今月の読本「ルリユール」(村山早紀 ポプラ社)本を愛する想いを未来に伝えて

今月の読本「ルリユール」(村山早紀 ポプラ社)本を愛する想いを未来に伝えて

本屋さんで本を手に取るきっかけって何でしょう。

偶然見つけた作品もあれば、装丁に惹かれて手に取る場合も、書名に惹かれる場合もあるでしょうか(だからこそ、書名を自ら裏切るような発言をなさる著述には悲しくなってしまうのです)。

でも、これだけネットに情報が氾濫していると、その中から気になる一冊が出て来る場合もありますよね。

今回ご紹介する本の作者の方も、ネット上のある経緯で著作を知った後、実際に本屋さんで巡り合うことで最初の一冊を手にすることが出来たパターンでした。リアルの書店で全ての読みたい本を探すことは困難。でも、このようにして新たな作品にリアルの書店で出会う事が出来たのも、ネットがあった故の事でした。

そんな普段は決して読むことのない、児童文学を中心として活躍していらっしゃる村山早紀さんが、一般向けに出された新刊が、今回ご紹介する「ルリユール」です。

ルリユールとコンビニたそがれ堂「ルリユール」表紙と、初めて巡り合うきっかけとなった「コンビニたそがれ堂」を。

この聴き慣れない「ルリユール」という言葉、古くなった本の装丁を打ち直したり、新たな装丁を施したりすることを生業とする仕事の名称ですが、日本ではほとんど聞かない、せいぜい図書館の司書さんがなされる仕事、もしくは古文書の類の修復を行う人といったイメージが強いでしょうか。

しかしながら、西洋の図書館に並んでいる美しい装丁の本の数々を見れば判るように、そして日本にも蒔絵文化があるように、後世に自分が考えたこと、思い描いた記憶を記録として残す、すなわち著作物を末永く、美しく伝えて欲しいと願う著作者の想いは洋の東西で変わらないようです。

そして受け取った未来の私たちも、その先へ伝えていきたいと願い、修理し、新たな装丁を施して、また更なる未来へと委ねていくのです。

そんな本を介した、人の想いがバトンタッチしていく物語を、作者おなじみのフィールドでもある「風早の街」を舞台に紡ぎ出していきます。

そうはいっても、初めての読者にとっては知らない街の物語。秋のお盆を迎えた蒸し暑い海からの風が吹く街を描いていく物語は、主人公である中学生の少女の視点で丁寧な風景描写を重ねて行く事でゆっくりと進んでいきます。風景描写は少々スローペースなので、始めのうちは多少退屈に感じてしまうかもしれません。

そこはゆっくり丁寧に読ませることで、物語に引き込んでいく必要がある児童文学を主軸にする著者一流の導入手法。丁寧な描写のすべてにレトリックを込めている事が後になって判ってきますので、些細な描写にも気を配りながら読み進めていきたいところです。

ところで、本作は全体としては一つのストーリーとして成立していますが、同時に4人のゲストが大切にしている「本」の装丁を頼むために入れ替わりで「ルリユール」たる赤毛の外国人女性、クラウディアの前に現れていきます。主人公である瑠璃の物語は全ての章を通じて語られていきますが、最終章では本人自らがゲストの役を務めます。

そして、クラウディアと出会うために必要なルール、これは著者の作品を読んでいらっしゃる方ならお分かりでしょう。そして、登場人物すべて、主人公である瑠璃はもちろん、冒頭では超越的な存在に位置付けられているクラウディアでさえ逃れられないもう一つのルール、原罪とでも述べればよいのでしょうか、業といったりカルマとも呼ばれるような「心の影」を抱えて生きています。そして物語の裏側に常に見え隠れしている「死」の影…。

そんな心の影を登場人物に触れさせるときに著者は「とげのように心に引っ掛かるものを感じた」と語らせます。決して触ってはいけないものを触ってしまった時の後悔、慚愧、のようなものを容赦なく登場人物達は味わって行く事になるのです。

そして、登場人物たちがその苦しみを受け入れる事を容認すると初めて、僅かばかりの奇跡と一緒に救いの手が差し伸べられるのです。そう、少し古風な、今を生きる人々にとって共通の原風景ともいえる風早の街全体が一つの「許し」の舞台として機能していく瞬間を迎えます。

此処まで読んでいくと、「所詮私なんか救われる事はない」と自虐的に自らを卑下してしまいそうですが、著者はクラウディアの声を通してこう、語られせます。

「わたくしは運と日ごろの行いがいい方だし、何よりも—もしこの世界に神様がいるのなら、今日きたお客様たちのために、必要なものを用意してくださると思うわ。世の中というのはね、真っ当に生きてさえいれば、物語のようにうまくまわっていくものなのよ」

真っ当に生きる事さえ儘ならないこの時代に、それでもなお当たり前に真っ当に生きていく事を求めていく著者の眼差しには、正直、ファンタジーとは相反する非常に厳しいものがあります。児童文学者の矜持と言っても良いのでしょうか。それでも、真っ当に生きているとは正直考えあぐねてしまう依頼主や依頼主が本当に伝えたいと思っている相手に対しも、あなたの事を想っている人がいる限り、「奇跡」という名の僅かばかりの救いが分かち与えられることがあるんだという事を見せたかったのかもしれません。

短編シリーズですと、ここまでで終わり。登場人物たちは癒されてもなお、僅かばかり心に残った傷跡を擦りながらも日常に戻っていくのですが、今回は中編。最終章ではクラウディアと瑠璃、そして二人に繋がる人々の物語が語られていきます。

そう、お互いに過去の傷を持った二人が「大好きな本」のために、紡いでいく物語が語られていきます。

物語は瑠璃の姉の到着を機に一気に動き出していきます。冒頭から丁寧に積み上げていった風景描写のレトリックは存分に注ぎ込まれ、新たな世界も顔を見せ始めますが今回はちょっとお預け。

そして、クラウディアは過去にあった自らの蔵書を前にこう述べます。

「ひとは生きている本、生きている本が人なのです。世界に一冊きりしかない、もろくも貴重な存在。失われてはいけない。奪われてはいけない」

本を心から愛する彼女の想いは、彼女に想いを寄せてくれる人々あってのものであって、その存在はとても愛おしい物。心から愛する本よりも大切な物。そう述べさせる著者の寄り添いあう人々に対する想いと、良く言われる「手に入れた知識は誰にも奪うことが出来ない」その知識、あなただけの想いを形として後世に伝えていく本という存在への深い畏敬の想いが交差していきます。

多分、クラウディアは著者の思いの代弁者(この辺りは文庫版「コンビニたそがれ堂」の解説文を読むと判るかと)なのでしょうか。そして、その想いを繋げていくパートナーとして選ばれた(いえ、自ら進んで望んだ)瑠璃に対して、こう述べます(長文引用ごめんなさい)

—引用ここから—

美しい本の作り方を、教えてあげましょう。だからあなたが今度は知識の箱舟となって、私が教えた技術を未来に伝えてほしいの。そうすることで、わたしの心もわたしの技術も、遠い遠い未来まで運ばれていくことができるから。人類の文明が続く限り、航海をやめない箱舟。わたしもこれで、そんな箱舟を流すひとりになることができる

—引用ここまで—

作家として多くの作品を送り出してきた著者の本に対する想いの独白にも思えてくる一文です。本という名の箱舟を送り出す作家と呼ばれる人々の想いを。

こうしてクラウディアの弟子となった瑠璃は、亡くなってしまった「本当の」母親の為に作り上げた一冊の本をお彼岸の日に海に流します。本文は真っ白なまま。

クラウディアが語り続けてきた想いに逆行するような1冊目の本。その理由を瑠璃はこう語ります

「書きたい言葉がたくさんあったから。書かないことにしたんです」

クラウディアが今の著者を投影しているのであれば、瑠璃は過去の著者の写し鏡。ただ本が好きで、人に対して想いを伝えることが上手くできなかった、あの頃の自分に対して、ささやかなエールを送っているのかもしれません。

<おまけ>

  • 本書は好評だったようで、私が入手できたのは初版から1か月後の重版でした(探すの骨が折れたのです…何時も近づかない女性作家のコーナーは未知の大海)。
  • 最後までお読みになった方ならお分かりかと思いますが、物語はある程度継続できる形で結ばれていますので、もしかしたら続編も期待できるかもしれませんね
  • 著者である村山早紀さんのtwitterより、正式に2巻目の刊行が予告されていますね。来夏との事ですので、期待しながら待ちたいところです。発言リンクはこちらと、こちらにて
  • 以前ご紹介させて頂きました「コンビニたそがれ堂」の感想ページはこちら
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今月の読本「コンビニたそがれ堂」(村山早紀 ポプラ社)

今月の読本「コンビニたそがれ堂」(村山早紀 ポプラ社)

New!2015.3.3:これまでのシリーズ作品からの選りすぐりと、新たな描き下ろしを加えた愛蔵版がこの度刊行されることになったようです。既に著者の村山早紀さんがtwitterで書影の見本を公開されています。ご興味のある方はこちらもどうぞ。

 

<本文此処から>

ある方のtwitterを眺めていて気になっていたので、一度読んでみようと東京に出張に行ったついでに探して購入した一冊。文庫では珍しいポプラ社より刊行されたシリーズで、初出も児童書の「コンビニたそがれ堂」(村山早紀 著・ポプラ社)。

コンビニたそがれ堂本編は150ページちょっとと非常に薄い本ですが、児童向けの書籍に合わせたフォーマットであったこともあり、僅かなページ数で5編のエピソードが綴られています。

帯にあるように児童書としては大変に好評であったようであり、昨年末に刊行されたシリーズ4冊目は全編書き下ろしでページ数は2倍以上と児童書発祥とは思えない本格的な小説へ成長しているようです。

シリーズ1冊目の本書は本当の意味で「児童書」からの出典であり、帯にあるように所謂「癒やし系」の内容なんだろうなと、気軽に出張帰りのあずさ号の中で読み始めたのですが正直、とても重かったのです。

お客さんが欲しい物なら何でも手に入るコンビニ「たそがれ堂」。夕暮れ時、何か強い想いを抱いた物語の登場者達が、ふと振り返るとそれは現れる。

愛想の良い店員さんに諭されるままに想いを語り出す登場者達。そこには「ある想い」に対しての切ないくらいの未練さ、心苦しさ、感謝の念が語られていきます。

普段の生活の中では、これらの「想い」を必死に押し殺し、忘れ去ろう、振り払って次に進もうと悶え、苦しむのでしょうが、店員さんは優しくも、残酷にその「想い」に繋がる商品を登場者達に見つけ出させます(お代が5円なのは…判りますよね)。

購入した商品を受け取った後、登場者達はリフレインのように「ある想い」に再び巡り会い、そして自らの想いをその中で昇華させる事で、再び日常へと戻っていきます。

取り上げられている5つのお話はどれもファンタジー小説ならあり得そうなシチュエーションですが、たった一つ違うところがあるとすれば「失われた想いに再び巡り会う」事でしょうか。

そして、「心からそれを望んでいる」人だけが再び巡り会うチャンスを得られるというファンダジー故の残酷な設定に戦慄が走るのです。

厳しく自戒をする人、心から真心を願う人、自分の想いを貫こうとする人、誠意と愛情に応えたいと思う人、強く、強く思いを馳せることが出来る人…どれも一筋縄ではいきません。

それでも想いを馳せ続けた人にだけ、ほんのちょっとの「慰め」を与えてくれる存在、「赦し」と表現すれば良いのでしょうか、を与えられた人達だけが得られる一瞬の安息をファンタジーに昇華した物語なのだなと、感じていました(これは宗教的な説話にも通じる内容ですね)。

それ故に、想いを馳せる事などとうに忘れ、他人の想いを握りつぶし、薄汚れた心で現実を這い回り、生き残ることだけに汲々としている自分にとっては余りにも眩しすぎる物語だったのです。

登場人物達が「赦し」によって変化していく心境に触れるたびに、心が強く締め付けられていくのです。「どうして自分もそうできなかったんだろうか」「もっと優しくしてあげられなかったんだろうか」と。

薄暗いあずさ号の中、街の明かりが徐々に減って車窓が黒々した夜の森を写す頃には読むほどに苦しくなっていく自分がそこにありました。

<おまけ>

  • 「赦し」の話と感じたのは「世界名作劇場アルプス物語 わたしのアンネット」のストーリーに通じる物を感じたからかもしれません(キリスト教文学には全く疎いのですが)
  • 本文の短さに対してちょっと長めかな?と思わせる解説ですが、作者が過去を振り返って「読みかけの本の続きを読むために生きていた」という一文に思わずページをめくる手が止まりました。そこには過去ではなく、たった今も自分の心の底で燻っている「想い」が綴られていたからです
  • 本作を知ったのはあるアニメーション作品制作者の方々がtwitterで会話をされていたのを見かけた時に、作者の方が設定に関わっていたことを知ったことがきっかけです。今回、初めて読ませて頂いたのですが、なるほど仰っていたことが何となくですが判るような気がしています(うわべだけだと思いますが)