今月の読本「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)シーカヤックを漕ぐ古代ラピタ人研究者がGISから描く、ラグーンから始まる古代史

今月の読本「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)シーカヤックを漕ぐ古代ラピタ人研究者がGISから描く、ラグーンから始まる古代史

近年積極的なコラボレーションが行われる、歴史研究における人文系と情報技術系分野。

でも、その成果を喧伝されたり、積極的に発信されるのは、どちらかというとサプライヤーサイドとなる情報技術系の皆様で、実際にそれらを成果として活用されている人文系の皆様のレスポンスは、利用させてもらっています、もしくはこんな事も出来るんですねと言った、ある意味、受け身な反応の方が多いような気がします(すみません、私自身が技術系の人間なので余計に)。

そんな中で、人文系の研究者の方が、自ら積極的にこれらのツールを使用されている事を全面に掲げて執筆された一冊が上梓されました。

今回は、何時も新刊を心待ちにしている吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーより、10月の最新刊「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)をご紹介します。

冒頭に述べましたように、本書では地形的な検証過程に於いて、著名な地図、地形表示ソフト(GISの一種と称しても誤解は無いでしょう)であるカシミール3D®を全面的に利用し、著者自身が現地に赴いた際の写真と、考古学的な知見を重ね合わせる事で、より実体感のある著述を行おうという意図が全編で貫かれています。

このような著述を可能とする所以は、著者の現職(無形文化財の音声映像記録研究室長)からある程度理解できます。考古学者としては少し異色な、デジタルを含むメディアによる文化財の記録と保存を専門とされる研究者。それ故に、これらのツールを利用することに対する敷居の低さが当初よりあったようです。

そして、元々は南太平洋の失われた民族であるラピタ人の研究という、日本の考古学者としては異色で極めて貴重なキャリアを有し、広くアジア圏で考古学に関する活動に携われた上で、その後に共同研究として参加した、日本の考古学についての成果を、補足すべき雑感を纏めて一書を著したという点。

日本の考古学者としては極めて特徴あるキャリアを有する著者は、更に前述の研究テーマを直接体現するかのように、シーカヤックによる海からのアプローチにも長じており、それら全てを包括する著者ならではの独創的な視点が本書には溢れています。

日本の考古学、歴史研究において常に核心として扱われる、稲作農耕と、大陸、半島との関わり。その反動ともいうべき南方からの伝播や北方への移転といった議論を超越して、古代ポリネシアの人々同様に、そもそも人は目の前に海があれば、その海原を渡り、行き交うものという、極めてシンプルな立ち位置で議論を進めていきます。その想いは、著者がミクロネシアで伝統的な航海術を継承する方に高松塚古墳の天文図を紹介したときの、彼の感慨へと繋がっていきます。

そして、著者の着目する海からの視点、そこには現代と異なる、丸木舟の延長であるカヌー(カノーと軽野の語源についての極めて興味深い一文も)のような、構造船が登場する前の段階とその後で、船底構造と喫水線の違いから、現在の港湾として良港と見做される、水深があり、深く切り込んだリアスや湾ではなく、ラグーンと呼ばれる、葦等の植物が生い茂り、水深が浅い、遠浅の入り江、遡上する川縁こそが彼らの舫う場所であったと考えていきます。

瀬戸内海(この名称自体、明治維新時に欧米人に説明する為に用いられた用語であるという意外な紹介も。それ以前は「灘」と「瀬戸」が繰り返し現れる場所)及び、丹後、若狭地方における、古墳時代における集落遺跡の分布と古墳の位置関係を地図上に落とし込むと、交錯はあるものの、時代を経るに従って、その分布がラグーンから水深のある湾へと遷っていったことを見出していきます。そして、現在では内陸に存在するように見える巨大古墳の配置が、実はラグーンの畔、海側から望める格好の場所に位置している事をカシミールの図上で示していきます。

まるで、その姿を航行する人々に見せ付けるために海岸に添うように配置された巨大古墳とその葺石(ここでカヤックから陸上への視点と地球の円弧の影響という、操船経験のある方なら実感の解説も)。著者は、その配置の変化や船底構造の変化を併せて考える事で、当地における社会構造の変化、居住する人々の交流する対象に変化があったのではないかと想定していきます。そして、ラグーンを拠点に発展していった氏族の中に、後の内膳司となる御食国としての、膳氏と安曇氏という古代の「食と猟」を司った氏族の動きを重ねていきます。

ラグーンから望む海で繋がる人々。著者の視点は、その海流に乗って、更に西へと進んでいきます。遣唐使、新羅使が航海した瀬戸と灘。現在の動力船でも充分影響を受ける、急激な潮流変化が絶えず繰り返す瀬戸内の海を航海する為に各地に設けられた泊の変遷を訪ねながら、鞆の浦から厳島と音戸の瀬戸の謎を追い、周防灘を渡るルートを探り、宇佐、宗像の神々と、何故海神、そして八幡社がいずれも三女神(三柱)なのかを波間に問いながら、玄界灘を世界遺産の地、沖ノ島へと渡っていきます。

ここで、東南アジアの考古学に精通する著者は、此処まで辿ってきた海路沿いのラグーンに残された遺跡の発掘物に見出される、東南アジアで作られたであろうガラス器を示しながら、海のシルクロードへの想いを馳せていきます。列島の中に閉じ込められたかのような、あるいは一方通行的な、僅かな窓口を介したように綴られる歴史展開に対して、はっきりとそうではない、遥か先史時代からこの列島は広大な海の世界に脈々と繋がっていたのだと述べていきます。

その想いを抱きながら綴る後半。瀬戸内海を中心に纏まって描かれた前半から大きく飛躍して、その道筋は、海の都である難波宮と陸の都とのダブル、マルチメトロポリス論を挟んで、伊豆半島、北海道、そして先島諸島へと続いていきます。著者の専攻であったポリネシアとの繋がりすら想定させる、伊豆半島の南端に点在する入り江とラグーンを拠点にした古代の賀茂氏と弓ヶ浜、源平合戦期の伊東氏の交易拠点だった河津を梃に望む、伊豆七島、小笠原、その先まで続く大海原の道筋。まだ手つかずのままに発掘される時を待つ、広大なラグーンに存在した幻の街と其処に集ったアイヌの人々は、北方アジアと海を通じて繋がり合い、今は廃村となって船でしか訪れる事が出来ない西表島の網取に残る最後の風俗から、遥か南方の人々が行き交ったであろうとの想い描く。

地上における推移と発掘成果、記録を残した側の視点で描かれる、ややもすれば二元的、対峙的な歴史の叙述に対して、全く別次元で列島の人々同士が、更には世界へと繋がっていた事を海の視点を踏まえて捉えようとする著者。

その視点を描き込み、歴史の交点となるその場所を探り出すために、著者はラグーンと湊の跡を求めて、海ではシーカヤックを漕ぎ失われた姿を想像し、丘に上がってはGISを積極的に活用してその実像を示そうとしていきます。

歴史文化ライブラリーに相応しい、新しいアプローチに満ちた考古学の可能性を示してくれる本書。著者が述べるように、GISによって見出される古代のラグーンだった場所には、まだ手つかずの遺跡が多く眠っている筈。それらが見いだされた時、我々の知っている「陸上」の考古学とは全く異なる姿を見せてくれるかもしれません。

こちらに載せています歴史文化ライブラリー既刊の数々。意外かもしれませんが、全てが本書の内容と直接、間接的に繋がっているのです。

繋がる歴史の面白さを是非皆様にも。

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今月の読本「トラクターの世界史」(藤原辰史 中公新書)大地を駆る鉄馬に連環する3つの筆致と農への想いを乗せて

今月の読本「トラクターの世界史」(藤原辰史 中公新書)大地を駆る鉄馬に連環する3つの筆致と農への想いを乗せて

New!(2017.11.22):著者である藤原辰史さんへのインタビューが、中央公論社のサイト「著者に聞く」に掲載されています。本書にご興味のある方は、まずはご覧頂ければと思います。

題名からして惹かれる一冊、しかも著者は近現代の食と農に関する論考を近年積極的に発表されている気鋭の研究者とくれば、当然期待も高まります。積読溜まり気味の中ですが、細かい事は考えずにとにかく読むが先決と、発売直後に手に取った一冊(書店様、いつも入れて頂きありがとうございます)。

今回は「トラクターの世界史」(藤原辰史 中公新書)をご紹介します。

本州における機械化農業の先駆地でもあり、各施設でも大切に往年の車体たちが飾られる清里(晩秋のポール・ラッシュ祭にお越し頂ければ、現役の車両たちへの乗車体験もありますよ)、そして日本に於けるトラクターのスケールを遥かに凌駕する大陸的なビックサイズのトラクター(やはりジョン・ディアが多い!)がそれこそ国道を縦走する風景が日常に溢れる野辺山を目の前にする場所に住する身にとって、トラクターは特に身近な「道具」。そんな道具達の歴史が綴られる本書ですが、そこには著者のこれまでの著作との強い関連性が認められます。

本書の著者は、近代史において、日常の生活の中に見出される政治的な指向性を浮かび上がらせる事に成功した、快作の呼び名の高い「ナチスのキッチン」を著し、その後も戦前の旧大日本帝国におけるジャポニカ米の品種改良と植民地における農業政策を結びつけた「稲の大東亜共栄圏」、食に関する広範なテーマを扱ったエッセイ集「食べること考えること」と立て続けに上梓されています。

農学者ではなく、農業史を標榜する人文学系統に属する研究者ならではの筆致に惹かれる方は多くいらっしゃるかとおもいますが、本書に於いても「トラクター」を題材として、近代史における農業の変化する姿を、上記の3冊のエッセンスを存分に注ぎ込んで描いていきます。但し、あくまでも人文学的見地に立った議論であり、トラクター自体のメカニズムや機械化農業(農耕)効果に対する詳細な検討といった工学及び農学的な視点は余り言及されていない点には理解が必要です(この辺りの釈明は、ご自身の生い立ちを添えてあとがきに述べられています)。また、本書は世界史と題されていますが、扱われるテーマとその地域はかなり限定されます(多くのトラクターが活躍している感もある南半球は全く扱われません。北半球のトラクター史ですね)。更には、本書では著者の研究テーマに沿ったトラクター発祥、導入からの物語が描かれるため、それぞれの舞台によって明確に異なる筆致で綴られていきます。

当時の文学作品や風刺から見る、農家の生活とその中に進出してくるトラクターを農民たちがどのように受け止めていたかを描く事に注力する、発祥と発展の地、アメリカ。その強力な能力と引き換えに大きな投資と維持にコストが掛かる点を逆手にとって、小農や富農を集団営農へと転換させる起点、象徴としてのトラクターをプロパガンダ、更には実際の集団化に用いようとしていく反動の暗側面を描き出していく、旧ソビエト、そしてナチス・ドイツ。幻想の集団営農と強靭な東側のトラクターに魅せられる農業指導に渡ったアメリカ人の視線と、毛沢東の集団営農への想いと文革後に再び小農体制へと後退を綴る中国。そして、牧歌的に偉人伝と企業史としてのトラクター開発物語が語られる日本。

対応する国、地域、政治体制それぞれに呼応するように、これまでの著作の筆致そのままに当てはめられて描かれていくストーリー。それぞれは全く異なるストーリーにも見えますが、著者の筆致の魅力でもある、通読していくと一本のストーリーとして繋がっていく、連環する筆致が本書でも見出されていきます。本題でもあるトラクターの歴史、アメリカで勃興したトラクターを軸とした産業としての農業機械は、その系譜を受け継ぐ世界中の合従連衡の上に現在も発展している事に気が付かれるはずです。

発祥のアメリカを今も地盤として、農家と向き合い、改良を重ねて巨大化と多彩化の波を生き抜く、農業機械の巨人、緑のジョンディア(日本ではヤンマーが扱い)。巨大資本と自動車産業の効率的な製造手法を持ち込み、更には政治力で世界の市場を席巻したブルーのフォードとニューホランド、伝統と技術力を誇り、北米で確固たる地位を築く赤いIHにシルバーのランボルギーニの各社は、それぞれのブランドを維持したままオレンジのフィアット資本の下に国際企業として集約。プラウの三点支持を生み出したファーガソンシステムの祖、マッセィ・ファーガソンはAGCOへ(野辺山、川上界隈では最近この真紅のボディが目立ってきた。大型は井関にOEM供給も)。ディーゼルをリスペクトする、狭隘で硬く締まった圃場に特化した小さな歩行用トラクターから始まった日本のトラクターたちは、彼らと提携しつつも、その雄たるクボタは彼らの故郷の地、アメリカと多様な機種が展開されるヨーロッパを目指して巨大化の道へと歩み出し、世界の農業機械産業一角を占めるに至ります。発祥は違えども、大地を駆り耕すという同じ役割を与えられたトラクターたちは、時に戦車に、更には産業そのものが軍需に転用されながらも、地域を問わず世界中に展開していきます。

そして、著者のこれまでの作品とも通貫するテーマ。トラクター発明以前の農耕から語り始める冒頭から述べられる、農業と大地への想いがそれぞれのストーリーの中でも綴られていきます。

強力な耕耘力が生み出す深耕と、過大な重量が生じさせる土壌の破壊に対する憤り。巨大な力と引き換えに世界経済に巻き込まれる事になる燃料と大地へ化学肥料を与え続ける事への負担。人と大地を繋ぎとめ、地力を与える存在であった役畜(農耕馬・牛)への農民たちの想いと、トラクターに対する懐疑の眼差し、対比されるトラクター運転手へ憧れる若者の描写。そして、農業の産業化の象徴となったトラクターが生み出す、営農集団化の足取と挫折の物語に随伴する農業政策への眼差し、プロパガンダとしての女性が農業で活躍する舞台道具に設定されたトラクターというアイコンと現実の深いかい離。

トラクターという存在を少し離れて終章で一気に畳み掛けていく物語の先には、著者の想い、農業を基盤とした大地と人の繋がりの受け皿となる営農集団と、その鎹としての協業の象徴、トラクターというイメージへの飽くなき想いが情景として滲んでいるようです。

著者の想いとそのイメージは、既にダストボウルの先に消え去った幻影に過ぎないかもしれません。特に日本に於ける現代の農業の姿とは、なかなか相容れるものではないかもしれませんが、トラクターをテーマに、これまでの著作同様に、農業と大地との絆に対する深い想いを込めて描く一作。ちょっと薄味気味かもしれませんが、トラクター、農機具ファンの方にも歴史物語として楽しめる一冊かと思います。

今月の読本「荷車と立ちん坊」(武田尚子 吉川弘文館)明治東京を運ぶ足跡を追ったオムニバスストーリー

今月の読本「荷車と立ちん坊」(武田尚子 吉川弘文館)明治東京を運ぶ足跡を追ったオムニバスストーリー

歴史の研究分野は古来から続く政治や人物、又は文化、芸術的な変遷を捉えたものから派生して、近年では色々な切り口を持ったテーマが語られるようになってきたようです。

特に近現代史に於いてそのような傾向が多く見られますが、最近では更に学際領域というのでしょうか、テーマの多様化、細分化が進んでいるようです。

今回の一冊も、そんな流れの中にあるように思われる、極めて珍しい題材で描く「荷車と立ちん坊」(武田尚子 吉川弘文館)をご紹介します。

著者は直近に「ミルクと日本人」(中公新書、著者へのインタビューはこちら)という、これも極めて珍しい、ニッチで狙いすましたようなテーマの本を出されていますが、本書も特徴的なアプローチと内容を具えています。

まだ荷車を人が曳いていた明治の頃、急な坂や荷物が大量に集散する場所にたむろするその日暮らしの人々「立ん坊」。そして、東京近郊の農村と都心とを行き来した農民の暮らし。日本の中心となった東京に集う二つの全く異なるバックグラウンドを持つ人々の存在に触発された著者は、その間を取り持つ「荷車」をテーマーに物語を結びつけようとします。

しかしながら、この二つには僅かな結節点しかないため、勢い「荷車」を軸に明治東京に行き交う荷物を扱い運ぶ姿の変遷を、江戸時代に遡って綴る事が主体になったようです。更には、前述の執筆経緯故でしょうか、本書を通貫した明確なストーリーが築かれることは無く、各章ごとに「荷車」に関するエピソードがオムニバスに語られ、その中に「立ん坊」の姿が織り込まれていきます。

江戸時代の伝馬から始まり内国通運(今の日通です)、鉄道、郵便輸送に繋がる物流の大きな変遷を描く、産業史の中に生きる小口輸送単位としての荷車とそれを事業として扱う人々の勃興と構成。大八車の発祥と命名の謎から車両自体の変遷と、その中に組み込まれた著者の前著にも通じるような牛乳車や洋菓子を売って歩く箱車の姿。日清戦争における輜重部隊と、破門されてまでも志願し出征した江戸の力士たち、輜重における人力から馬力への転換。そして後半で綴られる、民俗学的な視点による明治期における都市近郊農村の姿にみる輸送形態。

それぞれに興味深い内容が続いていますが、如何せん新書並みの僅か180ページ程という分量の中で、話題ごとに細分化され、更に本書の主題である「立ん坊」の話は各章に散りばめられてしまっているため、かなり散漫な印象を受ける事も事実です。

「荷車」をテーマに、研究内容の宝石箱をひっくり返したかのように繰り広げられる本文。その中で少し纏まった形で述べられる「立ん坊」達の生活と、住んでいた場所、荷を待っていた場所について綴る一節を軸に読みなおしていくと、本書のもう一つの姿が見えてきます。

荷物が集散する水辺、河岸、そして駅。今では僅かに痕跡を残すのみですが、今もこれらの場所には、日通を始め大手の運送会社の倉庫や事務所が軒を連ね、潮待茶屋にはトラックとターレが集う。既に産業史の教科書に残るのみですが、汐留、秋葉原、最後の痕跡である築地は、時代の最先端であった物流システムである水陸結節駅として、その荷を集散させる彼らが行き交った舞台そのものです。そして、彼らが夜露を避け、怠惰と無常を募らせた本所に連なる木賃宿と、往年の姿は全く痕跡を残しませんが、今もその名と地形だけははっきりと残る、彼らが荷を待ちうけた凹凸の激しい東京の坂たち。

彼らが汗水を流し歩んできたその足跡には、現在の東京を形作る輪郭と動線がはっきりと刻み込まれている事に気が付かれるはずです。

人と物が動く事で街が形作られていく過程を、荷車というテーマから垣間見せてくれる本書。著者の旺盛で広範な好奇心を鑑みると、ちょっと無理かもしれませんが、極東の大都市東京の成長していく姿を描く一つのテーマとして、その先の物語を読んでみたいと思わせる一冊です。

今月の読本「灯台はそそる」(不動まゆう 光文社新書)魅せられてしまった著者が未来に伝えたい、光の路への想い

今月の読本「灯台はそそる」(不動まゆう 光文社新書)魅せられてしまった著者が未来に伝えたい、光の路への想い

既に飽和状態にある毎月刊行される新書シリーズたち。凝った表題や意表を突くテーマだけでは魅力が伝えきれないと考えてでしょうか、書棚に並んだ際の統一性から装丁だけはほぼ固定されてきた新書に於いて、昨今では特殊装丁を施して並ぶ例が散見されるようになってきました。

何処の新書だろうかと首を捻りつつも、確かにインパクトと伝えたいと願うイメージは伝わるなと、手に取った珍しいテーマの一冊。

今月の読本「灯台はそそる」(不動まゆう 光文社新書)のご紹介です。

敢えて帯を外して写真を撮っていますが、版元さんの所謂、何々女子と付ければ、男のマニアックな世界に乗り込んだ華として持て囃されるだろうという下心すら感じる帯にちょっと懸念を持ちながら手に取って読んだ訳ですが、カラーで掲載された巻頭の美しい数々の灯台の写真の後に控える前半戦に関しては、残念ながら懸念通りの内容となっています。

その筋では極めて有名な”灯台女子”を名乗られる灯台をテーマにしたフリーペーパーを主宰されている著者が、一般の読者向けに執筆した灯台ガイドブック。一般向けを指向されていますので、船舶、海洋関係のある程度の知識を有されている方であれば、冒頭から述べられる灯台への偏愛(マニアックポイント)や、灯台に関する基礎知識はそれほど珍しいものではないでしょうし、昨今のネット環境の普及を考えれば、他のリソースからでも充分に入手できる内容かと思います。また、世界の灯台巡りについても、雑誌に掲載されるような紀行文のスタイルで述べられますので、本書を読まなければ絶対に知り得ないという内容ではないかもしれません(むしろ、著者のファンの方に向けた旅行エッセイになっているようにも思えます)。

著者の溢れる灯台愛の熱量に当てられながら、やはり新書だから薄味なのかなと、ちょっと残念な気持ちで読み進めていたのですが、その思いは4章に入ると大きく変化します。

著者が活動のベースに置いているフリーペーパーの取材も含めての内容だと思われますが、普段あまり語られる事のない、灯台守の皆さんへのインタビュー(しかも彼らが勤務した灯台に改めて同行を願い出て一緒に訪ねる)。僅か40ページ程ですが、実際にその職務に就いた方でしか語れない、貴重な勤務当時の内容が綴られていきます。かなり前のめりで、one wayなその筆致は懸念を抱かせる程の没入感ですが、それだけ話されていた内容を真摯に伝えたいという想いがこもったもの。今や忘れ去られたその職に対する、改めて顕彰をしたいという強い願いが感じられます。

そして、現在も運用されている灯台に対する世界的な風当たり。GPSや補完衛星によってmm単位の位置情報すら伝える事が出来るこの世界に於いて、前時代的な陸地から光を放って船を誘うという行為自体が、ノスタルジーで非効率的である事は否定する事は出来ませんし、実際に年々灯台の数は減少を辿っています。更には、灯台自体の建築技術、漆黒の海を照らし出す光源も駆動系も、フレネルがフランスでそのシステム化を手掛け始めた時から大きく進化を遂げています。より安全な航海を願う以上、技術の進歩は必然であり、役割を終えた設備、技術は静かに後進に道を明け渡す事になります。

そのような潮流に対して、本職が学芸員でもある著者が訴える、残していれば後世の人に選択肢を与える事が出来るという願い。前のめりで語られるその論旨をどう捉えるかは読まれた方へ委ねられますが、産業遺産特有の維持限界、その限界点が低い日本の産業界への、すこし異なったアプローチを伴った提言が語られていると理解したいところです。

マニアックなお話はさておき、その海辺に佇む孤高の姿に心を奪われた著者の筆致に乗って、その姿が与えられた時代の息吹を波の音と潮風と共に感じながら、少しノスタルジックな海辺の旅に出てみるのは如何でしょうか。

 

今月の読本「食品サンプルの誕生」(野瀬泰申 ちくま文庫)そのアイコン化の華を生んだ日本人の感性

今月の読本「食品サンプルの誕生」(野瀬泰申 ちくま文庫)そのアイコン化の華を生んだ日本人の感性

最近は大分減ってしまいましたが、食堂やレストランの店先を賑やかに飾っていた食品サンプルの数々。今や食玩や河童橋のおみやげとしてのアクセサリーの方が有名になってしまっているかもしれませんが、バブル崩壊前後の頃は、ごくごく当たり前に街中のワンシーンとして溶け込んでいた懐かしいその姿を追った、本邦初とも言われる、食品サンプル誕生と発展の物語を語る一冊が、この度、文庫化されました。

収蔵されたレーベルは、居酒屋文化に関する多くの著作を収蔵する、ちくま文庫。流石だなぁと思いつつ、さっそく手に取って読んでみました。

今月の読本、7月ラストの一冊は「食品サンプルの誕生」(野瀬泰申 ちくま文庫)のご紹介です。

まず、本書の初版は2002年に刊行されており、今回の文庫化までに15年の歳月を経ています。従って、時代背景を綴る部分については、現在の状況とだいぶ異なっている点を理解する必要があります。特に四章で語られる、韓国及び中国における食堂の様子や提供される食べ物の傾向、食品サンプルへの取り組みなどは現在の状況と全く異なります。また、日本の外食産業における食品サンプルの比重や、店頭における文章によるメニュー説明と食品サンプルの比較の部分などは、当時の状況とだいぶ変わっているかと思います。上海の取材記で著者が述べているように、食べ物、特に外食のメニューは時代と共に変わっていく姿を端的に示すものでしょうから、この辺りの時代差は当然と考えなければなりません(表紙の写真自体が、既にノスタルジーを感じますよね)。

その上で、本書が極めて貴重なのは、日本独特の食品サンプルがなぜ生まれたのか、その誕生の経緯をほとんど唯一、検証を含めて明らかにした一冊である点です。

本書の著者は日経新聞の記者の方。元々は九州地方における地域毎のローカルフードの変遷を追いかけていた際に、実際の料理を確かめる手間を少し端折るために、食堂に飾られた食品サンプルの比較を始めたことがきっかけであったと、今回の文庫化に際して添えられたあとがきで述べられています。

全文に渡って通貫する「日経の文屋さん」らしい筆致が遺憾なく発揮される、食品サンプル発祥を追い求める物語。その後、現在の食品サンプル業界を牽引する会社の社長さんとの巡り合いから、解説用の小冊子を手掛ける事になった際に改めて追跡をし直した、その原点を探し出す取材記は出色と言える内容です。最終的な結論として辿り着いた三つの始まりの人物と、一つの始まりの展示場所。食品サンプルを商業ベースに乗せた大阪から始まった物語は、その発祥と言えるデパートの食堂を辿って東京へ、そして食品サンプルそのものの発祥を訪ねて京都へと舞台を移していきます。阪急、白木屋、そして島津製作所へと続いていく物語は、戦前の日本にも確かに存在した、現在と比べれば質素ではありますが、ちょっとしたぜいたくが出来るようになった、デパートにおける「お食事」、外食の繁盛を切り盛りするための、アイデアに溢れた施策の先にあった事を教えてくれます。

そのアイデアこそが、食堂でメニューを選ぶ際に、言葉や文章を駆使する訳でもなく、実物も用いずに、効率的にイメージを抱かせるための道具としての食品サンプル。更には、テーブルでの煩雑な収受を省く食券による事前購入との組み合わせて、狭い食堂のスペースで圧倒的に効率的な回転率を確保していたことを、当時の資料から分析していきます。

そして、著者はなぜ日本人だけがこのようなアイデアを受容しえたかを検討していきます。本書のもう一つの白眉、日本人の食事のメニューに対するこだわりの分析と食品サンプルの必要性を重ね合わせていきます。

そこには、大衆化と言えるメニューの汎用化の先に、複雑で難解なバリエーションをこまごまと作り出すことをオリジナリティと踏まえる、日本人特有の感性。同じ商品でも土地ごとに全く異なる名称を名付けてしまう、細やかなローカライゼーション。更には、文章を読まず、無意識のうちにイメージで物事を理解しようとする民族性が潜んでいると、ヨーロッパ、とくにフランス料理のメニューやオーダーの方法との比較から鋭い指摘を繰り出していきます。バリエーションと名称の説明を省く手っ取り早い方法、ビジュアルでその差を明確に示すために、本来は料理のイメージを迅速に持たせるための存在だった食品サンプルが、バリエーションの微妙な差を表現すべくどんどん先鋭化していったと事を見出していきます。著者はそれらの延長として、これも日本人特有と言われるロボットへの愛着(昨今の深層学習AIに対する衝撃を殊更唱えるのも日本人ですよね)と同様に、それらの鮮やかな技巧への憧憬の心が、食品サンプルの進化を更に推し進めたとしていきます。

確かに、食品サンプルも食玩も、そのような技巧に魅せられる点は多々あるかと思います。しかしながら、どちらもギミック。本書が上梓された直後から急激に進化を遂げた食玩も、当時は極めて幼稚な技巧に留まっていたはずです。そのように考えると、技巧に魅入る以前に、日本人にとってこれらのギミックが響く点がきっとあるのだと思います。それは、漫画やアニメーションと全く同じ、記号化、単純化された状態から元の姿を自在にイメージするベースを持った、アイコン化への共感。著者が述べるように、食品サンプルのラーメンに載せられるネギはビニールチューブの輪切りに過ぎず、浮かべられた海苔は黒いゴワゴワとしたビニールシートに過ぎません。食品サンプルを見た多くの欧米人の反応の通り、それらは凄くよく出来たギミックではあるが、ギミックであってそれ以上では決してない。しかしながら、私にも、確かに食堂のガラスケース越しに、スープに浮かぶシャキシャキしたネギの歯ごたえを思い起こし、海苔から発する海の香りを感じる事が出来てしまうのです。

デフォルメ化され、アイコンとなったその姿から、豊かなイメージを湧かせる一方、単なる単純化に飽き足らず、細々とディテールやバリエーションに拘り、微細な差異に一喜一憂する。折角単純化、記号化した物を、再び微細に先鋭に分別して仕上げていく日本人の両極端なその姿をまざまざを示す好例が食品サンプルなのかもしれません(逆に、プロトコルや標準規格の制定、デザインシステムや統一的なフォントセットの構築が大の苦手なのは、よく言われる通りですね。言葉を介さずイメージで語るため、共通認識に微妙なずれが常に付きまとう)。

終章で語られるように、本来は迅速にイメージさせるための記号化、デフォルメであった筈の食品サンプルは、冒頭の写真にあるように、もはや本物を超越するほど(本物では出来ないシチュエーションすら作り出す)のリアリティを有しており、その技術と同じような道筋に、現在の食玩たち、そして日本人が好む、限りなく現実で現実ではない、独特なリアリティの構築という世界観が存在することは論を要さないと思います。

日本人が作り出した、イメージをアイコン化する手法の華である食品サンプル。いまや食堂のガラスケースは空っぽというお店も多くなってしまいましたが(初期の食品サンプルは材質の制約もあり、照明や日射によって劣化することもあり、当初からレンタルが一般的だったそうです)、本書が刊行された時点では想定もし得なかった新しいステージを得たその技法は、日本人の感性が求める限りに何処までも先鋭化していくのかもしれません。

 

今月の読本「飯田線ものがたり 川村カネトがつないだレールに乗って」(太田朋子・神川靖子 新評論)その普段に寄り添う偉大なるローカル線の偉大な物語と小さな物語は、新たに見つめ直す合唱劇の先へ

今月の読本「飯田線ものがたり 川村カネトがつないだレールに乗って」(太田朋子・神川靖子 新評論)その普段に寄り添う偉大なるローカル線の偉大な物語と小さな物語は、新たに見つめ直す合唱劇の先へ

出版不振が叫ばれて久しいですが、日本には多くの書籍を刊行する、多様な出版社さんがまだまだ多く存在する一方、その出版社さんの数を遥かに上回る「本を出してみたい」と願い、実際に地道に資料を集め、構想を練り、試行錯誤をしながら原稿をまとめ、何度もダメ出しを受けながらも、何とか刊行のチャンスを狙ってひたすら努力を続けている方々も数多いらっしゃるかと思います。更には、そんなチャンスに恵まれなくとも、何とか一冊を綴りたいと願って自主出版や私家版として自費出版される方すら、決して少数ではない筈です。

そんな中で、地元の書店さんでふと見かけた一冊。やや素朴な仕上がりながらも明らかに自費出版とは違う、美しい写真のカバーが掛けられ、巻頭にはふんだんに用意されたカラー写真、定価とISBNコードが打たれた正規の刊行物。そして、著者は偶然にもこの書籍を執筆することとなった、地元で暮らす二人の女性。あとがきの著者紹介を読んだ限りでは、表紙に書かれた表題とはちょっと噛合わないこの組み合わせに、逆に興味を持って手に取る事になりました。

今月の読本「飯田線ものがたり 川村カネトがつないだレールに乗って」(太田朋子・神川靖子 新評論)のご紹介です。

まず、本書が書かれるきっかけから驚かされます。鉄道ファンで多少なりとも地方鉄道の歴史に知見をお持ちの方、特に本書のテーマとなった飯田線に少しでも興味をお持ちの方であれば、アイヌの鉄道測量技師、川村カ子ト(こちらの方が一般的な表記ですね)ほど著名な人物はいない筈です。しかしながら、沿線である佐久間に30年も在住していた著者、地元の小学校の教員を務めていた著者の夫ですらその人物を知らなかった、更にはかなりの高齢の方以外、地元の方にとっては全く無関心の人物であったという事実。

ある人物から舞い込んできた相談を受けて、初めてこの事を知った著者が次に起こしたアクション、川村カ子トを題材にして以前に作られた合唱劇をプロデュースして、その舞台である、水窪で上演することになります。水窪での上演に際して広報担当としてパートナーとなったもう一人の著者と二人で綴ったのが本書。前後半でパートを分けて描かれる物語からは、全く未知の状態から川村カ子トを軸に、自分たちの生活に寄り添ってきた飯田線そのものへの理解を深めていく過程が見えてきます。そこには、旅行者や好事家、鉄道ファンや行政の方が綴る物語とは全く違った視点に溢れています。

前半では、合唱劇の舞台準備に際して訪れた旭川での川村カ子トの記念館を訪れた訪問記と、三信鉄道の最深部、三河川合-天竜峡間の実際の測量、敷設作業にまつわる物語が綴られます。刊行物に掲載されるのは初めてと思われるものを含めて、当時の貴重な写真も豊富に掲載されています。但し、このページをご覧になるような方は既に好事家に片足を踏み外していらっしゃるかと思いますので、カ子トの業績やアイヌに対する差別的な扱いについては改めて説明不要かと思います。そのような中で、1960年に再び招待されて北海道から佐久間を訪れた時の模様(既に自らが切り開いたルートが佐久間ダムの湖底に沈んでいると聞いて驚いたそうです)を今でも克明に覚えている古老のお話や、その沈んだルート(水上から接近)やそこにあった生活、夏焼の集落を訪れた著者の綴る物語には、地元に在住している方だからこそ語れる内容であることはもちろんなのですが、それ以上に、ついこの間まで知らなかった、刻まれ続けたその土地だけの歴史物語再発見への驚きと、その想いがさらに地元への愛着へと昇華していく心象が綴られていきます。

更に驚きの内容が、川村カ子トが請われて三信鉄道に招聘されたと多くの書籍には書かれていますが、そのような言説を覆す説が述べられている点です。今回の取材の中で、佐久間に今も住まわれている方の祖父で、三信鉄道の保線課長として建設工事にも携わった人物が、北海道拓殖鉄道時代にカ子トと一緒に鉄道施設作業に携わっており、請われたというより、カ子トの方から三信鉄道に従事したいと願い出たと述べていたという記録を残していた事です。あくまでも私家版での著述であり、本人談として伝えられている限りですが、当時としても高額な給金と家族を引き連れての測量であった点でも、決して一方的にアイヌだからとのある種の侮蔑的(能力の高さの裏返しでもあります)な招聘ではなかったかもしれない点は、日本の鉄道史でも有名なエピソードの一側面として、その背景を含めてもっと検証されても良いのではないかと思われます(この先は鉄道史家の領分でしょうか)。

過去からの飯田線に繋がる物語が綴られる前半に対して、後半は現在の飯田線の物語が綴られます。水窪での合唱劇公演を終えた後に始めた飯田線の探訪。一覧表では掲載していますが、全部で94駅ある飯田線の全駅を網羅するのは流石に苦しかったのでしょうか、その中で著者が心に留めた49の駅が、コラムを挟みながら紹介されます。本書のテーマと著者が水窪在住のため南側重視で、旧三信鉄道は全駅と飯田までを重点的に取り上げています。民俗学的にも貴重な三遠南信の山村に残る風物、寄り添う天竜川とダム湖、桜、そして茶畑と、その土地に住む方々にとってかけがえのない、今の姿。有名な下山ダッシュや旧三信鉄道秘境駅の数々など、鉄道ファンの方ならお馴染みのテーマももちろん紹介されていますが、その内容は、取材目的で訪れた場合でもあくまでも鉄道は添え物、著者の興味は別の所にあります。それは、自らがその場所に訪れた際のシチュエーションであったり、一緒にいた人物であったり、車掌さんや、駅で、そして道行く中で巡り合った人々への、また飯田線で会いましょうというという想いを乗せた柔らかな眼差し。鉄道とういうツールを通じて人と人が交わっていく想いを車窓が彩り、自分の心を映し、描き出すという、紀行文やちょっとビジネスライクな各駅の紹介とは異なった、自らの日記を綴るような、自分の住む場所を往く日々の心象スケッチを積み重ねているかのようです。

川村カ子トに出逢わなければ気が付く事が無かった、何時も側に寄り添う鉄路が編み出す昔と今を繋ぐ物語は、そのきっかけを作り出した(冒頭のトリックに戻る訳ですが)版元編集者さんの手により、繋がり合いながら一冊の物語としてこのように手元に舞い降りてきたようです。

版元さんと著者たちの好奇心、その行動力から生まれ始めた地元への想い、マイレールとしての新たな気付きが、豊かな出版環境が残る中で、本書を通じて多くの方に伝わる事を願って。

<おまけ>

長野県下伊那地方事務所が制作した、県内の飯田線各駅を紹介したブログ「魅力満載のローカル線!飯田線」(全35話)には、本書では紹介されなかった分を含めて長野県内の飯田線各駅が紹介されてます。本書とは全く切り口は異なりますが、興味深いお話が満載、併せてご覧頂ければ、更に面白いかと思います。

本ページから信州関連の書籍、南信をテーマにした話題も併せてご紹介します。

今月の読本「キリスト教は役に立つか」(来住英俊 新潮選書)貴方に出逢う気付きを願って

今月の読本「キリスト教は役に立つか」(来住英俊 新潮選書)貴方に出逢う気付きを願って

何時もとはかなり毛色の違った一冊。

所謂、葬式檀家と言われる一群に属する私ですが、子供の頃から彼岸には両親の実家に当たる墓参を欠かさなかった母親に付き添い、その一方、やはり母親の影響で地元にあった小さな長老改革派教会の日曜学校にも僅かな年数ですが通い、(既に頭の片隅にしか残っていませんが)聖書も一通り読んでいたという、今時の日本人としてはマイナーな子供時代を過ごしていたせいでしょうか、神社仏閣や教会、自身は無くても信仰する宗教を持つという事に違和感を全く持たずに大人になったような気がします。

それでも、新井白石が好きな私にとって、キリスト教と信仰する方々はやはり彼岸の存在。歴史としての旧約聖書や新約聖書から繋がるローマ時代の歴史、絶大な影響力と特異な国家としての位置づけを今に至るまで保持するバチカン/ローマ法王(教皇)には強い興味があっても、その信仰に振り返ることは無かったと思います。

そんな中で手にした今回の一冊。この選書シリーズ特有の表題や帯の仰々しさはさておいて、ちょっと気になる「孤独」とキリスト教というテーマに惹かれて読んでみる事にしました。

今月の読本、「キリスト教は役に立つのか」(来住英俊 新潮選書)です。

前述のテーマにあるように、本書は神学書でもなければ、キリスト教の教義を綴った本でもありません。著者はローマカトリックの修道司祭(即ち独身です)ですが、社会人になった後に洗礼を受けて司祭への道を歩んでおり、その起点に於いては家族との大きな葛藤があった事も冒頭に述べられています。そのような葛藤を抱えながらキリスト者(この単語を全文で貫いていらっしゃいますので、それに従います)としての歩みを経る道程を振り返りながら綴られる本書は、著者の信仰への道をそのまま投影しているかのようです。社会的、文化的、歴史的にもキリスト教世界とはかけ離れた位置である日本に於いて、どのようにその道筋を綴れば良いのか。著者はその想いを二つのキーワードに込めて語りかけます、孤独と、それに寄り添う想いとしての神の存在。二つの間を繋ぐキリストという存在。信仰的に描くと強固な拒絶反応を示されるでしょうし、教義のお話や聖書の章句をいきなり並べるにも受容される環境が無い中で、精いっぱいのアプローチ方法として選んだ設定。全部で50の説話として綴られたその内容には、まるで中骨を抜いてしまったような印象を受けるかもしれませんが、要所にはしっかりとその想いが込められているようです。

冒頭から始まる、神の存在とそれに向き合うことの意味合い。願う事、悩みを告げる事、感じ、折り合う事。旧約聖書からの引用を用いて、そんな想いに意外なほどのユーモアを以て、人間臭く(すみません)応えて来たのかを示していきます。ただ、流石に三位一体については、これ以上はと述べて議論を避ける点について、日本人を相手にした場合にはどうにも解釈が苦しくなるのは、江戸時代も現在もあまり変わらないようです。その上で、プロテスタントとローマカトリックとの違いなのでしょうか、何に付けてもまずは肯定してみようという想い、あくまでも前向きに、大らかに包み込んでいく感覚を前面に示していきます(カルヴァンの予定説については微妙な表現を付与して本文で言及されますが、このおおらかなポジティブシンキングは少女パレアナにも繋がるような気がするので、プロテスタントだからその逆という考えは正しくないかもしれません)。その一方で、あくまでも修道司祭の方が書かれた物であり、そのおおらかさの揚げ足を取るような視点に対しては、突如として厳しい筆致で臨んでいる点も否定できません(第22節)。

ここまでは、あくまでもイメージに入る前の更に前段階。第2章からは具体的に信仰を身に着けるというイメージを考えていきます。第1章でイメージが湧かなかった方、感じるところが無かった方には苦しい内容になるでしょうし、イメージが湧いた方でもその位置づけ、考え方は容易に納得できるものではないかもしれません。特に自己との相対性を論じる部分は、相当の心根を持たなければ辿り着く事は出来ない領域に入っていると思います(著者自身も、ボーン・アゲインではなく、特に日本人にとってはゆっくりと、少しずつと述べています)。そんな中で一際目を惹いたのが第33節の部分。本書の核心と言える部分ではないでしょうか。本来であれば交わる事のない二人が暫し他愛もない事を語り合う。その他愛もない会話が生まれる事自体が、きっと始まりに繋がると強く暗示しているように思えます。何も自分の主義主張を振りかざす必要もなく、ひたすら聞き役に徹する必要もない。飲み屋の会話ではないですが、そんな些細な関わり合いの積み重ねがきっときっかけになると思えてならないのです。もしかしたら著者はそのような交わりのきっかけとなる場所としての、自身の教会を位置づけることを望んでいらっしゃるかもしれません(アメリカのメガチャーチには、説教以外の部分でそのような側面を強く感じます)。

その上で、3章に綴られた内容を読んでいくと、なるほどと理解に至る事が出来ます。著者が暗示するように、それを以てキリスト者に至る事は(特に日本では)叶わないかもしれません。しかしながら、人との関わり合いのスタートとして、そのきっかけとして、更にその先に見えてくる、紙の上に書かれた事、頭の中で考えを巡らせた事ではなく、確かな手応えとしての「共に生きること」へのアプローチとして、キリスト者である著者が語りかけてくる内容はきっと何かの気付きを与えてくれるはずです。

その上で、著者が伝えたいと願う気づきの先は、帯に付されたように、これらの想いと交わる事が無い、孤独の中に生き、自らの内にひたすら埋没していく人々への想いへと繋がっていくように思えます。やるせない想いを一人抱え込んでいる人が求める渇望感と、その空虚さの間にも神の存在と、それを繋ぐであろうキリストという存在があるという事と伝えたいという著者の想い。もしかしたら、そのような想いを抱き続けている方は本書を手に取る方々と対極に位置しているのかもしれませんが、その想いを届ける事は出来るでしょうか。

本書を読んでいて思い出した一冊『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』(斎藤環 ちくま文庫)。本書の終章で語られる、最も親密な関係としての人生のパートナーの大切さを語る部分以外において、驚くほどの相似性を見出す事が出来ます。すなわち、自分にとって安心できる状態を得る事が自己の確立にとって極めて大切だという事をどちらも指摘しようとしています(自我の確立と相対化)。その上で、本書に於いては無限大の相対化である神を相手として、その間を取り持つイエスと共に歩むという形を一つの解決策として示しているように思えますし、両書共にその先に人と交わり続ける事の困難さを克服する為に必要な道筋を述べているように思えます(ぼっちの私には、どちらも耳の痛い話が満載、なおかつ正論なので苦痛の極みではあるのですが)。