今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)遥か九州から武士の勃興を眺める時、その世界は京・東国を飛び出し列島を駆ける

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)遥か九州から武士の勃興を眺める時、その世界は京・東国を飛び出し列島を駆ける

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館さんの「歴史文化ライブラリー」3月の新刊は、これまで多数の中世武士、特に東国の武士たちを扱った一連の研究と著作で知られる野口実先生の最新作からご紹介します。

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)です。

まず、あとがきに目を通すと、著者の中における本書の微妙な立ち位置が言及されています。一度は完成した原稿が暫く日の目を見なかった事、最終的に著者の奉職先であった京都女子大学を退任された後の上梓となった事、更にはその記述には著者の研究者、教員としての生活に於ける様々な想いが込められている事。

既に著者の作品を読まれた事がある方であれば、その感触は判ると思います。千葉に生まれ、房総平氏の研究でも知られる著者のスタンスが、同時期の研究者の著作と比べると極めてニュートラルな立場を採っていた点に気が付かれるはずです。既に過去のものになりつつありますが、草深い東国の開拓農民から勃興してきた野蛮で無学な武力が、軟弱な京の公家社会を刷新して、新たな大地たる東国、鎌倉に清冽たる新政体「幕府」を築き、中世の幕が上がるという、私が学生時代には依然として通用した視点に対して、明確にそれを正す方向での著作を上梓され続けた点です。但し、このような点を採り上げると、ではやはり京都に拠点を置かれているから、所謂体制論的な立場なのですかと問い返されそうなのですが、そのような体制論であったり王権論とは一線を画した立場で議論を進める点が、著者の論旨の大きな特徴ではないかと思います。

本書はそのような大きな歴史論(体制論)に固執することなく、出来るだけ史料から読み解ける、実際の登場人物たちの動きからその流れを読み解こうとしていきます。従って、表題と異なり本書を通貫する様なストーリーであったりテーマが明確に設定されている訳ではありません。特に人物を離れて京都七条町の職人集住に関する記述は、全体のテーマから見ると大分かい離が認められますが、著者の提示しようとするストーリーを彩るためにはどうしても必要な内容だったようです。

著者が描こうとするテーマ、それは石井進氏の前述のような体裁の色濃い「辺境としての東国から勃興する」とする歴史展開を乗り越え、下向井龍彦氏の著作(日本の歴史07 武士の成長と院政 講談社学術文庫)にもみられるように、中央から下向し、その貴種性と地方の反乱を鎮圧する為に乱発された勲功賞で得た権能を加える事で、在地との強い絆と利権を築きつつも、引き続き中央での関係を維持しつつ勢力を積み上げていく、武士の姿を描く事にあります。

そこには、草深い無学の輩等ではなく、権門の家使としての側面と、在地における所領管理、いざという時には国衙の兵力や私兵を従えて戦闘に挑むという、極めて実践的な能力が試される、中央での出世には見放されたとしても、実務能力が極めて高い人々が集っていた事が判ります(本書の冒頭で描かれる藤原保昌のような簒奪者や、為朝のような正に暴れん坊ももちろん居ますが)。そして、本書で著者が最も描きたかった点。これまでの「東国」中心の武士研究に対して、前述の視点を相対化させる行為。東国の武士研究でも中核に位置した著者自身が、本書の成立に至るまでの20年近くに渡って取り組みを続けた模索の結果としての、九州、特に島津荘の成立と拡大における武士の動きと貿易の痕跡を現地で研究を続ける研究者と交流を図る事で、東国と京都という二元的な視点、又は、大宰府-京/福原-平泉という公家文化に対抗する東国、鎌倉の武家という対峙系とは異なる、より普遍的な武士の成長に対する視点を導き出すことです。

著者はこの視点を実証する為に、敢えて自らの長い研究テーマでもあり、如何にも東国武士の代表である千葉常胤を採り上げ、源平合戦における源範頼を支えながら転戦した九州における戦歴とその転戦地に設定された地頭職の成立、更には京都に戻った後の治安活動や、鎌倉に居を構え全国に広がった所領を管理する都市型領主となった後の千葉氏の活動を通して、名字の地たる在地にしがみ付く東国武士というステレオタイプを明確に否定していきます。

そして、九州の南端に構えられた島津荘を中心とした、摂関家の金城湯地となった南九州。この島津荘を始め肥後、南九州を席巻した為朝の所業を荒唐無稽と一刀両断することはせず、それ以前から下向していた薩摩平氏(平安武士という言葉と併せて本書で初めて出てくる呼称でしょうか)達による、東国と同じような騒乱が生じていた事を紹介していきます。結果として、それらの鎮圧を担った勢力が、東国同様にその後の武士として勃興していく事は論を待たないかと思います。列島の南北で勃発した反乱とその鎮圧。大宰府を舞台にした刀伊の入寇。これらの鎮圧に伴いもたらされる勲功による栄爵を纏っての在地への定着、国衙官職を含む利権化の流れは東国だけに限定して起きたわけではない事を遥か南九州の事例を示す事で明確化していきます。

在地化と足並みを揃えるかのように肥大化する南九州の荘園群。その成立以前に遡って、王朝国家内での摂関家の勢力推移を重ねる事で、時代が下がるにつれて極めて重要な収益源、貿易拠点として成長していったことが示されていきます。当時の交易品として極めて重要であった火薬の原料となる硫黄が取れるこの地が、大宰府、神崎荘と並ぶ海外、特に南洋貿易の拠点であった事を発掘成果から明らかにし、南洋特有の檳榔、螺鈿がこの地から京、そして平泉に至ったと考えられると述べていきます。勿論、平泉からはその代わりに、知られているように馬、黄金、そして海獣や毛皮や猛禽類の羽など武具として、交易資金として必要な物資が送られる訳ですが、ここで著者は東国における近年増えてきた中世期の遺跡発掘事例や、前述の千葉常胤が滞納していた貢納を一度に納めた際に積み上げた膨大な量の金を以て、これらの平泉文化に付随する王朝国家的な文化が東国やその交易路をスルーしてピンポイントに平泉に花開いたという、王朝国家の一種理想郷を平泉に見出し、東国、武家の文化的な低さを殊更に指摘する視点に対して明確に否定を示し、その交易路においても、同程度の文化的な浸透があったはずだとの認識を示していきます。

その上で、京を情報や文物ネットワークの交差点と見做し、京を起点に全国に向けて下向し、代を重ねつつも、色々な事情を以て武士としてこの地を行き交う事となった人々のネットワークの動き、悪い言い方をすれば欲望の離散集合の頂点に源平合戦があったと見做していきます。

京都で奉職し、第一線を退いた直後で上梓することとなった本書は、東国武士の研究者としての一方の史観と、自らが在する地におけるもう一方の史論に対する双方の疑念を九州の地に視点を置く事で、ネットワークという新たなテーマ設定によって相対化、より普遍的な視点を見出すことを目指した一冊。冒頭で述べたように各章ごとに別々の登場人物が語られるため、小テーマを集めたやや散漫な印象を受ける部分もありますが、昨今の地理学を組み合わせた繋がる歴史著述に対して、これまで培ってきた豊富な研究成果より具体的な視点を与える著述は実に楽しく、史論で語られる著述では欠落することが著しい発掘成果による史料補完への言及と併せて、中世の入口となるこの時代の著述がこれから更に発展していく事に期待を持たせる一冊です。

第一線の教壇から下る事で、今後は研究、著述により一層の注力を図る事が出来るであろう著者の更なる一冊に期待しながら。

<おまけ>

本書に関連する書籍を、本ページよりご紹介します。

今月の読本「シリーズ古代の東国1,2」(若狭徹、川尻秋生 吉川弘文館)考古学と文献資料が交差する時、古代から続く尚武の地、坂東・東国の輪郭が浮かび上がる

今月の読本「シリーズ古代の東国1,2」(若狭徹、川尻秋生 吉川弘文館)考古学と文献資料が交差する時、古代から続く尚武の地、坂東・東国の輪郭が浮かび上がる

毎年、意欲的に新たなシリーズを送り出してくる吉川弘文館さん。

本年も、既に「天皇の美術史」が各方面で話題となっていますが、その陰に隠れてしまってちょっと存在感が薄くなってしまったシリーズとして「古代の東国」全3巻が刊行されています(刊行中です)。

これまでになかった通史としての東国の古代を扱う、東国の歴史ファンとしては待望久しいシリーズ。山奥の為に遅ればせながら何とか入手して読み続けていましたが、シリーズが2巻までで一休みとなったこのタイミングで少し纏めてみたいかなと考えています。

今月の読本は2巻セットでご紹介です。

古代の東国1 前方後円墳と東国社会」(若狭徹)と、「古代の東国2 坂東の成立」(川尻秋生)です。

このシリーズ、編者となる2巻の著者である川尻秋生先生のシリーズ巻頭辞を読むと、極めて特徴的な位置づけを狙っている事が判ります。まず、中央からみた地方という視点に拘ることなく、あくまでも「東国」の古代史を叙述する為に必要なアプローチをとる事を明確に示している点。そして、古代史故に絶対的に限界のある文献資料、特に文献を残せた側の視点を補う事を目指した、著者グループ全員が考古発掘にも精通し、博物館の展示に携わってきた経験を最大限に生かした叙述を目指す事を明確に表明している点です。

その結果、本シリーズはこれまでの教科書などで扱われる古代史の切り口とは大きく異なるアプローチ、視点を読者に与えてくれます。北関東を中心に展開する古墳の年代評価や出土物、特に豊富な地図による解説を加えた古墳の分布の年代推移を見ていく事で、その後の東山道経由による中央との結び付きを明確に認める一方、出土物の状況から、中央政権と見做せる倭王朝から遥か東方に離れた地でありながら、半島との直接的な結び付きや、直接半島に出兵し、倭の五王の時代には半島からの来訪者の集団が既に定住していた可能性すら見出していきます。東夷として制圧される、後進的な地域ではない、同時代で同じような規模の古墳群を有するのは東国以外では極僅かで、その規模も、副葬品も強く倭王朝の影響を受けながらも、独自の様式も保持していたと見做していきます。残念ながら、この時代では文献資料と出土物が交差する個所はほんの僅か。それでも、考古学が得意とする膨大な様式年代検討に基づき、僅かな接点を見つけながら、記紀の神話をも援用しながら、その先に考古学特有の雄弁な議論を展開していきます。その議論の先には、国内でも極めて稀な古代碑が残り、先進的な仏教寺院の造営や戒壇の設置に見られる、後の時代に現れる下野の先進性の起点が既に古墳時代にあった事を示唆していきます。

著者達が最初に認める東国の姿、それは武勇を以て倭王朝と提携する関係を構築した部族が旧河川筋に勃興、競合していく活気あふれる大地。現代より大幅に広かった低湿地と頻繁に変わる流路、浅間山等の火山噴火によって目まぐるしく変わる地勢の中で、拠点を移ろいながらも巨大な古墳群を残せるだけの実力を有していた事を膨大な発掘成果から見出していきます。その形式は確かに倭王朝から許された形式の模倣であったかもしれませんが、実際に構築する実力を有していなければ実現できないもの。精巧な埴輪や馬具、武具、そして南東北まで伸びる出土物の傾向から、既にこの時点で更にその北に居住する人々との交流、相互の進出があった事を見出していきます。

倭王朝に従属する形ではなく、緩やかな提携と受容の関係にあったと見做す1巻から、中央政権側の文献資料が見いだされはじめる2巻に入るとその枠組みは微妙に変化していきます。シリーズの編者である著者が冒頭でそのような視点に対して「二つの東国像を克服するために」と題したプロローグを用意して議論の帰着点を探っていますが、本シリーズを読まれる多くの皆様にとって、この論考は最も興味を引くのではないでしょうか。3巻の刊行を前に少し前倒しに結論めいた記述もありますが、歴史が好きな方、特に東日本に住まわれて、その地で歴史教育を受けてきた方なら誰しも疑問に持たれる点について、実に示唆的な提示が行われていきます。

蜜月時代と述べる奈良時代迄の東国と古代王朝との関係。その関係にはやはり前時代と同様に特別な関係があったと見做していきます。下野を中心とした先進的な仏教の受容や武蔵に至る大路の構築も、白村江の戦い以降の半島亡命氏族の影響や入植や古代王朝側から見た統一的な中央集権国家の施策と見做す一方で、西国との比較で、更にその先に広がる辺境へ対する入口としての古代王朝の威勢を見せつけるために整えられたとの見解を示していきます。その推移は防人と北方政策の重点がお互いに入れ替わるように行われていく点からも認められるようです。

北方と西海の双方に武力を以て仕える東国。坂東と呼ばれた地域の特異性を見出すために、著者はその研究フィールドである安房国の成立と記紀に述べられる神話を援用しつつ、古代王朝にとって貢納を受ける場所、つまり直轄地ではなく祭祀を併合した地としての特異性を含み続けていたと見做していきます。古代王朝にとって辺境の入口にして兵站基地という、植民地的な様相を示す奈良時代の坂東。古代王朝の影響も強く受け、国分寺や国分尼寺の改築と伽藍配置の方位性から、より中央からの統制が強まっていく事を見出す一方、在地支配、国造や地方豪族の影響が強く残る東国出身者が逆に中央政権に采女や官吏として進出していく様子を文献資料と発掘成果の突合せから認めていきます。中央集権で語られる事の多い中、依然として豪族同士が牽制しあうような状態であった東国に対して、古代王朝が牽制、掣肘をした影響を古墳群の展開から見出し、徐々に増え始める文献資料と木簡などの発掘資料が偶然の交差を認め、列島を東西に動く東国の人々の驚きのストーリーが浮かび上がる時、考古学の醍醐味を味わってほしいとの著者の筆致は鮮やかに躍動します。著者の東国、坂東への想いの筆致は更に、平城京に集まる物資の記録や正倉院に残る品々や貢納物の規定から、坂東から送られた貢納物が決して遅れた産物ではなく、それらの生産を可能とする技能集団の存在や祭祀の面での東国の特異的な立場を改めて拾っていきます。

膨大な発掘成果と、文献資料とのたゆまぬ突合せが生み出す、古代東国を豊かな描写で紡ぎ出す本シリーズは残す所あと1巻。文献資料が大幅に減少し、歴史の空白点ともいえる平安初期に突入していきます。果たして自立する東国が頭をもたげていくのか、それとも中央集権の先兵として北へ北へと押し進む姿が描かれるのか。更には2巻でそのアウトラインが示された東国の姿が、実際にどのような形で中世に引き継がれていくのか。最終巻を楽しみに待ちたいと思います。

<おまけ>

関連する書籍を本ページよりご紹介します。

今月の読本「頼朝と街道」(木村茂光 吉川弘文館)頼朝と一緒に中世東国史の起点を探す往来へ

今月の読本「頼朝と街道」(木村茂光 吉川弘文館)頼朝と一緒に中世東国史の起点を探す往来へ

最近の日本史に関する新刊のテーマを眺めていると、旅程や街道、文書を含めた往来の記録から時代背景を描き出そうという新しい切り口が見えてきます。

豊富な史料が残る近世、そして室町・戦国期に関しては、既に多くの書籍が登場していますが、時代を遡って中世から古代にかけても、徐々にそのようなテーマを掲げた本が増えてきたように思えます。

その中で、これはと思った一冊。以前にご紹介しております「動乱の東国史2 東国武士団と鎌倉幕府」に高い評価を与え、直接の影響を受けたと著者が述べられる一冊が上梓されました。

動乱の東国史2東国武士と鎌倉幕府と頼朝と街道今月の読本、吉川弘文館の歴史文化ライブラリー新刊から「頼朝と街道」をご紹介します。

ところで、本書にご興味のある方であれば、何故、平貞盛が将門に追われた際に千曲川を経てわざわざ山深い信濃を抜けて京に逃げ帰ったか疑問に思われたことはないでしょうか。そして、将門が新皇を名乗ったのが、関東でも外れに位置する下野の国府であった点を不思議に思われる事はないでしょうか。更には、木曽義仲がなぜその名前の如く、京に上る最短ルートである木曾から美濃に抜けるルートを取らずに日本海に出たのか、ちょっと変だと思われたかと思います。

そして、大蔵合戦から源平争乱期にかけて、更には鎌倉時代に入っても、全国の軍事力を掌握した筈の幕府内で、常に東国が南北に緊張関係を孕んでいたか疑問に感じる事があるかと思います。その行方が足利家と新田家を次の時代、南北朝期に飛躍させる源泉となった事にきっと着目されている筈です。

更には、東国に鎌倉府が成立し、京との二元政治体制になった後、鎌倉公方が権力を誇示しようと動く際に出陣する先が、何時も決まって府中であった点に東国史のファンの方なら必ず気が付かれているかと思います。

中世の始まりからのその終焉となる戦国期の入口まで。東国の政治状況の動向を俯瞰してくと、本書で述べられている点が全て当てはまっていく事になります。それは街道という名の人の往来を示すもの。

古代王朝が成立させたとされる、道幅も広く規格化された大道ではなく、現在の関東地方の交通ルートにも深く刻まれた、中世以降の往来の道筋を観ていくと、東国の歴史動向そのものが見えてきます。

本書ではまず、東山道から奥州へ抜けるメインルートであった、上野、下野を抜けていく街道筋に拠った将門とその一門の、奥州の権益の象徴であった累代の鎮守府将軍の地位が残した利益の継承を巡って争い始めた事が、中世を通じて続く東国の争いの原点であったと見做していきます。

古代王朝から続く東山道をベースにした街道を軸に勢力を張った藤原氏やその後に拠った源氏一門と、それ以前の段階で徐々に南下を始めた秩父党を始めとした平家の血筋たちは武蔵へ広く進出することになります。更には奥州での戦役を通じて後の嫡流となる源氏は南関東に地盤を持つようになりますが、この時点ではあくまでも主たるルートは東山道にあったとしています。

一度は失った南関東の地盤。頼朝の再起により房総半島を経て再び拠点となる鎌倉を目指す訳ですが、ここで既に平家に服従するようになっていた秩父党と武蔵の武士たちとの緊張関係が生じていた事が指摘されます。武蔵は既に抑えられていたため、頼朝としても街道から外れた地である、鎌倉に拠点を置かざるを得なかった事が見いだされていきます(但し、この見解には初期鎌倉の街路が東西方向に伸びている点を同じように指摘しながら、逆にその道を抜けて房総へ通じる海路こそが主たる交通路だったとする意見がある事も指摘しておかなければなりません)。

後世、武家の象徴として崇められる事になるイメージと全く異なる、軍事的な輝かしい戦果をほとんど持たない、引きこもり頼朝。鎌倉にどかっと腰を落ち着かせていたように見える頼朝は、実は度々軍を発し、巻狩りを繰り返しながら、自らも忙しく広範に広がる坂東の平野を行き来し、箱根を越えて威勢を示し、そして平泉攻めで見せた象徴的な示威行動を繰り返すことで、軍事的な勝利ではなく、連れ従う軍事力の大きさによる威圧によって圧伏していった事を示していきます(某研究者の方が、やくざの首魁に擬する様子、そのままですね)。著者はその度に、彼が通った道筋「街道」が軍事道路として整備されていったと指摘します。

自らの権力基盤を確立し、後顧の憂いを払った上で、いよいよ上洛を果たす段になって、頼朝はそれまでの古代王朝から引き継がれた東山道を経由したルートではなく、敢えて自らの新たな拠点である鎌倉に繋がる、東海道を経て西上することになります。歴代の源氏の拠点であった美濃、青墓の関ヶ原を前にして、東山道と東海道が交わる点であるという絶対的な地理的優位性と、その終着点として北に延びる道筋の先にある膨大な資源を擁する奥州、平泉。南に延びる新たな道筋の終点に整えられつつある武家の新たな本拠たる鎌倉。京をもう一方の支点として、東国へ向けて長く伸びる街道という名の軍事、経済ルートを完全に掌握した頼朝の自信が伺えます。これに本書では語られませんが、鎌倉期の最後まで関東御分国として維持される越後を加える事で、京を扇の要にして東国の街道を軸とした三方向の末端を確実に抑えていた事がはっきりします。

更に著者は、その後の東国史を決定付ける要素を政権を掌握した後の頼朝の動きから見出していきます。徹底的な警戒を崩さない、源平争乱期以前から東山道に拠った御家人たちへの態度。彼らはその後、室町時代の東国における、分裂した勢力の双方に対して自在に加担するもう一方のキープレーヤーとして力を誇示していきます。一方、その先の西に繋がるルートには源氏の一門を配することで、古来からの往来ルートの確保を目指しますが、その結果が室町期から戦国期における甲信地域の武士たちの在地性がやや低い、京の幕府と鎌倉との間で揺れ動く複雑な動向を生み出すことになります。

そして、旧来の街道を貫くように北へ伸びる「鎌倉街道」の先に広がる、本拠である鎌倉に隣り合う武蔵。秩父党の流れを汲み、広く分立する御家人たちを如何に懐柔して自らの味方として抱き込もうとする、遅れてやって来た、狭い鎌倉以外に地盤となる地を持たない頼朝とその後継者たちの不断の努力は、遥かに時を経た鎌倉府に参集した武士たちの代弁者、首班を期待された鎌倉公方、関東管領たちの動きすらも規定することになります。

最終的に最後の鎌倉公方である足利成氏が、伝統的な北関東への入口であり歴代の鎌倉公方が出陣した府中を経て、古河に動座することによって鎌倉府が消滅するまでの実に長い間、東国の動向を規定した鎌倉という存在と、それ以前から広大な坂東を縦横に結びつけてきた道筋を追いかけると、中世を横断した東国史の根底を鮮やかに描けることを実証した本書。

そのベースが、昨今大きな進展を見せている地域史、郷土史の研究成果の蓄積からもたらされた点に強い印象を受けながら、歴史を描き込む方法にまた新たな視点が生まれつつある事を嬉しく思いながら読んだ次第です。

まだまだ、東国の歴史はもっと、もっと面白くなる。

「頼朝と街道」と類書たち<おまけ>

本書に近いテーマを掲げた書籍のご紹介も

今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)「高等遊民」を生み出した社会制度としての大学と学制への視点

今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)「高等遊民」を生み出した社会制度としての大学と学制への視点

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館さんの「歴史文化ライブラリー」。

気に入った内容の新刊が出るときには、発売早々に調達に奔走するのですが(田舎なので色々と)、積読中の書籍を読み終えてから漸く手に入れた今回。事前の刊行案内から興味津々だったので、取り急ぎ読み始めてみると、昨今のあらゆる状況が見事に反映されてるその内容に引き込まれて一気に読んでしまった次第。今回は、そんな近代史から現在を見通す様な視点に溢れる興味深い一冊のご紹介です。

近代日本の就職難物語今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)です。

本書は著者の博士論文に繋がる著作である、同社から以前に刊行された「近代日本と「高等遊民」」(版元絶版)を下敷きに、主に高等教育を受けた学生たちの就職問題をピックアップして取り上げた一冊。内容自体は戦前の大学教育修了者と就職活動という近代史に基づく著述を採っていますが、その筆致には著者の現職(大学教養課程の助教)における大学生の就職活動に対する所感が色濃く反映されています。

副題にもある「高等遊民」というある種の魅惑を含むような言葉の意味通りの、高学歴を誇りながら定職にも就かず、社会から一線を引いて茫洋として生きていく世捨て人達を扱ったような本にも見えますが、そんなものは一握り、しかも資力を許す余程初期の学生に限られるとしていきます(夏目漱石の著作に多く現れてきますね)。自らの意志で「高等遊民」を目指した極僅かな特異者ではなく、そうならざるを得なかった事情を読み解いていくのが本書の狙い。普通に考えれば、経済状況の変遷に基づく就職難発生と緩和の趨勢が繰り広げられると思われますが、著者は更にもう一段上の視点を見出していきます。

近代日本に於いて制定された高等教育の「学制」そのものの発祥とその変遷。

さまざまな大学が創設の理念であったり、学生に求める資質であったりという建学側の理想があるのは尤もですが、著者が着目する点は社会的要請とそれに基づく「社会制度」としての学制と、その制度を経て社会に出ていく学生たちのマッチングにおいて生じる問題。

そもそも帝国大学を創設した最大の眼目は、高等官吏の養成であった事は良く知られている事です。官吏養成機関、更には官吏養成者を養成し、下級の教育機関が必要とする人材を送り出すための機関としての帝国大学の卒業生に求められる進路は、もちろん官職や教職へ就く事だった筈です。校数や定員、更には下級学校との配置を含めて需要と供給のマッチングが取られた、政府へ人材を送り出すためのシステムとしての学制。しかしながら私学を含む専門学校が大学へと制度変更され、社会に近代的な企業が勃興してくると、本来の制度設計と異なる状況が生まれてくることになります。

家族や地域、その他多くの期待を受けて、全国から集まってくる俊英たちの受け皿としての高等教育機関、大学。近代社会の発展と日本の工業化の進展により、それらの専門分野を有する学生は官吏だけでなく企業側の需要も伸びて来る事で、送り出す側の大学学部と企業、政府機関それぞれが足並みを揃えて、好景気の時には抜け駆けしてでも優秀な人材の確保を求めていきます。一方で官吏、教員の充足を当初の設置目的とした学科では、供給が需要を常に上回る傾向が続く一方、既存の権益の延長による学科、定員増設の機会において、素よりあったそれらの学科の定員も同様に増やされる事により、更なる供給過多の状態が生み出された事を、当時の政治状況を俯瞰しながら指摘してきます。

つい最近でも大きな問題となった法科偏重による著しい弊害の発生、そして文系学科の就職困難の事情。これらが既に大学制度創設当時から内包していた事に驚かされると共に、昨今議論となっている大学の「専門学校化」と戦前の就職事情への対処を重ねると、既に戦前から議論が続いていて、当時において原因までも明確に把握されていた事を指摘する著者の筆致に戦慄すら覚えます。

当初から社会への入口としての制度設計の意味合いを持たされていた日本の学制。好況期にはそれでも需要が供給を上回る為に問題点が浮上しづらいのですが、一度不況期に入ると経済活動を生命線とする企業は敏感に人員計画を見直す必要が生じるため、まずはその入り口である高等教育を受けた人々の受け入れを絞り込む事になります。不安定な就職状況に陥った際に効力を発揮するもの、それこそが閨閥であり人脈、所謂伝手と縁故の力が背後に浮き上がって来る事になります。近代的な高等教育と制度設計を設けたとしても、やはり最後は人と人の関係が最も重要。状況が厳しくなれば尚更です。

では、そのような伝手を辿れない学生たちを支援するのが大学の就職課や就職あっせんを行う機関。強力な就職指導や産業界とのコネクションのチャンネルを積極的に開拓していく大学の就職担当部署の成立と、時にはコネで押し込めたり、就職に関して殊の外強い教授が学生に人気が出るのは今も昔も何ら変わらないようです。では、それらの救いの手も功を奏しない場合はどうなるのでしょうか。

本書は現在の事情にはほとんど言及しませんが、読まれた方が予想される通りのシナリオを勧められることになります。起業、地方就職、そして挫折を現すことになる帰郷…。周囲の期待を浴びつつ、不断の努力を払い、漸くの想いで手に入れた階段の先に観た絶望的な現実。ここまでの著述であれば、ああそうやって現実に絶望した学生たちの成れの果てとして「高等遊民」が生まれたのですねと、早合点してしまいそうですが、さに非ず。

確かに望まぬ職に就く事を潔しとせず、「避難所」として大学院に籍を置き、状況の改善をじっと待ちながら研鑽を続け本望を遂げる人。時には怠惰に流されつつも、文筆等の分野に活路を見出す方もいたようですが、現在と違いそのような恵まれた境遇を踏めた方はほんの僅か。著者の着目点は更にもう一段別の側面へと進んでいきます。そもそも将来的に政府の一員として国家運営に資する人物を養成するのが日本の高等教育の起源。その能力と資質を持ちながら、社会に組み込まれる余地を失った人々が向かう先は何処でしょうか。そう、彼らが社会を不安定化させる事を危惧する指摘が早くも日露戦争後の不況期には現れていた事を見出していきます。

繰り返し述べるように、著者は本文中で何ら現在の事情を指摘するところはありませんが、この着眼点が過去の話でななく、今、目の前に現実として現れているという点は、もはや改めて指摘するまでもない筈です(日本のみならず)。

その上で、大学自体も社会を構成する一員として決して遊離したものではなく、その入り口として(ここでは新卒偏重主義の議論はしませんが)の役割と、それを制度として担保する「学制」というロジック。その枠組を経る事でしか社会に出る事を許されない、現代の日本の学生たちに対して、大学というシステムが何を成せるのか、近代史の史実を読み解きながら研究者として思いを巡らす著者の想い。

丁寧な筆致のうちに、経済状態回復のみを当てにしてその手当をおろそかにし続ければ、社会不安の種を播く結果となってしまうという想いすら織り込んで、実際に学生を社会に送り出す立場として、歴史学から指摘する本書。

時に研究成果やテーマとかい離して、社会的な問題点を指弾し、それを顕現させるかのように研究史観を掘り下げ続ける著述に残念な想いをする事がある中で、決してそのような指摘を無理にせずとも、自らの所属する社会性に立脚しながらも、歴史的な事象から現代に通じる課題を読み解く事が出来る事を見せてくれた本書の筆致に深く感心した次第です。

良くも悪くも、近代化の特質とその中で連綿と続いてきたと著者が述べる、大学と社会の関係。その関係が社会への入口として今も機能している以上、採用する側の工夫や大学自体の努力と共に、志望する学生が入学する前の段階から、その先をしっかり見据えられる「学制」が求められているのかもしれません。

「高等遊民」は決して求め、求められて、生じるものではない筈なのですから。

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を。

今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)信州の畔に根付くその赤い籾への疑問を追って

今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)信州の畔に根付くその赤い籾への疑問を追って

眼前一杯に水田が広がる、豊葦原の瑞穂の国。日本を象徴するように使われる言葉ですが、その情景が僅か200年ほどの歴史しか有さない事に思いを巡らせる方はいらっしゃるでしょうか。

水田越しに甲斐駒をブランド米と呼ばれるモチモチの白米、特定の名称でお米の品種が広く呼ばれるようになる前にお店の真ん中に並んでいた、「標準価格米」が片隅に追いやられてから僅か数十年しかたっていない事を思い出される方はもう少ないかもしれません。

そして、黄金色の籾に真っ白な粒といったお米とちょっと様相の異なる、長い禾に少し赤みを帯びた籾と小粒のお米をご存知の方はもはや希少なのかもしれません。

ブランド米の品質を全国で争う現在、丁寧に丁寧に育て上げられる稲たちが穂を伸ばすその田圃の畔で、誰にも気が付かれずに、いいえ今やその品質を脅かす駆除すべき雑草として信州の畔から駆逐されつつある、同じ稲なのに余りにも扱いの異なる「赤い米」への疑問を解く旅へ誘ってくれる一冊の紹介です。

赤米のたどった道今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)です。

著者は長野県内の複数の大学で教鞭を執られる、主に中世史を専攻される研究者。大学を卒業後、数十年を経て取得された学位請求に関連すると思われる主著で論じられる二つのテーマを、「大唐米」というキーワードで結びつけ編んだ一冊となっています。大唐米自体を論じる前半と、溢籾と呼ばれるようになったそのお米が引き起こした騒動の経緯を語る後半に、南北朝期の播磨国矢野荘における年貢収納の史料研究を挟み込んでいるため、読んでいると前後の繋がりがちょっと希薄になる事があります。著者があえてこのような構成と論考を用いて明確化したい点は、なぜ赤米(大唐米)だけが別扱いされてきたのか、そして次の時代にはしっかりと農村に根を下ろしたそのお米たちの元となった籾を誰が普及させる事になったのかを想定することにあります。

赤米の歴史を辿るように思える本書ですが、冒頭で語られるように著者の疑問の大前提は、ここで採り上げられる大唐米、そして現在に残る赤米が、中国宋代に発祥を持つインディカ系に属する占城米ではなく、ジャポニカ系の一種ではないかという点にあります。しかしながら、著者による大唐米の遺伝的な考察や、地域的な広がり、形状から見た判断等の農学的なアプローチは冒頭で早々に放棄されてしまいます。一方で、著者は一貫してこれらの赤米が白米と異なる扱いを受けてきたという、史料上の事実を梃に、専門の歴史学的視点で白米とは違う、赤い米たちの歴史をとらえていきます。

水田で耕作される「白米」に対する疑問を、班田収授の絶対的な水田不足から問い始め、その穴埋めたる「陸稲」そして、「赤」の札書きが残る米の種類の記載へと興味を広げていきます。集水、貯水、湛水、排水技術が未熟な近世以前において、現在のような安定した水量を確保できる水田は、安定した流量と穏やかな流れを有する河川に対して僅かに低い土地に限られ、微高地や扇状地には水は届きにくく、湛水地は深田や沼地、果てには洪水の常襲地帯となるはず。そのような限られた水田で作られた「白米」は、既に近世史でも語られるように、食糧として日常の食生活を維持できるほどの大きな収量を期待できなかったことを見出していきます。

厳しい耕作条件の「白米」に対して、熱帯に比べて気温も低く、決して水田農耕に適しているとはいない日本の農耕環境でもしっかりと実りをもたらす(但し、脱粒性は強い)お米。食味は悪くても、早生でいち早く収穫できるため、秋口に襲ってくる風雨にやられる前に実収をもたらす貴重な赤いお米。農民たちにとって主たる収穫物である「白いお米」は口に出来なくても、田圃の畔を取り囲むように植えるという隙間農耕でも実りをもたらしてくれるありがたいそのお米は、一方でその籾を持ち込んだ荘園領主たちの切実な収量確保という一面も持っていたようです。

鎌倉から南北朝、そして室町期と在地おける実権と実収(実際の所領も)を徐々に衰退させていった荘園領主たちにとって、その減収を少しでも補う方策として、例え売価が低くても、勧農が行き届かず放置気味の荒田の状態になってでも収量が望める赤米(ここで大唐米という言葉が史料として出て来ます)を積極的に導入したのではないかとの暗示を述べていきます。

更に時代が進んで江戸時代。大阪に蔵屋敷が立ち並び、各国の米が市場で比較される段階に至ると、今度は収量は優れても食味に劣る赤米たちは駆逐の対象となっていきます。江戸患いと呼ばれた脚気が顕著に表れてくる程に白米が都市部に集中し始め、漸く庶民の日常にも「白いお米」が上るようになった時代。それでも、著者のフィールドである信州、松本藩の事例では、その不利な条件(籾が落ちてしまい禾が長いので、籾で収納した場合目減りが激しい)にも拘わらず農民たちが赤米での収納を続け、藩庁側も容認せざるを得なかったことを見出していきます。そこには、高地冷涼で扇状地故に水に恵まれなかった信州、そして松本平の厳しい条件があったことを認めていきます(信州の他藩でも、収納した赤米たちは廻米せずに地元での消費に充てていたという貴重な知見も)。水の町とも呼ばれる安曇野に張り巡らされた用水網が整備されたのは、漸く近代の足音が聞こえ始めた江戸末期。水の便は解消しても気候の厳しさゆえ、確実な収穫と生活を守るためでしょうか、その後も昭和の初期に至るまで、これら溢籾と呼ばれた品種が信州では作りつづけられたことを明らかにしていきます。

領主には嫌われつつもしっかりとその土地と農民たちに育まれた赤い米たち。その歴史は亀ノ尾に始まる寒冷に強い白米の登場と、今に続く、その系譜を継ぐ品種たちの粘り強い改良の中で、今や逆に圃場を埋める優良品種の単一性を阻害する雑種として駆逐される運命にあるようです。

著者が傍証として語る、神前としての白米の神聖視、日本人の優越性と白米至上主義といった論点はここでは置いておきたいと思いますが、美しく整備された水田に広がる見渡す限りの稲穂たちと、美味しい白米という、もはや共有感ともいえる幻想に対して、もう少し歴史的に見直す必要がある事を問う一冊。

黄金色の景色1その広がる圃場と稲穂が、どのように今日まで受け継がれてきたのか、本書を読みながら、今一度想いを馳せてみては如何でしょうか。

赤米のたどった道と類書たち本書と一緒に読んでいた本たち。

本書と特に関連が深い本として、農学としての稲にご興味のある方には「イネの歴史」(佐藤洋一郎 京都大学学術出版会)、江戸時代の農耕については、同じ史料から豊富に引用された「江戸日本の転換点」(武井弘一 NHKブックス)、同じ東寺の荘園である、備中国新見荘における室町中期の在地支配を史料から丁寧に掘り起こした「戦乱の中の情報伝達」(酒井紀美 吉川弘文館)、そして、本書の巻末でも繰り返し言及される「稲の大東亜共栄圏」(藤原辰史 吉川弘文館)は近代日本に於ける稲の品種改良と東アジア圏への展開に関して要領良く纏められた一冊、特にお勧めです。

 

今月の読本「犬と鷹の江戸時代」(根崎光男 吉川弘文館)江戸の地方支配から見る、御犬様と御鷹様の深い関わりを

今月の読本「犬と鷹の江戸時代」(根崎光男 吉川弘文館)江戸の地方支配から見る、御犬様と御鷹様の深い関わりを

15代を数える、江戸時代の将軍たち。創業の家康に始まり、終焉の慶喜に至るまでに、それぞれに特色のある人物像が語られますが、その中で愛称を込めて呼ばれた将軍は決して多くないと思います。

毀誉取り混ぜて名付けられる愛称、その中でも犬公方と鷹将軍(もしくは米公方)と呼ばれた、綱吉と吉宗は歴代の徳川将軍の中でも特に特色のある治世であった事で知られています。どちらも動物の愛称で呼ばれた二人の将軍、一見対照的に思われる二人の治世ですが、実は意外な共通点がある事をご存知でしょうか。

犬と鷹の江戸時代今回ご紹介するのは、二人の将軍に名づけられたその愛称に纏わる物語を描く一冊、吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊より「犬と鷹の江戸時代」(根崎光男:著)です。

著者はスペシャル版であった頃のブラタモリにも登場したことがある、江戸時代の鷹狩研究の第一人者(浜離宮のロケで、鷹狩のデモンストレーションに登場されていましたよね)。本書の一方のテーマである鷹将軍、吉宗を語るには相応しい方ですが、果たして犬公方を語るにはどうでしょうか。そんな想いで本書を読み始めると、著者にとって、どうしても犬公方たる綱吉の治世を解き明かさない事には、鷹狩の研究が進められない事情が浮かんできます。

表題だけを観ると、綱吉と吉宗の治世に伴う思想論の違いであったり、所謂文治政治と武断政治の相違を犬と鷹、公方と将軍という尊称の違いに仮託して話を進めていくように見えますが、内容は大きく異なります。綱吉が既に館林時代から鷹狩を行っていなかった事や、吉宗が旗本たちの綱紀引き締めのために鷹狩を用いた点については言及されていますが、本書ではその理由の核心や政治的な位置づけを探り出そうというテーマは掲げていないようです。

本書が着目する点、それは鷹狩を行うためには必須となる鷹狩の場所と、鷹たちを養う鷹役人たち。江戸時代の鷹役人たちの歩みを観ていくと、生類憐み政策に伴う大きな分断点が綱吉の時代に生じる訳ですが、彼らの家系はその後も続いて、吉宗の時代には規模は大幅に縮小されつつも、再び彼らは鷹役人として登場してくる。では、その間に彼らは何をしていたのかを追いかけた結果、意外な事実に突き当たる事になります。

江戸時代の旗本職制をある程度ご存知の方であれば、無役となった旗本達は寄合(大身ないしは布衣以上の役職を経た場合)ないしは、小普請に移る事はご承知の事かと思います。しかしながら、鷹匠や鳥見と呼ばれた鷹役人たちは、綱吉の将軍就任以降、殆ど一括して寄合番という、聞きなれない役職に振り分けられていきます。彼らの仕事、それこそが犬公方たる綱吉が推し進めた江戸市中に徘徊していた野犬たちの収容所、犬小屋の運営を監督する仕事。更には、元々の鷹狩場として、民衆の狩りが禁止されていた江戸郊外に広がる広範な地域における、生類憐れみという、意味を差し替えた上での狩猟禁止を維持するための仕事が待っている事になります。

犬公方たる綱吉の最大の政策である中野の犬小屋を始めとした犬の保護、隔離政策と、江戸近郊での鳥獣保護政策。その正反対に位置する吉宗の鷹狩再開と、鷹場の復活。どちらもその実務を担ったのは鷹役人たちであったという、冗談のようなお話の実際が語られていきます。

そして彼らの活躍した場所、鷹場における統治政策。吉宗の時代になると、鷹狩の獲物を確保する事を目的として、江戸から十里四方(約40km、西は相模川畔の高座、愛甲から北は高麗、入間、東は印旛から筑波に至るまで、更には海上も)にも及ぶ広大な狩猟禁止区域が設定される一方、深刻になる獣害に対応する為に、それ以外の場所における鉄砲の使用と所持の手続きは徐々に簡素化されていったことが明らかとなっていきます。筋という区域を分けて管轄ごとに狩猟場として地域を管理する鷹役人たちと、その他の地域を含めて広範な江戸近郊の農政を委ねられて、鷹狩の毎にその準備と馳走を受け持つ、歴代の伊那代官たち。獣害が発生しても銃を用いる事すらできない厳しい規制と、身元不明の浪人の排除や定期的な鳥見と網差による見回り(ここで、農民の前では御鷹様と呼びならわしてはいけないという、将軍の権威を振りかざして傍若無人の振る舞いがあった鳥見への掣肘の通達も述べられていきます)、鷹達の餌の確保を兼ねた水鳥問屋、岡鳥問屋の統制といった、将軍のおひざ元でもある江戸近郊特有の支配機構の一端を鷹役人の活動から垣間見る事が出来ます。

そして、本書ではこれら政策に直接恩恵を受ける、否、翻弄されたであろう江戸市中の民衆の負担についても検証していきます。隔離した犬たちの膨大な餌代(実に年間98,000両余り)、計画面積何と30万坪という広大な犬小屋を維持するための膨大な費用。更には、隔離しきれない犬たちを江戸近郊の農家に預けて養育した費用の全てが江戸市中の負担となっていました。

綱吉政権の末期、これらの政策は行き詰まりを見せており、中野の犬小屋は全面的な完成を見ぬまま、綱吉の死去によって終焉を迎える事は良く知られている事です。ここで、著者はどの時点で犬小屋の政策が縮小に至ったのかの検証を進めていきますが、これまで言われてきた家宣が将軍に就任した時点ではなく、それ以前から江戸市中の金銭面負担における不満を緩和する為に、大幅に囲い込み政策の規模縮小が図られていた事を見出していきます。此処でも最近顕著になってきた新井白石バッシング(もとい、正徳の治の再検証)が述べられていきますが、やはり無理のある政策であった事は、後世の我々にしても同じ見解に至るところです。更に廃止の余波は、なんと近郊の農家に委託して養育していた犬たちの養育費の返還というとんでもないしっぺ返しを生み出し、その返済が遥か享保の御世にまで至った事を資料から明らかにしていきます。

大きな負担を残した綱吉による生類憐み政策と鷹狩の全面停止から百八十度転換しての、吉宗の鷹狩再開。前述のようにその本意については本書では述べられませんが、治世上の効用については、吉宗時代に限らず、専門家らしく豊富な事例を述べていきます。天皇から大権を委ねられた武門の統治者としての儀礼の一環である鶴の献上と、大名、旗本たちへの振る舞い。儀礼を維持するために払われる鷹役人たちの涙ぐましい努力(鶴、半自然環境で飼い馴らしていたのですね)。鷹場を維持する為に鳥の巣(特に烏)を落として歩く農民たちと、江戸近郊故に鉄砲を持てない農民に代わって、わざわざ農村まで出張って鳥を撃つ鉄砲役人たち。その一方で、新田開発に伴う獣害に悩まされる農民たちの苦悩。生類憐みでも、鷹狩でも、結局のところ最後に大きな負担を強いられるのは、江戸市中の人々であり、近郊に在住する農民たちであった事が明確に述べられていきます。

翻弄される人々の苦悩に対して、ほんの少しの落穂ひろいとして語られる、享保期の犬事情と、享保の時代まで残った犬小屋、更には広大な敷地を誇った中野の犬小屋のその後。やや付け足しの感もありますが、ブラタモリにも通底する中野の今昔物語は、今や中央線随一の街並みを誇る場所となったそのきっかけが、実は広大な犬小屋の跡地にある。その変遷の上に現在の中野の街並みを重ね合わせて考えると、なかなかに興味がそそられるところです。

鷹役人と江戸近郊の地方支配から眺める、江戸時代の動物政策を語る本書は、通史に囚われず、ちょっと切り口を変えて歴史を眺める事で新たな発見を見出すことをテーマとしている本シリーズに相応しい一冊。たかが動物政策と切り捨てる事は出来ない、現代に通じる、当時の江戸近郊の景観を作り出していった根底には、個性的な将軍たちの治世と、翻弄された役人、そして人々がいた事を改めて見つめ直して。

犬と鷹の江戸時代と類書たち本書と併せてお読みいただきたい本。同じ歴史文化ライブラリーから「宮中のシェフ、鶴をさばく」(西村慎太郎)と、「馬と人の江戸時代」(兼平賢治)を。どちらも江戸時代における動物政策、前書は儀礼としての鶴包丁を中心にした公家の家職に纏わる伝承と、大切な収入源としての物語、更には彼らと関わる地下官人たちの姿を、軽快な筆致で実に闊達に描く。もう一冊は、江戸時代の一大馬産地である南部を故郷に持つ著者が、その想いを込めて南部の馬に限らず、江戸時代の馬産業、馬産政策から、飼育環境、農耕、馬具、桜肉…、に至るまでを網羅的に語る一冊。実は馬の物語にも、綱吉、そして吉宗の治世が深くかかわって来る事が冒頭で述べられていきます。本書で描かれる犬と鷹の政策と比較して読んでみるのも良いかと思います。本ページでは、こちらでご紹介しております

いずれも、本シリーズの特色が現れた、読んで楽しく、豊かな知見が広がる本だと思います。

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

現在においても日本語以外でのコミュニケーションを取る事は大変な事。

それでも、中学高校と大抵の皆様は6年間の英語の学習を経られる訳ですし、外来語が溢れている今日であれば、アルファベットが読めないなんてことはないと思います。

それでは、時代を200年ほど遡って江戸時代に戻ったら…どうでしょうか。

そんな著者自らの疑問に対しての回答と、そのベースとなる研究成果について、当該分野研究の第一人者が語る一冊が上梓されました。

江戸時代の通訳官今月の読本、「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)です。

本書は全体を4章に分けて語っていきますが、そのうち中間の2,3章については、既に著者の手による別の書籍で語られた内容と多くが重複しているようです。そのためでしょうか、当該章においては、まるで端折るような筆遣いで話を進めていく点は、本書を機会に阿蘭陀通詞の事を知りたいと思って手に取られた方にはやや残念な感もあります。それでも、描かれる内容は通詞の家柄であったり、職務、家職の継承といった通詞としての営みといった余り知られていない事柄であったり、カピタンとの僅かな会話でも手紙を用いて(殆ど筆談)やり取りをしているのですが、その内容が複雑な貿易処理や政治的な会話かと思いきや、ほんのささやかな事でも手紙がやり取りさせていた(しかもその書きつけが残っていた)点には驚かされるかと思います。

興味深い通詞という役職や長崎特有の貿易に関わる事情、実務の実態。江戸における通詞たちの職務や、本書以外では殆ど語られないであろう、カピタンの代参で江戸に上った際の段取り全容。さらには微笑ましく、時に緊迫感もある阿蘭陀人とのやり取りを読んでいるだけでもかなり楽しめるのですが、本書に於ける著者の狙いがそこではない事は明白です。著者が本書で述べたいと思っている事、それは冒頭の1章と末節の4章に集約されています。

その成果と業績に割には余りにも扱われる事が少ない、江戸時代の阿蘭陀通詞に対する再評価を促す事。そして、彼らがどのようにして触れる事すら難しかったオランダ語を習得していったかを探り出していく事。

多くの教科書や歴史書では、解体新書とそれを著した杉田玄白をはじめ蘭方医たちが江戸時代の蘭学の開花を促した、さもなければ青木昆陽が江戸の蘭学の揺籃を担ったと描かれていますが、その背後には当時の阿蘭陀通詞たちが陰となって活躍をしていた事が本書を読んでいくと明確になっていきます。更に遡って、新井白石がシドッチの尋問を行った際にも、白石自身は会話を続けていくうちに、通詞には頼らず、ある程度かの地の言葉を解したと自著で述べているようですが(自信家の白石らしい点でもあります)、実際には大通詞の解釈に多くの部分で拠っていた、その結果を著述していたに過ぎないと著者は看破していきます。

そして、幕末になってペリーが浦賀に初めて来訪した際に、阿蘭陀通詞であった堀辰之助が艦隊に向かって「I can speak Dutch!」と呼びかけた事でも知られるように、阿蘭陀通詞と言いながらも、既にオランダ人から英語の基礎的な会話すら会得しており、蝦夷地や関東周辺に出没していた外国船の応接の度に、長崎、そして江戸から度々にオランダ語のみならず、英語やロシア語の通訳として、更には重要な外交官として派遣されていた事が判ります。英語学習の先駆者的に謂われる福沢諭吉にしても、その初歩段階は阿蘭陀通詞の元に通って教え請うのが実情であった事からも判るように、英語学習についても、その先駆は阿蘭陀通詞たちであった事がはっきりと判ってきます。

江戸中期から幕末にかけて江戸、そして大阪で花開く蘭学。著者はそのような歴史著述に対して異を唱え、江戸時代の初期、まだポルトガルとの交易が続いていた頃から、平戸、そして長崎で活躍した通詞たちが営々と培ってきた家職制に基づいた蘭学の学習体系がその基礎にある事を指摘していきます。更には、本書を読んでいくと、入門から学問体系としてのオランダ語学を体系化していったのも彼ら阿蘭陀通詞だったことが判ります。

本書の冒頭から全体の約40%のページ(本文348頁に対して140頁)を注ぎ込ん展開していく、阿蘭陀通詞が如何にしてオランダ語を習得していったのか、その文献資料、実際に利用したと思われる書籍を追跡する一連の探究が本書の白眉。熱っぽく語る、導入で用いられた入門書と思われる「A-B BOEK」原著に辿り着くまでのいきさつと、そこで用いられたであろうオランダ語学習のシラバス。通詞たちが自らの学習、習得のために私的に纏めていった著作、言語学的知見と、その後に現れてくる蘭学者たちの著作との記述内容の高い一致性。

まるで、蘭学者たちの言語学的な研究成果の殆どが、阿蘭陀通詞たちの成果を援用するに過ぎないと言い出しかねない勢いで検証の筆致を進め、最後にはこれ以上、読者に忍耐を求めるのは忍びないと述べて、省略という名で一方的に議論を打ち切る。

他の箇所にも散見される、読者を置き去りにするかのような筆致には、一般向け類書の少ないこの分野第一人者の著作として、正直残念な点でもあるのですが、それだけ著者の阿蘭陀通詞への想いが現れているとも考えられるかもしれません。

4章で語られる、著名な歴代通詞の業績を纏めた「二十三名の通詞たち」。その筆致には、著者の通詞たちへの深い畏敬の念と、当時の為政者へのわだかまりすら感じさせるやるせない想い、その業績を何とかして称揚したいと願う、強い想いが滲み出ているかのようです。

海外との限られた窓口であった長崎、そして江戸の長崎屋を舞台に繰り広げられた貿易と外交という舞台の最前線で活躍を続けた阿蘭陀通詞たちの歩みと、その背景を俯瞰する本書を読んでいくと、他者、そして違う価値観、文化を持つ人々とのコミュニケーションにとって何が大事で、どのような積み重ねの上に実現していったのかという事を改めて思い返させる、現代にも通じるテーマが見えて来るようです。

江戸時代の通訳官と、それでも江戸は鎖国だったのか本書を通じて、通詞の学習や業績ではなく、2,3章で述べられる、通詞とカピタン達との異文化コミュニケーションやオランダ貿易自体にご興味を持たれた方は、同じ著者のこちらの本「それでも江戸は鎖国だったのか」(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)がお勧めです。江戸時代の蘭僻、西洋趣味の一端を味わいたい方にも良い本だと思います。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。