今月の読本「行商列車」(山本志乃 創元社)鉄路が繋ぐアキンドという名の商売の本質を描く二つのストーリー

今月の読本「行商列車」(山本志乃 創元社)鉄路が繋ぐアキンドという名の商売の本質を描く二つのストーリー

朝の登校時間、そのおばさんは何時も伊皿子坂の脇を背中が見えないほどの野菜を背負って登っていました。やおら荷を解き始める何時もの場所、定位置でもあった路地を入った坂の途中が商売の場所だったのでしょうか。

今から数十年前、バブル経済で潤う林立するオフィスビルの谷間に依然として残る下町風情溢れる街角で見られた大都会東京の朝の一ページ。そんな彼女たちが行き来する手段は何時も足元を行き交う地下鉄、その路線を経由して房総の地から早朝に送り出される「行商列車」でした。

昨年末に刊行された際に是非読んでみたいと思っていた、今や風前の灯火となった行商列車をテーマにした一般書では珍しい一冊を、半年を経てGWに漸く書店で手に取る事が出来ましたのでご紹介させて頂きます。

行商列車行商列車 <カンカン部隊>を追いかけて」(山本志乃 創元社)です。

著者は旅の文化研究所という聴き慣れない団体に所属される研究員の方(近畿日本ツーリスト、現近鉄グループのシンクタンクだそうです。出典は本書の版元さんでもある創元社の鉄道手帳編集部のブログより)ですが、本書をご覧頂ければ判りますように、主に日本の庶民文化史をテーマに研究をされている方です。本書は佐倉にある国立歴史民俗博物館の展示リニューアルを機会に(このパターン、どっかで観たような…縄文のあの本ですね)行った取材の記録と、著者の出身地でもある鳥取県歴史編纂事業の際の取材の記録を1冊の本に纏めたものです(もう一つは後ほど)。

従って、表紙に掲載される近鉄の鮮魚列車だけに注目して読んでしまうと、内容がかなり異なるのでちょっと困惑してしまうかもしれません。本文でも述べられているように、鮮魚列車の取材は以前にトラブルがあったようで、取材には最も有利と見做される著者の経歴にも拘らず、国立の博物館が行う収録作業(本書には、随所に当館所属の記録者の方が撮影された記録写真が掲載されています)にも拘わらず、組合を通したオフィシャルな取材は拒絶されてしまっています。そのため、本書では近鉄の鮮魚列車自体の取材はほんの僅か、むしろそのテーマに掲げられた<カンカン>を伝手に話を聞かせてもらえるようになった、松坂在住で鮮魚列車を使って大阪に通ってお店を開かれているご夫婦への個人的な取材記(実際の鮮魚列車への取材も撮影も、組合の幹部であったこの方の手引きで潜り込ませてもらっている)となっています。

所謂柳行李では水物を扱う水産物の行商で困った事になる荷扱いへの対処として、更には保健衛生上の要請から生み出された、ブリキ缶に水抜き穴の栓を取り付けたカンカンと呼ばれた行商行李。今では発泡スチロールに変わってしまいましたが、当時はこの箱の底に簀子を敷いて更に2段重ねで魚が入れられるように中子を入れていたという、モノを起点にした民俗学者らしい、実際の写真を掲載しての詳しい使い方の解説も述べられていきます(宮崎の事例でみられる保健所の合格シールが毎年交付されていた事実は、行商とはいえれっきとした一商店として扱われていた貴重な証拠)。

荷物も多く他の客とのトラブルにも繋がりかねない、このような商材を扱う事から各地で結成された行商人の組合と、それに対して鑑札を発行し、車内の専用区分や車両の設定などの特段の配慮を行った鉄道会社、国鉄(本書で扱われる倉吉線に対して、表現上の影響でしょうか、著者は繰り返し軽便鉄道(更には拡大地図に私鉄の記号を使うのは、創元社らしからぬ点)という言葉を使いますが、軽便線由来で設備は劣化していても国鉄線、しかも末期でも舞台となった倉吉-西倉吉間では10往復程度の便数があった事には言及しておきます)。細々とながら専用の列車を今でも走らせるほどに一時は拡大した鉄道を使った行商という職業は、何より職漁の不振と、プラザ合意と大店法の制定、そして国鉄分割民営化に伴う鉄道利便性の低下が、彼ら、彼女らの活躍の場を狭めていったのでしょうか。本書ではあくまでも民俗学に徹する為か、インタビューを行ったそれぞれの方がお辞めになったいきさつは語られますが、総論としてのその終末への路程は言及されません。

むしろ、本書では終焉を迎えつつあるその業種への哀愁を語るのではなく、インタビューから採録された、その業種の発展に至った経緯を述べていく事に注力していきます。

本書の中核を成す部分。二つのストーリーには直接的な繋がりはありませんし、近鉄の行商列車を使われている取材対象の方は大阪の中心部に店を持ち、一方の鳥取で取材された元行商の方は地方都市の辺縁部を廻る個別訪問型と営業エリアも業態も大きく異なります。鉄道で運ぶというキーワード以外全くつながらない二つのストーリー。しかしながら彼らのビジネススタイルと、その商売に携わる経緯には明確な共通点を見出せます。

いずれも主たる商売を持っていながら、または別の所に家を構えていながら敢えて鉄路を伝手に商売に出る。大阪の中心部と地方都市である倉吉の辺縁部という逆のポジショニングですが、其処に需要があり、その需要と供給を繋ぐ線として鉄道があった事を見出していきます。個々の需要は小さくてもバラエティに富んでいる、扱っている商材も決して地の物、前の浜で獲れたものだけではなく地方市場での買い入れや時には行商列者の中でお互いの商材を取引する。数多に広がるお客さんの需要、リクエストにこまめに応じて小口で受ける。人一人が持てる範囲での商売故に一日に扱える商材の数(=売上)には限りがあるが、その分リスクも小さく、逆に毎日毎日通う事で量の不足(これは購入側にとっても同じ、既に冷蔵庫が各家庭に普及し始めた段階)を補っていく。

そこには数多の商材からお客さんに自由に選ばせるために、資本と在庫を蓄積し、輸送路を確保し、膨大な物流を常時全国的に維持するという、現在の流通手法とは逆を行く発想が明瞭に記録されているようです。

そして、これらの商売を支えた「アキンド」と鳥取では呼ばれた行商の方々。多くが女性であった点において、本書では述べられませんが、所謂専業主婦と呼ばれる消費と育児を主に担う階層の存在が、実に戦後高度成長期以降のほんの1~2世代程度の時代でしか見いだせない事を雄弁に物語っているようです。日々の生活費、仕事の道具や材料、土地や家の購入資金は確かに男の稼ぎに一方的に負うところであった事は事実かと思います。しかしながら、晴れの席での装いであったり、子供のお菓子やお小遣い、そして養育資金といった間接的な支出は、彼女たち自らがこつこつと蓄えた財布が補っていた事がインタビューから見えてきます。

鉄路が繋いだドアtoドア、人to人のコミュニケーションを介した商取引。ここまで読んでいくと、現在の中山間地域で課題となっている、購買困難層の発生原因も少し見えてくるような気がします。そもそも動脈すら細かった物流網の更に最末端を担っていた彼女たち行商。血栓状態を起こして方々で通わなりつつある、現在の圧倒的な物流網の末端に目を向けた場合、人材の活用も含めて、その歴史的事実を再度見直す必要が生じてきているのかもしれません(このようなお話は本書では語られません。日本の近現代民俗学を扱った本で少し寂しいのが、社会学の隣接学問にも拘わらず、多くの記述が過去完了形で語られる点)。

偶然の繋がりを手繰り寄せるように、忘れ去られつつあるこのような商売の姿を丁寧に追って、失われる前に記録として残すことに注力した、鉄道とカンカンを梃に人とモノの流れを民俗学の立場から位置付けていこうという、表題帯にも書かれたオンリーワンを標榜するに相応しい本書の中核に対して、明確に毛色の異なる5章の魚食文化と地域性の議論。著者があとがきで述べているように、載せておきたいという想いは理解しますが、唐突な挿入は前後の議論を断絶しており、著者の想いとは裏腹に無理やり流行の魚食文化論へ寄り添わせようとした結果、折角の流通文化史として貴重な本書の位置づけをむしろ歪めてしまった感もある点は、少々残念でもあります。

著者の想いとはちょっと異なった見方になってしまうかもしれませんが、鉄路という広く大衆に便益された交通手段を伝って、本当の末端の物流と限りなく個人に依拠する商売を成立させた行商という姿を再構成していくという、無二のテーマを掲げて描かれた、著者の優れた取材能力が遺憾なく発揮された、生きたインタビューを詰め込んだ本書。その内容には、大きく曲がり角を曲がった先を見いだせない、でも決して失う事は出来ない、生きていくためのモノの取引を支えていくためのカギとなる豊かな知見を含んでいるとの想いを抱いて。

行商列車と移動販売車がゆく本書と併せて読んでいた本「移動販売車がゆく」(宮下武久 川辺書林)。こちらは地元のライターの方が洒脱に、やや皮肉交じりに描く、南信の町にある運送会社が始めた移動販売車に纏わる物語を描いた一冊。本書を読んでいると、その姿とお客さんに求められるものが、倉吉における行商の彼女たちに求められた内容、商売の姿とそっくり同じである事に驚かされます(商材は地場のスーパーとは異なり名古屋で調達、売りはその名古屋の市場から直送するふっくらと大きなアサリ、個別に必要な物を聞いて届けるだけではなく、移動販売中に商材が不足したり、お客さんが欲しがるものが出てくると、巡回はそのまま続けつつ、別の軽自動車を飛ばしてバイパス沿いのナショナルチェーンや地場のスーバーで買い足して僅かな手間賃を乗せて販売するetc.)。そして、なぜそのような商売が困難に直面しているのか、更には何処に問題を抱えているのかが両書を読んでいくと浮かび上がって来るようです。

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を

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今月の読本「航海の歴史」(ブライアン・レイヴァリ著 千葉喜久枝訳 創元社)それでも海を往く

今月の読本「航海の歴史」(ブライアン・レイヴァリ著 千葉喜久枝訳 創元社)それでも海を往く

購入してから一か月余り。

遥かイギリスを船出したこの一冊が、難波の書肆によって訳された後、この山奥に辿り着くまで随分の時間を経ているかと思いますが、読むのにもそれなりに骨が折れる大ボリュームに嫌気がさして、他の本に浮気をしながらちょっとずつ読み進めて漸く読了するという体たらく。

ボリュームだけではありません。何せ4000年にも渡る歴史を綴っているので、頭の整理を考えても一気読みは到底叶いません。細かく分けられたセクションを日によっては1つだけ何とか読んだり、ちょっと固まった時間が取れた時には一気に一章読んでみたりと、変化を付けながら漸く読み切ったといった今回の一冊。

航海の歴史航海の歴史」(ブライアン・レイヴァリ著 千葉喜久枝訳 創元社)です。

著者はイギリスでは有名な考古学や海洋関係の書籍、TVの製作に携わっている海洋史家(この職業自体、日本にはありませんよね)。七つの海を制覇したイギリスが誇る、グリニッジの国立海洋博物館名誉学芸員の称号を持つ、本書のテーマを扱うには最も相応しいと思われる方が書かれています。

従って、本書の内容もイギリス中心で描かれてはいますが、他のイギリス人作家の作品にあるような、がちがちのイギリス中心主義でない点に興味が惹かれます。それは海洋史のルーツからすれば、初期の歴史においてイギリスは辺境に過ぎず(バイキングに荒らされる側)、海洋世界における覇権を握ったのは、せいぜい17世紀以降。しかも20世紀の終わりにはその帝国もすっかり縮小しており、既に主役たる位置には立っていない事を冷徹に見据えて描いているようにも思えます(フォークランド紛争の記述など、記述自体が常に公平だとは言えませんが)。

本書が扱う航海の世界は、時間軸ではポリネシア人たちの太平洋をカヌーで渡る物語から始まって、ソマリアの海賊問題までの4000年以上、空間軸は地中海から始まって太平洋に至るという、ヨーロッパの海洋史で扱われる世界観そのままですが、中には鄭和の大航海が差し込まれていたり、ペリーと日本開国の物語(その後の真珠湾攻撃を評して、屈辱を晴らすと書かれている点が実にイギリス人的な表現)が語られたりと、航海の世界におけるインパクトの強いトピックへの配慮も忘れていません。

総ページ数400頁。全6章44のセクションで綴られる本書は、豊富に挿入される美しい図表を眺めながら、歴史を追って航海にまつわる物語を楽しむ…と言いたいところですが、そこに描かれる世界は全く以て魅力的ではない、むしろ嫌悪感の方がよほど大きい物語が延々と綴られていきます。

人にとっては全く快適ではない揺れる船上に閉じ込められた乗船客を支配するのは、荒くれ者の集団である男たちと、その指揮下で喘ぎながら働き続ける奴隷たち。乗客の運命は気まぐれな海の天候同様に常に彼らの気分次第。運ばれる品々は黄金であったり貴重な産物であることもありますが、時にはぎゅうぎゅう詰にされて新大陸へと渡る移民たち、時には新大陸で略奪した金品の数々、そして人として扱われることのない奴隷をぎっしりと詰め込んで大西洋を渡る三角貿易。私掠船免許を振りかざして跋扈する海賊に、更には繰り返される戦争、戦争、また戦争…。

もちろん、クックの太平洋探検や蒸気機関による大西洋横断の偉業(そして余りにも悲惨な物語も)。そして近代に入るとサミュエル・プリムソルのプリムソル標の話や、荷揚げの効率化の究極を目指したコンテナ(しっかり中核港の移転や港湾労働者の失業にも触れている点は流石)。科学的側面での探検や深海探査、更にはアメリカズカップなどのスポーツとしての海の話も出て来ますが、本書の大部分はロマンチシズムとは無縁の、戦いと略奪、欲望の物語に彩られています。

その戦いの歴史は、如何に長距離から相手の船を打ち負かすか。海賊の如く直接乗り込んで戦う白兵戦から、砲が生まれ、船べりに並べられた大砲を放ちあう平行戦。そして、有視界いっぱいの距離から放たれる巨砲による砲撃戦と弩級戦艦の登場。空母と航空機による爆撃による、有視界外から攻撃するという海上戦の一変(ここで旧海軍の対馬沖海戦によるバルチック艦隊との史上初の近代海上戦と太平洋戦争時の空母航空戦の優劣を決したミッドウェイ海戦が語られます)。遂には、長距離ミサイルを搭載した中型艦艇同士の射程外でのにらみ合いと、弾道ミサイルを搭載した無限の航続力を有する原子力潜水艦が対峙することで、双方が決定打を失った現代の海上戦。

乾燥した戦いの物語が多く続きますが、それぞれの物語ごとに登場人物がその背景を語るように描くことで、無機質とならないよう、そして現実感との遊離が起きないように配慮された筆致には好感が持てるところです。そして、嫌悪感すら感じられる物語が続くのにも拘わらず、どんどんと海上で繰り広げられる物語に引き込まれてしまいます。どうしてなのだろうと考えていた時に、本書の最後のセクション(ソマリアの海賊問題)で語られる人質のドイツ人船長の言葉が極めて印象的でした。悲惨な人質生活から解放された彼が語った言葉は

「海の生活をやめる気はありませんでした・・・海賊のために自分のキャリアを変えられたくはありません」

その想いは、冒頭のポリネシア人が海に出ていく際の言葉と呼応します。汝は海へと駆り立てられと唄われる哀歌そのままに、人とは目の前に海を見ると、沖へと漕ぎ出したくなる性分のようです。その苦しみの果てに得た物語の数々を紡ぎながら、決して人には征服する事の叶わない海への憧れを抱いて。

<おまけ>

本書の版元さんである創元社は、日本の著作にはない、コレクションしたくなるほどの美しい装丁と図版、広範なフィールドを文化論として扱う、知的好奇心を揺さぶる海外著作の翻訳本を多く取り揃えています。特に有名なのが「知の再発見双書シリーズ」かと思いますが、他にも「地図と絵画で読む聖書大百科」なんていう、こちらもお腹がいっぱいになってしまう本も扱っていたりします(写真は普及版なのですが、それでも価格の点ではお財布が痩せまくりです)。

航海の歴史と聖書大百科本ページで紹介している、訳本や本書のテーマに類似する書籍を。

今月の読本「水の歴史」(著:ジャン・マトリコン、監修:沖大幹、訳:遠藤ゆかり 創元社「知の再発見」双書)普段はあまり気にしない水の物語を、近代水道発祥の国より

今月の読本「水の歴史」(著:ジャン・マトリコン、監修:沖大幹、訳:遠藤ゆかり 創元社「知の再発見」双書)普段はあまり気にしない水の物語を、近代水道発祥の国より

ゴールデンウィーク中にコツコツと読んでいた本のご紹介。

2冊目のこちらも、読み終わるのにちょっと時間がかかってしまいましたが、実に興味深い内容の一冊としてご紹介します。

創元社の「知の再発見」双書は、少しミステリアスな装丁と、原著がフランスで刊行されているからでしょうか、日本の書籍とは全く異なる体裁の凝った編集、刺激的な筆致がいつも驚かされる、他に類例を見ないシリーズです(国内編集で、フォロアーと類される書籍も見受けられますが、そのセンスは決して真似の出来る物ではありません)。

私もそのセンスに惹かれて買う度に、そして読む度に、いずれもちょっとした疑問を読者に残しながら、知的好奇心を揺さぶってくれる。知識の「玄関口」として、いつも楽しませてもらっています。

そんな好奇心を誘うシリーズの最新刊は、またしても不思議な表題を掲げた一冊です。

水の歴史No.163「水の歴史」です。

本シリーズを愛読されている方なら「ああ」といって大体内容は読めていらっしゃるのではないでしょうか。

そうでない方のためにご説明すると、本シリーズは基本的に二つの側面からテーマを読み解いていきます。一つは科学的なアプローチによる解説、もう一つは歴史的、もしくは文化的な側面からのアプローチです。

本書も、前半2章に渡っては水の化学的特性や、地球環境のにおける水の位置づけの解説がなされています。

本シリーズの特徴でもある、豊富な写真と、趣のあるイラストを駆使した解説は、文系の方でもほとんど抵抗感なく、極めて特異的である「水」本来の姿を捉えられるのではないでしょうか。そして、全宇宙的に見てもこれだけの豊富な水が存在することの不思議さ、貴重さに気付かされると思います。

3章から先は歴史的なお話、人がどのように水を使ってきたかのお話が展開されます。我々が当たり前に思っている水田の稲作がどれだけ大量の水を使っているのかに驚かされるかもしれません。そして、その水資源は極めて偏在していることも。続く4章は本書の白眉、原著がフランスで刊行されたことを実感させられる水道の歴史です。

フランスが先頭を切った、巨大な水資本(上下水道をベースにした公共サービス会社)の話は、国内でも最近になって地方公共団体の積極的な海外への技術提供や、逆に彼らの国内公共サービスへの参入の話題が聞かれるように、水ビジネスはもはや世界的な産業に成長していることを実感させられます。その世界的な産業、しかしながら偏在する資源、しかも輸送方法が一般の鉱物資源のように掘削して運搬する訳ではなく、上流から下流に流れる川から引き込み、そして使った「排水」は川へ戻す。その土地と密接に関わる資源故に、激しい国際紛争に見舞われることもきっちりと述べられていきます。

日本人にはあまりにも遠くの話に聞こえてくるこれらの話題。しかしながら、92ページの世界地図をご覧いただくと「おやっ」と思われるかもしれません。モンスーン気候によって降雨に恵まれているはずの日本ですが、実は一人あたりの水資源量でみるとヨーロッパと同じくらい、砂漠のイメージが強いイランやイラクと大して変わらない事が判ります。

実は日本の水資源は、川が短く、すぐ海に流れてしまうこともあり、決して豊かなわけではないのです。毎年冬場や夏の時期に聞かれる、四国や首都圏(利根川水系)の渇水を見ても判るように、日本も他人事ではない話なのです。本書を読まれると、大陸の各国がそのような時に取る手段が、結果として水資源のアンバランスな収奪と、激しい紛争を巻き起こしていることに気が付かれるかと思います。

残念ながら本書は訳本という制約上(沖大幹先生の詳細な序文および解説文で補足されてはいますが)、日本の話題は全く出てくることはありません。それでも、本書のカラーページをお読みになって、更に疑問が湧かれた方は、後半のモノクロページに進んでいただければと思います。

本シリーズではおなじみの、より詳細な事例に関するコラムが展開する後半の部分は、毎度の事ながら、かなりハードな内容が続きます(難しいという訳ではありません。厳しい内容という意味です)。そんな中でも、No.2の浴槽の歴史のように、他ではまず見る事が出来ない、ちょっと貴重なお話も出ています。

普段あまりにも無関心な我々の水に対する意識を少し改めさせてくれる一冊。原著の刊行は2000年と少々古いのですが、現在読んでも全く色褪せない、人にとってかけがいのない「水」の物語に、もう少し目を向けてみては如何でしょうか。

新緑の多留姫の滝1電気化学工業大網発電所ダム1

滝壺の水流を野反湖から秋山郷を望む緑に光る流れを