今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

今月の読本「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)二人の改革者の先に世界を周回したカトリックは日本から太平洋を越えて

昨年は宗教改革500年と言う事で、日本でもルターを始め中世キリスト教に関する多くの書籍が刊行されています。

日本人にとってはどうしても馴染みの薄いキリスト教世界とその歴史。今回ご紹介するのは、長くその研究を続けられ、日本にその姿を紹介され続けてきた研究者の方による一冊です。今回は「宣教のヨーロッパ」(佐藤彰一 中公新書)をご紹介します。

本作は、同じ著者の方による執筆で2014年から刊行が続けられている「ヨーロッパ」シリーズの最新作(次回作もあるらしいです)。これまでに以下の3冊が刊行されています。

今回の一冊も副題に[大航海時代のイエズス会と托鉢修道会]という副題が添えられており、シリーズに一貫した著者の専門分野である中世修道院の世界を軸に描いていくように見えますが、内容は少し異なります。

研究テーマ故かと思いますが、カトリックに対して強い思い入れがある事が明瞭に判る著者の筆致。しかしながら本書の前半はその教会を永遠に分かつことになってしまった、ルターからカルヴァン、そして英国国教会に至る宗教改革の推移を歴代の教皇や世俗の君主たちの動きと対比しながら綴る事に注力していきます。

此処で著者が指摘する点が、所謂贖宥状に対する義憤的な表現がなされる宗教改革の発端について、それ以上に各地の司教職を兼任し、その収益である膨大な聖職禄を運用する聖職者たちが金銭行為に携わる事の憤りと、兼職により教会で満足な礼拝も行われなくなったことによる、信仰心の希薄化と教会の本義である、信徒に対する霊的な救済がおざなりにされていく憂いである事を指摘します。

修道院の研究者である著者が明確に指摘するように、ルター自身も自省的な修道的生活に明け暮れた先で聖書に立ち返る事を見出した事は良く知られており、決して新たな宗派を求めていた訳ではない筈でした。しかしながら前述の聖職者たちの姿とモザイク模様であった神聖ローマ帝国、教皇権力との駆け引きの先に、本人の意思を越えて、その改革が広がっていく姿を、当時のヨーロッパ世界の複雑な政治状況を含めて丁寧に書き起こしていきます。

外から見るとキリスト教内部の世俗を巻き込んだ主導権争いにも見える一連の宗教改革の推移。しかしながらカトリックの視点で描いていく著者はもう一つの見方を示していきます。宗教改革によって進取の精神を持ったプロテスタントと旧態依然なカトリックと言う誤解しがちな視点を明確に否定するもう一つの改革。宗教改革期を含む18年にも渡り続いたトレント公会議がもたらした、ルターを始めとしたプロテスタントから投じられた疑問に対して明確な反論を示す、カトリック改革としての宗教的覚醒(聖職禄の問題を残しながらも)。それこそがキリスト教、カトリックが世界に羽ばたいていく起点となった事を示します。

そして、我々日本人にとってキリスト教(カトリック)と接触する発端にあったザビエルと彼も創設に携わったイエズス会。ここで著者はもう一人のキリスト教を改革した人物として、その創始者であるロヨラの出自をイエズス会の成立に添えて述べていきます。ユーラシア東方世界で大きな足跡を残したその布教と信仰はカトリックの本質を伝えているように思われますが、前述のルター以上にとても興味深い内容が示されていきます。

騎士を目指し、戦傷で右足が不自由になった後で巡礼者から求道の道に入ったロヨラ。ラテン語の教養不足を補うために学び続けることになるきっかけが、東方、聖地巡礼への強い想いからであったことを示していきます。そしてイエズス会の根幹を成す、彼の信仰の実践を認めた『霊操』。新書としては極めて珍しいかと思いますが、本書ではこの内容を丁寧に解説することで、一度はドミニコ会の異端審問にも掛けられ投獄もされたロヨラとその仲間たちが実践した特異な信仰の姿(ドクマティックとも)を示します。そこには彼が決別したはずの騎士としての残影が会則の根底にある「神の戦士」として活動する姿に映り込んでいるようです。

強い信仰心の先に異端と断じられてもその想いを綴り、実践し続けてきた二人の改革者が強く押し広げた、キリスト教信仰の復興と激しい論争の過程。その先に大航海時代を迎えたポルトガル、スペインの動きを重ねていきます。

十字軍の逼塞に対して期待された、モンゴルの西方進出とプレスター・ジョンの登場を願う想いを受けて送り出された、草原の道を経て東方へと向かった托鉢修道会の活動と挫折(ここで宣教師たちの人的資源の不足がその布教拡大の足枷となったという興味深い指摘も)。その後に登場することになる、喜望峰を越えてゴアに拠点を置いたポルトガルの貿易路に乗って東方へと向かった、托鉢修道会の後を追ったイエズス会とザビエル。

後半ではコロンブスに始まる新大陸の「発見」、両国の征服的な活動とその道筋を辿るカトリック伝教の様子を通史に添えて述べていきますが、終盤に掛けてはザビエルとその後に続いたイエズス会、托鉢修道会による日本布教の推移を綴る事に注力していきます。

貿易のルートに乗って陸上の拠点を築いた先に布教を拡大したインド、侵略と征服の後に進む事になる新大陸(特に中南米)と異なり、貿易と言う橋頭堡を持たないままに進む事になる日本における布教。その姿は為政者の貿易に対する熱量と入港する貿易船の推移によって常に揺れ動いていく事を示していきます。不安定な日本における宣教の成果を詳細に綴る中で、本書に通底する、シリーズの副題にも繰り返し用いられてきた禁欲と清貧という、著者が修道者に映し出す姿とは相反する、自ら生糸貿易に携わり膨大な利潤を挙げつつ、その利潤を以て布教活動を継続せざるを得なかった宣教師たちの姿と活動に、大きな疑問の念を滲ませていきます。

結果として、その後の禁教により日本におけるキリスト教の伝道は途絶え、僅かに潜伏キリシタン(カクレキリシタン)として姿を変えつつ信仰が伝えられていく事になりますが、著者は最後に二十六聖人の遺骸が運ばれ、その後に支倉常長が訪れた、メキシコ・シティでアステカの言葉で綴られた記録を引用して、カトリック、キリスト教が世界の周回を成就させたことを印象付けていきます。

宗教改革、大航海時代そして世界を廻るカトリックの伝教。密接に関わり合う三つのテーマを二人の修道者を軸に書き起こして新書として纏めるという稀有なアプローチを成す一冊。それぞれのテーマごとにやや離散的な部分もありますが、カトリック視点で描く大航海時代前後のヨーロッパ史、日本のカトリック伝教史としても興味深い一冊かと思います。

 

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今月の読本「海洋帝国興隆史」(玉木俊明 講談社選書メチエ)著者が望むヨーロッパ全体史の著述は、海洋交易路と共に

今月の読本「海洋帝国興隆史」(玉木俊明 講談社選書メチエ)著者が望むヨーロッパ全体史の著述は、海洋交易路と共に

自分が読み慣れていたり得意分野の書籍は何度でも何冊でも読めるものですが、それではやはり偏り気味。たまには気分転換も込みで、未知のお話に取り組むのもいいものです。

そんな訳で、完全にアウェーな一冊を今回はご紹介。果たしてうまく読めているか…。

海洋帝国興隆史海洋帝国興隆史」(玉木俊明 講談社選書メチエ)です。

著者はヨーロッパ経済史が専門分野。従って、本書の文中で引用される各種論文や研究者も殆どがヨーロッパの経済学者の方々なので、この点では正直全く歯が立ちません。しかも僅か200ページそこそこで中世以前から近世までのヨーロッパ史を語ろうという訳ですから、構成上の無理があるのは当然と考える必要があります。それでも著者は該当するエピソードを詰め込めるだけ詰め込んでいきますが、残念ながらページ数の制約で全てのエピソードに対応する結末が語られる訳ではありません。

ぎゅうぎゅう詰にされたエピソードの数々。その中でも、著者はある点に着目して話を進めていきます。

その着目点は海洋交易。ヨーロッパが貿易で世界を制し、現在でも隠然たる力を持ち続ける原因を海上交易路の掌握に求めていきます。それは、アジアの諸勢力が最後までヨーロッパ世界に対抗しなかった領域(鄭和でさえ東アフリカ止まり)。アジアから陸上ルートを通じて度々侵攻を受けた弱小ヨーロッパ世界が反転攻勢に出た起点を海上貿易路の発展と、輸送力を引き受けることによる世界中の利益の集積、そのルートを確保すべく積み上げていった海上戦力にあると指摘します。

ただし、この指摘の検証方法が非常にユニークであるともいえます。

普通にヨーロッパ史を考えるならば、海上交易路の話であれば地中海交易を中心に据えていくものですが、著者は専門分野である北欧交易を議論の中核に置いていきます。バイキングから始まる北欧海上交易路こそが、既に資源の枯渇した地中海世界への資源供給ルートであったと論じていきます。この着目点の論拠も、海上交易路と対になる船舶構造の発展と、材料(木材)供給の点で、地中海世界の発展性に限界があった事を示していきます。更には、イギリスが一大海洋帝国を築くにあたって整備されていく大商船団(海軍でもあります)を資源の面から支えたのが、北欧の木材と、ロシアの鉄であったとの指摘は目からうろこが落ちる点もあります。

更に、大航海時代における貿易のバランスについても、著者の認識は対アジア貿易と大西洋貿易では圧倒的に大西洋貿易が主軸であり、中でも、南米との貿易、特にポルトガルとスペインの貿易における重要性を指摘していきます。この点については、著者が強調するほどには違和感を感じないのですが、著者の想いは英国の経済学者が述べる英国中心主義的な経済史に対するアンチテーゼのように見受けられます。特に、ポルトガルの国家の支援を越えた南米、アジア貿易に対する根強い影響力への指摘は、イエズス会という伝道と貿易を(時に死の商人として)両軸にした活動の残滓が、20世紀末までマカオを保持していた事に繋がると考えれば、頷かされる点も多くあります。

その上で、著者は海上交易の覇者がヨーロッパの覇権を制するとの主観でストーリーを組み立て行きます。そして、ヨーロッパの強さは、互いに戦争状態にあっても、交易だけはあらゆる迂回ルートが用意されており決して止むことは無かった点であるとし、交易路の変遷を通じてその実例を示していきます。ボルドー、ハンブルグ、そしてアムステルダムと、如何に戦争状態であったとしても商取引は場所と市場を移しながら、継続していく。商人たちの行き交うルートこそがヨーロッパを支え、広げていくと暗示していきます。

その交易ルートの拡大は、地中海から始まり、ヨーロッパを飛び出し、アフリカ、インド洋、そしてアメリカ大陸、更には太平洋へと広がっていきますが、その先駆となったのは国家ではなく商人たちであったと著者は繰り返し指摘します。陸上ルートを抑えられたヨーロッパの人々にとって、袋小路に囲い込まれた先はもはや海しか無かったかのように。

最初はポルトガルやスペインの国家の後ろ盾を受けながらの冒険的な商用、そして伝道のルートであったはずの海上交易路。主要な拠点に植民都市を築きながら交易路を広げていく両国のルートを上塗りしていくように後発者が乗り込んでいきますが、ここで著者はオランダの覇権が、ポルトガルの交易路を横取りしただけの限定的なものであったと述べていきます。その原因を東インド会社等の商人たちに委ねた限界であるとし、その次に現れるイギリスの覇権が軍事力を備えた国家を全面に出した統制。即ち帝国化(植民地とは微妙に異なる)であると述べていきます。その基盤となったのが電信であるとして、情報のスピードが市場制圧を支えたと結論付けていきますが、それまでの海上交易と交易コストを主軸に掲げて著述を進めてきた本書の趣旨からは若干逸脱するようです。

本書は少ないページにも拘わらず、非常に多くのエピソードを詰め込んでいますので、ここで全てを述べる事は出来ません。しかしながら、著者があとがきで列挙している、特定の研究テーマを中核に置いて著述されているのもまた事実です。そのややマイナーとも思えるテーマを中核に置いた著述が、著者が望む「全体像を描く歴史書」と相反する点もあるのかもしれませんが、残念ながら私のつたない読書力ではその判断までは至らないようです。

海上交易路をテーマに、膨大なエピソードを添えた本書の全容を理解するには相応の周辺知識と、著者のいうところの全体像を見渡せる広い知見が求められるのかもしれません。

海洋帝国興隆史と一緒に読んだ本本書と一緒に読んでいた本。

この中で、中南米貿易との深い関わり合いを示す、現地の植物のヨーロッパへの普及を描いた「文明を変えた植物たち」(酒井伸雄 NHKブックス)。ポルトガルの貿易を一方で支えたイエズス会の、貿易商、権門としての側面を描く「教会領長崎」(安野眞幸 講談社選書メチエ)。本書では描かれない、ヨーロッパから見た航海自体の発展の物語を海図を通して描く「海図の世界史」(宮崎正勝 新潮選書)。以上3冊は、本書を読むにあたっても参考になると思います。ですが、最も大切なヨーロッパの経済史に関する参考文献が…門外漢なので。