今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

武家の本流として認識され武家政権の時代を通じて長く伝説に彩られる、清和源氏の嫡流とされる河内源氏。その中でも家名を大きく上げる事になった前九年の役の一方の主役となる源頼義は、その息子である源義家と共に日本の歴史の中でも特に英雄的に扱われてきた人物かもしれません。しかしながら、彼が実際に活躍した記録は極僅かしか残っておらず、その内容も後世の脚色が極めて強い英雄譚的な内容に終始するようです。

今回ご紹介するのは、そんな伝説に彩られる人物の姿を改めて見直そうという趣旨で綴られた一冊です。

今回は刊行から半年以上経って漸く入手and読む事が出来た(お休みに感謝)、「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は、数年前に中公新書から「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」という書名で、今回とほぼ同じようなテーマの本を出されています。従って、当該書籍を読まれた方には、かなりの部分で内容が重複しているかと思いますし、本書に於いても、その史料的な限界から一書として成立する事が難しいと考えたのでしょうか、前著同様に始祖となる源経基から書き起こし始め、幕府を開くことになる頼朝までの河内源氏一党の物語の中核を担う人物としての頼義を描いていきます。

どちらかというと中央政権、王朝国家側の視点に立った武家の成立過程を綴る著者ですが、特に東国における源氏と平将門の乱における賞典を享けた、またはそれに対抗した一族との関わり合いの過程について、本書ではその論拠を補足し史料面での不足を補うため、当該分野における専門家である野口実先生の研究成果及び著作を随所で引用することで、双方の視点を重ね合わせて議論を進めていきます。

その結果、本書では伝説に彩られる彼の物語に著者独自の解釈が与えられます。実質的な河内源氏の開祖と見なされる父親である頼信の嫡男ではあったが、官位については中央での公家社会の中で位階を進め、立て続けに受領を務めた弟である頼清に常に後れを取る苦しい立場であった事。東国の武士たちを従える原点と見做されてきた平忠常の乱における源氏の位置付けも、追討使としての立場を降ろされた平直方と頼信が反目している、ないしは中央での勢力争いを二人に加担させる形で東国の乱に持ち込んだように述べられる見解に対して、二人とも藤原頼通の家人であることに着目し、私戦とも見做された忠常と直方の抗争を収拾するために二人が連携した上で、頼通によって甲斐守に補されたと見做していきます。このような視点に立てば、直方がその恩義に対して頼信の息子である頼義に自らの娘を娶らせた事を、伝承的な内容が極めて濃い東国在陣時の事績に言及せずともきれいに説明できることになります。

その上で、著者は河内源氏一党がその後も固執を続けることになる北方地域(陸奥、出羽)について、非常に興味深い議論を展開していきます。平忠常の乱鎮圧における賞典としての小一条院の判官代への頼義の補任(ここで弟である頼清は乱の終結を待たず安芸守に補任されています)。敦明親王と呼んだほうが判りやすいかと思いますが、道長によって皇位への道を閉ざされ不遇のうちに過ごしたとされる人物ですが、近年の研究ではそこまでは貶められていなかったと見做されるようになっています。その一因として、著者は小一条院とその母系が歴代の陸奥守に繋がる点を指摘し、その権益を保持、道長にしても院の基盤としてそれを許容していたのではないかと見做してきます。鎮守府将軍、陸奥守そして秋田城介という北方の顕官。平将門の乱から発するこの権能の行方、すなわち貞盛流と良文流の桓武平氏、藤原秀郷とその一門、更には河内源氏として家祖経基の系譜を継ぐ頼義の交点に、著者は小一条院の家系を見出していきます。その中でも後の摂関家に直接繋がる家司の系統に属し、尚武の気風を小一条院に愛されたとする、王朝国家の外護者の家系に連なる頼義。著者はその想いを、院が手元に置いておきたくて永く受領への任官を留めていたのではないかとまで評します。

そして北方での権益を継承すべく相模守補任から前九年の役へと続く東国での活躍。ここで著者は近年の研究成果を踏まえて武家の祖、英雄としての頼義像を否定した姿を描いていきます。既に多く述べられているように彼の率いた武士たちは一騎当千とはいいながら、物量的には極めて限られた戦力に過ぎず、当時の受領、押領使、鎮守府将軍がいずれもそうであったように、在地の国衙軍制を以て戦力を整える、在地勢力の戦力に大きく依存する存在であった点を明確にしていきます。著者は有名な黄海合戦において最後まで付き従った従者たちの素性を明らかにしながら、彼らが所謂受領郎党と目される一群の軍事貴族の末葉や根拠の河内における累代の郎党達といった、河内を基盤に畿内そして京において蓄積してきた勢力に基づく戦力であったとの認識を改めて示します(美濃については長く源氏同士が勢力を争う地であったと指摘)。坂東の精鋭が頼義の武威を慕って雲霞のように参集したという伝説を虚構と明示し、安倍貞任が追い詰められて逼塞する事になる頼義をそれ以上追い落とさなかった理由を、受領故に中央の視線を配慮して敢えて回避したとまで述べていきます。

完全な負け犬とも見做され、伝統的な武威すらも失墜させた頼義。それでも彼が陸奥を離れず、最終的には離任ぎりぎりになって清原一族の支援(実質的には家人として屈して)を得て戦い抜く結果となった点について、著者はその後の彼の動きから検討を加えていきます。父親である頼信同様に在地の勢力に心服されることを願いつつも、彼らの勢力争いに首を突っ込むことで戦闘を開始する事になった頼義。自前の戦力が乏しい京から赴く彼らにとって、戦闘を続けるためには何よりも在地の勢力を懐柔し彼らが欲した名誉と勢力の保護を叶える権門への窓口となることを強く要請される立場にあった事を見出します。良く知られるように、前九年の役終結後、栄典禄としては最も高い富裕の地である伊予守に補任される一方、叱責を受け、自らが北方で膨大に積み上げた(巻き上げた)財貨でその受領の貢納を代弁してまでも、凱旋後は京に踏み止まり続けます。そこまでして役で支援した東国の武士たち、受領郎等たちの栄典を獲得する事に奔走する事になったのは、正に彼らの要望の受け皿としての立場(≒武家の棟梁)を任じ続けた結果であり、後に継承者を自認する頼朝の御家人政策を重ね合わせると、その権力の源泉と基盤が明瞭に浮かび上がってくるようです。

最後に綴られる河内源氏のその後。ここで著者は白河院が源氏同士を争わせて勢力を削ぎ、一方で平家を持ち上げたとする従来からの説に明確な否定を示す一方、彼ら河内源氏、更には源氏一門側の事情からその遠因を辿っていきます。頼義の弟で四位まで官位を進め、最後は大国である肥後守として在任中に没したとみられる頼清の姿を重ねながら、軍事貴族として王朝国家の尖兵であるうちはよいが、政権内部に踏み込むような地位に進む、武門としての家から外れると俄然、失脚、淘汰の対象となるという印象を強く漂わせて筆を置いています。

武家の祖を称揚するような内容を期待して読まれると、失望に次ぐ失望という感に苛まれ続ける内容かもしれませんが、これらの歴史的な流れの先に頼朝による武門の掌握があったと見ていくと、その経緯は非常に興味深く、後の世でも武門を掌握せんと考えた武士たちにとって反面教師的な立場を独り演じ続けていたとも感じさせる内容となる一冊。

著者が要所で参照を明記されたように、「河内源氏」を追う様に刊行された、頼義の息子である八幡太郎「源義家」(山川出版社 日本史リブレット人022)においては、逆に本木先生の研究成果を大いに参考にしてと述べられています。王朝国家から見る尖兵としての武門の姿と、東国武士から見る権益を取り持つ武門の棟梁という双方の視点を重ね合わせて読んでいくと、色々と見えて来る事があるかもしれません。

 

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今月の読本「人物叢書 月照」(友松圓諦 吉川弘文館)復刻された貴重な一冊に込められた、苦悩する兼宗と実践の姿

今月の読本「人物叢書 月照」(友松圓諦 吉川弘文館)復刻された貴重な一冊に込められた、苦悩する兼宗と実践の姿

吉川弘文館さんが日本歴史学会からの委託を受けて刊行を続ける、終わらないシリーズとも評される一大人物伝のシリーズである「人物叢書」。刊行以来、幾度となく絶版となった作品を復刻していますが、昨年はSNSを利用されている方を含めて、広範な読者の方にアンケートを取っての復刊キャンペーンが実施されました。

何時もの如く、悪乗りで何冊かの復刻をリクエストしたのですが、嬉しい事に、推させて頂いた何冊かが今回、復刊を果たすことになりました。

リクエストして復刊して頂いた以上は、何時かは購入しなければ申し訳が立たないという訳で、漸く山を下りた年末に、まずは一冊購入してきた本をご紹介します(復刻版をずらり取り揃えて下さっていた、ジュンク堂書店甲府岡島店様に今回は感謝です。河村瑞賢と随分悩んだんですよ、実は)。

年末年始にコツコツと読み続けていた、今年最初の一冊、「人物叢書 月照」(友松圓諦 吉川弘文館)をご紹介いたします。

本書は昭和36年に初版が刊行され、昭和63年に改められた版が元になっていますが、旧版のまま復刻されたのでしょうか、少々古風な活字で刷られています。また、近年刊行される書籍ばかり読んでいる身には、古風な文語体を読みこなすのに少々骨が折れた事を正直に述べておきます(文章自体は極めて平明です)。

しかしながら本書が極めて貴重でかつ、現在に於いても読むに値する価値があるのは、ほとんどの場合において西郷隆盛の添え物として扱われる月照自身の、現時点における殆ど唯一の評伝であることです。

西郷と肝を照らし合わせて、京都に於ける公家と武家の橋渡しをした、尊皇派で憂国の志士のような、ややもすれば不良僧、破戒僧とも見做されそうな人物が男二人で悲劇的な入水、といったイメージを全面に語られる場合が多いのですが、本書をお読みになれば、そのようなイメージが全く異なっている事に気が付かれるはずです。

京都を代表する寺院である清水寺の塔頭にして、実質的な寺務を統括する成就院の第24世本願という、当時の京都に於ける仏教界でも高位に位置する僧侶。奈良興福寺の一乗院に連なる法相宗としての律に依拠する厳しい側面。弟である、のちに25世となる信海は長く高野山に学僧として留まっており、その弟の研鑽に自らは及ばないと素直に評する、教学を追求したいと願う想い。全く正反対の、病弱ながらも、師である蔵海から続く、山内における激しい抗争の収拾と、一山の復興を背負うことになる、世俗に塗れる苦しい心境。観音信仰を母体とする清水寺が培ってきた信仰心が生み出す、渡世に寄り添う大乗律への想い。

藩主斉彬の使いとして、その名を雄藩に響かせ始めていた西郷とはいえ、およそ不釣り合いな、一山を代表する三職のうち二職をも兼掌した、清水寺の最高位にあった月照との関係。

実は、西郷と月照がどのような関係にあったのか、最晩年となる密勅を水戸に下す段階から薩摩への下向に至る時点以前に於いて、記録上で知られている事は殆ど無い点を明示します。西郷が斉彬の下で活動していた時期、本坊である成就院は弟である信海が継いでおり、本人は京都周辺の寺院や空屋敷を転々としており、空想好きな方であれば、同志を募り、内偵を恐れて、居所を転々としていたと想像の羽を広げたくなるかもしれません。しかしながら、彼が成就院を退去したのは、前述の山内の抗争と本山である南都の一乗院による意向の板挟みあった末に、隠居届を出し続けた上での善光寺への無断出奔に対する懲罰としての域外隠居としての退去であったことを明示します(後に許されますが、入山自体の差し止めはされていなかったこともあり、その後も成就院に弟を度々訪れます)。

そして、月照を悩ませ続けたこの問題の解決に助力したのが、本山である一乗院宮の弟子であり、後に青蓮院宮となる、中川宮。そして、興福寺に強い影響力を持つ、清水寺を祈祷寺としていた、歌道を通じても交流のあった摂家筆頭、近衛家との繋がりが浮かび上がる事になります。両家に出入りする公家、宗教関係者たち、さらには近衛家と縁戚で繋がる薩摩との関係から、当主である近衛忠煕の使僧としての役割を務めるようになった事を見出していきます。

著者は、勤王運動に関わった人々との関係を綴る章の冒頭で次のように綴ります。

「彼は決して主謀者ではない。たまたま、そうした主謀者と長く交際していたので、自然、その中にひきずりこまれたという方が正しいかもしれない。ただ彼の身分が当時として重要な役割をしたというだけのことである」

勤皇の志士をイメージされる方にとっては失望を感じるかもしれない一文ですが、その後に続く内容を読んでいくと、肯定せざるを得ないようです。公武の交流が大きく規制される中で自由にその双方を行き来する事が出来た、藤色衣を纏った高位の祈祷僧にして使僧という立場。志士というイメージとは正反対に見える彼が、なぜそのような活動に没入した上で入水という結末を遂げる事になったのでしょうか。

本書の著者は戦後に神田寺を興された、NHKラジオ法話『法句経講義』でも著名であった方。ヨーロッパ留学も経験され、現在の大正大学で教鞭を執られていた時代もある仏教研究者で、月照自筆の書籍を清水寺から委ねられていたほどに、精神面を含めてその研究を追及されていらっしゃいました。

本書は、そのような月照の仏教者としての生き様を要所に織り込む事でその思想面での変化、素地を見出していこうとしていきます。この辺りの著述になると、相応に宗旨に慣れていないと読み解く事が難しくなる部分ですが、月照の想いを同じ仏教徒としての視点から掬い取っていきます。一山の財政的な危機に直面しても、三職六坊と呼ばれる塔頭毎が勢力争いと続ける姿と、名義継承に立てられる年少の住職(月照自身も)や宮中を模した仮名に見る形式主義に落ちた清水寺、当時の京都に於ける寺社の姿に強い憤りを募らせる著者。印象的に語られる、その中で一人、門前に降りて廻行を行うという、御院主様と称された、三職中で実務を司る(他の二職は主に堂上出身の子弟が務めた)、寺領133石、門前5町を支配地として束ねる本願の責務を果たさんと、病弱を押して臨む月照の姿に、彼が会得したであろう二つの律のうちの小乗律としての戒律を重んじる宗教者としての強い矜持と、大乗律としての摂衆生戒、実践を通して人々に寄り添う宗教者としての生き様を見出していきます。その先に見出す尊王への思想的な展開について、本書では色々な可能性を綴っていますが、その確信と踏んだ子島流の法相密について、著者は門外漢だとして確定的な事は述べられません。

著者の手元にあった2冊の月照直筆の書は東京大空襲によって焼亡して今は無く、それ以前に蓄積していた研究成果と宗教者故に収集できた清水寺に残された彼の行動を記す内容と思想面での深化を併せて綴る本書。それだけでも唯一の内容を具えていますが、刊行後50年以上が経た今でも、その後に続く評伝が無い中で、今を以て貴重な一冊。

テーマ毎に時間軸が巻き戻されて綴られるために、少々追いかけにくい構成ではありますが、幕末の京都を舞台に、実際に活動された人物の息吹とその本質、交流した人々の姿を伝えてくれる、人物伝として相応しい内容を具えた一冊。本書を手に、今年の大河ドラマにおける前半のクライマックスとも言えるシーンでどのように演じられるのか、興味深く観てみたいところです。

 

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

今月の読本「渤海国とは何か」(古畑徹 吉川弘文館)「東洋学の挫折」の先に見る北東ユーラシアを描く軸

年末年始のシーズン。

慌ただしい時間が流れる一方で、日常の喧騒を離れて、じっくりと何かに取り組める時間が巡って来る貴重な日々でもあります。

バタバタと年末の後始末を終えて、ほっと一息つきながら読んでいた一冊からご紹介です。

今月の読本、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーから12月の新刊「渤海国とは何か」(古畑徹)をご紹介します。

まず、この渤海国という名称にどのような印象をお持ちになるでしょうか。ユーラシアの東端に忽然と現れて消滅した幻の王国、もしくは当時の古代王朝、王朝国家との交流史を有する、中華帝国、半島諸国とは異なる、第三の国というイメージでしょうか。近世、近代史にご興味のある方にとっては、後の清朝の揺籃たる女真が勃興した故地、更にはその後の満州へイメージを抱かれるかもしれません。

本書はこれらの日本人が抱くイメージが、実際には戦後の教育、歴史研究環境が生み出したものであり、渤海、更には北東アジアの地域史としての一側面しか捉えていない点への懸念を込めて綴られています。

学生時代からはじまり、40年の経歴を有する北東アジア史を専門とする著者は、それらのイメージがある時点を契機に生み出されたと指摘します。戦前日本の大陸侵攻と軌を一として生まれた「東洋学」が生み出した落とし子。敗戦によって一度は散逸した研究成果は、その後の日本に於いて、更にはかの地に於いて再構築される過程で、自らのイメージに合わせた歴史著述の一ページとして利用されてしまっているとの大きな懸念を抱いていきます。

「東洋学の挫折」という刺激的な表現を用いて、その経緯を綴る著者が本書で描こうとする内容、それは海東の盛国と称された謎の国、渤海をその後の歴史研究における位置づけの争奪から擁護せんと願い綴る、汎北東アジアの視点を掲げた検討過程から輪郭を示す事。

従って、題名に示される様な渤海の歴史のについての詳述を本書に求められる方には、少々残念な想いをされるかもしれません。前半は渤海の勃興から滅亡までの概略が時間軸を追って綴られていますが、著者がここに述べるほどにしかと感嘆されるように、そもそも渤海に関する文献資料は極めて限られています。その中でも彼ら自身が残した文献は僅少であり、殆どが周辺の国々の記録に語られるに過ぎません。

そこで、著者は逆にその周辺の国々の記録に残された点から、彼らがどのような位置にあったのかを見出していこうとしていきます。渤海国の概要をお知りになりたい方であれば、確かにwikiでも充分かもしれませんが、本書の魅力は後半で述べられる、その位置付けを北東アジアの中から浮かび上がらせるアプローチにあります。

日本の歴史教育で渤海を扱う時に語られる、唐を模した、ないしは日本の律令制や王都を参考にしたともされる律令や兵制、都の構造について、確かにその影響を強く受けている点を指摘する一方、唐における外藩と内属国の扱いと王に与える称号の違いから、契丹や遼などの北方騎馬系民族として包括される扱いとは異なる、比較的内属国に近い位置付けを与えられていた事を見出します。更には、彼らが独自の文字を持たず、漢字を用いた点からも、実質的には中華帝国の冊封体制に準じる(年号は独自のため)位置にある、北方騎馬系民族に対する東方からの牽制勢力の一翼を担っていたとの位置付けを見出していきます。

その一方で、遥かに三国志「東夷伝」まで遡り、伝統的に北狄と称されたその土地は、東夷と称された半島、そして倭の諸国とは決定的に認識が異なっていたと指摘します。この事実は、冊封を奉じた半島の諸国や高句麗、その後に統一を果たした新羅の勢力が及んだ範囲と、交錯する渤海とでは異なる民族的アイデンティティ、むしろ更に北方に存在した黒水靺鞨との類似性を示唆します。

中華帝国の一翼を担う一方で、更に北方の遊牧民側(但し、渤海が勢力を伸張させた時代は現在より温暖な気候であったとみられています)の立場に近い極めて微妙な渤海の位置付け。著者はその位置付けを雄弁に物語る手掛かりとしての、彼らが残した交易の跡を追い求めます。

東北地方に集中的に残る、7世紀の遺跡から発掘される錫製品。北方の地で育まれる体格の優れた馬、そして渤海と一時的に対立した唐の前線基地である節度使が、「熟銅」の交易だけは禁止しないように中央に対して請願を出していたという点を見出し、当時の唐王朝にとっても、渤海が重要な銅の産地であった事を指摘します。

北方の優れた産物を集散させる諸民族。更には、彼らが渤海使として日本に訪れた際に引き連れたとされる首領たちもその実は商客であるとの当時の認識も添えて、彼らの求心力が商業的なもの、交易による利を供せられるかによって支配体制が左右されるとの認識を提示ます。中でも本書では、他の研究者の指摘を引用して、その本質として、狩猟、漁撈民はその生産物の農耕民との交換の必要性から、一般的に交易民であるという、核心を突く一説を提示します。ユーラシア東方における政治的な求心力を農業的な集散と見るか交易による利益と見るかで分かれるという根源的な認識。一方で、同じ北方遊牧民族でも、独自の文字を持つなどアイデンティティの明確化を見せていた契丹は、後に燕雲十六州を得る事で、自らを中華帝国の一部へと転換させたと指摘します。

後に清朝を生み出すことによって、中華帝国としてのアイデンティティの一部として埋没していた「満州」を再発見した、戦前の東洋史が残した足跡を辿りながら、渤海をテーマに北東ユーラシアにおける位置付けの再構築過程を示す本書。複雑な歴史の推移同様に、複合的な内容が、それこそテーマを縦横に展開されるために、一度読んだ程度では容易に全容を把握できる内容ではありません(門外漢なので更に)。

この本を手掛かりに、巻末に掲載する関連書籍を跋渉しながらも、もう少し読み込んでみたい、歴史著述、理解の奥深さへと誘うような一冊です。

なお、著者は非常に寡作な方で、提示される参考文献を含めて、主著と見做せる一般書籍が見当たりません。中華帝国たる隋、唐自体また北方遊牧民族が発祥であるという視点は、契丹、奚の扱いを含めて、講談社学術文庫から現在刊行が続いているシリーズの一冊、「興亡の世界史 シルクロードと唐帝国』(森安孝夫)を、本文中で繰り返し引用されています。

今月の読本「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)シーカヤックを漕ぐ古代ラピタ人研究者がGISから描く、ラグーンから始まる古代史

今月の読本「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)シーカヤックを漕ぐ古代ラピタ人研究者がGISから描く、ラグーンから始まる古代史

近年積極的なコラボレーションが行われる、歴史研究における人文系と情報技術系分野。

でも、その成果を喧伝されたり、積極的に発信されるのは、どちらかというとサプライヤーサイドとなる情報技術系の皆様で、実際にそれらを成果として活用されている人文系の皆様のレスポンスは、利用させてもらっています、もしくはこんな事も出来るんですねと言った、ある意味、受け身な反応の方が多いような気がします(すみません、私自身が技術系の人間なので余計に)。

そんな中で、人文系の研究者の方が、自ら積極的にこれらのツールを使用されている事を全面に掲げて執筆された一冊が上梓されました。

今回は、何時も新刊を心待ちにしている吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーより、10月の最新刊「よみがえる古代の港」(石村智 吉川弘文館)をご紹介します。

冒頭に述べましたように、本書では地形的な検証過程に於いて、著名な地図、地形表示ソフト(GISの一種と称しても誤解は無いでしょう)であるカシミール3D®を全面的に利用し、著者自身が現地に赴いた際の写真と、考古学的な知見を重ね合わせる事で、より実体感のある著述を行おうという意図が全編で貫かれています。

このような著述を可能とする所以は、著者の現職(無形文化財の音声映像記録研究室長)からある程度理解できます。考古学者としては少し異色な、デジタルを含むメディアによる文化財の記録と保存を専門とされる研究者。それ故に、これらのツールを利用することに対する敷居の低さが当初よりあったようです。

そして、元々は南太平洋の失われた民族であるラピタ人の研究という、日本の考古学者としては異色で極めて貴重なキャリアを有し、広くアジア圏で考古学に関する活動に携われた上で、その後に共同研究として参加した、日本の考古学についての成果を、補足すべき雑感を纏めて一書を著したという点。

日本の考古学者としては極めて特徴あるキャリアを有する著者は、更に前述の研究テーマを直接体現するかのように、シーカヤックによる海からのアプローチにも長じており、それら全てを包括する著者ならではの独創的な視点が本書には溢れています。

日本の考古学、歴史研究において常に核心として扱われる、稲作農耕と、大陸、半島との関わり。その反動ともいうべき南方からの伝播や北方への移転といった議論を超越して、古代ポリネシアの人々同様に、そもそも人は目の前に海があれば、その海原を渡り、行き交うものという、極めてシンプルな立ち位置で議論を進めていきます。その想いは、著者がミクロネシアで伝統的な航海術を継承する方に高松塚古墳の天文図を紹介したときの、彼の感慨へと繋がっていきます。

そして、著者の着目する海からの視点、そこには現代と異なる、丸木舟の延長であるカヌー(カノーと軽野の語源についての極めて興味深い一文も)のような、構造船が登場する前の段階とその後で、船底構造と喫水線の違いから、現在の港湾として良港と見做される、水深があり、深く切り込んだリアスや湾ではなく、ラグーンと呼ばれる、葦等の植物が生い茂り、水深が浅い、遠浅の入り江、遡上する川縁こそが彼らの舫う場所であったと考えていきます。

瀬戸内海(この名称自体、明治維新時に欧米人に説明する為に用いられた用語であるという意外な紹介も。それ以前は「灘」と「瀬戸」が繰り返し現れる場所)及び、丹後、若狭地方における、古墳時代における集落遺跡の分布と古墳の位置関係を地図上に落とし込むと、交錯はあるものの、時代を経るに従って、その分布がラグーンから水深のある湾へと遷っていったことを見出していきます。そして、現在では内陸に存在するように見える巨大古墳の配置が、実はラグーンの畔、海側から望める格好の場所に位置している事をカシミールの図上で示していきます。

まるで、その姿を航行する人々に見せ付けるために海岸に添うように配置された巨大古墳とその葺石(ここでカヤックから陸上への視点と地球の円弧の影響という、操船経験のある方なら実感の解説も)。著者は、その配置の変化や船底構造の変化を併せて考える事で、当地における社会構造の変化、居住する人々の交流する対象に変化があったのではないかと想定していきます。そして、ラグーンを拠点に発展していった氏族の中に、後の内膳司となる御食国としての、膳氏と安曇氏という古代の「食と猟」を司った氏族の動きを重ねていきます。

ラグーンから望む海で繋がる人々。著者の視点は、その海流に乗って、更に西へと進んでいきます。遣唐使、新羅使が航海した瀬戸と灘。現在の動力船でも充分影響を受ける、急激な潮流変化が絶えず繰り返す瀬戸内の海を航海する為に各地に設けられた泊の変遷を訪ねながら、鞆の浦から厳島と音戸の瀬戸の謎を追い、周防灘を渡るルートを探り、宇佐、宗像の神々と、何故海神、そして八幡社がいずれも三女神(三柱)なのかを波間に問いながら、玄界灘を世界遺産の地、沖ノ島へと渡っていきます。

ここで、東南アジアの考古学に精通する著者は、此処まで辿ってきた海路沿いのラグーンに残された遺跡の発掘物に見出される、東南アジアで作られたであろうガラス器を示しながら、海のシルクロードへの想いを馳せていきます。列島の中に閉じ込められたかのような、あるいは一方通行的な、僅かな窓口を介したように綴られる歴史展開に対して、はっきりとそうではない、遥か先史時代からこの列島は広大な海の世界に脈々と繋がっていたのだと述べていきます。

その想いを抱きながら綴る後半。瀬戸内海を中心に纏まって描かれた前半から大きく飛躍して、その道筋は、海の都である難波宮と陸の都とのダブル、マルチメトロポリス論を挟んで、伊豆半島、北海道、そして先島諸島へと続いていきます。著者の専攻であったポリネシアとの繋がりすら想定させる、伊豆半島の南端に点在する入り江とラグーンを拠点にした古代の賀茂氏と弓ヶ浜、源平合戦期の伊東氏の交易拠点だった河津を梃に望む、伊豆七島、小笠原、その先まで続く大海原の道筋。まだ手つかずのままに発掘される時を待つ、広大なラグーンに存在した幻の街と其処に集ったアイヌの人々は、北方アジアと海を通じて繋がり合い、今は廃村となって船でしか訪れる事が出来ない西表島の網取に残る最後の風俗から、遥か南方の人々が行き交ったであろうとの想い描く。

地上における推移と発掘成果、記録を残した側の視点で描かれる、ややもすれば二元的、対峙的な歴史の叙述に対して、全く別次元で列島の人々同士が、更には世界へと繋がっていた事を海の視点を踏まえて捉えようとする著者。

その視点を描き込み、歴史の交点となるその場所を探り出すために、著者はラグーンと湊の跡を求めて、海ではシーカヤックを漕ぎ失われた姿を想像し、丘に上がってはGISを積極的に活用してその実像を示そうとしていきます。

歴史文化ライブラリーに相応しい、新しいアプローチに満ちた考古学の可能性を示してくれる本書。著者が述べるように、GISによって見出される古代のラグーンだった場所には、まだ手つかずの遺跡が多く眠っている筈。それらが見いだされた時、我々の知っている「陸上」の考古学とは全く異なる姿を見せてくれるかもしれません。

こちらに載せています歴史文化ライブラリー既刊の数々。意外かもしれませんが、全てが本書の内容と直接、間接的に繋がっているのです。

繋がる歴史の面白さを是非皆様にも。

今月の読本「荷車と立ちん坊」(武田尚子 吉川弘文館)明治東京を運ぶ足跡を追ったオムニバスストーリー

今月の読本「荷車と立ちん坊」(武田尚子 吉川弘文館)明治東京を運ぶ足跡を追ったオムニバスストーリー

歴史の研究分野は古来から続く政治や人物、又は文化、芸術的な変遷を捉えたものから派生して、近年では色々な切り口を持ったテーマが語られるようになってきたようです。

特に近現代史に於いてそのような傾向が多く見られますが、最近では更に学際領域というのでしょうか、テーマの多様化、細分化が進んでいるようです。

今回の一冊も、そんな流れの中にあるように思われる、極めて珍しい題材で描く「荷車と立ちん坊」(武田尚子 吉川弘文館)をご紹介します。

著者は直近に「ミルクと日本人」(中公新書、著者へのインタビューはこちら)という、これも極めて珍しい、ニッチで狙いすましたようなテーマの本を出されていますが、本書も特徴的なアプローチと内容を具えています。

まだ荷車を人が曳いていた明治の頃、急な坂や荷物が大量に集散する場所にたむろするその日暮らしの人々「立ん坊」。そして、東京近郊の農村と都心とを行き来した農民の暮らし。日本の中心となった東京に集う二つの全く異なるバックグラウンドを持つ人々の存在に触発された著者は、その間を取り持つ「荷車」をテーマーに物語を結びつけようとします。

しかしながら、この二つには僅かな結節点しかないため、勢い「荷車」を軸に明治東京に行き交う荷物を扱い運ぶ姿の変遷を、江戸時代に遡って綴る事が主体になったようです。更には、前述の執筆経緯故でしょうか、本書を通貫した明確なストーリーが築かれることは無く、各章ごとに「荷車」に関するエピソードがオムニバスに語られ、その中に「立ん坊」の姿が織り込まれていきます。

江戸時代の伝馬から始まり内国通運(今の日通です)、鉄道、郵便輸送に繋がる物流の大きな変遷を描く、産業史の中に生きる小口輸送単位としての荷車とそれを事業として扱う人々の勃興と構成。大八車の発祥と命名の謎から車両自体の変遷と、その中に組み込まれた著者の前著にも通じるような牛乳車や洋菓子を売って歩く箱車の姿。日清戦争における輜重部隊と、破門されてまでも志願し出征した江戸の力士たち、輜重における人力から馬力への転換。そして後半で綴られる、民俗学的な視点による明治期における都市近郊農村の姿にみる輸送形態。

それぞれに興味深い内容が続いていますが、如何せん新書並みの僅か180ページ程という分量の中で、話題ごとに細分化され、更に本書の主題である「立ん坊」の話は各章に散りばめられてしまっているため、かなり散漫な印象を受ける事も事実です。

「荷車」をテーマに、研究内容の宝石箱をひっくり返したかのように繰り広げられる本文。その中で少し纏まった形で述べられる「立ん坊」達の生活と、住んでいた場所、荷を待っていた場所について綴る一節を軸に読みなおしていくと、本書のもう一つの姿が見えてきます。

荷物が集散する水辺、河岸、そして駅。今では僅かに痕跡を残すのみですが、今もこれらの場所には、日通を始め大手の運送会社の倉庫や事務所が軒を連ね、潮待茶屋にはトラックとターレが集う。既に産業史の教科書に残るのみですが、汐留、秋葉原、最後の痕跡である築地は、時代の最先端であった物流システムである水陸結節駅として、その荷を集散させる彼らが行き交った舞台そのものです。そして、彼らが夜露を避け、怠惰と無常を募らせた本所に連なる木賃宿と、往年の姿は全く痕跡を残しませんが、今もその名と地形だけははっきりと残る、彼らが荷を待ちうけた凹凸の激しい東京の坂たち。

彼らが汗水を流し歩んできたその足跡には、現在の東京を形作る輪郭と動線がはっきりと刻み込まれている事に気が付かれるはずです。

人と物が動く事で街が形作られていく過程を、荷車というテーマから垣間見せてくれる本書。著者の旺盛で広範な好奇心を鑑みると、ちょっと無理かもしれませんが、極東の大都市東京の成長していく姿を描く一つのテーマとして、その先の物語を読んでみたいと思わせる一冊です。

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)寄せ来る者達に翻弄され続けた核心の地への記憶

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)寄せ来る者達に翻弄され続けた核心の地への記憶

武士の都と呼ばれた鎌倉を擁する相模。一方でその土地は東山道が抜ける上州と共に、西に連なる箱根を関門に構えた東国の入口を扼する場所でもあります。

自らの発祥を苗字に掲げる事が多い東国の武士たち。しかしながら、東国と西国がせめぎ合う境界に位置するその地を苗字に掲げる一族が、その後の荒波を潜り抜けて最後の封建制たる江戸時代まで家名を繋げられた例は、ほんの僅か。歴史ファンの方でも思い出されるのは、戦国時代に北条早雲に滅ぼされた三浦氏くらいではないでしょうか。

そんなマイナーな感が否めない相模発祥の武士たちの変遷を一冊に纏めた本を、今回はご紹介します。

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)のご紹介です。

本書は、同じ編者、版元さんにより刊行された「武蔵武士団」に続く続編として送り出された一冊。執筆するメンバーも一部ではオーバーラップしています(今回も、細川先生の一刀両断コーナーありです)が、前述の懸念を少しでも解消するためでしょうか、内容を補強する為に特論と称して、本来は相模武士とは呼べない前後の北条氏、そして、相模武士の象徴とも捉えられる三浦氏について、相模武士たちとの関係を含めて述べる論説を、本書の執筆陣とは若干離れた人選を擁しての別項を立てています。

手持ちの中で、今回の執筆陣の皆様が手掛けられた同じ版元さんの書籍をセットで。

前著「武蔵武士団」と比べるとマイナーな感が否めない登場人物達、更には本書でも多数引用される在野の歴史研究家、湯山学氏により膨大な私家版を含む著作物が刊行されており、本書でも言及されているように、その内容には十分な検討が必要とはいえ、採り上げるべき個別の武士団、氏族ほぼ全てがカバーされています。

では、本書はどのような立ち位置で相模武士団を捉えようとしているのでしょうか。編者の時代感の捉え方は今となってはやや古いスタンスとなる、開発領主から勃興するスタイルをニュアンスとして残しつつも、彼らが中央から下向してくる人々によって、翻弄されていく過程を描く事で、相模特有の事情、その武士団たちの特徴を見出そうとしていきます。

武蔵武士団にも通じる内容ではありますが、より権力の震源近くに在住することとなった相模の武士たち。その姿は、東国の関門故に、所謂源平合戦以前から中央の権門と密接な関係を築いていた事を示していきます。そして、頼朝の挙兵と共にまず最初に騒乱に巻き込まれる事になる相模。それ以前から源氏同士の勢力争いに巻き込まれていきますが、ここから相模武士たちの淘汰が本格的に始まる事になります。

西国に主軸を置く平家に付くか、京に生まれ先祖の勲功と記憶を振り回す頼朝に賭けるか。御家人として纏め上げられる段階になっても、その舞台である鎌倉を擁する相模の武士たちは、頼朝による熾烈な淘汰を真っ先に受け止める事になります。

在地から伸展する訳ではなく、アウターが跋扈する鎌倉を舞台に繰り広げられる暗闘と粛清。その矛先は、在庁の雄たる三浦氏にも容赦なく降り注ぎ、滅亡までに二度も系譜を絶たれ、三浦半島の奥に押し込められてしまいます(それでも鎌倉の背後を押さえる地に三浦の家名を存続させた点に、地勢への配慮を示唆する論には深く同意するところです)。

壮絶な権力争いの末に、全国に所領を広げ、諸大夫としての武蔵守、相模守を独占した得宗、北条氏に対して、圧倒的な規模の差を見せつけられて、追従する姿を示す相模武士たちの御内人への転身(ここで、御家人身分から転落したわけではないと注意が示されます)。更には、良く知られるように苗字は残したまま、一族を分けて西国の所領へと転身を図る武士たち。その動きは承久の乱以前にまで遡る事を示していきます。

そして、鎌倉幕府滅亡から南北朝に掛けて、再び相模は権力の中枢としての宿命を受けることになります。鎌倉幕府滅亡と共に滅んだ北条氏と共に、中先代の乱で復活を狙った時行に加担して、又はもう一つの東国の関門たる東山道を軸に北方を抑えた南朝に下って、更には観応の擾乱によって。鎌倉幕府を生き永らえた相模武士たちは、再び外からもたらされた戦いによって、更に淘汰を繰り返す事になります。新たな鎌倉の主として乗り込んできた鎌倉公方と関東管領、彼らも生き残った相模武士たちに試練を与え続けることになります。鎌倉の政体と守護の二重権力体制の為に、既に国単位の武士団としての体を成さなくなった相模の武士たち(三浦氏にしても守護権が否定されている間は同様と)は、牽制しあう二つの権能の指揮下、または隣国の武蔵の一揆勢と共闘をする以外に生き残る道が残されていなかったようです。

鎌倉府の下で何とか家名を維持してきた相模武士たちですが、今度は鎌倉公方と関東管領の争い(それぞれを牽制する幕府を含めて)によって、双方の勢力に分かれた相模の武士たちはまたしても淘汰の時を迎えてしまいます。最終的には鎌倉公方の古河への動座によって、相模の地が武家権力としての引力を失うことになる永享の乱とその後の享徳の乱によって、相模に在住していた旧来の武士たちは三浦氏を主体とする僅かな勢力を残して、殆どが滅亡、西からはこれまた鎌倉に入る事が出来ずに伊豆に留まる結果となった堀越公方を乗り越して、大森氏が小田原に入部することで、これまで辛うじて維持してきた相模西方、金目川以西は在地そのものが淘汰されていきます。

権力の引力が北方に去った事で空白地帯となった、残る相模川の東岸と相模中央部に漸く勢力を挽回した三浦氏の勢力も、その後にやはり関東の喉口を押さえる要衝と踏んで乗り込んできた北条早雲によって殆どが根絶やしにされ、僅かに後北条氏の重臣となった松田氏が残るに過ぎなかった事を示していきます(最終的には秀吉の小田原攻めで滅亡の道へと進む事に)。

東国の入口ゆえに外からの勢力に翻弄され続け、最終的には苗字の地たる相模に痕跡を残すばかりとなった相模武士たち。しかしながら、武蔵に蟠踞した武士たちと同様にその足跡は全国に渡り、苗字の地を離れた後に大いに繁栄した一族も数多輩出しています。小早川、長尾そして三浦氏の系譜を受け継ぐ蘆名氏。権力の中枢に存在することによる熾烈な淘汰を逃れた先に発展した相模武士たちは、それでも相模が本貫地がある事を由来として誇り、苗字を、そして家名の礎となったその土地への深い繋がりを求めていたようです。本書にはそのような各地に散らばっていった相模武士たちの足取りにも検討を加えていきます。そして、歴史時代を潜り抜けた今日の相模。今度は日本の中心に隣接することとなったために、急速に失われていく彼らの足跡。編者たちは、そんな変遷の激しいこの地に僅かに残る、相模武士たちの痕跡にも目を向けていきます。

最後に綴られる相模武士たちが行き交ったその土地を紹介する一節。その中で印象的に語られる、考古学的には既に往時の道程とは食い違ってしまっているにも関わらず、その後の歴史でも、私を含めて今を生きる相模、今の神奈川県(更には武蔵の地)に住む人々にとっても深く結びつく「鎌倉街道の記憶」に息づく想い。その想いには苗字の地を遠く離れ、権力の中枢としての地位を遥か昔に失ってもなお、その核心の地が秘める引力の強さを思い起こさずにはいられません。

武士団をテーマに掲げた本書が綴る、武家の核心の地で繰り広げられた興亡と淘汰の物語。その結末は余りにも寂しいものですが、もし今後、鎌倉、そして相模の地を訪れる際には、本書を片手に僅かに残る痕跡を辿りながら、武士たちが壮絶な駆け引きの中を生きていた姿に思いを馳せてみては如何でしょうか。

今回ご紹介した本と、勝手に深夜の「東国の武士団と歴史書籍フェア」。

武士の発祥と変遷を綴る書籍の数々、皆様のご興味を引く一冊はありますでしょうか。

今月の読本『平安京はいらなかった』(桃崎有一郎 吉川弘文館)プライドをかなぐり捨てた「張りぼての首都」が演じる未来

今月の読本『平安京はいらなかった』(桃崎有一郎 吉川弘文館)プライドをかなぐり捨てた「張りぼての首都」が演じる未来

海外から到着した大使が最初に向かう儀式。その人物を大使として認めてもらうために、本国から与えられた信任状を着任した国家の元首に手渡して、自らを大使として承認してもらう事。このような手続きは意外な事に、時代を越えて、洋の東西を問わず似たような形式が用いられれるようです。

そして、現在の日本に於いては、東京駅に差し向けられた迎えの車両に乗って皇居に向かうのですが、この際に新任の大使には二つの選択肢が用意されます。車による送迎と、何ともクラシカルな馬車による送迎。

世界的にも珍しい、馬車による大使の送迎を行うルートとなる東京駅から皇居までの道路。馬車が通過する際には交通規制もされているため、その広々とした空間を粛々と馬車が進むシーンをTV等でもご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、接受国、特に王国を名乗る立憲君主政体を採る国にとっては君主の威信が試されるシーン。もちろん奉呈する側となる大使にも自国の威信がかかっている事に変わりはありません。

そんなドライでスピードが問われる世界とは隔絶したような外交官の交換が行われるのは決まって首都たる場所。現在の東京が首都かどうかはさておき(この話を始めると、京都の方に睨まれるので)、歴史的には長きに渡って京都、その前身であった平安京がその役割と務めてきたことになります。今回ご紹介するのは、そんな外交の舞台となる平安京のからくりからの脱却と再生産こそが京都の街を生んだという刺激的な論考を引っ提げての一冊です。

今月の読本、何時も新刊を楽しみにしている、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーより、夏休みになって漸く入手が出来た『平安京はいらなかった』(桃崎有一郎)のご紹介です(地方の悲しさ、最近、更に入手難に陥っています)。

まず、著者の略歴から本書の興味深い立ち位置が伺えます。鍋島武士の気風を語る佐賀に由来を持ち、東京に生まれ、東京の大学で文学を修めて中世史の研究に踏み出した著者の奉職先は京都の立命館大学(現在は東京の大学に在籍されています)。全くのアウターがその際に務めた京都学の講義ノートから再構成された本書は、これまでであれば京都に思い入れの深い著者の方が連なる京都学の論考や著作とは、同じ結論でも全く異なる立ち位置から描いていきます。

描かれるストーリーについては、ある程度日本史にご興味のある方なら充分に把握されている内容かと思います。多くの先行する研究者の検討内容を引用する形(著者自身は中世史の研究者ですから当然として)で進める古代王朝の宮城が固定化されていく段階の先に構築された平安京。著者は藤原京から長岡京までの期間に摂津職が維持されていた事から、難波宮が継続的に必要とされた点に触れて、所謂大陸からの律令制の仮借自体が軍事的緊張の切迫感からもたらされた物であり、その目的を果たすための大和周辺に根拠を張る豪族たちの集住と、外交的威信道具としての接受機能の統合を、長岡京を反面教師として最終的には平安京への集約と水路を用いた大阪湾への接続によって成立させようとしたと見做していきます。

奈良盆地から離れ、海路との接続を確保する事で地理的な決着を付けた平安京。では、外交の威信道具としての首都、平安京はどうだったのでしょうか。既に多くの先行する研究者が指摘するように、平安京は未完であった点については議論の余地はないようですが、著者は更に一歩踏み込んだ理解を示していきます。それは余りにも巨大な朱雀大路の幅と、大路に向けてひたすらに築地塀が続く異様な外観、門しかなかった羅生門(羅城であるべきだが、正面以外にろくな壁すらない)。そこで行われた儀式の最後の名残ともいえる祇園祭の山鉾が、狭く格子に組まれた今の京都の街路で、その通行場所だけ広がる情景を見た時、著者の中で一気にイメージが再構成されていきます。もはや来るはずもない大陸からの外交使節に見せ付け、同じように大陸から採り入れた官僚組織、儀式体系を執り行う場所を作り上げることすら出来ずに終わった、律令制という、小さな国土には不相応なロジックを体系的に見せるための、張りぼての巨大劇場、首都の残骸。

何だか、某国を思い出してしまいますが、著者はその証明として、様々な議論のある平安京の完成スケールの検討を改めて行い、特に右京については殆ど手つかずのままであった点を再度明確にしていきます。古代王朝が生み出した数々の巨大建築や土木施設の掉尾を飾る平安京にして、結果的にはその理想に国力が全く追い付いていなかったことを、長安城との比較や、当時の東北への軍事的侵攻と撤退との対比から示していきます。

此処で著者の視点がユニークなのが、未完成のまま目的を喪失し、利用効率も低いこの首都、平安京がどのように変わっていったのかを、都市構造自体の変化で示すと共に、為政者たちの行動から、本音を引き出そうとする点です。あくまでも朱雀大路の規模を維持しようとする一方で、右京の再開発を放棄して、その門の礎石を自らの寺院へ転用しようとする道長。右京の開発が進まない中で、初期の段階から北へと領域を広げる内裏(土御門の読み解き、初めて知りました。関東人なので、この辺がダメダメです)。北東から鴨川沿いに再開発が進む左京と、進出する治天。左京を中心に上下に再構築される街区と、其処から距離を置いて展開した職人街。平安京の利用形態の変化と、幾度も炎上する内裏にその都度修復するも戻ろうとしない歴代天皇の動きを重ねて、律令国家から王朝国家への質的変遷を見出そうとしてきます。そこには、摂関を始め、当時の為政者たちが外交的負担から解き放たれて(放棄して)内向きに向かって縮小再生産を行ったとする見方に対してさらに強烈な、中央集権的な律令制などは大陸の王朝に対して1/10程の規模、国力しかないこの島国には全くオーバースペックであり、元々その程度の行政規模しかなかったのだという、辛口な見解を示していきます。いきなり大胆に斬り込んできますが、この辺りの時代になると著者の専門分野に近づいていく時代となるため、その筆致は切れ味が鋭くなっていきます。更には、財政としても(箱モノや遠征をしなければ)破たんしておらず、受領による収奪が維持されていた間は、その収受先たる行政機関は形骸化しても、それに代わる受領による貢納と荘園からの収納機能が働いており、財政運営上の問題はあまり顕著ではなかったと見做していきます。その証拠として、その後の巨大な法勝寺九重塔の建築と一連の白河殿の再開発を指摘し、律令制から、よりコンパクトで機動的な王家の家長たる治天が、摂関の補助を受けながら主宰する王朝国家への脱却を図ったモニュメントだとしていきます。そして、このストーリーの延長に位置する信西による大内裏の再構築。そこには、既に天皇の居住空間としての内裏の意義は喪失しており(それでも最初に構築されたのは、信西の理想主義がそうさせたのでしょうか)、その再築範囲を検証した結果、あくまでも天皇の視点と、朱雀門から見上げる者にとっての視点、すなわち、対外的な視点を失ってもなお残存していく、天皇制というシステム再確認の舞台劇たる大嘗祭を行うためだけの舞台道具が揃えられたに過ぎないと看破していきます(ここで、大極殿より先に大垣が築かれた事に対する解釈を「廃墟と工事現場の目隠し」と一刀両断で斬り伏せてしまいます)。

その上で、現在の京都に繋がる、王朝国家衰亡の原因を、武家の伸張、特に知行国主制によって、受領による収奪機構を武家に徐々に割り与えた事による絶対的な収納不足と、地頭の設置による領家への武士の進出による荘園利得の収奪、最終的には承久の乱によって決定的に自己統制力を失墜させた王朝国家から武家への、都たる京都における主役の交代であると観ていきます。

古代国家が在りもしなかった、来る事もない相手(渤海は逆に想定外と)への威信を賭けて築いた巨大な劇場の重い負担を取り去ったまでは良かったのですが、自らの制御力を失ったことで、肝心な駆動力や舞台装置までも失うことになった中世の京都。再建されなくなった大内裏と、馬場や戦場とされてしまった内野。代わりに登場した武家政権で最初に京都における頂点に立った足利義満が築いたのが奇しくも法勝寺九重塔を上回る七重塔であった事を(それも北山に再築まで)指摘した上で、彼に与えられた現在の御所の規模が、その残された儀礼の舞台装置として漸く適正な規模に収まった(南北朝分断時代には半町だった規模を一町分にまで広げてもらったと)と冷淡に語る、中世史の研究者たる著者。

そして、大内裏の場所を維持する間、例え住むべき主が内裏を放り出して居心地の良い里内裏に住まう間も決して止めなかった、「首都たる儀礼空間の舞台、朱雀大路」を維持しようとするスタンス。例え住む人々に占拠され、築地塀には穴を空けられ、牧場や農地に変えられようとも維持しようとした、古代王朝最後の意地たる、横幅だけで一般国道25車線分にも渡る巨大街路の本質こそが、劇場都市たる古代宮城にもう一つ添えられた、アジアの小中華としての形式だけを仮借した内に本質的に備え続けた、祭祀としての空間。

既にその祭祀を催した主が立ち去った現在。その街路を率先して破壊したのちの住民たちによって今も受け継がれている、京都を代表するお祭りである祇園祭や巡行ルートに、しっかりとその街並みと古代王朝が残していった祭祀の片鱗が伝えられている事を暗示していきます。その上で、劇場都市としての平安京、京都の生命力は今も保ちづけていると締められてしまうと、もはや皮肉にすら見えてきます。

首都としての役割、存在の変遷を考える際に非常に興味深い論考に溢れれる一冊は、同じような成立要件を現代に用いたキャンベラやブラジリアの姿を想起する際にも極めて示唆を与える一方、昨今両方面から盛んに論じられる京都、奈良への恒久的な皇族の滞在施設を熱望される論調(院庁ですかい…)に対しても、その成立過程や「首都」の存在理由に対する議論を語りかける一冊。

かなり刺激的な筆致なため(どうしても気になってしまうのですが、私と同年代や、より若い著者の年代に位置する日本史研究者が書かれる一般向け著書には、往々にして「刺激的な議論と、持論を述べる前に先行の研究者に対して異を唱える事が必定(本書は異なりますが、研究史論に拘る点も)」という、変な拘りのようなものが行間から感じられるのです)、読者を選ぶ要素が大きいかもしれませんが、枠組みに囚われない議論を楽しいと感じられる方には、京都をテーマとした通史としても楽しく読む事が出来る一冊。本シリーズらしい、歴史研究としての視点を踏まえた、好奇心を呼ぶ新しいテーマを切り開いていく着目点は、多くの研究者の皆様の活躍によって、まだまだ広がっていくようです。