今月の読本「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)考古学と文献史学が明滅する先に道の社会学を想う随筆

今月の読本「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)考古学と文献史学が明滅する先に道の社会学を想う随筆

日本の中世史を扱った書籍では通史としての大きな歴史と言うべき政治的な動きや、武士や公家、僧侶と言った個人、武士団、寺社などの集団をテーマにした歴史を扱った本が大多数を占めるかと思いますが、近年、それらの境界領域ともいえるテーマを扱った書籍も一般書として徐々に出回るようになってきています。

史料的な限界のある中世史という時代区分において、この分野では最も成功しているのではないかと思われるテーマとして、近年の進展が著しい考古学を援用した街道やその道を使った人々の動きを軸に歴史的な展開を描いていく著作群がありますが、更に一歩進めて「道」自体をテーマにしたこの一冊。非常に興味深いテーマではありますが、少々難物な読み物でもありました。

今回ご紹介するのは、吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの最新刊より「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)です。

冒頭で提示される「かまくらかいどう」「あずまかいどう」という呼び名に対して、数多に溢れているこれらを呼称する古道達に対する著者の大きな疑念。それらを結び合わせても一筋の道が描けない事からも判りますように、後年の人々がある仮託を込めてそれらの名前で呼び習わし、現在に伝わった道筋たち。本書がこれらの道筋がどのように変遷したのかを辿りながらその道を作り使い続けた人々の姿を描いていく、考古学と文献史学をベースに歴史地理学と社会学が交差するテーマを深化させながら綴られる事を期待して読み進めていくと、ある意味大きな失望を受けることになります。

このように表現することは珍しいのですが、あとがきに書かれた著者の懸念と抱え続けるわだかまりがそのまま文中一杯に散りばめられてしまったかのような内容が展開する本文(著者より若輩ですが老婆心から述べさせていただくと、本書だけは「あとがき」は最後まで読まずに、とにかく本文を冒頭から追われる事を切に願う次第です)。

「大道」という名称の位置付けを語るかと思うと疫病と怨霊が渡る異界の扉としての道の話に飛ぶ。道の変遷を語り始めると近江の葛川から一気に現在の著者の研究フィールドである須川峠の山懐にある開拓地と領家を繋ぐ道の変遷の史料検討へ繋ぎ、更には学生時代に携わっていた鎌倉、犬懸坂、杉本寺の考古発掘調査の考察へと変転しながら東国の首都、鎌倉の盛衰を語る。鎌倉に話を飛ばすと、今度は大道や橋の維持に対して当時の公儀である幕府にその代行を買って出る事になる宗教者達、特に真言律宗の存在との共存関係から、重層的な支配関係の元にある当時の姿と政と聖の相互関係に思いを馳せる。

大道という言葉を頼りに、数頁から10数頁程度の小テーマが著者の思い至る範疇で書き連ねられ、これまでの検討や議論に対する著者の考察とも懸念とも取れる内容が随筆のように綴られていく本書。200ページを切る事もある歴史文化ライブラリーのシリーズとしてはやや過大とも思える全編294ページと言うボリュームで、これまでの研究者として歩んできた路傍に散らばり播かれた種を拾い集め愛おしく抱き抱えていく様な著者初の単著。散文的なその内容の要所には実に興味深い思索が含まれています。

「中世」の大道には古代王朝が生み出した大道とは異なる意味合いを考慮すべきであるという点。地形を穿つようなものではなく、多数の支配関係の間を縫うように繋がり、村と村、山村と市が立つような集落がある拠点の間を馬が通える道が通じれば、それは大道と呼ばれると指摘します。また中世の道の成立が交通の便宜、即ち軍旅であったり年貢や貢納の輸送の為に必要に応じて変遷していく点が古代の大道と大きく異なると指摘します。

その指摘の先に見出すのが、中央政権ではない鎌倉幕府の組織成立上の限界点。著者は為政者はその支配機構としてインフラ整備を行う者であり、それが当然であるという視点に大きな疑問を呈し、幕府として纏まった彼らが中央政権からスピンオフした軍事・警察機構に過ぎない点を忘れて、為政者としての過大な評価と期待を抱き過ぎて観ているのではないかと強い懸念を示します、その先に「鎌倉街道」を代表とした、当時の文献では使われる事のない単語を用い、我々を含めた後代の人々が中央に繋がるものへの憧れ、憧憬としての「大道」という幻想を抱いているのではないかと指摘します。ここで、鎌倉より北方の人々が抱く「中央感」と、より東国の中核に住む人々のそれが異なる点を「かまくらかいどう(鎌倉街道、かまくらみち)」「あずまかいどう」の呼び名の違いに見出す著者の視点は実に刺激的です。

更には、著者自身議論を控えているようですが、奥州の深部、奥大道の終着点で研究を続けられる方らしい視点ともいえる、当時の文物はいずれも京を交点に取り交わされるという如何にも一般的な視点を強く意識された見解が僅かながら語られます。近江の杣に当時の金額としても大きな十五貫文の銭を携えて木材を買い付けに美濃からやって来た地頭の下人の姿や、常滑焼の出土分布の向こうに、中央や鎌倉と地方と言う二元的な交流だけではない、物産を生み出す産地である地方と地方同士の交流史が見出せる素地があるのではないかという想いを滲ませていきます。

その上で著者が願う、考古学とも文献史学とも異なる、大道をテーマにした中世社会史と言う姿が描けるのか。研究者として既にベテランの域に達しつつある著者に、抱え込んだご自身の課題を解消された先に、一般書とはいえもう少しテーマを精査された一作も期待して。

同じ吉川弘文館の書籍の中には、前述の交流史を念頭に置いた多数の書籍が揃っています。頭の中に地図を思い浮かべながら、どのような人々が何を求めて行き交ったのか、現在の姿と重ねながら考えてみると、歴史を見る視点が更に広がるようです。

広告
今月の読本「源頼朝 武家政治の創始者」(元木泰雄 中公新書)新恩から官位へ、武家政権成立の鍵を示す通史とある違和感

今月の読本「源頼朝 武家政治の創始者」(元木泰雄 中公新書)新恩から官位へ、武家政権成立の鍵を示す通史とある違和感

歴史研究者の方々が著述される一般向けの歴史概説書がブームになって久しいですが、その著者の多くは私の年代の前後に近い方や、より若い方になるでしょうか。

ある意味、研究職としての文系の存在意義を常に社会から問われ続ける中で研究を続けられ、成果の一端を世間に問うという形で執筆を続けられている方々。その内容は、時に過去の研究史や史観に強い違和感を述べ、通説を生む元となる、現行の歴史教育や教科書の内容に対して強く是正を求める指摘が散見されるようです。

中世後半から戦国時代をテーマに扱った書籍から始まったこれらのブーム。最近ではより時代を遡って南北朝や鎌倉時代、更には古代史へと広がりを見せていますが、その中でぽっかりと穴の開いているのが平安時代中盤から鎌倉開府まで。

今回ご紹介するのは、西の筆頭に位置する大学で長く教鞭を執られ、ブームの遥か前から当該する時代の歴史に関する数々の一般書を著述されてきた研究者の方が、敢えてこのタイミングで渦中に投じた一冊をご紹介します。

今回は「源頼朝 武家政治の創始者」(元木泰雄 中公新書)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は京都大学で中世史の研究を長年に渡って続けられてきた方。中世史の大家でもある上横手雅敬氏の直系に位置する研究者の方で、前述のように数々の一般向けの書籍も上梓されています。

今回の一冊も2011年に同新書から刊行された「河内源氏」の続編として企画されたもの。その筆致も、京側の視点で通史としての軍事貴族である河内源氏の推移を述べる前著を継承したものですが、冒頭から巻末まで在る点をしきりに気にされた著述がなされていきます。

それは、近年の研究に於いて所謂東西対立的な視点、公家と武家の二項対立的な歴史感が再び強まっている(特に武家側に偏った認識)という危機感と、前提となる同時代の研究で用いられる代表的な史料群の読みこなし方に対する強い疑念。本文中の各所で具体的な指摘を伴ったこれらの懸念に対する強い憤りを述べながら綴られていきます。

直近で数多く刊行される書籍たちの著者と比較して、恵まれた研究環境と豊富な実績を積まれた研究者の方らしい、比較的穏当な筆致で綴られる事を予想しているとある意味大きく裏切られる、時に憮然とした態度を隠さず、流人の奇跡と称し、一般的に頼朝の評価は芳しくない(???)と述べ、武家政権のその後にややもすれば暗澹さすら漂わせる著者の筆致。

前述の著者の懸念を自ら払拭せんと綴る内容は頼朝の生誕から没後の源氏将軍滅亡までの時間軸で描かれますが、本書では二つの視点を重視しているようです。著者のこれまでの書籍のスタンス同様、人物史であってもどちらかといえば通史的、更には当時の院や権門を核にした京側の視点で描かれますが、前著である「源頼義」(人物叢書 吉川弘文館)同様に、東国武士たちの動き、特に京の権門と在地の武士たちの結び付きを補強する為に野口実先生の研究成果を大幅に取り入れて描いていきます。その結果、彼ら東国武士が権門と鋭く対峙する関係であったり一方的な権門に従属する関係にあった訳ではなく、在地領主と権門やその家人との相互依存関係の中で推移していた事を示していきます。

更に、東国における河内源氏の地盤自体が、摂関家、更には武蔵国守であった信頼との関係の上で構築された物であり、前九年、後三年の役から繋がる累代の家人というのは、その後の奥州合戦の際に演出されたイメージを各家が引き継いだものである点を、石井進氏や川合康氏の見解を逆用して指摘します。

では父祖の地である河内から遠く離れた流刑の身で累代の家人など殆ど存在しえなかった頼朝が何故武門を掌握し、戦いを勝ち残れたのか。平家との軋轢を生じた東国武士たちの受け皿と言う一般的に述べられる視点から、著者は更に一歩踏み込んだ姿を示します。

京側の視点を軸に置かれる研究者としては珍しい、東国(この場合、常陸や陸奥、北陸道、箱根以西は含めない、主に南関東)に独自の施政権を確立した上で、受領や目代が任命されず、空白地帯となったかの地に於いて、新恩としての地頭の任免を自らが主宰したことによって、京の権門の意向を取次、代弁するのではなく、独自に武家を統制する術を手に入れた点に着目します。

即ち、寿永三年十月の宣旨こそが、受領への補任を経ない異例の「地域政権」として公認されたとして、武家政権へ至る起点で有る事を敢えて指摘します。著者が以前に提示した平清盛に対する高い評価に訂正を加える、遥か遠方に位置する東国の、更に僅かな南関東に過ぎないが、実力で権力の分立を果たした頼朝による東国武士たちの掌握過程を再評価します。

累代の家人と狩り武者と言う二段階徴用を採る平家に対して、内部分裂を抱えある意味恩賞で釣る形でしか纏まる術を持たない頼朝と東国武士たち。それ故に、少ない一族閨閥をある時点まで極めて大事に扱う一方、御家人たちに新恩を与え続けなければならない、全盛期の秀吉にもみられた一門という姿の生成と、戦い続ける相手を探し続けなければ解体の危機に瀕してしまう、武門の危うさも滲ませていきます。

戦い続ける理由(ここで王権を支える唯一の武力という言葉が出てきますが)を求めて列島を西へ、北へと転戦を続ける頼朝と武士たち。前述のように頼朝と弟達はこの時点では決裂する関係にもなく、頼朝の指揮の下でそれぞれの当初の目的(情報伝達の遅れによる齟齬はあるにせよ)に従って軍を進めていた事になり、特に屋島の戦いについて義経が突出した軍功を目指して抜け駆けしたわけではないと指摘します(ここで、ある見解について著者はかなり強い否定を述べています)。

結果としてより大きな軍功を得ることになった義経が御家人から嫉妬の対象となった点は否定できないようですが、彼が貶められたのは従来述べられる無断任官(この事自体、誤認であり頼朝も同意の上であったとし、黙認できなかったのは在京が求められる院御厩司に後白河が任じた事であると)とは異なり、範頼同様に実の息子である頼家への脅威だったと見做していきます。この流れの中で、北条時政の京都への代官としての派遣を織り込む事で、頼朝が頼りにする相手が兄弟から、諸大夫ではなかったが伊豆に在住していた頃から京都との繋がりを有していた、自らの息子への継承という点で利害が一致する北条一門へと遷っていったことを印象付けていきます。

制止を振り切っての奥州合戦の後に後白河と漸くの対面を果たすことになった頼朝。ここでも著者は玉葉の著者でもある時の摂政、九条兼実と頼朝が盟友関係にあったとされる指摘に対して、その玉葉の読みこなし自体から指摘しつつ、否定的な見解を述べていきます。著者の指摘、それは平清盛同様に、頼朝も入内工作を進める事を前提に入京を果たしたと考えており、その中で競争関係を生じる兼実とは本質的に相容れない関係に入っていた事を指摘します。

著者が繰り返し読者の見識に懸念を抱く(???)頼朝の入内工作の狙い、それは御家人たちを掌握する唯一の手段である新恩が「王権を支える唯一の武力」となってしまった事で新たに与える余地が無くなった矛盾の相克。後の世まで武門を統制する二つの利権となる領地と官位の両輪を自らの統制下に置くための算段を打つ活動を、死去する直前まで進めていたと想定します。

その上で、前述の義経同様、京に在住することを求められる右大将ではなく、同じ位階であっても従軍中に帯びる官職である「大将軍」号の請求に至ったと逆説的に指摘します(実朝の時には既にこの制約が無くなっており、25歳で摂関家に準じて右大臣に昇ったのは至極当然だとも)。

結果として大姫、三幡と自らの死去によりこの目的は果たされる事が無かった訳ですが、関西系の研究者の方が書かれる著作に度々見受けられる「もしあの時」という想いが強く滲み出る筆致(本書の場合は敢えてと述べて書いてしまいますが)を繰り返し残して、その後の政子と京の関係までを描いて筆を置く本書。

鎌倉に武家政権が建ち上がったのは必然なのか偶然なのか(むしろ最近の風潮はこちら?)という議論に此処では立ち入らない事にしますが、これまでの著者の筆致を崩してまでも、読者に対しての不可思議なまでの懸念と、ある強い想いを要所で述べていく本書。

直近の著作である「源頼義」と互いにエールを送るように元木先生の成果を援用して綴る野口実先生の「源義家」(「河内源氏」は書庫の何処かに埋もれてしまい見つける事が出来ず…)の河内源氏人物シリーズと、同じ中公新書から直近で刊行された、もう一つの源氏たちの姿を平家物物語の読みこなしから文学的な視点も織り込んで綴る「源頼政と木曽義仲」も併せて。

「一般の」読者にとって、専門家の方々による様々な研究成果の一端とその見解を手軽に書籍として読ませて頂ける環境が未だに続いている事は、出版不況が長く叫ばれる中でむしろ喜ばしい事(よもや承久の乱が新書で2冊同時に出てくる時が来るとは…)。

様々な視点から歴史の推移を見つめる楽しさを与えてくれる著作たちに感謝を。

 

今月の読本「平氏が語る源平争乱」(永井晋 吉川弘文館)地理院地図と脇役達で淡々と描く、敗れ往く者達で綴る平家物語

今月の読本「平氏が語る源平争乱」(永井晋 吉川弘文館)地理院地図と脇役達で淡々と描く、敗れ往く者達で綴る平家物語

日本史に関する書籍の新刊が大挙して本屋さんに並ぶようになったここ最近。特に研究者の方が執筆される、これまでの歴史著述や教科書に対して議論を提起し、明確な訂正を求めていく筆致で綴られる書籍が多く見受けられるようです。

比較的若い研究者の方々によるこれらの著作。好評を以て読者に迎えられているようですが、読み物としてはやや背景描写の広がりに乏しいと感じる事があるのもまた事実。今回ご紹介するのは、それらの著者より一世代前に研究者としての足跡を刻み始め、豊富な著作歴を有する研究者の方がある疑問に対しての答えとして書かれた一冊です。

昨年末に読んでいた、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリー、12月の最新刊より「平氏が語る源平争乱」(永井晋)のご紹介です。

著者の永井晋先生は、長らく金沢文庫及び神奈川県立歴史博物館で研究活動に従事されていた方。近年、地元の関東学院大学に籍を移されています。主に源平合戦から鎌倉初期の鎌倉、関東をベースにした研究で知られる著者は、前述のように一般向にも多数の著作を有される方。本書も2015年に刊行された前著「源頼政と木曽義仲」(中公新書)の内容(と、今回と同じ版元さんから刊行された「相模武士団」に寄稿された論考)を受けた続編を意識された事をプロローグで述べています。

前著ではチェスのコマを動かすようにと自らを評された、著者にとっては手慣れた源平合戦が今回もテーマ。しかしながら、本書では詰将棋的な著述に陥らないようにと、偶然性や不確実性を織り込む事も念頭に置いていると述べています。また、著述のベースには平家物語を置いていますが、敢えて著者にとっては専門分野である筈の吾妻鏡からの引用を極力排除し、逆に京における公家の記録、特に玉葉の記述を重視し、史実としての主たる補正に用いています。

その目的は本質的に平家視点で描かれる平家物語を捉えるためのアプローチ。戦いを主導したいずれの勢力も武力による全国統一、全国の武権の結集を目指していた訳ではなく、あくまでも源平並立が成らなかった過程の積み重ねが武権の確立に至ったに過ぎない事を明確に提示し続けます。源平合戦を武士の時代の幕開け、武士の伸張の画期として捉える史実から遡るイメージからの脱却を図るために用いられた手法には、前著に続いて去りゆく者の視点へ心情的に寄り添う著述が伴われていきます。

研究者の方が書かれる日本史の一般書著述としては例外的な、本文中に於いて殆ど他の研究からの引用を明示せず(鵯越の逆落としの部分では、驚くような文献から傍証を引いていますが)、要所で援用される多くの研究成果を咀嚼した形で著者特有の淡々としたペースで綴られていく、平家を軸にした頼朝挙兵から壇ノ浦までという時間軸で描かれる本文の描写。そこには前著同様に八条院人脈を一つの軸に置く一方、平家視点という著者の狙いを具現化する為に、小松殿、小川殿、池殿といった一族内部と宗主宗盛との意識、距離感の違いが、八条院、頼朝、後白河等のキャスティングボードを握る人々(庇護者、複数に仕える主人のひとりであり授権者)と彼らの距離感から生み出されている事を繰り返し述べていきます(本書における平家内部を描く著者の考察と描写を読んでいくと、演出よりなにより、この部分における文芸的に見立てた際の判りにくさこそが、大河ドラマ「平清盛」不評の原因ではなかったかと思えてきます)。

心象的な駆け引きを持ち出すことで、繋がりや教養を有する事が何よりも大切だという暗喩すら感じられる登場人物たちの描かれ方。その結果、本書では頼朝や後白河といった大立者は完全に脇に置かれる一方、名だたる東国武士たちを宥めながら、兵糧に苦労しつつも九州まで着実に戦線を伸ばしていく、兵法にも明るかったはずと見做す範頼や、宗盛から疑心の目で見られ続けた末に八条院を通じて救いの手が差し伸べられた頼盛を好意的な眼差しで採り上げていきます。その一方で、一族の連携に疑念を抱かせる采配を執り続けた平家の宗主である宗盛や、強行突破攻勢の繰り返しが手勢の損耗から軍団の破たんをきたしている事を顧みず、自らの勝利だけに突出した義経、武人の境地と雅の心を踏みにじる東国武士たちの無粋な動きに対して明確な嫌悪感を示していきます。

そして通史としての源平合戦の推移。軍制の変化や平氏と源氏の軍事指揮権と率いた軍勢の逃散、揺れ動きの違いといった大局的な推移の記述は既にこの時代の歴史に詳しい方であれば、新たな知見や旧来の見解を明白に否定するような著述はあまり見当たらないかと思います(争乱終結後の武家に対する訴訟激増の遠因など、提起される内容が散発的に挿入されてはいますが)。その代りに持ち出されるのが、その年の気候条件による兵糧の集散やふんだんに掲載された地理院地図を用いた合戦場所の地形的な検討。そこには戦略面を綴る一方で、戦術面でその選択を行った背景を当時の軍制や輜重体制に問い、戦闘に至る経緯へ必然性と偶然性の双方を添えていきます。

闘う覇気が最初からなかったという旧来から述べられる見解を継承しながら、その背後にある過程を軟弱化ではなく、公卿を輩する家柄となった事による家職相応の姿からの乖離と捉え、彼らに従った家人たちの仕え方が軍制と合戦の経緯を通じて変化した結果が次の時代を生み出したのだというニュアンスを多分に含みながら。その流れの中で、玉である安徳天皇と三種の神器を奉ってしまったが故に源平並立と言う姿に立ち戻れず、繰り返し勢力を盛り返し、強力に抗いつつも西海に沈みゆく平氏への哀愁を、研究者としての筆致とのぎりぎりの狭間で描く本書。

著者の心象や偶然性の扱い方にやや疑問を持たない訳ではありませんが、史料だけではなくその背景までも描写しようと心掛けた著者の筆致による平家物語を描く本書。

一部の平氏の名のある武将たちが都度に死に場所を求めたために、特に撤兵時に纏まりに欠けた戦闘を強いられ続けたと見做すような見解や、これまでであれば後白河の風見鶏的な振る舞いが指摘される部分が逆に頼朝と後白河の提携が一貫して当然として取り扱われる一方、義経の突出の背景に彼が範頼に強い敵愾心を持っていた事を前提として西国での戦線進捗の背景を描く点など。

プロローグとエピローグで丁寧に述べられる著者が描きたいと望んだ叙述や疑問と実際の筆致を比較しながら、考えながら読みたい一冊。歴史を背景を含めて描いていくという命題と、それを研究、史実として扱うという筆致のバランスを再び考えされられる著者の手による平家物語の先には、どんな歴史描写を見出されるでしょうか。

今月の読本「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)有閑弓騎から滝口へ。王臣子孫と郡司で描く収奪の古代史電車道の先に開く玄関口

今月の読本「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)有閑弓騎から滝口へ。王臣子孫と郡司で描く収奪の古代史電車道の先に開く玄関口

多くの読者に読まれる事を想定した、毎月刊行される新書。

飽和気味と言う言葉を遥かに超えた勢いの刊行数で毎月送り出されくるため、その内容には「まとめ系」であったり、明確な差別化やテーマ性の強い作品が求められる傾向が、近年特に高まってきているようです。

四六判の選書や叢書とは扱われ方が異なる「戦乱」の中に、明らかに議論を呼ぶテーマを掲げて、専門家ではないと断言する研究者が飛び込んだこの一冊。

今回は「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)をご紹介します。

著者は中世史の研究者ですが、儀礼、儀式から社会的な秩序を体系化する研究に携わっているとの事で、本書がテーマで掲げる武士が専門の研究者ではありません。また、前著となる「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)も著者の研究テーマである儀礼の空間としての平安京をテーマに、京都学の講義を行った内容を書き下ろした一冊。著者の研究内容から見るとサイドメニューに相当する本のようです(サイドメニューは当該叢書シリーズが掲げるテーマですので、むしろ的を得た設定です)。

本書についても、著者の研究を進めるにあたってどうしても決着を付けておかなければならなかったテーマと称して議論を進めていきますが、その議論にはある前提が付されています。

武士論を掲げる数多の書籍、研究者、執筆者の中で、下向井龍彦氏と高橋昌明氏の両名の研究成果を軸に綴られる議論の骨格(更に補足すれば、古代史研究者の森公章氏の豪族に関する研究)。両者の基本的なスタンスに同意を示すと同時に、その論点における弱点を突き、傍証が足らないもしくは出来ないと断定する部分に対して著者自らの試案を組み入れていきます。

新書と言うフォーマットではやや厚めな300ページ越えですが、聖武帝以前から始まり、平将門の乱で一旦議論が終わる長大な時代扱う一冊。唯一点の結論が得られれば良いと称して、その間の著述は正に電車道の如く、他の議論を排しながら一本調子で突き進んでいきます。

本文中に織り込まれる著者の視点、古代豪族に発祥を持つとする「有閑弓騎」と、滝口の人員から見た律令国家の病巣の元凶と見做す王臣家からの武士の発祥、更には武士と言う名称の生み出された素地。

自らの高校時代における弓道の経験(前著で著者は鍋島武士の家系であることを述べています)を起点に、前述二人の研究者が提唱した内容に対して著者の独自性を求めます。蝦夷の騎馬と抜刀技術より更に古い、弓と騎乗の技術をもった古代豪族の子弟を称する「有閑弓騎」の系譜を受け継ぐ郡司とその末裔たち。墾田永年私財法を起点に地方からの収奪を目指す王臣家とその手先となった末裔たちである王臣家人。彼らの母系とその間に降り立った、間引きされ大量に臣籍降下した直近の王族たちの男系が地方で結びつく事で、正に「武士が生み出された」としていきます(ここで著者が利仁将軍こと藤原利仁や俵藤太こと藤原秀郷の出自特異性について拘る点は論拠含めて要注目で)。更には、彼らが京と往還する事になる送り込まれた先が、正にその名称が使われる発端となった「滝口」で有る事を将門の伝承から認めていきます(つまり冒頭では一点と称するが、実はハイブリッドであることを著者自らが示します)。

前著に於いて、古代王朝が律令制を受容するにはその国力規模も実力も不相応だったと断じた著者。律令制崩壊の起点である、土地政策の弛緩化から中世の胎動を見せはじめる段階までを、律令国家を支えたであろう朝廷や天皇、廷臣たちの姿をある意味嘲笑するかのように、地方行政の混乱を惹き起こした張本人たちこそ、その制度下では有限のポストに代を継ぐことであぶれてしまう彼ら王臣家と其れに繋がる者達であると断罪し、彼らの存在こそが武士の発祥を促したとの筆致で貫かれていく本書(著者は武家社会こそ貴族制であると応えます)。

一見非常に明快で、先行研究を一瞬で置き去りにしていく筆致に読まれた方には爽快感すら与えられるかもしれませんが、素直には喜べない実情もあります。

前述のように、本書の基本的な骨子は著者の視点による地方を重視した古代行政史を軸に、前述の研究者の方による先行研究の成果を援用する形で描いており、その弱点を著者独自の視点で置換していきます。実は表題や帯にあるような決定打的な表現とは裏腹に、その基盤となる議論の推移は先行する数多くの研究者の成果に依拠しており、ピンポイントで著者の持論を持ち込み推移の中に織り込む事で、それが全体観であると言っているようにも感じられてしまいます。更にその持論を投じる際も、他の先行研究に関しては検証できない、答えていないと断じる一方、自らが挙げた論点については「可能性」「十分」といった言葉をあっさりと使ってしまうため、かなりの片手落ちに感じる事も事実です。

むしろ本書は、同じテーマを扱ってきた書籍では断片的、ないしは迂遠で読みにくかった内容を著者の豪快な筆致に身を任せで読み進める事で、俯瞰で読ませた上で著者が投じたとする(かもしれない仮説):P.278に対する疑問、武士の発祥という議論のテーマへと導くための玄関口としての一冊。

冒頭で述べられるように、本書では新書で省略される事の多い注が敢えて添えられており(補注としての記述まであればなお良かったですが、それは文庫化の時にでも)、本文中に指摘される先行研究者の方が書かれた、比較的入手しやすい一般向け書籍も参考文献として列挙されています。

文章量はやや多く表現などは荒っぽいところもありますが、一気呵成の筆致で綴る内容は好奇心へと導いてくれる一冊。本書をきっかけとして、それこそ数多ある武士を扱った本を手に取った上で、色々と読み比べて考えてみるのも歴史に興味のある一般人の読書としての楽しみかもしれません。

それこそが不振を極める本屋さんの書棚の中でも貴重な、常に新刊が溢れ続ける新書という書籍がその先に広がる読書への入口としての役割と自負してきた起源でしょうから。

今月の読本「中世武士 畠山重忠」(清水亮 吉川弘文館)在地領主と御家人の狭間で二俣川の地に「武士の鏡」が生み出される時

今月の読本「中世武士 畠山重忠」(清水亮 吉川弘文館)在地領主と御家人の狭間で二俣川の地に「武士の鏡」が生み出される時

平安時代後半から徐々に浸透が始まり、その後明治維新まで長く長く続く、武士を支配層の中心に置く社会構造。

支配層となった彼ら武士達の多くが崇敬したのは、その体制を確立した源頼朝ですが、武士個人が自らの範として捉えらて来たのは、同じ時代を生きた畠山重忠ではないかと思います。

常に頼朝の先陣を務める誉を与えられる名誉に浴するだけの武勇を誇る一方、京の音曲にも通じた雅の心を併せ持つ東国無双の武人。その一方で謀反の疑いを掛けられても「名誉である」と受け応える傲慢さ、万騎が原の合戦による一族滅亡に仕掛けられた陰謀を知ってなお、嫌疑を晴らし矛を収める事を潔しとしない苛烈さと併せて、愚直で悲劇的なイメージすら有する人物かと思います。

同じ東国無双の勇者とされる熊谷直実と並び称される事もありますが、苗字の地たる熊谷を維持するのに汲々とせざるを得なかった直実に対して、畠山の地とは大きく離れた小山田氏が抑えていた武蔵の南限、終焉の地に当たる二俣川(鶴ヶ峰、万騎が原)もその勢力下に収めていたとされる、武蔵の国内で広大な領域に影響を及ぼす惣追捕使(惣検校職)という国衙の顕職を帯びる地域支配者としての重忠。宇治川渡河の一番乗りや一の谷合戦のイメージから、一人の武将として同列に語られる事も多い二人ですが、その姿や立ち位置は大きく異なるようです。

今回は、武士の鏡と称された伝説的な武人の英雄譚から少し距離を置いて、そのバックボーンから人物像を浮かび上がらせることを目指した一冊をご紹介します。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリーから、今月の新刊「中世武士 畠山重忠」(清水亮 吉川弘文館)です。

著者の清水亮先生は鎌倉幕府のお膝元、神奈川の出身で一貫して関東地方の大学で研究歴を積まれた方。現在は重忠の本拠があった菅谷館も近い、埼玉大学で教鞭を執られています。郷土史の委託研究をきっかけに重忠の研究に取り組むようになった著者。その中で、鎌倉幕府草創期前後で常に議論される「武家」の位置付けについて、下向井龍彦氏が従来から提唱する見解に基づいて、所謂軍事貴族の下向、土着化と言う姿は認めつつも、勲功を得て在地に根付いてから長い期間を経た先に築き上げた地盤を背景とした彼らを「在地領主」として再定義していきます。

近年活発な研究が続く、中世期の発掘成果や街道、交通に関する交流史の成果をふんだんに取り入れて描き出す源平争乱期前から鎌倉幕府草創期に掛けての東国一の大国、武蔵に割拠した在地領主たちと、その影響下に置かれた「党」を主体とした武士団。その中でも、軍事貴族としての村岡五郎良文の系譜を継ぐ秩父平氏の一群、その頭目格としての畠山氏の発展と一族の継承争いから、在地領主としての姿を描き出していきます。

重忠個人の伝記としてではなく、近年の研究成果を踏まえた浅間山大噴火以降に始まる東国の大再開発時代に、広大な関東平野に流れる河川と交通路の要衝に蟠踞して勃興する武蔵の武士勢力。その頭目争いの推移と在地の武士たちと共存関係にある、彼らの利権に便宜を与えつつ群がる京の貴族層、争いに介入した河内源氏一族の動きから、畠山家の成立(ここで畠山という荘園は存在しないが「庄司」を名乗る点にも注目)と頼朝挙兵前の重忠の立ち位置を確認していきます。

重忠同様に軍事貴族としての系譜を有し、国衙の顕職を名乗り相互にネットワークを張る東国の在地領主たち。川合康氏の提唱に基づき著者は彼らを「在地系豪族的武士団」と称し、その影響領域「軍事的テリトリー」に付随する党や武士団を取り纏める立場であると定義します。その姿は軍記で描かれるものとは異なり、自らが弓馬を駆り白刃を交わして軍功を挙げる立場ではなく、彼らを取り纏め率いる長であった事を認めていきます。

婚姻関係で結ばれる彼ら在地領主たち。此処で興味深い点として、著者は重忠が三浦義明の継子孫という記述は間違いであり、それは頼朝の挙兵より前に亡くなった彼の兄に当たり、重忠自身は一族の江戸重次の娘が母であると指摘します。源氏と深い繋がりがある三浦氏の血筋ではなく平家との関係を取り持つ立場として生まれた重忠。その後、父親の重能と共に京に出仕していた事が想定されており、平家との深い繋がり、所縁を持つ人物であったことを示唆します。

棟梁である父親の重能が不在の中、ぎりぎりのタイミングで四代相伝の君に伺候する事になった、軍事貴族の末裔で平家に仕える京仕込というプライドが嫌でも高くなりそうな、武蔵の在地でも筆頭格に位置する豪族の若君。新たな主君となった頼朝からは常に警戒の目で見られ続ける関係であったようです。

その結果、頼朝を中心として東国の武士たちを取り纏めていく体制の先に構築される鎌倉殿を核に置いた御家人制度萌芽の中で、重忠は微妙な立場に置かれ続けます。遥か後年の室町時代に鎌倉公方の鎌倉府が古河へ動座するまで続く、鎌倉を中心とした為政者に纏め上げられる周辺の武士(党、一揆、武士団)たちと、その外縁に位置した軍事貴族の血統を引き継ぐ在地の有力者(小山、足利、新田にしても同じ)との熾烈な駆け引きの端緒。著者は同じような立場に立った御家人たちとの比較を試みていますが、上総広常のように討滅されなかったのは、ひとえに京の文化に親しみ、音曲にも優れた才能を持っていた重忠個人の人物を頼朝が好んでいたのかもしれません(弓の技量は怪しいが軍の先頭を担うに相応しい風格の持ち主だったとも)。

高い権威と家柄を誇りながらも鎌倉殿の権力の中枢からは遠ざけられていた重忠。しかしながら頼朝の死によりそのバランスが崩れると、権力抗争に自ら足を踏み入れてしまったようです。著者によると領地や権益を守る事に自覚的になったとする、御家人に成り得なかった在地領主としての矜持が頭を擡げた先に突かれる事になる、北条時政による謀略から二俣川(鶴ヶ峰)の戦場での滅亡。

著者による重忠の人物評と併せて語られる、合戦の際に御家人たちが見せた重忠への立ち向かい方(此処でも三浦氏との確執の片鱗が浮かび上がります)。議論が分かれる北条義時の重忠への評価、更には歴史的な重忠の評価についても、この戦をピークとして、それまでに御家人たちが積み重ねてきた記憶が重なり合って、英雄譚としての重忠像を作り出したと認めていきます。重忠自身が抱く背景と、当時の知識階級の人々や御家人たちが彼に仮託した在地領主たる「武士」の生き様。その中から後代の武士たちが模範とした、家名と伝領する領地を誇り、武勇を貴び、礼儀と教養を兼ね備えた英雄としての姿が生み出された瞬間。更には英雄像としての重忠の伝承を強く意識し続けたのが、血縁に当たるあの島津家であったという著者の指摘も実に興味深いです。

表題にある重忠の物語は此処までですが、その栄光に生まれ変わった家名の行く末を伝える為でしょうか、本書ではその後に畠山の家名を継いだ源姓畠山氏、室町時代に三管領と称される家系に繋がる物語を最後に綴ります。

武士の鏡と称される人物像を周辺から描き込む一冊。ほんの少しロマンチシズムを漂わせる重忠本人の人物伝としてはもちろん、重忠、秩父平氏一門の動きから、武士の勃興から始まり、鎌倉幕府草創期前後までの東国、武蔵の状況と、鎌倉殿を軸にした御家人制度が生み出される過程を流れで捉える事が出来る好著。

流石は歴史専門出版社の吉川弘文館さんらしく、歴史文化ライブラリーだけでも関連書籍がこれだけ揃います(私が現在持っているのはこの10年程度で刊行された分だけですから、実際にはさらに多くの関連書籍がシリーズとして収蔵されています)。

巻末に豊富に掲載された参考文献をご覧頂ければ判りますように、掲載した書籍は相互に深い関連があるものばかり。色々と読み比べてみると、更に東国の歴史への興味が深まるのではないでしょうか。

<おまけ>

本サイトの何処かで書いていたと思いますが、私が長く暮らしていた場所は重忠終焉の地のすぐ近く。北条の大群と遭遇した場所とされている万騎が原が幼少時代の遊び場でした。当時、区役所が主催していた地元の歴史史跡や企業を探訪する企画に参加して重忠の旧跡を訪ね歩いたのが小学校四年生の頃。私が歴史好きになったきっかけは、実に畠山重忠の物語とその史跡にあります。地元の歴史に触れる事は、きっと歴史好きになる扉を開いてくれる。そんな想いを抱かせてくれた重忠の物語と、最新の研究成果で描かれるその背景を改めて噛み締めながら。

今月の読本「島原の乱」(神田千里 講談社学術文庫)中世から見た最後の一揆と百姓たち

今月の読本「島原の乱」(神田千里 講談社学術文庫)中世から見た最後の一揆と百姓たち

世界文化遺産登録に伴って、各種の書籍やTVで多く扱われるようになった、長崎を中心とした近世のキリシタンとその信仰。

テーマの中核に据えられた、苛烈な弾圧に耐えながら敬虔な祈りと信仰をひっそりと護り続けたという扱われ方については、以前からその信仰形態や弾圧の実際について史学、宗教学の観点からより慎重な議論が必要であるという見解もまた見受けられます。

特に、その宗旨と信仰心から、領主の圧政が主因であるとも述べられる、最大にして最後のキリシタン蜂起である「島原の乱」と前述のテーマには、印象として大きなかい離がある事も事実です。

様々に述べられる乱の本質について、それは宗教一揆であると明確に述べられる一冊を今回はご紹介します。

今回ご紹介するのは、2005年に中公新書から刊行され、今年の8月に講談社学術文庫に収蔵された「島原の乱」(神田千里)です。

著者の神田千里先生は中世史の研究者。特に一向一揆や中世の信仰に関する多くの著作を有される方です。九州北部や長崎を拠点に研究を行われる方が多い、前述のテーマを扱われる研究者の方々とは少し系統の異なる、どちらかというと中央における歴史の推移を研究されてきた方。

本書を綴るにあたって、そのバックボーンとなる九州におけるキリスト教の受容や禁教に入った以降の潜伏した宣教師、キリシタンたちの信仰的な態度について述べられる指摘の多くは、前述の研究者の方の研究成果を引用する形で紹介していきます。領地を挙げて改宗を受け入れた先で、既存の神社仏閣を破壊し、信者、神職や僧侶を在所から追い立てた、伝道の勝者としてのカトリック。その中でも会派や宣教師よって異なる為政者への近づき方、その見返りに求められた苛烈を極めた既存宗教への「弾圧」といった、受容しなかった側が受けた迫害の側面の指摘はそのまま踏襲されています。

その上で、中世史の研究者である著者が着目する点は、乱の趨勢を決めるキーとなった「百姓」達の動き。

著者の視点では、近世に入った当時でも中央に於ける兵農分離の掛け声とは裏腹に、統治者としての武士と百姓の力関係、共存の関係はそれほど変わっておらず、乱を起こす側も鎮圧する側のどちらも百姓たちの「一揆」を取り纏めなければ始まらないという点を、島原の乱に参戦した幕府側の陣容も示した上で明示します。

私領の集積である近世幕藩体制において、それ以前の豊臣政権期から中央からの威令の伝播が領地ごとに大きくばらつきが出る点を指摘する著者。それは宗教政策としてのキリシタン禁令についても同じことが言えると指摘します。追記されたあとがきでは、更に他の研究者の方によるその後の研究成果を引用して、乱の僅か4年前まで当地では宣教師が潜伏し信仰が継続していた事を採り上げ、信仰を核とした一揆としての百姓たち、それを先導した指導者層の棄教はそれほど進んでいなかった点を指摘します。

水面下で持続していた信仰とそれでも年々強まる禁圧、領主の圧政、飢饉という複数の要因が重なって始まった乱。その発端はこれまで述べられてきた説を踏襲しますが、著者はより伝道の勝者としての過去の側面、排他的な形態を採る事を厭わなかった、堅く信仰に立ち返った人々と、著者が述べる「日本宗」と称すべき本地垂迹から続く神仏習合の信心を踏まえた人々、為政者たる武士たちの間を、中世の一揆同様に自らの生存を賭けて行き交う百姓たちの趨勢が乱を動かしたと示していきます。

乱の発生から緒戦の圧倒的なキリシタン勢力の攻勢の一方で、要地である長崎へ侵攻できなかった事で一地方反乱に留まる事となった乱の現実。迅速な周辺諸藩の参戦により乱が大きく波及することを狙った指導者たちの思惑が外れると、逼塞の中から再び蠢動を始める百姓たち。双方に付いた百姓たちは決して堅固な意思を以て従っていた訳ではない事を、離反した人々の言葉を集めて解説していきます。豊富に述べられる戦乱自体の推移からみた双方の思惑。籠城後も依然として外部、殊の外に他のキリスト教勢力からの支援を受けられる可能性に一縷の望みを繋ぐ籠城指導者層の思惑を挫く、オランダ船の砲撃(国辱であるという意見を汲み入れて松平伊豆守は引き上げさせたようですが)。自殺を許されないその信仰から、滅亡を望む籠城はそもそも有り得ず、中世の一揆の戦法を引き継ぐ指導者たちも打開策を具えない籠城を選択する筈はないと断言します。

要地を抑えて更なる同心者を募るか救援を待つ、さもなくば緒戦の勢いに乗じて相手が戦力を結集させる前に、妥協としては最も有利かつ唯一の条件と考える、水面下では僅かに見逃されてきた「信仰の維持」を呑ませるか。

その信仰する姿が素朴で現世利益的な民俗信仰的とも評価され、カトリックの信仰を継承していないと見做される事もある中世期の日本におけるキリスト教の受容。それ故にこの乱が一部の指導者による信仰心とはかけ離れた扇動であるように指摘する論調に対して、一向一揆の研究を通して日本の宗教史にも深い造詣を持つ著者は、譬えそのような側面があったとしても信仰心に違いはないと明確に指摘します(それがなぜ苛烈な方向に進んだのかについても)。その一方で、2万から4万人弱とも謂われる籠城者達のうち約1万人は籠城中に逃散した事が推定されてきており、中世の一揆同様に自らの生存の為であればどちらへとでも動く百姓たちの生き抜くための姿も認めていきます。

援軍と妥協、どちらも叶わなかった先に対峙した原城での攻防。これまでの経緯から更に信仰への危機感を感じた時の為政者たる幕府は、その後に繋がる頑として信仰を受け入れられないという姿勢を乱の推移を通じて固める結果となったようです。

乱の本質に対して、宗教的な知見からではなく、少し前の世代の百姓たちの動き、その結集点である「一揆」を軸に読みとこく事を目指した本書。近世の途上に起きた百姓たちによる最後の武装蜂起の姿は、その後逼塞することになりますが、百姓たちの合議による集落を単位とした社会構造は近世を通じて維持され、その中で場所を変え、あるいは乱に参加することを良しとせず、カクレキリシタン(潜伏キリシタン)として息づいていった点も、文庫収蔵時に追記されたあとがきで示していきます。

本書は原著が2005年と近年の世界文化遺産登録に関連した書籍が揃いはじめる前に刊行された事もあり、著者によるとその内容を並置される事には忸怩たる思いがあるそうで、「学術文庫版へのあとがき」として20頁程の追記がされています。

特に、近年の潜伏キリシタン関係研究成果への言及や、同書の後に刊行された同一テーマの著作については書名を挙げて検討を加えています。その中で上記に掲載しています一冊については、伝教期や潜伏期のキリシタン動向を著者自身も多く引用するキリシタン研究者の著作。当該書を最後までお読みになった方は、著者と同じようにそのスタンスに対する疑問を持たれたかもしれません。

乱の推移を中軸に置き、中世史と言う歴史的な流れから乱の本質を説き起こそうという本書に対して、カトリック伝来から説き起こしていく事でキリシタン信仰の受容と強勢、禁教という一連の信仰の流れから乱の姿を読み解いていく一冊。併せてお読みいただくと、より一層の議論が深まる筈です。

今月の読本「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)帯刀から廃刀まで、武装と虚栄の狭間を綴る近世史

今月の読本「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)帯刀から廃刀まで、武装と虚栄の狭間を綴る近世史

日本では銃刀類を所持する事は法律で厳しく規制されていますが、太平洋の向こう側、アメリカでは様々な議論や悲劇的な事件が繰り返されつつも決して全面規制には至らない理由に「所持する権利と自己防衛」という論点が繰り返し述べられている事は、よく知られていると思います。

時に野蛮なと捉えられるアメリカでの銃の所持。では日本では昔から武士以外は武器を持つ事も、それを使用する事もなかったなどという筈は無いかと思います。

何時の頃からか武装することを止めた日本人。今回ご紹介するのは、その変遷を近世史として俯瞰で教えてくれる一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリーより、7月の新刊から「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)です。

著者の経歴を見るとおやっと思ってしまいます。仏教系大学で学位を修められていますが、その専攻は近世の農村と百姓の研究。本書の表題だけに着目してしまうと、今年は多数の新刊が各社から刊行されている、幕末から明治維新期を扱った作品の一環とも見えますが、本書の過半は江戸開府以前から幕末までの記述で占められており、より広範な近世史として捉えられる一冊になっています。

200ページ前後が多い本シリーズの中では少しボリュームのある260ページオーバーの前後編に近い形で綴られる本書。明治維新を境にその内容は大きく変わりますが、著者が着目するテーマは一貫しています。刀を帯びる(=帯刀)という意味合いと、庶民は武装していたのかという二つの扱いが混乱している点を整理したうえで、近世史におけるその推移を追っていきます。

刀を帯びる事の事例を拾うに当たり、著者が選んだ場所は幕府の法令が明確に示される江戸と、旧来からの因習が江戸期に入っても強く残る京、そして都市部との比較としての農村と言う三つの舞台を比較していきますが、冒頭である通説に対する否定を述べていきます。

即ち、秀吉の刀狩によって民衆が刀の所持を放棄し、それによって兵農分離が進んだという教科書的な見方は極めて限定的であると明確に否定し、江戸幕府は刀を保持することを否定しておらず、旅行時や特に農村において刀を帯びる事は明治の廃刀令が出されるまで営々と続いていた事を明示します。その上で、武士以外の刀を携帯する様式を規制したのは、傾き者対策の一環として、都市部における町人と武家の識別を行う事(=帯刀、二本差し)から始まったと指摘します。市中の風俗対策として始まった制度、従って幕府としては町民や農民が刀を帯びる事を全く否定はしておらず、そのような意味では西部開拓時代同等、自力救済的な武装を容認していた事が判ります。但し、威圧的な形で刀を帯びる事自体が風紀を乱すと見做された経緯からも、その形態には様々な規制が掛けられ、アメリカの銃規制そのままに、長大な刀から脇差として寸法が狭められていく過程を、刀剣の形態や携帯する方法の変化から示していきます。

また、本書で極めて興味深いのが、前述のような経緯を更に補完する為に京における事例を添えていく点です。近世の特徴として為政者たちの支配領域の重複が数多ある中、支配する側としては相互の干渉を嫌う一方、その立ち位置故に双方に従属せざるを得なかった、旧来の支配家の差配による朝廷の行事や神事、仏事に携わる市中の町民(広義の地下官人)や郷士(土佐の郷士とは異なる、由緒のある農家)に対して、非常帯刀という、その職務に当たる時だけ帯刀を許すという、回避手段を設けた点を示しています。

武士とその他の人々を峻別し、それを苗字帯刀と言う形で示すようになったのは漸く元禄を越えた辺り、更には前述の人々や修験者など例外が数多くあった事を示し、此処に初めて武士だけではない、現代で云う公職に限りなく近い身分を示す「帯刀人」という、新たな階層が生まれた事を見出していきます。

前述のように、その規制が始まった段階から複雑な例外が設けられていた帯刀と帯刀する人々。幕府が安定してくると、早くもその例外を通じて帯刀を求め始める人が現れてきます。始めは前述の京における非常帯刀と同じ、元来町民身分でありながら幕府の役を務めていた家の当主が、規制によって生じた(差)を埋める事を求めて運動を始めます。町民と武士を識別する為に生み出された、見える形での差を示す帯刀。既に武器としての役割を果たさなくなった帯刀が生み出す、今度は視認による身分差、家格差、優越感。更には火事場、大工や水主等の現場作業における上下関係を威圧として示すため、標識としての帯刀が渇望されていく様子が描かれていきます。

田中丘隅の言葉を借りて、他者に対する優越感を生み出すその悪弊を指弾する意見に同意を示す著者は、これ以降に頻発される(田沼時代から増加するという見解に対して、そのように見做せると)褒賞や対価を伴う利権化した「名字帯刀」に対して苦々しい想いを隠さず、更には由緒を捻じ曲げてでも帯刀する格式を求める人々に対して否定的な想いを込めて、その推移を虚栄と弛緩と捉えて述べていきます。また、褒賞を受けて権利を得た町民たちだけでなく、武家奉公人としての職務を離れた者や神人、医師、鋳物師等の旧来の免許制度の延長に帯刀を求める人々が刀を帯びる姿から、江戸時代は武士だけが刀(=帯刀、二本差し)を帯びるというイメージとは大きく異なり、多くの町民や農民たち、更には女性であっても護身のためには当然として、普段は腰に帯びなくても仏事や神事ではいずれも威儀を正すために刀を差し、数多の武士以外の帯刀人も都度に合わせて帯刀をしていた事を示していきます。

自己防衛のための武器と言う位置付けから大きく離れて、威儀やステータスとして刀を持つ事は当たり前のように記される江戸期から、明治維新期に入るとその姿は大きく変わっていきます。所謂廃刀令をピークに段階的に規制される刀の所持。その意義を検討する中で、著者は興味深い視点を提示していきます。すなわち、明治新政府にとっての廃刀令の端緒は、幕末に弛緩した帯刀の権利を制限する過程で生まれたと見做していく点です。表面上は四民平等を謳いながらも、実質的には新たな官吏とそれまでの権利を保持する士族、その他の平民と言う3段の階層構造を持ち込む事で、旧来から続く、藩と幕府、武家と町民、更には公家や地下官人、神社寺院などの複雑に入り組む階層構造と、顕彰や一種の公職としての地位の清算を狙った政策。この政策の完成された姿としての、士族を含む官吏以外のすべての市民の武装を取り除く(所持までは否定されていない点に注意)事で、平等化したことを視覚的にも示す廃刀令。

ここで更に興味深い点が、刀を携帯するという、江戸時代にはステータスとされた権利を旧弊の象徴として意味づけを置換していく過程で、著者が福沢諭吉を持ち出す点です。曰く、「斬捨御免」と言う言葉自体、彼が生み出した造語であり、旧弊の象徴として、その武具である刀を保持する事への、幕末期の世情を踏まえた嫌悪感を醸成させたと見做していきます。加えて、官吏の洋装化が帯刀の不便さを助長させ、官吏側から常時帯刀の解除を求める請願が集まって来た点を捉えて、最終的には帯刀だけではなく刀(=武器)を保持する事自体に否定的な世情を生み出した上での廃刀令に至った点を当時の新聞記事などを援用しながら解説していきます。

戦国の混乱期から長く続いた全員武装状態から、現在まで続く自衛手段を含めて日常的に非武装となった日本人。その過程で生じた「帯刀」という名の、識別子がどのように変化していったのかを辿る本書。著者は刀狩りから続く偃武の完成が武装を放棄させたと見做す視点に明確な否定を示し、むしろ江戸時代を通じて遥か彼方に遠ざかっていた武装する意味合いを再び目の当たりにする事になった、白刃が斬り交わされた幕末維新期の不穏で殺伐とした状況への嫌悪感が、個人が武装するという中世末から連綿と続く状況の否定を容易に受け入れる素地となったと指摘します。

廃刀令によって生み出された物、それは近世と言う封建身分制最後の時代にその象徴として捉えられる感もある帯刀に重ねられた虚飾に対しての否定ではなく、その本質であった武装するという姿が否定された結果、初めて武器を持たない市民と言う現代の姿が生まれた事を示唆します。

歴史文化ライブラリーらしいテーマの中に、当時の識者の言に託して要所に著者の想いを織り込みながら。江戸期における為政者側の認識や視点がやや見え難い点がちょっと残念なところもありますが、興味深い著者の視点が豊富に盛り込まれた、余りに当たり前のようで実は充分に理解されていない歴史上のポイントとして、改めて考え直してみたくなる一冊です。