今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

実質的には長く鎖国状態にあった江戸時代の日本。それにもかかわらず、幕府も各藩も、更には民衆ですらも開国後の急速な海外から流入する言語や文化、道具や技術に柔軟に対応したように見えます。享保の改革以降に禁書政策が弛められた成果が大きい事には論を待ちませんが、それらの書籍を使いこなし、実際に自らの力に変えていった多くの人々によって、その素地が培われていたはずです。

今回ご紹介するのは、珍しい切り口でその伏流の一端を伝記として語る一冊「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)です。

まず、著者の珍しい経歴に驚かされます。ニコラ・テスラ(エジソンと直流/交流送電で争った人物、磁束密度の単位Tの元になった)の日本における顕彰活動を続けている方、およそ本書の執筆内容と異なるような感覚もありますが、時代背景的には同じ産業革命から近代工業が勃興する時代に生きた人物。チャールズ・バベッジ(階差機関の発明者)を扱った著作もある、近代初頭の工業技術に関して、造詣が深い方です。魅惑の付録が発売の度に大きなおともだちの心(とお財布)を鷲掴みにするシリーズのWeb版、学研が主宰する「大人の科学.net」に連載した記事に、登場人物を大幅に増やして書籍化した一冊。その人物選定には、前述の経歴がいかんなく発揮されています。

  • 関孝和
  • 平賀源内
  • 司馬江漢
  • 志筑忠雄
  • 橋本宗吉
  • 高橋至時
  • 国友一貫斎
  • 宇田川榕菴
  • 田中久重
  • 緒方洪庵
  • 川本幸民

出生年別に並べてみましたが(冒頭に年譜が付いています)、知らない人ばかりで、なんで有名なこの人が居ないのと首をかしげる方が多いのではないでしょうか。一方で、著者の略歴を踏まえ、その連載元のテーマをご存知の方であれば、納得の人選がラインナップされています。

その選定には学者や文人というより、むしろ技巧派揃いの職人列伝といった雰囲気が濃厚に漂います。内容のほうも人物伝と言うより「学研 おとな偉人伝」といった筆致で綴られており、時折称揚が過ぎたり、筆が上ずり気味なくらいにのめり込んで綴られる内容に、少し微笑ましくなってしまう事もあります。特に田中久重、国友一貫斎といった技巧派(からくり師)を扱った部分は特にそのような感触が強いですし、平賀源内や司馬江漢に対する技巧者を越えて先取りしすぎたプロモーター的な人物への強い情景、橋本宗吉の紹介に至っては、完全に著者によるオマージュで綴られます)。

個々の人物像に惚れ込んでいないとなかなか描けない熱のこもった筆致。それ故に、要所では突っ込んだ内容も描かれますが、全体としては読物風な内容に留まる点は致し方なところもありますし、表題だけを見て手に取られた方にはその人物選定を含めて物足りなさが感じられるかもしれません。

しかしながら、本書を通して読んでいくとある点に気が付かれるはずです。本文中ではテーマごとに並べられていますが、時代ごとに彼らを並べ、その書かれている内容、繋いできた知識、著作、人物関係を俯瞰していくと、幕末から明治に至るまで、綺麗に彼らの系譜が繋がっていく事になります。登場する彼ら一人一人が直接的に出逢っていた訳ではありません。現代より遥かに交通事情が悪く、情報伝達や出版事情に至っては雲泥の差があった江戸時代。僅かな伝手や人と人を繋ぐネットワーク、表現が良くないかもしれませんが「徒弟制度、学閥、閨閥」といった人の繋がりの中で脈々と受け継がれてきた技術や知識が、当時の学問的共通基盤、儒学をベースに普く彼らの中で行き渡っていった先に、明治以降の海外からの文化、技術の受け皿としての素養が育まれていた事がはっきりと判るかと思います。

彼らが活躍する源泉となる情報と文物のネットワークを構築し、先進的な思考を伝えるプロモーターとしての役割を果たした源内と、そのネットワークに学問と言う重み付を与えて、現代の大学制度に至る教育を通して技術者を生み出す基盤を作り上げた洪庵。その中を埋めていく、特異な技量と旺盛な好奇心、不断の努力で技術水準を上げていった江漢、宗吉、一貫斎、久重。学問的な素地を高めて、鎖国や言語と言ったハンデを乗り越える足場を築き上げていった孝和、忠雄、至時、榕菴。そして、現代の科学技術への橋渡し役を務めた幸民。

江戸時代を通じた、彼らが培った技術とネットワークの蓄積に思いを馳せるとき、どんな情報でも瞬時に集められる現代の我々が見失ってしまった本当の価値が見えて来る。本書の元となった「大人の科学」シリーズが標榜するテーマとも交差する、その原点を見つめ直す一冊です。

 

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今月の読本「こころはどう捉えられてきたか」(田尻祐一郎 平凡社新書)儒学が語らないテーマの研鑽から独自の思想開花を見出して

今月の読本「こころはどう捉えられてきたか」(田尻祐一郎 平凡社新書)儒学が語らないテーマの研鑽から独自の思想開花を見出して

儒学、儒教と読まれる方もいらっしゃいますが、本屋さんに行くと溢れるほどに並んでいるビジネス本や処世術を扱った本と、誰も近づかない思想史の棚で埃をかぶっている研究書や解説書との扱いの差の大きさに、何時もながら驚かされれます。

どちらがどうこうというつもりは無いのですが、そもそも日本人にとって儒学とはハウツーの類に位置する(私もそうかも)、そんなものなのかもしれません。では、もう少し歴史を遡って儒学(朱子学)が正当学問として扱われていた江戸時代の場合はどうだったのでしょうか。大量に本屋さんに並べられたハウツー本が仰々しく問うテーマは、何時の時代も同じような悩みを持っていたはず。そんな疑問点に柔らかめに応えようという一冊をご紹介です。

こころはどう捉えられてきたか今月の読本、「こころはどう捉えられてきたか」(田尻祐一郎 平凡社新書)のご紹介です。

平凡社新書は、毎月のように膨大に送り出される新刊新書シリーズの中でも、ちょっと硬派であったり、思想、哲学系に強いといったイメージを持たれるシリーズだと思います。本書もそのシリーズのテーマに沿った内容、著者も東海大学で近世思想史の教鞭を執られている方です。本書もその延長で、優しく江戸時代の思想史を解きほぐしてみましょうというテーマ(平凡社の雑誌「こころ」の連載記事が底本)に基づいて執筆されています。

思想史と書かれていますが、江戸時代に当該分野を担ったのは儒者と呼ばれる人々であったり、前述のようにすべての学問(医療や農学すら)の根本が儒学であった時代ですので、本書には多くの儒者の方が登場します(本当は僧侶も含まれる筈なのですが、本書ではほとんど語られません)。かなり丁寧にその辺りの系譜は説明が加えられていますが、抵抗感のある方にとっては冒頭から読むのが結構辛い事になるかもしれません。特に後半の仁斎、徂徠、宣長を扱った章では、著者自身がハードルを上げていると述べている事もあり、江戸文化史程度の事前知識ですと、ちょっと戸惑うことになるかもしれません。

江戸の儒者が総登場する本書が語るテーマ「こころ」。このテーマと登場人物を比べておやっと感じられる方もいらっしゃるかもしれません。鬼神を語らずという言葉を残した孔子の系譜を継ぐ儒者たちにとって、それらは語るに足らない事であったはず。本書は敢えて、その語らない筈の内容を江戸の儒者たちがどのように理解していたのかを突き合わせていこうという主題を置いています。鬼神、鏡と虚といった老荘に始まり道教や禅に由来する思考、そして自由、恋、愛…。一般的な儒学の解説書でもやはり語られない内容に対して、江戸の儒者たちがどのような解釈で挑んだのか、そして学問上のライバルたちが彼らの理解をどのように批判(時に攻撃)していたのかを、学統を含めて解説を加えていきます。

大陸の儒学が語らない内容。でも実際の生活にとっては身近なそれらの問題を解釈するために、本来の儒学とは異なる禅の思想であったり、阿弥陀教の信仰心や、伝統的な神仏混交の信仰心、伝説に依拠した解説を組み入れて理解していこうとした江戸の儒学者たちの姿と、その姿勢に対して明らかに批判を唱える儒学者たちの衝突を描くことで、初めて日本に思想と呼べる研鑽が生まれた事を見出していきます。

後半に登場する、江戸文化を代表する3人の著名な人物。ここでは既に思想家という言葉を使ってよいのかもしれませんが、著者が用意したこれら儒学が語らないテーマに対して彼らがどのように解釈したのか、その個別のアプローチを捉えていきます。

形を有さず、常に人を惑わす「こころ」という存在。仁斎の現在の日本人にも内面的に求められ続ける他者を慮りながら適切な距離を作り続けるというスタイル(その後、神道に傾倒する起源も)。一方で徂徠はそんなものは社会性が規定するもので、個々人の問題ではないと切り捨てる(正当な儒学の受容を徹底的に追及し、その社会性を規範するのは為政者であるという儒者の根本は外さない)。更に宣長に至っては、そんなものは移ろいゆくものであり規定すらできないと突き放す(もちろん医師であった宣長にしても儒学を具えており、その先に古典、古事記を読みぬく際の思想を重ねた結果として)。まるで現代の議論を見ているように纏めてられてますが、それはやむを得ない事。更に、本書で語られる儒学を規範として日本人の思想であったり文化にどのように定着していったのかという議論を続けていくと、それは宗教であると、現在であれば加地伸行先生の議論に行ってしまいそうなので(正直に言うと加地先生の著作は苦手なのです)。

一方で、これらの思想の展開に対して、仁斎や宣長(実際には徂徠も影響を受けている)の延長に国学の勃興を重ねて、儒学を脱却して国学に着目したことにより、日本が初めて儒学に基づいた思想から脱却した新しい思想を得るに至ったように見える筋書きを匂わせている点は、ちょっときな臭い感じもしてきたのですが、どうもこの部分は山本七平氏の著作にみられる流れと同じ伏線で書かれているようにも見えてきます。

江戸の儒者たちが挑んだ人のこころに対する解釈の問答とその変遷を綴る本書。実は読んでいくうちに、そのような想いに対して、全てを突き放して自らと外界との繋がりに向き合い、更には儒学の規範にすら疑問を呈することを良しとし、本質をひたすら追い続けようとした佐藤直方の思考に強く惹かれてしまったことに、如何にも私も現代人だなぁと、正直に述べておきます(入手可能な纏まった本が無いのが残念)。

<おまけ>

本書に関連する書籍を本ページよりご紹介

今月の読本「森と日本人の1500年」(田中淳夫 平凡社新書)「森林学」教養課程から眺める美しい森への道程

今月の読本「森と日本人の1500年」(田中淳夫 平凡社新書)「森林学」教養課程から眺める美しい森への道程

追記(2014.10.31):著者の方が、本書の解説記事を公開されていらっしゃいます。

あてにならない下記文章をご覧頂くより、こちらをご覧頂ければと思います(直接のご指摘、誠にありがとうございました)。

上記ページでは、著者の他の著作を含めて、序文および、目次を見る事が出来ます。

 

今回ご紹介する一冊は、いつもご紹介する歴史や生き物の本とはちょっと違うラインの本をご紹介します。

山懐に近い場所に住んでいると、切っても切り離せない森林。その森林をテーマに本邦唯一とも称されるジャーナリスト活動を行っていらっしゃる著者の最新作からのご紹介です。

森と日本人の1500年森と日本人の1500年」(田中淳夫・平凡社新書)です。

本書は表題にありますように、日本の森林に関する歴史を叙述しているように見えますが、実は多少異なります。

実際には、本書では森の話=林業の話と置き換えて理解する必要があります。

こんな風に書くと、日本は世界有数の天然林の宝庫なんじゃないですか?里山の自然や山中に広がる天然林の更新に関する解説書じゃないんですかと、疑問をぶつけられてしまいますが、この認識に対するかい離の補正から本書はスタートしていきます。

日本には天然林なんて殆ど無い事、そして皆さんが写真や映像、そして散策、登山で見かける森林の殆どが実質的に明治以降(もっと言えば戦後でしょうか)に再構築された人工林の変化の途上である事を解説していきます。その過程において、日本の森林は常に人手が加えられ続けられていた事=林業の存在を知ることになります。

従って、森林そのものの役割や自然科学的な成立のお話を期待されている方には、残念ながら語られる内容がかなり異なることを理解する必要があるかと思います。その上で、本書は林業とそれに関わる森林の変化の過程について明治維新を境界線として、それ以前とそれ以後という、大きく二つのセクションに分けて解説していきます。

明治維新以前の林業の話は、史料的な制約もあってごく限られた内容に終始します。したがって、歴史的な林業の形態や所謂「江戸時代は日本中はげ山だった」という話の詳細は本書ではあまり語られません。むしろ、本書は明治維新以降の新政府の林業政策、主にドイツからもたらされた林業論と日本での咀嚼と適用、そして著者のフィールドでもある吉野林業に関わるテーマに多くのページを割いています。

本書が最も力を入れて書いている明治維新以降の林業と林学ですが、この部分については若干理解に苦労を要する個所でもあります。登場する人物や林学のテーマ、特に景観論や人工林の更新に関する手法の記述について、著者にとっては当然の事実なのですが、一般的には無名もしくは、殆ど知られていない内容と思われるにも関わらず、既知の事として叙述を進めている感があります。この部分での置き去り感はかなり強く感じる点で、一般書にもかかわらず、著者の著作を複数読まれている方、ないしは当該知識を習得することを前提にした方へ向けて書かれている「教科書的な」筆致が感じられます。

そのような専門的かつ、やや一方通行的な著述が続く中盤ですが、最後の章に入ると一変して、新聞等でも話題に上る、現代の森に関する様々な取り組みの話に展開してきます。本書を読まれる方が最も興味を持たれる部分かも知れません。

そこには、最新の森にまつわる活動や新たな森の活用法など、森そのもののハード面より利用法、活用法といったソフトウェアに関わる事例が述べられていきます。昨今盛り上がりを見せるテーマではありますが、そこはジャーナリストの矜持として、決してバラ色の未来ではない事を明確に述べていきます。ボランティア活動の限界についても、国産材の普及も掛け声とは裏腹に、絶望的な問題点がある事を示していきます。

その中でも、著者はバラ色ではなくても、現在よりも少しでも良い形になる方策はないのかと自問してきます。その実例として、著者があとがきで述べている自らの土地で手掛けている森作りという実験的実証とともに、「美しい森づくり」という言葉を用いて、理想的な人工林の姿を模索していきます。それは、前述のヨーロッパから伝来した林学の最新形態かもしれません。むしろ、明治以降最近まで継続していた里山の管理手法なのかもしれません。

どちらにしても、その森は自然の力を借りながらも人手によって作り変えられ続けるもの。本書はちょっとロマンチシズムも加わった、これから「美しい森」を作り、育むことを目指す方々への、事前学習としての一冊なのかもしれません。

なお、本書を手に取られる方で、森林の自然科学に対するもう一方のテーマとして、環境問題の一分野としての森林破壊や、野生動物による食害、防災の観点等での日本の森の歴史を語る本と捉えられる方もいらっしゃるかと思いますが、本書ではそれらに類するテーマは実質的に取り扱わない方向で編纂されているようです(ボルネオ等、海外の事例は引用されています)。

<おまけ>

本書は所謂ガイダンス本として捉えるべき内容ですので、個別の章に関してご興味がある方へ、近著で数冊ご紹介します。

  • 日本の森林の歴史や、森林の防災面の効用、課題などにご興味がある方には、「森林飽和」(太田猛彦・NHKブックス)がお勧めです。明治以前の日本の山林は丸裸だったという議論に驚かれる方も多いかと思いますし、防災面における植林の問題点も非常によく判ると思います
  • 江戸時代までの林業の実態について、森林管理という点を含めて広範な内容を解説しているのが「森林の江戸学」(徳川林政史研究所編・東京堂出版)です。吉野林業を主たるテーマとしている著者は、本文中でその実施に疑問を呈していますが、名古屋藩徳川家が管轄していた木曽の林業の姿や販売、山村での生活まで、極めて丁寧に解説されています。ちなみに、何故か道の駅、遠山郷でも本書は売ってたりします
  • 本書でも語られている東大寺の大仏殿の再建。何故遠く九州や山口県まで用材の調達を行う必要があったのか、勧進聖の苦労と限界、時の為政者によってのみ大規模木造建築が築造できることを本書を読んで頂くと判ると思います。東大寺管長であり、昭和の大修理にも携わった当事者が、歴代の東大寺大仏、大仏殿建立にまつわる物語を語る「大佛勧進ものがたり」(平岡定海・吉川弘文館)
  • 最終章の最新の林業、森にまつわる話題に興味がある方には、こちらを読まれるとより一層思い入れが深まるかと思います。実際に森に関わる仕事に就かれている方へのインタビューを、同じように森を活用したビジネス、研究を行われている方が行って一冊に纏めた「森ではたらく!27人の27の仕事」(古川大輔、山崎亮編著・学芸出版社)
  • 残念ながら著者が最も力を入れて書かれている、明治から戦前期にかけての林学や林業の記述に関する補足すべき本を持ち合わせていません。著者の作品からセレクトするのが最も良いかと思いますが「森と近代日本を動かした男 ~山林王・土倉庄三郎の生涯」(洋泉社)はどうやら絶版のようで、何らかよい本が無いものかと…

森と日本人の1500年と参考図書春日渓谷の紅葉20141012_2

今月の読本「魚で始まる世界史」(越智敏之 平凡社新書)キリスト教とシェークスピアを軸に描く、イングランドと二つの大衆魚の物語

今月の読本「魚で始まる世界史」(越智敏之 平凡社新書)キリスト教とシェークスピアを軸に描く、イングランドと二つの大衆魚の物語

食べ物の歴史や風物を扱った本は、どれも楽しいのですが、特に海産物好きにとっては魚を扱った本は正に「好物」。

今回はそんな好物の一冊をご紹介。この手の書籍の著者としては異色中の異色といっていいのではないでしょうか、英文学、特にシェークスピア研究家の方による、ヨーロッパ、いや西洋全般のおける大衆魚の代表格である二つの魚をテーマに置いた「魚で始まる世界史」(越智敏之 平凡社新書)です。

魚で始まる世界史

最近の新書ブームで色々な出版社さんが新書(文庫)を出されていますが、その中では後発の平凡社新書。大先輩の講談社現代新書が最近採りつつある、専門性より読みやすさを重視したテーマ選定と編集、ちくま学芸文庫に見られるようなちょっと哲学的(または西洋文化的)なテーマを併せ持つこの新書シリーズ。

本書もその例に漏れず、単純に漁業や魚にまつわる文化史を語ろうという内容ではありません。

歴史的著述の側面に著者の専門分野であるシェークスピアや演劇のエッセンスをふんだんに取り入れて、それらの舞台演出装置として二つの代表的な大衆魚をテーマに採り上げようという、一般的な歴史書とも文化史とも違う、著者独自の視点による歴史著述が展開されます。

従って、本書では日本の漁業については一文たりとも触れられませんし、現在問題となっている北大西洋での彼らの資源枯渇の話も一切出てきません。そのような意味で本書の表題にある「世界史」という表現は、所謂西洋文明的な観点での世界史、それも取り扱われるのはアメリカ独立戦争期までの時代に限定されます。更に突き詰めていくと、1,2章で取り扱われる宗教的な魚食の意味合いの解説を除けば、その殆どは英国史(イングランド史及びニューイングランド入植史)を軸にした記述である事に理解が必要です。

そのような前提を理解したうえで本書を読み進めてみると、なるほどこの二つの大衆魚が与えた社会的インパクトの大きさと、最終的に新世界(アメリカ大陸)への進出のドライビングフォース、独立戦争まで続く一連の歴史の流れにこれらを綺麗にはめ込んでいく、著者の鮮やかな筆致は見事なものがあります。

キリスト教と断食に関わる「温かい食べ物(肉食)」と「冷たい食べ物(魚食)」などというテーマは、日本で読まれる魚を扱った本ではまず出てこない内容ですし、それがイギリスでの経済問題にまで発展するという展開は、ヨーロッパ中世史をあまり知らない私などから見れば驚きの連続。そこにハンザ同盟のニシン流通路掌握や、オランダのニシン市場の制圧(品質には疎いイングランド人の特性がこの時代にも)といった経済的な話を絡めつつも歴史的な流れを叙述していきますが、その扱われ方も、市民による「貶され方」も、あくまでも視点はシェークスピアの国、イングランドを中心に記述していきます。

貧者の食料の代表であったニシンとタラ。どちらも保存性の極めて高いタンパク源であったのと同時に、「海が湧きたつほど」とも形容された沿岸に大挙して押し寄せて産卵する習性から、大量捕獲が可能であった数少ない魚類である彼らが、肉類中心の食生活と思われがちな、ヨーロッパの中世史の底辺を支える貴重な食料であったことが本書を通じて理解できると思います。

そして舞台は「新大陸」に移っていくわけですが、この大冒険旅行を成立させるために最も重要な食料であったのが他でもない、赤道を腐らずに渡る事が出来た動物タンパク源である干しダラ(いわゆる棒ダラと塩ダラ)だったことになります。二つの魚たちのおかげで、西ヨーロッパ史の世界史化ともいえる大航海時代、更には大英帝国の世界への扉が開かれたことになります。

タラによって切り開かれた海路の先に広がる、新大陸における膨大なタラの資源は、新大陸への新たな移民の波を生み、プランテーションへの食料供給という三角貿易による膨大な利益と、奴隷という名の大きな大きな負の遺産を後に生み出す結果となります。そして、ここで再び見せる島国イングランド漁民たちの(荒っぽい)特性が、これまでも複雑な思いを抱きながら有してきた「自由の海の自由な漁業」の思想を更に育み、その先に広がる「力による自由貿易」すなわち、アメリカ合衆国の成立に繋がると著者は看破していきます。

マサチューセッツ州下院議会に掲げられているタラの像が独立の精神の今に伝えるように、漁師たちの独立心と自由溢れる冒険心、そしてそれを後押しする流通システムこそ、現在の世界を網羅する自由主義経済活動の原点なのかもしれません。

<おまけ>

その1.本書でも取り扱われている、ニューイングランドの今の風物と当時の雰囲気を繋ぐ興味深い紀行文を扱った一冊をご紹介

その2.本ページで扱っている他の魚類、食べ物の話題の書籍を