引き続き好調な視聴率をマークし続けている今年の大河ドラマ、真田丸。
韮崎の新府城からスタートした物語は、東信、吾妻、沼田、そして川中島と北へ東へと歩みを進めてきましたが、ここで再び南に転じて、北から南を目指す北条氏と南から北上を図る徳川氏が甲斐、南信濃で激突する、天正壬午の乱に突入していきます。
このシリーズでたぶん山梨が舞台になるのは最後?(いや、実際には諏訪辺りでの話までで終わってしまうかも)かもしれませんので、ここで両者が対峙した七里岩の東の縁、前回ご紹介した新府城に布陣した徳川家康に対して北条氏直が布陣した若神子城跡をご紹介します。
まず、この若神子城跡、入口が非常に判り辛い、須玉から国道141号線を暫く北上して、長坂方面に上がっていく県道28号線(北杜八ヶ岳公園線)の西川橋西詰交差点からヘアピンカーブを数回重ねた後、突如左に見えてくる「ふるさと公園」の看板が入口です。
クルマの入口の手前に、人が入れる入口もあるのですが、入口を示す杭が汚れきっているので、気が付く方は殆どいないでしょう。
そのまま登っていくと、入口に繋がっていますが、本来はこの石垣の左側に虎口の跡があるらしいのですが、把握する事は出来ません。
うらぶれた公園といった感じで、城跡の雰囲気は感じられません。
城跡全体がふるさと公園という名称の公園として整備されています。
解説板のアップ、画像をクリックして頂くとフルサイズで表示されます。
駐車場横の斜面側。枯葉がびっしりと埋まっている部分に溝が切られており、フェンスの向こうの斜面との間に一段、段差が設けられている事が判ります(足を取られて、危うく捻挫しそうになりました)。右手の畝との組み合わせて、搦め手を構成していたと考えられています。
何故か、烽火台について積極的に訴えようとしている文面が気に掛かります。
ゲートボール場として整備された跡を進んでいくと、煉瓦敷きの広い広場に出て来ます。
此処が主郭のように見えますが、残念ながら違うようです。
生け垣の向こうに少し小高くなった畝の跡のような地形が見えます。
正面の生け垣、左側の中にあるのがこの城跡でほぼ唯一の痕跡、薬研堀の跡とみられる遺構です。
三連の畝が見えています。芝生になっているので、夏場になれば、美しい凹凸が認められるようになる筈です。
右側の生け垣も薬研堀の跡らしいのですが、こちらには石で丸く囲った跡が残っています。
北条氏が陣を構えた場所、しかも北条流築城術の流れを汲む遺構の可能性が高いのに、何故か解説板には他の城での徳川家康と武田家遺臣活躍の話題が書かれています。
こちらも「烽火」をテーマにしたい想いが充満しています。
あ、素直なスマホをお持ちの方は、右のマップからQRコードで北杜市内各地の山城、城郭跡解説を見る事が出来ますよ(たぶん)。
足元には須玉の街並みと、遠くには茅ヶ岳の美しい裾野を望む事が出来ます。
道を横切り、切り取るように溝が左右から伸びているのが判ります。
木立の向こうに見える木々との間に、もう一つ谷筋が伸びていて、この主郭が両方の谷に囲まれて搦め手から伸びている事が判ります。
主郭にある解説板。文面は正面にあった看板と同じで、此処でも烽火の話が出て来ます。
一応、通行に邪魔になる木は伐採されていますが、足元はかなり悪いです。
ずりずりと足場の悪い道を下がっていくと、小さな休憩所の先に大きな岩が見えてきます。
大手の虎口と見られる、宿借石と呼ばれる石が門型に構えています。
小路はこの石を潜るように寄せ手側に下っていきます。
麓側の入口から宿借石迄は坂は急ですが、比較的整備された遊歩道になっています。
山城跡というより、地元高齢者向けの施設であったり、山梨県在住者に向けた学習施設としての側面が強い若神子城跡。
上着を着ていなくても少し気分が悪くなるくらい暖かな日曜の午後。時折雨が降る、誰もいない山中を巡りながらふと目をやると、入口側の畑の先には既に満開の花が。
この山間の土地を離れて、大阪に向かって進んでいく物語の中で、武田の事は残っても甲斐はすっかり忘れ去られていく事でしょうが、それでもこの地には確実に春が近づいて来ているようです。