今月の読本「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)国文学で読み解く、描かれた物語が生み出す源泉

今月の読本「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)国文学で読み解く、描かれた物語が生み出す源泉

最近盛り上がりに盛り上がっている室町時代を扱った書籍達。その絶大な効果を看過出来なかったとばかりに、立て続けの新刊リリースに某社さんと入れ替わるようなSNSでの宣伝に力を入れ始めた歴史専門出版社さんや、某国営放送まで一枚噛んで来るとなると、もはやブームと言える状況にまで至ってしまったようです。

そんな中で、老舗中の老舗と呼べる新書シリーズが送り出してきた一冊。こちらもブームの便乗かと思って読まれると、ちょっと足元をすくわれるかもしれません。

今回は「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)をご紹介します。

前述のようにブームが続く室町時代とその直前である鎌倉末から南北朝にかけての時代を扱った書籍たち。そんな中で乱発される一冊であればもう辟易という想いもあって、本屋さんで見かけたものの暫くの間は手に取る気にもならないというのが偽らざる思いでした。しかしながら著者を改めて見てふと思い出したのです。1996年度のサントリー学芸賞を受賞した「太平記<よみ>の可能性」(現在は講談社学術文庫に収蔵されています)の著者ではないかと。大胆な切り口で太平記という、語り、読み継がれた読物が歴史の中で営々と与え続けたインパクトを現代にまでテーマの羽を広げるその著述には恐ろしさすら感じたものですが、展開されるスケールの幅広さと内容は実に魅力的でした。

今回の一冊も、10余年を費やして手掛けた、同じ版元から先年刊行された、著者のメインテーマである「太平記」の校注完了を承けての著作。その間に太平記と向き合い、語り合い続けてきた中で改めて見つめ直した、描かれた物語と急速に深化する中世史の研究成果を重ね合わせる事で、近年「異形の王権」と称され脚光を浴びた後醍醐帝の姿を見つめ直していきます。

従って、本書に近年の文献、実証史学を中核に置いた史料批判に基づく著作にある、旧来の説を思想面を含めて論破していく筆致、理論で押していく圧倒感(読者が仮託する一種の爽快感)を求めると、大きな失望を感じられるかもしれません。特に、本書はあからさまに時代背景に歴史著述が変容する姿を是認する立場、むしろその変容を文学者として思想史的に捉え、援用の起点としての太平記の位置付けを読み取っていく立場を採って描いていきますので、相容れない内容と言えるかもしれません。

あとがきにあるように、敢えて自らを「日本文学」研究者だと任じて綴られる本書。そのため、本書では通史として後醍醐帝の伝記を描く体裁を一応は採っていますが、その実は著者が捉えたいと考えるテーマ、「太平記」に描かれた後醍醐帝とその描かれ方が、現代に至るまでどのような影響を与えてきたのかを軸に綴っていきます。

中軸となる建武の新政に至る道筋は、本質的には当時の京、御所の中で流行したとする、宋学(朱子学)をベースにした王権の復興を目指した点では衆目の一致する所かと思いますし、楠木正成(著者は「楠」一文字論を本書でも展開します)や、所謂無礼講への繋がりから、「異形の王権」論的な指向が底辺にはあった事を認めます。しかしながら、それは勤皇ではなく、花園天皇宸記を援用しつつ、朱子学を中心とした宋学の勃興と受容による、儒教による思想、絶対王政と中央集権による新政としての王権改革の一環であったと定義づけていきます。その結果は、家職制度が完成期に達した当時におけるヒエラルキーの破壊を生む事になり、ある種の破壊者として建武の新政と後醍醐帝が長く位置付けられる起因となった事を、当時の公家たちの記録から拾っていきます(この辺りの傍証とその視点を徒然草からも拾う皮肉の利かせ方は、著者ならではといえるでしょうか)。その一方で、厳しい天皇位継承の経緯から、如何なる状態でも自らを正当な王権の継承者として振る舞い続けた態度に万世一系が仮託されるという奇妙な捻じれを生んだ源泉が、伝統的な王権、文化の継承ではなく、実に外来の思想である宋学への希求に基づくという視点を見出していきます。更には、文寛と立川流の呪詛にのめり込んでいった象徴を有名な後醍醐天皇像に結び付けていく議論に対しては、南都の戒律復興以降に繋がる、旧来の宗派に囚われない活動の出来るの真言律の勧進聖として文寛の姿に着目します。その結果、後醍醐天皇像が聖徳太子へのオマージュとして描かせた物であるという見解に同意を示し、正に後醍醐帝が仏法すべてを具えた王権を目指していた事を改めて示していきます。著者はその延長として、数多の議論がなされていく太平記成立の事情とその著者の姿を、彼ら真言律僧に繋がる者達による原典の著述と、それに反目した三宝院賢俊や直義以降による改筆による、正史として変容していく過程から見極めようとしていきます。

宋学と律宗の復興といった新進の気風の上に建武の新政の思想的な支柱を見出していくという、鎌倉新仏教という表現に委ねられた時代の新規性とその伸展とも見える、少し前のイメージで綴られる著者の視点を提示した上で描かれる本書の後半。実は討幕以降の展開について、本書では後醍醐帝自身の治績や記録は殆ど語られなくなり、通史的な記述も縮小され、個別の細かいテーマに対する言及へと移っていきます。

前著に続いて著者が述べる太平記が与えた歴史的な影響。それは「太平記<よみ>」と述べた、数多にその内容が語り継がれ読み継がれて流布する中で史実を離れ、聞いた、手にした人々の恣意を加えながら思想や自らの存在意義を求める源泉へと転じていく姿を後の歴史の中に辿っていきます。

江戸期以降の思想に太平記が与えた影響が水戸学や国学を揺り動かし、宋学の根底にある朱子学、特に孟子の影響も多分に含まれる、婆娑羅や無礼講と言う君臣の交わり方が捻り込まれて、名分論、四民平等から、国民国家という当時の世界的な潮流に合わせる形で臣民へと継ぎ替えられていった点を指摘します。その上で、明治以降にこれらの風潮の中で発生したとする南朝正統史観にしても、新田氏を祖に持つと出自を潤色した徳川将軍家にとって、光圀の時代に於いても既に違和感のない認識であった(故に北朝以降は武家の為に存在したと断じた白石の議論も、儒者の視点では放伐と君臣を論じる点では齟齬を生じえない事に)と看破します。

この辺りの内容になって来ますと、もはや後醍醐帝の話とは全く異なってきますし、事実、本書は冒頭から末尾まで、表題には掲げつつも人物としての後醍醐帝を綴る事を意図的に避けている印象すらあります。

国文学者としての矜持に基づいて、史実を踏まえた上で太平記を読みこなした先に見える、後醍醐帝がその後の歴史の中でどのように捉えられてきたのかを現代の歴史研究への影響まで言及しつつ綴る本書。前述のように、後醍醐帝自体の治績や鎌倉末から南北朝期に掛けての通史としての流れを読みたい方にはあまりお勧めできませんが、今も数多の議論の中心に位置する「物語」が発し続ける影響の強さを感じてみたいと考えられる方には、未だ刺激的な著者の論考へのエッセンスを感じさせる一冊。

全巻刊行を成し遂げた著者の手による「太平記」校注を横に置きながら、平家物語と並び称さされる、軍記としての日本文学の頂点に位置付けられる物語へ込められた、読み解き続けられる想いを垣間見るのも楽しいかもしれません。

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今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

武家の本流として認識され武家政権の時代を通じて長く伝説に彩られる、清和源氏の嫡流とされる河内源氏。その中でも家名を大きく上げる事になった前九年の役の一方の主役となる源頼義は、その息子である源義家と共に日本の歴史の中でも特に英雄的に扱われてきた人物かもしれません。しかしながら、彼が実際に活躍した記録は極僅かしか残っておらず、その内容も後世の脚色が極めて強い英雄譚的な内容に終始するようです。

今回ご紹介するのは、そんな伝説に彩られる人物の姿を改めて見直そうという趣旨で綴られた一冊です。

今回は刊行から半年以上経って漸く入手and読む事が出来た(お休みに感謝)、「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は、数年前に中公新書から「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」という書名で、今回とほぼ同じようなテーマの本を出されています。従って、当該書籍を読まれた方には、かなりの部分で内容が重複しているかと思いますし、本書に於いても、その史料的な限界から一書として成立する事が難しいと考えたのでしょうか、前著同様に始祖となる源経基から書き起こし始め、幕府を開くことになる頼朝までの河内源氏一党の物語の中核を担う人物としての頼義を描いていきます。

どちらかというと中央政権、王朝国家側の視点に立った武家の成立過程を綴る著者ですが、特に東国における源氏と平将門の乱における賞典を享けた、またはそれに対抗した一族との関わり合いの過程について、本書ではその論拠を補足し史料面での不足を補うため、当該分野における専門家である野口実先生の研究成果及び著作を随所で引用することで、双方の視点を重ね合わせて議論を進めていきます。

その結果、本書では伝説に彩られる彼の物語に著者独自の解釈が与えられます。実質的な河内源氏の開祖と見なされる父親である頼信の嫡男ではあったが、官位については中央での公家社会の中で位階を進め、立て続けに受領を務めた弟である頼清に常に後れを取る苦しい立場であった事。東国の武士たちを従える原点と見做されてきた平忠常の乱における源氏の位置付けも、追討使としての立場を降ろされた平直方と頼信が反目している、ないしは中央での勢力争いを二人に加担させる形で東国の乱に持ち込んだように述べられる見解に対して、二人とも藤原頼通の家人であることに着目し、私戦とも見做された忠常と直方の抗争を収拾するために二人が連携した上で、頼通によって甲斐守に補されたと見做していきます。このような視点に立てば、直方がその恩義に対して頼信の息子である頼義に自らの娘を娶らせた事を、伝承的な内容が極めて濃い東国在陣時の事績に言及せずともきれいに説明できることになります。

その上で、著者は河内源氏一党がその後も固執を続けることになる北方地域(陸奥、出羽)について、非常に興味深い議論を展開していきます。平忠常の乱鎮圧における賞典としての小一条院の判官代への頼義の補任(ここで弟である頼清は乱の終結を待たず安芸守に補任されています)。敦明親王と呼んだほうが判りやすいかと思いますが、道長によって皇位への道を閉ざされ不遇のうちに過ごしたとされる人物ですが、近年の研究ではそこまでは貶められていなかったと見做されるようになっています。その一因として、著者は小一条院とその母系が歴代の陸奥守に繋がる点を指摘し、その権益を保持、道長にしても院の基盤としてそれを許容していたのではないかと見做してきます。鎮守府将軍、陸奥守そして秋田城介という北方の顕官。平将門の乱から発するこの権能の行方、すなわち貞盛流と良文流の桓武平氏、藤原秀郷とその一門、更には河内源氏として家祖経基の系譜を継ぐ頼義の交点に、著者は小一条院の家系を見出していきます。その中でも後の摂関家に直接繋がる家司の系統に属し、尚武の気風を小一条院に愛されたとする、王朝国家の外護者の家系に連なる頼義。著者はその想いを、院が手元に置いておきたくて永く受領への任官を留めていたのではないかとまで評します。

そして北方での権益を継承すべく相模守補任から前九年の役へと続く東国での活躍。ここで著者は近年の研究成果を踏まえて武家の祖、英雄としての頼義像を否定した姿を描いていきます。既に多く述べられているように彼の率いた武士たちは一騎当千とはいいながら、物量的には極めて限られた戦力に過ぎず、当時の受領、押領使、鎮守府将軍がいずれもそうであったように、在地の国衙軍制を以て戦力を整える、在地勢力の戦力に大きく依存する存在であった点を明確にしていきます。著者は有名な黄海合戦において最後まで付き従った従者たちの素性を明らかにしながら、彼らが所謂受領郎党と目される一群の軍事貴族の末葉や根拠の河内における累代の郎党達といった、河内を基盤に畿内そして京において蓄積してきた勢力に基づく戦力であったとの認識を改めて示します(美濃については長く源氏同士が勢力を争う地であったと指摘)。坂東の精鋭が頼義の武威を慕って雲霞のように参集したという伝説を虚構と明示し、安倍貞任が追い詰められて逼塞する事になる頼義をそれ以上追い落とさなかった理由を、受領故に中央の視線を配慮して敢えて回避したとまで述べていきます。

完全な負け犬とも見做され、伝統的な武威すらも失墜させた頼義。それでも彼が陸奥を離れず、最終的には離任ぎりぎりになって清原一族の支援(実質的には家人として屈して)を得て戦い抜く結果となった点について、著者はその後の彼の動きから検討を加えていきます。父親である頼信同様に在地の勢力に心服されることを願いつつも、彼らの勢力争いに首を突っ込むことで戦闘を開始する事になった頼義。自前の戦力が乏しい京から赴く彼らにとって、戦闘を続けるためには何よりも在地の勢力を懐柔し彼らが欲した名誉と勢力の保護を叶える権門への窓口となることを強く要請される立場にあった事を見出します。良く知られるように、前九年の役終結後、栄典禄としては最も高い富裕の地である伊予守に補任される一方、叱責を受け、自らが北方で膨大に積み上げた(巻き上げた)財貨でその受領の貢納を代弁してまでも、凱旋後は京に踏み止まり続けます。そこまでして役で支援した東国の武士たち、受領郎等たちの栄典を獲得する事に奔走する事になったのは、正に彼らの要望の受け皿としての立場(≒武家の棟梁)を任じ続けた結果であり、後に継承者を自認する頼朝の御家人政策を重ね合わせると、その権力の源泉と基盤が明瞭に浮かび上がってくるようです。

最後に綴られる河内源氏のその後。ここで著者は白河院が源氏同士を争わせて勢力を削ぎ、一方で平家を持ち上げたとする従来からの説に明確な否定を示す一方、彼ら河内源氏、更には源氏一門側の事情からその遠因を辿っていきます。頼義の弟で四位まで官位を進め、最後は大国である肥後守として在任中に没したとみられる頼清の姿を重ねながら、軍事貴族として王朝国家の尖兵であるうちはよいが、政権内部に踏み込むような地位に進む、武門としての家から外れると俄然、失脚、淘汰の対象となるという印象を強く漂わせて筆を置いています。

武家の祖を称揚するような内容を期待して読まれると、失望に次ぐ失望という感に苛まれ続ける内容かもしれませんが、これらの歴史的な流れの先に頼朝による武門の掌握があったと見ていくと、その経緯は非常に興味深く、後の世でも武門を掌握せんと考えた武士たちにとって反面教師的な立場を独り演じ続けていたとも感じさせる内容となる一冊。

著者が要所で参照を明記されたように、「河内源氏」を追う様に刊行された、頼義の息子である八幡太郎「源義家」(山川出版社 日本史リブレット人022)においては、逆に本木先生の研究成果を大いに参考にしてと述べられています。王朝国家から見る尖兵としての武門の姿と、東国武士から見る権益を取り持つ武門の棟梁という双方の視点を重ね合わせて読んでいくと、色々と見えて来る事があるかもしれません。

 

今月の読本『享徳の乱』(峰岸純夫 講談社選書メチエ)名付け親が最後に挑む、時代の転換点への新たな定義

今月の読本『享徳の乱』(峰岸純夫 講談社選書メチエ)名付け親が最後に挑む、時代の転換点への新たな定義

本格的な中世日本史本ブームが来てしまった昨今。

某書に触発されて次々に刊行される日本史関係の書籍が本屋さんの一隅を埋めはじめているのを眺めると、ちょっとした感慨を覚えます。

そのような中で、突如として刊行が予告された一冊。ここ数年単著での執筆が無かった、齢八十を超える中世史研究の大家が、遂にそのメインフィールドであった研究内容を一般向けに書き下ろした書籍を上梓されました。

今回は『享徳の乱』(峰岸純夫 講談社選書メチエ)をご紹介いたします。

本書の冒頭と巻末をご覧頂くと、日本史研究者としての著者の積年の想いが、その独特の筆致で濃厚に述べられています。今回のブームの件についても触れられていますが、本書の構想はそのような直近の話題とは全く関係なく、実に十五年以上前から準備されていたと述べられています。著者にとって親子二代に亘って関係を持つ版元さんから出される、人生最後と称されるこの一冊、そこにはブームの到来とその筆致に感慨と敬意を示すと同時に、研究の先駆者として決して見逃せない、大きな欠落がある事を指摘します。大きな時代史の流れで観た場合、特に中世の時代史を見る場合に忘れてはならない、二つの権力の磁場の関係がすっぽりと抜けている点を、もう一方の磁場の中心たる東国の中世史から見つめ直していきます(ちなみにこの視点は、もう一方の版元から後続で刊行された作品では、著者自身が本文中で補う必要性を認めています)。

本書では、表題のように30年にも渡る混乱の東国の姿を描く様に見受けられますが、読んでいくとその内容はちょっと異なる事に気が付きます。まるでブルーバックスを思わせる本書の構成(図表の使い方など、如何にもですね)は、初学者でも判りやすく理解できるように最大限考慮された、享徳の乱というテーマを用いた、日本史における中世から近世へと移り変わるポイントを事例と共に示す参考書。

もちろん、テーマの中核となる、失われしものを執念を以て追い求める古河公方、足利成氏を、正木文書を軸に、物語を駆動するチェイスを務める新田岩松氏の動きから描く事で、中世東国の姿を活写するという読み方が最も妥当かと思われます。更には中盤で纏まって綴られる五十子陣の様子から、軍注記から見る、室町期の軍勢の動かし方、後半で綴られる長尾景春と太田道灌の疾駆の先に見る、関東管領家没落の前奏を追う筆致も、とても興味深いかと思います。

しかしながら、著者の長年に渡る研究成果と30年にも渡る歴史背景を僅か200ページ足らずで語るにはどうにも尺が足らない点は著者であれ編集者であれ承知の事。そのような中で、ゴシックの太文字(これも版元流)で敢えて示すテーマを見出そうとした場合、著者はその歴史展開における連動性を随所で指摘していきますが、その指摘自体は既に知られている点が多いと思われます。むしろ本書で注意を引く点は、その連動を生み出した素地について、著者が新たな視座を豊富に提示しようとしている点ではないでしょうか。

中世と呼ばれる時代区分が始まった当初より続く、上下に重層的に組まれた統治、収納機構と、東西、そして南北に分断される政治権力。南北朝の動乱とその後に続く中世日本史の中で、その震源は常に揺れ動き、流動し続けます。その中で核の一つである東国、鎌倉を振り出しに始まったこの騒乱、本書でも冒頭から述べられているように、その経緯は遥か建武新政まで遡らなければ理解できない事を示しています。一方で、後の戦国時代において、奇妙なことにこれら権力の核たる京周辺、そして鎌倉、東国からは最後まで戦国大名が興らない事に着目させられます。中核となるべき在地ないしは派遣される守護の勢力は、政権に伴う近習勢力と分掌されるために分断され小規模化、政治体制も権力の磁場に近ければ近いほど影響を顕著に受けるため、前時代的な構造に引っ張られる指摘は既に多くなされています。しかしながら、それ故に次の時代に先駆ける先進性も備えていた点を著者は見出していきます。

陣・城といった、野戦や市街地の寺や居宅を拠点とした攻防とは異なる、数年単位での持久戦を構える事が出来る拠点の設営による戦局の集中化、戦場のコンパクト化。拠点近くでの恒常的な軍糧の徴発を可能とする、強入部による受領制から始まる重層的な収納機構の強制的な解体と、その延長に位置する、新たに提唱する「戦国領主」と称する一円支配体制の確立(一般的には国人領主と呼ばれる形態と同じですが、著者の視点ではもう少し規模が大きく、土着的性格に拘らない)。更には、下剋上と呼ばれる体制の簒奪を伴う逆転現象の前には、その逆の「上剋下」と称し、家宰や従属する勢力を威圧、討伐する守護大名、管領の存在があった事を見出していきます(もちろん、将軍や鎌倉公方も)。

これら戦国の萌芽ともみられる事象が、実は東国では南北朝の時代から着々と形作られていったことを実証する為に、その掉尾を飾る騒乱である享徳の乱を採り上げる著者。乱の構造と名称を提唱した著者らしく、前述のように本書でも新たな定義を探り続けていきます。

後半で述べられる長尾景春と太田道灌の疾駆と、彼らの立ち回りから読み解く、東国の先進性と限界。騒乱が続いたことによる、いち早い拠点城郭の構築と軍勢と軍糧掌握における戦国時代を先取りする軍事的な先進性。一方で、下剋上を狙いつつも、目の前に主人を置いた状態での家宰という立場(継承できなかった訳ですが)の制約と、一円とはいえ依然として中世荘園の構造を引き継ぎ点在を余儀なくされる所領、一族や従属勢力を纏めきれない掌握、動員力の限界に突き当たる景春(その先に、外部勢力を引き込むという次の時代の起点も)。家宰としての立場を越えた活躍と、対抗する各勢力を心服させる程の人望を具えた事で主君の背後を寒からしめた挙句、前時代である北条執権政治の御内人同様に謀殺される道灌の実力と結末。

この視点の先に、近年における他の研究成果を引用して著者が描くのが、その騒乱が次の時代の開闢であったことを東国に告げる、西国と京における統治手法を携え、既に領国的な統治を実現し始めていた駿河、そして堀越公方の分国化によって、外来者による領国化の過程を進む伊豆をステップに東国に乗り込んでくる早雲の登場。ここでも、まだ定説には至っていない明応の地震に伴う混乱に乗じての小田原攻略を時代史の流れの一環として採り上げており、時に政治状況や軍事史的な側面に注目しがちな文献史学ベースの研究に対して、最新の地理、考古学をも踏まえた全体史としての着眼への配慮も求めていきます。

東国、北関東を拠点とする中世史研究の大家が送り出す最後と称す本書。まるで参考書のような体裁ですが、その内容は往年の研究者が回顧主義的に過去の研究成果を辿る書籍とは一線を画す、テーマを求め更なる定義を模索し、表明し続ける内容には、この分野の研究がまだまだ新しい知見、新しい視野に溢れている事を示し続ける一冊。

歴史の研究は止まる事なく、更に発展することを願って止まない著者の想い、そしてその研究フィールドである東国へ改めて視座を置く事の重要性を唱え続ける想いが詰まった一冊です。

本書と関連する著書を。

参考文献にも掲載される、本書と同じテーマを扱った『享徳の乱と太田道灌』(山田邦明 吉川弘文館)は、本書ではやや不足している、通史としての東国の中世を俯瞰で見る事が出来る好著です。

また、『人物リブレット人042 北条早雲』(池上裕子 山川出版)は、本文中で言及されるように、次の時代となる戦国への架け橋を切り開いた北条早雲を最新の研究成果から検討しており、これまでの戦国への転換の叙述に対して、専門である領民政策の変化とともに、自然史への着目必要性も唱えています。

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)寄せ来る者達に翻弄され続けた核心の地への記憶

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)寄せ来る者達に翻弄され続けた核心の地への記憶

武士の都と呼ばれた鎌倉を擁する相模。一方でその土地は東山道が抜ける上州と共に、西に連なる箱根を関門に構えた東国の入口を扼する場所でもあります。

自らの発祥を苗字に掲げる事が多い東国の武士たち。しかしながら、東国と西国がせめぎ合う境界に位置するその地を苗字に掲げる一族が、その後の荒波を潜り抜けて最後の封建制たる江戸時代まで家名を繋げられた例は、ほんの僅か。歴史ファンの方でも思い出されるのは、戦国時代に北条早雲に滅ぼされた三浦氏くらいではないでしょうか。

そんなマイナーな感が否めない相模発祥の武士たちの変遷を一冊に纏めた本を、今回はご紹介します。

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)のご紹介です。

本書は、同じ編者、版元さんにより刊行された「武蔵武士団」に続く続編として送り出された一冊。執筆するメンバーも一部ではオーバーラップしています(今回も、細川先生の一刀両断コーナーありです)が、前述の懸念を少しでも解消するためでしょうか、内容を補強する為に特論と称して、本来は相模武士とは呼べない前後の北条氏、そして、相模武士の象徴とも捉えられる三浦氏について、相模武士たちとの関係を含めて述べる論説を、本書の執筆陣とは若干離れた人選を擁しての別項を立てています。

手持ちの中で、今回の執筆陣の皆様が手掛けられた同じ版元さんの書籍をセットで。

前著「武蔵武士団」と比べるとマイナーな感が否めない登場人物達、更には本書でも多数引用される在野の歴史研究家、湯山学氏により膨大な私家版を含む著作物が刊行されており、本書でも言及されているように、その内容には十分な検討が必要とはいえ、採り上げるべき個別の武士団、氏族ほぼ全てがカバーされています。

では、本書はどのような立ち位置で相模武士団を捉えようとしているのでしょうか。編者の時代感の捉え方は今となってはやや古いスタンスとなる、開発領主から勃興するスタイルをニュアンスとして残しつつも、彼らが中央から下向してくる人々によって、翻弄されていく過程を描く事で、相模特有の事情、その武士団たちの特徴を見出そうとしていきます。

武蔵武士団にも通じる内容ではありますが、より権力の震源近くに在住することとなった相模の武士たち。その姿は、東国の関門故に、所謂源平合戦以前から中央の権門と密接な関係を築いていた事を示していきます。そして、頼朝の挙兵と共にまず最初に騒乱に巻き込まれる事になる相模。それ以前から源氏同士の勢力争いに巻き込まれていきますが、ここから相模武士たちの淘汰が本格的に始まる事になります。

西国に主軸を置く平家に付くか、京に生まれ先祖の勲功と記憶を振り回す頼朝に賭けるか。御家人として纏め上げられる段階になっても、その舞台である鎌倉を擁する相模の武士たちは、頼朝による熾烈な淘汰を真っ先に受け止める事になります。

在地から伸展する訳ではなく、アウターが跋扈する鎌倉を舞台に繰り広げられる暗闘と粛清。その矛先は、在庁の雄たる三浦氏にも容赦なく降り注ぎ、滅亡までに二度も系譜を絶たれ、三浦半島の奥に押し込められてしまいます(それでも鎌倉の背後を押さえる地に三浦の家名を存続させた点に、地勢への配慮を示唆する論には深く同意するところです)。

壮絶な権力争いの末に、全国に所領を広げ、諸大夫としての武蔵守、相模守を独占した得宗、北条氏に対して、圧倒的な規模の差を見せつけられて、追従する姿を示す相模武士たちの御内人への転身(ここで、御家人身分から転落したわけではないと注意が示されます)。更には、良く知られるように苗字は残したまま、一族を分けて西国の所領へと転身を図る武士たち。その動きは承久の乱以前にまで遡る事を示していきます。

そして、鎌倉幕府滅亡から南北朝に掛けて、再び相模は権力の中枢としての宿命を受けることになります。鎌倉幕府滅亡と共に滅んだ北条氏と共に、中先代の乱で復活を狙った時行に加担して、又はもう一つの東国の関門たる東山道を軸に北方を抑えた南朝に下って、更には観応の擾乱によって。鎌倉幕府を生き永らえた相模武士たちは、再び外からもたらされた戦いによって、更に淘汰を繰り返す事になります。新たな鎌倉の主として乗り込んできた鎌倉公方と関東管領、彼らも生き残った相模武士たちに試練を与え続けることになります。鎌倉の政体と守護の二重権力体制の為に、既に国単位の武士団としての体を成さなくなった相模の武士たち(三浦氏にしても守護権が否定されている間は同様と)は、牽制しあう二つの権能の指揮下、または隣国の武蔵の一揆勢と共闘をする以外に生き残る道が残されていなかったようです。

鎌倉府の下で何とか家名を維持してきた相模武士たちですが、今度は鎌倉公方と関東管領の争い(それぞれを牽制する幕府を含めて)によって、双方の勢力に分かれた相模の武士たちはまたしても淘汰の時を迎えてしまいます。最終的には鎌倉公方の古河への動座によって、相模の地が武家権力としての引力を失うことになる永享の乱とその後の享徳の乱によって、相模に在住していた旧来の武士たちは三浦氏を主体とする僅かな勢力を残して、殆どが滅亡、西からはこれまた鎌倉に入る事が出来ずに伊豆に留まる結果となった堀越公方を乗り越して、大森氏が小田原に入部することで、これまで辛うじて維持してきた相模西方、金目川以西は在地そのものが淘汰されていきます。

権力の引力が北方に去った事で空白地帯となった、残る相模川の東岸と相模中央部に漸く勢力を挽回した三浦氏の勢力も、その後にやはり関東の喉口を押さえる要衝と踏んで乗り込んできた北条早雲によって殆どが根絶やしにされ、僅かに後北条氏の重臣となった松田氏が残るに過ぎなかった事を示していきます(最終的には秀吉の小田原攻めで滅亡の道へと進む事に)。

東国の入口ゆえに外からの勢力に翻弄され続け、最終的には苗字の地たる相模に痕跡を残すばかりとなった相模武士たち。しかしながら、武蔵に蟠踞した武士たちと同様にその足跡は全国に渡り、苗字の地を離れた後に大いに繁栄した一族も数多輩出しています。小早川、長尾そして三浦氏の系譜を受け継ぐ蘆名氏。権力の中枢に存在することによる熾烈な淘汰を逃れた先に発展した相模武士たちは、それでも相模が本貫地がある事を由来として誇り、苗字を、そして家名の礎となったその土地への深い繋がりを求めていたようです。本書にはそのような各地に散らばっていった相模武士たちの足取りにも検討を加えていきます。そして、歴史時代を潜り抜けた今日の相模。今度は日本の中心に隣接することとなったために、急速に失われていく彼らの足跡。編者たちは、そんな変遷の激しいこの地に僅かに残る、相模武士たちの痕跡にも目を向けていきます。

最後に綴られる相模武士たちが行き交ったその土地を紹介する一節。その中で印象的に語られる、考古学的には既に往時の道程とは食い違ってしまっているにも関わらず、その後の歴史でも、私を含めて今を生きる相模、今の神奈川県(更には武蔵の地)に住む人々にとっても深く結びつく「鎌倉街道の記憶」に息づく想い。その想いには苗字の地を遠く離れ、権力の中枢としての地位を遥か昔に失ってもなお、その核心の地が秘める引力の強さを思い起こさずにはいられません。

武士団をテーマに掲げた本書が綴る、武家の核心の地で繰り広げられた興亡と淘汰の物語。その結末は余りにも寂しいものですが、もし今後、鎌倉、そして相模の地を訪れる際には、本書を片手に僅かに残る痕跡を辿りながら、武士たちが壮絶な駆け引きの中を生きていた姿に思いを馳せてみては如何でしょうか。

今回ご紹介した本と、勝手に深夜の「東国の武士団と歴史書籍フェア」。

武士の発祥と変遷を綴る書籍の数々、皆様のご興味を引く一冊はありますでしょうか。

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)遥か九州から武士の勃興を眺める時、その世界は京・東国を飛び出し列島を駆ける

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)遥か九州から武士の勃興を眺める時、その世界は京・東国を飛び出し列島を駆ける

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館さんの「歴史文化ライブラリー」3月の新刊は、これまで多数の中世武士、特に東国の武士たちを扱った一連の研究と著作で知られる野口実先生の最新作からご紹介します。

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)です。

まず、あとがきに目を通すと、著者の中における本書の微妙な立ち位置が言及されています。一度は完成した原稿が暫く日の目を見なかった事、最終的に著者の奉職先であった京都女子大学を退任された後の上梓となった事、更にはその記述には著者の研究者、教員としての生活に於ける様々な想いが込められている事。

既に著者の作品を読まれた事がある方であれば、その感触は判ると思います。千葉に生まれ、房総平氏の研究でも知られる著者のスタンスが、同時期の研究者の著作と比べると極めてニュートラルな立場を採っていた点に気が付かれるはずです。既に過去のものになりつつありますが、草深い東国の開拓農民から勃興してきた野蛮で無学な武力が、軟弱な京の公家社会を刷新して、新たな大地たる東国、鎌倉に清冽たる新政体「幕府」を築き、中世の幕が上がるという、私が学生時代には依然として通用した視点に対して、明確にそれを正す方向での著作を上梓され続けた点です。但し、このような点を採り上げると、ではやはり京都に拠点を置かれているから、所謂体制論的な立場なのですかと問い返されそうなのですが、そのような体制論であったり王権論とは一線を画した立場で議論を進める点が、著者の論旨の大きな特徴ではないかと思います。

本書はそのような大きな歴史論(体制論)に固執することなく、出来るだけ史料から読み解ける、実際の登場人物たちの動きからその流れを読み解こうとしていきます。従って、表題と異なり本書を通貫する様なストーリーであったりテーマが明確に設定されている訳ではありません。特に人物を離れて京都七条町の職人集住に関する記述は、全体のテーマから見ると大分かい離が認められますが、著者の提示しようとするストーリーを彩るためにはどうしても必要な内容だったようです。

著者が描こうとするテーマ、それは石井進氏の前述のような体裁の色濃い「辺境としての東国から勃興する」とする歴史展開を乗り越え、下向井龍彦氏の著作(日本の歴史07 武士の成長と院政 講談社学術文庫)にもみられるように、中央から下向し、その貴種性と地方の反乱を鎮圧する為に乱発された勲功賞で得た権能を加える事で、在地との強い絆と利権を築きつつも、引き続き中央での関係を維持しつつ勢力を積み上げていく、武士の姿を描く事にあります。

そこには、草深い無学の輩等ではなく、権門の家使としての側面と、在地における所領管理、いざという時には国衙の兵力や私兵を従えて戦闘に挑むという、極めて実践的な能力が試される、中央での出世には見放されたとしても、実務能力が極めて高い人々が集っていた事が判ります(本書の冒頭で描かれる藤原保昌のような強奪者や、為朝のような正に暴れん坊ももちろん居ますが)。そして、本書で著者が最も描きたかった点。これまでの「東国」中心の武士研究に対して、前述の視点を相対化させる行為。東国の武士研究でも中核に位置した著者自身が、本書の成立に至るまでの20年近くに渡って取り組みを続けた模索の結果としての、九州、特に島津荘の成立と拡大における武士の動きと貿易の痕跡を現地で研究を続ける研究者と交流を図る事で、東国と京都という二元的な視点、又は、大宰府-京/福原-平泉という公家文化に対抗する東国、鎌倉の武家という対峙系とは異なる、より普遍的な武士の成長に対する視点を導き出すことです。

著者はこの視点を実証する為に、敢えて自らの長い研究テーマでもあり、如何にも東国武士の代表である千葉常胤を採り上げ、源平合戦における源範頼を支えながら転戦した九州における戦歴とその転戦地に設定された地頭職の成立、更には京都に戻った後の治安活動や、鎌倉に居を構え全国に広がった所領を管理する都市型領主となった後の千葉氏の活動を通して、名字の地たる在地にしがみ付く東国武士というステレオタイプを明確に否定していきます。

そして、九州の南端に構えられた島津荘を中心とした、摂関家の金城湯地となった南九州。この島津荘を始め肥後、南九州を席巻した為朝の所業を荒唐無稽と一刀両断することはせず、それ以前から下向していた薩摩平氏(平安武士という言葉と併せて本書で初めて出てくる呼称でしょうか)達による、東国と同じような騒乱が生じていた事を紹介していきます。結果として、それらの鎮圧を担った勢力が、東国同様にその後の武士として勃興していく事は論を待たないかと思います。列島の南北で勃発した反乱とその鎮圧。大宰府を舞台にした刀伊の入寇。これらの鎮圧に伴いもたらされる勲功による栄爵を纏っての在地への定着、国衙官職を含む利権化の流れは東国だけに限定して起きたわけではない事を遥か南九州の事例を示す事で明確化していきます。

在地化と足並みを揃えるかのように肥大化する南九州の荘園群。その成立以前に遡って、王朝国家内での摂関家の勢力推移を重ねる事で、時代が下がるにつれて極めて重要な収益源、貿易拠点として成長していったことが示されていきます。当時の交易品として極めて重要であった火薬の原料となる硫黄が取れるこの地が、大宰府、神崎荘と並ぶ海外、特に南洋貿易の拠点であった事を発掘成果から明らかにし、南洋特有の檳榔、螺鈿がこの地から京、そして平泉に至ったと考えられると述べていきます。勿論、平泉からはその代わりに、知られているように馬、黄金、そして海獣や毛皮や猛禽類の羽など武具として、交易資金として必要な物資が送られる訳ですが、ここで著者は東国における近年増えてきた中世期の遺跡発掘事例や、前述の千葉常胤が滞納していた貢納を一度に納めた際に積み上げた膨大な量の金を以て、これらの平泉文化に付随する王朝国家的な文化が東国やその交易路をスルーしてピンポイントに平泉に花開いたという、王朝国家の一種理想郷を平泉に見出し、東国、武家の文化的な低さを殊更に指摘する視点に対して明確に否定を示し、その交易路においても、同程度の文化的な浸透があったはずだとの認識を示していきます。

その上で、京を情報や文物ネットワークの交差点と見做し、京を起点に全国に向けて下向し、代を重ねつつも、色々な事情を以て武士としてこの地を行き交う事となった人々のネットワークの動き、悪い言い方をすれば欲望の離散集合の頂点に源平合戦があったと見做していきます。

京都で奉職し、第一線を退いた直後で上梓することとなった本書は、東国武士の研究者としての一方の史観と、自らが在する地におけるもう一方の史論に対する双方の疑念を九州の地に視点を置く事で、ネットワークという新たなテーマ設定によって相対化、より普遍的な視点を見出すことを目指した一冊。冒頭で述べたように各章ごとに別々の登場人物が語られるため、小テーマを集めたやや散漫な印象を受ける部分もありますが、昨今の地理学を組み合わせた繋がる歴史著述に対して、これまで培ってきた豊富な研究成果より具体的な視点を与える著述は実に楽しく、史論で語られる著述では欠落することが著しい発掘成果による史料補完への言及と併せて、中世の入口となるこの時代の著述がこれから更に発展していく事に期待を持たせる一冊です。

第一線の教壇から下る事で、今後は研究、著述により一層の注力を図る事が出来るであろう著者の更なる一冊に期待しながら。

<おまけ>

本書に関連する書籍を、本ページよりご紹介します。

今月の読本「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)境界の地へと開発を推し進める荘園の歴史から里山を再定義する

今月の読本「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)境界の地へと開発を推し進める荘園の歴史から里山を再定義する

「里山」この流行語となった単語をテーマに掲げた書籍が昨今、沢山出てきていますが、その多くが郷愁を誘うもの、経済活動や地域振興であったり、自然をテーマにした作品であったかと思います。

そんな中でも異色の一冊、歴史専門書籍出版社が手掛ける「里山本」は、ちょっと違ったアプローチで里山の本質に迫ろうとしています。

里山の成立今月の読本は「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)です。

著者は滋賀県立大学の教授で、中世の荘園、村落研究では極めて有名な、琵琶湖の畔にある菅浦をテーマにした研究をされている方です。先進地域でもある畿内の荘園研究スペシャリストが手掛ける里山本。本書はその殆どを近江、伊賀、山城、紀伊を中心とした畿内における荘園の成立から進展、隣接する荘園同士の競合に至る経緯を示しながら、荘園の付属地としての里山の成立を俯瞰していきます。

主に平安遺文、鎌倉遺文に掲載された事例から引用していく荘園同士、更には権門、神域を含む寺社地との競合の物語。その中で、著者はそもそも里山の重要なアイコンである後山や棚田が実際にはこれらの競合によって成長していった物であることを明確に示していきます。

里山の名称。その起源は、里山という名称に呼応する、林業地としての杣や中央政府(国府)が資源として預かる、公有地、無主の地が含まれる後山。そして人跡僅かで修行者たちが行き交うような神域とも見做されれる奥山との対比から生まれた事を史料から見出していきます。その言葉の成立を逆手に取れば、旧来から開発の進んでいた荘園内の水田、畑に対する次の拡張過程、更には収穫を維持する為に大量に必要となる水源、秣や草肥の獲得場所として、徐々に山裾へと開発の手が伸びていった結果、その場所を示す用語として発祥したと見做してきます。つまり、日本の原風景や自然景観といったファンタジックな表現とは全く逆の、農村開発の最前線に立つ地勢を表す用語であった事を示していきます。

そして、里山という言葉の成立とほぼ同じくして、現在に続く中世の村落形成が進行していったことを史料、そして発掘成果から見出していきます。古く班田収授まで遡って土地の利用法を検証した結果、荘園化による周囲の無主の地、未開発地、榜示で示される地を越えた山林への荘園の拡張、隣接する荘園との競合を続けながら、中世村落という現在に繋がる農村集落の形成に至った事を示していきます。居住跡が随時変遷してく王朝国家時代から、鎌倉期、そして室町期に至ると、居住跡の遺跡が減少する点を評し、村落の領域が固まっていく事で現在の集落と整合していく(現在の集落と同じ場所に集積されるため、遺跡とならない)と考察していきます。

更には、本来は荘園としての領域ではなかった牧、杣の地も荘園の開発の進展、更には山林伐採による木材供給地としての役割を終えた事で、荘園の付属地、即ち里山として農地の一部に組み込まれていった事を史料、そしてこの種の史料を重視した歴史関係書籍では異例ともいえる、遺跡から発掘される花粉の分析結果等から示していきます。

史料だけではなく、自然科学的な研究成果に基づく結果との整合にも配慮した荘園研究の結果としての里山の発祥と成立。そこには、著者があとがきで述べる、他分野の研究者との協業に於いて、人文系の研究成果がどうしてもおざなりにされたり、逆に史学が自然科学の研究成果を顧みないという歯がゆさを、少しでも改善したいという想いが込められています。

そのようなアプローチに立って述べられる、里山の開発とその景観の定義には興味深い考察も述べられていきます。所謂黒ボク土、日本の土壌を代表する草木類が炭化したことにより生成されると考えられている土壌ですが、これらの土壌の分布や利用方法を以て、日本各地に広大な草原が広がっていたとする、自然科学的な見解に異論を唱えていきます。縄文時代から継続的に草原として利用していたとの見解についても、縄文期当時の許容されるべき人口は僅かに20万人強であることから、これほどの広大な草原を維持する事は不可能であったと見做し、更に時代が下がって牧として用いられていた時代でも、全面的に草原が広がるのは例外的であり、残存している絵図や絵巻などを用いて、農閑期には田畑を用いて、それ以外の時期でも林間の下草を用いた放牧が為されていた程度であると見做していきます(この部分に関して、著述が牛耕中心の西国をベースにしており、軍馬や農耕馬は議論していない点に注意)。

また、森林伐採による水害の発生についても、禿山の表記が遡ったとしても鎌倉、南北朝から現れている点を指摘した上で、中世の水害や飢饉に対し、山林の過剰な開発が直接的に結び付く訳ではなく、最近述べられるようになってきた近世の山林における過剰な開発による禿山の発生に関しても、木材需要に応えるための山林開発よりむしろ(例示が無いのが残念ながら)照明用の松根油採取による、切り株まで根こそぎ掘り尽くしたことによる治山としての保水力の喪失が原因であると述べている点は、いち早く商品経済に包摂される事となる畿内の先進地における農村の一側面として、興味深い着目点です。

人と自然と交わり合う地としての里山ではなく、農村の開発における最先端地としての里山。それ故に、周辺村落との間では、近世まで続く利権関係の紛争や時には命懸けの闘争を伴う競合を常に強いられ、厳しい環境の中、乏しい資源の開発を迫られた里山の維持管理には村落を挙げて取り組まなければならなかったことを史料から導き出していきます。多くの皆様が里山に持たれる情景、里山云々主義のベースとなる持続可能な小さな経済活動への想いや地域共同体への依拠も、歴史的に見れば、開発の厳しさの裏返しとして出来上がってきたことを明快に示していくれる本書。時に、経済面や自然科学によるアプローチを飛び越えて、史学にその考察を委ねてみる事の大切さを示す好例の一冊として。

里山の風景

黄金色の景色2

里山の成立と類書<おまけ>

本ページで掲載している、本書の類似のテーマの書籍のご紹介を。

今月の読本「新田一族の中世」(田中大喜 吉川弘文館)地域史と時代史が交差する、武家の棟梁へと昇華した義国流清和源氏たちを歴史物語から汲み取って

今月の読本「新田一族の中世」(田中大喜 吉川弘文館)地域史と時代史が交差する、武家の棟梁へと昇華した義国流清和源氏たちを歴史物語から汲み取って

やはり8月は夏休みがあるためでしょうか、面白そうな新刊が各社から続々と登場。ついつい買い込んでしまった本達を読んであげる時間を確保するのも苦しくなる(そしてお財布も)月末を迎えています。

それでもお天気が悪い日々が続くので、多少読む時間を注ぎ込めるうちに読み切った、なかなかに楽しい一冊をご紹介です。

今月の読本、いつも楽しみにしている吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリー新刊より「新田一族の中世」(田中大喜)のご紹介です。

新田一族の中世この表題をご覧になって、おやっと思われた方もいらっしゃるかもしれません。

シリーズを追われている方、中世史にご興味のある方なら、最近刊行された一冊に「三浦一族の中世」(高橋秀樹)という、同じような時代背景で、同じようなテーマーを掲げた一冊があった事に気が付くかと思います。続けて出された版元さんの意図は判りかねますし、一見すると一族を入れ替えただけで似たような内容で綴られているようにも思えますが、さにあらず。同じ東国の名門武家を扱っていますが、前書と対照的と言っていいほどの違いを見せています。そして、その叙述の違いが歴史研究者としての著者のスタンスと、本書の特徴を更に際立させます。

「三浦一族の中世」は通史あっての個別史であるという著者の強い想いに従って、在地での活躍、鎌倉幕府での位置づけの著述を差し置いてでも、京を中心にした鎌倉前期、中期における三浦一族の活動を通史の一端として描くことに注力していきます。一方、本書は新田一族に拘らない著述という点では前述の書籍と同じなのですが、通史(この場合は、太平記等のその時代を代表する歴史著述)自体が、描かれた歴史物語、すなわちこれらの著述には必ず著述者の描かんとする意図が含まれているという大前提に基づき、その描かれた著述(歴史物語)から一族の歴史の実像を読み解いていこうとします。

新田一族の中世と三浦一族の中世大きな歴史物語の流れの中に添えられる、個別の歴史というアプローチと、大きな歴史物語を動かす駆動力としての、個別の歴史をその中から読み下していこうとう、正反対のアプローチの違いをまずは読み比べてみると面白いかもしれません。

大きな歴史の流れの中から個別の歴史を読み解いていく本書。そのためには、正確にその交差するポイントを拾い込んでいく下地が必要となります。本書では、大きな歴史物語と繋ぐこととなる新田一族の在地での活動についても、多くのページを割いて検証していきます。

義国流清和源氏の在地への定着と名字の地への分派、繁栄を描く前半。そこには以前ご紹介した「動乱の東国史2・東国武士団と鎌倉幕府」で惜しくも欠落していた、北関東における武士の交流や、浅間山の噴火と復興に重ねた開発の様子が丁寧に描かれていきます。地域史の中で活動する義国流源氏の一門と、より早く在地化した在地領主との血縁や寄進、私領の荘園化。京との関わり合いを描きながら、どのような形でそれが在地に定着していったのかを、新田荘をはじめ、北関東に多く残る史跡、そしてこの手の本では珍しい、中世の発掘成果を解説しつつ(用水と荘園開発に関わる資本、技術としての京との関係性を指摘する点は注目)、当時の状況を俯瞰していく筆致は、文献資料に飽き足らない、著者の旺盛な研究心が伺えます。

旧東山道と鎌倉から越後に通ずる要路を扼する新田荘界隈。そして、石材の産出地を押さえていた事による豊富な財力を誇ったとする義国流清和源氏一門。なぜ新田本宗家(著者は他の一門と識別する為にこの表現を用います)だけが、鎌倉中期の歴史の中からすっぽりと抜けてしまったのか、その理由をいち早く頼朝、そして鎌倉幕府、北条家の傘下に入った事により御家人筆頭の地位を着実に固めつつあった足利本宗家に対して、新田本宗家の方は頼朝への帰参が遅れた事が最後まで響き、武家の名門として敬意は払われつつも、任官もままならず、地位的には一御家人に留まった点から検証していきます。そこには、新田一門内でも、より早く足利本宗家との関係を重視した山名、そして足利本宗家の後押しにより受領の地位を得た世良田家との確執の末に自由出家という、自ら没落へのトリガーを引いてしまった、悲しい本宗家のあり方を指摘していきます(この自由出家という言葉、足利家でもその後出て来ますし、尊氏については、それこそ事あるごとに出家すると言い出す訳ですから、義国流清和源氏のお家芸かもしれません)。

新田一族の中世関連書籍1

世良田、岩松両一門をして、総領としての地位を語られるほどに没落していた新田本宗家。著者の指摘では足利一門として庇護される地位にまで没落してたとされる新田義貞の代(それでも長楽寺への寄進所領の多さから、社会的地位は没落していたが、財政的に零落していたとの判断は早計だと指摘しています、そして本宗家としての求心力回復に努めていたとも)。なぜそのような義貞が表舞台に立つことが出来たのでしょうか。

本書の描くもう一つのテーマ、それは清和源氏嫡流としての新田家の復活に繋がる理由を追う事。その前段階として、元寇による危機を打破する為に北条家によって起こされた、宮将軍の一時的な源氏将軍化による、御家人への求心力回復活動があるとします。源氏将軍に奉仕する清和源氏筆頭としての足利本宗家の地位を北条家が認めた事で、図らずも足利家の地位が向上、それは源氏将軍、そして宮将軍の次の地位を担える立場は北条家ではなく、清和源氏の一門である事が自明となった点に帰着するとの認識を示していきます。

この著者の認識に従って鎌倉幕府滅亡、そしてその後の混乱への経緯を紐解いていくと、面白い結果に結びつくことになります。北条家の戦費取り立てにあい、やむを得ず挙兵に至ったと述べられる義貞挙兵の理由も、清和源氏筆頭で総領でもある尊氏の(当時は高氏)指示による、足利一門を賭しての決起。既に官職を帯び、三河を拠点に、西国を押さえに掛かる足利本宗家の尊氏に対して、無位無官ながら、同じく本宗家としての伝統を有し、敬意を払われていた新田氏の当主として、北関東に広く一族のネットワークを有する源氏一門、御家人を束ねる役割を担わされた新田本宗家の義貞。鎌倉陥落とという、見事にその役割を果たした義貞の力量もあって、急速に御家人たちに対する求心力を高めていったと指摘します。その根底にあるのが、清和源氏こそが武門の棟梁を占めるという、前述の伝説の再生成であったと見做していきます。

そして、建武新政後のわずかな期間で後醍醐と決裂する尊氏と、それを追討する義貞。ここで著者は、足利一門扱いに過ぎなかった新田氏が歴史の表舞台に引き出された理由を、太平記成立の過程から読み解いていこうとします。お互いに協調はすれども反目する理由がなかった尊氏と、義貞。後醍醐に反旗を翻したことで朝敵となった尊氏に対して、追討する義貞を花園院の院宣によって同じように朝敵に擬したことで、朝敵同士の争い、即ち足利一門同士の私戦から公戦へとの転換があったことを認めていきます。公戦の形式を整えるためのスケープゴートとしての朝敵、新田義貞。そのイメージはその後に語られる忠臣、新田義貞のイメージとは大きくかけ離れていますが、尊氏、そして室町幕府の正当性を語る太平記の著者にとっては必要だった手段。実際に湊川での敗戦後、それまでの君意を汲み取って徹底抗戦を唱える義貞は逆に後醍醐に遠ざけられる一方、恒良親王を伴って北陸へ落ちていきます。著者はその行動に対して、旧来からある賊軍とされないための配慮ではなく、「忠臣」である事を辞めと表現し、後醍醐と決別して、次の玉を握った上で抗戦を続けたと提起していきます。

表面的には公戦を唄いながら、実際には足利一門の闘争に終始する清和源氏の両宗家。建武新政とその後の混乱の中で位階を引き上げていく尊氏と、鎌倉陥落と、その後の尊氏追討の功績によって急速に位階を挙げていく義貞。戦乱の中、二人の源氏が戦いあう事で清和源氏の地位はどんどん上昇し、それに伴う自らの動員力の源泉、軍勢催促や見返りとしての軍忠状発行、そして安堵や仕置きといった権限を集積していきます。

戦いの中で積み上げられていった、両宗家の軍事的な地位と付随する権能。その行き着く結果としての尊氏の将軍就任。その流れは、主従制を規範として棟梁を仰ぎつつ結集を図るという、武家社会特有の結集核、求心力の成長の筋道そのものを観る様な思いを持たせます。そして、残された多くの史料が、その流れに連なろうとする御家人、武士にとって、繋がりに結びつくことを如何に重視していたかを改めて示していきます。歴史物語の中で描かれる新田一族の浮沈と、結集核としての棟梁の資格。結果的に新田本宗家は滅亡の道を歩むわけですが、その中で培ってきた物語、伝説は長く生き残り、その後の徳川江戸幕府成立の歴史的継承、義国流清和源氏、新田一族世良田氏という筋書きを再び蘇らせる下地になることになります。

大きな物語の中に組み込まれた一族の活躍を語り起こしていくことで、大きな物語の駆動力の源泉を解き明かしていこうという本書。巻末にあるように、それは単に一族の歴史を読み解く事だけではなく、物語として描かれる時代背景を改めて見直して、その中に織り込まれた想いを読み解き直す事を繰り返すことで、導き出されていくのかもしれません。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。

新田一族の中世関連書籍2