今月の読本「科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎 講談社ブルーバックス)物理学史で綴る、数学が描く神の法則と残された摂理への想い

今月の読本「科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎 講談社ブルーバックス)物理学史で綴る、数学が描く神の法則と残された摂理への想い

1963年創刊の新書シリーズ、講談社のブルーバックスは、科学が大好きな方にとって、学生時代から常にその何冊かを手元に置き続けたシリーズだと思います。急速な進化を遂げる分野を扱うシリーズのため、扱われる内容も編集方針も大きく変化していく中、デザインを含めて、テーマ選定もリニューアルが頻繁になってきたブルーバックスとしても、ちょっと意外に思われる一冊をご紹介します。

科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎 講談社ブルーバックス)です。

著者の三田一郎先生は学生時代に両親と共にアメリカに居住し、そのままアメリカの大学、研究機関(フェルミ国立加速器研究所に在籍されていた事もあります)を経て、日本の大学での教職に就かれた方。日本でも有数の素粒子物理学者ですが、もう一つの顔として、クリスチャンとして教会の協力助祭(終身助祭)を務められている方でもあります。

本書は、もう一つの顔としての側面、クリスチャンとしての視点からみた、自らの業績にも繋がる、連綿と続く数学と物理学の歴史を人物史として読み解きながら、その発見に至る経緯の中で、彼らがどのように神の存在と向き合っていたのかを描いていきます。同じようなテーマの本は人文書にも何冊かあるかと思いますし、その著者がクリスチャンでる事も珍しくはないかとは思いますが、本書は日本人の物理学者、しかも聖職にある方による一冊と言う点が極めて珍しいかと思います。

ブルーバックスと言うフォーマットを考慮して、科学的視点は充分に盛り込みながらも極力平易に説かれる、コペルニクスから始める物理学の推移を綴っていく本書。日本人には判りにくいクリスチャンとしてのキリスト教の教義について冒頭の一章を割いて解説されますが、この内容から、本書はある重要な視点で貫かれている事が判ります。章末に死海文書の発見と修復の経緯を敢えて採り上げて、聖書の写本に対する異常なまでの正確さから説き起こしていく、信仰心としての神の存在と、その姿が綴られた聖書は、教会という組織や宗教という人が為した存在とは峻別して扱わなければならないという点。これらを渾然と扱ったり、両者を取り違えて扱うと、これまで多く述べられてきた科学者と信仰と言うテーマそのものを読み誤ってしまうという事が、本文中で繰り返し見出されていきます。

聖書に描かれていた内容から出発して自然法則を見出していく中、彼らは決して神の存在やその業を否定はしていません。むしろ、聖書を鵜呑みし、誤った理解に基づいた、人の集まりである教会や宗教者達がその想いを歪めてしまった事を指摘します。ギリシャ哲学による極めて科学的な視点で捉えられていた内容が、ローマ文化による変質と低迷を迎えた先に誤った理解へと導かれてしまったことを、ガリレオ裁判の経緯から明確にしていきます。その先にある、自然法則を神の言葉である数学としての方程式で表していくニュートンと、観測によってその姿を捉えようとしていくケプラー。測定、観測技術の進歩と共に、その事象へと繋がる原理を描く数学と、目の前に捕えた事象を表現するための数学という二つのアプローチが出てきますが、物事の根源へ至る想いは変わりません。其処には彼らの想いの側に常に神の存在が意識され続けた事を示していきます。そして、聖書に描かれた内容と実際との違いに触れる一方で、聖書としての神から与えられた啓示の捉え方が変わっていく、その過程で聖書の説く倫理観自体には何ら変わりはない事を明示していきます。

此処までは古典物理の上でのお話。丁寧に描かれる物理学的な記述も高校卒業程度の理解力で付いていく事が出来ますが、大きな曲がり角であるアインシュタインを扱う章からは、扱われる事象も、そのテーマに挑んだ科学者たちの神に対する認識も大きく変わっていく事になります。神の業ともいうべき、聖書に描かれた数々の説話を一つ一つ乗り越えていく過程から、神の摂理そのものに触れ、更には神の否定へと突き動かされる姿に迫っていく事になります。

この先の内容について、一応、物理学的な事象について理解できなくても読み進められるように配慮はされていますが、極力易しく表現されているにしても、直近のテーマについては第一人者の一人である著者ですら難解なとコメントせざるを得ない領域まで物理学的な議論を進めていく本書。ちょっと敷居が高くなっていく後半、本文は著者の専門でもある素粒子物理学の展開とアインシュタインや彼に続く科学者たちの理論展開と言うテーマに譲って、本書のテーマとなる科学者と神と言う内容はコラム的に取り纏められていきます。中でも本書の白眉と言える、著者の訳による物理学の巨星たちが語る神と物理学が葛藤する相克の断片を綴る「ソルベイ会議の夜」と呼べるであろう妙録と、晩年のディラックの変心。神の業を表現する手法である数学を用いて解き明かした先に、この宇宙における物理法則と言う形でその為し得た全容を描けるというスキームを受容していく姿を採り上げていきます。

ディラックの変心を採り上げた著者の想い。その想いは著者自身が50代に差し掛かってから改めて信仰に立ち返ったと述べている転機に繋がるもの。著者の研究における転機にある、ディラックの反粒子と、反物質に対してほんの僅か多く存在した物質から全てが生まれたとする仮定に対する、その僅かさの中に神の摂理を見出したことへの感慨を述べていきます。本書の帯にはノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊先生の一言が添えられていますが、著者が信仰への想いを告げた際に小柴先生が応じた懸念に対する回答として綴られた内容とも思える、科学者としての著者が神の差配を感じた瞬間。

歴代の科学者たちの最後に登場する、無神論者として評されるホーキングの態度とその研究成果について、専門家である著者が検証を加えながら(想定される読者が理解できるぎりぎりの範疇で)、過剰なまでの神を否定する思考に対する裏返しとして、強い神の存在への意識があったのではないかと評する、素粒子物理学者、クリスチャンとしての著者。最後に綴る、神の存在が思考停止と盲従を生む源泉であるという議論に対して、自ら学び、理解する事を旨として掲げた科学者として、そのような事は決してありえないと強い否定を述べた上で、むしろ何処までも手の届かない神の存在こそが、謙虚にその摂理を一つ一つ自然現象として解き明かしていく原動力となり得ると記して筆を置きます。

神の言葉である数学を操り、同じく神の啓示である聖書の忠実な注釈者、伝達者である事を願う助祭としての著者が、科学者たちが捉えようとしていた内容と、其処に込められた神の存在への想いとを綴る、少し前のブルーバックスのフォーマットを思わせる、より科学的な読み物としての側面にフォーカスした一冊。

後半を読みこなすのはちょっと大変ですが、優しく丁寧に書かれた宇宙物理学の歴史としても楽しく読める一冊の行間に込めた、著者の神への想いに触れながら夏の夜空に広がる星空に思いを馳せると、科学者達が追い求めたその姿が今までとは違って見えて来るかもしれません。

今月の読本『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA)日本人とキリスト教を巡るすれ違う二つの想い

今月の読本『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA)日本人とキリスト教を巡るすれ違う二つの想い

New!(2018.4.7) : 本書の著者、宮崎賢太郎先生(現:長崎純心大学客員教授)のインタビューが、版元であるKADOKAWAの文芸書紹介サイト「カドブン」に掲載されています。

ご自身の出自から、研究へ踏み出した経緯とカクレの皆さんとの交流、そして本書並びに一連のカクレキリシタンに関する執筆への想いを述べられています。

 

<本文此処から>

今年、長崎のキリスト教伝教関連の歴史遺産が世界遺産として登録される運びとなっています。

このユネスコの世界遺産登録。同じユネスコが関与する世界ジオパークでも同じような事が生じていますが、本来の趣旨と若干異なる点で指摘を受けることにより審査を受けなおす、内容を見直す事例が散見されています。

今回の登録の経緯に際しても、その受容から現在までの過程を俯瞰で捉えるのではなく、より禁教期を重視した内容に変更するようにとの指摘を受けて修正を経た上での申請となりました。

この指摘、ある程度事情をご存知の方であれば、キリスト教の奇跡としての側面を強く重視した指摘である点はご理解されているかと思いますが、この点について以前から敢然と誤った理解であるとの意見を述べ続けられる、地元長崎で長く研究を続けている方がいらっしゃいます。

今回ご紹介するのは、その方が所属される大学を離れられた後で初めて上梓する、これまでの研究成果を通じて、長崎における伝道と禁教、復活から今に至る歴史を、キリスト者(クリスチャン)として一般の方に伝える為に書かれた一冊です。

潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA角川書店)のご紹介です。

著者は長崎純心大学で隠れキリシタンの研究を30年に渡って続けられていた方。主に天草および島嶼地区を丹念に回り、現在でも信仰を維持されている方々の元へ繰り返し訪れてインタビューを行い、詳細にその信仰の全容を解明する研究を続けていらっしゃいました。

依然としてその全容を解明出来た訳ではなく、更には現在まで信仰を維持されてる方は著者の認識では僅かに80軒程度(厳密な形でとの前提)まで激減しており、もはや全容を把握する事は不可能になりつつあるという認識を示しています。そのような状況の中でフィールドワークを続けた記録は、本ページでもご紹介している前著「カクレキリシタンの実像」(吉川弘文館)で詳述されているように、その信仰は一神教(クリスチャンなので正確には三位一体)とはかけ離れた、先祖崇拝をベースに、シャーマニズムによる隠蔽性を秘匿と置き換えた、多神教の集合崇拝における一つの神としての「カクレ」であるとの認識を、キリスト者でもある著者は繰り返し示しています。

本書では、上記の認識に基づき、より一般の読者に向けて、隠れキリシタン(本書では著者の認識に従い、潜伏期はカクレキリシタン、教義としてはカクレ、一般名称としての現在の信者の方々を含むその信仰形態全般を、昨今の事情を鑑みて潜伏キリシタンと称します)の現在の信仰や生活と、禁教期における記録に残る信仰の姿を述べると共に、ザビエルの伝教から長崎における布教期、禁教に至るまでの経緯といった、日本におけるキリスト教の伝教を理解するために必須となる基本的な内容と、現在の信仰、特にカトリックとの関わり合いについて述べていきます。

伝教期に於いて、その大多数は集団改宗であり、満足な宗教的知識を持ち得なかった点。禁教期において伝え続けられた内容は、式文などには僅かにその面影が残るものの、内容は全く理解されずに唱えられていた点。一神教ではあり得ない、他の神仏と並べられて祀られるカクレの神。その延長で述べられる、現在の長崎におけるカトリック信者(全国でも最多の人口比)に含まれる禁教期を経てカトリックへ戻って来た方々の一部に対して、神父の方が指摘される「第三のキリスト教」と表現される「カトリックの檀家」との衝撃の発言。

本書の内容を初めて読まれた方は少し奇妙に思われるかもしれません。著者は明らかにクリスチャンの方なのですが、その著述内容は明らかに隠れキリシタンの信仰を自身の信仰と同じと見做される事を忌避されているように見えてきます。更には海外、特に同じクリスチャンを中心に、カクレの間で受け継がれてきた信仰を奇跡として捉える事に対して、その理解は浦上四番崩れに際して、それ以前の開国時にフランスから上陸した宣教師たちにより再改宗された際に捏造された印象であると、敢然と否定の意思を示します。カトリック教義との整合性に対する否定的な見解の先に、著者は隠れキリシタンの解説を大きく逸脱して、自らの信仰、教会を戒める数々の指摘を文中で繰り返し述べていきます。

カクレキリシタンが受け継いできた、そして今も潜伏キリシタンとして、更にはカトリックに復帰された方々の信仰すらも、本質的なカトリックとは異なると述べる著者。その一方で、奇妙なことに同じ文脈を用いてまったく逆の議論を始めます。これほどまでにキリスト教による教育環境の恩恵に浴し、キリスト教の風習に親しみ、国の象徴たる一族すらその宗旨と深い関わり合いを持っているこの国は、キリスト教(≒クリスチャン)に一番好感を持っているのではないかと。著者はその認識に基づいて、本論と同じくらいの力を注いで、なぜ日本人にキリスト教が受け入れられないのかを綴ります。

本書を表題や帯のように、隠れキリシタンの歴史とその姿を伝える本として捉える場合に、これ以降の内容はあまりにも本論と噛み合わなくなってきますので割愛させて頂きますが、著者が憂い、新宗教まで引き合いに出して議論される、僅かに人口比の1%にも満たない現在の教勢を語るに際して述べられる要因(即ち、カクレキリシタンが現代まで受け継いできた信仰心そのもの)。その指摘は肯定できる内容ですが、決定的に欠落していると思われる事、それは指摘されている内容(これは日本人であれば多かれ少なかれ自意識の中に潜在している事では)ではなく、それを「憂い」という視点で捉え続ける限りは、決して交わることは出来ないという事ではないでしょうか(完全に個人的な見解です)。

その豊富なフィールドワークによる研究成果から導き出された、世界遺産としての長崎のキリスト教伝教と今に至る受容の姿が正しく認識されることを願って綴られた本書。世界遺産登録を目前にした今、ロマンや奇跡という喧伝を離れて、改めてその歴史的な経緯に触れてみてはいかがでしょうか。

追記(2018.6.6) : 本書の著者及び著作の内容に直接言及して、カトリックとしての視点に対して疑問を投げかける著作が6月初旬に刊行されました。

フリーランスのライターの方が書かれた、第24回小学館ノンフィクション大賞の受賞を経て刊行に至った一冊「消された信仰」(広野真嗣 小学館)です。主に行月島の学芸員の方との間で持ち上がった、カクレの信仰がキリスト的かとの論点と、世界遺産登録に至る間に起った行月島の扱いへの疑念を辿ったルポルタージュ。既に本屋さんに並んでいますが、ご興味のある方へ(私は現状、立ち読みレベルなのでこれ以上は言及できません)。

 

今月の読本「キリスト教は役に立つか」(来住英俊 新潮選書)貴方に出逢う気付きを願って

今月の読本「キリスト教は役に立つか」(来住英俊 新潮選書)貴方に出逢う気付きを願って

何時もとはかなり毛色の違った一冊。

所謂、葬式檀家と言われる一群に属する私ですが、子供の頃から彼岸には両親の実家に当たる墓参を欠かさなかった母親に付き添い、その一方、やはり母親の影響で地元にあった小さな長老改革派教会の日曜学校にも僅かな年数ですが通い、(既に頭の片隅にしか残っていませんが)聖書も一通り読んでいたという、今時の日本人としてはマイナーな子供時代を過ごしていたせいでしょうか、神社仏閣や教会、自身は無くても信仰する宗教を持つという事に違和感を全く持たずに大人になったような気がします。

それでも、新井白石が好きな私にとって、キリスト教と信仰する方々はやはり彼岸の存在。歴史としての旧約聖書や新約聖書から繋がるローマ時代の歴史、絶大な影響力と特異な国家としての位置づけを今に至るまで保持するバチカン/ローマ法王(教皇)には強い興味があっても、その信仰に振り返ることは無かったと思います。

そんな中で手にした今回の一冊。この選書シリーズ特有の表題や帯の仰々しさはさておいて、ちょっと気になる「孤独」とキリスト教というテーマに惹かれて読んでみる事にしました。

今月の読本、「キリスト教は役に立つのか」(来住英俊 新潮選書)です。

前述のテーマにあるように、本書は神学書でもなければ、キリスト教の教義を綴った本でもありません。著者はローマカトリックの修道司祭(即ち独身です)ですが、社会人になった後に洗礼を受けて司祭への道を歩んでおり、その起点に於いては家族との大きな葛藤があった事も冒頭に述べられています。そのような葛藤を抱えながらキリスト者(この単語を全文で貫いていらっしゃいますので、それに従います)としての歩みを経る道程を振り返りながら綴られる本書は、著者の信仰への道をそのまま投影しているかのようです。社会的、文化的、歴史的にもキリスト教世界とはかけ離れた位置である日本に於いて、どのようにその道筋を綴れば良いのか。著者はその想いを二つのキーワードに込めて語りかけます、孤独と、それに寄り添う想いとしての神の存在。二つの間を繋ぐキリストという存在。信仰的に描くと強固な拒絶反応を示されるでしょうし、教義のお話や聖書の章句をいきなり並べるにも受容される環境が無い中で、精いっぱいのアプローチ方法として選んだ設定。全部で50の説話として綴られたその内容には、まるで中骨を抜いてしまったような印象を受けるかもしれませんが、要所にはしっかりとその想いが込められているようです。

冒頭から始まる、神の存在とそれに向き合うことの意味合い。願う事、悩みを告げる事、感じ、折り合う事。旧約聖書からの引用を用いて、そんな想いに意外なほどのユーモアを以て、人間臭く(すみません)応えて来たのかを示していきます。ただ、流石に三位一体については、これ以上はと述べて議論を避ける点について、日本人を相手にした場合にはどうにも解釈が苦しくなるのは、江戸時代も現在もあまり変わらないようです。その上で、プロテスタントとローマカトリックとの違いなのでしょうか、何に付けてもまずは肯定してみようという想い、あくまでも前向きに、大らかに包み込んでいく感覚を前面に示していきます(カルヴァンの予定説については微妙な表現を付与して本文で言及されますが、このおおらかなポジティブシンキングは少女パレアナにも繋がるような気がするので、プロテスタントだからその逆という考えは正しくないかもしれません)。その一方で、あくまでも修道司祭の方が書かれた物であり、そのおおらかさの揚げ足を取るような視点に対しては、突如として厳しい筆致で臨んでいる点も否定できません(第22節)。

ここまでは、あくまでもイメージに入る前の更に前段階。第2章からは具体的に信仰を身に着けるというイメージを考えていきます。第1章でイメージが湧かなかった方、感じるところが無かった方には苦しい内容になるでしょうし、イメージが湧いた方でもその位置づけ、考え方は容易に納得できるものではないかもしれません。特に自己との相対性を論じる部分は、相当の心根を持たなければ辿り着く事は出来ない領域に入っていると思います(著者自身も、ボーン・アゲインではなく、特に日本人にとってはゆっくりと、少しずつと述べています)。そんな中で一際目を惹いたのが第33節の部分。本書の核心と言える部分ではないでしょうか。本来であれば交わる事のない二人が暫し他愛もない事を語り合う。その他愛もない会話が生まれる事自体が、きっと始まりに繋がると強く暗示しているように思えます。何も自分の主義主張を振りかざす必要もなく、ひたすら聞き役に徹する必要もない。飲み屋の会話ではないですが、そんな些細な関わり合いの積み重ねがきっときっかけになると思えてならないのです。もしかしたら著者はそのような交わりのきっかけとなる場所としての、自身の教会を位置づけることを望んでいらっしゃるかもしれません(アメリカのメガチャーチには、説教以外の部分でそのような側面を強く感じます)。

その上で、3章に綴られた内容を読んでいくと、なるほどと理解に至る事が出来ます。著者が暗示するように、それを以てキリスト者に至る事は(特に日本では)叶わないかもしれません。しかしながら、人との関わり合いのスタートとして、そのきっかけとして、更にその先に見えてくる、紙の上に書かれた事、頭の中で考えを巡らせた事ではなく、確かな手応えとしての「共に生きること」へのアプローチとして、キリスト者である著者が語りかけてくる内容はきっと何かの気付きを与えてくれるはずです。

その上で、著者が伝えたいと願う気づきの先は、帯に付されたように、これらの想いと交わる事が無い、孤独の中に生き、自らの内にひたすら埋没していく人々への想いへと繋がっていくように思えます。やるせない想いを一人抱え込んでいる人が求める渇望感と、その空虚さの間にも神の存在と、それを繋ぐであろうキリストという存在があるという事と伝えたいという著者の想い。もしかしたら、そのような想いを抱き続けている方は本書を手に取る方々と対極に位置しているのかもしれませんが、その想いを届ける事は出来るでしょうか。

本書を読んでいて思い出した一冊『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』(斎藤環 ちくま文庫)。本書の終章で語られる、最も親密な関係としての人生のパートナーの大切さを語る部分以外において、驚くほどの相似性を見出す事が出来ます。すなわち、自分にとって安心できる状態を得る事が自己の確立にとって極めて大切だという事をどちらも指摘しようとしています(自我の確立と相対化)。その上で、本書に於いては無限大の相対化である神を相手として、その間を取り持つイエスと共に歩むという形を一つの解決策として示しているように思えますし、両書共にその先に人と交わり続ける事の困難さを克服する為に必要な道筋を述べているように思えます(ぼっちの私には、どちらも耳の痛い話が満載、なおかつ正論なので苦痛の極みではあるのですが)。

今月の読本「カクレキリシタンの実像」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)土着した最後の姿を看取るキリスト者としての想い

今月の読本「カクレキリシタンの実像」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)土着した最後の姿を看取るキリスト者としての想い

日本でキリスト教徒(ローマカトリック、正教、プロテスタント)の人口比率は近年、1%程度の水準で殆ど変化がないとの事ですが、日本の歴史上、もっとも信者の多かった時代は、禁教前の桃山時代とみられており、その総数は人口の3%程度、最大でも76万人程度とみられているようです。

何時の時代でも、日本ではマイノリティなキリスト教ですが、その中でも弾圧と粛清、禁教の時代である江戸時代におけるキリスト教信者は、現在では一般的に「隠れキリシタン」と呼ばれて、弾圧の中、宗教的な生活を守り抜いた一種の奇跡として、特に海外などでは賞賛を以て、捉えられる事が多いようです。

そんな「カクレキリシタン」の今を取材した貴重な一冊が、今回ご紹介する「カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)です。

カクレキリシタンの実像まず、このマイナーなテーマを一般新書として、極めて安価(2300円)で刊行された、版元の吉川弘文館様の英断に敬意を表したいと思います。歴史文化遺産登録絡みで刊行を決断されたことは、容易に理解できますが、どう考えても決して多くの冊数が望める内容ではない、このような研究書を一般向けに刊行されることは、社内的にも随分と議論があったのかと思います(そのような意味では、本書を日本で一番海から遠い、ここ信州の山里に、しかも新刊棚に表紙を向けて陳列された、いつもお世話になっている、岡谷、笠原書店本店様の選定眼にも感激しています。門外漢なので、読むの結構辛かったですが)。

著者は、長崎のカトリック系大学に奉職するキリスト者(クリスチャン、ローマカトリック信者)であり、正確な宗教的理解に基づいて、現在まで生き残ったカクレキリシタンの宗教的行事の調査を、25年もの長きに渡って行っています。その地道なフィールドワークによって得られた、カクレキリシタンの信仰と、自身の宗教的理解に基づくカトリックとしてのキリスト教の理解との相違について、本書は極めて丁寧に描いていきます。

どのような宗教行事が残っているのか、元となったカトリックの典礼とどこが異なっているのか、司祭もいないまま、だれが400年もの長きに渡って、教義を守って来たのか。

著者は主な調査フィールドであった行月島を中心として、広く長崎地方に広がるカクレキリシタンの皆さんの信仰生活を、出来うる限り広範に収録していっています。年々信者が減少し、厳しい宗教儀礼を維持することが困難になったために、解散を迫られる信者集団が増える中、著者は最後の記録を残すべく、精力的な取材を続けます。

同じカクレキリシタンでも、一浦超えるごとに、オラショも、行事も、信奉する神々の姿も、最も神聖でどの信仰集団でも最後まで継承されてきた聖水の取り扱いも、全く異なっている事に驚かされるとともに、厳しい規制の中で、口伝と記憶に頼る継承の限界を、まざまざと見せつけられます。

そして、海外のメディア等でも奇跡として扱われている、禁教時代を乗り越えて維持されてきた教義について、キリスト者である著者は冷徹な結論を導き出します。

「カクレキリシタンはキリスト者ではない」、と。

厳しい弾圧と、口伝と記憶に頼らざるを得なかった継承の結果、教義が崩れてしまったことを指摘しているのかと思われる方も多いかもしれません。しかしながら、著者は更に検証を加えながら、ザビエル伝承当初から、日本人にはキリスト教の教義が殆ど受容されていなかったと判断していきます。

八百万の神々を信奉する、先祖崇拝を規範とする日本人の信仰観に於いて、多くの神の中の一つとして、習合の一形態として受容されたと理解していきます。それはキリスト者である著者にとっては、非常に厳しい判断だったかと思いますが、キリスト者故の教義理解から判断すると、現在のカクレキリシタンの皆様が堅持してきた教義に否定的な見解を与えざるを得ないという、厳しい眼差しが見えてきます。

彼ら自身が、その習合の中で最も崇高な位置付けを以て堅持してきた、カクレの崇拝儀礼や諸道具、檀家制度の影響で、仏式の葬儀を迫られた故に、編み出した清めの儀式、多くは失われてしまったが、それでも毎週のごとく行われる宗教儀式の意味合い、その全てが本来の意味を失い、形式や式文にこそカトリックの僅かな香りが残っていますが、内容的には完全に日本人の信仰観に合されている事を、繰り返し行われた信者の方へのインタビューで明らかにしてきます。ローマカトリックの典礼の影を引きずった、先祖崇拝を基軸とした未開のアミニズムと。

更には、命を賭して守り抜いてきた信仰自身も、神への信仰ではなく、先祖崇拝を基底とした、先祖より受け継いできた崇高な伝承を後世に伝えることへの使命でしかないと著者は語ります。もはや、ローマカトリックの信者としては、その内容を受容しがたいという想いを重ねて。

キリスト者、特にクリスチャンの方々にとっては、殆ど失望にも近い結論が繰り返されていく本書ですが、その事について、最後に著者は自らの信仰、教会を戒めるような文章で締めくくっています。

それは、ローマカトリックはおろか、キリスト教全体が日本の社会に受け入れられない現状に対する、研究者としての発露。その中で、弾圧を潜り抜けて、本来の教義を失いながらも継承を続けてきたカクレの教義に対する、キリスト者としての羨ましさすら感じさせる想いが見え隠れしていきます。

最後の数ページを使って著者が述べている意見は、決して一般の方々が受容できる見解ではないかもしれません。でも、そこまでの解釈を迫られるほど、日本にキリスト教が受容されない理由が見いだせない、現在の教勢への焦りと、キリスト者としての深い悩みが見え隠れする一冊でした。

<お願いとお詫び>

  • 私自身、キリスト者(クリスチャン、牧徒、信徒)ではありませんので、本ページの記述に対して、宗教的に見た場合、多々の誤謬が含まれていると思われます。あくまでも、葬式檀家でしかない、無宗派の一読者の感想として、寛容に捉えて頂けますよう、お願いする次第です。明白な誤謬があれば、コメント欄等より、ご指摘いただければ幸いです。

<おまけ>

本ページでご紹介している、テーマに関連する内容、他の吉川弘文館様に関連する書籍の感想です