今月の読本「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)有閑弓騎から滝口へ。王臣子孫と郡司で描く収奪の古代史電車道の先に開く玄関口

今月の読本「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)有閑弓騎から滝口へ。王臣子孫と郡司で描く収奪の古代史電車道の先に開く玄関口

多くの読者に読まれる事を想定した、毎月刊行される新書。

飽和気味と言う言葉を遥かに超えた勢いの刊行数で毎月送り出されくるため、その内容には「まとめ系」であったり、明確な差別化やテーマ性の強い作品が求められる傾向が、近年特に高まってきているようです。

四六判の選書や叢書とは扱われ方が異なる「戦乱」の中に、明らかに議論を呼ぶテーマを掲げて、専門家ではないと断言する研究者が飛び込んだこの一冊。

今回は「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)をご紹介します。

著者は中世史の研究者ですが、儀礼、儀式から社会的な秩序を体系化する研究に携わっているとの事で、本書がテーマで掲げる武士が専門の研究者ではありません。また、前著となる「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)も著者の研究テーマである儀礼の空間としての平安京をテーマに、京都学の講義を行った内容を書き下ろした一冊。著者の研究内容から見るとサイドメニューに相当する本のようです(サイドメニューは当該叢書シリーズが掲げるテーマですので、むしろ的を得た設定です)。

本書についても、著者の研究を進めるにあたってどうしても決着を付けておかなければならなかったテーマと称して議論を進めていきますが、その議論にはある前提が付されています。

武士論を掲げる数多の書籍、研究者、執筆者の中で、下向井龍彦氏と高橋昌明氏の両名の研究成果を軸に綴られる議論の骨格(更に補足すれば、古代史研究者の森公章氏の豪族に関する研究)。両者の基本的なスタンスに同意を示すと同時に、その論点における弱点を突き、傍証が足らないもしくは出来ないと断定する部分に対して著者自らの試案を組み入れていきます。

新書と言うフォーマットではやや厚めな300ページ越えですが、聖武帝以前から始まり、平将門の乱で一旦議論が終わる長大な時代扱う一冊。唯一点の結論が得られれば良いと称して、その間の著述は正に電車道の如く、他の議論を排しながら一本調子で突き進んでいきます。

本文中に織り込まれる著者の視点、古代豪族に発祥を持つとする「有閑弓騎」と、滝口の人員から見た律令国家の病巣の元凶と見做す王臣家からの武士の発祥、更には武士と言う名称の生み出された素地。

自らの高校時代における弓道の経験(前著で著者は鍋島武士の家系であることを述べています)を起点に、前述二人の研究者が提唱した内容に対して著者の独自性を求めます。蝦夷の騎馬と抜刀技術より更に古い、弓と騎乗の技術をもった古代豪族の子弟を称する「有閑弓騎」の系譜を受け継ぐ郡司とその末裔たち。墾田永年私財法を起点に地方からの収奪を目指す王臣家とその手先となった末裔たちである王臣家人。彼らの母系とその間に降り立った、間引きされ大量に臣籍降下した直近の王族たちの男系が地方で結びつく事で、正に「武士が生み出された」としていきます(ここで著者が利仁将軍こと藤原利仁や俵藤太こと藤原秀郷の出自特異性について拘る点は論拠含めて要注目で)。更には、彼らが京と往還する事になる送り込まれた先が、正にその名称が使われる発端となった「滝口」で有る事を将門の伝承から認めていきます(つまり冒頭では一点と称するが、実はハイブリッドであることを著者自らが示します)。

前著に於いて、古代王朝が律令制を受容するにはその国力規模も実力も不相応だったと断じた著者。律令制崩壊の起点である、土地政策の弛緩化から中世の胎動を見せはじめる段階までを、律令国家を支えたであろう朝廷や天皇、廷臣たちの姿をある意味嘲笑するかのように、地方行政の混乱を惹き起こした張本人たちこそ、その制度下では有限のポストに代を継ぐことであぶれてしまう彼ら王臣家と其れに繋がる者達であると断罪し、彼らの存在こそが武士の発祥を促したとの筆致で貫かれていく本書(著者は武家社会こそ貴族制であると応えます)。

一見非常に明快で、先行研究を一瞬で置き去りにしていく筆致に読まれた方には爽快感すら与えられるかもしれませんが、素直には喜べない実情もあります。

前述のように、本書の基本的な骨子は著者の視点による地方を重視した古代行政史を軸に、前述の研究者の方による先行研究の成果を援用する形で描いており、その弱点を著者独自の視点で置換していきます。実は表題や帯にあるような決定打的な表現とは裏腹に、その基盤となる議論の推移は先行する数多くの研究者の成果に依拠しており、ピンポイントで著者の持論を持ち込み推移の中に織り込む事で、それが全体観であると言っているようにも感じられてしまいます。更にその持論を投じる際も、他の先行研究に関しては検証できない、答えていないと断じる一方、自らが挙げた論点については「可能性」「十分」といった言葉をあっさりと使ってしまうため、かなりの片手落ちに感じる事も事実です。

むしろ本書は、同じテーマを扱ってきた書籍では断片的、ないしは迂遠で読みにくかった内容を著者の豪快な筆致に身を任せで読み進める事で、俯瞰で読ませた上で著者が投じたとする(かもしれない仮説):P.278に対する疑問、武士の発祥という議論のテーマへと導くための玄関口としての一冊。

冒頭で述べられるように、本書では新書で省略される事の多い注が敢えて添えられており(補注としての記述まであればなお良かったですが、それは文庫化の時にでも)、本文中に指摘される先行研究者の方が書かれた、比較的入手しやすい一般向け書籍も参考文献として列挙されています。

文章量はやや多く表現などは荒っぽいところもありますが、一気呵成の筆致で綴る内容は好奇心へと導いてくれる一冊。本書をきっかけとして、それこそ数多ある武士を扱った本を手に取った上で、色々と読み比べて考えてみるのも歴史に興味のある一般人の読書としての楽しみかもしれません。

それこそが不振を極める本屋さんの書棚の中でも貴重な、常に新刊が溢れ続ける新書という書籍がその先に広がる読書への入口としての役割と自負してきた起源でしょうから。

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

今月の読本『世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)気候区分で巡る、地球を舞台に飛び出した日本のフィールド研究者たちが魅せる世界の素晴らしさを

毎月新刊が刊行される新書は、各社のレーベルである程度得意分野やテイストでセグメントが分かれるようですが、今回ご紹介するのは、明らかに中公新書さんや岩波新書さんが得意とされるテーマ。しかしながら、この分野では珍しい、ちくま新書さんから刊行された一冊のご紹介です。

世界がわかる地理学入門』(水野一晴 ちくま新書)です。

著者は地理学の研究者。地理学とは非常に広範な分野をカバーするので、果たしてこのテーマを掲げた場合、どの部分に着目して描くのかにまずは興味を惹かれます。著者は植生及びその環境を研究されていますが、同時に世界50か国以上を廻ったフィールドワークの達人。その知見を最大限に生かした内容は、単なる地球環境や植生を取り扱った本とは一線を画する内容になっています。

全地球の気候区分(ケッペン気候区分)の説明から始まる冒頭や、地形、気象に関する解説は文系の方にとってははちょっと頭が痛くなり始めるかもしれませんが(ブルーバックスではないので数式は出てこないですよ)、ここは我慢で読み進めていただきたいところです。なぜなら、著者の想いはその後に綴られる豊富なテーマが地球の気候と環境によって形作られていることを理解してほしいと願っているからです。

その先に広がる世界。美しくも豊富な写真(電子書籍版はフルカラーらしいです、ちょっと羨ましいかも)で飾られる、地球を代表する自然や動植物の姿、その地に暮らす人々。これらはすべて営々として続いてきた地球環境そのものが作り出した事を、その仕組みとともに丁寧に説明していきます(お約束の場所以外にも、マンハッタンやストックホルムなど、ちょっと意外な場所も紹介されます)。

これだけですとやはり自然環境の本なのではと思われてしまうかもしれませんが、本書が出色なのは、さすがに人文に強い筑摩書房らしく、その環境で暮らす人々の姿、所謂人類学や農業、経済学的な視点の記述を、自然環境を語る以上に詳細に述べていきます。世界を廻った著者の豊富な知見と、他の研究者の成果、提供された写真を豊富に掲載することで、自然環境の幅広さ、素晴らしさを伝えると同時に、そこに生きる人々の、我々の想像を超える生活する知恵とその姿も併せて述べていきます。特に各気候区分に特有のその地に長く住み続ける人々の姿を、狩猟採集民、牧畜民、極地の生活、山岳民、そして都市住民と、生活スタイル、地形や環境ごとに述べていきます。世界中に暮らす人々がなぜそのような生活をしているのか、人類学や民俗学的視点の根底は、自然環境に強く影響を受けている事を明確に示していきます。

すばらしい世界旅行や兼高かおる世界の旅といった往年のTVドキュメンタリーが伝えてくれた、人と自然が交わる世界の広大さ、自然と人々の生きる姿と、その先に繰り広げられる歴史や経済活動は、決して切り離すことなく密接に結び付いて、我々はその中で生きていることを教えてくれたあの作品たちを見た時の感動をそのままに伝えてくれる本書。

そして、本書で忘れてはいけない点は、文中の引用や巻末の参考文献をご覧頂ければ分かりますように、その多くの成果が日本人の研究者たちによってもたらされたと言う点です。地球をフィールドに世界に飛び出した日本の地理学、人類学といった人文系の研究者や、動植物の研究者、地形、土壌、気象、地球環境といった科学者、さらにはプランテーション植物やその取引といった農学や経済学まで。豊かな研究環境の発展の中で世界中で活躍するたくさんの日本人研究者たちの成果を著者は自らの研究分野を述べる以上に取り上げていきます。

今や世界中で研究をリードする立場となったこれらの研究分野における日本人の研究者たちの成果が豊かに語り出す、気候区分で世界を巡る地球の物語。

あの頃、TVのブラウン管から覗く事しか出来なかったフィールドで、多くの日本人研究者の方々が活躍されていることを実感しながら、その世界の広さと美しさに心打たれる一冊です。

 

今月の読本『勘定奉行の江戸時代』(藤田覚 ちくま新書)幕府270年を実力と出目で支えたノンキャリアの「山師」たち

今月の読本『勘定奉行の江戸時代』(藤田覚 ちくま新書)幕府270年を実力と出目で支えたノンキャリアの「山師」たち

江戸の三奉行といえば寺社奉行を筆頭に町奉行、最後に連なるのが勘定奉行であることはご存知かと思います。

大名役の寺社奉行は確かに影の薄い存在ですが、やはり一番有名で、取り上げられる機会も多いのは町奉行。江戸の町民たちと密接に接していると感じられる彼らですが、そのキャリアパスは名門旗本でも最上位に位置付けられる両番からの出身者でほとんどが占められ、実際には江戸の町民たちとかなり距離がある、当時のスーパーエリート達だったことはよく知られているところです。

では、町奉行と対比するように扱われる勘定奉行のキャリアパス。格式では町奉行に僅かに劣りますが、万石以上の大名と並ぶ五位の諸大夫にして旗本が務める最高職の一つである、幕臣中でも最高位に位置付けられる彼らの約1割が、出自もあやふやなお目見え以下の御家人や、御家人株を買った、または御家人株を買った上で、旗本家等に養子で入った武士とも言えない人物やその子供たちが務めたと聞くと、少々驚かれるかもしれません。

今月の読本は、そんな彼らの姿を近世史の大家が興味深く解説してくれる一冊をご紹介します。

今月のちくま新書新刊より『勘定奉行の江戸時代』(藤田覚)のご紹介です。

著者の藤田覚先生は、日本の近世史、特に江戸後期の幕府、朝廷関連の政治史の専門家で、一般向けにも数多くの著作を著されています(現在は東京大学の名誉教授です)。すでに大家と呼ぶべき研究者の方が改めて新書として送り出す一冊は、研究者向けの書籍とは異なる、著者の研究上で抱いた好奇心を広く知って欲しいという思いで綴られています。

それは、最後の武士の時代である江戸幕府において、そのトップにまで上り詰めた人物への興味と特異なキャリアパス、彼らが行った施策がどんな内容であったかという点。この二つを幕府の財政政策と結び付ける事で、270年も続いた幕府におけるターニングポイントには、常にノンキャリアの勘定奉行が存在していたことを浮かび上がらせていきます。

前半で述べられる、幕臣の昇進ルートの解説と勘定所の構成。ご承知のように町奉行所の構成は、大枠で与力、同心の2段階しかなく、御家人役である与力の石高は200石と高くても、転属や昇格は殆どなく、彼らの中から町奉行となった人物は一人もいません。一方で、勘定奉行のオフィスである勘定所の構成はより複雑であり、後期には勘定方と公事方の2系統に分かれ、道中奉行を兼帯し、その人員は運用や調査業務も担っていた評定所への出役や、郡代に代官、更には金銀銅座、長崎会所へも出役をするなど、全国にその組織は広がっていました。

格式では町奉行や寺社奉行に劣るものの、業務規模では圧倒的に広大な勘定所を所轄する勘定奉行。広範な業務を遂行するためには多彩な人材を擁することが求められ、それ故に勘定所への採用は、いわゆる番方のような、出自や家格、人物を以て番入りするというスタイルではなく、早くから算筆吟味で採用されるという、科挙を否定した近世までの日本の行政としては異例の、選抜主義が採用されていたことを示していきます。

そして、多彩な業務に携わるということは、新たに発生する業務に対して柔軟に対応できる人材の供給源でもあったという点。彼ら勘定所を振り出しに幕臣としての業務に就いた人々は、勘定所の中でステップを上り、さらには勘定所を離れ、出役や他の職場(普請系や御三卿の家老など財務に関わる職種が多い)へと広がっていくことになります。エリート旗本の昇進コース(この辺りの構造的な解説は山本博文先生の、家格については故・小川恭一先生の著作に詳しいです)である、番入りから目付を経て遠国奉行などへと昇格する、現在のキャリア職にもその影響が強くみられるルートとは異なる、勘定奉行特有の昇格ルート。勘定所の内部昇格から、または目付ルートへと乗り換えての昇格、更には多額の金銭と業務を扱うが故に、老中からの掣肘を本来の目的として設けられた勘定吟味役からの昇格(もう一つには金さんこと、遠山景元のように将軍家の側近である御納戸や小姓から下三奉行を経て送り込まれるパターンも)と多彩なルートを経て幕政のトップへと就任した彼らには、江戸時代を通じて常にある重要な目的が課せられることになります。

本書の中盤以降で5章に分けて時代ごとに語られる、歴代の勘定奉行の活躍と幕政。皆様がよくご存じの江戸時代における時代区分ごとに、ノンキャリアといえる勘定奉行が輩出され、彼らの手を通じて様々な施策が繰り広げられることになります。

その施策の中核となるのが、緊縮と改鋳による出目。特に本書は、その時々の勘定奉行の特異な出自や時代背景における、活躍した人物を紹介する内容と同じくらいに、出目による幕府への財政貢献と、その反動である通貨品位の下落の対比を綴ることに力を注いでいきます。

トップバッターとなる、もはやお約束の荻原重秀。ここで著者は新井白石とのし烈な反目を扱う一方、昨今特に言及されるようになった、元禄経済の繁栄をもたらしたのが、荻原重秀の通貨政策であり、そのインフレ誘導政策による物価上昇率(年率で3%程度)は、経済成長のためには、充分に穏便であるという論拠に疑問を挟みます。古典的な封建的重農主義者で経済音痴の学者に過ぎない白石に対して、実務家として、商業資本主義を見据えた、開明的で極めて有能な財政政策者であったとの経済系学者の皆様からの荻原重秀に対する評価に対して、あえてその著作を指名して、近世史の専門家としての反論を述べていきます。

いわく、現在の水準における経済成長率と当時の低成長社会における経済成長率を同じ視点で述べること自体着眼点がずれており、その意味では幕末の開港直後の物価上昇率(これも出目でカバーすることになるのですが)は、ハイパーインフレと称すべき水準であったとします。また、改鋳率と物価上昇率を比較すると、比較的類似の数値が得られる点を指摘して、通貨供給量を増やしたことで経済の循環がよくなったわけではなく、単純に改鋳によって、インフレが誘発されたに過ぎない(特に銀使いの西国を狙い撃ちにした点は従来から指摘されているとおりです)と指摘します(荻原重秀が残した瓦礫云々の口伝について、幕末には現実となるのですが、大局的にはこの時点や更には大恐慌を経て戦後のニクソンショックの頃まで、世界的にも貴金属本位制を志向していたはずです)。

その上で、著者は根本的には経済政策ではなく幕府の財政運営の問題として、全国政権としての国家規模での事業を賄う必要に迫られる一方で(本文中にもあるように、御手伝い普請という技も使うのですが)、武家政権に伝統的に期待される(と、儒者や歴史学者が抱く)矜持を離れて弛緩した将軍家の浪費と、そのことに極めて関心が薄い、大名出身者で占められる閣老に対して、実務官僚として、更にはノンキャリアの叩き上げである勘定奉行が最後の切り札として放つ、キャリア官僚では踏み込めない決断を迫る算段としての改鋳と、その絶大な効果である出目による膨大な財源補てんの推移を、ほかの施策と併せて捉えていきます。

元禄を起点に繰り返される倹約を主体とした緊縮財政と農業振興、特に新田開発を中心とした収穫量増長政策とそれに伴う課税体制の強化といった予算均衡、重農主義的な財政政策と、貨幣供給を源泉とする株仲間や冥加金、更には御用金といった商業資本からの徴収を基軸に置いた、拡大経済、重商主義的な財政政策が鋭く対立する江戸中期以降。著者は米本位制を軸に置いた新田開発が曲がり角を過ぎた享保以降に繰り返される「改革」も、結局としては、その後に展開される勘定奉行が主導する出目による収納補填に頼る財政政策に依存せざるを得なくなっていく過程を示していきます。

その過程で登場するのが、大型の干拓や蝦夷地開発、商人からの御用金を集めての国家による金融や財政投資の萌芽を見る、ノンキャリアである勘定奉行が主導する大規模な投資政策。著者が指摘するように、海防や学問、外国の技術取得に対しては極めて消極的な立場を採った一方で、自らの成果は何としても出すことを迫られ、それを自らに課したが故に山師とも取られるような危ない橋を渡る事も辞さない彼ら。これら勘定所が主導した政策も決して上手くいったわけではなく、政権の交代に伴って、かれらもその浮沈を共にすることになります。

経済政策としては上手くいった例が決して多くないため、彼らが巨額の賄賂を取ったとか、成り上がり故の身贔屓や閨閥作りなど負の側面が殊更に取り上げられることもありますが、著者はその一方で、彼らのような勘定所を入口としたノンキャリアたちという、能力主義のステップを経た血の入れ替えがあったからこそ、270年もの間、幕府が曲がりなりにも全国政権として維持し続けることができた点を忘れてはならないと指摘します。

開国前夜における外国との交渉の最前線にも立つことになった勘定奉行とその属僚たち。ここで、著者は彼らの業務に対する高い順応力を認める一方、内政と財務をベースとした人材の限界を暗示していきます。ノンキャリアの勘定奉行の掉尾を飾る存在として川路聖謨を取り上げて、開国前後から余多輩出されてくる、彼とまったく同じように小身から一気に駆け上がってきた幕末の幕臣たちに対して、川路の政策と視点の限界を示すことで、彼らノンキャリアの活躍する舞台としての幕府の終焉を見つめていきます(小栗上野介はバリバリの旗本ですので本書の扱い外で)。

昨今、歴史関係の研究から少し離れて盛んに唱えられるようになった、楽観的な江戸時代への懐古主義にも感じられる数多の書籍の内容に対して近世史の大家が示す、ノンキャリアの勘定奉行たちの姿から見た財政史としての江戸時代の実情を丁寧に綴る本書。

碩学の思いが込められた筆致に暫し思考を委ねていくと、歴史研究の狭間から、平板だった歴史著述の中にもう一つの展開が明確な輪郭を伴ってすっと浮かび上がってくる、そんな一冊です。

今月の読本「古代史講義」(佐藤信:編 ちくま新書)15講のガイダンスが誘う、未来の教科書を見据えた古代史へのパスポート

今月の読本「古代史講義」(佐藤信:編 ちくま新書)15講のガイダンスが誘う、未来の教科書を見据えた古代史へのパスポート

ちょっと意外な刊行に驚いた一冊。

毎月新刊が刊行される新書の中で古代史に関連する書籍は少ない訳ではありませんが、珍しい15名もの執筆陣を揃えた講義スタイルの編集。編者の佐藤信先生を始め、執筆される方々は皆、当該分野における第一線級の研究者です。では、そんな古代史概論の狙いはどの辺りにあるのでしょうか。

今回は「古代史講義」(佐藤信:編 ちくま新書)をご紹介します。

本書は時代順に邪馬台国から平泉までという、およそ新書がカバーする範囲を遥かに超える広範な時代を「古代」と定義して、15名の研究者が時代順にそれぞれ1つずつのテーマを担当して執筆されています。

ページ数が約280ですから、1テーマ当たり20頁弱、更には各テーマの最後には必ず一文を添えた参考文献を複数冊紹介する形態を統一して採っていますので、実際の分量はさらに少なくなります。

僅かなページ数をやりくりしながら描く内容は、各執筆者にある程度裁量を委ねているようで、口語体から物語風、呟き混じりで少し崩し気味の文体からかっちりした学術書流儀の記述まで。かなりのバリエーションに富んでいますが、いずれのテーマにも二つの共通点があるようです。

一つ目は、高校の歴史授業を受けたレベルで充分に理解できる内容である事。その授業を通じて多くの方々が学んできたであろう「通説」となっている内容に対して、現状の議論や研究課題が如何に変化してきているのかを明示する点です。

二つ目には、古代史と聞くとどうしても「発掘成果」か、「残された史料」のどちらか一方に傾斜して取り扱われる事例が散見されますが、編者たちは双方のバランスと取った、考古学と文献史学双方の知見を重ね合わせる事で、より妥当性のある見解を提示することを念頭に置きます。

従って、本書は読者にとっての新たな知見を提供することを前提としていますが、その提供される内容は、これが決定版、確定事項などというような紋切り型で提示されるものではありません。取り扱われる内容も、現時点でも盛んに議論されている内容であったり、確定的な事は全くわかっていない(古代史の特徴として、たった一つの出土史料がこれまで研究者達が営々と築き上げてきた仮定、史論、文化論を一瞬で吹き飛ばしてしまう事も多々あります)内容もあえて取り上げています。

むしろ本書はそれら巷間に伝わる、教科書をベースにした「通説」や、多彩な著述者が想像の羽を広げて描く物語と考古学/文献史学の中間線を往く書籍などで、まるで確証が得られたかのように論じられる内容に対して、前提となる考え方、通史としてのこれまでの議論を踏まえた上で、最新の研究成果、知見を以て、それらの定義に妥当性の尺度を当てはめ、是正を求め、現在の議論の方向性を示す点にあります。

時間軸を違えつつも、読者となる我々がいずれも同じように通過する故に、どうしても「通説」を生み出す起点となってしまう教科書記述に対して、是正されるべきこれまでの旧説を明示しつつも、最新の議論を提示した上で、古代史故に、これらの議論は常に塗り替えられることを念頭に置きながら綴る、15編のガイダンス。

私の勝手な解釈ですが、ある程度各章の内容には編纂のパターンが認められます。

a.歴史上の争点(or話題の書籍)に着目したテーマ

1.邪馬台国から古墳の時代へ

3.蘇我氏とヤマト王権

14.平将門・藤原純友の乱

多くの刊行物や議論があるテーマを扱ったセクション。述べられる内容も、通説についての現時点での論点を述べる内容が中心となります。有名な通説について、読まれた後で、どのような認識の変化が得られるでしょうか。

b.ヤマト(倭)、日本の文化に関する内容に着目したテーマ

5.平城京の実情

8.遣唐使と天平文化

12.国風文化と唐物の世界

15.平泉と奥州藤原氏

文化的な側面を捉えたセクション。本書で一番華やかな部分ですが、実は一番議論に慎重を要する内容が詰まっています。とりわけ声高に唱えられる事のある、文化的な独自性や逆の追従性について、著者達はどちらも慎重な見方が必要であることを訴えます。

c.政治史、特に軍事的な点に着目したテーマ

2.倭の大王と地方豪族

4.飛鳥・藤原の時代と東アジア

6.奈良時代の争乱

9.平安遷都と対蝦夷戦争

教科書などではもっとも多く採り上げられるであろう、争乱と戦争の記述。発掘成果も添えた最新の研究成果と議論には、特に記紀の記述をベースとした著述に対して、慎重な再検討を求めていきます。

d.政治史、特に行政に着目したテーマ

7.地方官衙と地方豪族

10.平安京の成熟と都市王権

11.摂関政治の実情

13.受領と地方社会

本書の中では一番地味なテーマですが、教科書を始め歴史著述を行う際に、これら基盤となる内容がどれだけ踏まえられているかで、著述内容の精度や背景の豊かさに大きな差が生じてきます。そのような意味で、特に地方の行政組織と人員構成、摂関政治の本質については、旧来の考え方と大きく変わってきており、改めて理解を深めておきたいところです。中でも、編者の佐藤信先生が担当された部分は、文献史学の検討結果を考古学的成果とダイレクトに紐付けて見せることで、立体的な歴史著述を成立させる、流石に読ませる内容です。

なお、本書は前述のように全ての章末に参考文献が掲載されており、本書をターミナルとして、それぞれに興味を持たれた内容へ更に進んで欲しいという執筆陣の想いが込められています(編者の佐藤信先生と、坂上康俊先生、川尻秋生先生の著作は特にお勧めです)。

お気に入りのテーマは見つかりましたでしょうか、ご自身の「通説」を試してみたいテーマは有りましたでしょうか。

それでは本書をパスポートに、古代史探訪のフライトへ。

今月の読本「大坂 民衆の近世史」(塚田孝 ちくま新書)近世大坂の褒賞書上げが社会学に映す姿

今月の読本「大坂 民衆の近世史」(塚田孝 ちくま新書)近世大坂の褒賞書上げが社会学に映す姿

この本を読み終わったのは昨年末なのですが、未だに整理が付かずに悩んでいる一冊。

近世史の本として括るべきなのか、それとも表題に示しましたように、社会学として捉えればよいのか、著者のこれまでの著作歴からはある程度想定できたのですが、読後感の極めて微妙な感触に悩み続けています。

今回ご紹介するのは、「大坂 民衆の近世史」(塚田孝 ちくま新書)です。

大まかな内容については著者が序章で述べている通りで、褒賞と民衆の歴史を綴る事を標榜されています。しかしながら、一方の狙いである現代の褒賞制度への繋がりは、終章でほんの僅かに語られるだけで余りにあっさりと着地してしまいます。また、褒賞を行う側の意図については殆ど言及されていません。では、民衆の歴史としての著述はと言うと、ここで採り上げられる内容はあくまでも江戸時代の褒賞に関する書上げの内容を検討した物であり、著者も指摘しているように、ある程度フォーマット、パターンに則っての成文、採り上げられた事例である事が判ります。ここで再び首を捻ってしまうのが、著者の捉え方が、そのパターニングから、住民一般の生活傾向を捉えようという趣旨が勝っており(眼病の傾向が強い等を文脈からあからさまに匂わす点は典型例として)、これも褒賞と同じで、名もなき人々の歴史を掬い取るという冒頭の趣旨と微妙なずれを感じさせてしまいます。

では本書はどの部分に焦点を当てているのでしょうか。第一部として詳細に述べられる近世大坂の成立期における町屋の展開、拡充検討から始まる内容は、第二章の褒賞を受ける人々の境遇によるパターニングから、第三章でその生業へと話を進めていきますが、分類過程も分析も、前述の序章の内容とも帯にあるような「人情と渡世」というような内容からも、やはりかい離があるようです。

むしろ、本書を読んでいて妙に腑に落ちた点。それは、近世における居住環境、職能集団の姿や、薬種商、歌舞伎役者の家や沽券の継承。更には、遊女、茶立女の奉公と実家の関係など、業種や生活環境、経済状態の変化による居住空間の変化などをセグメンテーションとして見せる、近世大坂における住民たちの姿を、褒賞書上げの記録を用いて社会学的な分析を加えようという趣旨に思えてきます。

その中でも印象的であった、女性と男性の職種に関する論述。針子や洗濯などの女性のみが就く仕事には、雇う側も雇われる側も上記のセグメントを緩やかに横断出来る一方、男性の職種には厳密な職能集団であったり、居住空間や所属する組、店子の関係など、社会的な枠組みに強く規制されながらも、困窮者の一時扶助的な職種としての「番太郎」「髪結」の存在が見いだされる等、大きな差がある事を見出しています。一方で、借家であっても女性の戸主は認められておらず(故に、名義的な縁組や離縁も)、褒賞を受ける条件にも所謂忠孝を尽くした点を強調するという、封建的な影響も色濃く見えてきます。

近世大坂を舞台にした、書上げという記録に基づく社会学的な分析。その結果を詳述する本書は、近世の民衆の姿を社会構造として浮かび上がらせる基盤となるデータを示すというテーマを充分に満たす一方で、冒頭や巻末で繰り返し著者が掲げた、本当に示したかったと思われる内容からは、距離感を感じてしまった一冊。

断片的な記録の更にその一片から、社会構造の一端は解き明かせても、人々に寄り添う物語を再構成していくというアプローチの難しさを実感しながら(それが学問かという根源的な問題を含めて)、未だにページをめくり直しながら悩み続けています。

 

 

今月の読本「カラー新書 駅をデザインする」(赤瀬達三 ちくま新書)人が集う空間への理想と最大公約数としての公共デザイン

今月の読本「カラー新書 駅をデザインする」(赤瀬達三 ちくま新書)人が集う空間への理想と最大公約数としての公共デザイン

New! : 本書で著者が渋谷駅と並んで酷評を浴びせていた複雑怪奇な新宿駅の構造と、サインシステム。実は、東京オリンピックを目指した整備事業計画の中に、これらの表示体系を整備しようという都の計画があり、2015年から活動を開始していました。2016年の春に計画案が公開されましたが、このサインシステム整備計画「新宿ターミナル基本ルール」の専門アドバイザーとして、著者の赤瀬達三氏が就任しています。本書でも数多くの指摘を行っていた新宿駅の問題点。根本的な問題である構造までは手を付けられなかったようですが、各社、ビルによってばらばらなサインシステムが遂に一本化されるようです。今年から数年を掛けて更新される新しい新宿ターミナルの共通サインシステム。既にデザイン指針が都のホームページ内にある「新宿ターミナル協議会」にそのコンセプトと共に掲載されています。

 

最近の新書は、創刊ラッシュでブームとなった数年前の状況からもう一歩進んで、テーマのタイムリーさを競ったり、レーベルの得意とする著者やテーマをシリーズ化するといった内容の特徴を競い合うようになってきました。

そんな中で、最近積極的にカラー版の刊行を手掛けているちくま新書の今月の新刊は、東京に住んでいる方ならだれでも知っている、誰もがお世話になっている、あのデザインを手がけた方による、公共デザイン論を扱った一冊が、手ごろなカラー新書として登場です。

駅をデザインする駅をデザインする」(赤瀬達三著)です。

本来であれば、10000円近くを覚悟する必要のある、このようなデザイン論を製作者が解説する書籍(本書も、鹿島出版会から2013年に刊行された「サインシステム計画学-公共空間と記号の体系」を一般向けに書き下ろしたことが冒頭で述べられています)ですが、本書ではカラー新書として、そのアウトラインを極力盛り込むために、価格、紙質、写真点数、そしてページ数と、精いっぱい努力して作られたであろうことが想像できます。

著者は表紙に描かれる、あの営団地下鉄(現在の東京メトロではありません)のサインシステム(ラインカラーと丸マーク)基礎設計を手掛けた、国内におけるサインシステムの権威として著名な方です。文章自体は、前述の制約の為でしょうか、まだまだ言い足りないといった感が滲んでいますが、それでも第一人者の方による公共デザイン(サインシステム)への想いが、このような形で手軽に読める事はとても嬉しい事です。

本書は大きく分けて4つのテーマに分かれて書かれてます。著者の手掛けた代表的なサインシステムの紹介とそのコンセプト。サインシステムに留まらない、駅舎(特に地下鉄駅)の空間デザインへの想い。そして、比較として取り上げられる海外の鉄道におけるサインシステムと、駅舎の空間デザインのポイント解説と、ネガティブな比較としての、国内鉄道の事例。

自身の手掛けた作品で実現できなかった部分についても、ネガティブな事例として取り上げている事例でも、第一人者故に許されるのであろう、極めて辛辣な評価が随所で見られる、かなり厳しめな筆致も多いのですが、指摘自体は頷かざるを得ない見解ばかりです。その厳しさは人々が集まる「公共空間」におけるデザインの大切さを誰よりも配慮したいと願う、著者の考えの表れなのかもしれません。

著者のコンセプトとして、その中核として書かれる点は2つ。人々が集まる空間としての開放性の高さの確保と、シンプルで普遍的な表現によるサインシステム。

特に地下という閉鎖空間に構築される地下鉄駅における、人の集合する場所としての空間スペースの取り方、開放感の与え方については地上の駅以上に配慮が必要な事、自然光への拘り。地上の駅でもホームを渡る連続的な屋根構造や、解放デッキ構造にすることで、ホームを見渡しやすくすることによる移動目標への視認性の向上(屋根もなく、跨線橋からホームが一望できた、昔の乗換駅を思い出します)、動線分離による案内自体を不要とする通路のレイアウトといった、駅という空間の設計方法への著者の理想が、実例としての海外の駅との比較で述べられていきます。そこには、鉄道建設における土木偏重主義(駅も構造物の一部とみなされる、建築部門はメーキャップやら化粧やらという自虐的な発言も拾っています)への強い憤りも述べられていきます。

そして、サインシステムとしての駅の表示に対する考え方も、本質的には空間デザインを補完するもの、空間デザインがまずあるはずだと明確に述べています。その上で、サインシステムの目的は極力シンプルに表現するもの。標記にしても、地図にしても、書かれている文言にしても、複雑さを排除して、目的に対して明確な指示を与えられることを最大限に意図している事が判ります。

この判りやすさへの視点は、日本人が得意とする、細やかな配慮を拾って形作っていく最小公倍数的なアプローチとは対極にある、明確な目的に対して、無駄をそぎ落としていく最大公約数的な表現。横浜駅のコモンサインシステムにおける英語表記の思い切った省略による、日本語表記に負けない文字サイズの確保(最初に見たときに、”JR L. Keikyu L. Tokyu L. Minatomirai L. Sotetsu L. Subway”という標記に、なんじゃこりゃ!地元馬鹿にしてるのか、と思ったのですが、文字サイズとの兼ね合いである点は良く理解できます)はその代表例かもしれません。その根本は、必要以上のサイン氾濫を戒め、駅周辺地図における必要以上の高彩色使用の抑止や広告に類するような固有名詞表記の整理による視認性の徹底した追求、更には第二外国語以外の表記すらも、文字サイズが小さくなるのであれば止めた方が良いという(アルファベットや数字による共通記号やピクトグラムが備えられている事が大前提)、徹底した割り切りによる判りやすさへの視点が貫かれているようです。

そのような公共デザインへの強い想いを持つ著者の、現在の日本の駅に対する評価は非常に厳しいものがあります。判りにくさの象徴でもある新宿駅は言うに及ばず、地下鉄の駅空間としての開放性という意味では特筆に値する、著者がサインシステムを手掛けた、みなとみらい線でさえ、土木と建築、そして建築とサインシステムとの整合性が図りきれていない点を指摘していきます(当初計画していた外照式デザインは、後に同じ横浜を拠点に路線網を広げる相模鉄道で採用されることになります)。

最後に述べられる新しい東京メトロのサインシステムや、東横線渋谷駅の空間デザインとサインシステムの氾濫への苦言は、その先に続く東京オリンピックを見据えた、交通システム体系の抜本的な見直しと、日本の公共デザインに対する更なる努力を求めているようです。

ここから、読後の余禄。

私自身は横浜に長く住んでいたので、営団地下鉄以上にラジカルなデザイン戦略を採った横浜市営地下鉄(駅ナンバーもここが発祥)も、みなとみらい線、そして国内では極めて珍しい事業者間で統一されたコモンデザインシステムを採用した横浜駅の事例も極めて身近に接していました。本書には、これらのデザインにおける苦労や裏話とも思われる逸話も述べられています。

みなとみらい線における駅デザインと、シンプルなサインシステムは、著者のやり切れなかった想い(と、ある恨み)を差し引いても、日本の他の鉄道にはないコスモポリタン的な雰囲気を感じさせます(元町・中華街駅のエントランスからホームまで繋がる、終端駅の立地を生かした連続する空間の広がりは強い印象を与えます)。また、横浜駅のコモンデザインにおける導入当初の大混乱(当初は、みなとみらい線のサインシステムがなんでこんな場所まででしゃばっているのかと憤慨していました)や、行政が定めた位置認識が不可能(誰も横浜駅の南端側を「みなと」などとは思っていません)な出入り口呼称より、高島屋やそごうといったランドマークの方がよほど認知度が高く、後に追記せざるを得なくなった点などは、著者の公共性への想いとは裏腹に、現実との整合も同時に必要であることを認識させられる点でした。くんだの件は…お読みください)。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連書籍について。

今月の読本「カラー新書 日本の樹木」(舘野正樹 ちくま新書)通勤読書と飲み屋の薀蓄話風、樹木進化の物語

今月の読本「カラー新書 日本の樹木」(舘野正樹 ちくま新書)通勤読書と飲み屋の薀蓄話風、樹木進化の物語

最近のはやりでしょうか。本来はサイズを小型化することで、書籍を手軽に読んでもらうことを狙った文庫サイズの新書シリーズですが、更には図鑑の類の手軽さまでも新書シリーズでカバーしようかというカラー版新書。

図鑑の側からはこれに対抗するように、既に文一総合出版さんからポケットサイズのテーマ別図鑑集が多数刊行されており、手軽に図鑑の内容をポケットサイズで楽しむことも可能となっていますが、そちらはあくまでも図鑑の延長。新書シリーズのカラー版にはほかの用途が求められるはずです。

そんな事を考えながら手にとった、今回ご紹介する一冊は、ちくま新書今月の新刊より、シリーズでは極めて珍しい(3冊目でしょうか)カラー新書「日本の樹木」(舘野正樹:著)です。

日本の樹木本来は単色で写真も最低限に抑えることで、印刷コストと携帯性を両立させるために存在する文庫サイズの新書のルールを外れてしまうカラー新書ですので、当然の事として読み物としての弱点が生じてしまいます。

一つ目としては、価格をほかのシリーズと整合させようとするとページ数を圧縮せざるを得ず、かなり薄めの体裁となってしまいます。その結果、写真の掲載サイズとの兼ね合いでもあるのですが、文章量が極めて限られてしまう(雑誌のコラム程度)という、読書感に直結する弊害が生じてしまいます。また、図鑑をベースにコンパクト化した書籍では図版を縮小化するのはやむを得ない所ですが、掲載する図版の表現こそが命であるため、それを表現するために用いられる用紙はあまり疎かにできません。しかしながら、コスト面で極めて厳しい制約を受ける新書の場合、そのようなチョイスは即、価格アップに跳ね返ってくるため、カラー版として別体系の価格帯を設けるか(中公、岩波)、さもなくは表現力の低下を犠牲にしてでも、通常の新書で用いられる用紙(本来は活字用のため、やや黄色身がかる)を用いるしかありません。

本書の場合、価格帯を維持するためにページ数はかなり少なく(127ページ、通常の文庫版が200ページ前後からすれば6割ほど)、用紙もカラー印刷にはあまり向いていない、ざらざらとした質感の用紙で、写真もあまり映える物ではありません(この理由は後ほど)。

そんな、ちょっと中途半端な一冊なのですが、中身を読んでみるとなるほど、製作者(著者+編集者)の意図が見えてきます。

本書は、この限られたページ数で樹木全般の話をすることを敢えて放棄し、樹木に関する進化の歴史と、そんな話をする際に、つまらなそうに聞かされるであろう読者の周囲の皆様へ、少しでも興味を持って貰えるような「薀蓄」をたっぷりと交えた、ちょっと不思議な位置づけをもつ一冊です。

著者のあとがきにも書かれていますが、本書の根幹を成す記述は、針葉樹->落葉樹->常緑樹、高層木->低層木といった樹木の形態と進化の歴史をベースに取っており、その発達過程によって生じた、生体の特徴について、特に意を砕いて記述されています。構成自体も常緑高木->落葉高木->中低木->つる、という順番で掲載されており、著者の想いもあって、被子植物の落葉木の特性、形質への強い優位性を認める著述が目立ちます(例外的にイチョウとカラマツが掲載されていますが、両方ともすこぶる辛口な評価が載せられています)。

そして、これらの木々に対する解説文がきわめて特徴的です。各樹木に与えられたページ数は見開きの写真を含めて僅かに、4ページから6ページ。見開き左下には写真と種の解説文が掲載されますので、実質的には2ページ少々しか文章を書くスペースが用意されていません。

これでは、学術的な内容はおろか、種の特徴すら書くことが難しいのは明らかなのですが、製作者たちはそこを逆手に取った記述を狙っていきます。本書のような新書は、読書時間が限られた方々に対して、タイムリーな内容や、すぐに役立つ情報を提供する事も使命の一つとして担っているわけですが、そのような読者の方々の限られた読書時間、すなわち休憩時間や通勤時間の僅かな時間にどのような情報を提供すべきかを考えた結果なのでしょうか、樹木それ自体の話を書くことを止めて、そこから派生するであろう物語を語ってみようという意図が明白に見受けられます。

カツラの話では、僅か2行で話を打ち切って土中微生物の話に移ってしまったり、クスノキではお約束のように「となりのトトロ」の演出方法とアルカロイドの話に脱線する。クワの木では当然のように世界遺産に登録された富岡製糸場と養蚕用カイコガの特徴の話に行ってしまう。ヤナギの話をしていると、著者の故郷と極めて関係の深い渡良瀬遊水地と田中正造の物語へのオマージュが始まる。止めは、イチョウのページなのですがこちらは読んでいただくとして…。キレはないもののスパイシーなその筆致は、どう見ても研究者のそれではなく、どちらかというと「物知り屋さん」の薀蓄話に見えてきてしまいます。

もちろん、すべてが木々の生態に密接に関わる物語として語られていくので、全く脈絡が無い訳ではないのですが、ページ数の少なさもあり、割り切ったその語り口からも、読む側としては本書から新たな知見を見出そうという意識には繋がらないようです。

そんなことを考えながら読んでいると、ふと本書の読者層、つまり著者と同年代の「おじさん」たちにとって、これらの薀蓄話は意外と飲み屋のしゃべりだったり、会社でのちょっとしたネタ話に都合よく書かれているのではないかと思えてきたのです。

少ない時間に読んだ本の内容から、最大限のメリットを引き出す。紅葉シーズンで樹木の話が話題に上りやすいこの時期に、通勤途中の車内でちょっと読みながら薀蓄を蓄える。雑誌のグラビアで観るような行く事すら夢のまた夢のような風景ではなく、よく見る素朴な樹木の写真から(著者自ら撮影したそうです)実際のイメージを湧かせながら。そんな形で入手した知識を、自慢げに語ってしまう「おじさん」のシーンを思い浮かべながら読むと、ちょっとほほえましくなってしまったのでした。

文庫サイズの新書とは、難しい専門書を読む時間などは確保できないけれど本を読むことが大好きな、僅かな時間を捻りだしてでも活字に生きがいを見出している方々へのご褒美の本でもある筈(もちろん、ポケットマネーで)。本書はそんな新書に時間を割いてくれる読者に対して、読書とは違った、人生の別用途にも応えてくれる一冊なのかもしれません。

<おまけ>

本ページでご紹介している、同じようなテーマの書籍を