今月の読本「通信の世紀」(大野哲弥 新潮選書)暗号と傍受、国家と官僚。岩倉使節が直面した課題は今も海底ケーブルの先に

今月の読本「通信の世紀」(大野哲弥 新潮選書)暗号と傍受、国家と官僚。岩倉使節が直面した課題は今も海底ケーブルの先に

インターネットの普及によって、世界中の情報を動画や音声、画像、テキストで簡単にやり取りできるようになって既に20年近くが経過しますが、それ以前の我々は、どんな形で世界とコミュニケーションを取っていたのか、覚えていらっしゃる方は少なくなってしまったかもしれません。

島国であるこの地に住む人々にとって、海の向こうと情報をやり取りするためにはどうしても必要になる「通信」。こちらのリンク先(GISで有名なesriジャパンのサイトです)をご覧頂くと驚くかもしれません。少し前の時代ですと、人工衛星による中継と言うイメージが強かった海外との通信ネットワーク。実は世界中に張り巡らされたこれら海底ケーブルにより殆ど(90%以上)が賄われています。

海の向こうと通信を行うためには必須となる無線通信と海底ケーブル。インターネットが世界を変えると叫ばれて久しいですが、そのインフラとなる海底ケーブルの敷設と運用、国際通信こそが近代日本の歴史を左右したことを力説する一冊の紹介です。

今回は「通信の世紀」(大野哲弥 新潮選書)のご紹介です。

本書は副題にあるように明治維新以降直近までの日本における海外との通信網整備の歴史過程を綴りますが、内容は大きく3つに分かれています。

明治の近代化に伴う海外との通信路確保の物語から始まり、戦前の短波通信と無装荷ケーブルへと至る変遷を綴る前半。戦後の占領政策による独自通信網の喪失から高度成長期の海底同軸ケーブルと衛星通信による回線増強、そして光海底ケーブルとインターネットによる爆発的な通信量の増大へと至る後半。メインとなる日本における通信の歴史に挟み込まれる中盤で、本書の白眉となる日米開戦における、所謂対米最終通告の遅れがなぜ生じたのか、数多ある検証に対する著者独自の検討による検証過程の解説が述べられていきます。

著者はこの手の書籍としては珍しい経歴をお持ちの方です。KDDIの前身となる旧KDD(戦後の国策により電電公社と共に設立された、1985年まで実質半官半民で国際電話/通信を専門に扱っていた、国際電信電話株式会社。最近はこのように書かないと判らないですよね)に所属され、学位を取られ、非常勤講師などを務められた後、現在は企業の代表に就かれています。主に広報畑にいらっしゃったのではないかと推察されますが、近現代史や技術系の研究者、企業の技術畑の方とは異なる感触を受ける筆致。そのためでしょうか、本書に技術的な側面での議論を求めるのは酷な話となりますし、通史としての歴史的な著述もかなり限定されます。

代わりに本書で述べられる事、それはビジネス書ライクで国家と通信という施策を綴る視線の背後にある諜報と言う側面を、国策会社出身者らしい行政と交差する視点で描き出していきます。

岩倉使節の訪米に関する電信から始まる冒頭。このエピソードに本書のテーマほぼ全てが集約されています。

サンフランシスコに到着した岩倉使節から送られた到着報。その連絡は大陸を渡り大西洋をケーブルで横断し、ロシアの大地を抜けて僅か1日で上海、そして日本で海底ケーブルが初めて敷設された長崎へと届けられます。30000kmを伝わった英文電報。実は長崎から西郷たちが留守を詰めていた東京に届くまでには何と10日を要するという、絶望的な内外格差を見せつけられることになります。

世界を海底ケーブルで結び始めた電信網。大英帝国が威信を賭けて整備を続けたオール・レッド・ルートに対抗する形で敷設されたグレートノーザンのユーラシア横断ケーブルの末端に、大陸との独占通信権を見返りとして繋げられた日本。既にこの時点から外資による通信利権の掌握が始まります。


この権益維持は変更を加えられながら幾度もの戦争を挟んで何と1969年のルート廃止まで続きます。なおグレートノーザンは近年通信事業から撤退しましたが、今ではヨーロッパの小国であるデンマークが本拠と言う点も非常に興味深いです。本書でも度々登場する、無装荷ケーブル生みの親であり、その後も日本の通信、放送行政に多大な影響を行使した松前重義がデンマークの教育制度を自らが興した大学に用いようとした遠因もこの辺りにあるでしょうか。


条約改正のごたごたに巻き込まれた結果、海外に長く留まる事を余儀なくされた岩倉はその間の経験から電信による圧倒的な情報伝達速度の速さに括目する一方、中継地点での陸揚げ、陸上でも中継、受電の度にその電文から交渉内容を容易に解読されてしまう事を指摘されます。情報漏えいを防ぐ必要に迫られた岩倉は、帰国後に整備された国内の電信網を使う時に自ら暗号表を手元に置きながら西南の役における電信を受け取っていた事を、残された暗号表(何と円盤型、岩倉が慎重に保管し自らくるくる回して電文を読んでいたと想像すると実に興味深いです)の存在から示していきます。

始まりから国益を担う役割を半ば使命としてきた海外との通信事業。その結果、通信自体も行政が担う一方、海外との通信路の開設(ケーブルの引き上げ場所、長波、短波通信の周波数帯割り当て、そして通信権益の配分)では国家を前面に出した交渉となるといきなり帝国主義の激突となるため、緩衝材としての民間通信会社が求められるようになります。特にラジオ放送についてはご承知のように諜報活動の一端を担う一方で会社組織として運営されていた事から、第二次大戦最末期の日米両ラジオ局による奇妙な邂逅、その先にポツダム宣言受諾の探り合いを含ませていた事も紹介していきます。

民間の皮を被って国家と官僚達が剥き出しの国家戦略を繰り広げる国際通信の舞台裏。その事実を象徴する事例として、著者は日米開戦における外務省と在米大使館との秘密電報の授受の過程をアメリカ側が傍受していた膨大な記録と突き合わせて厳密に検証し、その致命的な問題点を見出していきます。

前述のように国家間の通信の場合でも、各国の通信会社が相互で電信をやり取りするため、日米開戦に関する大使館宛の秘密電報も民間通信会社(RCAおよびマッケイ)無線局から緊急指定の場合、昼夜を問わずバイク便で届けられていたという事実にまず驚かされます。その結果、既に暗号を解読していた米軍が無線傍受で文面を把握するより遥かに遅れて大使館側が暗号解読と清書に取り掛かるというギャップを生み出します。更には、これらの電文に対する暗号が破られていた事をうすうす把握、指摘を受けながら、日本が独自に開発した最新鋭の暗号機であることに慢心して暗号のパターンや暗号機のアルゴリズム変更を行わなかった外務省に厳しい目を向けていきます。

情報伝達を他者に委ねざるを得ない実情。伝達に対する時間軸の認識や人為に頼る緊急度の表現判断が甘かった外務省と開戦への危機感が薄く受け入れ体制を緩めてしまった大使館側のミスコミュニケーション。それらをカバーするはずの技術、運用面に対しての無理解と極めて打算的な態度を示した結果、戦後の極東軍事裁判に於いても無通告開戦を行ったと痛烈に非難される、取り返しのつかない高い代償を払わされる結果となったと著者は厳しく指摘します。

著者の官僚達への痛烈な批判意識。それは戦後体制で生まれた国策会社であるKDDの設立から今に至るまで根深く続く、通信行政における間接保有による人事権支配や行政指導と言う名の事実上の指揮権行使に対する深い疑念から生まれて来るようです。本書の後半は、設立からインターネット全盛となってその存在が薄れつつある中にある日本における戦後の通信会社趨勢を辿っていきますが、その大半は郵政官僚と政治家、巨大な権益を有するようになった旧電電公社グループとの駆け引きの歴史が綴られていきます。

私にとっても実体験として過ごしてきた時代が含まれる話。此処でもインテルサットの国際協調と正反対の動きを見せる電電公社の分割民営化や国際通信の外資開放への圧力、更には携帯電話方式への干渉と、通信事業はグローバル化が叫ばれるほどに、国と国の激しい権益争いの表舞台に立つ命運にあるようです。


モトローラ方式と言って、判る方は少ないでしょうか。StarTAC誕生から22年だそうで、本書でも詳しく言及されていますが、エリアも狭くて電池も持たないアナログのStarTACが外圧で東名阪でも使えるようになったので、わざわざデジタル(NTT方式)から機種変更したのも懐かしい。トヨタがアメリカで稼いだお金をIDOの方式が重複する設備投資に投下する事で相殺関係を演出したと。


行政と国家間の権益や更に先鋭化したインターネット時代の諜報における通信と国家の干渉と言う耳を塞ぎたくなる話題が続く後半ですが、その中でKDD出身者として是非添えておきたい話があると云わんばかりに挿入されるエピソード。

海底光ファイバー実用化の先陣を飾り、現在のインターネット興隆の礎を築いたのは、今でも世界的なシェアを占める旧電電ファミリーと呼ばれた企業群の技術開発力と、KDD並びにパートナーシップを結んだ海外通信会社との協業の賜物である事を称賛し、そのインフラ設営の先陣に立った、今でも貴重な通信会社が自社で所有する大型ケーブル敷設船、フラッグシップを務めるKDD丸を少し誇らしく紹介する著者。


現在でもKDDIの子会社である国際ケーブル・シップがKDDIオーシャンリンク(10000tクラスの大型船です)とKDDIパシフィックリンクの2隻を運用、昨年から次世代のフラッグシップを担うKDDIケーブルインフィニティを建造中です。


最後に著者が述べる様に、広大な海洋をケーブルでつなぐ電信から始まった国際通信は既にありきたりなインフラとなり、通信におけるイニシアチブ争奪戦はラスト1マイル(更にはIoTなのでラスト100mですね)へと進んだことで、AT&TやC&Wといった往年の国際通信を担った国策会社達は見る影もなくなり、海外との通信という意識すら希薄となった昨今(ここでNTTが倒れずに生き残っている逆説的な指摘も)。もはや通信会社は「土管」で、その上でサービスを展開する企業たちが主役になったように見えてきますが、本書を読まれる方であればご承知のように、そのサービスを展開する会社達が競って海底ケーブルの敷設に躍起となり共同出資メンバーの筆頭に掲げられるようになった事実が雄弁に伝える事。

それは、著者が本書で繰り返し述べてきたように、インフラを制する者、情報の独占と秘匿性を勝ち得た者こそが、最も有利な展開に持ち込めることが今でも厳然たる事実として生きている事を、海を越えて繋がりを求めて世界に船出をした明治の岩倉達の物語が語っているようです。

 

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今月の読本「キリスト教は役に立つか」(来住英俊 新潮選書)貴方に出逢う気付きを願って

今月の読本「キリスト教は役に立つか」(来住英俊 新潮選書)貴方に出逢う気付きを願って

何時もとはかなり毛色の違った一冊。

所謂、葬式檀家と言われる一群に属する私ですが、子供の頃から彼岸には両親の実家に当たる墓参を欠かさなかった母親に付き添い、その一方、やはり母親の影響で地元にあった小さな長老改革派教会の日曜学校にも僅かな年数ですが通い、(既に頭の片隅にしか残っていませんが)聖書も一通り読んでいたという、今時の日本人としてはマイナーな子供時代を過ごしていたせいでしょうか、神社仏閣や教会、自身は無くても信仰する宗教を持つという事に違和感を全く持たずに大人になったような気がします。

それでも、新井白石が好きな私にとって、キリスト教と信仰する方々はやはり彼岸の存在。歴史としての旧約聖書や新約聖書から繋がるローマ時代の歴史、絶大な影響力と特異な国家としての位置づけを今に至るまで保持するバチカン/ローマ法王(教皇)には強い興味があっても、その信仰に振り返ることは無かったと思います。

そんな中で手にした今回の一冊。この選書シリーズ特有の表題や帯の仰々しさはさておいて、ちょっと気になる「孤独」とキリスト教というテーマに惹かれて読んでみる事にしました。

今月の読本、「キリスト教は役に立つのか」(来住英俊 新潮選書)です。

前述のテーマにあるように、本書は神学書でもなければ、キリスト教の教義を綴った本でもありません。著者はローマカトリックの修道司祭(即ち独身です)ですが、社会人になった後に洗礼を受けて司祭への道を歩んでおり、その起点に於いては家族との大きな葛藤があった事も冒頭に述べられています。そのような葛藤を抱えながらキリスト者(この単語を全文で貫いていらっしゃいますので、それに従います)としての歩みを経る道程を振り返りながら綴られる本書は、著者の信仰への道をそのまま投影しているかのようです。社会的、文化的、歴史的にもキリスト教世界とはかけ離れた位置である日本に於いて、どのようにその道筋を綴れば良いのか。著者はその想いを二つのキーワードに込めて語りかけます、孤独と、それに寄り添う想いとしての神の存在。二つの間を繋ぐキリストという存在。信仰的に描くと強固な拒絶反応を示されるでしょうし、教義のお話や聖書の章句をいきなり並べるにも受容される環境が無い中で、精いっぱいのアプローチ方法として選んだ設定。全部で50の説話として綴られたその内容には、まるで中骨を抜いてしまったような印象を受けるかもしれませんが、要所にはしっかりとその想いが込められているようです。

冒頭から始まる、神の存在とそれに向き合うことの意味合い。願う事、悩みを告げる事、感じ、折り合う事。旧約聖書からの引用を用いて、そんな想いに意外なほどのユーモアを以て、人間臭く(すみません)応えて来たのかを示していきます。ただ、流石に三位一体については、これ以上はと述べて議論を避ける点について、日本人を相手にした場合にはどうにも解釈が苦しくなるのは、江戸時代も現在もあまり変わらないようです。その上で、プロテスタントとローマカトリックとの違いなのでしょうか、何に付けてもまずは肯定してみようという想い、あくまでも前向きに、大らかに包み込んでいく感覚を前面に示していきます(カルヴァンの予定説については微妙な表現を付与して本文で言及されますが、このおおらかなポジティブシンキングは少女パレアナにも繋がるような気がするので、プロテスタントだからその逆という考えは正しくないかもしれません)。その一方で、あくまでも修道司祭の方が書かれた物であり、そのおおらかさの揚げ足を取るような視点に対しては、突如として厳しい筆致で臨んでいる点も否定できません(第22節)。

ここまでは、あくまでもイメージに入る前の更に前段階。第2章からは具体的に信仰を身に着けるというイメージを考えていきます。第1章でイメージが湧かなかった方、感じるところが無かった方には苦しい内容になるでしょうし、イメージが湧いた方でもその位置づけ、考え方は容易に納得できるものではないかもしれません。特に自己との相対性を論じる部分は、相当の心根を持たなければ辿り着く事は出来ない領域に入っていると思います(著者自身も、ボーン・アゲインではなく、特に日本人にとってはゆっくりと、少しずつと述べています)。そんな中で一際目を惹いたのが第33節の部分。本書の核心と言える部分ではないでしょうか。本来であれば交わる事のない二人が暫し他愛もない事を語り合う。その他愛もない会話が生まれる事自体が、きっと始まりに繋がると強く暗示しているように思えます。何も自分の主義主張を振りかざす必要もなく、ひたすら聞き役に徹する必要もない。飲み屋の会話ではないですが、そんな些細な関わり合いの積み重ねがきっときっかけになると思えてならないのです。もしかしたら著者はそのような交わりのきっかけとなる場所としての、自身の教会を位置づけることを望んでいらっしゃるかもしれません(アメリカのメガチャーチには、説教以外の部分でそのような側面を強く感じます)。

その上で、3章に綴られた内容を読んでいくと、なるほどと理解に至る事が出来ます。著者が暗示するように、それを以てキリスト者に至る事は(特に日本では)叶わないかもしれません。しかしながら、人との関わり合いのスタートとして、そのきっかけとして、更にその先に見えてくる、紙の上に書かれた事、頭の中で考えを巡らせた事ではなく、確かな手応えとしての「共に生きること」へのアプローチとして、キリスト者である著者が語りかけてくる内容はきっと何かの気付きを与えてくれるはずです。

その上で、著者が伝えたいと願う気づきの先は、帯に付されたように、これらの想いと交わる事が無い、孤独の中に生き、自らの内にひたすら埋没していく人々への想いへと繋がっていくように思えます。やるせない想いを一人抱え込んでいる人が求める渇望感と、その空虚さの間にも神の存在と、それを繋ぐであろうキリストという存在があるという事と伝えたいという著者の想い。もしかしたら、そのような想いを抱き続けている方は本書を手に取る方々と対極に位置しているのかもしれませんが、その想いを届ける事は出来るでしょうか。

本書を読んでいて思い出した一冊『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』(斎藤環 ちくま文庫)。本書の終章で語られる、最も親密な関係としての人生のパートナーの大切さを語る部分以外において、驚くほどの相似性を見出す事が出来ます。すなわち、自分にとって安心できる状態を得る事が自己の確立にとって極めて大切だという事をどちらも指摘しようとしています(自我の確立と相対化)。その上で、本書に於いては無限大の相対化である神を相手として、その間を取り持つイエスと共に歩むという形を一つの解決策として示しているように思えますし、両書共にその先に人と交わり続ける事の困難さを克服する為に必要な道筋を述べているように思えます(ぼっちの私には、どちらも耳の痛い話が満載、なおかつ正論なので苦痛の極みではあるのですが)。

今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)理想の元となった原典へのアプローチ

今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)理想の元となった原典へのアプローチ

昨今、とかく話題になるこの表題。

本題のテーマとしては絶対に手を出さないのですが、著者を見て、そして副題(キャッチーな主題と帯に気を取られると選択を誤るのが、このシリーズの玉にキズ)に惹かれて、これは読まねばと手に取った次第。

現在では、ちくま学芸文庫に収蔵されている名著「憲法で読むアメリカ史」の著者、アメリカでのロイヤー経験を有する阿川尚之先生が再び一般向けに贈る、アメリカ憲法を解説した一冊です。

憲法改正とは何か今月の読本「憲法改正とは何か」(阿川尚之 新潮選書)のご紹介です。

本書も前著と同じ、アメリカ合衆国憲法について書かれた一冊ですが、アプローチはやや異なります。前著が合衆国憲法の成立とその後を、憲法制定者達、そして憲法の最終判定者ともいえる合衆国最高裁判所の首席判事「コート」たちの判例の変化から読み解き、アメリカの歴史を著述するという、アメリカ史の著作としては極めて独創的なアプローチが話題を呼んだ訳ですが、本書ではその特徴であった通史としてのアメリカ史、合衆国憲法史が描かれる訳ではありません。

本書でも同じように合衆国憲法の解釈を基軸に置いていますが、そのアプローチは合衆国憲法の成り立ちを軸に置き、立法に与えられた憲法修正の権限の起源と修正条項成立の経緯、施行し時には超越する行政の運用。判例の積み重ねで乗り越え、確立した司法の違憲立法審査権という権能。それぞれの権能が有する憲法解釈の加え方の方法論を三権それぞれから個別に事例を挙げて列挙していく、合衆国憲法における憲法解釈を行う際の事例集といった纏め方になっています。従って、前著を読まれた方は内容的にある程度重複してしまうと思いますし、歴史的な連続性を確認しながら読まれたい方にとっても、やや読み辛い印象があるかもしれません。

更に言えば、本書を手に取られた多くの方が期待する、日本の憲法について本書を通して述べる事を著者は実質的に拒否(それでも1章を起こして、誤謬を含む事を当然として傍証を述べていますが、はじめにで、きっぱりと結論を述べる事は否定しています)しています。前著をそれこそ枕元に置いて繰り返し読むほど気に入っている私としては、著者のその見解に大いに同意した上で、本書を読んだことを述べておきます。

一方で、アメリカ通史など全部読んでいられない((全)と付されているにも関わらず、前後が大分圧縮された前著のちくま学芸文庫版でも約460頁、原著のPHP新書版は上下巻で600頁強)、とにかく合衆国憲法制定の経緯と修正の事例やきっかけを手短に理解したいという方には、本書の方が叶っているかと思います。特に前著ではどちらかというと判事たちの思想や法解釈感といった人物を軸に置いていましたが、本書ではむしろシステム、具体的に憲法解釈を変えていこうとするベクトルとそのアプローチ(もちろん拒絶例も含む)ついてより詳細に描かれていきます。

やや断片的な内容に終始する本書ですが(お時間が許す方は、是非本文だけでなく、註も読んで頂きたいです。本文より面白いかも)、それでも歴史的な成り立ちが合衆国憲法にとって特に重要な事を改めて示すように、「ザ・フェデラリスト」におけるジェームズ・マディソンの記述を繰り返し引用してきます。成立の時点から、契約社会として成立した植民地における危急に際して、統合の実として、とにかくその延長線である成文憲法を求めた制定者達と、それを阻止せんとした反対派への妥協としての改正方法の盛り込みと見做されがちな憲法改正条項(5条)ですが、著者は制定者達にとってもその危急さ故に完璧さに自信が持てない、それ故に改正の余地を残した(更には、それを実証する為に権利章典を承認させるように働きかけた)と見做してきます。制定者達の着目点も判断も今となっては知る事は出来ませんが、それでも現在の憲法判断に於いて、制定者達を想定した判例を積み重ねていく点を観ると、その制定の思想、理想を今でも掲げ続ける想いが見えてきます。

その上で、修正条項を提起して承認する、判例を積み重ねて既成事実として定着させる、時には解釈によって乗り越えていく。そのアプローチは様々ですが、共通する内容として理想は決して歪めず、事実と社会性の変化に基づいて適用を変えていくことで、憲法自体の価値を築き上げていくという点があると思えます。その際には、築き上げてきた判例の性急な変更は決して望ましい物ではなく、その経過した年月の重みも加味することが必要であることを述べる点は、社会安定性という観点からも着目すべき事柄かと思います。

著者が繰り返し述べるように、全文を書き換える様な改正を行えば、基準法典としての憲法の安定性を損なうことになりますし、それは革命と同義になってしまいます。また、社会的な要請をその都度書き込むと、これはまた変化に付いていけない時代遅れの条文が連綿と受け継がれる結果になってしまいます。それでも、変わらない、最古かつ最長寿の成文憲法といわれる(実質的には違いますが)合衆国憲法にも27の修正条項が付記される一方、その改正は決して容易ではなく(議員の2/3の賛成と州の3/4の批准が必要、日本の場合は議員の2/3は変わらないが、国民の過半数)、昨今では修正が極めて困難となっている事も述べられています。

改正は決して容易ではなく、大きな社会的要請や変化が充分に満たされた時にかぎり修正されるようにも見受けられる合衆国憲法ですが、リンカーンやルーズベルトの例を用いて、修正を行わず、時にその憲法解釈の拡大適用による危機の克服を述べると共に、終身制で憲法の最終判断者でもある最高裁判所判事たちの判断がたとえ下ったとしても、実際に施行するのは行政府であり、戦中や明らかに社会的に不適正な判決であればそれを執行する力は司法にはない事も明確に述べていきます。行政府と立法、司法が鋭く睨み合ったニクソンの事例を用いて、その理想が最後の最後で守られたと著者が述べる度に、共和制というシステムが極めて微妙なバランスの上で成り立っている事を思い知らされると共に、その理想の結集点としてのアメリカ国民の合衆国憲法への想いの強さを感じさせます。

最終章に述べられる日本国憲法の議論は、本質的に著者が望んでいらっしゃらないようですので割愛しますが、暗示として述べる「アメリカ人は憲法を大切にするが、神聖視しない。それに対して日本人は憲法を神聖視するものの、それほど大切にはしない」という一文だけ引用しておきます。

この国の現用憲法制定の歴史、そしてそれを提案した人々が理想として見た原典の成立と、それを現有の物として使い続けるために加えられてきた積み重ねの歴史をその方法論から述べる本書。その理想を更に推し進めるために織り込まれた仕組みをどう理解し、使いこなすかは我々自身に課せられた課題なのかもしれません。

著者が述べるように、憲法は解釈せずして運用できず。その解釈は時代と共にゆっくりと変容し、織り込まれた仕組みはその時のために備えられているものだから。

「憲法改正とは何か」と「憲法で読むアメリカ史」本書を読まれて、アメリカの憲法にご興味を持たれた方は是非お読みいただきたい、同じ著者の「憲法で読むアメリカ史」。現在は、ちくま学芸文庫版のみ入手可能です。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。

今月の読本「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体」(森本あんり 新潮選書)アメリカキリスト教史と大衆伝道を通じて語る、自由と自立の気風の根底にあるもの

今月の読本「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体」(森本あんり 新潮選書)アメリカキリスト教史と大衆伝道を通じて語る、自由と自立の気風の根底にあるもの

New(2015.5.4):先月以来、各社から様々な形で本書の書評が出てきているようですね。検索サイト経由でこちらのページに辿り着かれた皆様も多数いらっしゃるようですが、著者である森本あんり氏がご自身の研究室のホームページで各社の書評を紹介されていますので、そちらへお廻り下さい。

New(2015.4.12):朝日新聞と三省堂書店のコラボレーション企画、WEBRONZAの書評コーナーに本作の書評が掲載されています。著者の森本あんり氏がやっかみを込めて推すくらいに、読まれた方なら誰しも納得できる、見事なまでに完璧な書評。当方の駄文をご覧頂く前に、是非ご一読を。

New(2015.3.16):本書について、本気で解説を書かれているサイトがあります。キリスト者の方のようですので、本書を読まれた方で、バックグラウンドや、特にアメリカ特有のプロテスタント事情にご興味のある方には、かなり参考になるかと思います(現在でも全7節全15節と、かなり物凄いボリュームですが、まだまだ増えそうな勢いです。お時間のある際に)。著者である森本あんり氏からのメッセージも掲載されています。

 

<本文此処から>

素っ気ない表紙と、それを覆すかのようなインパクトのある表題、帯でちょっと驚かされる新潮選書。

今回読んだ一冊も、そんな表題の為にスルーしていたのですが、もう一度内容を立ち読みしてみると、実に面白そうなお話だったので、購入してみた次第です。その内容は、予想を裏切らない、好奇心を揺さぶられる内容です。

反知性主義反知性主義」(森本あんり)です。

本書の売れ行きは非常に宜しいようで、既に重版も決定しているようです。

この反知性主義。単に言葉を聞いただけで、そして帯を見ただけですと、知的鍛錬が足らない人、ないしは大衆思想を揶揄する本、更には最近流行り言葉になっている「マイルドヤンキー」をターゲットにした解説書のように見えます。

どちらも正解なのですが、本書はもっと根源的な部分で反知性主義の発生と発達を述べていきます。著者はプリンストン大学で神学を修め、現在は国際基督教大学の副学長を務められる神学の専門家。この著者の経歴と、表題との繋がりが大きなテーマとなっていきます。

すなわち、ピューリタン(それ以前の旧大陸での宗教改革から)達によって達成された、キリスト教の開放、すなわち万人司祭の思想を中核に置き、その結果として、いかなる権威も認めず、自らの回心、発心を最も重視した思想の延長線が反知性主義であると、アメリカにおけるキリスト教の伝道史、特に大衆伝道を通じて解説していきます。

建国以前、そして建国当初のアメリカでは、ヨーロッパと比べると圧倒的に早くから高等教育機関、即ち聖職者の養成機関が整備されたようですが、そんな初期の聖職者養成機関の一つであり、自らが学んだ名門のプリンストンにおいても神学は最重視されない。それ以前に、一般教養としての自然科学や教養課程が最も重視される。それは、高邁な神学論争より、万人司祭たる故に、どれだけ聖書に基づいた説教が行えるかの方が余程重視された為だと述べていきます。

誰もが聖書の言葉を議論できる世界。そこには多数の解釈が生まれ、多くの分派が生じることになります。更には先鋭化した「セクト」の萌芽を見る事になります。そして、分派毎の自由な布教、不干渉の先に示されるのが、ピューリタンが興した国としての大転換、明文化された信仰の自由。それは、生存や社会的地位の不平等については許容しても、自らの信仰的な立場を不当に貶める事は許さなかった結果の妥協の産物でもあったようですが、その結果として生まれた、権利章典に記された内容が、この新しい国の生き方を大きく規定したことを示していきます。

その延長として生まれたのが、州権主義とも繋がる小さな政府的な考え方と、素朴な個々人の良心に依拠する体制の希求。その反対に見据えられるのが、伝統的な権威や学力を誇る事で政治権力と結ぶ知識階級への反発。反知性主義とは、神との契約の元(=契約は果たされなければならないという、現世利益的な意味合いすら含む)、自立した個人の立場で、平等に議論することを目指した、決して知性と懸け離れた衆愚性を採り上げたものではない事を明確に述べていきます。

この辺りの解説は、正に目から鱗。特に、アメリカにおけるプロテスタント各派の初期の伝道や迫害の様子と共に、それを超越して信仰の自由という権利(=自由な布教)を獲得したという点が、一般的にはピューリタンと直結して考えられるこれらアメリカの根本思想が、実はセクトとチャーチとのつばぜり合いの上で成り立ったという点を見せてくれるだけでも本書を読む価値があります。

この極めて宗教に根差した体制の元に、個人に根差した、自由な布教の先に描かれるのが、本書の後半を彩るジャクソン大統領のような衆愚政治の始祖と呼ばれそうなヒーロー軍人上がりの政治家や、ソローのような自由人、そして三次に渡る信仰復興運動(リバイバル)で活躍した大衆伝道者たちの物語。

ここで著者の視点は、アメリカ特有の社会性と大衆伝道の関わり合いに軸足を変えていきます。社会的成功が神への栄光に繋がるという発想。その発想の延長で語られる経済的成功をみんなが目指す社会構造。それは、大衆伝道者も例外ではなない事を、ムーディーと大衆伝道における回心者の集計(そんな事出来る訳ないとお考えは、その通りなのですが)や、最終章におけるビリー・サンデーの生涯を通じて見ていきます。内証的な修行者を宗教家と見做すことが多いであろう日本人にとっては正反対に位置する、ヒーローとも捉えられる彼ら。その理由は、彼らによって繰り返し起こされるリバイバル自身が、一種の娯楽でもあったと見做していきます。大衆伝道者とそれに熱狂する聴衆(信者とは限らないです)の姿から、反知性主義が見せる、もう一つの側面、実利主義と、神は必ず契約を果たしてくれるというポジティブ思考、熱狂と余りにも素朴な信仰心故に宗教から逸脱しそうになる、道徳とのあいまいさが映し出されます。

闊達な伝道者たちの物語を語るために少し後ろに回されていた、反知性主義についての議論。著者は終章で一気にその実像を示していきます。本書をご覧になる方なら誰しもが思い浮かべるリバタリアリズム、そして前回の大統領選でも勢力を見せたティーパーティーに見られるような、小さな政府主義も、これら建国期から続く一連の宗教を下地にした平等、自主の意識の延長であると位置づけていきます(裏を返せば、無干渉主義)。反知性主義とは、知性を否定する行為ではなく、そのような自主性に干渉する政府とその体制に対して知性を以て権威付けする事への反感であると述べています(この点は、リバタリアリズムに共感する人々の多くが、比較的高収入の白人層である点でもはっきり判ります)。その結論からは、反知性主義とは所謂マイルドヤンキーなどと評される枠組みとは一線を画す意味合いである事がはっきり判ります。

あとがきで著者が述べている、(非常に好意的な視点での)反知性主義を成り立たせるための立脚点と、新しい価値の世界を切り開く力となる、相手に負けない優れた知性を帯びる事、そして根本的な確信を有している事(これが何を指すかは、ご理解ください)への希求。日本においてこれらの思想を育む事は、著者の望みとは裏腹に難しいのかもしれません。

既に本書を読んでいる時点で、ややもすると反目を受ける立場側に立ってしまう、読書人層に位置してしまっているのかな、等と考え始めた時点で、これもセクト的思考だなと自己反省しながら。

<おまけ>

本書を読むにあたって、アメリカにおけるプロテスタントの宗派やその広がりについて、ある程度知識があった方がより理解が深まるかと思います。最も手軽に知るためには、長らく絶版になっていた、こちらの「なんでもわかるキリスト教大事典(原著、キリスト教大研究:新潮OH!文庫)」(八木谷涼子 朝日新聞出版文庫)がほぼ唯一無二の一冊。類書が無いのが不思議なくらいなのですが、プロテスタント各派の流れや、反知性主義とかなりの部分で重複する、アメリカのプロテスタントを貫く大きな流れである、福音主義の要点を理解するためにもお勧めです。

その他、本書を読むにあたって事前に読んでいた本から、手短にあった何冊かを集めて。

反知性主義と類書たち本ページで扱っている、本書に関連する書籍をご紹介いたします。

 

今月の読本「奇妙なアメリカ 神と正義のミュージアム」(矢口祐人 新潮選書)多様性をテンプレート化する狭間で

暑い夏の午後。涼しい高原地帯とはいえ、ここ最近の猛暑では日中は出かけるのも躊躇してしまう程の日差しが降り注ぐため、日暮れまでの間は涼しい屋内で読書をして過ごす時間が長くなっていきます。

今日もそんな午後のひと時に読んでいた一冊をご紹介。選書のシリーズでは価格の安さとキワモノとまでは言いませんが、少し斜に構えたテーマ設定の作品が多い新潮選書の6月の新刊から一冊拾ってみました。

奇妙なアメリカ

奇妙なアメリカ 神と正義のミュージアム」(矢口祐人著)です。

普段は副題を添えてご紹介しない場合が多いのですが、本書ばかりは副題が必須のように思えます。当の本人も、副題に気が付くまで本書がアメリカのミュージアムを題材に取った作品だと気が付かなかったくらいですから…。

しかも、副題の内容も本書の内容を反映しているかといえば、殆ど正しくないようです。

本屋さんで書籍を手に取る最初のインターフェイスはもちろん題名、そして装丁だと思います。その点、同一の装丁で揃えられている都合上でしょうか、差別化を図るために用いられたと思われる、インパクト重視の題名やキャッチーな帯からは書籍のイメージが伝わりにくく、この辺りの選定に何時も首を傾げる点が多いのが新潮選書の難点なのですが、今回の表題は副題を含めても本書の内容をかなり歪めていると思えてなりません。

本書は神と正義の話のような、福音派をモチーフにした題材でもありませんし、取り扱われているテーマも奇妙さは全くありません。マガジンスタイルの書籍が扱うような、少しアメリカ文化を茶化してやろうという、表題から感じるノリとは全く反対の、極めて真面目なミュージアムについてのお話が続きます(著者はハワイ文化が専門の東京大学大学院総合文化研究科の教授でもあり、名著の中公新書「現代アメリカのキーワード」の共著者でもあります)。その点では、表題が内容を大きくスポイルしている(歪曲している)点は否めません。

本書を読み始めると、まず初めに、アメリカ人が毎年8億5ooo万人もミュージアムに訪れると聞いて、驚くのではないでしょうか。有名なスミソニアンやニューヨーク、ボストンの美術館等、著名なミュージアムが数多く存在するから当たり前と思われるかもしれませんが、あれだけ広大な国土にも関わらず、人口一人当たりの来訪者数で日本とほとんど変わらないと聞くと、まさかと思う方も多いのではないでしょうか。アメリカ人も、日本人同様に「ミュージアム大好き」な人たちなのかもしれません。

本書は、そんなミュージアム好きなアメリカ人にとっても極めて特徴的な展示内容を有するミュージアムを敢えてピックアップして紹介しています。本書では8つのミュージアムが紹介されていきますが、いずれの解説にも、著者の深い配慮が垣間見えます。扱っているミュージアムのテーマがかなり極端な故でしょうか、読者に偏向性と誤解を与えないように、内容には極力公平性を保とうとする筆致が伺えます。

そもそも、ミュージアムと定義づける以上、何らかのテーマに則った展示が求められるわけですから、テーマに合わせたテンプレート(もしくはストーリー)に展示内容を載せていく必要が生じる点は不可避なことだと思います。その点で、本書に紹介されている8つのミュージアムはいずれも特定のテンプレートを下敷きにどのように展示を組み立てているのかを、著者の感想や、時に施設の内外での出来事を交えながら語っていきます。

紹介されるミュージアムはどれも展示の上での芸術性、工夫に溢れており、特徴的な場所に所在し、ここでしか見られないというテーマを持っているのですが、著者はそれぞれの展示内容に対して、充分にアメリカ社会を理解した上でなければこれらの内容を理解することはできないと明言しています。

著者は、そこにあるアメリカ社会特有の理論構築について、展示者の意図から読み解いていこうとします。創造論や核兵器の正当性を示すためには科学を以て証明する。犯罪に対して罪は罪、罰は罰と割り切るドライさと、危うさ。成金趣味と言われようが、芸術に投資し、故郷に利益を誘導するのも成功者の一側面である事実(日本人もこの点は同じですね)。何を於いても、国家の大義、そしてコミュニティの大切さを訴える事を優先する。

そのような解説を通して、本書で扱われるミュージアムに一貫して、ある特定の配慮が欠落してる点を著者は指摘しようとしている事が判るかと思います。この想いの正体は、最後に紹介する戦艦アリゾナ号メモリアルと、最近改修されたビジターセンターの展示への言及で明確化するように本書は構成されています。多様化を価値観の一方の源泉として重視するアメリカ社会のもう一方の価値観としての、テンプレート化されたミュージアムの展示を通して、意図せずとも除外されたであろう価値観との対比を読み解いていこうという著者の想いが垣間見れます(例外的に、全米日系アメリカ人ミュージアムの紹介の部分では逆否定の表現で記述されている点は、やはり気になります)。

繰り返すようですが、本書は表題にあるような神と正義といった画一的なアメリカ論を語る内容でもありません。丁寧にアメリカの多様性の一側面としてのミュージアムを解説しながら、そこにマイノリティの代表でもある日本人としての著者が感じた、外から見た理想のアメリカ像からの「欠落」を見つけ出していこうという、深い考察を持った一冊であると思います。

<おまけ>

本書と併せて読みたい、最近新潮選書に収められた、同じようなテーマを全米の特徴的なコミュニティを舞台に考察する一冊「アメリカン・コミュニティ」(渡辺靖:著 私が持っているのは2007年に刊行された初版)。アメリカの多様性を知るきっかけとして、とても良い本だと思います。

奇妙なアメリカとアメリカン・コミュニティ<おまけ>

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