今月の読本「江戸時代の医師修行」(海原亮 吉川弘文館)江戸の列島を繋げる医者たちの医療知識ネットワークへの想い

今月の読本「江戸時代の医師修行」(海原亮 吉川弘文館)江戸の列島を繋げる医者たちの医療知識ネットワークへの想い

何時も楽しみに読まさせて頂いている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー。

二か月連続での購入となった2冊目は、江戸時代ものでも珍しいお医者さんを扱った一冊。しかも、当時の医師の治療や診察に留まらず、医師自身の就学体系を俯瞰しようという意欲的なテーマを扱っています。

江戸時代の医師修行江戸時代の医師修行」(海原亮 吉川弘文館)です。

この手のテーマを扱った本ですと、現役のお医者さんが書かれた本をたまに見かけますが、本書はちょっと異なります。著者は住友史料館の研究員。ぱっと思い浮かべると、住友家及び家業であった別子銅山などの鉱山関係か、両替商、および貨幣鋳造関係の史料を扱われている史料館とイメージがあります。しかしながら、著者の研究分野は医療史の研究。尤も、道修町がある大阪ですし、金属と薬種業は近い間柄なので、遠からずだとは思いますが、それでも著者がプロローグで述べているように、本来のお仕事とはちょっと毛色の違った内容なのかもしれません。

そのせいかもしれませんが、本書の切り口も前述のように医師が書くであろう治療や診断の面に重きを置いていません。本書は大きく分けて3つの物語に分かれており一貫したストーリーを描くわけではありませんが、著者の伝えたい想いはすべてに通底しています。それは、江戸時代の医師たちがどのように医療技術を習得し、それを伝えていったかを示すこと。出典の異なる3つの物語は、それぞれに一定の関連性がありますが、直接的には繋がらなくても、著者の想いとしては、全て同じ視線で語られていきます。

家職としての医療技術の学問体系と伝授と血縁、地縁による職業集団化。修行の一環、三都を主として、師弟関係に基づく知的ネットワークへ繋がるための遊学と帰郷。各藩、幕府による官学の実際、そして当時の先端医療の実例としての種痘。これらの検討にあたって、著者の専門分野である史料検討を駆使して詳細に当時の状況の輪郭を明らかにしていきます。主に用いられるのは、学問体系の検証では、彦根藩河村家の史料、遊学の実例としては越前藩府中領における医療活動と遊学の実録。これに連なる種痘技術の福井藩への移植の史料。そして、全編を貫くのは当時最先端の蘭方医療技術を自らの知的好奇心と向上心で勝ち取った、杉田玄白や大槻玄沢の著作からの思想。

著者はそれぞれの章における議論で同じ感想を述べていきます。本来国家(当時であれば幕府)による統制や、強力な指導下に置かれるべきである医師の技量確保、保健衛生行政が皆無であったことへの憤り。所謂家職や学統という言葉を用いてますが、閨閥ないしは学閥に類する治療技術の伝承体系への少なからずの疑問。その疑問を解決するであろう、統一した学問体系の欠如。特に官学とも目される各藩、幕府の医療学問体系の掛け声とは裏腹に、早期に生じる形骸化に対する諦念。

これらの医療体系的なものは、学問分野(当時であれば儒学)でも幕府に於いて漸く途に就いた段階であり、呪術的な部分すら多分に残っていた医療関係の学問分野で、著者が述べるような体系的な教育課程の整備を望むのは少々酷な話なのかもしれません。実際に、最も教育が必要であったと思われる町医者や、在村医の技量や教育に関しは殆ど分かっておらず、これらの解明は依然として大きな課題であると述べています。

また、学統に関しても、一子相伝的な医療技法の伝承であったり、門外不出として「暖簾分け」的に技量や知識を伝えていく事によって、知識の体系化=学問化が阻まれていたと考えることもできますが、現代とは大きく違う、移動や情報伝達の限られた時代において、これらのネットワークを確保することがどれ程重要であったかを考えると、むしろ積極的にいずれかの学統に加わり、そこから広がりを求めていく事が要求されていたのかもしれません。

本書に於いても、著者の想いを越えていくように登場人物たちは地方から飛び出して、三都や長崎で医療技術を貪欲に学んでいきます。それは、自分自身の医療技術を向上されるための切迫感、領主や支援者に対する責任感だったかもしれません。それ以上に感じるのは、努力して勝ち得た医療技術、そして貴重な書籍や全国から集まる学統に繋がる医師たちのネットワークを通じて、自らの郷土に最新の知識と技術を伝えることだったように思えてきます。

本書で扱われる京都遊学の例は既に幕末期に掛かっていますので、三都では蘭方医が広まりつつある段階に入っています。そのような時期に於いても、医師たちの基本知識は儒学をベースとした学問体系が求められており、その上に蘭学や和漢方からの治療の技術を重ねていく事になります。そうすることで、従来からの学問体系や医療技術、知識を犠牲にすることなく、蘭学に基づいた医療技術を習得する、即ち町医者や在村医へ徐々にではあれ、浸透していったと考えられます。

著者はこれらの推移に対する中央政府=幕府や地方領主=藩の不在を嘆き、その裏返しとしての医師たちの自発的な活動が医療技術体系を大きく変貌させ、近代医療の素地を形作ったと繰り返し述べていきますが、当時の幕府にも藩にもその実力や行政能力はそもそも期待できるものなく、少々厳しめの議論を述べられているようです。

むしろ、本書に於いては著者が別の切り口で述べているように、そのような体制に依存しなくても、現代より遥かに情報の伝達が困難であった江戸時代においても、意欲ある医師たちとそれに連なる人々のネットワークを通じて、三都、長崎、そして全国へとその知的素地が広がっていく事に注目したいと思います。その中で語られる、学統と呼ばれるかもしれませんが、誰かと繋がり合い、知識と技量を共有し合える仲間と呼べる人々と、それを支援する人々が集う素地があった事実を大切に考えたいと思った次第です。その意欲と向上心が、誰かの支えであることを忘れないためにも。

<おまけ>

本書と同じ時代(江戸時代から明治維新)を扱ったテーマの本を、ページ内からご紹介。

広告
「今月の読本「冷えと肩こり 身体感覚の考古学」(白杉悦雄 講談社選書メチエ)ひとの苦痛を表す言葉の物語

「今月の読本「冷えと肩こり 身体感覚の考古学」(白杉悦雄 講談社選書メチエ)ひとの苦痛を表す言葉の物語

お出かけの多いシーズンに入るとどうしても読書が疎かになる。

面白い本が入ってきてしまうと、それまでに読んでいた本が後回しになってしまう。

興味深いその内容にもかかわらず、後回しの後回しになってしまった漸く読み終わった一冊を今回はご紹介します(大ボリュームの某上下巻本にたっぷり時間を取られたためでもありますが)。

冷えと肩こり講談社選書メチエより「冷えと肩こり 身体感覚の考古学」(白杉悦雄)です。

まずは、著者の極めて珍しい経歴が興味を引きます。

文学博士で所属は芸術工科大学という不思議さ。では専攻は科学史か醸造などの伝統的な産業技術かと思うと、確かに科学史も専攻ですが、中国科学史という変化球。更には医療思想史という謎の学問領域、しかも中国と日本のという二枚看板で臨まれるという、ハテナが三つくらい並んでしまう不思議なテーマを掲げていらっしゃいます。

そんな著者が初めて上梓する一般向けの書籍のテーマは、日本人なら誰でも経験をお持ちの二つの症状を表題に掲げて考古学で語るという、これまた不思議なテーマを挑んでいらっしゃいます。

その不思議なテーマに相応しく、冒頭に述べられる著者の恩師たちの発言から驚かされることになるます。

「英語ばかりか、ドイツ語、フランス語、そして日本に多くの医学用語を提供してきた中国語にも、肩こりの苦痛を表すことばはない」

もちろん、それに対応する症状がないわけではありません。しかしながら適切な単語、用語が用意されていない点を著者は指摘しています。日本人にとってはもっとも普遍的な苦痛であるこれらが表現できないとは、何たる不思議なことでしょうか。

本書は、そのような疑問を出発点に、日本における代表的な病理や医療を表す言葉達の表現方法と治療方法の物語をコラム形式で述べていきます。

コラム形式(巻末にありますように、何本かの論文を集約して、本編を追記された事を述べていらっしゃいます)の体裁を採るため、冒頭の疑問に対して、各章それぞれは答えてはくれません。従って、結論を急がれる方は気になる症状、表現が書かれた章を読まれた後に終章に飛ばれてしまっても良いかと思いますが、通読されると(特に6章と終章は)、これまでの自分の苦痛に対する表現にちょっとした発見を見いだせるかもしれません。

血の道や、癪、せん虫や脚気といった、時代劇ではおなじみの言葉達の発生の由来と、その病理との対比が行われていきますが、どれも現代医学では特定の病名や病理に結びつけることが難しい症状たちのようです。

実例として冷え症(所謂婦人病)の治療方法について述べられていますが、現代医学では有効な処方が見当たらない中、漢方が優れて効果を示すが、個々の症状の何に効いているのか説明が難しい点が、この苦痛への表現と実際の病理への結びつけの難しさ、そして症状を徹底的に分解詳細化してく、科学的手法に対しての大きなアンチテーゼになっているようです。

本書では、そのような科学的手法とは無縁であった時代の病理の表現方法として言葉の由来と、それを診察すべき医師の診療用語(問診、腹診)の変遷から、病理と治療の表現方法の変遷を紐解いていきます。

腹診の用語から用法が変わってきてしまった肩こり、癪。鬱の言葉の使い方の変化。疝気や庸医(所謂藪医者)の語源が、庚申信仰や「野巫医」という呪術的な意味合いや、医療行為の発祥に起因することを示していきます。

対応する症状とは関わりなくとも、苦痛を表す、そして医療行為としての言葉と表現はどんどん変化していく事を考古資料から示していく点は、とてもユニークでもあり、興味を引くところです。

病理の表現が時代と共に変わっていくのであれば、身体自体の表現も変わっていくはず。そんな想いを抱かせたところで、後半の江戸時代の体内想像図の話に入っていくと、はたと考えさせられます。

既に解体新書が普及してきたころに描かれたこれらの版画。解剖学的見地を少し捻り込んで、体の中の小人さんがぶつくさ言いながらせっせと働いているシーンは、現代の子供向け図鑑にも引き継がれたモチーフですが、そこに表される言葉の数々が、最も古典的であろう考え方に基づいている点が非常に興味深い点です。

「曰く、抱朴子に曰く、氷霜粛殺も菽麦の茂を凋すことあたはず、暑鬱陰隆も雪山の凍を消することあたはず。人は此一小天地なり。あに雪山の凍あらざんや。」(丹水子)

著者は、その表現が中国のそれと異なっている点に着目しているのですが、そのような違いより、むしろ人体に対する自然との対比、自分のからだそのもへの畏敬の念だけは、洋の東西を問わないのではないかと思えてくるのでした。

それは人体を表して、小宇宙と呼ぶようになった現代医療にも結びついてくる表現方法なのかもしれません。

その畏敬の上で、より微細に探求して、害虫を取り除くように異常点を見つけ出して排除していこうとするのか、それとも大きな自然の流れの中で、虫たちが暴れて食い荒らさないように、手入れをマメに行い、調和を図っていこうとするのか。

言葉と病理に関わる歴史物語は、終章で述べられているように、これらの失われつつある苦痛の表現(肩こりも冷えもなくなったわけではないですが)は更なる表現方法への進化を遂げることで、あたかも現代医学への置き換えが困難であることを認めるかのように、あらたな外来語である「ストレス」という言葉に収斂させて片付けようとしているかのようです。

やはり「病は気から」の言葉こそが、すべてを的確に表すマジックワードとして何時までも使い続けられることになるのでしょうか。

人が生き続ける限り、新たな表現と共に次々と現れ、溢れる苦痛への悩みと、苦痛を訴えるその言葉に翻弄されながら、新たにその苦痛を命名し、それを治すことを使命とするお医者さんたちの戦いは、まだまだほんの序盤戦のようです。