今月の読本「動乱の東国史5鎌倉府と室町幕府」(小国浩寿 吉川弘文館)混迷の室町期東国動向に光を

今月の読本「動乱の東国史5鎌倉府と室町幕府」(小国浩寿 吉川弘文館)混迷の室町期東国動向に光を

一昨年から続いていた、吉川弘文館の意欲的な歴史シリーズ「動乱の東国史」。全7巻のうち、6冊までは順次刊行されていたのですが、唯一刊行が遅れていた第5巻が昨年末に漸く刊行。シリーズが完結しました。

東国ファンとしては全巻揃えたいのは山々なのですが、ハードカバーはやはり高い…。前半戦に特化して買い続けたラストが今回ご紹介する一冊「鎌倉府と室町幕府」(小国浩寿 吉川弘文館)です。

鎌倉府と室町幕府中世の東国史において、最もマイナーな時代をカバーすると思われる今回の一冊。具体的には足利尊氏と弟である直義が争った観応の擾乱終結後、鎌倉に置かれた半独立行政府である鎌倉府とその主催者でもある鎌倉公方、そして掣肘役とも捉えられる関東管領の設置から始まり、実質的な半独立行政府としての体裁を失う永享の乱まで(その後も少し記述されています)が扱われています。

カバーしている範囲を見ると、なるほど鎌倉府の事績を取り扱った書籍かと思わせられるのですが、差に非ず。

本書においては、鎌倉府自体が扱われるシーンは決して多くなく、むしろ周辺を跋扈する多彩な御家人、一揆、そして隙あらば鎌倉府の主を狙う奥州の公方たち。周辺だけでもこれだけ多彩なメンバーが登場するだけでもお腹一杯なのですが、このメンバーたちを京から攪乱すべく、歴代将軍達が時に関東管領、時に京都扶持衆、時には奥州の公方たちを扇動するは、鎌倉公方を直接恫喝するはで、登場人物が目まぐるしく入れ変わります。

それもこれも、既刊のシリーズをご覧いただければ判るかと思いますが、根本的には源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時からの矛盾を引き継いでいる事がはっきりしてきます。

関八州のうちでも、頼朝の挙兵に協力的だったのは南関東、具体的には相模、武蔵、安房、下総、上総、そして旗揚げの地である伊豆位までで、その他の諸国は頼朝への旗幟を鮮明にしなかった武士たちも大勢いたわけです。

特に、頼朝に頑強に抵抗した常陸の佐竹や、下野の藤姓足利氏の存在など、鎌倉を中心として同心円状に離れていくほどに、御家人たちの統制の足並みはがバラバラになっていきます。更には下野、常陸から北に大きく広がる奥州については、所謂占領地であって、鎌倉末期に至っても執権体制による完全な支配は確立されていなかった状況です。

この足並みの揃わない北関東を間接的に支配する為に、鎌倉幕府開設当初からある程度規模を有した伝統的御家人の存在を認めざるを得ず、その最大勢力が他ならぬ足利氏だった訳です。

その足利氏が京都に幕府を置く事で、パワーバランスの崩れた関東の諸勢力は、南北朝とそれに続く、足利兄弟の争いによる観応の擾乱に巻き込まれ、更なる分裂をきたすことになり、その後も長く、争い続けることになります。

そこには、南北朝期から戦国期にかけての複雑なパワーバランスの極致を見ることができます。朝廷に南北あり。幕府に将軍側近勢力と守護大名勢力あり。そして関東にはそれぞれの出先勢力である関東管領と京都扶持衆、幕府から任命を受ける守護。対抗するのが鎌倉公方と側近勢力。彼の動きに呼応するのは南関東を地盤とする一揆衆と北関東を地盤にする伝統的御家人。

鎌倉時代から続く直轄領的な役割を与えられた為に、小規模な勢力が蟠踞する南関東の勢力と、規模を有した独立勢力が温存された北関東の勢力が、鎌倉の公方側近の勢力(主に南関東の衆)を挟んで綱引きを繰り広げます。

歴代の鎌倉公方は、いずれも東国一円に威令を達せさせるため、北進政策を続けるわけですが、それを掣肘するのが将軍家と連携する関東管領である上杉家。鎌倉公方とは普段は協調路線を取る訳ですが、実際には関東の外郭である伊豆、上野、越後を押さえることで、鎌倉公方の膨張を間接的に抑え込んでいます。更に本来は鎌倉公方の北進を先導すべき奥州の公方たちにも将軍家の懐柔の手が及んでいきます。

そのすべては、当時を表す複雑な多重支配体系が生み出す幻想。鎌倉公方と将軍家は並び立つ存在であるとの想いの発露と掣肘が繰り返されていきます。

このように、室町期の東国は、鎌倉幕府創設時からの東国の南北関係が、形態や主を変えながらも長く継続していった結果生じた、衝突と均衡の歴史である事が判ります。そして、鎌倉を追われた関東足利公方家が何故古河に動座したか。すなわち、小規模勢力が跋扈し、離散集合を繰り返していった南関東の小規模な諸勢力の上位者としての立場から、歴代の鎌倉公方の方針である北進政策を採り、依然として一定の規模を有する伝統的勢力の力を借りながら、奥羽をも指呼に位置する、河川による交易の権益を掌握できる場所に拠点に移したと言えます。

本書では、これらの内容を、歴代鎌倉公方の治績を踏まえながら、複雑極まりない周辺勢力との競合と協調、京との緊張関係を比較引用しつつも、なるべく平易に取り扱う事に注力してます。

鎌倉公方の動向としては、自らの地盤である南関東の直轄地化を指向した掌握過程の検証。戦略地である奥羽の入り口に対しては、送り込んだ公方たちと現地勢力の綱引きの事例を示すことで、鎌倉公方が東国に独自の政治機構を指向していた事を示唆していきます。

京との関係では、関東のパワーバランスに非常に大きな影響を与え続けたため、鎌倉公方を取り扱う内容とほぼ同じ分量で将軍の動向も叙述していきます。それは光と影のように、入れ替わり立ち代わり現れていきます。

この複雑極まりない鎌倉府と中心とした室町期の関東の情勢は、最終的には公方持氏と管領憲実の確執、籤引き将軍義教の挑発に乗る形で崩壊の道を辿る事になるのですが、著者はここで専門分野でもある軍記の研究を通した知見に基づく、一つの提起を行っていきます。

将軍家の後継に名乗り出たり、血判状に見られるような名望家で短気、暴力的なイメージの鎌倉公方足利持氏と、足利学校の再建や領地越後での崇敬、落飾後の放浪(本書では述べられていませんが最後は山口で客死)に見られるような、知的で温和、ナイーブなイメージで語られる関東管領上杉憲実の両者の固定観念的な扱いに疑問を投げかけていきます。

自分の短慮を詫びて、京に対して服従の意思を表し続け、臣下に対して妥協を重ねていく神経質なナルシスト持氏と、頑固で融通が利かず、剃髪までして周囲を困らせた挙句、将軍の叡慮を引き出して、自身の立場を有利にしていく狡猾な戦略家憲実(更に戦になると、刃を交える前に勝敗を決してしまう程の巧者)。

果たして、著者の提起が学会や万人に受け入れられるのかは判りませんが、複雑な人間模様が交差する室町期の東国。これからの研究の推移によって、驚くような人物像や意外な見解が更に出て来るような、奥深さをひしひしと感じさせます。

<おまけ>

広告
今月の読本「動乱の東国史2東国武士団と鎌倉幕府」(高橋一樹 吉川弘文館)南北交通開拓を目指す幕府と移動する武士たちの交流史

今月の読本「動乱の東国史2東国武士団と鎌倉幕府」(高橋一樹 吉川弘文館)南北交通開拓を目指す幕府と移動する武士たちの交流史

関東の歴史、特に中世以降の歴史に興味がある方なら待望のシリーズだったと思います吉川弘文館の「動乱の東国史」シリーズ。

シリーズ全7冊の配本も後は第五巻「鎌倉府と室町幕府」を残すのみとなりました(3月配本ではなく、近刊になってしまいましたが)。

今回は2月に配本となったシリーズの中核をなすであろう一冊、第二巻「東国武士団と鎌倉幕府」(高橋一樹著・吉川弘文館)を取り上げてみたいと思います。

このシリーズ、冒頭の刊行のことばにあるように、これまでの歴史書籍とはちょっと違った視点を模索しているシリーズです。

まず、これまでの東西視点(所謂院政主導の王朝国家的政権と、草深い東国で発生した武装した開拓農民たちが結集して成立した武家権能の衝突)の古典的な考え方の延長には基づかず、あくまでも現在の研究水準に則った上で、あえて「東国」を意識した地域史を描こうとしている点です。

次に、「東国」という地勢をテーマに置く以上欠かせない点かもしれません、人物に焦点を当てた著述にとどまらず、そのバックボーンたる「交通・流通」に関する最新の知見を豊富に掲載しようという意図が感じられる点です。

これらの編纂内容の主軸よって得られた当時の「東西交流」の姿、地理的感覚を東国側からの意識をベースに著述しようとしている点は、ある意味現代の地理学的な手法を歴史学に持ち込んでいるともいえますが、よりリアルな歴史著述を目指す、そして冒頭で述べられているように「歴史に親しみ、史跡を巡る人々」へのアプローチとしてはとても的を得た編集内容になっているのではないかと思います。

(この点は3巻で最も顕著に表れてくるのですが、所謂「西国」の武士たち、とくに室町以降、戦国時代までに活躍する多くの武士たちは承久の乱の勝利によって西国に所領を得た東国武士たちの末裔に繋がるのです。そのような意味で、東国ベースで武家の歴史を著述することは実は日本全体を包括した中世の歴史の出発点を著述することになります)。

そのような新たな視点を狙ったシリーズの中で最もその命題に答えているであろう一冊が本書です。

東国武士団と鎌倉幕府

著者はあとがきで自嘲的にすべてのフィールドに足を運びえたわけではないがと述べていますが、本シリーズ中で最も武士たちの動きと、交通網の発展、展開の著述に力点を置いています(五巻は未刊ですが)。

本書を読まれた後で、現在続々と刊行されてきている戦国期の後北条氏や上杉氏、武田氏の経済運営や領域内の流通に関する書物を読まれると目から鱗が落ちることは間違いありません。

著者は本書において、源平動乱期以前において、東国の交通網は依然として東西の移動に主眼が置かれていたと述べていますが、鎌倉の整備に合わせて南北の交通網、特に「東国の首府」たる鎌倉と最後まで直轄領として扱った越後とのルートが整備されていったことを御家人たちの所領の配置や出兵時のルート想定から描き出そうとしています。

所謂「鎌倉街道」の事なのですが、この着目点については非常に頷かされるところが多くあります。

私は現在、八ヶ岳の南麓に住んでいますが、人生の多くを鎌倉街道沿いの街中で過ごしました。

現在、東京、埼玉方面から湘南方面に向かう場合、多くの方は品川から東京湾沿いを下るか、新宿、もしくは八王子から町田を経て小田急線江ノ島線方面に南下することが多いかと思います。

箱根駅伝をご覧になっていらっしゃる方は判るかと思いますが、東京湾沿いに鎌倉方面に移動すると、南下してきた国道一号線は戸塚の辺りで西の内陸側に首を振ってしまい、鎌倉にはそっぽを向けたまま藤沢方面に抜けてしまいます。

箱根駅伝のランナーが戸塚から軽快に坂を下って行く事からも判るように、国道一号線は周囲の丘陵地を避けて谷沿いに沿って引かれているのです。

一方、町田から小田急線に乗って江ノ島を目指すと、延々と続く広い台地の上を淡々と南へ一直線に走っていきます。大分住宅地が増えて来たので農地が減ってはいますが、意外なことに水田が殆ど見られない事に気か付くかもしれません。

このルートは小田急線が開通するまでは茫洋とした未開の台地で、殆ど手つかずであったといわれています。関東ローム層が厚く堆積し、台地の上では水の便が非常に悪かったのです。

一方で現在、鎌倉街道として知られるルートを車で辿るとどうでしょうか。

細かいアップダウンを繰り返し、時々ほぼ東西方向に流れる川を跨ぎながら鎌倉方面に進んでいきます。

車を走らせるには谷沿いの薄暗い道だったり、頻繁なアップダウンありでちょっと走りづらいですし、鉄道で結ぶにはトンネルや橋梁をいっぱい作らなければならない地形で長らく南北をつなぐ路線はありませんでした(多摩モノレールと相模鉄道いずみの線が一部開通したのは20世紀も終わりごろです)。しかしながら、人の足で歩くのであれば、それほど苦になる事はありません。

それ以上に関東ローム層に刻まれた所謂「谷戸」を結んでいくこのルートは近世以前の農耕技術、特に水田を設けるためには必須となる水の便を考えた場合、東西方向に延びる川沿い谷戸は格好の耕作地帯に見えてきます。

筆者も述べているように軍隊を戦地に送り込むためにはルートと上に兵站地としての拠点があることが必須となります。

特に現地調達が前提であった当時の兵糧調達において、軍旅の途上においてこれらを調達できるか否かは、戦争の継続を左右するくらい重要な問題であったと思います。

これを読み誤って飢餓状態の京都に突入した木曽義仲があっさりと後白河法皇に西国戦線への転戦を求められたように、逆に京都に「米くい虫」の軍団を留め置く事への危険性を鑑みて入京を最小限抑えるように指示を出した頼朝の判断のように大量の軍隊を移動させるためにはインフラ整備、特に食料調達が欠かせない事になります。

そのような意味合いで、鎌倉街道を見直してみると、旨い具合に小領主たちが蟠踞していたであろう小さな谷戸を縦串に貫いていることがよく判ります。

北条方幕府軍と畠山重忠が戦った「万騎が原」はそのような鎌倉街道と東西に流れる河川が交わる場所、西には現在の相模鉄道沿いを流れる帷子川、南にはその後江ノ島の横に流れ込む境川に繋がる柏尾川の二河川が分かれる丘陵地に当たります(最寄駅の名前はずばり二俣川、二駅隣りは旧相模と武蔵の境界でもあった「三ツ境」)。

そのような平時には谷戸同士を結ぶ物流路として、戦時には兵站基地及び周囲の丘陵地はそれこそ「戦場」となってしまうのが鎌倉街道だったのでしょうか。本書では鎌倉街道に関わらず、当時の東西交流路や南北交流路(身延道の重要性や秋葉街道にも言及されているのは嬉しいですね)が現在の視点で考えてはいけない事を丁寧に叙述しています(但し、承久の乱の戦犯者たちの処刑場所と富士東麓ルートを戦勝記念として記憶させるという考え方を絡めるのはちょっと無理があるかとは思いましたが)。

また、幕府が最後まで越後を御料地として手放さなかった点について、鎌倉を基軸とした南北ルートを非常に重要視し、越後を「北の拠点」とみなしていたという認識は大いに理解できます。

この事が判っていると、親鸞が何故越後に流罪となった後に、上野を経て常陸を拠点に東国での布教に力を入れたのか(旧東西ルートに乗って移動している)、日蓮が佐渡から帰還した後、何故身延に居を定めたのか(越後から信州を抜けて甲州と駿河に通じる南北交流における南端の拠点)、最後の地がなぜ池上となったのか(大山街道を東に進んで東京湾にそそぐ川(多摩川?)沿いを進むルート)当時の交流路から理解できるようになります。

本書は、そのような「東国の交流路」が鎌倉幕府成立と軌を一にして成立したことを鮮やかに描き出していきます。

この南北交流路が戦国時代になると、かの上杉謙信や武田信玄、後北条一族が戦う戦場を貫くルートに変貌するわけです。彼らが何故南北ルート確立の為に死闘を繰り返すのか、そして彼らの草刈り場としての上野、北信濃の位置づけが出て来るのかも、これらの交流路の変遷から充分に理解できるものとなります。

一つ残念な点を述べさせて頂ければ、上記を述べるにあたって最も重要となる一方、東国の辺縁となってしまう上野に関する交流路を含めた記述が少々薄い点でしょうか。この辺りはシリーズ内で補完されてるものと考えたいです。

だらだらと雑論を述べてしまいましたが、本書は今までになかった視点で「東国史」を描き出そうという本シリーズの意図が充分に汲み取られている一冊ではないでしょうか。純粋に歴史叙述や地理学的イメージに浸りたい、そんな歴史好きの方なら気に入って頂けるかと思います。

<おまけ>

  • 本書は上述のような交通体系史だけではなく、ちゃんと源平動乱期から北条執権体制に至るまでの歴史叙述も記述されていますが、その執筆テーマの関係上、ちょっとあっさり目の内容に終始します。そのような点では「交流史」を割り切って読まれた方が良いのかもしれません。密かに流行っているのでしょうか、「地理学」を歴史学に持ち込まれた好例かと思います
  • 本書ではカバーされないもうちょっと濃いめの鎌倉幕府成立に関する書籍で、特に人物に興味のある方には以下の本がお勧めです(最近に刊行され分で)
  • 「鎌倉殿誕生」(関幸彦・山川出版)最新の研究成果を踏まえて、肩ひじ張らずに源頼朝がどのように武家政権を掌握していったのかを叙述した一冊。関先生が編集者の方に頼朝の物語を講義していくというスタイルがちょっと珍しい。もしかしたら日本にも「王朝交代・並立」があったのではないかとの儚い期待が散見されます
  • 「頼朝の武士団」(細川重男・洋泉社歴史新書y)こちらはもっと砕けた「頼朝論」。要はちょっと頭の切れる都落ちしたチンピラが、腕っぷしだけは自信があるが冴えない田舎のやくざ達をまとめ上げて、都を見返してやるというストーリーで描かれる一冊。内容も、言葉づかいもラノベかよと思わせる砕けっぷりですが、そこは細川先生、内容はきっちり研究成果を押さえた上で書かれていますので、安心して「頼朝とちょっと不器用な仲間たち」の物語に浸って頂けます。漫画で出せばいいのに、と
  • 「鎌倉源氏三代記」(永井晋・吉川弘文館歴史文化ライブラリー)頼朝だけではなく、もう少し周りの人物模様、特に御家人たちの動きを知りたいのであればこちらの本がお勧めです。後半に行くにしたがって北条氏の毒々しい権力奪取の物語となっていく点は仕方がないのですが、通史として源氏将軍の意義を理解するためには良い本だと思います
  • 最後に、源平合戦全体について理解するためには外せない一冊「源平合戦の虚像を剥ぐ」(川合康・講談社学術文庫)こちらを読まれると源平合戦及びその後の奥州征伐において、源頼朝が如何にして自己の政権を確立しようと腐心したかが判るかと思います。本書を読んでしまうと、鎌倉に誕生した権能が院政の傘下にあった一権門として五月雨的に自己権益を収奪した訳ではなく、あるタイミングから本当に京都の王朝国家から「確立した授権」を狙っていたのではないかと思えてくる一冊です

鎌倉幕府草創関連の本

  • 追加で一冊、1983年にかまくら春秋社より出版された『鎌倉の豪族1』が中世武士選書で復活『坂東武士団と鎌倉』(野口実 戎光出版)。刊行年度は古いですが、内容的には現在刊行されている上記の書籍となんら遜色がない点が実に先進的です。東国武士団が決して草深い東国に押し留まっていた訳でも、東国の地にしがみついていた訳でもない事を明快に解説しています。著名武士団成立の経緯や何故頼朝挙兵の際に分裂したのかも納得のいく説明がなされていますので、一般的な源平動乱期の前段階を理解するには最適な一冊です。ただ、惜しむらくは「ここで触れる余裕はないが」と前置きしたうえで、私営田経営から在地領主制への転換に関する動き、特にそのタイミングでなぜ貞盛流もしくは良文流平家が地方豪族として定着した家系と畿内の軍事貴族として出仕を続けた家系に分裂したのかの解説が省かれている点でしょうか。所謂貴種性の問題を考える際に肝になる部分でもあるので、この部分を詳説した一般向けの本が欲しい所ですね(2013.6.28追記)

坂東武士団と鎌倉