今月の読本「黄色いテント」(田淵行男 ヤマケイ文庫)澄んだ言葉が響く山に抱かれたナチュラリストの視線

今月の読本「黄色いテント」(田淵行男 ヤマケイ文庫)澄んだ言葉が響く山に抱かれたナチュラリストの視線

安曇野のナチュラリストと称され、豊科町に居を構えた山岳写真家、細密画家。高山蝶の研究でも知られる田淵行男氏は、数多くの著作を残されていますが、その多くが山岳写真や蝶、昆虫類の画集や写真集で占められています。

三十数冊になる著作の中で表題と共にひときわ異彩を放つ一冊、著者唯一のエッセイ集と称される一冊が、この度文庫に収蔵される事になりました。今回は「黄色いテント」(田淵行男 ヤマケイ文庫)をご紹介します。

本書のあとがきを読んでいくと、その成立には長い紆余曲折とそれこそ一冊の本が書けてしまうくらいの著者が執筆に腰を据えるまでのエピソードが添えられています(この辺りの経緯は、数年前に制作されたNHKのドラマや、同じ版元から刊行された「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」を読んだ方が良いのかもしれません)。

実に戦前から1980年代初頭までに渡る、雑誌に寄稿されたコラムを含む一連の執筆作品を30年近く書き溜めた書き下ろしに追加して再編集したエッセイ集。山小屋でのいびきや山中での河畔の音は顕著に気になると回想するように、やや神経質で完璧主義者で知られた著者らしい、歳月の推移を感じさせない簡潔でかつ、透徹な文体で綺麗に整理、再編成された、著者自らが監修する、山岳、自然観察語録と呼べる一冊に仕上がっています。

こう書いてしまうと、ちょっとお堅い印象を持たれてしまうかもしれませんが、後半は版元さんが今もっとも得意とされている山の怪談・奇談のオンパレード。特に本物の山師たちとの山小屋での一夜の話など背筋どころか首筋まで寒くなりますが、山でしか体験する事が出来ないちょっとユーモラスな内容も綴られていきます。

写真や絵で表現することを旨とする著者による、文章を連ねる事でその想いを表現する本書。山での貴重な経験から始まり、著者の主たるテーマとなる高山蝶と密接な関係にある高山の花や樹木たちを語る前半。浅間山への想いと大雪山の調査行を中軸に置き、後半は前述の怪談・奇談やご本人のごく身近な山での心象と言ったエッセイらしい内容を集めて、一編十数頁で纏められた短文がテーマごとにぎっしりと詰め込まれています。

著者をご存知の方であれば、全編を通して読むという形より、むしろご興味に近い、気に入られたテーマの章をつまみ食い的に読まれる方がより楽しめる編集スタイル。今回の文庫版収蔵に当たり、ページ数の都合(丁度400頁、ジャスト1000円への配慮でしょうか)で残念ながら6編がカットされており、その中には「山とカメラ」が含まれているのは、山岳写真に関する想いを綴る部分があまり多くない本書にとって痛恨ではありますが、より多くの方に著作を手に取って頂くにはやむを得ない処置だったようです(親版の編集者の方が外部の編集者として今回も協力、解説で経緯を述べられています)。

表題にある著者のテーマカラー「黄色いテント」を背負い、山での単独行動を好み、山岳写真を撮りながら、貴重な高山蝶の観察、収集を続けた、日本のナチュラリスト創世記を生きた著者の活動。

偶然に出会ったライチョウ親子の縦列をハイマツの中に追いかけ、アルビノの高山植物を探し求め、行き交う道沿いに連なる木々に名を付け枯れ木となった先まで愛おしく観察する。山中でビバークしながら撮影のチャンスを待つ間も山々の移り変わる姿に目を配り続け、咄嗟の変化から得た機会を物にした大きな充足感に満たされる想い。添えられる写真と無駄のない透き通った筆致で描かれる山を往く姿を綴る文章は、何処までも澄んだトーンに満たされています。

その一方で、噴火中の浅間山火口まで3度も登頂し、山ではザックに入れる程のその山体を模した大きな石を拾っては自宅に持ち帰り、現在では許さない高山蝶を僅かな手続きで採取する一方、ケルンの林立には苦言を呈し、古の静かだった山への懐かしみを込めた筆致。特に執筆当時の登山ブームに辟易する一方で安易な登山者たちへの警句を発し、今でも議論が絶えない高山の絶滅危惧種たちへの接し方やその行動には、現在であれば自制を求められるどころか、社会的な非難を浴びる事は免れない内容も綴られています。流石に刊行年が1985年と自然環境保護や登山の安全性を強く叫ばれるようになった頃であり、著者は文中でその蛮行を反省する記述を添える一方、自然環境への眼差しまでも曲げるつもりは無い事をはっきりと述べていきます。

既に著者の時代でも減少が著しかった高山植物やその植物たちや木々を生活の糧とする高山蝶。その一方で容易に餌を得る事が出来る登山者たちの残飯を執拗に狙い続ける大雪山のヒグマとテントに襲来する鳥達、シマリス。一度餌を与えると小屋の中まで侵入してくるキタキツネ。著者からの手渡しで容易に餌を採る北岳のイワヒバリ。

静かな山の姿を独り占めしたいという、先駆者としてのちょっとした我儘心も見え隠れする一方、その自然の中に人が踏み入れれば容易に取り込まれていくことを包み隠さず述べる筆致。中盤の一節「コリヤス幻想」とそれに続く著者のベースである北アルプスを離れて大雪山での調査行から沸き起こった想い。そのような姿を全否定してしまう風潮に対して「自然は遠くにあって思うもの」にしてしまってよいのかという、山に抱かれ続けた著者の真摯な想いが述べられていきます。

山中に往く事を良しとし、抱かれつつ見つめ続けた雄大な姿をカメラで、愛おしく観察を続けた蝶たちを細密な絵筆で捉え続けた著者の眼差しが文章として綴られる一冊。自ら踏破し、山々に抱かれた先で向き合った繊細にして透き通った視点は、自然を愛でつつも常に折り合いを付ける事を求められる現在を生きる我々にとっても変わらない示唆を与え続けてくれます。

著者が終の棲家とした、豊科(現在の安曇野市)にある田淵行男記念館。実は田淵行男賞を受賞した写真家さんの受賞記念展示を見に行くために訪れたのですが、記念館に展示された当時の赤外写真と添えられる透徹な言葉にすっかり圧倒され、魅了されてしまったのが、著者を知る切っ掛けでした。

本書の解説において原著の担当編集を務めた方が絶賛する、生誕100年記念の展示会の為に制作された図録「生誕100年記念 ナチュラリスト・田淵行男の世界」(東京都写真美術館:2005)。展示会が開かれていた地階の展示室真横にある閲覧コーナーで、見学者の足並みが途切れるまで読み耽っていました。

どうしても欲しくなって購入した手元にあるこの一冊、実は田淵行男記念館で販売されていた最後の一冊です(職員の方から伝えられました)。小雪が舞う中、かなりの後ろめたさを抱えながら帰路に就いた事を今でも思い出す、ちょっとほろ苦い思い出。全く足元にも及びませんが、著者も足繁く通った同じフィールドでカメラを手に取る私にとって、写真が何を伝えるのかという意味を今も語りかけてくる、大切な一冊です。

 

今月の読本「白神山地マタギ伝」(根深誠 ヤマケイ文庫)変わり続ける自然遺産の中を生きる過去と今を結ぶ一頁

今月の読本「白神山地マタギ伝」(根深誠 ヤマケイ文庫)変わり続ける自然遺産の中を生きる過去と今を結ぶ一頁

日本における世界自然遺産登録の先駆となった白神山地。そこは古くから山を生活の糧として生きてきた「マタギ」と呼ばれる人々が暮らす場所でもありました。

白神山地の北側、青森県の目屋に暮らしていたマタギ、故・鈴木忠勝氏は最後の伝承マタギとも称されますが、彼を死の直前まで取材し続けた、同じ弘前に生まれたアルピニストの著者による一冊の本がこの度、文庫に収蔵されて広く刊行されることになりました。

今回ご紹介するのは「白神山地マタギ伝」(根深誠 ヤマケイ文庫)です。略歴をご覧頂ければ分かりますように、著者は著名なアルピニストにして白神山地の自然保護運動の先頭に立って活躍された方。数多くの山岳関係の著作も有されています。

その中で今回、この作品が文庫化されたのは、ちょっとしたブームになっている山の伝承や怪異関係の本でヒットを飛ばした版元さん方針の一環だったのかもしれません。本書にもそのような物語が数多く語られていますし、特に白神山地の秋田側で聞き伝えられた内容については前述のシリーズとなる一作「マタギ奇談」と直接内容が重複する部分も含まれます。

では、本書がそのような「マタギ」の伝承を守り続けた方が炉端で語るような物語が淡々と綴られているのかといいますと、かなり様相が異なります。氏と同じ津軽出身者で、山歩きを熟知した著者に通じる思いがあったのでしょうか、著者の弁によると、兄弟や息子(マタギではありません)にすら語らなかったと称する、今は完全に失われた、山での生活や猟の姿を語る言葉を克明に汲み取っていきますが、本書のもう半分はそれとは異なる思いが綴られていきます。

全国的に見ても極めて稀な、2度にわたるダム水没に直面した地元の姿に対して、暗側面を突くルポルタージュが綴られる冒頭。マタギの伝承物語が始まるであろうと思う読者のややもすればファンタジーな想いを即座に挫くような内容から始まる本書ですが、表題と写真から手に取った、マタギ達に伝えられてきた山で暮らす人々の姿を彼らの言葉で語られると考えていた読者に対して、著者の経歴は単純にはそれを許さず、随所にこのような切り口の筆致を加えていきます。特に本書の冒頭と後半は、その表題とは異なる、別の一冊にも思えるほどに著者の白神山地そして、地元の山々やそこに暮らす人々への表裏を併せた想いを綴ります。

自然保護活動の先にやって来た、山での生活自体を否定する、保護という名のもとに行われる入山規制と彼らが残してきた山での暮らしの痕跡、杣小屋の消滅。「マタギ奇談」においても最後で語られる内容と同じことが、かの地を歩き慣れた著者によってより克明に、実態感を以て描かれていきます。山で暮らす人々が行き交うことで維持されてきた杣道の脇に立つ木々に刻まれた、自らが歩いた跡を示す痕跡。当たり前のように語られる、魚止めの滝の上流に彼らによって放たれ、その場所を新たな生きる場所として代を重ねて育まれ続けるイワナたち。山と麓の人々を繋ぎ現金収入の糧ともなった、正に「山師」たちと鉱山の存在を菅江真澄の踏破した足取と事績に乗せて綴る。メインのテーマになるであろう、クマを狩り、山に生きる姿自体にも、現在の我々が考える「狩猟」「ハンター」とは全く別の世界、流儀の中に生きていたと述べていきます。

ここで、著者は現在の「マタギ」という言葉自体への疑問を投げかけていきますが、本書で語られる鈴木忠勝氏自身も一時期サハリンに出稼ぎに出ており、著者はマタギの世界に入ったと綴る熊撃ちも、本来であれば父親のように何れかのマタギに弟子入りして伝えられるものを、自ら覚えたとされています。そのような意味では、本書で語られる彼自身の生き様も、刻々と変わっていく時代の中の一ページであり、著者が訴えかけ、帯に冠される「伝承マタギ」とはまた別の姿なのかもしれません。

白神山地を愛し、守ることに情熱を傾け続ける著者による、最後のマタギが残した言葉を借りて綴られる、奥深い奥羽の山々に生きる人の記憶を、そのままの形で今に繋げようと願う一冊。その想いと現実を伝える事は決して簡単な事ではないかもしれませんが、本書を手に取られる方にとって、さまざまに伝えられる自然遺産と其処に暮らす人々の姿に、もう一つの見方を与えてくれる一冊です。

 

今月の読本(特別編)最後という名の未来を願った名著「職漁師伝」を経て、その一冊は今に続く姿を刻み込み文庫へと『溪語り・山語り』(戸門秀雄 山と溪谷社)

今月の読本(特別編)最後という名の未来を願った名著「職漁師伝」を経て、その一冊は今に続く姿を刻み込み文庫へと『溪語り・山語り』(戸門秀雄 山と溪谷社)

本ページでもご紹介している、今やほとんど失われてしまった、川をその生業とする人々の語る物語を、同じく川をフィールドとする釣り人のとして、同じ視線で、同じ河畔、溪に共に佇みながら、丹念に聞き取っていった記録と貴重な写真で綴った一冊「職漁師伝」(農山漁村文化協会(農文協))。その原点ともなった、当時の雑誌連載記事を一冊に纏めた書籍がありました。

著者が多くの原稿を出稿されていた山と溪谷社から丁度平成と年号が改まった後、バブル崩壊の足音が忍び寄ってきた平成二年(1990年)に刊行された『溪語り・山語り』(戸門秀雄)が、遂に新生ヤマケイを打ち立てる起点となったヤマケイ文庫に収蔵される事になりました。

編集者の方もこのように推されている一冊。山に纏わる物語や、山村、そして川、渓流釣りに関する書籍は数多ありますが、実際に一緒に溪を歩きながら、更には山の中に掛けられた小屋での語り合いを記録された物語は、民俗学を掲げる方々が一瞬で霞んでしまう程の、山で、川で暮らす人々が工夫を凝らした道具に対する知見と豊かな説話を積み重ねており、ニュートラルな筆致と併せて、他に追従を許さない独特の著述感「日本の溪と山を語る」世界を築き上げています。

本書が更に嬉しい点は、「職漁師伝」では表題の関係上割愛された、広範な川と山に関わりながら生きる人々の物語が語られる点。上田の伝承毛鉤に相木村の計算漁、伊那谷の虫踏み、そして井伏鱒二と下部の床屋さんの物語。一度聞いてみたかった、地元に残る川の物語が続々と描かれていて、多少なりとも地理感のある方であれば、活字を追うだけで、その風景が浮かび上がって来るようです。

更には、尾瀬の風物詩となった背負子さん発祥の物語に、カーボン竿を敢えて手中にする竿師・正勇作氏の苦闘、そして今最も話題となっている熊たちと山の人々の物語。山と川に纏わる実に広範な物語が描かれていきます。

このように書くと、30年近く前に刊行された本を通して、単にノスタルジーに浸るための一冊にも見えてしまいますが、著者の筆致の素晴らしい点は、ノスタルジーに留まらず、その先への想いを込めて、実情を述べていく点。著者が最も気に掛け続けている、最初に取り上げられる雑魚川と広範な奥志賀の山中で活躍した、往年の職漁師の系譜を継ぐ人々が先頭を走る渓流保護の実情や、魚止めの滝の上に住まうイワナ、そして山女と名のつく山村の川で交じり合うヤマメとアマゴ。会津も更に奥地の檜枝岐、そこらか更に渓流の奥深くに構えた山椒魚獲りの燻製小屋にまで大学の研究者と呼ばれる方々が押し掛けて大量の山椒魚の燻製を入手していく(発育不良の治療薬になるらしい)という、山里の物語が、最先端の話題にも繋がる事を示していきます。

そのスタンスは文庫化に当たっても貫かれ、全15本のテーマで語られる全てのお話について、数行ずつとはいえ最新の動向を載せいています。その中で、漁の規模が小さくなったり人が入れ替わりつつも、殆どのテーマに於いて30年近くを経た今でも、人々と山と川との関わり合いが続いている事を確認していく点は、本書が正に今に繋がる一冊である事を雄弁に語るかのようです。

山と川の流れがある限り、人がその場から去らない限りきっと続いていく物語の、失われようとする一面と、今もしっかりと息づいていることを再確認させてくれる本書、もし少しでも山や川に思い出がある方であれば、きっと楽しく、そしてちょっと懐かしくもその姿に、彼らの生き様に、今に力強く生き続けている物語に励まされる一冊かもしれません。

溪語り・山語りと職漁師伝

<おまけ>

本ページより関連する書籍のご紹介。

今月の読本「山の仕事、山の暮らし」(高桑信一 ヤマケイ文庫)哀惜の先はきっと今に続くと信じて

今月の読本「山の仕事、山の暮らし」(高桑信一 ヤマケイ文庫)哀惜の先はきっと今に続くと信じて

最近の文庫ブーム。各社から趣向を凝らしたシリーズが刊行されていますが、その中には「名著復刊」を標榜した文庫シリーズも見受けられます。王道ですと講談社学術文庫はこのスタイルを長らく続けており、既に手に取ることの出来なくなってしまった名著を手軽に楽しめるシリーズとして根強い人気がありますし、最近では文春がこれに追随する動きを見せていますね(文春学芸ライブラリー)。

そんな中で、異色の文庫シリーズを展開しているのが、現在はインプレスグループ傘下に収まっている山と渓谷社が刊行を開始した「ヤマケイ文庫」です。山と渓谷が得意とするネイチャー系の刊行物が揃いつつあるシリーズですが、収蔵される原著が山と渓谷社の刊行物や雑誌連載の記事に留まらないのがポイント。版元の関係で大手の文庫シリーズには収蔵され得ない、中小の専門書籍を扱う版元から刊行された作品や雑誌連載の単行本化作品などの再販が絶望的で、大規模な書店の棚でも探すのは極めて困難なこれらの刊行物(釣り具屋とか、アウトドア商品のお店にあったりするんですよね、意外と)を、文庫として改めて楽しめるようにしてくれている、ちょっと嬉しいシリーズです。

ヤマケイ文庫ラインナップ

文庫の帯にあります、現在の刊行ラインナップです。なかなか興味深いラインナップが揃っていて、選ぶのにちょっと困ってしまうくらいです。この中で「山でクマに会う方法」「空飛ぶ山岳救助隊」(この2冊はお勧めです!)「日本の分水嶺」は既読です。できれば、海関係の本も混ぜてほしいなあ…。

そんな貴重なラインナップを有するヤマケイ文庫の中でも、高い人気を誇る(2013年3月刊行で、現在既に4版。この手の文庫本で重版が出ること自体稀な筈)一冊が、今回ご紹介する本です。

山の仕事、山の暮らし

山の仕事、山の暮らし」(高桑信一 ヤマケイ文庫)です。

著者の高桑信一氏は、山岳関係や渓流釣りのライター、写真家として極めて著名な方で、多数の雑誌連載や、書籍の執筆をなさっています。本書もそのような中で、釣り人社の別冊雑誌「渓流」に連載されていた記事を単行本化した作品を元にしています。

釣り雑誌、特に渓流関係の釣りを扱う雑誌と、このような山仕事をテーマにした記事は極めて相性が良いようで、逆のパターンで「山と渓谷」に連載されていた、渓流を舞台に職業として漁を行う山の人々をテーマに取材した連載を単行本化した「職漁師伝」(戸門秀雄 農文協)といった本もあります。

本書も、そのような類書同様、失われつつある(本書の連載は1993年から2002年)山で暮らす人々の営みを、その職業、作業を通じて叙述することを目的としています。また、取材されている場所は著者の活動フィールドである東日本、それも群馬、新潟、福島から東北にかけての一帯にほぼ限定されていますので、所謂照葉樹林文化との関連を期待されて読むと、少々戸惑ってしまうかもしれません。東日本に在住の方、もしくは現時点で最も山暮らしの文化が色濃く残っていると思われる、深い降雪と、四季の営みを明確に見せる、北関東から南東北地方の山暮らしの風物に興味を持たれている方に向けられて書かれていると考えてよいかもしれません。

そして、書かれている内容は、あとがきで述べられるように、滅びゆく山棲みの人々を描き留めることを目的としていたため、多くは哀惜の筆致に包まれています。著者が述べるように、本書で取り上げられた人物、そしてその山での営みの殆どは既に今日では失われてしまっているかもしれません。そのような捉え方をすると、本書は著者のいうところの最後の姿を残すための哀愁のこもった記録集になってしまうのかもしれません。只見のゼンマイ採り、行き止まりの湿原を前にした峠の茶屋。足尾のシカ撃ちに桧枝岐の山椒魚採り…。継承者もいない、僅かに残ったこれらの山仕事の最後の日々を伝える話が綴られていくと、寂寥の感すらしてくることは、致し方ない事だと思いますし、読んでいて少々辛くなってしまいます。

でも、本書の魅力、そしてこれほどまでに重版を重ねている理由は、著者があとがきで述べているような、これら「哀惜への共感」なのでしょうか。いえ、くそ生意気にも、それは違う、と断言させて頂きたいと思います。

確かに、本書の前半で取り上げられた人々の暮らしはもう既に残っていないかもしれません。しかしながら、中盤以降(奥利根の山守り)辺りからの取材記は、当時であっても現在進行形の物語。山を舞台に、これからも生きていこうという人々の物語が綴られていきます。山を垂直に利用することで四季を追った養蜂を成り立たせる養蜂家、会社に自ら持ち込んだ炭焼きの技術をサラリーマン引退後に自ら引き取って続ける決心をした山を暮らしの場とするサラリーマン、要救助者が減った今日でも救助の最前線で指揮を執る隊長。

更に後半では、著者よりも若い世代で山で住むことを決心した人たちと、彼らに伝承を与える人々を追った取材記が続きます。そこには、ノスタルジーで閉鎖的と思われる山村風景だけに留まらず、山岳ガイドを兼ねる気鋭のアルピニストや、若い山小屋の守り人、首都圏に向けて積極的に出荷する花卉園芸家などの取材を通して、山暮らしというのは、実は昔から平地に住んでいる人との繋がり(経済的交流を含む)なしには成り立たないことを暗示させていきます。特に、最後の章で登場する秩父の天然氷は、今や夏冬両方の風物詩としてTVで毎年のように取り上げられるようになりました。

本書の続編として、少し標高を下げて山里に暮らす人々への取材を纏めた「希望の里暮らし」が上梓されたのも、本書が決してノスタルジーだけではない、その先に新たな暮らしを求め、見つめている人々たちへの著者の温かく、そして希望を込めた眼差しがあったからこそではないでしょうか。

本書は前述のように、読み始めはかなり重たい雰囲気が漂うため、決して読んでいて気持ちが良いものではありません。しかし、後半にかけて登場してくる人々の輝きは、山に抱かれて生きていく事にノスタルジーも、一方的に否定もする必要はないと思わせるだけの説得力を持って訴えかけてきます。著者がいみじくも述べているように、売り出された田舎の中古物件はそれらに対する憧れの残滓なのかもしれません。でも、その残滓を乗り越えてでも移り住む人々が止まない事自体に、そして彼らが本書を見つめる脳裏には、本書が秘めているもう一つの魅力がはっきりと映し出されているのではないかと感じているのです。

そこには彼らが望む「本当の暮らし」に対する直視すべき非情な厳しさと、決して消えることのない、僅かばかりに続く、希望の道程が。

<おまけ>

本書と併せて読みたい一冊。入手性に難があるのですが、本書にご興味のある方であればきっと興味深く楽しめると思います

その他、本ページでご紹介している、本書のテーマに関する書籍を