冷え込む日の少ない今シーズンの冬。
その代わり、立て続けに降る雪のおかげて、八ヶ岳の山々は真っ白な状態が続きます。
南麓の方は気温も高く、降雪量も少なかったのでそれほどではありませんが、西麓の方は繰り返される降雪のため、八ヶ岳の白さも一際です。あいにくお天気が優れないのですが、それでもたっぷりと雪を戴く雪山を眺めるのは格別なものです。
八ヶ岳エコーラインから望む、八ヶ岳。
同じく、真っ白な蓼科山と北横岳。
比較的標高の低い車山も山腹まで白い雪に覆われています。
八ヶ岳を愛でながら、更に標高を上げていくと、道路も一面雪だらけ。
圧雪の中をそろそろと上がっていきながら、本日の目的地に向かいます。
車を駐車場に止めると、雪の中にブロンズ像が立ち並んでいるのが見えてきます。
辛うじて除雪された庭園内の小路を登っていくと、ブロンズ像たちの先に、かわいらしい建物が見えてきます。
サイロのようなアーチ構造の屋根が連なる、不思議な造形を持った建屋。村野藤吾の設計による独創的なデザインも、雪景色の中では、北欧を思わせるしっとりと落ち着いた感じを漂わせます。
雪に覆われた建物の正面には、この施設を代表する逸品が屋外に展示されています。
長野県諏訪郡原村出身の美術家、ブロンズ彫刻家の清水多嘉示の代表作でもある「みどりのリズム」です。
ここは、原村に寄贈された氏の作品と、村が所蔵する考古資料を収蔵するために標高1300mという高地に設けられた村営の美術館兼、郷土資料館。八ヶ岳美術館(原村歴史民俗資料館)です。
今日はこちらで催されている企画展「ハイウェイの沿線遺跡群」開催を記念して行われる講演会を聴講する為に訪れたのでした。
こちらの八ヶ岳美術館。美術館なら当然なのですが、八ヶ岳西麓にある縄文遺跡を扱った展示施設のうち、唯一館内の写真撮影が全面的に禁止されています。従いまして、館内の雰囲気を写真でお伝えすることは残念ながら出来ません(館長さんの目の前で、一眼レフを振り回しながら全力で撮影し続けられていた方もいらっしゃったので、許可は得られるのかと…)。

と、いう訳でパンフレットでお茶を濁すわけですが、レースが吊られたドーム天井から注ぐ柔らかな間接光と、スリット状に切られた欄間から真っ直ぐに射し込む西日に照らし出されるブロンズ像のコントラストが非常に印象的な空間であったことを述べておきたいと思います。館長さんのお話にもあった、天空をイメージさせる空間的広がりと、筒状に区切られた展示室の包まれ感が同居する、ちょっと不思議な展示室です。
そして、展示される縄文土器たちも、参加者の方が口にされていた、小粒だが良い物が揃っているという見解そのままに、他の2か所の考古館と比較すると展示数は圧倒的に少ないのですが、現代アートと言っても全く引けを取らない、独創的で高度な装飾を持った土器が揃えられています。
そして、本日のメインイベント。期間中に4回設けられる講演会のオープニングを務める、当時実際に遺跡の発掘作業に携わった方による回想講演です。
講演会の参加者には写真にありますように、今回の為に新たに書き起こした発掘調査の記録一覧と、今では貴重な発掘調査終了後の1982年に開催された出土品展で配布された、遺跡及び出土物の解説資料がプレゼントされました。
講演会は美術館の展示スペースの一部を用いて行われたため決して広くはなく、座席も20名程度の参加者を想定されていたようですが、実際にはその倍に当たる、40名近くの参加者が集まりました。
参加されていた方の殆どは、地元の住民の方というより、縄文遺跡について非常に良くご存知の方ばかり(村野藤吾の建築に喜んでいるような私は、完全にアウェイです)。館長さんからの提案もあり(八ヶ岳美術館ルール)、講演中も自由に質問、そして講演後も展示物を廻りながら、存分に話し合いましょうというということで、この手の講演会としては、極めて活発な質問のやり取りが続き、和やかな雰囲気の講演は予定の2時間があっという間に過ぎてしまいました。
演者の方は何しろ40年前の発掘の時を思い出しながらの事ですので、全般的なお話というより、当時の記憶の強かったことを拾いながらのお話となったような気がします。実際に発掘に携わられた方でなければ知りえない、発掘時の御苦労や、発掘物の処理方法、そして、やはり自分で掘って見つけたいよとの想い。その中でも、阿久遺跡の特異性と、そこに展開された縄文文化への好奇心は、参加者の皆さんがいずれも強く惹かれるところであり、積極的な質問が繰り返されていたようです。依然としてここでしか発見されない環状集石群や、八ヶ岳を望む柱状列石の謎。他の遺跡を圧倒する芸術性の高い土器の数々(もちろん尖石も井戸尻も観ていますが、ここの土器の造形は素晴らしいです)。そして、この展示会のテーマとなってしまった「ハイウェイの下に眠る遺跡たち」への想い。現在ならば、強烈な保存運動が展開されたであろうこのような貴重な遺跡ですが、当時を知る方々の言葉を借りると、始めは保存されるとは思っていなかった、と。何しろ緊急を要する調査であり、僅か1年で原村村内全ての遺跡を調査せよという指示であったと述べられており、当時の緊迫感と、それでも余りに貴重な遺跡であったために埋戻しという選択肢が採られた事への感慨が述べられていました(同時に、もう少し時間があれば、もっと遺跡に対する知識があれば、良い発掘が出来たかもしれない。更には、全体が保存できればという想いも)
遠くに中央道を望む阿久遺跡の現在の様子。
右手に雑木林があるだけで、遺跡本体は遠くに望む中央道(水平に伸びる森に沿って走っています)の下に埋められており、二度と望む事は出来ません。館長さんも、もう一度発掘すれば判る事もあるのではないでしょうかと質問されていましたが、大分破壊が進んだ後に埋め戻された事もあり、列石などは取り除かれてしまっているため、もはや旧態を望む事は永遠に不可能となってしまったようです。
阿久遺跡の説明看板その1。
阿久遺跡の説明看板その2。
この看板が設置されてから既に20年が経過していますが、ここで述べられている整備事業は、残念ながら未だに実施されていません。今回、僅かに発掘された品々が県から地元に移管されたに過ぎません。
阿久遺跡から望む八ヶ岳の峰々。
縄文時代の人々も同じような景色を望んでいたのでしょうか。
夕暮れの八ヶ岳美術館前より。
高く広がる空の下、雄大な八ヶ岳の麓に広がった縄文遺跡と、その発掘に苦心された方々の想いを考えながら。
豊富な体験施設と国宝土偶が迎えてくれる縄文文化の発信地としての尖石。小さく少々古びているが、藤森縄文文化論の根拠地としての独自性を見せる井戸尻。これら八ヶ岳の縄文文化を象徴するふたつの考古館と比べると、美術館との併設で規模も小さく、場所も不便な八ヶ岳美術館には、なかなか足を運ぶことは難しいかもしれません。しかしながら、原村に存在する縄文遺跡たちは縄文文化を語る上で、決して欠かせないもの。たとえ高速道路の下にその存在が埋められてしまったとしても、発掘成果と発掘に携わった方々、そして、その成果を引き継ぐ方々によって語り継がれる限り、この美術館(史料館)と貴重な遺跡は、縄文文化を語る上で欠かせない位置付けを成し続けるはずだと強く願いながら。
<おまけ>
本ページで紹介している他の博物館、資料館を。