今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)「高等遊民」を生み出した社会制度としての大学と学制への視点

今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)「高等遊民」を生み出した社会制度としての大学と学制への視点

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館さんの「歴史文化ライブラリー」。

気に入った内容の新刊が出るときには、発売早々に調達に奔走するのですが(田舎なので色々と)、積読中の書籍を読み終えてから漸く手に入れた今回。事前の刊行案内から興味津々だったので、取り急ぎ読み始めてみると、昨今のあらゆる状況が見事に反映されてるその内容に引き込まれて一気に読んでしまった次第。今回は、そんな近代史から現在を見通す様な視点に溢れる興味深い一冊のご紹介です。

近代日本の就職難物語今月の読本「近代日本の就職難物語」(町田祐一 吉川弘文館)です。

本書は著者の博士論文に繋がる著作である、同社から以前に刊行された「近代日本と「高等遊民」」(版元絶版)を下敷きに、主に高等教育を受けた学生たちの就職問題をピックアップして取り上げた一冊。内容自体は戦前の大学教育修了者と就職活動という近代史に基づく著述を採っていますが、その筆致には著者の現職(大学教養課程の助教)における大学生の就職活動に対する所感が色濃く反映されています。

副題にもある「高等遊民」というある種の魅惑を含むような言葉の意味通りの、高学歴を誇りながら定職にも就かず、社会から一線を引いて茫洋として生きていく世捨て人達を扱ったような本にも見えますが、そんなものは一握り、しかも資力を許す余程初期の学生に限られるとしていきます(夏目漱石の著作に多く現れてきますね)。自らの意志で「高等遊民」を目指した極僅かな特異者ではなく、そうならざるを得なかった事情を読み解いていくのが本書の狙い。普通に考えれば、経済状況の変遷に基づく就職難発生と緩和の趨勢が繰り広げられると思われますが、著者は更にもう一段上の視点を見出していきます。

近代日本に於いて制定された高等教育の「学制」そのものの発祥とその変遷。

さまざまな大学が創設の理念であったり、学生に求める資質であったりという建学側の理想があるのは尤もですが、著者が着目する点は社会的要請とそれに基づく「社会制度」としての学制と、その制度を経て社会に出ていく学生たちのマッチングにおいて生じる問題。

そもそも帝国大学を創設した最大の眼目は、高等官吏の養成であった事は良く知られている事です。官吏養成機関、更には官吏養成者を養成し、下級の教育機関が必要とする人材を送り出すための機関としての帝国大学の卒業生に求められる進路は、もちろん官職や教職へ就く事だった筈です。校数や定員、更には下級学校との配置を含めて需要と供給のマッチングが取られた、政府へ人材を送り出すためのシステムとしての学制。しかしながら私学を含む専門学校が大学へと制度変更され、社会に近代的な企業が勃興してくると、本来の制度設計と異なる状況が生まれてくることになります。

家族や地域、その他多くの期待を受けて、全国から集まってくる俊英たちの受け皿としての高等教育機関、大学。近代社会の発展と日本の工業化の進展により、それらの専門分野を有する学生は官吏だけでなく企業側の需要も伸びて来る事で、送り出す側の大学学部と企業、政府機関それぞれが足並みを揃えて、好景気の時には抜け駆けしてでも優秀な人材の確保を求めていきます。一方で官吏、教員の充足を当初の設置目的とした学科では、供給が需要を常に上回る傾向が続く一方、既存の権益の延長による学科、定員増設の機会において、素よりあったそれらの学科の定員も同様に増やされる事により、更なる供給過多の状態が生み出された事を、当時の政治状況を俯瞰しながら指摘してきます。

つい最近でも大きな問題となった法科偏重による著しい弊害の発生、そして文系学科の就職困難の事情。これらが既に大学制度創設当時から内包していた事に驚かされると共に、昨今議論となっている大学の「専門学校化」と戦前の就職事情への対処を重ねると、既に戦前から議論が続いていて、当時において原因までも明確に把握されていた事を指摘する著者の筆致に戦慄すら覚えます。

当初から社会への入口としての制度設計の意味合いを持たされていた日本の学制。好況期にはそれでも需要が供給を上回る為に問題点が浮上しづらいのですが、一度不況期に入ると経済活動を生命線とする企業は敏感に人員計画を見直す必要が生じるため、まずはその入り口である高等教育を受けた人々の受け入れを絞り込む事になります。不安定な就職状況に陥った際に効力を発揮するもの、それこそが閨閥であり人脈、所謂伝手と縁故の力が背後に浮き上がって来る事になります。近代的な高等教育と制度設計を設けたとしても、やはり最後は人と人の関係が最も重要。状況が厳しくなれば尚更です。

では、そのような伝手を辿れない学生たちを支援するのが大学の就職課や就職あっせんを行う機関。強力な就職指導や産業界とのコネクションのチャンネルを積極的に開拓していく大学の就職担当部署の成立と、時にはコネで押し込めたり、就職に関して殊の外強い教授が学生に人気が出るのは今も昔も何ら変わらないようです。では、それらの救いの手も功を奏しない場合はどうなるのでしょうか。

本書は現在の事情にはほとんど言及しませんが、読まれた方が予想される通りのシナリオを勧められることになります。起業、地方就職、そして挫折を現すことになる帰郷…。周囲の期待を浴びつつ、不断の努力を払い、漸くの想いで手に入れた階段の先に観た絶望的な現実。ここまでの著述であれば、ああそうやって現実に絶望した学生たちの成れの果てとして「高等遊民」が生まれたのですねと、早合点してしまいそうですが、さに非ず。

確かに望まぬ職に就く事を潔しとせず、「避難所」として大学院に籍を置き、状況の改善をじっと待ちながら研鑽を続け本望を遂げる人。時には怠惰に流されつつも、文筆等の分野に活路を見出す方もいたようですが、現在と違いそのような恵まれた境遇を踏めた方はほんの僅か。著者の着目点は更にもう一段別の側面へと進んでいきます。そもそも将来的に政府の一員として国家運営に資する人物を養成するのが日本の高等教育の起源。その能力と資質を持ちながら、社会に組み込まれる余地を失った人々が向かう先は何処でしょうか。そう、彼らが社会を不安定化させる事を危惧する指摘が早くも日露戦争後の不況期には現れていた事を見出していきます。

繰り返し述べるように、著者は本文中で何ら現在の事情を指摘するところはありませんが、この着眼点が過去の話でななく、今、目の前に現実として現れているという点は、もはや改めて指摘するまでもない筈です(日本のみならず)。

その上で、大学自体も社会を構成する一員として決して遊離したものではなく、その入り口として(ここでは新卒偏重主義の議論はしませんが)の役割と、それを制度として担保する「学制」というロジック。その枠組を経る事でしか社会に出る事を許されない、現代の日本の学生たちに対して、大学というシステムが何を成せるのか、近代史の史実を読み解きながら研究者として思いを巡らす著者の想い。

丁寧な筆致のうちに、経済状態回復のみを当てにしてその手当をおろそかにし続ければ、社会不安の種を播く結果となってしまうという想いすら織り込んで、実際に学生を社会に送り出す立場として、歴史学から指摘する本書。

時に研究成果やテーマとかい離して、社会的な問題点を指弾し、それを顕現させるかのように研究史観を掘り下げ続ける著述に残念な想いをする事がある中で、決してそのような指摘を無理にせずとも、自らの所属する社会性に立脚しながらも、歴史的な事象から現代に通じる課題を読み解く事が出来る事を見せてくれた本書の筆致に深く感心した次第です。

良くも悪くも、近代化の特質とその中で連綿と続いてきたと著者が述べる、大学と社会の関係。その関係が社会への入口として今も機能している以上、採用する側の工夫や大学自体の努力と共に、志望する学生が入学する前の段階から、その先をしっかり見据えられる「学制」が求められているのかもしれません。

「高等遊民」は決して求め、求められて、生じるものではない筈なのですから。

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を。

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今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)信州の畔に根付くその赤い籾への疑問を追って

今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)信州の畔に根付くその赤い籾への疑問を追って

眼前一杯に水田が広がる、豊葦原の瑞穂の国。日本を象徴するように使われる言葉ですが、その情景が僅か200年ほどの歴史しか有さない事に思いを巡らせる方はいらっしゃるでしょうか。

水田越しに甲斐駒をブランド米と呼ばれるモチモチの白米、特定の名称でお米の品種が広く呼ばれるようになる前にお店の真ん中に並んでいた、「標準価格米」が片隅に追いやられてから僅か数十年しかたっていない事を思い出される方はもう少ないかもしれません。

そして、黄金色の籾に真っ白な粒といったお米とちょっと様相の異なる、長い禾に少し赤みを帯びた籾と小粒のお米をご存知の方はもはや希少なのかもしれません。

ブランド米の品質を全国で争う現在、丁寧に丁寧に育て上げられる稲たちが穂を伸ばすその田圃の畔で、誰にも気が付かれずに、いいえ今やその品質を脅かす駆除すべき雑草として信州の畔から駆逐されつつある、同じ稲なのに余りにも扱いの異なる「赤い米」への疑問を解く旅へ誘ってくれる一冊の紹介です。

赤米のたどった道今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)です。

著者は長野県内の複数の大学で教鞭を執られる、主に中世史を専攻される研究者。大学を卒業後、数十年を経て取得された学位請求に関連すると思われる主著で論じられる二つのテーマを、「大唐米」というキーワードで結びつけ編んだ一冊となっています。大唐米自体を論じる前半と、溢籾と呼ばれるようになったそのお米が引き起こした騒動の経緯を語る後半に、南北朝期の播磨国矢野荘における年貢収納の史料研究を挟み込んでいるため、読んでいると前後の繋がりがちょっと希薄になる事があります。著者があえてこのような構成と論考を用いて明確化したい点は、なぜ赤米(大唐米)だけが別扱いされてきたのか、そして次の時代にはしっかりと農村に根を下ろしたそのお米たちの元となった籾を誰が普及させる事になったのかを想定することにあります。

赤米の歴史を辿るように思える本書ですが、冒頭で語られるように著者の疑問の大前提は、ここで採り上げられる大唐米、そして現在に残る赤米が、中国宋代に発祥を持つインディカ系に属する占城米ではなく、ジャポニカ系の一種ではないかという点にあります。しかしながら、著者による大唐米の遺伝的な考察や、地域的な広がり、形状から見た判断等の農学的なアプローチは冒頭で早々に放棄されてしまいます。一方で、著者は一貫してこれらの赤米が白米と異なる扱いを受けてきたという、史料上の事実を梃に、専門の歴史学的視点で白米とは違う、赤い米たちの歴史をとらえていきます。

水田で耕作される「白米」に対する疑問を、班田収授の絶対的な水田不足から問い始め、その穴埋めたる「陸稲」そして、「赤」の札書きが残る米の種類の記載へと興味を広げていきます。集水、貯水、湛水、排水技術が未熟な近世以前において、現在のような安定した水量を確保できる水田は、安定した流量と穏やかな流れを有する河川に対して僅かに低い土地に限られ、微高地や扇状地には水は届きにくく、湛水地は深田や沼地、果てには洪水の常襲地帯となるはず。そのような限られた水田で作られた「白米」は、既に近世史でも語られるように、食糧として日常の食生活を維持できるほどの大きな収量を期待できなかったことを見出していきます。

厳しい耕作条件の「白米」に対して、熱帯に比べて気温も低く、決して水田農耕に適しているとはいえない日本の農耕環境でもしっかりと実りをもたらす(但し、脱粒性は強い)お米。食味は悪くても、早生でいち早く収穫できるため、秋口に襲ってくる風雨にやられる前に実収をもたらす貴重な赤いお米。農民たちにとって主たる収穫物である「白いお米」は口に出来なくても、田圃の畔を取り囲むように植えるという隙間農耕でも実りをもたらしてくれるありがたいそのお米は、一方でその籾を持ち込んだ荘園領主たちの切実な収量確保という一面も持っていたようです。

鎌倉から南北朝、そして室町期と在地おける実権と実収(実際の所領も)を徐々に衰退させていった荘園領主たちにとって、その減収を少しでも補う方策として、例え売価が低くても、勧農が行き届かず放置気味の荒田の状態になってでも収量が望める赤米(ここで大唐米という言葉が史料として出て来ます)を積極的に導入したのではないかとの暗示を述べていきます。

更に時代が進んで江戸時代。大阪に蔵屋敷が立ち並び、各国の米が市場で比較される段階に至ると、今度は収量は優れても食味に劣る赤米たちは駆逐の対象となっていきます。江戸患いと呼ばれた脚気が顕著に表れてくる程に白米が都市部に集中し始め、漸く庶民の日常にも「白いお米」が上るようになった時代。それでも、著者のフィールドである信州、松本藩の事例では、その不利な条件(籾が落ちてしまい禾が長いので、籾で収納した場合目減りが激しい)にも拘わらず農民たちが赤米での収納を続け、藩庁側も容認せざるを得なかったことを見出していきます。そこには、高地冷涼で扇状地故に水に恵まれなかった信州、そして松本平の厳しい条件があったことを認めていきます(信州の他藩でも、収納した赤米たちは廻米せずに地元での消費に充てていたという貴重な知見も)。水の町とも呼ばれる安曇野に張り巡らされた用水網が整備されたのは、漸く近代の足音が聞こえ始めた江戸末期。水の便は解消しても気候の厳しさゆえ、確実な収穫と生活を守るためでしょうか、その後も昭和の初期に至るまで、これら溢籾と呼ばれた品種が信州では作りつづけられたことを明らかにしていきます。

領主には嫌われつつもしっかりとその土地と農民たちに育まれた赤い米たち。その歴史は亀ノ尾に始まる寒冷に強い白米の登場と、今に続く、その系譜を継ぐ品種たちの粘り強い改良の中で、今や逆に圃場を埋める優良品種の単一性を阻害する雑種として駆逐される運命にあるようです。

著者が傍証として語る、神前としての白米の神聖視、日本人の優越性と白米至上主義といった論点はここでは置いておきたいと思いますが、美しく整備された水田に広がる見渡す限りの稲穂たちと、美味しい白米という、もはや共有感ともいえる幻想に対して、もう少し歴史的に見直す必要がある事を問う一冊。

黄金色の景色1その広がる圃場と稲穂が、どのように今日まで受け継がれてきたのか、本書を読みながら、今一度想いを馳せてみては如何でしょうか。

赤米のたどった道と類書たち本書と一緒に読んでいた本たち。

本書と特に関連が深い本として、農学としての稲にご興味のある方には「イネの歴史」(佐藤洋一郎 京都大学学術出版会)、江戸時代の農耕については、同じ史料から豊富に引用された「江戸日本の転換点」(武井弘一 NHKブックス)、同じ東寺の荘園である、備中国新見荘における室町中期の在地支配を史料から丁寧に掘り起こした「戦乱の中の情報伝達」(酒井紀美 吉川弘文館)、そして、本書の巻末でも繰り返し言及される「稲の大東亜共栄圏」(藤原辰史 吉川弘文館)は近代日本に於ける稲の品種改良と東アジア圏への展開に関して要領良く纏められた一冊、特にお勧めです。

 

今月の読本「犬と鷹の江戸時代」(根崎光男 吉川弘文館)江戸の地方支配から見る、御犬様と御鷹様の深い関わりを

今月の読本「犬と鷹の江戸時代」(根崎光男 吉川弘文館)江戸の地方支配から見る、御犬様と御鷹様の深い関わりを

15代を数える、江戸時代の将軍たち。創業の家康に始まり、終焉の慶喜に至るまでに、それぞれに特色のある人物像が語られますが、その中で愛称を込めて呼ばれた将軍は決して多くないと思います。

毀誉取り混ぜて名付けられる愛称、その中でも犬公方と鷹将軍(もしくは米公方)と呼ばれた、綱吉と吉宗は歴代の徳川将軍の中でも特に特色のある治世であった事で知られています。どちらも動物の愛称で呼ばれた二人の将軍、一見対照的に思われる二人の治世ですが、実は意外な共通点がある事をご存知でしょうか。

犬と鷹の江戸時代今回ご紹介するのは、二人の将軍に名づけられたその愛称に纏わる物語を描く一冊、吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊より「犬と鷹の江戸時代」(根崎光男:著)です。

著者はスペシャル版であった頃のブラタモリにも登場したことがある、江戸時代の鷹狩研究の第一人者(浜離宮のロケで、鷹狩のデモンストレーションに登場されていましたよね)。本書の一方のテーマである鷹将軍、吉宗を語るには相応しい方ですが、果たして犬公方を語るにはどうでしょうか。そんな想いで本書を読み始めると、著者にとって、どうしても犬公方たる綱吉の治世を解き明かさない事には、鷹狩の研究が進められない事情が浮かんできます。

表題だけを観ると、綱吉と吉宗の治世に伴う思想論の違いであったり、所謂文治政治と武断政治の相違を犬と鷹、公方と将軍という尊称の違いに仮託して話を進めていくように見えますが、内容は大きく異なります。綱吉が既に館林時代から鷹狩を行っていなかった事や、吉宗が旗本たちの綱紀引き締めのために鷹狩を用いた点については言及されていますが、本書ではその理由の核心や政治的な位置づけを探り出そうというテーマは掲げていないようです。

本書が着目する点、それは鷹狩を行うためには必須となる鷹狩の場所と、鷹たちを養う鷹役人たち。江戸時代の鷹役人たちの歩みを観ていくと、生類憐み政策に伴う大きな分断点が綱吉の時代に生じる訳ですが、彼らの家系はその後も続いて、吉宗の時代には規模は大幅に縮小されつつも、再び彼らは鷹役人として登場してくる。では、その間に彼らは何をしていたのかを追いかけた結果、意外な事実に突き当たる事になります。

江戸時代の旗本職制をある程度ご存知の方であれば、無役となった旗本達は寄合(大身ないしは布衣以上の役職を経た場合)ないしは、小普請に移る事はご承知の事かと思います。しかしながら、鷹匠や鳥見と呼ばれた鷹役人たちは、綱吉の将軍就任以降、殆ど一括して寄合番という、聞きなれない役職に振り分けられていきます。彼らの仕事、それこそが犬公方たる綱吉が推し進めた江戸市中に徘徊していた野犬たちの収容所、犬小屋の運営を監督する仕事。更には、元々の鷹狩場として、民衆の狩りが禁止されていた江戸郊外に広がる広範な地域における、生類憐れみという、意味を差し替えた上での狩猟禁止を維持するための仕事が待っている事になります。

犬公方たる綱吉の最大の政策である中野の犬小屋を始めとした犬の保護、隔離政策と、江戸近郊での鳥獣保護政策。その正反対に位置する吉宗の鷹狩再開と、鷹場の復活。どちらもその実務を担ったのは鷹役人たちであったという、冗談のようなお話の実際が語られていきます。

そして彼らの活躍した場所、鷹場における統治政策。吉宗の時代になると、鷹狩の獲物を確保する事を目的として、江戸から十里四方(約40km、西は相模川畔の高座、愛甲から北は高麗、入間、東は印旛から筑波に至るまで、更には海上も)にも及ぶ広大な狩猟禁止区域が設定される一方、深刻になる獣害に対応する為に、それ以外の場所における鉄砲の使用と所持の手続きは徐々に簡素化されていったことが明らかとなっていきます。筋という区域を分けて管轄ごとに狩猟場として地域を管理する鷹役人たちと、その他の地域を含めて広範な江戸近郊の農政を委ねられて、鷹狩の毎にその準備と馳走を受け持つ、歴代の伊那代官たち。獣害が発生しても銃を用いる事すらできない厳しい規制と、身元不明の浪人の排除や定期的な鳥見と網差による見回り(ここで、農民の前では御鷹様と呼びならわしてはいけないという、将軍の権威を振りかざして傍若無人の振る舞いがあった鳥見への掣肘の通達も述べられていきます)、鷹達の餌の確保を兼ねた水鳥問屋、岡鳥問屋の統制といった、将軍のおひざ元でもある江戸近郊特有の支配機構の一端を鷹役人の活動から垣間見る事が出来ます。

そして、本書ではこれら政策に直接恩恵を受ける、否、翻弄されたであろう江戸市中の民衆の負担についても検証していきます。隔離した犬たちの膨大な餌代(実に年間98,000両余り)、計画面積何と30万坪という広大な犬小屋を維持するための膨大な費用。更には、隔離しきれない犬たちを江戸近郊の農家に預けて養育した費用の全てが江戸市中の負担となっていました。

綱吉政権の末期、これらの政策は行き詰まりを見せており、中野の犬小屋は全面的な完成を見ぬまま、綱吉の死去によって終焉を迎える事は良く知られている事です。ここで、著者はどの時点で犬小屋の政策が縮小に至ったのかの検証を進めていきますが、これまで言われてきた家宣が将軍に就任した時点ではなく、それ以前から江戸市中の金銭面負担における不満を緩和する為に、大幅に囲い込み政策の規模縮小が図られていた事を見出していきます。此処でも最近顕著になってきた新井白石バッシング(もとい、正徳の治の再検証)が述べられていきますが、やはり無理のある政策であった事は、後世の我々にしても同じ見解に至るところです。更に廃止の余波は、なんと近郊の農家に委託して養育していた犬たちの養育費の返還というとんでもないしっぺ返しを生み出し、その返済が遥か享保の御世にまで至った事を資料から明らかにしていきます。

大きな負担を残した綱吉による生類憐み政策と鷹狩の全面停止から百八十度転換しての、吉宗の鷹狩再開。前述のようにその本意については本書では述べられませんが、治世上の効用については、吉宗時代に限らず、専門家らしく豊富な事例を述べていきます。天皇から大権を委ねられた武門の統治者としての儀礼の一環である鶴の献上と、大名、旗本たちへの振る舞い。儀礼を維持するために払われる鷹役人たちの涙ぐましい努力(鶴、半自然環境で飼い馴らしていたのですね)。鷹場を維持する為に鳥の巣(特に烏)を落として歩く農民たちと、江戸近郊故に鉄砲を持てない農民に代わって、わざわざ農村まで出張って鳥を撃つ鉄砲役人たち。その一方で、新田開発に伴う獣害に悩まされる農民たちの苦悩。生類憐みでも、鷹狩でも、結局のところ最後に大きな負担を強いられるのは、江戸市中の人々であり、近郊に在住する農民たちであった事が明確に述べられていきます。

翻弄される人々の苦悩に対して、ほんの少しの落穂ひろいとして語られる、享保期の犬事情と、享保の時代まで残った犬小屋、更には広大な敷地を誇った中野の犬小屋のその後。やや付け足しの感もありますが、ブラタモリにも通底する中野の今昔物語は、今や中央線随一の街並みを誇る場所となったそのきっかけが、実は広大な犬小屋の跡地にある。その変遷の上に現在の中野の街並みを重ね合わせて考えると、なかなかに興味がそそられるところです。

鷹役人と江戸近郊の地方支配から眺める、江戸時代の動物政策を語る本書は、通史に囚われず、ちょっと切り口を変えて歴史を眺める事で新たな発見を見出すことをテーマとしている本シリーズに相応しい一冊。たかが動物政策と切り捨てる事は出来ない、現代に通じる、当時の江戸近郊の景観を作り出していった根底には、個性的な将軍たちの治世と、翻弄された役人、そして人々がいた事を改めて見つめ直して。

犬と鷹の江戸時代と類書たち本書と併せてお読みいただきたい本。同じ歴史文化ライブラリーから「宮中のシェフ、鶴をさばく」(西村慎太郎)と、「馬と人の江戸時代」(兼平賢治)を。どちらも江戸時代における動物政策、前書は儀礼としての鶴包丁を中心にした公家の家職に纏わる伝承と、大切な収入源としての物語、更には彼らと関わる地下官人たちの姿を、軽快な筆致で実に闊達に描く。もう一冊は、江戸時代の一大馬産地である南部を故郷に持つ著者が、その想いを込めて南部の馬に限らず、江戸時代の馬産業、馬産政策から、飼育環境、農耕、馬具、桜肉…、に至るまでを網羅的に語る一冊。実は馬の物語にも、綱吉、そして吉宗の治世が深くかかわって来る事が冒頭で述べられていきます。本書で描かれる犬と鷹の政策と比較して読んでみるのも良いかと思います。本ページでは、こちらでご紹介しております

いずれも、本シリーズの特色が現れた、読んで楽しく、豊かな知見が広がる本だと思います。

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

現在においても日本語以外でのコミュニケーションを取る事は大変な事。

それでも、中学高校と大抵の皆様は6年間の英語の学習を経られる訳ですし、外来語が溢れている今日であれば、アルファベットが読めないなんてことはないと思います。

それでは、時代を200年ほど遡って江戸時代に戻ったら…どうでしょうか。

そんな著者自らの疑問に対しての回答と、そのベースとなる研究成果について、当該分野研究の第一人者が語る一冊が上梓されました。

江戸時代の通訳官今月の読本、「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)です。

本書は全体を4章に分けて語っていきますが、そのうち中間の2,3章については、既に著者の手による別の書籍で語られた内容と多くが重複しているようです。そのためでしょうか、当該章においては、まるで端折るような筆遣いで話を進めていく点は、本書を機会に阿蘭陀通詞の事を知りたいと思って手に取られた方にはやや残念な感もあります。それでも、描かれる内容は通詞の家柄であったり、職務、家職の継承といった通詞としての営みといった余り知られていない事柄であったり、カピタンとの僅かな会話でも手紙を用いて(殆ど筆談)やり取りをしているのですが、その内容が複雑な貿易処理や政治的な会話かと思いきや、ほんのささやかな事でも手紙がやり取りさせていた(しかもその書きつけが残っていた)点には驚かされるかと思います。

興味深い通詞という役職や長崎特有の貿易に関わる事情、実務の実態。江戸における通詞たちの職務や、本書以外では殆ど語られないであろう、カピタンの代参で江戸に上った際の段取り全容。さらには微笑ましく、時に緊迫感もある阿蘭陀人とのやり取りを読んでいるだけでもかなり楽しめるのですが、本書に於ける著者の狙いがそこではない事は明白です。著者が本書で述べたいと思っている事、それは冒頭の1章と末節の4章に集約されています。

その成果と業績に割には余りにも扱われる事が少ない、江戸時代の阿蘭陀通詞に対する再評価を促す事。そして、彼らがどのようにして触れる事すら難しかったオランダ語を習得していったかを探り出していく事。

多くの教科書や歴史書では、解体新書とそれを著した杉田玄白をはじめ蘭方医たちが江戸時代の蘭学の開花を促した、さもなければ青木昆陽が江戸の蘭学の揺籃を担ったと描かれていますが、その背後には当時の阿蘭陀通詞たちが陰となって活躍をしていた事が本書を読んでいくと明確になっていきます。更に遡って、新井白石がシドッチの尋問を行った際にも、白石自身は会話を続けていくうちに、通詞には頼らず、ある程度かの地の言葉を解したと自著で述べているようですが(自信家の白石らしい点でもあります)、実際には大通詞の解釈に多くの部分で拠っていた、その結果を著述していたに過ぎないと著者は看破していきます。

そして、幕末になってペリーが浦賀に初めて来訪した際に、阿蘭陀通詞であった堀辰之助が艦隊に向かって「I can speak Dutch!」と呼びかけた事でも知られるように、阿蘭陀通詞と言いながらも、既にオランダ人から英語の基礎的な会話すら会得しており、蝦夷地や関東周辺に出没していた外国船の応接の度に、長崎、そして江戸から度々にオランダ語のみならず、英語やロシア語の通訳として、更には重要な外交官として派遣されていた事が判ります。英語学習の先駆者的に謂われる福沢諭吉にしても、その初歩段階は阿蘭陀通詞の元に通って教え請うのが実情であった事からも判るように、英語学習についても、その先駆は阿蘭陀通詞たちであった事がはっきりと判ってきます。

江戸中期から幕末にかけて江戸、そして大阪で花開く蘭学。著者はそのような歴史著述に対して異を唱え、江戸時代の初期、まだポルトガルとの交易が続いていた頃から、平戸、そして長崎で活躍した通詞たちが営々と培ってきた家職制に基づいた蘭学の学習体系がその基礎にある事を指摘していきます。更には、本書を読んでいくと、入門から学問体系としてのオランダ語学を体系化していったのも彼ら阿蘭陀通詞だったことが判ります。

本書の冒頭から全体の約40%のページ(本文348頁に対して140頁)を注ぎ込ん展開していく、阿蘭陀通詞が如何にしてオランダ語を習得していったのか、その文献資料、実際に利用したと思われる書籍を追跡する一連の探究が本書の白眉。熱っぽく語る、導入で用いられた入門書と思われる「A-B BOEK」原著に辿り着くまでのいきさつと、そこで用いられたであろうオランダ語学習のシラバス。通詞たちが自らの学習、習得のために私的に纏めていった著作、言語学的知見と、その後に現れてくる蘭学者たちの著作との記述内容の高い一致性。

まるで、蘭学者たちの言語学的な研究成果の殆どが、阿蘭陀通詞たちの成果を援用するに過ぎないと言い出しかねない勢いで検証の筆致を進め、最後にはこれ以上、読者に忍耐を求めるのは忍びないと述べて、省略という名で一方的に議論を打ち切る。

他の箇所にも散見される、読者を置き去りにするかのような筆致には、一般向け類書の少ないこの分野第一人者の著作として、正直残念な点でもあるのですが、それだけ著者の阿蘭陀通詞への想いが現れているとも考えられるかもしれません。

4章で語られる、著名な歴代通詞の業績を纏めた「二十三名の通詞たち」。その筆致には、著者の通詞たちへの深い畏敬の念と、当時の為政者へのわだかまりすら感じさせるやるせない想い、その業績を何とかして称揚したいと願う、強い想いが滲み出ているかのようです。

海外との限られた窓口であった長崎、そして江戸の長崎屋を舞台に繰り広げられた貿易と外交という舞台の最前線で活躍を続けた阿蘭陀通詞たちの歩みと、その背景を俯瞰する本書を読んでいくと、他者、そして違う価値観、文化を持つ人々とのコミュニケーションにとって何が大事で、どのような積み重ねの上に実現していったのかという事を改めて思い返させる、現代にも通じるテーマが見えて来るようです。

江戸時代の通訳官と、それでも江戸は鎖国だったのか本書を通じて、通詞の学習や業績ではなく、2,3章で述べられる、通詞とカピタン達との異文化コミュニケーションやオランダ貿易自体にご興味を持たれた方は、同じ著者のこちらの本「それでも江戸は鎖国だったのか」(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)がお勧めです。江戸時代の蘭僻、西洋趣味の一端を味わいたい方にも良い本だと思います。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

本著が上梓されてほぼ一月後の2月18日、私が本書を読んでいる最中に、著者である梅溪昇先生(大阪大学名誉教授、近代史)が逝去されました。

享年95歳、本書が生前に刊行された最後の一冊となってしまいましたが、この一冊が94歳の時に書かれた事にまずは驚嘆せざるを得ません。無駄のない美しい筆致、積み重ねられた研究の成果に基づいて明白に述べられる洪庵の足取り、それでも判らない点について、力たらずだと述べられた上で最後まで新出の史料を期待しつつ筆を進め、検討を加えていく飽くなき探求心。

著者がその研究生活で最も心血を注いだテーマの集大成が、最後にこのような形で多くの方が手に取れる本として刊行して頂けた事に深く感謝する次第です。刊行を待たずに執筆者の方が鬼籍に入られる事も稀ではない、永遠に続くかの如く続く本シリーズに、貴重な一冊がまた加えられたようです。

人物叢書_緒方洪庵

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)のご紹介です。

幕末、明治維新期の歴史にご興味のある方ならどなたでもご存知かとは思いますが、多くの場合は福沢諭吉とセットで述べられたり、緒方貞子さんの祖先として紹介される例が多いように思われますが、その際にどのような業績を残したのかが述べられる事は少ないようです。そして、今も大阪の街に残る適塾の遺構を何故大阪大学が管理しているのか、不思議に思われたことは無いでしょうか。

本書に述べられるように、洪庵没後の適塾が発展解消して成立したのが現在の大阪大学医学部の母体であり、本書の著者、梅溪昇先生こそが、その適塾の保存を推進し、現在の大阪大学適塾記念センター発足の立役者となった、明治維新期の著名な研究者であり、緒方洪庵研究の第一人者であられます。

大阪の高等教育、否、近代日本の入口における最大の高等教育機関の主宰であり、幕末大阪の医師番付で唯一の蘭方医かつ、最高位に位置付けられ、病苦を押して就任した幕府奥医師、西洋医学所頭取として在職中に江戸に没した、幕末最高の医師にして蘭学者。

巻末に掲載された600人以上にも及ぶ門下生と、語られる事は少ないですが、コレラの治療に奔走し、大阪、そして西日本全般に広がった種痘所の先駆を開き、後の公設種痘所に繋がる道筋を付けた、大阪の街を守った町医者としての側面。

あまり成果を顧みられることが少ない(東日本では特に)洪庵の偉大な足跡でですが、彼が備中の足守というかなり辺鄙な土地に生まれ、主に大阪で活躍していた事が影響しているのでしょうか。しかしながら、本書を読んでいくと、当時の中国地方には医師の一大人脈網が張り巡らされていた事が判ります。医師免許も、国家機関による専門教育機関もなかった当時、学閥と人脈作りこそが医師にとって最も重要だったことは、洪庵が大阪で中天遊に入門し、その紹介で江戸に出て、坪井信道に師事し、その師である宇田川玄真の系譜に繋がった事で、望まざるとも、最後の職となった奥医師、西洋医学所頭取への道に進む事になります。本書では、当時の人脈主義ともいえる医師同志の繋がりを紐解く事で、洪庵の人脈(息子を修行として加賀、大聖寺に送り出すも、其処を脱走した息子たちが、越前、大野の門下に飛び込むというおまけ付き)から、広く西日本に広がった彼の業績を俯瞰していきます。

広がる医師のネットワークを通じて流れ込んでくる情報と、それを頼って入門してくる門弟たちが更に各地に移っていく事で、彼の大きな業績である種痘の普及も、彼らのネットワークを通じて広がっていく事になります。当時としては最大であったと思われる600余人を数える門弟たち、その教育方法も独特のものがあったようです。先駆的な塾頭を筆頭に習熟度別の等級制を採る一方、飲酒喫煙をあまり咎めず、医学に限らず塾生同士が自由闊達に学ぼうとする雰囲気を良しとした、商都、大阪らしい気風。町医師としての収入を投じ続けなければならないほど経費の面では常に苦しく、原書は乏しく、独特の輪読法を用いたその教育システムは現在の水準からすると首を傾げる点も多々あります。しかしながら、大きな負担も顧みず、闊達な若者達を我が子のように可愛がり、受け入れていった洪庵の家族、特に妻である八重の苦労と、時に逸脱が過ぎて破門もされながらも、長くその恩に報いつづけた門弟たちの物語からは、豊かな人間関係が其処にあった事を感じさせます(八重の墓を最初に詣でた際の諭吉のエピソードには、驚かされると同時に、その師弟愛の深さを感じさせます)。

更に、町医者として、蘭医の研究者としての矜持には強い感銘を受けます。海外への扉が開かれた直後に流れ込んできたコレラ。その治療、感染対策が急務となった際に、打算や迷信ではなく、急ぎ乏しい書籍の中の情報を読み解き、実際の治験を加えた治療を進める実践的な医療態度。そして、洪庵が長年を掛けて著述を成した「扶氏経験遺訓」。後に遣欧使節によってオランダ・ライデン大学に収められた、当時の日本が到達した西洋医学受容の成果を示す訳文に添えられた、自抜の編「扶氏医戒之略」。

本書では原文(写真)と読み下し文の全文を掲載して、その意図する所を述べていますが、著者の解説はあくまでもその著述至った経緯を述べるに過ぎず、その文意を述べる事はありません。敢えて解説せずとも、その丁寧な十二条に渡る説を読めば誰しも納得されるはず。そこに書かれた意図は医師ならずとも、あらゆる「先生」と形容される方々が持つことを求められるであろう矜持が記されています。

私が特に感銘を受けた、第九条を掲示させて頂きます

「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依托し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも白し、最辱の懺悔をも状せざること能わざる所なり。常に篤実温厚を旨として、多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論を俟ず。」

著者は洪庵がその学歴において、儒学にあまり感化を受けずに年少時代を過ごした事が後の蘭学、キリスト教的自然科学を素直に受容する素地となったと述べていますが、この一文には著者の指摘にもあるように、見事に儒教的思想と当時の西洋的な思考が交差、醸成されていると思えます。

日本一の私塾の主宰者として、大阪一の町医者として一生を終える事も出来た筈の洪庵。しかしながら、時代の奔流の中で儒教的(ないしは武士的)素地を有する彼は、病の体を押して、江戸に出府し、最後は大儀に殉じる道を選んだようです。その命を以て報じた成果が、後の幕府解体によってあまり残らない結果となってしまった点は大変残念な事だったかとは思いますが、著者はそれでも彼が蘭医として将軍を直接診察する奥医師、そして実質的に最高の格式を有する法印に任じた事により蘭科医が幕府に公式に認められた点を評価していきます。

刻苦勉学を積み、医師として、研究者としての矜持を持ちつつ大儀に殉じた形となった洪庵ですが、本書では一方であまり顧みられなかったと思われがちな、洪庵とその家族の物語も存分に述べていきます。実に七男六女を儲けた糟糠の妻である八重と、実家からの多大なる支援(洪庵の才能を見込み、適塾移転の際の費用工面や孫の出奔の弁明に遠路越前まで出向く塩名の名家でもある薬種商の義父)。少年時代から大阪、江戸と度々行動を共にし、よき理解者でもあった父と、足守の家を守り続け長寿を全うした母、備中備前に広がる親族たち。厳しい躾と教育の賜物として、早くから海外留学を成し遂げ、後の緒方病院、大阪大学へと繋がっていく息子たちの足取り。このような人物伝でなければ取り上げられない家族の物語も語られていきます。

緒方洪庵の研究と顕彰を一生のテーマとした著者にとって、まだまだ述べておきたい事は沢山あったのかとは思いますが、その先の研究は大阪大学、そして後進の研究者の皆様がきっと引き継ぎ、発展させていってくれるはず。

著者が伝えたいと願った、幕末が生んだ偉大な「先生」が為し得た想いが、本書を通じて多くの方に伝わる事を願って。

人物叢書_緒方洪庵と江戸時代の医師修行

本書と一緒に是非お読みいただきたい一冊、同じ吉川弘文館より刊行されています、歴史文化ライブライリーより「江戸時代の医師修行」(海原涼)を。江戸時代の医師ネットワーク形成について詳しく書かれています。本書にも直接関連する、幕末期の種痘の伝播についても述べられています。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。

今月の読本「日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会」(坂上康俊 吉川弘文館)摂関政治を支える地方の変容と受領

今月の読本「日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会」(坂上康俊 吉川弘文館)摂関政治を支える地方の変容と受領

中世の歴史に興味があると、どうしても遡りたくなるのが、武士の発祥とその下地となる社会構造が古代から中世に向かってどのように変化していったのかという点ではないでしょうか。

中世側からのアプローチでは数多くの書籍が登場しており、既にある議論に帰着しつつあるようですが、では古代側から見た場合に、その行く末はどのように見えてくるのでしょうか。そんな疑問に応えてくれる一冊が、この度、遅ればせながらも、漸く刊行に漕ぎ着けたようです。

摂関政治と地方社会吉川弘文館の歴史シリーズの中から「日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会」(坂上康俊)をご紹介します。

平安時代初期を扱った4巻から時を経る事2年、シリーズが途絶えてしまったのかと思う程に待たされた感のあった5巻目ですが、通史を判りやすく叙述することを目指した本シリーズにとって、日本史の中でも史料が最も乏しくなる時期に相当する9~10世紀を叙述するにあたって、相当の苦労をされたであろうことが行間からも伺えます。また、通読性を犠牲にしてでも引用文献への引用をこれでもかと括弧付で記述していく点には、中世史の側から見た場合、既に議論は済んでいるとの認識を肯定しつつも、それでも新たな見解を提示する余地のある、面白い時代であるとの著者の認識から、それら多彩な見解にも目を配って欲しいとの想いが伺えます。

本書は清和天皇の即位から後三条天皇の実質的な院政開始までの時代を扱いますが、表題にありますように、通史を描きながらも主に3つのテーマを掲げていきます。一つは中央政治としての摂関政治、二つ目には地方支配としての受領、三つ目には精神文化、そして海外との関わり合いに着目した浄土信仰。

これら三つのテーマは切り離されることなく、連動して動いていく事になります。そして、本書が通史たる所以は、これらの繋がり合いによって古代史の社会構造が中世へと向かっていく事を描き出す事。

藤原北家の伸張により朝廷における力関係が後の摂関家へ収斂していく様子は、そのまま地方支配における受領を中核とした負名体制への転換と軌を一にしていきます。その流れの中で、中央に流入する膨大な利潤が生み出した資産は、豪華な王朝文化を花開かせ、同時に交流が閉ざされたかに見えた北方アジア、中華圏との貿易関係は貿易商と公式な交流を補完する僧侶を通じてますます発展し、彼らのもたらした浄土信仰は受領たちからもたらされる豊富な資産の上に建立された豪華な仏像、寺院群として歴史に記録されることになります。

どれ一つ欠けても成り立たない中世への足取り。その中で著者はその足取りの前提として、これまで言われてきた議論に対して、改めて検討を加えていきます。

班田収受をなし崩し的に荘園公領制に転換したのは王家や摂関の意向ではなく、当初は摂関にしても班田による収入を期待していた事、それ故に新たな地方支配体制として貢納の完遂が望める受領というシステムを作りだしたことが最初に述べられます。出来るだけ前例主義に則りながらも実利を目指す、令の運用による改善。摂関等の為政者を追い詰めていった、彼らの収入の基盤となる班田、そして人と土地を結びつけた支配システム崩壊過程を受領の登場を軸に解説していきます。

ここでポイントとなるのが、前世代の奈良、平安時代前期の地方行政が所謂中央集権的に京から派遣された四等官達によって支配されていたという前提ではなく、多くの国において地方行政はそれ以前の国造に由来する地方豪族たちによって支えられていたという点。此処を見誤ると、受領の登場が支配体制の弛緩を引き締めるための中央集権制の強化に見えてきてしまいますが、著者は班田制度の崩壊による地方豪族たちの没落に着目していきます。

受領による国衙支配体制と並行して生じる班田に拠らない、負名と呼ばれる徴税可能人員による納税の請負と貢納の集約化。ここで、従来の中世地方社会を描写する際にトリガーとなっていた、負名の存在と発祥を、それ以前の国造に由来する地方豪族たちやその後に現れる富農と呼ばれる、農耕地集積者ではなく、単に班田という土地と対になった耕作者としてではなく、土地と切り離されて個別収納化された納税者の納税単位を表すに過ぎないと看破します。

地方豪族の末裔でもなく、所謂墾田永年私財法による私有地の集積でもない、農民たちを取り纏めて、後の武家の発祥となる中核とはなり得なかった、個別の徴税請負者である負名。そこには、地方の農民たちこそ武士の萌芽であったとする、旧来の見方を根底から覆す理論が展開されていきます(今や既定の理論ではありますが)。このアプローチに於いて、開発領主の土地に対する権利は極めて限定的であり、所謂土地私有が何処まで下っても大寺院や中央の権力者にしか許されない(のちの寄進型荘園)、封戸から続く奈良以来の律令制の建前を崩さずに運用でカバーしようという、前例主義に基づく当時の摂関政治が彼らに有利に働いた事が判ります。

強力な国内支配権を委ねられた受領。その支配権を確固たるものにするためには実効力のある支配体制を築ける武力と徴税史を確保する事が求められます。そこに生じたのが、都で受領になる事を願う中小の貴族たち。受領郎党と呼ばれた彼らこそが、その後土着して負名達を束ね、ある時には反乱への対処として、ある時には文士とし、後の在庁官人や地方武士団に繋がっていったことを暗示させます(実は、この部分について本書では明確に記載されていません。本書で一番惜しいと思う点)。更には、彼らの血縁者、妻たちが王朝国家に彩を加え、時には実質的な権力を掌握するもう一方の役割「イエのなかの女性たち」を兼ねていた事も漏れなく述べていきます。

律令制崩壊の過程で発生した、摂関と受領。方や平安期までのイエの形式としては普通であった、母系の血脈によって皇位を制御しつつ朝議における発言権を固める摂関(摂政と関白の朝議に関する扱いの違い、官位の逆転時における沙汰、太政大臣は何処までも名誉職であった点など、後もう一歩知りたかった内容がふんだんに述べられています)。方や地方行政を集権的に掌握することで徴税を確保していく受領。受領の横領に対して権門や摂関に近づく事で緩和を図ろうとする地方と、両者の利潤の上に成り立つ浄土信仰。ある意味、矛盾の上に矛盾を重ねる様な循環を見せる構図ですが、根本にはやはり地方行政を受領に委ねる事で実質的に国政を放棄した、イエの集合体として縮小化していく当時の中央政権(=王朝国家)の在り方が問われていく事になるかと思います。

そのような中央政権の在り方を検証する事例として、本書では平将門、藤原純友の乱を以て国内事情を、刀伊の乱入事件と大宰府における大陸との交渉過程を以て海外事情に対する対応を検証していきます。いずれも、本来であれば中央政権が主体的に活動すべき事柄にも関わらず、反乱の鎮圧であれば出先である各受領が有する権能において勇士を募り、押領使を任命して任せるが、褒賞に当たる任官処遇は中央が行う。大宰府に対しても、舶来品の調達には積極的に乗り出す(横流しも)一方、外交文章のやり取りは行わず、前述のように僧侶の渡来に任せたり、大宰府から返牒を出させるなど、地方分権と言えば聞こえがいいですが、どちらかと言えば消極的態度の方がより強く感じられる政策と言えるかと思います。

本書でも述べられるように、これらを穏便な外交政策として語り、中央政府が貢納の不足や荘園の増加に対応して積極的に自らの政体を柔軟に変えていった結果であると述べる事も可能かと思います。しかしながら、本書を読んでいくと、後の清盛の外交政策や知行国主に帰着していく、実を伴わない前例主義を前面にして、その上で利潤や貢納だけを追求する、極めてエコノミックな政体に収斂していくようにも感じられます。更には、その体制を背景に伸張する浄土信仰が次の時代により大衆化を目指す理由が見え隠れしているようです(ここで、著者が京都御所の年中行事御障子成立の由来や皇朝十二銭の途絶に言及したり、空也と勧学会を持ち出して中小貴族の刹那主義を語らせる点は出色です)。

本書でも述べられているように、既に草深い田舎の自営農民から中世が生まれたという歴史的叙述は過去のものとなりつつあるかと思います。一方で、王朝国家体制によって生じた矛盾に向き合った、地方へ下向した受領、その属僚たちの末裔が地方行政の混乱を掌握する為に乱発された賞典を得て、自らのステータスを引き上げ、地盤となる拠点を持つことで、王朝国家に寄生しながら経済的にも実力を備えていったと考えると、やはり王朝国家が自らの意思を以て体制を柔軟に作り変えていったという議論にも疑問を持たざるを得ない事も事実。

中世史に入ると文献資料が揃い始めるため、勢い文献重視で組み立てていく事でこのような「定説」が導き出されるようですが、本書の前半に書かれているように、平安時代前半から中盤までの考古学成果は驚くほど少なく、文献も空白期に当たるため、どうしても検証が難しくなるようです。それ故に、古代史が得意とする、正に考古学的な物証から新たな知見が得られる可能性が高いのではないかと考えるところです。

古代史からアプローチする中世への架け橋となる時代を扱った一冊。まだまだ分からない事が多々ありますが、それでも貴重な現在の歴史研究の水準で時代史を俯瞰で見る事が出来る本が登場したことを素直に喜びつつ、この空白を打破するような平安前期の考古学的なアプローチが(マイナーの極みでもありますが)今後進んでいく事に強く期待したいと思った次第です。

<おまけ>

摂関政治と地方社会と類書たち本ページでご紹介しています、同じようなテーマを扱った本のご紹介。

今月の読本「タネをまく縄文人」(小畑弘己 吉川弘文館)最新分析手法が語りかける、拘りのない考古学への誘い

今月の読本「タネをまく縄文人」(小畑弘己 吉川弘文館)最新分析手法が語りかける、拘りのない考古学への誘い

日本で最大の縄文遺跡の集積地、ここ八ヶ岳山麓に居住していると、縄文遺跡は極めて身近なものです。

そして、周囲には多くの縄文ファン、古代史に興味のある方が住まわれています。

溢れるばかりに存在する遺跡に出土物、それらを綺麗に収蔵、展示している自治体ごとに存在する考古館。収蔵される発掘成果の多くが古代史への扉を開くカギとして貴重な品の数々なのですが、展示物に付される説明を読んでいるとどうしても解せない点が出て来ます。

縄文時代にも拘らず農耕への道筋、特に稲作との関連性をしきりに模索する点(and否定する点)、そして古代史の展示や資料を眺めていると不思議に思えてくるのは、発掘成果から徐々に乖離して研究者の方々の持論と思想がないまぜに語られる文化論。史料との直接的な関係性を観たいと思う私にとって古代史がどうしても好きになれない点でもあるのですが、そのような疑問にストレートに答えてくれる一冊が登場しました。

縄文遺跡のメッカ、中部高地から遥かに離れた南九州を研究のベースに置かれる著者による、最新の知見と研究手法をふんだんに盛り込んだ一冊です。

タネをまく縄文人

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊より「タネをまく縄文人」(小畑弘己)のご紹介です。

本書の表題を見ると、一部の方は「何だ、また縄文農耕論の本か」と思われるでしょうが、表紙のイラストを良くご覧ください。収穫しているの物は何でしょうか、米ではありません。縄文農耕論が辿っていくパターンに従って観た場合でも、麦でも、雑穀でも、エゴマでも、ソバでもありません。もちろん照葉樹森林文化論で出てくるイモ類でもありません。その絵に描かれているイメージは豆の莢。著者の提案する新しい縄文農耕のカギとなるのは、これまでの稲作文化との相対や前身性の議論から離れた新しいアプローチによる提案。そして、提案に至るキーパーツたちを捉えるきっかけとなった分析方法を本書は詳しく述べていきます。

本書は大きく分けて4つのパートに分かれています。縄文農耕の作物としての豆(ダイズ、アズキ類)への着目。そしてこれらをエサとしたであろうコクゾウムシと豆類の生育の関係。避けては通れない稲の移入と縄文期の歴史的展開の話(ここは最大公約的な結論ですが、大陸の出土物との関連性で述べる点は注目で)。最後にこれらを導き出す手法となった、レプリカ法から繋がる圧痕法の解説とそれに続く新しい分析手法の紹介。

著者は史学科に属していますが、所謂考古学者とはちょっと毛色の違った経歴をお持ちのようです。参考文献に豊富に掲載される英文、韓文、漢文の引用論文。X線CTや軟X線スキャナ、光学3Dカメラの解説に圧痕法使用樹脂の解説。そして、極めて細密なダイズの寸法評価やコクゾウムシの形態分析。文学博士の称号をお持ちですが、どちらかというと分析屋さんに近い系統の仕事のされ方をしています。

ある意味発掘や思索を専門とする考古学者とは別のアプローチによる、分析重視の出土物調査の集積。その結果は、土器や土偶等の発掘物の精緻な分類や比較文化論による文化的な側面を重視した時代構成を描く、次に来る弥生時代との峻別や先進性を訴求せんが為に、その痕跡をひたすら追い求めて袋小路に入っていく多くの古代史の研究成果に対するアンチテーゼ的な結論を導き出していきます。その為でしょうか、著者の筆致には考古学者の方へのやるせなさや研究の停滞への想いを隠さず、時に判断を促さんと欲する突き放す様な描写すら見せます。

所々に傍観者的な雰囲気を漂わせる、分析屋さんのちょっと悪いパターンを行間に垣間見る感もありますが、その指摘には興味深い内容がぎっしりと詰まっています。

発掘された土器の表面に残る圧痕をシリコーン系の樹脂で型を取って、電子顕微鏡で観察するという、当時の形態をそのまま取り出す事が可能な手法であるレプリカ法、その後継手法として陽刻としての3次元形状を捉える事を目的とした圧痕法。従来の考古学的手法による種子類の抽出を行っていた著者が新たに取り組んだ手法を用いた膨大な分析結果を俯瞰していくと、これまで着目されなかったマメ類、それも在来種と思われる種子が土器に多数の圧痕として残っている事が確認されていきます。そして、分析結果の中に、本来であれば穀物類をエサとする筈のコクゾウムシの圧痕を見出していきます。マメ類の圧痕は関東や中部高地から西へ向けて、そしてコクゾウムシの圧痕は稲作が遥かに遅れて伝わったとされる薩南諸島で出土した縄文期の土器からも見出されていきます。この結果は従来的な縄文時代の推移を学んだ者にとっては驚きの結果。狩猟採集の縄文文化は半島から来た稲作文化に追いやられて南北の端に追いやられた。穀物を主食とする害虫であるコクゾウムシなどの発生は、穀物生産=稲作文化の伝播と並行して起こったという認識を根本から見直さなくてはならない事を痛感させられます。更には栽培植物化による種子の大型化と、種子の中で幼虫が育つ必要があるコクゾウムシのサイズ変化(むしろ小型化する)からの考察として、縄文期に食されていたものが穀類(≒稲)ではなく、クリやマメ類であったであろうという点にまで議論を押し広げていきます。

この議論は、八ヶ岳西麓に住んでいる者にとっては非常に大事な話。所謂藤森縄文農耕論が唱える先駆的な農耕の先には常に「稲作=水田」が付いて廻っていました。その結果、お隣の阿久遺跡の発掘に於いては、農耕、即ち水田に類する痕跡を求めて、台地上からはるか下に流れる川の付近まで発掘調査を行ったが、水路に相当するものは最後まで発見できなかったとのお話を、発掘40周年を迎えた今年の記念講演で当時の担当者の方から伺ったことを思い出しました。

ステレオタイプかもしれませんが、何としてでも文化的に弥生時代の先駆が縄文であった事の痕跡を探すことに躍起になる縄文文化。その度に稲作のない縄文の農耕は農耕とはいえず、縄文の後進性と大陸文化=先進文化の受容というスキームで臨む弥生文化。更には、それらに輪をかけるように展開されるxx文化論的な物証論からやや逸脱する、精神論的な部分も垣間見れる議論。更には考古学者の全てが目を伏せて逃げ出したくなる、解消されないあの事件のトラウマ…。

これら部外者には俄かに判りかねる魑魅魍魎的な古代史の議論に対して、分析屋さんらしい切り口、そして海外からの視点を重ねながら、文化ではなく、発掘史料が語りかけてくる結論に対して真摯であろうとする著者の姿勢。

土器の表面という限られたポイントからすべてが把握できる訳がない点は充分に承知している。更に、なぜ土器の表面にそれほどまでにマメ類やコクゾウムシの痕跡が残っているのか想像は出来るのだが、物証から確証には至れない(ここで、前 長野県考古学会の会長でもある会田進氏の「やればいくらでも種実圧痕が出てくるので、もはやマメはあって当然のことと思っています」という発言を拾っている点に、著者の想いが帰結していると思います)。それでも他の分析手法に対して、当時の形態を確実に保存しているという明らかなメリットを前面に掲げて分析結果を積み重ね、議論の深まりを模索する著者の姿勢には大いに賛同したくなるところです。

全国各地に数多ある縄文遺跡とその発掘成果。著者の言葉を借りれば「第二の発掘を待つ宇宙の星の数にも等しい土器たち」が各地の博物館や収蔵庫に眠っています。著者が一人でその全てを調査することはもちろん不可能でしょうが、そこにはまだまだ新しい発見が眠っているはず。より多彩な分析方法を駆使して、これまでの研究分野の枠組みを外してほんの少し見つめ直せば、縄文の研究分野はもっと広がり、もっと楽しいものになると実感させられた一冊です。

井戸尻考古館の炭化麦出土品全ての議論の起点である、植物性炭化物出土品の数々(藤森縄文農耕論のゆりかごでもある、諏訪郡富士見町信濃境の井戸尻考古館にて)

 

<おまけ>

本書とほぼ同じタイミングで刊行された、縄文時代を扱った一冊「つくられた縄文時代」(山田康弘 新潮選書)をセットで。こちらの本も従来の縄文時代感を是正することを狙った内容ですが、正直に言って上手くいっていないように思われます。1,2章の戦前、戦後の考古学への認識と、それに対する歴史教育分野での行政の介入部分は後付け的で、内容も考察不足ないしは、引用と帰結が余りにも大振り(モースとシーボルトの件以外は「考古学とポピュラー・カルチャー」(櫻井準也 同成社)を読まれた方が良いかと)、5章は本論とはあまり関係のない、著者の持論展開であり(こちらは同じ歴史文化ライブラリーの「老人と子供の考古学」の焼き直しである事を明言しています)、実質的には3章で述べられる、著者の奉職先である民博の展示入れ替えに際しての考察である、時間軸と空間軸に於ける縄文時代の枠組みの是正の部分だけが本題です。

タネをまく縄文人と、つくられた縄文時代

<おまけの2>

本ページより関連書籍、テーマのご紹介