今月の読本「人物叢書 月照」(友松圓諦 吉川弘文館)復刻された貴重な一冊に込められた、苦悩する兼宗と実践の姿

今月の読本「人物叢書 月照」(友松圓諦 吉川弘文館)復刻された貴重な一冊に込められた、苦悩する兼宗と実践の姿

吉川弘文館さんが日本歴史学会からの委託を受けて刊行を続ける、終わらないシリーズとも評される一大人物伝のシリーズである「人物叢書」。刊行以来、幾度となく絶版となった作品を復刻していますが、昨年はSNSを利用されている方を含めて、広範な読者の方にアンケートを取っての復刊キャンペーンが実施されました。

何時もの如く、悪乗りで何冊かの復刻をリクエストしたのですが、嬉しい事に、推させて頂いた何冊かが今回、復刊を果たすことになりました。

リクエストして復刊して頂いた以上は、何時かは購入しなければ申し訳が立たないという訳で、漸く山を下りた年末に、まずは一冊購入してきた本をご紹介します(復刻版をずらり取り揃えて下さっていた、ジュンク堂書店甲府岡島店様に今回は感謝です。河村瑞賢と随分悩んだんですよ、実は)。

年末年始にコツコツと読み続けていた、今年最初の一冊、「人物叢書 月照」(友松圓諦 吉川弘文館)をご紹介いたします。

本書は昭和36年に初版が刊行され、昭和63年に改められた版が元になっていますが、旧版のまま復刻されたのでしょうか、少々古風な活字で刷られています。また、近年刊行される書籍ばかり読んでいる身には、古風な文語体を読みこなすのに少々骨が折れた事を正直に述べておきます(文章自体は極めて平明です)。

しかしながら本書が極めて貴重でかつ、現在に於いても読むに値する価値があるのは、ほとんどの場合において西郷隆盛の添え物として扱われる月照自身の、現時点における殆ど唯一の評伝であることです。

西郷と肝を照らし合わせて、京都に於ける公家と武家の橋渡しをした、尊皇派で憂国の志士のような、ややもすれば不良僧、破戒僧とも見做されそうな人物が男二人で悲劇的な入水、といったイメージを全面に語られる場合が多いのですが、本書をお読みになれば、そのようなイメージが全く異なっている事に気が付かれるはずです。

京都を代表する寺院である清水寺の塔頭にして、実質的な寺務を統括する成就院の第24世本願という、当時の京都に於ける仏教界でも高位に位置する僧侶。奈良興福寺の一乗院に連なる法相宗としての律に依拠する厳しい側面。弟である、のちに25世となる信海は長く高野山に学僧として留まっており、その弟の研鑽に自らは及ばないと素直に評する、教学を追求したいと願う想い。全く正反対の、病弱ながらも、師である蔵海から続く、山内における激しい抗争の収拾と、一山の復興を背負うことになる、世俗に塗れる苦しい心境。観音信仰を母体とする清水寺が培ってきた信仰心が生み出す、渡世に寄り添う大乗律への想い。

藩主斉彬の使いとして、その名を雄藩に響かせ始めていた西郷とはいえ、およそ不釣り合いな、一山を代表する三職のうち二職をも兼掌した、清水寺の最高位にあった月照との関係。

実は、西郷と月照がどのような関係にあったのか、最晩年となる密勅を水戸に下す段階から薩摩への下向に至る時点以前に於いて、記録上で知られている事は殆ど無い点を明示します。西郷が斉彬の下で活動していた時期、本坊である成就院は弟である信海が継いでおり、本人は京都周辺の寺院や空屋敷を転々としており、空想好きな方であれば、同志を募り、内偵を恐れて、居所を転々としていたと想像の羽を広げたくなるかもしれません。しかしながら、彼が成就院を退去したのは、前述の山内の抗争と本山である南都の一乗院による意向の板挟みあった末に、隠居届を出し続けた上での善光寺への無断出奔に対する懲罰としての域外隠居としての退去であったことを明示します(後に許されますが、入山自体の差し止めはされていなかったこともあり、その後も成就院に弟を度々訪れます)。

そして、月照を悩ませ続けたこの問題の解決に助力したのが、本山である一乗院宮の弟子であり、後に青蓮院宮となる、中川宮。そして、興福寺に強い影響力を持つ、清水寺を祈祷寺としていた、歌道を通じても交流のあった摂家筆頭、近衛家との繋がりが浮かび上がる事になります。両家に出入りする公家、宗教関係者たち、さらには近衛家と縁戚で繋がる薩摩との関係から、当主である近衛忠煕の使僧としての役割を務めるようになった事を見出していきます。

著者は、勤王運動に関わった人々との関係を綴る章の冒頭で次のように綴ります。

「彼は決して主謀者ではない。たまたま、そうした主謀者と長く交際していたので、自然、その中にひきずりこまれたという方が正しいかもしれない。ただ彼の身分が当時として重要な役割をしたというだけのことである」

勤皇の志士をイメージされる方にとっては失望を感じるかもしれない一文ですが、その後に続く内容を読んでいくと、肯定せざるを得ないようです。公武の交流が大きく規制される中で自由にその双方を行き来する事が出来た、藤色衣を纏った高位の祈祷僧にして使僧という立場。志士というイメージとは正反対に見える彼が、なぜそのような活動に没入した上で入水という結末を遂げる事になったのでしょうか。

本書の著者は戦後に神田寺を興された、NHKラジオ法話『法句経講義』でも著名であった方。ヨーロッパ留学も経験され、現在の大正大学で教鞭を執られていた時代もある仏教研究者で、月照自筆の書籍を清水寺から委ねられていたほどに、精神面を含めてその研究を追及されていらっしゃいました。

本書は、そのような月照の仏教者としての生き様を要所に織り込む事でその思想面での変化、素地を見出していこうとしていきます。この辺りの著述になると、相応に宗旨に慣れていないと読み解く事が難しくなる部分ですが、月照の想いを同じ仏教徒としての視点から掬い取っていきます。一山の財政的な危機に直面しても、三職六坊と呼ばれる塔頭毎が勢力争いと続ける姿と、名義継承に立てられる年少の住職(月照自身も)や宮中を模した仮名に見る形式主義に落ちた清水寺、当時の京都に於ける寺社の姿に強い憤りを募らせる著者。印象的に語られる、その中で一人、門前に降りて廻行を行うという、御院主様と称された、三職中で実務を司る(他の二職は主に堂上出身の子弟が務めた)、寺領133石、門前5町を支配地として束ねる本願の責務を果たさんと、病弱を押して臨む月照の姿に、彼が会得したであろう二つの律のうちの小乗律としての戒律を重んじる宗教者としての強い矜持と、大乗律としての摂衆生戒、実践を通して人々に寄り添う宗教者としての生き様を見出していきます。その先に見出す尊王への思想的な展開について、本書では色々な可能性を綴っていますが、その確信と踏んだ子島流の法相密について、著者は門外漢だとして確定的な事は述べられません。

著者の手元にあった2冊の月照直筆の書は東京大空襲によって焼亡して今は無く、それ以前に蓄積していた研究成果と宗教者故に収集できた清水寺に残された彼の行動を記す内容と思想面での深化を併せて綴る本書。それだけでも唯一の内容を具えていますが、刊行後50年以上が経た今でも、その後に続く評伝が無い中で、今を以て貴重な一冊。

テーマ毎に時間軸が巻き戻されて綴られるために、少々追いかけにくい構成ではありますが、幕末の京都を舞台に、実際に活動された人物の息吹とその本質、交流した人々の姿を伝えてくれる、人物伝として相応しい内容を具えた一冊。本書を手に、今年の大河ドラマにおける前半のクライマックスとも言えるシーンでどのように演じられるのか、興味深く観てみたいところです。

 

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今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

本著が上梓されてほぼ一月後の2月18日、私が本書を読んでいる最中に、著者である梅溪昇先生(大阪大学名誉教授、近代史)が逝去されました。

享年95歳、本書が生前に刊行された最後の一冊となってしまいましたが、この一冊が94歳の時に書かれた事にまずは驚嘆せざるを得ません。無駄のない美しい筆致、積み重ねられた研究の成果に基づいて明白に述べられる洪庵の足取り、それでも判らない点について、力たらずだと述べられた上で最後まで新出の史料を期待しつつ筆を進め、検討を加えていく飽くなき探求心。

著者がその研究生活で最も心血を注いだテーマの集大成が、最後にこのような形で多くの方が手に取れる本として刊行して頂けた事に深く感謝する次第です。刊行を待たずに執筆者の方が鬼籍に入られる事も稀ではない、永遠に続くかの如く続く本シリーズに、貴重な一冊がまた加えられたようです。

人物叢書_緒方洪庵

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)のご紹介です。

幕末、明治維新期の歴史にご興味のある方ならどなたでもご存知かとは思いますが、多くの場合は福沢諭吉とセットで述べられたり、緒方貞子さんの祖先として紹介される例が多いように思われますが、その際にどのような業績を残したのかが述べられる事は少ないようです。そして、今も大阪の街に残る適塾の遺構を何故大阪大学が管理しているのか、不思議に思われたことは無いでしょうか。

本書に述べられるように、洪庵没後の適塾が発展解消して成立したのが現在の大阪大学医学部の母体であり、本書の著者、梅溪昇先生こそが、その適塾の保存を推進し、現在の大阪大学適塾記念センター発足の立役者となった、明治維新期の著名な研究者であり、緒方洪庵研究の第一人者であられます。

大阪の高等教育、否、近代日本の入口における最大の高等教育機関の主宰であり、幕末大阪の医師番付で唯一の蘭方医かつ、最高位に位置付けられ、病苦を押して就任した幕府奥医師、西洋医学所頭取として在職中に江戸に没した、幕末最高の医師にして蘭学者。

巻末に掲載された600人以上にも及ぶ門下生と、語られる事は少ないですが、コレラの治療に奔走し、大阪、そして西日本全般に広がった種痘所の先駆を開き、後の公設種痘所に繋がる道筋を付けた、大阪の街を守った町医者としての側面。

あまり成果を顧みられることが少ない(東日本では特に)洪庵の偉大な足跡でですが、彼が備中の足守というかなり辺鄙な土地に生まれ、主に大阪で活躍していた事が影響しているのでしょうか。しかしながら、本書を読んでいくと、当時の中国地方には医師の一大人脈網が張り巡らされていた事が判ります。医師免許も、国家機関による専門教育機関もなかった当時、学閥と人脈作りこそが医師にとって最も重要だったことは、洪庵が大阪で中天遊に入門し、その紹介で江戸に出て、坪井信道に師事し、その師である宇田川玄真の系譜に繋がった事で、望まざるとも、最後の職となった奥医師、西洋医学所頭取への道に進む事になります。本書では、当時の人脈主義ともいえる医師同志の繋がりを紐解く事で、洪庵の人脈(息子を修行として加賀、大聖寺に送り出すも、其処を脱走した息子たちが、越前、大野の門下に飛び込むというおまけ付き)から、広く西日本に広がった彼の業績を俯瞰していきます。

広がる医師のネットワークを通じて流れ込んでくる情報と、それを頼って入門してくる門弟たちが更に各地に移っていく事で、彼の大きな業績である種痘の普及も、彼らのネットワークを通じて広がっていく事になります。当時としては最大であったと思われる600余人を数える門弟たち、その教育方法も独特のものがあったようです。先駆的な塾頭を筆頭に習熟度別の等級制を採る一方、飲酒喫煙をあまり咎めず、医学に限らず塾生同士が自由闊達に学ぼうとする雰囲気を良しとした、商都、大阪らしい気風。町医師としての収入を投じ続けなければならないほど経費の面では常に苦しく、原書は乏しく、独特の輪読法を用いたその教育システムは現在の水準からすると首を傾げる点も多々あります。しかしながら、大きな負担も顧みず、闊達な若者達を我が子のように可愛がり、受け入れていった洪庵の家族、特に妻である八重の苦労と、時に逸脱が過ぎて破門もされながらも、長くその恩に報いつづけた門弟たちの物語からは、豊かな人間関係が其処にあった事を感じさせます(八重の墓を最初に詣でた際の諭吉のエピソードには、驚かされると同時に、その師弟愛の深さを感じさせます)。

更に、町医者として、蘭医の研究者としての矜持には強い感銘を受けます。海外への扉が開かれた直後に流れ込んできたコレラ。その治療、感染対策が急務となった際に、打算や迷信ではなく、急ぎ乏しい書籍の中の情報を読み解き、実際の治験を加えた治療を進める実践的な医療態度。そして、洪庵が長年を掛けて著述を成した「扶氏経験遺訓」。後に遣欧使節によってオランダ・ライデン大学に収められた、当時の日本が到達した西洋医学受容の成果を示す訳文に添えられた、自抜の編「扶氏医戒之略」。

本書では原文(写真)と読み下し文の全文を掲載して、その意図する所を述べていますが、著者の解説はあくまでもその著述至った経緯を述べるに過ぎず、その文意を述べる事はありません。敢えて解説せずとも、その丁寧な十二条に渡る説を読めば誰しも納得されるはず。そこに書かれた意図は医師ならずとも、あらゆる「先生」と形容される方々が持つことを求められるであろう矜持が記されています。

私が特に感銘を受けた、第九条を掲示させて頂きます

「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依托し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも白し、最辱の懺悔をも状せざること能わざる所なり。常に篤実温厚を旨として、多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論を俟ず。」

著者は洪庵がその学歴において、儒学にあまり感化を受けずに年少時代を過ごした事が後の蘭学、キリスト教的自然科学を素直に受容する素地となったと述べていますが、この一文には著者の指摘にもあるように、見事に儒教的思想と当時の西洋的な思考が交差、醸成されていると思えます。

日本一の私塾の主宰者として、大阪一の町医者として一生を終える事も出来た筈の洪庵。しかしながら、時代の奔流の中で儒教的(ないしは武士的)素地を有する彼は、病の体を押して、江戸に出府し、最後は大儀に殉じる道を選んだようです。その命を以て報じた成果が、後の幕府解体によってあまり残らない結果となってしまった点は大変残念な事だったかとは思いますが、著者はそれでも彼が蘭医として将軍を直接診察する奥医師、そして実質的に最高の格式を有する法印に任じた事により蘭科医が幕府に公式に認められた点を評価していきます。

刻苦勉学を積み、医師として、研究者としての矜持を持ちつつ大儀に殉じた形となった洪庵ですが、本書では一方であまり顧みられなかったと思われがちな、洪庵とその家族の物語も存分に述べていきます。実に七男六女を儲けた糟糠の妻である八重と、実家からの多大なる支援(洪庵の才能を見込み、適塾移転の際の費用工面や孫の出奔の弁明に遠路越前まで出向く塩名の名家でもある薬種商の義父)。少年時代から大阪、江戸と度々行動を共にし、よき理解者でもあった父と、足守の家を守り続け長寿を全うした母、備中備前に広がる親族たち。厳しい躾と教育の賜物として、早くから海外留学を成し遂げ、後の緒方病院、大阪大学へと繋がっていく息子たちの足取り。このような人物伝でなければ取り上げられない家族の物語も語られていきます。

緒方洪庵の研究と顕彰を一生のテーマとした著者にとって、まだまだ述べておきたい事は沢山あったのかとは思いますが、その先の研究は大阪大学、そして後進の研究者の皆様がきっと引き継ぎ、発展させていってくれるはず。

著者が伝えたいと願った、幕末が生んだ偉大な「先生」が為し得た想いが、本書を通じて多くの方に伝わる事を願って。

人物叢書_緒方洪庵と江戸時代の医師修行

本書と一緒に是非お読みいただきたい一冊、同じ吉川弘文館より刊行されています、歴史文化ライブライリーより「江戸時代の医師修行」(海原涼)を。江戸時代の医師ネットワーク形成について詳しく書かれています。本書にも直接関連する、幕末期の種痘の伝播についても述べられています。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。

今月の読本「人物叢書 二宮尊徳」(大藤修 吉川弘文館)その生き様と想いは、予が書簡を見よ、予が日記を見よ

今月の読本「人物叢書 二宮尊徳」(大藤修 吉川弘文館)その生き様と想いは、予が書簡を見よ、予が日記を見よ

歴史書専門の出版社でもある吉川弘文館。

各種の歴史書シリーズを手掛けていますが、中でも決して完結しないのではないかと思われるシリーズが、日本歴史学会の編集により刊行を続けている「人物叢書」。

歴史を学ぶ楽しさの一つでもある「人物」に特化した本シリーズは、インデックス付きの読みやすい文体の作品が多い事もあり、比較的手軽に読めるのですが、豊富な注釈と引用を含めて、多くの類似書籍に参考文献としても引用される、一線の研究者の方が丁寧に執筆された本格的な内容を備えたシリーズでもあります。

今回購入したのは、最新刊のうちの一冊(通巻281冊目)「二宮尊徳」(大藤修 吉川弘文館)です。

人物叢書 二宮尊徳流石に完結しないシリーズと呼ばれるだけあって、本作も著者のはしがきによると、執筆を依頼されてから実に30年近くの歳月を経て脱稿に至った事が述べられています。しかしながら、その間の研究成果が存分に反映されているとも考えられますので、この時期に読めるタイミングが得られた事をまずは喜びたいと思います。

本書は二宮尊徳の出生から死後の所謂報徳運動、更には「薪を担いだ金次郎」の伝説に至るまで、彼に関する広範なテーマについて検討を加えていきます。そのアプローチは冒頭に述べられる、尊徳が死期を前に語った一言

「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」

この言葉の通り、尊徳の残した書簡、日記などの膨大な資料を丹念に読み返すことで、虚構を排し、真に尊徳が語った言葉に迫ろうとしていきます。

著者の手によって、その筆まめを越えた尊徳自身、そして妻や娘によって代筆された帳簿や日記、思想を綴った筆跡、幕府や仕法を受けた武家に上申する為に作成された膨大な記録の数々を読み解かれる事によって、死後、そして明治以降に偉人として持ち上げた書物や記録に施された虚飾と真実が徐々に分かれていきます。

儒学を学べるようになったのは、武家奉公に出る頃であって、幼年時代ではなかった事。また、武家奉公時代以降は、所謂小作を使って農耕を行わせる地主階級にあり、その時代に学んだ儒学を武家奉公人たちに教えたり、短歌や俳句、晩年には書画をも学ぶくらい、実は学もあり、趣味をも嗜む立派な富農としての体裁を持っていた事を示していきます(もちろん、これには藩士として、そして御家人としての体裁を整えるという意味もあったはずです)。

その上で、余りにも著名な報徳仕法について、著者はその後に起きたある誤解を解く試みをします。それは、報徳仕法の大原則が「年貢を収納する側に最低限の「分度」を弁えさせた上で、その余剰を以て新たに農業へ投資することで全体の収益を向上させ、それ以上の差額が生じた場合には、更に別の投資に廻す事」である事を、仕法の各事例を通して示していきます。

明治維新後の報徳運動で欠落した点、それは収納する側(すなわち政府)が「分度」を弁えるという、仕法の最も重要な入口の議論を葬り去って、ただ協業と利益の相互還元だけを語る運動になってしまったことを明らかにしていきます。尊徳が仕法を受け入れる際に収納側に花押入りの念書を獲ってまで重視した点、それは収納する為政者への厳しい戒めが込められている点に着目していきます(更に、著者は尊徳自身が平等主義を掲げている訳ではなく、富農や為政者の存在自体を否定していない点に着目しています)。

その結果、仕法を受け入れた為政者側にも、仕法を受け入れる農村側にも(厳密に収量管理が行われる)多くの軋轢を生じさせる結果となり、多くの困難に向き合う事となった結果、遂には故郷小田原藩に戻る事が出来ず、遠く今市の地で最期を遂げる事となります。

この辺りの悲哀の物語は比較的知られていることかもしれませんが、著者はその背後にある尊徳のしたたかな計算を記録から読み解いていきます。桜町仕法の途中でサボタージュを遂げて成田山に参篭してみたり(わざわざ探させた上で呼び戻させるように仕向ける役者ぶり?も)、上司が気に食わないと辞表を片手に詰め寄ってみたり、幕府に登用されて勇んで仕事に打ち込んでみたが、そのうちお声が掛からなくなると、上司に愚痴をこぼしてみたりと、その姿は今時の困った社員にも見えてきてしまいます。また、意外なことに米相場や投機によって理財を行う事に長けており、それによって仕法の元手を増やすまでは良かったのですが、幕藩体制の悲しさか、資金不足を解消する為に、わざわざ他の仕法で蓄えた元手を投入しようとすると逆に阻止されるという、やるせない現実にも突き当たります。

そんなドンキホーテのような現実の中でも、自身の信念に基づいて粘り強く交渉を重ね、実績を上げていく尊徳の周りには徐々に協力者が集まっていく事を、著者は漏らさず記していきます。中には、当時の上司だったり、明らかに嫌がらせを行っていた人物も含まれていますが、尊徳の情熱と信念、そして少しずつではありますが成果を実らせる仕法の結果に惹かれて、彼の周りには多くの門人、支援者が集まる事になります。

大規模な新田開発に伴う高度成長期が過ぎ去った後に続いた、経済成長の停滞と、環境変化や開発の行き詰まりによる新田の荒廃。そのような成長の曲がり角に際して各地で用いられた、尊徳仕法の元となる、舫いや、講、そして無尽(この言葉、今や山梨しか通用しないでしょうが)といったマイクロファイナンスと呼ばれる相互扶助的な金融システム。今の日本には失われてしまった集落や同一地域を基盤とした相互扶助体制を、農村を基盤として永続的なシステムとして構築することに心血を注いだ二宮尊徳。その思想の原点は相互扶助の大前提となる一族の絆を守る事。彼が終生を賭して、そして小田原藩への出入りを差し止められても続けた仕事が、没落して継承者を失った二宮総本家の復興。

彼の生の声、生の想いを紐解き描いた本書。そこには、家族から一族へ、一族から地域へ、そして国へという、我々が忘れかけている儒教の徳目、その普遍的な想いが色濃く反映されているようです。

<おまけ>

本書に関係する書籍のページをご紹介

今月の読本「人物叢書・八木秀次」(沢井実 吉川弘文館)科学技術行政の先駆者が本当に成し得たかった教育とは

今月の読本「人物叢書・八木秀次」(沢井実 吉川弘文館)科学技術行政の先駆者が本当に成し得たかった教育とは

何時も歴史関係の書籍で大変お世話になっている吉川弘文館さん(twitterでもフォローして頂き、誠にありがとうございます)。吉川弘文館と言えば歴史書の専門出版社、かの全国公設図書館常備、日本史百科の最高峰にして読む凶器「国史大辞典」の刊行元でも知られていますが、もう一つの側面として日本歴史学会から委託を受けて刊行を続けている「人物叢書」の出版元としても著名です。

こちらの人物叢書、全巻揃う前に続々と古い刊行物が廃版となり、度々旧版の復刊なども並行して行われたりもするので、永久に全巻揃わないのではないかと関係者ならずともやきもきさせられるシリーズだったりします(執筆者に割り当てられていながら、惜しくも鬼籍に入られてしまった方も一人や二人ではありません)。

そんな息の長いシリーズである人物叢書ですが、意外な事に近現代の人物にもスポットを当てています。とはいっても絶対的に割り当てられている人物が少ないので、一般の書店の棚に置かれているのはあくまでも「歴史上の人物」が殆どだったりするのですが、今回ご紹介する一冊の主人公は昭和も50年代まで存命だった人物です。

文系、歴史ファンの皆様は誰それ?でしょうが、電子、電波関係を習得された方なら絶対知っている偉大な研究者にして発明者。今も多くの家庭の屋根を飾る「八木・宇田アンテナ」で知られる八木秀次博士の人物伝です「人物叢書 新装版 八木秀次、日本歴史学会 編集・沢井実 著・吉川弘文館

人物叢書・八木秀次まずはじめに、本書を楽しむためには近代日本の科学研究史、科学者及び彼らに支援や影響を与えた産業界、政界の関係者を一通りマスターしておく必要があります。

これらの知識がないと、残念ながら本書を楽しむ事も理解する事も難しいと言わざるを得ません。特に現在の中高等教育機関で行われる歴史教育において、彼らが活躍した明治維新以降の歴史に触れる時間は極めて限られており、それらの知識を得るためには高等教育を経た後に専門の教育を受けるか、読書等を通じて独力で知識を得る必要が生じます。

一般的な人物叢書に登場する人物であれば、歴史の授業や豊富な周辺書籍、TVの教養番組等で紹介される際に周辺の人物像も含めて取り上げられますが、本書に出て来る研究者たちは同じ分野に携わった事のある方や、大学のOBの方ならまだしも、異なる分野の研究者だったりすると、その分野では著名な人物でもほとんど知られていないなどという事もあるかもしれません。

本書はこのような事情を鑑みてでしょうか、殆どの登場人物について顔写真と簡単な履歴を掲載していますので、最低限の知識があれば理解することは可能なように配慮されています。もし業績に興味がある方は個別に調べてみると良いかと思います(私も顔写真が出ている方は全て判りましたが、文中の人物となると…)。

本書では八木本人の研究者としての業績については多くを語っていません。何故なら、かの有名な「八木・宇田アンテナ」にしても八木本人が直接発明した訳ではなく、彼の研究チームの一員であった宇田新太郎氏の発見に対して示唆と実験の方向性を示したに過ぎません。それにも拘らず彼が著名な発明家として列せられるのは、宇田新太郎氏の研究自体が、八木が率いた研究プロジェクトの一環であったからです。

八木は東北帝国大学において齋藤報恩会の強力な資金援助を得て幅広い電子、電波分野の研究プロジェクトを立ち上げます。その規模は現在の極めて細分化された研究テーマからすると非常に広い範囲の電波利用に関する研究を行っており、その中でかの「八木・宇田アンテナ」の発明が生まれてくることになります。

八木は現在にも通じるこの「プロジェクト型研究」方式を次の奉職先である大阪帝国大学でより幅広く実践することになります。

彼自身は工学博士であり、専門分野は電気工学(弱電、電波)でしたが、新設の理学部物理学科の主任教授として就任しています。これには初代総長の長岡半太郎の意向が色濃く見えるようですが、彼の研究者としての側面よりも「プロジェクトマネージメント」能力を買っての就任であったのは間違いはないようです。

その研究範囲は東北帝国大学時代を遥かに超越し、理論物理学から電波、電子線、音波、核物理学、光工学、流体・飛翔系…と現在の理学部と工学部を全て網羅するような幅広い研究を行う部門のトップに就任したことになります。

このような立場に立つ人物であれば、多額の費用と多数のスタッフを擁する必要があるため、当然のように政治的な動きが必要となってきますし、本人もその自覚の上で、政治的な発言を繰り返し述べていたようです。このような政治的な動きを技術者や教育者、研究家が行う事自体、日本ではあまり好まれない風潮がある点については後年、はっきりとその弊害を述べているのは、研究者、教育者としての強烈な自負と共に、これらの発言をすることに対する風当たりの強さの裏返しともいえます(東北帝国大学で師弟関係となる松前重義の後年の活動を見ていると、八木のやりたかった事を戦後、松前が自ら興した大学を拠点として実現しようとしたのではないかと思えてきます)。

そして、政治力を有し、研究者を束ねる立場であった八木の元には当然のように、当時の最大勢力である軍部の影響が色濃く見えてきます。八木自身が軍部への協力に対してどのような想いを持っていたのかは本書をお読みいただければと思いますが、終戦までの動きを見ていると奇妙な感覚を受けます。

  • 八木自身は工学者でありながら、最後の最後まで基礎研究の重要性、特に理論の重要性と研究者としての基礎的教養を非常に重んじていた事
  • 八木自身は世界に冠たる発明を支えた人物であったが、一方で徹底的に日本の独自技術に対しての立ち遅れを懸念しており、外国からの模倣を脱しえないと常に考えていた事
  • 軍装備品の開発や、調達について、第二次大戦中に於いても、各社、各組織が独自性を訴えた結果、工業標準化で非常な後れを取り、深刻な影響を与えていた事を明確に示していた事
  • 研究開発や工業化において戦時中に於いても商工省と文部省で激しい綱引きが演じられており、結果として研究開発と工業化の統一的連携が取れなかったこと
  • 上記の圧力によって、既に現業部門を持たない組織となっており、実効性を有しないにも関わらず技術院総裁に就任している事(これは今日のプロマネでも憂慮すべき事態を生じさせるパターン)
  • 技術院総裁就任時には投入を声高に述べているにも拘らず、決戦兵器のような無謀な開発を明確に否定している事(ある意味、スケープゴートを狙ったとも思えるが)
  • 研究者が軍属として服する場合に、軍組織の体系に組み込まれることによって、研究者の能力ではなく組織の階級上下が優先されることに対する懸念を示している事(現在の企業における研究所所属と現業所属の関係も同じ)

これらの指摘が、本書の著者による恣意的な抽出ではないとすると(ある程度念頭に置いて選んでいるかと思われますが)、これら八木が戦中に指摘し、理解し、発言してきた多数の意見が現在の研究開発分野、工業、産業分野でもそのまま当てはまる点には唖然とするしかありません(最たる例は航空宇宙開発分野における文科省と科技庁の確執)。

盲従止む無しとも言われた戦前の時点で、八木がこのような所感を持ちえた事自体、並はずれた広い視点を持っていたことが窺い知れるわけですが、そのような八木が研究者として以上に本職と任じていた教育者として最後まで望んでいた事は、あくまでも基礎学力の向上と専門性を養う前の普遍性のある教養の獲得であったと著者は述べています。

このような発想自体、工学者としては異例なのかもしれませんが、彼の根底にある二つの考え方、即ち日本の基礎研究力は依然として欧米の模倣を脱し得ていないこと、日本の政界、産業界の指導者層は基本的には文官であり、専門性を持って奉職する立場はそれと対比すると著しく低い事(もしくは専門性しか有しないために、幅広い教養を獲得している文官と対等たり得ないと考えている)を鑑みれば、至極まっとうな結論なのかもしれません。

今日、日本の基礎研究者層は従来より大幅に厚みを増しており、世界的にも評価される研究成果を次々と発表するようになっています。一方で、工業の方は一時期、「模倣」の領域を脱し、世界を主導する立場に立ったように見えましたが、各社の独自性が祟って各個撃破された挙句に、半導体のように最先端領域となると、基礎研究と生産技術との連携の低さが露呈、技術力でも後塵を拝するような状況となっています。

このような状況をもし八木が見たら、現代の産業界にどんな言葉をかけるのでしょうか。

また、彼は比較的若い時にドイツ、フランス、イギリス、そしてアメリカに留学しています(第一次大戦の影響で転々としたともいえます)。彼の日本に対する欧米の模倣、独自技術への固執に対する反感の元となった思想はこれら留学経験に基づいているはずなのですが、残念ながら本書では言及されていません。

そして、彼は日本で初めて「科学技術」という用語を用いた人物であると目されています。本書を読んでいると、そのような人物である八木から後輩である我々現在の「技術者」に対して「もっと科学を大事にしろ」と問いかけているかのように思えてならないのです。