。いくら空港にある本屋さんだからってちょっと推し方間違ってない?と思いながら頁をめくり始めて30秒後、ニコニコしながらレジカウンターに本を置く私がいたのでした。この本はこれまでのパイロット本、フライト本とは全く違う、楽しい本だとの確信を得ながら。

WP_20160224_15_06_28_Proターミナルラウンジでゲートオープンを待つ間に。あっ、映っているのは乗ったフライトとは違う機体です。

現役のBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)のB747-400パイロットが綴るその本は、唯の一枚の写真もありませんが、まるで旅の最中、たまたま隣り合わせた機内の窓際の席に座る著者が語りだすかのように、空への想いを静かに、ゆっくりと描いていきます。

skyfaring今回ご紹介するのは、本ページでは珍しい一冊「グッド・フライト、グッド・ナイト(原題:SKYFARING)」(マーク・ヴァンフォーナッカー:著 岡本由香子:訳 早川書房)です。

まず、驚かされるのは著者が極めて若いという事でしょうか。多くのパイロットの方が手掛けられる作品は、リタイヤ後であったり、現役でも機長として既に管理職クラスにまでキャリアを積み重ねた方が、地上勤務とフライトの合間に書かれる(時にはプロの作家に転向する)といった例が殆どであったと思います。そこに描かれるのは、自身のキャリアを淡々と述べる回顧録や往年のグレートパイロットの荒唐無稽な話であったり、自身のフライトを追体験させる迫真の記録であったり、専門用語を駆使して空の安全への警鐘やフライトの厳しさをを綴る、ちょっと教訓じみた内容が詰め込まれた、マニアにはたまらないですが一般の読書好きの方にはちょっとお勧めしにくい本が大多数だと思います(普段はご紹介しませんが、空もヒコーキも大好きなので、この手の本は見かける度に買って読んでいます)。

ところが、本書ではこれらの記述が殆ど出て来ません。それどころか、著者のキャリアは民間のフライトスクール出身でパイロットはサードキャリアとなる、フライト中は右のシートが指定席の所謂三本線さん(ファーストオフィサー、古い言葉でいえばコ・パイ、副操縦士)と極めて異色なのです。総飛行時間は流石に国際線パイロットらしく、9000時間弱と中堅クラスのキャリアを有していらっしゃいますが、B747-400が2機種目(初めはA320)、今後機長昇格訓練に入るのか否かもここでは語られません。

更に、子供の頃からの空への憧れ、飛ぶ事への想いから、現在の世界を旅するパイロットしての生活(BAの国際線ともなると、流石に大英帝国の残滓もあって北極圏から南極すれすれまで全世界をカバーします)へ至る経緯を、離陸から着陸までのストーリーに仕立てて語る構成は、数多あるパイロット本の中では決して珍しい事ではありません。しかしながらその筆致は極めて特徴的です。

SNSで翻訳者の方からご紹介を頂きましたが、かなり難解な原文(著者の父親は牧師でヨーロッパからアフリカ、南米と移り住み、ソーシャルワーカーをしていた母にボストンで巡り合って腰を落ち着けたという強烈な国際派、本人もアフリカでのインターンを打ち切ってアメリカに戻ってコンサルタント、フライトスクール、そしてロンドンでパイロットと)のイメージをなるべく崩さないように丁寧に丁寧に翻訳された本書は、著者の生い立ちやフライト中の想いから、フライトのテクニカルな話題、そして天文や気象の話へと緩やかに、お互いの話題をシームレスに移ろっていきます。時に、散りばめられた内容がかなり専門的かつ、マニアック過ぎる(誰が空域名称(日本を表するのは福岡センター….嗚呼、其処で来るか)、VOR/NDBやウェイポイントの名付けパズルを解いたり、VOR/NDB伝いに旅をするシーンを空想するのかと…(苦笑))拘りを見せてしまいますが、その筆致は「薀蓄を振り回す」ようなものではなく、淡々と、でも少し笑みを浮かべながら述べていく姿が手に取るように判るのです。

豊かに語られる、パイロットへ進む彼の人生の足並みと、パイロットへの背中を押してくれた、今は体験できないフライト中のコックピットに訪問した際に交わされた言葉の数々。今も地上で、そしてHF/VHFの向こうから聞こえてくる、気の置けないフライトスクール同期面々との大切な絆。優しく見守ってくれた、今なお愛してやまない両親との深い繋がりの物語。憧れが日常へと移り変わった現在の日々の心象。フライト毎に異なる景色や街、押し寄せる空間と時差の波(これらを表して、プレイス・ラグと呼んでいます)に揉まれながらも、未だ褪せることは無い、いやもっと強くなる空への想いを、こちらも淡々と語っていきます。

憧れの原点ともなった、フライト中のキャビン窓側からの眺め、そしてフライト中に客室で感じるちょっとしたシチュエーションにも、パイロットになった今だから判る心象を込めて。シェードを閉めて、読書やパーソナルTVに没頭している間にも音速に近い速度で移り往く、その飽きる事のない空と大地の景色の美しさ(でも大陸横断のフライトはコックピットでもちょっと飽きるようですね)、正確な天文と気まぐれな気象現象が起こす、キャビンの窓を彩る幻想的な風景にほんの少し気が付いて欲しいという、想いを重ねて述べていきます。

眼前に広がる白い雪の山々、緑の大地。寒々とした海辺から陽射しが燦々と降り注ぐ、成層圏という名の大洋に乗り出し、再び陸地を迎える嬉しさ。茫々たるアフリカの大地を南北に渡る想い。そして、雲の森が陸地から立ち昇る中を抜けていく南アジアの空。客室の窓から憧れ続けたその景色を、今はコックピットから望める光悦。昼と夜が水平線で交わり続ける太陽を追いかけて西へ向かうフライトと、漆黒の向こうに太陽を迎えに飛ぶ東へのフライト。真っ暗な夜のフライトでも、宇宙と交わる空の色は刻々と移り変わり、時には流れ星やオーロラが迎えてくれる。

サン=テグジュペリが「夜間飛行」で描きだした、フライトという行為の心象と風景描写への強い想いと、そのオマージュである事がはっきりと判る、美しい訳文で語られる美しい空の姿を伝える言葉の数々。まるで往年の「ジェットストリーム」を本で読んでいるかのように、言葉の中から、移り変わる世界と空への憧れ、美しい空への想いが溢れ出していきます。そして、何時も心に残る故郷、ボストンからニューイングランドに向けた大西洋への道と、父の故郷であるドナウを行き交うヨーロッパの空、最後はやはりドーバーを渡ると迎えてくれるロンドンの街並みへと心寄せる筆致には、人はどんなに遠くへ旅立っても、やはり故郷、住んでいるところへの想いを募らせるものだという事を改めて思い出させてくれます。

WP_20160203_10_37_04_Pro南アジアのハブ空港から1時間少しのインターアイランドフライト中に撮影した一枚。著者が言う様に、やはり翼が入っている写真の方がしっくりくる事を本書で再認識させられたのと同時に、この直後に大きくバンクを取って地上少し上から森のように林立する雲たちの写真を撮り損ねた事に後悔しつつ。同じ景色への驚き、その中を縫うように降下していくパイロットたちのフライトを綴った著者の想いに少し嬉しくなりました。バンクを取る時に繰り広げられる窓からのダイナミックな風景の変化、降下中、離陸直後や着陸寸前のフレアを掛けた際の独特の浮揚感への想いを述べる段では頷くことしきり。こんな客室の窓際目線で描かれたパイロット本、今までありませんでした。

そして、著者がイギリス在住と聞くと、きついユーモアにうんざりさせられるのではないかと懸念する向きもあるかもしれませんが、主にニューヨーク・タイムズに寄稿したエッセイを再編成したと思われる本書には、そんな「ひねくれた」表現は全くというほど出て来ません。むしろ、日本にホームステイをした事もある、今も年に何回か訪れる日本行きのフライト(既にB747-400の東京便は無くなってしまったので過去形で…)の際には、怪しくなりつつある日本語をキャビンアテンダントに修正してもらったメモを片手に、キャビンアナウンスをすることを定例にするほどに日本の事も好いて下さっている著者の筆致は、ニューイングランドの気候が育み、世界の空の行き来する方らしい無国籍で少しウェットな心象を綴る詩作とも思えてくる内容です。

元ネタは早川書房さんからと同じですね…。

ひとつのフライトが最後を迎えると、電波高度計のマシンボイスがカウントダウンを始め、着陸の決断を迫るボイスがコックピットに響く頃、もう一つの物語は都心の森に囲まれた神社の鳥居を潜ってラストを迎えます。ロンドンに置き去りにされた半身と、プレイス・ラグに苛まれながら、成田から極東の島国に広がる世界一の大都市に同僚たちと歩き出すもう一つの自分との語り合いは、たっぷり取られた本書のページが尽きてもまだまだ続くようです。

P1060493長距離の国際線フライト中、通路側のシートに座ってじっくりと読みながら。たぶん、この本をテーマにしたラジオドラマ、朗読を聴きながら窓際のシートに座って移ろう空の色を追いかけていたら、ちょっと退屈になるフライトもきっと素敵になるだろうな等と、考えながら読んだ一冊。

P1060403空と地上と人が交わる場、空港という空間が与えてくれた、嬉しい巡り合わせに感謝しつつ。