今月の読本「東大寺のなりたち」(森本公誠 岩波新書)聖武帝の華厳への想いを胸に、大寺の生み出された姿に時代史を映して

今月の読本「東大寺のなりたち」(森本公誠 岩波新書)聖武帝の華厳への想いを胸に、大寺の生み出された姿に時代史を映して

日本を代表する寺院であり、古い歴史と巨大な大仏を擁する南都の大寺、東大寺。

その歴史は決して平たんではなかったことは、度重なる兵火や大仏殿の焼失と復興、大仏自体も再建を繰り返している事からも知られています。そして、巨大な寺院につきものの強大な財力と政治力。時の政権を左右する程の力を有したその根源には、宗教的な信仰心以上に、その巨大な基盤があった事に論を待たないかと思います。

しかしながら、その巨大な信仰集団であり、最大の仏像を擁する大寺である東大寺も元を辿れば、何もなかったはず。では、どのようにしてそれだけの基盤を築いたのでしょうか。

今回ご紹介するのは、東大寺の別当を務めた長老がその源泉を広く時代史として解き明かしていこうという一冊です。

東大寺のなりたち」(森本公誠 岩波新書)のご紹介です。

著者の森本公誠長老は、元華厳宗の管長かつ、東大寺の別当を務められた方。現在も長老として山内に留まられています。東洋史にご興味のある方には、イスラム史の研究者としてご存知の方も多くいらっしゃるかもしれません。

京都大学で仏教とは異なる分野の学位を修めた研究者にして、東大寺のトップを務められた方が綴られる東大寺発祥の歴史。その経歴から、老齢の僧侶の方が書かれる法話にあるような、柔らかな物腰の筆致を想像されていると意外に感じられるかもしれません。

むしろ歴史研究者の筆致と言ってよい、硬質で透徹な筆遣いで綴られる、奈良時代から平安時代初頭(清和天皇)に至るまでの通史として描かれる一冊。あくまでも新書で描ける範囲の通史なのですが、その視点が東大寺を起点に描かれる点がとても新鮮に感じられます。

東大寺の発祥から現在の寺地に繋がる経緯の検討から始まる冒頭。既にその内容は国家鎮護としての寺であるという東大寺の一般的な見方から大きく離れた存在であったことが示されていきます。天皇家の私的な鎮魂、基皇子追悼としての山房から発祥した東大寺の寺地。その経緯に変転を繰り返した聖武帝の想いを重ねていくのですが、著者はより積極的に政治的意図に基づく変遷であったと示していきます。

既に聖武帝を扱った著作を有する著者が最も力を入れて綴る、帝の仏教、特に華厳経を下地にした政治姿勢を説く「責めは予一人にあり」から続く聖武帝の治世の展開と大仏開眼をピークに描かれる東大寺の発展。僧侶、それも東大寺の元別当の方が書かれた著作だと思って読んでいくと、明らかに歴史研究者としての筆致が勝ると感じられる部分。度重なる天候不順と飢饉に対する減免政策を綴る段には確かに宗教的な姿勢が見られますが、それ以外の部分、特に東大寺や大寺院と当時の政策との関係を綴る部分は極めて冷静かつ、括目される内容がふんだんに盛り込まれています。

大仏建立自体の位置付けを見出す部分で豊富に描かれる、近年の研究成果を取り込んだ当時の政策課題、困窮者の収容と土地政策の見直し。著者はこれらの解決策の一環としての大仏建立があった事を認めていきます。

墾田永年私財法による大寺院の田畑私有化や布施による奴婢の囲い込み、更には行基に対する態度の豹変。これらは全て連動した困窮民対策であり、彼らが擁する優婆塞としての技能者の囲い込み。その先に続く、彼らを正規の僧籍に移し替え、更には国家鎮護の核となる国分寺に配する僧侶へと変える養成機関としての中核寺院の確立。最終的には鑑真の招来によって達することになる、戒壇の設置による質的確保まで。その全てが華厳経を下地に大仏建立を軸にした聖武帝による一連の政策として行われていた事を指摘します。

国家鎮護と言う命題を遥かに超えて、国家戦略の根本としての役割を担う寺院として作り変えられた、平城京の地に再び戻った先に置かれた東大寺。開眼供養を目前にした遣唐使、新羅使の派遣と新羅王子の朝貢とも捉えられる開眼供養直後の来訪。そこには、広く当時の北東アジアに広まった政治的指針の中に織り込まれていた華厳経の受容を示す確固たる象徴としての役割も担っていたとしていきます。

本書のクライマックスでもある、開眼供養の準備段階から盛儀の様子を少し誇らしくもじっくりと述べ、その後の僧侶たちへの布施を述べた後(此処で開眼師でもある菩提僧正の扱いが、引導する官人の官位や布施からも一段低く見られている点が極めて興味深いです)、聖武帝の崩御で閉じられる前半。表題のように東大寺の成り立ちだけを綴るのであれば、この辺りで筆を置いても良い筈なのですが、本書は更に筆を進めていきます。それは東大寺が置かれた姿をしっかりと時代史の中に位置付ける為。

聖武帝が崩御した後に起こる、藤原仲麻呂の専横と称徳天皇(孝謙天皇)との確執、更には道鏡の寵愛に至る政局の混乱。女帝故の継承者問題を抱え続けた時代におけるキャスティングボードを、大仏建立に際して肥大化した財力とそれに伴う武力が温存された東大寺、俗世の権能である造東大寺長官が握る事になった事を示していきます。吉備真備の動きを軸に描いていく、天武系から天智系への王朝家系の交代による平安遷都と奈良に残る寺院への財政的な締め付け。自らが座する一山の事であっても、著者は冷静にその政策の意図を示していきますが、その先にある想いを乗せていきます。

最後に綴られる、平安初期の大仏頭部の落下による破損から復興に手を挙げた人々の物語。著者はこの事実こそ、今に繋がる東大寺の意義を示すものだという想いを述べていきます。最後は心情的に述べていく、聖武帝から発し、受け継がれる想い。一枝の草・一把の土を以てという、人々の想いが募って支えられるという本質に立ち返った時に、その結集点である大仏を擁する東大寺が生き続ける事が出来る。その後に繰り返される戦乱や災害の中でも繰り返し復興を遂げてきた拠り所としての発祥の想いを再び呼び起こしていきます。

京大時代の恩師である宮崎市定先生が述べた言葉をおわりに載せてその想いを述べる、著者が止住されるその大寺に委ねられた本当の想いを時代史の行間に織り込み描き込んだ本書。題名の印象と異なり、研究者であり宗教家の方が書かれた本として、一読して決して易しい内容ではありませんが、行間に込められたその想いが滲み出てくる一冊。

本書の前に読んでいた、著者の前の管長・別当であり、昭和の大修理を主導した平岡定海師の著作「大仏勧進ものがたり」(吉川弘文館)。本書で描かれた後の時代、その後も繰り返される修復の足跡と、その難事業に挑んだ歴代の勧進僧たちの苦心を人物史だけではなく、当時の為政者たちの視点や、建築史や技術史としての側面を踏まえて描く。本書同様に、広範な知識を積み重ねられる、歴代の東大寺別当の学僧として深い学識を有される一面が垣間見える一冊です。

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今月の読本「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)国文学で読み解く、描かれた物語が生み出す源泉

今月の読本「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)国文学で読み解く、描かれた物語が生み出す源泉

最近盛り上がりに盛り上がっている室町時代を扱った書籍達。その絶大な効果を看過出来なかったとばかりに、立て続けの新刊リリースに某社さんと入れ替わるようなSNSでの宣伝に力を入れ始めた歴史専門出版社さんや、某国営放送まで一枚噛んで来るとなると、もはやブームと言える状況にまで至ってしまったようです。

そんな中で、老舗中の老舗と呼べる新書シリーズが送り出してきた一冊。こちらもブームの便乗かと思って読まれると、ちょっと足元をすくわれるかもしれません。

今回は「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)をご紹介します。

前述のようにブームが続く室町時代とその直前である鎌倉末から南北朝にかけての時代を扱った書籍たち。そんな中で乱発される一冊であればもう辟易という想いもあって、本屋さんで見かけたものの暫くの間は手に取る気にもならないというのが偽らざる思いでした。しかしながら著者を改めて見てふと思い出したのです。1996年度のサントリー学芸賞を受賞した「太平記<よみ>の可能性」(現在は講談社学術文庫に収蔵されています)の著者ではないかと。大胆な切り口で太平記という、語り、読み継がれた読物が歴史の中で営々と与え続けたインパクトを現代にまでテーマの羽を広げるその著述には恐ろしさすら感じたものですが、展開されるスケールの幅広さと内容は実に魅力的でした。

今回の一冊も、10余年を費やして手掛けた、同じ版元から先年刊行された、著者のメインテーマである「太平記」の校注完了を承けての著作。その間に太平記と向き合い、語り合い続けてきた中で改めて見つめ直した、描かれた物語と急速に深化する中世史の研究成果を重ね合わせる事で、近年「異形の王権」と称され脚光を浴びた後醍醐帝の姿を見つめ直していきます。

従って、本書に近年の文献、実証史学を中核に置いた史料批判に基づく著作にある、旧来の説を思想面を含めて論破していく筆致、理論で押していく圧倒感(読者が仮託する一種の爽快感)を求めると、大きな失望を感じられるかもしれません。特に、本書はあからさまに時代背景に歴史著述が変容する姿を是認する立場、むしろその変容を文学者として思想史的に捉え、援用の起点としての太平記の位置付けを読み取っていく立場を採って描いていきますので、相容れない内容と言えるかもしれません。

あとがきにあるように、敢えて自らを「日本文学」研究者だと任じて綴られる本書。そのため、本書では通史として後醍醐帝の伝記を描く体裁を一応は採っていますが、その実は著者が捉えたいと考えるテーマ、「太平記」に描かれた後醍醐帝とその描かれ方が、現代に至るまでどのような影響を与えてきたのかを軸に綴っていきます。

中軸となる建武の新政に至る道筋は、本質的には当時の京、御所の中で流行したとする、宋学(朱子学)をベースにした王権の復興を目指した点では衆目の一致する所かと思いますし、楠木正成(著者は「楠」一文字論を本書でも展開します)や、所謂無礼講への繋がりから、「異形の王権」論的な指向が底辺にはあった事を認めます。しかしながら、それは勤皇ではなく、花園天皇宸記を援用しつつ、朱子学を中心とした宋学の勃興と受容による、儒教による思想、絶対王政と中央集権による新政としての王権改革の一環であったと定義づけていきます。その結果は、家職制度が完成期に達した当時におけるヒエラルキーの破壊を生む事になり、ある種の破壊者として建武の新政と後醍醐帝が長く位置付けられる起因となった事を、当時の公家たちの記録から拾っていきます(この辺りの傍証とその視点を徒然草からも拾う皮肉の利かせ方は、著者ならではといえるでしょうか)。その一方で、厳しい天皇位継承の経緯から、如何なる状態でも自らを正当な王権の継承者として振る舞い続けた態度に万世一系が仮託されるという奇妙な捻じれを生んだ源泉が、伝統的な王権、文化の継承ではなく、実に外来の思想である宋学への希求に基づくという視点を見出していきます。更には、文寛と立川流の呪詛にのめり込んでいった象徴を有名な後醍醐天皇像に結び付けていく議論に対しては、南都の戒律復興以降に繋がる、旧来の宗派に囚われない活動の出来るの真言律の勧進聖として文寛の姿に着目します。その結果、後醍醐天皇像が聖徳太子へのオマージュとして描かせた物であるという見解に同意を示し、正に後醍醐帝が仏法すべてを具えた王権を目指していた事を改めて示していきます。著者はその延長として、数多の議論がなされていく太平記成立の事情とその著者の姿を、彼ら真言律僧に繋がる者達による原典の著述と、それに反目した三宝院賢俊や直義以降による改筆による、正史として変容していく過程から見極めようとしていきます。

宋学と律宗の復興といった新進の気風の上に建武の新政の思想的な支柱を見出していくという、鎌倉新仏教という表現に委ねられた時代の新規性とその伸展とも見える、少し前のイメージで綴られる著者の視点を提示した上で描かれる本書の後半。実は討幕以降の展開について、本書では後醍醐帝自身の治績や記録は殆ど語られなくなり、通史的な記述も縮小され、個別の細かいテーマに対する言及へと移っていきます。

前著に続いて著者が述べる太平記が与えた歴史的な影響。それは「太平記<よみ>」と述べた、数多にその内容が語り継がれ読み継がれて流布する中で史実を離れ、聞いた、手にした人々の恣意を加えながら思想や自らの存在意義を求める源泉へと転じていく姿を後の歴史の中に辿っていきます。

江戸期以降の思想に太平記が与えた影響が水戸学や国学を揺り動かし、宋学の根底にある朱子学、特に孟子の影響も多分に含まれる、婆娑羅や無礼講と言う君臣の交わり方が捻り込まれて、名分論、四民平等から、国民国家という当時の世界的な潮流に合わせる形で臣民へと継ぎ替えられていった点を指摘します。その上で、明治以降にこれらの風潮の中で発生したとする南朝正統史観にしても、新田氏を祖に持つと出自を潤色した徳川将軍家にとって、光圀の時代に於いても既に違和感のない認識であった(故に北朝以降は武家の為に存在したと断じた白石の議論も、儒者の視点では放伐と君臣を論じる点では齟齬を生じえない事に)と看破します。

この辺りの内容になって来ますと、もはや後醍醐帝の話とは全く異なってきますし、事実、本書は冒頭から末尾まで、表題には掲げつつも人物としての後醍醐帝を綴る事を意図的に避けている印象すらあります。

国文学者としての矜持に基づいて、史実を踏まえた上で太平記を読みこなした先に見える、後醍醐帝がその後の歴史の中でどのように捉えられてきたのかを現代の歴史研究への影響まで言及しつつ綴る本書。前述のように、後醍醐帝自体の治績や鎌倉末から南北朝期に掛けての通史としての流れを読みたい方にはあまりお勧めできませんが、今も数多の議論の中心に位置する「物語」が発し続ける影響の強さを感じてみたいと考えられる方には、未だ刺激的な著者の論考へのエッセンスを感じさせる一冊。

全巻刊行を成し遂げた著者の手による「太平記」校注を横に置きながら、平家物語と並び称さされる、軍記としての日本文学の頂点に位置付けられる物語へ込められた、読み解き続けられる想いを垣間見るのも楽しいかもしれません。

今月の読本「一茶の相続争い」(高橋敏 岩波新書)百姓、弥太郎に宿る証拠と理論を以て貫く信州人の生き様

今月の読本「一茶の相続争い」(高橋敏 岩波新書)百姓、弥太郎に宿る証拠と理論を以て貫く信州人の生き様

皆さんは信州人と聞いてどんなイメージを持たれるでしょうか。

頑迷で議論好き、寒冷地なので辛抱強く学研的な気風を貴ぶけれど、時に議論倒れで終わってしまう。普段はおとなしいけれど、お祭り(御柱に御開帳と何年越しかで準備するイベント大好き)になると俄然盛り上がり、都会で集まれば、地域毎のわだかまりは抑えて信濃の国を大合唱…。

ちょっとステレオタイプかもしれませんが、江戸時代の信州を代表する俳人、小林一茶と彼が生きた世界を垣間見ると、そんな信州人の気風が色濃く見えてくるかもしれません。

今回は「一茶の相続争い」(高橋敏 岩波新書)をご紹介します。

まずはじめに、故郷を追われつつも逆境にめげず、民衆に寄り添いつつも漂白し、風雅を愛した俳人、小林一茶に心寄せられる方は、お読みになる前に一考を要するとお伝えします。このような書き方を敢えてするのは、一茶に対する「美談」ともいえるそれらの言説に対して、帯にあるように欺瞞であるとの著者の想いを文中で繰り返し述べられるために、正直、辟易されてしまうかと思われるためです。あとがきで述べられる、俳人、一茶としての人物像や詠まれた句の研究ばかりで、本当の素性であり、死ぬまで維持された人別帳にある、北国街道の要衝である、柏原宿の百姓、弥太郎の姿を捉えていないという近世史の研究者としての強い危惧が、そのような筆運びを生んだようです。けれども、あまり執拗に述べられると、毒気が強すぎて読後感にも微妙に影響を与えます。

一方で、一茶の一生に付きまとう家族との不和の理由にある背景にご興味のある方にとっては、著者の専門である近世の民衆、農村、行政史の観点から、信州人たる農民、弥太郎を通して、その本質である江戸時代の民衆の生き様から読み起こしていくという、非常に面白い一冊になる事も事実です。岩波新書を始め多数の著作を有する著者の小気味の良い筆致に乗せられて、まだ書き足りない部分があるとの断りがある中でも、要所をしっかりと押さえた筆致と、図版を用意し、必要であれば原文も添えていく。史料調査に基づく背景描写やその後の話の中にちょっとした意外性も見出していく掴みの巧さ、研究者の方が書かれる書籍の中でも、読ませる一冊である事は間違いありません。

遥か戦国末期の川中島、現在の長野市の北から越後の国境に通じる北国街道を振り出しに描き始める冒頭は、意外な事に石田三成と直江兼続のお話から切り出されます。会津転封に伴う完全な兵農分離と東国最大の太閤蔵入地の割り出しを狙う三成の戦略が、所謂土豪勢力が豪農へと転換する余地を大きく減じさせ、同時に施行されたその時代以前から騒乱の地として疲弊してきた当地への撫民政策が、歴代の入部した大名たちにも継承された事を見出していきます。天領となって中野代官所が預かる時代の年貢率の低さ(天領故ですが)に驚くと同時に、当初からその政策を浸透させるために、ち密な文書行政が敷かれていた事を示していきます。家康が政権を握った以降に展開された街道整備政策により、新たな宿場町として取り上げられた柏原。著者は近世史の研究者として、宿場として取り上げられることによる地子免除のメリットは僅かであるとする一方、伝馬役の重さに疲弊する宿場という一昔前の江戸時代の歴史描写にも否定を加えた上で、官道として脇道への通行を規制することで、物流を掌握する立場となった宿場の機能と、其処に労働力として集まる周辺農村の繁栄から、暗黒の江戸時代の地方農村というイメージから、賑やかな街道と文筆に長けた富農が集い、北国と江戸を結ぶことで文化の懸け橋になった、豊かな北信の街道と宿場町という姿を提示していきます。

宿場を切り盛りし、安定した繁栄を維持する役割を一身に担う事になるのが本陣役。本書の主人公である一茶と重なり合うもう一方の登場人物である歴代の本陣、中村家の当主と、一茶との機縁を結ぶ事となる、長男であるにも関わらず当主を継がず、その一生の殆どを宿場を守るた為の訴訟に打ち込んだ四朗兵衛の物語から、宿場町を舞台にした彼らの生き様が描かれていきます。現在では消防団にその姿を残す、祭りや勧請を取り仕切る若衆と、公儀に対しても宿場と村の統率を示す必要に迫られる大人との確執と共闘。まめまめしく残された、沽券に係わる宿場成立の由来や公儀との取り交わしの文面から伝わる、文書行政を支えた上層農民たちの教養の高さと、それを当てに江戸から下って来る文人達(一茶もその一群に連なろうと帰郷したことは間違いないようです)。そして、本書のメインテーマである一茶と腹違いの弟との十年以上に渡る相続争いの素地となる二つの訴訟の物語が語られます。

北国街道に位置し、善光寺平から野尻湖、そして信越国境へと登っていく入口として繁栄した柏原宿。その繁栄を支えたのが越後から持ち込まれる海産類、そして塩である点は、塩の道とまで呼ばれた当地の歴史をご存知の方であれば論を待たないと思います。海なしの国たる信州の生命線を扼する北国街道に蟠踞した宿場町と連なる農村の繁栄を目の当たりにすると、それを快く思わない人々は必ず現れる訳で、ねたみを含めて村同士の争いが頻発することになります。急死した住職の後継を巡る村同士の争いが拗れるとき(この物語とその後のお話だけでも一冊の本が書ける程面白いのですが)、そして繁栄する北国街道を快しとしない人々が結託して起こす抜け荷が宿場の存立を揺るがすほどの規模に膨らんだ時、文書行政に長けた彼らは、謀議を巡らし罠を張り、証拠を集めて、沽券と自らが歩んできた歴史を握りしめ、お互いが自らが有利となる確固たる信念を胸に、出るところに出て決着を付ける事を潔しとしていきます。実に十軒もあったと云われる中野陣屋界隈に存立した公事を扱う人々。その示談では飽き足らない彼らは京都の本山へ、更には決着を求めて江戸へと出府を繰り返すことになります。

明治以降には飯山線と現在は一部が廃止された長野電鉄の路線が通じ、その上には上信越道が貫く。野尻湖から千曲川の東岸を抜けて、柏原と入れ替わり現代に於いて信州の小京都と呼ばれるようになった小布施を通り、須坂から屋代に抜ける川東道に連なる村々との間で前後二回に渡る熾烈を極めた訴訟合戦。宿場の生命線ともいえる塩の継荷を独占する宿場の権利確認を求めた江戸の評定所における九年にも渡る訴訟の最中に、江戸を拠点に各地を放浪する零落した逃亡民にして、漸く俳人としての名を上げつつあった一茶こと弥太郎と、当主の座を弟に委ねての一回目の訴訟で全面敗訴という宿場存立の危機を抱えて、背水の陣で二度目の訴訟に挑む、本陣の四朗兵衛が巡り合っていた可能性を見出します。更には、本陣支援の為に上京していた、既に係争状態にあった一茶の腹違いの弟、弥兵衛とも江戸で会っていたであろうと論じ、彼らが同じ宿場の存亡を掛けた訴訟で、江戸で境遇を語りあう間柄にあった事を想定していきます。その上で、江戸市中で訴訟相手であった村の人々が一茶を訪れていた事が記録には残っており、一茶自身もこの訴訟に柏原宿側の立場で何らかの関わり合いを持っていた事を暗示させます。

足掛け九年にも渡る長い訴訟と、公事宿に支払った費用だけでも実に120両にも上る膨大な資力(相手の村々にしても50両近い出費を強いていた事が示されています)を投じて勝ち取った街道の独占的な商業通行権。その一年後に念願が叶って、当時としては異例の20石を下回る分割相続を認めさせ、完全なる等分相続を勝ち取った百姓、弥太郎(一茶)。その添え書きには、江戸での訴訟を指揮した本陣の四朗兵衛はじめ、本陣当主である六左衛門の存在と、訴訟の支援に出向けるほどの文筆力を有し、彼らの生き様である、証拠と理論を持って筋を通すことを自らにも課し、父親の遺言を振り回す弥太郎の理論に服した弟、弥兵衛の姿が見えてきます(和談が成った後、更に不平を述べる弥太郎から、かの遺言状を本陣家が取り上げたのも、彼らが貫こうとした信義に従えば、当然の結果といえますね)。

さすらい歩き、旅に死すことこそ俳人の本懐と見る著者の目に映る、人別を置いたままに浮浪した挙句、冷たく厳しい地だと詠いながらもその地に執着し、遂には異例ともいえる分割相続まで果たして小作を使う小地主として往還を果たした百姓、弥太郎に対する、苦々しさすら感じさせる想い。そのような筆致の中でも、彼の最晩年に訪れた度重なる不幸には流石に憐れみを見出したようです。そして同じような憐れみを持ったであろう腹違いの弟である弥兵衛。大火で焼け出された宿場の再興がなった直後に、既に北信に広がっていた彼の門人と弥兵衛が意図した追悼句碑の建立。その意義を認め、宿場の入口に句碑を建てることを許した本陣、中村家と、撰文を承けた中野代官の手代であった大塚揆の一茶評。

戦国の急雲からもたらされた文治主義を下敷きに培われた学研的な素養と、豊かな北国の生産力、流通が生んだ余力を以て風雅に生きる事を叶えた俳人、その存在を生み出した在地の姿。その中で、繋がり合いながらも、時として腕力ではなく理論を以て争う事を辞さないという、今に繋がる信州人の気風の萌芽が本書から見えて来るようです。

一茶をテーマとして置きながらも、江戸時代の文治主義と訴訟の姿から其処に生きた人々の生き様を生き生きと描いていく本書。彼らが貫いた生き様には、家父長制が形骸化し、地域との繋がりも軽薄化する中を生きる現代の我々にとって、何に依拠して生きていくのかという、大きな示唆が含まれているようにも思えます。

 

今月の読本「アホウドリを追った日本人」(平岡昭利 岩波新書)玉置半右衛門とアホウドリを絶滅寸前に追い詰めた、南洋を巡る梟雄達への告発の書

今月の読本「アホウドリを追った日本人」(平岡昭利 岩波新書)玉置半右衛門とアホウドリを絶滅寸前に追い詰めた、南洋を巡る梟雄達への告発の書

戦前、第一次大戦による信託統治領として獲得した南洋諸島を始め、多くの日本人が太平洋の島々に進出していました。

現代を暮している我々からすると、南の島といったらバカンスか、それともカツオやマグロの遠洋漁業といった非日常の世界といったところでしょうか。本書は、そんな普段イメージすることすら希薄となっている日本の南、広大な太平洋に散らばる島々へ、戦前の日本人が押し寄せた理由の一つを教えてくれる本です。

アホウドリを追った日本人アホウドリを追った日本人」(平岡昭利 岩波新書)です。

本書を貫くストーリーの主役であり、続々と出ているフォロワーの始祖である、玉置半右衛門。あまり馴染みのない名前かもしれませんが、離島や南洋の島々に興味がある方なら決して外せない人物。

幕末の八丈島に生まれ、鳥島と大東島を開拓し、アホウドリと製糖で巨万の富を築きあげた、一代の梟雄。

本書は、その玉置半右衛門と、彼に連なる人々が南洋の島々に刻み込んだ物語を語っていきます。その目的は、南洋の島々にそれこそ溢れるばかりに生息していたアホウドリを絶滅の淵に追いやった事に対する告発。

彼と、水谷新六のような冒険的商人と、彼らに支援を与えた榎本武明の移民政策、彼らとの繋がりを得た、三井物産や、服部時計店(あのセイコーです)といった政商、更には日本初の農学博士でもある恒藤規隆といった面々が、アホウドリや海鳥たちの羽毛、はく製、そして彼らの残した糞が生み出すリン鉱石を巡って、人も住めないような劣悪な小島一つ一つさえ争うように争奪戦を繰り広げていきます。

物語は玉置の出生地である八丈島から始まって、鳥島、小笠原、南鳥島といった東京の南に連なる島々から、南北大東島、尖閣諸島、そして現在でも恒藤規隆が興したラサ工業が全島一括で私有するラサ島(沖大東島、現在は無人島)といった沖縄周辺の島々に広がっていきます。更に、現在の日本の領土の外に位置する南沙諸島や、マリアナ諸島、ミッドウェイ島や挙句の果てには、当時ですらアメリカの施政権が及び始めていた北ハワイ諸島にまで足を延ばして、海鳥の捕獲(密猟)が進められた物語が語られます。

この辺りの話まで来ると、当時の軍部の南方政策との関わり合いも描かれるようになり、第一次大戦中の秋山真之の南進論とカモフラージュの感すらある民業によるこれらの開拓、ドイツが持ち込んだリン鉱施設の接収から、第一次大戦後の南洋庁成立による国策による南方政策への転換への道筋も述べられていきます。

島々へのアプローチも、最初は冒険談的な物語が語られますが、次第に計画性を持った収奪や計画的?な漂流と座礁による無人島での海鳥の捕獲と積み出し、軍艦を用いた測量と占有の宣言、更には当時南洋に残っていた、存在疑念島(E.Dと地図には記載されます)の発見報告やこれらに対する開拓申請といった、詐欺師そのものの活動すら見られます(類書にある島の真偽を検討している論説に対して、作り話の根拠を検討していると、呆れるような発言をなさっている点は、本書が正に南洋を獲物とした山師たちへの告発の書であることを物語っているようです)。

そして、そのほぼ全ての島々で、海鳥たちの凄惨な撲殺、収奪が行われてきたことを、著者は静かな怒りを込めて述べていきます。その行為による統計上の数値は本書をご覧頂きたいと思いますが、本書を読むと、如何に膨大な海鳥たちを、易々と死滅させていったのかという点に戦慄すら覚えます。但し、巨利を得た山師たちの成果の多くが、外貨獲得という国策としての殖産興業の一環であった事は忘れてはならないと思います。

既に日本人の興味を引く事すら少なくなった、巻頭カラーを飾る美しいアホウドリの姿は極限までの捕殺により、もはや僅かとなり、表土を失って穴だらけの何も使えない土地となってしまったリン鉱石の採掘跡が残る南洋の島々。最後に著者は自らが名づけた「バード・ラッシュ」として、その地に多くの日本人が行き交っていた風景、その根源を、ただ貧しさからの脱出であると、感慨を込めて述べるに過ぎません。

膨大な収奪の上に、巨万の富と名声をを得た梟雄達に対する静かなる憤懣と、欺瞞への憤りを語る一方で、実際としての南洋の島々に渡っていった人々の物語が語られない事への些かばかりの残念さも感じながら、このタイミングで本書を上梓された事への想いを巡らせているところです。

アホウドリを追った日本人と類書たち本書をお読みになって、少々記述が不足している、もしくは若干見受けられる、著者固有の見解で描かれる部分を補完してくれる書籍たちを参考にご紹介。

殖産興業として、同じように南洋における海洋資源の獲得を目指して実際に乗り出していった、沖縄出身の方々の最後となるであろう生の記録を集め、その延長としての今に繋がる南洋との繋がりの物語を重ねた「かつお節と日本人」(宮内泰介、藤林泰 岩波新書)。外貨獲得の花形としての、シルク、羽毛と並ぶもう一つの高級服飾品として。日本に於ける真珠漁と養殖成功への物語、そして南洋も巻き込みながら世界を巡る高級宝飾品市場のダイナミックさを後半で詳述する「真珠の世界史」(山田篤美 中公新書)。本書のバックボーンとして理解しておきたい、南洋の島々を巡る人々の動きや存在疑念島の発生と消滅、島の領有に至る経緯を総括的に記した「地図から消えた島々」(長谷川亮一 吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)多くの登場人物がオーバーラップしますが、こちらは領土としての島を巡る物語が主体です。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。

今月の読本「かつお節と日本人」(宮内泰介・藤林泰 岩波書店)連綿と続く「南洋」への道筋

今月の読本「かつお節と日本人」(宮内泰介・藤林泰 岩波書店)連綿と続く「南洋」への道筋

読書好きな方ならご存知かと思いますが、「李陵」や「山月記」で知られる作家、中島敦は教科書編纂掛としてパラオ南洋庁に赴任していました。

この聴き慣れない「パラオ南洋庁」という言葉、戦前史を理解されている方ならご存知かと思いますが、第一次世界大戦によって戦勝国となった日本によって、旧ドイツ帝国が植民地化していた太平洋上の諸島群(ミクロネシア)を、国際連盟から委託されて統治していた(実質的には植民地)時代の現地政庁の一つです。

その後の第二次世界大戦(太平洋戦争)敗北により、信託統治領と呼ばれたこれらの諸島群はアメリカの管轄に移り、現在では独立、もしくはアメリカの準州、自由連合による管轄下の何れかに分かれています。

そのような経緯で、観光以外、戦後は日本との関係が希薄なように見える太平洋上の諸島群ですが、一方で、年に一度ほど「太平洋・島サミット」という言葉をニュース等で耳にされる方もいらっしゃるかと思います。日本が主宰する数少ない地域首脳会議の一つで、太平洋上の諸島群の多くが参加しており、外務省(及び日本財団)の強力な支援を受けている事が知られており、既に戦後60年以上がたった今でも、これらの国々に対して日本政府が影響力を維持しようとしている事が窺えます。

そんな微妙な関係にある太平洋上の島々の事情を見ていくと、所々で日本人や、日系人子孫の話題に巡り合うことがあります。今回ご紹介する本はそんな南洋の島々と我々日本人の食生活が深く結びついている事を教えてくれる一冊、「かつお節と日本人」(宮内泰介・藤林泰 岩波書店、岩波新書)です.

かつお節と日本人表紙の帯には南洋の島々を表す「4000キロ」とかつお節が商品として流通を始めてから(にんべんの創業を念頭に置いています)の年月を表す「300年」という二つの数字が並んでいて、双方をテーマ(歴史と漁業)にした書物であろうことが連想されます。

しかしながら、誠に申し訳ございませんが「300年」の方は本書にとってメインテーマとはなっていません。

確かに、にんべんの商取引に対する考え方やフレッシュパック発明による需要喚起と荒節へのシフト、ダシの元に対する化学調味料、醤油、塩分摂取懸念から生まれた天然素材=かつおダシの需要増大、山師と鰹節業者など、非常に興味深い内容もありますが、本題からの分離感がどうしても拭えません。出来れば別の一冊として扱って頂いた方が内容的にもすっきりしたかもしれません(そうなると本書はかなりコアな内容になってしまいますが)。

また、カツオ漁に関する興味をお持ちで本書を手に取られた方もちょっと肩透かしを食らうかもしれません。

そもそも2名の研究者の共著という事で、分担執筆されいるであろうことは想像できていましたが、著者がいずれも社会学系を専攻されている方であり、その分野も人文史学に近い系統ではないかと思われるため、必然的にいずれの分担部分も漁業、水産学や環境科学等とはちょっと毛色の違った記述となっています(この辺りの著述について、同じような身近な食品をテーマとして扱った、同じ岩波文庫に収蔵されている「ジャガイモのきた道」(山本紀夫)は民俗学と農学の双方を修めた著者による秀逸な筆致により、ジャガイモ世界巡りを軸に置きつつ、双方のテーマを違和感なくコンパクトに纏め上げられているのが印象的でした)。

そう、本書は鰹を軸に「南洋」に進出していった戦前の日本人、それも沖縄の海人たちの今日までの姿を追ったドキュメンタリーではないでしょうか。

このように紹介しておかないと、プロローグでいきなり日系人とインドネシア、南洋諸島のお話からスタートするので、頭から鰹節の話を期待して読んでいると、真っ先に振り落とされそうになります。

もちろん、本章に入れば、所謂「土佐節」の物語から始まって、明治以降、全国に広がっていった(浦河で鰹節という非常に興味深いお話も)鰹節生産の話が始まりますので少し落ち着いて読むことが出来るのですが、皆さんが期待するような焼津の話は殆ど出てきませんし、枕崎や山川のお話は最終章までお預けです。あくまでも話のテーマは鰹節の中ではマイナーと言ってよい、沖縄、そして南洋諸島へ誘われていきます。

他の地域に遅れて鰹節産業が立ち上がった沖縄が他の漁場と大きく異なったのは、後進地故に漁師の分業が進んでいなかった点と、所謂「宝石貝」の漁労の為に素潜り漁に対して非常に素養があった点を筆者たちは指摘します。その結果、カツオの好漁場が発見された南洋において、沖縄の漁民たちは既に鰹節産業が勃興していたために必要が技量を習得しており、少ない人員の中で一本釣りを行いながら、同時に素潜りや網漁の技量が必要となる餌となる小魚漁を同時に手掛けられる「器用さ」が重宝された結果、他の鰹節生産地を遥かに凌ぐ南洋進出の大きな契機になったとしています。

その結果、多くの沖縄漁民が南洋の島々や隣接する東南アジアに散らばっていくのですが、ここでも旧来型の組合員同士、又は個人船主と漁労者がお互いを呼び合うように結びつきあいながら(時にはより良い条件の漁場に移りながら)当時の政府による南方政策に呼応するように広がって行った事を、著者たちは生き残った多くの旧漁民たちへの聞き取り調査で解明していきます。

そして、膨張政策の末に生じた太平洋戦争によって、南洋の新天地に広がっていった沖縄漁民たちは、ある者は軍属に、ある者は軍への納入物を確保する為に漁師として、ある者は後方支援や引き上げと、それぞれの道を歩んで行く事になりますが、聞き取り調査の結果はいずれの道を歩んだとしても殆どの場合、悲惨な末路を迎える結果となるのは、戦争故の過酷さをまざまざと見せつけられます。

戦後、南洋の島々(そして一時的には沖縄自身も)は日本の施政下を離れますが、鰹漁自体が無くなった訳ではなく、熾烈な沖縄戦を生き抜き、または各地から引き揚げてきた沖縄漁民たちは再び南洋へと出漁していきますが、鰹節産業自体は産地の集約化が進み、沖縄での鰹節生産は終焉を迎えます(この終焉と鰹節生産の系列化、素材産業化の連動についての考察は欲しかったところです)。

一方で、南洋の島々や東南アジアに残った設備、漁法は一度は廃れてしまいますが、「フレッシュパック」商品化成功による鰹節の大量消費に支えられて、再び復活を遂げることになります。そう、明治以降に沖縄から台湾、そして南洋諸島産の鰹節が市場を席巻したように、今度はフレッシュパック向けの「花鰹」の原料が続々と日本に送り込まれることになったのです。

そして彼の地に子孫をも残してきた我々の日本人の元に、プロローグで述べられるように再び「日系人」として彼らが働きにやってくる…。現代の日本人がもはや忘れてしまった「南洋」の物語は李陵のように彼の地に根付きながら、また新たな物語を綴りつつあるようです。そう、司馬遷のように故郷で想いつづける人はもはや僅かとなり、彼らが鰹節とは既に何も関わりがなくなってしまったとしても。

<おまけ>

これまで扱ってきた本の中で、海産物や魚にまつわるテーマの本をいくつか。

  • 鰹と並ぶダシの原料でもある永平寺御用達の昆布問屋さんが語る昆布と出汁の美味しい物語「昆布と日本人
  • 本書と同じような文化史をメインに置いていますが、より水産研究分野に振った一冊「ウナギの博物誌」と魚を扱った本達の紹介
  • こちらも文化史的な内容も含まれていますが、より幅広いテーマについて研究紀要的体裁で纏められた一冊「サケ学大全
  • 文化史的な側面より魚類として分類に重きを置いた一冊。脂鰭に魅せられてしまった著者達の一般読者向けの集大成「サケマス・イワナのわかる本
  • 前著と同じようなアングラーの方が執筆していますが、山間部における生活史を全面に押し出した、今やほとんどいなくなった川の職漁師の実態や山での生活を取材した貴重な一冊「職漁師伝
  • 鰹でも既に問題となっている漁業資源枯渇に対する対策を、水産バイヤーの立場から具体的事例を交えて語った異色の書。漁業は必ず復活する「魚はどこに消えた?
  • 全国のカツオ漁船が集まってくる有数の港、気仙沼港に台風が襲来する夜だけ訪れる、ひと時のにぎわいと人間模様をコミカルなタッチで捉えたTVドキュメンタリー「嵐の気仙沼」の紹介と東日本大震災後についての記事はこちらのリンクより