今月の読本「東大寺のなりたち」(森本公誠 岩波新書)聖武帝の華厳への想いを胸に、大寺の生み出された姿に時代史を映して

今月の読本「東大寺のなりたち」(森本公誠 岩波新書)聖武帝の華厳への想いを胸に、大寺の生み出された姿に時代史を映して

日本を代表する寺院であり、古い歴史と巨大な大仏を擁する南都の大寺、東大寺。

その歴史は決して平たんではなかったことは、度重なる兵火や大仏殿の焼失と復興、大仏自体も再建を繰り返している事からも知られています。そして、巨大な寺院につきものの強大な財力と政治力。時の政権を左右する程の力を有したその根源には、宗教的な信仰心以上に、その巨大な基盤があった事に論を待たないかと思います。

しかしながら、その巨大な信仰集団であり、最大の仏像を擁する大寺である東大寺も元を辿れば、何もなかったはず。では、どのようにしてそれだけの基盤を築いたのでしょうか。

今回ご紹介するのは、東大寺の別当を務めた長老がその源泉を広く時代史として解き明かしていこうという一冊です。

東大寺のなりたち」(森本公誠 岩波新書)のご紹介です。

著者の森本公誠長老は、元華厳宗の管長かつ、東大寺の別当を務められた方。現在も長老として山内に留まられています。東洋史にご興味のある方には、イスラム史の研究者としてご存知の方も多くいらっしゃるかもしれません。

京都大学で仏教とは異なる分野の学位を修めた研究者にして、東大寺のトップを務められた方が綴られる東大寺発祥の歴史。その経歴から、老齢の僧侶の方が書かれる法話にあるような、柔らかな物腰の筆致を想像されていると意外に感じられるかもしれません。

むしろ歴史研究者の筆致と言ってよい、硬質で透徹な筆遣いで綴られる、奈良時代から平安時代初頭(清和天皇)に至るまでの通史として描かれる一冊。あくまでも新書で描ける範囲の通史なのですが、その視点が東大寺を起点に描かれる点がとても新鮮に感じられます。

東大寺の発祥から現在の寺地に繋がる経緯の検討から始まる冒頭。既にその内容は国家鎮護としての寺であるという東大寺の一般的な見方から大きく離れた存在であったことが示されていきます。天皇家の私的な鎮魂、基皇子追悼としての山房から発祥した東大寺の寺地。その経緯に変転を繰り返した聖武帝の想いを重ねていくのですが、著者はより積極的に政治的意図に基づく変遷であったと示していきます。

既に聖武帝を扱った著作を有する著者が最も力を入れて綴る、帝の仏教、特に華厳経を下地にした政治姿勢を説く「責めは予一人にあり」から続く聖武帝の治世の展開と大仏開眼をピークに描かれる東大寺の発展。僧侶、それも東大寺の元別当の方が書かれた著作だと思って読んでいくと、明らかに歴史研究者としての筆致が勝ると感じられる部分。度重なる天候不順と飢饉に対する減免政策を綴る段には確かに宗教的な姿勢が見られますが、それ以外の部分、特に東大寺や大寺院と当時の政策との関係を綴る部分は極めて冷静かつ、括目される内容がふんだんに盛り込まれています。

大仏建立自体の位置付けを見出す部分で豊富に描かれる、近年の研究成果を取り込んだ当時の政策課題、困窮者の収容と土地政策の見直し。著者はこれらの解決策の一環としての大仏建立があった事を認めていきます。

墾田永年私財法による大寺院の田畑私有化や布施による奴婢の囲い込み、更には行基に対する態度の豹変。これらは全て連動した困窮民対策であり、彼らが擁する優婆塞としての技能者の囲い込み。その先に続く、彼らを正規の僧籍に移し替え、更には国家鎮護の核となる国分寺に配する僧侶へと変える養成機関としての中核寺院の確立。最終的には鑑真の招来によって達することになる、戒壇の設置による質的確保まで。その全てが華厳経を下地に大仏建立を軸にした聖武帝による一連の政策として行われていた事を指摘します。

国家鎮護と言う命題を遥かに超えて、国家戦略の根本としての役割を担う寺院として作り変えられた、平城京の地に再び戻った先に置かれた東大寺。開眼供養を目前にした遣唐使、新羅使の派遣と新羅王子の朝貢とも捉えられる開眼供養直後の来訪。そこには、広く当時の北東アジアに広まった政治的指針の中に織り込まれていた華厳経の受容を示す確固たる象徴としての役割も担っていたとしていきます。

本書のクライマックスでもある、開眼供養の準備段階から盛儀の様子を少し誇らしくもじっくりと述べ、その後の僧侶たちへの布施を述べてた後(此処で開眼師でもある菩提僧正の扱いが、引導する官人の官位や布施からも一段低く見られている点が極めて興味深いです)、聖武帝の崩御で閉じられる前半。表題のように東大寺の成り立ちだけを綴るのであれば、この辺りで筆を置いても良い筈なのですが、本書は更に筆を進めていきます。それは東大寺が置かれた姿をしっかりと時代史の中に位置付ける為。

聖武帝が崩御した後に起こる、藤原仲麻呂の専横と称徳天皇(孝謙天皇)との確執、更には道鏡の寵愛に至る政局の混乱。女帝故の継承者問題を抱え続けた時代におけるキャスティングボードを、大仏建立に際して肥大化した財力とそれに伴う武力が温存された東大寺、俗世の権能である造東大寺長官が握る事になった事を示していきます。吉備真備の動きを軸に描いていく、天武系から天智系への王朝家系の交代による平安遷都と奈良に残る寺院への財政的な締め付け。自らが座する一山の事であっても、著者は冷静にその政策の意図を示していきますが、その先にある想いを乗せていきます。

最後に綴られる、平安初期の大仏頭部の落下による破損から復興に手を挙げた人々の物語。著者はこの事実こそ、今に繋がる東大寺の意義を示すものだという想いを述べていきます。最後は心情的に述べていく、聖武帝から発し、受け継がれる想い。一枝の草・一把の土を以てという、人々の想いが募って支えられるという本質に立ち返った時に、その結集点である大仏を擁する東大寺が生き続ける事が出来る。その後に繰り返される戦乱や災害の中でも繰り返し復興を遂げてきた拠り所としての発祥の想いを再び呼び起こしていきます。

京大時代の恩師である宮崎市定先生が述べた言葉をおわりに載せてその想いを述べる、著者が止住されるその大寺に委ねられた本当の想いを時代史の行間に織り込み描き込んだ本書。題名の印象と異なり、研究者であり宗教家の方が書かれた本として、一読して決して易しい内容ではありませんが、行間に込められたその想いが滲み出てくる一冊。

本書の前に読んでいた、著者の前の管長・別当であり、昭和の大修理を主導した平岡定海師の著作「大仏勧進ものがたり」(吉川弘文館)。本書で描かれた後の時代、その後も繰り返される修復の足跡と、その難事業に挑んだ歴代の勧進僧たちの苦心を人物史だけではなく、当時の為政者たちの視点や、建築史や技術史としての側面を踏まえて描く。本書同様に、広範な知識を積み重ねられる、歴代の東大寺別当の学僧として深い学識を有される一面が垣間見える一冊です。

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今月の読本「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)聖具から道具へ、 行政史が示す踏ませることの意味

今月の読本「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)聖具から道具へ、 行政史が示す踏ませることの意味

今年は長崎のキリスト教関連史跡が2度目の挑戦となる世界遺産登録を目前としている事もあり、各社から多数の関連書籍が刊行されています。

特に、歴史的な悲劇としての迫害と弾圧、奇跡と復興と言うイメージを強く印象付ける作品や、それらの視点の根底にあるカトリックとしてのキリスト教受容を問う内容に関する書籍は既に一部で採り上げられるようになってきましたが、その素地となる史学としての研究成果については、あまり言及されていないのが実情のようにも感じられます。

そのような中で、禁教期の象徴として捉えられる遺物に纏わるテーマを史学として正面から捉えようという一冊が登場しました。

今回ご紹介するのは、何時も新刊を楽しみにしている、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリー最新刊から、「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)をご紹介します。

本作の著者は熊本大学で教職に就かれている近世史の研究者、特に江戸時代の長崎を中心とした行政、法制史を専門とされている方です。従って、昨今多く刊行されている関連書籍の著者や登場される方々とは逆の立場、禁教を推進した側、当時の江戸幕府や長崎奉行、九州各地の藩や天領支配からみた禁教政策を描くことになります。

一時期、カトリック系の大学に籍を置かれていた事をあとがきに記されていますが、本書では中立的な著述を踏まえると敢えて述べており、心情的な筆致は最後に述べられる遠藤周作の『沈黙』が描く踏絵の姿を評する際に、僅かに添えられるに過ぎません。

長崎に生まれ、九州をフィールドとする近世史の研究者である著者が綴る「踏絵」のストーリー。冒頭では教科書記述の錯誤を正し、読者の歴史認識を整理する為に、ザビエルによるキリスト教の伝来から禁教に至る経緯から述べる本書。禁教期の幕府や各藩の政策やキリシタンの露見、そして開国後の禁教政策の段階を追った解除に至るまでの概要を示しますが、まずは多く流布しているこれらに関するお話や認識が、あまりにも誤謬と誤解に塗れている事に改めて気づかされます。前述のように総論の記述は高等学校の日本史教科書レベルの筈なのですが、江戸時代の禁教政策がどのような形で始まり、開国後も最終的には大日本帝国憲法の発布を待つまで(ほぼ)解除されなかったのかを、史学、特に法制史や外交史として再認識する必要がある事を指摘します。其処には、江戸幕府から明治新政府における文書行政による法秩序、対外的な施策を含む政策の継承性、一貫性と言う近世国家が作り上げていった規範の推移が、禁教政策を事例として示されていきます。

史学としての理解を前提とした上で述べられる各論。長崎奉行、代官の成立から職務範囲、その中で踏絵の発祥と成立から議論が始められますが、ここで判っているようで全く判っていなかった事実に突き当たります。踏絵が何処までの範囲でどのように実施されていたのか。本書の中核となる、九州各地における踏絵の実態に追っていきます。「絵踏」(「踏絵」と、この呼び方の検証は本書の冒頭にて議論されています)と呼ばれる行為自体が九州でも限られた地域、そして踏まれた遺物の分布をみても、長崎奉行と九州の極僅かな藩が所有する以外には会津に存在したことが判っているだけで、極めて限られた地域での実施であった事を示します。また、各地で鋳造や絵で描かれた踏絵が作られたとされていますが、その殆どが明治以降のキリシタンブームによって捏造、模造された物であると指摘します。現在東京国立博物館に収蔵されている、長崎県令から明治政府の教部省を経て、最終的には時の太政大臣、三条実美の決裁により国が管理する事になったこれらの踏絵や江戸時代に長崎奉行が管理していたキリスト教関連遺物。外交問題としても捉えられるほどに重要な物品として取り扱われる踏絵の管理は幕末まで厳重を極め、その管理や連年繰り返される各藩への貸与自体が、九州における幕府、特に出先機関である長崎奉行の権威と統制を示す行為の一環であったことを認めます。

そして、絵踏みを行う行為について、著者は行政史の専門家としてその実態を各地の記録から丹念に拾い上げていきます。その中で著者が繰り返し述べていく事、「踏絵」という行為の変質。本来はカクレキリシタンをしらみつぶしに探し出すために、メダイやプラケット、宗教画をモチーフにした「聖具」を踏ませることによる、信仰心を突き、宗教的良心の圧迫と背徳感をもたらせるための異端探索であった絵踏みが、寺請制度と組み合わされた、人別帳確認としての行政行為の一環、制度が守られている事を確認する作業を遂行するための「道具」へと、長崎奉行所が主導して造られた、現在残されている鋳造品の踏絵を用い始めた時点で変質していったと指摘します。

為政者によってコピーされ、聖具としての魂の込められていない「道具」としての踏絵。それでも、連年九州各地(ここで薩摩や福岡、佐賀といった大藩や薩摩の属領を含む日向では行われていなかった点にも注目)、後に天領となった五箇荘にまで長崎代官所の役人を送り込んで行われる絵踏み。その行為は、前述のように長崎奉行所を軸に九州各地の藩や天領における住民に対する支配体制や法令順守の再確認の場であったことを示していきます。その結果、人別確認的な指向の強い非常に厳密に行われていた制度自体が、江戸後期になると藩によっては名誉的な名字帯刀を与えるのと同じような形で免除を与えたり、絵を踏む側の住民達にとっても、大勢が集まり、並んで絵踏みを待つ人を目当てにした屋台などが並ぶ「ハレの場」へと変容を遂げていた事を記録から認めていきます。

では、踏絵の本質であったキリシタンの詮索という目的が失われてしまったのか。此処で、著者は思いがけない見解を示します。禁教が続いてからも断続的に発覚した「崩れ」と呼ばれる潜伏キリシタン(この表現にしておきます)の発覚。しかしながら、江戸後期に至ると、発覚者自体を「キリシタン」とは認めず、別の理由を付けた処置を行う事になります。法制史が専門の著者の見解が存分に示される部分。天草崩れや浦上三番崩れ処置の過程から、為政者にとって「踏絵」を行っている以上、キリシタンは存在しないものという行政にとっての一貫性に対する誤謬を認める事は出来ず、類似した行為が発覚したとしても、それを「キリシタン」であると証明する手段が踏絵以外に存在しなければ、「キリシタン」ではない別の異端者である(この辺りは江戸時代の本山制度の理解も。処罰の対象は檀家寺側に)と定義づけられることになります。

隠れでもカクレでもない、もちろん(潜伏)でもない。そもそも「幕府が公認する」キリシタンではない。踏絵を踏み続け、先祖伝来の「異宗」を守り唱え続けた「心得違い」の者たち。

更には、天草崩れ発覚の経緯から、これらの前提がむしろ支配体制の弛緩をカクレキリシタン探索として幕府に暗示された先に発覚(島原藩が自ら長崎奉行に届け出る形に)した可能性すら匂わせていきます。本書でも述べられるように、余りの発覚者の多さに地域社会が崩壊することを懸念した長崎奉行を始めとした幕閣が敢えてカクレキリシタンとしての認定を回避したとも謂われる、江戸後期に起こった一連の崩れの処分(一方で、浦上四番崩れは自ら教会に駆け込みキリシタンであることを明確にしており、開国後の対外的な禁教維持の姿勢を示す必要性からも処罰に至ったと)。穿った見方をすれば、この本質の変容が、カクレキリシタンをしてカトリックとしての信仰継承性を有しないという一部にある論に対する、近世史からの暗喩にも思えてきます

その延長として、一部で喧伝される「出島のオランダ人も毎年踏絵を行った」という記述に対しても、その後のペリーによる回顧通り、唐人屋敷に集住する清から往来した貿易従事者達や漂流者(帰還した日本人を含む)と異なり、オランダ人には外交上の配慮から踏絵を課される事が無かったと改めて指摘します。

内政だけではなく、貿易や外交なども包括する時の政府(幕府)としての政策の一環であった、九州地方における絵踏という行為と、その継続性を示す道具である「踏絵」。

幕府のお膝元から遠く離れた地における支配体制の強化の一環とも捉えられるその制度の本質が変化していく過程を、行政としての「絵踏」から捉えた本作。表題にある「キリシタン」の部分は巻末の僅かな記述に留められていますが、その道具に秘められた歴史的な位置づけを史学として冷静に捉える。歴史と文化、其処に残された文物を学問的背景に基づいて綴る事をテーマにした本シリーズらしい一冊。

折角の機会ですので、豊富になってきたこれらのテーマを扱った書籍を手に取って、色々と読み比べてみるのも面白いかもしれませんね。

 

今月の読本「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)国文学で読み解く、描かれた物語が生み出す源泉

今月の読本「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)国文学で読み解く、描かれた物語が生み出す源泉

最近盛り上がりに盛り上がっている室町時代を扱った書籍達。その絶大な効果を看過出来なかったとばかりに、立て続けの新刊リリースに某社さんと入れ替わるようなSNSでの宣伝に力を入れ始めた歴史専門出版社さんや、某国営放送まで一枚噛んで来るとなると、もはやブームと言える状況にまで至ってしまったようです。

そんな中で、老舗中の老舗と呼べる新書シリーズが送り出してきた一冊。こちらもブームの便乗かと思って読まれると、ちょっと足元をすくわれるかもしれません。

今回は「後醍醐天皇」(兵頭裕己 岩波新書)をご紹介します。

前述のようにブームが続く室町時代とその直前である鎌倉末から南北朝にかけての時代を扱った書籍たち。そんな中で乱発される一冊であればもう辟易という想いもあって、本屋さんで見かけたものの暫くの間は手に取る気にもならないというのが偽らざる思いでした。しかしながら著者を改めて見てふと思い出したのです。1996年度のサントリー学芸賞を受賞した「太平記<よみ>の可能性」(現在は講談社学術文庫に収蔵されています)の著者ではないかと。大胆な切り口で太平記という、語り、読み継がれた読物が歴史の中で営々と与え続けたインパクトを現代にまでテーマの羽を広げるその著述には恐ろしさすら感じたものですが、展開されるスケールの幅広さと内容は実に魅力的でした。

今回の一冊も、10余年を費やして手掛けた、同じ版元から先年刊行された、著者のメインテーマである「太平記」の校注完了を承けての著作。その間に太平記と向き合い、語り合い続けてきた中で改めて見つめ直した、描かれた物語と急速に深化する中世史の研究成果を重ね合わせる事で、近年「異形の王権」と称され脚光を浴びた後醍醐帝の姿を見つめ直していきます。

従って、本書に近年の文献、実証史学を中核に置いた史料批判に基づく著作にある、旧来の説を思想面を含めて論破していく筆致、理論で押していく圧倒感(読者が仮託する一種の爽快感)を求めると、大きな失望を感じられるかもしれません。特に、本書はあからさまに時代背景に歴史著述が変容する姿を是認する立場、むしろその変容を文学者として思想史的に捉え、援用の起点としての太平記の位置付けを読み取っていく立場を採って描いていきますので、相容れない内容と言えるかもしれません。

あとがきにあるように、敢えて自らを「日本文学」研究者だと任じて綴られる本書。そのため、本書では通史として後醍醐帝の伝記を描く体裁を一応は採っていますが、その実は著者が捉えたいと考えるテーマ、「太平記」に描かれた後醍醐帝とその描かれ方が、現代に至るまでどのような影響を与えてきたのかを軸に綴っていきます。

中軸となる建武の新政に至る道筋は、本質的には当時の京、御所の中で流行したとする、宋学(朱子学)をベースにした王権の復興を目指した点では衆目の一致する所かと思いますし、楠木正成(著者は「楠」一文字論を本書でも展開します)や、所謂無礼講への繋がりから、「異形の王権」論的な指向が底辺にはあった事を認めます。しかしながら、それは勤皇ではなく、花園天皇宸記を援用しつつ、朱子学を中心とした宋学の勃興と受容による、儒教による思想、絶対王政と中央集権による新政としての王権改革の一環であったと定義づけていきます。その結果は、家職制度が完成期に達した当時におけるヒエラルキーの破壊を生む事になり、ある種の破壊者として建武の新政と後醍醐帝が長く位置付けられる起因となった事を、当時の公家たちの記録から拾っていきます(この辺りの傍証とその視点を徒然草からも拾う皮肉の利かせ方は、著者ならではといえるでしょうか)。その一方で、厳しい天皇位継承の経緯から、如何なる状態でも自らを正当な王権の継承者として振る舞い続けた態度に万世一系が仮託されるという奇妙な捻じれを生んだ源泉が、伝統的な王権、文化の継承ではなく、実に外来の思想である宋学への希求に基づくという視点を見出していきます。更には、文寛と立川流の呪詛にのめり込んでいった象徴を有名な後醍醐天皇像に結び付けていく議論に対しては、南都の戒律復興以降に繋がる、旧来の宗派に囚われない活動の出来るの真言律の勧進聖として文寛の姿に着目します。その結果、後醍醐天皇像が聖徳太子へのオマージュとして描かせた物であるという見解に同意を示し、正に後醍醐帝が仏法すべてを具えた王権を目指していた事を改めて示していきます。著者はその延長として、数多の議論がなされていく太平記成立の事情とその著者の姿を、彼ら真言律僧に繋がる者達による原典の著述と、それに反目した三宝院賢俊や直義以降による改筆による、正史として変容していく過程から見極めようとしていきます。

宋学と律宗の復興といった新進の気風の上に建武の新政の思想的な支柱を見出していくという、鎌倉新仏教という表現に委ねられた時代の新規性とその伸展とも見える、少し前のイメージで綴られる著者の視点を提示した上で描かれる本書の後半。実は討幕以降の展開について、本書では後醍醐帝自身の治績や記録は殆ど語られなくなり、通史的な記述も縮小され、個別の細かいテーマに対する言及へと移っていきます。

前著に続いて著者が述べる太平記が与えた歴史的な影響。それは「太平記<よみ>」と述べた、数多にその内容が語り継がれ読み継がれて流布する中で史実を離れ、聞いた、手にした人々の恣意を加えながら思想や自らの存在意義を求める源泉へと転じていく姿を後の歴史の中に辿っていきます。

江戸期以降の思想に太平記が与えた影響が水戸学や国学を揺り動かし、宋学の根底にある朱子学、特に孟子の影響も多分に含まれる、婆娑羅や無礼講と言う君臣の交わり方が捻り込まれて、名分論、四民平等から、国民国家という当時の世界的な潮流に合わせる形で臣民へと継ぎ替えられていった点を指摘します。その上で、明治以降にこれらの風潮の中で発生したとする南朝正統史観にしても、新田氏を祖に持つと出自を潤色した徳川将軍家にとって、光圀の時代に於いても既に違和感のない認識であった(故に北朝以降は武家の為に存在したと断じた白石の議論も、儒者の視点では放伐と君臣を論じる点では齟齬を生じえない事に)と看破します。

この辺りの内容になって来ますと、もはや後醍醐帝の話とは全く異なってきますし、事実、本書は冒頭から末尾まで、表題には掲げつつも人物としての後醍醐帝を綴る事を意図的に避けている印象すらあります。

国文学者としての矜持に基づいて、史実を踏まえた上で太平記を読みこなした先に見える、後醍醐帝がその後の歴史の中でどのように捉えられてきたのかを現代の歴史研究への影響まで言及しつつ綴る本書。前述のように、後醍醐帝自体の治績や鎌倉末から南北朝期に掛けての通史としての流れを読みたい方にはあまりお勧めできませんが、今も数多の議論の中心に位置する「物語」が発し続ける影響の強さを感じてみたいと考えられる方には、未だ刺激的な著者の論考へのエッセンスを感じさせる一冊。

全巻刊行を成し遂げた著者の手による「太平記」校注を横に置きながら、平家物語と並び称さされる、軍記としての日本文学の頂点に位置付けられる物語へ込められた、読み解き続けられる想いを垣間見るのも楽しいかもしれません。

今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

実質的には長く鎖国状態にあった江戸時代の日本。それにもかかわらず、幕府も各藩も、更には民衆ですらも開国後の急速な海外から流入する言語や文化、道具や技術に柔軟に対応したように見えます。享保の改革以降に禁書政策が弛められた成果が大きい事には論を待ちませんが、それらの書籍を使いこなし、実際に自らの力に変えていった多くの人々によって、その素地が培われていたはずです。

今回ご紹介するのは、珍しい切り口でその伏流の一端を伝記として語る一冊「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)です。

まず、著者の珍しい経歴に驚かされます。ニコラ・テスラ(エジソンと直流/交流送電で争った人物、磁束密度の単位Tの元になった)の日本における顕彰活動を続けている方、およそ本書の執筆内容と異なるような感覚もありますが、時代背景的には同じ産業革命から近代工業が勃興する時代に生きた人物。チャールズ・バベッジ(階差機関の発明者)を扱った著作もある、近代初頭の工業技術に関して、造詣が深い方です。魅惑の付録が発売の度に大きなおともだちの心(とお財布)を鷲掴みにするシリーズのWeb版、学研が主宰する「大人の科学.net」に連載した記事に、登場人物を大幅に増やして書籍化した一冊。その人物選定には、前述の経歴がいかんなく発揮されています。

  • 関孝和
  • 平賀源内
  • 司馬江漢
  • 志筑忠雄
  • 橋本宗吉
  • 高橋至時
  • 国友一貫斎
  • 宇田川榕菴
  • 田中久重
  • 緒方洪庵
  • 川本幸民

出生年別に並べてみましたが(冒頭に年譜が付いています)、知らない人ばかりで、なんで有名なこの人が居ないのと首をかしげる方が多いのではないでしょうか。一方で、著者の略歴を踏まえ、その連載元のテーマをご存知の方であれば、納得の人選がラインナップされています。

その選定には学者や文人というより、むしろ技巧派揃いの職人列伝といった雰囲気が濃厚に漂います。内容のほうも人物伝と言うより「学研 おとな偉人伝」といった筆致で綴られており、時折称揚が過ぎたり、筆が上ずり気味なくらいにのめり込んで綴られる内容に、少し微笑ましくなってしまう事もあります。特に田中久重、国友一貫斎といった技巧派(からくり師)を扱った部分は特にそのような感触が強いですし、平賀源内や司馬江漢に対する技巧者を越えて先取りしすぎたプロモーター的な人物への強い情景、橋本宗吉の紹介に至っては、完全に著者によるオマージュで綴られます)。

個々の人物像に惚れ込んでいないとなかなか描けない熱のこもった筆致。それ故に、要所では突っ込んだ内容も描かれますが、全体としては読物風な内容に留まる点は致し方なところもありますし、表題だけを見て手に取られた方にはその人物選定を含めて物足りなさが感じられるかもしれません。

しかしながら、本書を通して読んでいくとある点に気が付かれるはずです。本文中ではテーマごとに並べられていますが、時代ごとに彼らを並べ、その書かれている内容、繋いできた知識、著作、人物関係を俯瞰していくと、幕末から明治に至るまで、綺麗に彼らの系譜が繋がっていく事になります。登場する彼ら一人一人が直接的に出逢っていた訳ではありません。現代より遥かに交通事情が悪く、情報伝達や出版事情に至っては雲泥の差があった江戸時代。僅かな伝手や人と人を繋ぐネットワーク、表現が良くないかもしれませんが「徒弟制度、学閥、閨閥」といった人の繋がりの中で脈々と受け継がれてきた技術や知識が、当時の学問的共通基盤、儒学をベースに普く彼らの中で行き渡っていった先に、明治以降の海外からの文化、技術の受け皿としての素養が育まれていた事がはっきりと判るかと思います。

彼らが活躍する源泉となる情報と文物のネットワークを構築し、先進的な思考を伝えるプロモーターとしての役割を果たした源内と、そのネットワークに学問と言う重み付を与えて、現代の大学制度に至る教育を通して技術者を生み出す基盤を作り上げた洪庵。その中を埋めていく、特異な技量と旺盛な好奇心、不断の努力で技術水準を上げていった江漢、宗吉、一貫斎、久重。学問的な素地を高めて、鎖国や言語と言ったハンデを乗り越える足場を築き上げていった孝和、忠雄、至時、榕菴。そして、現代の科学技術への橋渡し役を務めた幸民。

江戸時代を通じた、彼らが培った技術とネットワークの蓄積に思いを馳せるとき、どんな情報でも瞬時に集められる現代の我々が見失ってしまった本当の価値が見えて来る。本書の元となった「大人の科学」シリーズが標榜するテーマとも交差する、その原点を見つめ直す一冊です。

 

今月の読本「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)憧れ続けた旨味を磨き上げる原点を南蛮貿易の先に追って

今月の読本「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)憧れ続けた旨味を磨き上げる原点を南蛮貿易の先に追って

日本人の味覚にとって、甘みは旨味とも評されるように、醤油と塩がベースの調味料に対してコクと照りを与える砂糖は、その入手が難しかった時代から今に至るまで、ちょっとした背徳感(お腹周り…)を持ち合わせながらも、憧れ続ける調味料、味覚だと思います。

そんな味覚の王様ともいえる砂糖ですが、お店で一般的に売られている上白糖がほぼ日本固有の物である事をご存知の方はあまり多くないかもしれません。砂糖をいっぱい使うイメージがあるアメリカ等で一般に砂糖と表現されるのはグラニュー糖。上白糖はグラニュー糖より甘味が強いことが知られており、精製後にわざわざ未精製の原料糖を添加しています。そして日本固有の砂糖としてとくに有名な和三盆。こちらも真っ白なと表現されますが実際には遠心分離で蜜を飛ばすグラニュー糖には及ばず、やはり転化糖成分が多いことが判っています。

日本人が愛してやまない旨味のカギが、他の西洋諸国と少し異なる点を追いかけ始めると、実は日本における製糖技術の歩みが見えてくることになります。

今回ご紹介するのは、その足取りと、僅かばかりに残った当時の製法を海外にまで追った貴重な記録を合わせて一冊にまとめた「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)です。

著者は大学で学術博士号を取得された南蛮文化の研究者。戦国末期から幕末の開国に至るまで、オランダや清の船舶で輸入される物資の多くが砂糖だったことはよく知られているかと思いますが、日本人が好んで購入した砂糖が、手間暇かけて精製した白砂糖より、精製の甘い粗糖や黒砂糖だったことが当時の貿易史料などから判ってきています。貿易相手のオランダなどにとっては安価な粗糖が高額な白砂糖よりはるかに高く売れるという、濡れ手に粟の構図が続く日本との貿易(だからこそ出島に押し込められてでも貿易関係を継続する価値があったとも)。もちろん日本にとって、特に貿易による銀の流出に悩む幕府にとって砂糖の国産化は是が非でも実現する必要がある重大テーマだったと言えます。

本書は、その砂糖の国産化にあたっての経緯を、主に幕府主導による国産化の先駆を担った、大師河原の名主、池上家に残った記録を軸に描いていきます。あの田村藍水(と平賀源内)が実際に試作を行った記録を含む、江戸時代中期から幕末にかけてのサトウキビの栽培から黒砂糖、そして和三盆に至る砂糖国産化の記録を丹念に追跡、鹿児島から幕府の手を経て、または民間で全国へとその製造方法が広まっていく足取りを史料で追える範囲で広範に辿っていきます。

この追跡過程で著者が疑問を持った点。黒砂糖についてはいずれも同じような製造方法で広まっていきますが、一方で白砂糖のほうは異なった様相を見せていきます。日本伝統の砂糖製造方法として紹介される、日本酒や醤油などの発酵醸造製品を作る際の絞り取りに使われる押し船を応用した和三盆の製法が確立する前段階。現在の遠心分離で蜜の成分を除ける方法を使わずに砂糖を白くする方法として、漏斗による重力で蜜を滴下させる手法と併せて、蜜を含んだ砂糖に土を被せると白砂糖が得られるという記録が出てきます。

俄かに信じられない、土を被せると蜜が混ざった糖蜜が白くなるという史料の記述。ここで著者は大阪、泉南という商業が盛んで温暖な気候を有する、しかも江戸時代に砂糖の生産が行われていたとう記録が残る場所における発掘成果から確かな証拠を得る事になります。縄文土器の深鉢の底を抜いてしまったような素焼きの土器。植木鉢にしては自立する事が出来ず用を成さないこの出土物を疑問に思った考古学者の相談を受けて現物を確認した著者は、遂に確信を得ることになります。これこそが糖蜜を重力で落下させる際につかう漏斗「瓦漏」に違いないと。しかしながら、出土物からはこの瓦漏と組み合わされたであろう土を被せたという証拠を得る事は出来ません。

著者のイメージが史料と発掘成果との間で交わる先に描かれる更なる物語は、南蛮交易のルートを追って海の向こうに飛躍します。著者の研究におけるスタート地点、ベトナム中部での調査旅行において、これら史料の内容および発掘成果とほとんど同じ砂糖の製法が依然として残っていることを突き止めます。南蛮文化研究者の面目躍如ともいうべき、当時の貿易から見いだされる砂糖の生産地であったベトナム(当時の交趾)。本書の執筆から19年を遡る当時、依然としてその製法を使い続けているという作業場で見せられたのは文献と発掘物にそのまま直結する内容。糖蜜を漏斗に入れた後、土を被せてその上から水で土を濡らして重力による水分の滲出によって蜜を鉢の底から抜き取って漂白する工程を目の当たりにすることになります。ここで著者は水分の滲出だけではなく、被せた土がからからに乾くまで放置し続ける点に着目して、藍水の残した実験の史料と照らし合わせた上で、毛細管現象によって蜜の成分が土に吸着されるのはないかとの仮説を述べていますが、当時のベトナムで行った再現例ではあまり上手く示せていないようです。

サトウキビを絞った目の前で煮詰め、漏斗に入れて、重力を頼りに何か月も放置して被せた土から染み出す水を使って蜜を抜くという手法自体、流石に現在はベトナムでも絶えてしまい、製法再現は不可能になってしまったようですが、その一方で従来の製法で作られた砂糖の風味をわざわざ再現する製品が根強く作り続けられていることを改めての取材で目の当たりにする著者。グラニュー糖に糖蜜を加えて擂鉢状の容器で溶かしてから改めて蜜を抜きながら固めるという、当時の製法の雰囲気までも再現して同じ名前で売られるドン・ムンと呼ばれる砂糖の塊。そのまま食したり、料理の材料として使われるようですが、そのこだわりを見ていると、日本人も上白糖という名称を付けて、わざわざ工業的に蜜を含ませた砂糖を日常的に使い続けているという事実を思い返してしまいます。

日本人が愛して止まない旨味を作り出すハーモニーが、当時の作り方から営々と私たちの舌を捉えて離さない点に少し驚きながらも、丁寧に探求された記録からその驚きの製法の原点にまで辿ることができる魅力的な一冊。版元さんらしくあくまでも史学として纏められた内容ですが、歴史が大好きで食にも興味がある方にはきっと楽しく読めるかと思います。

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

武家の本流として認識され武家政権の時代を通じて長く伝説に彩られる、清和源氏の嫡流とされる河内源氏。その中でも家名を大きく上げる事になった前九年の役の一方の主役となる源頼義は、その息子である源義家と共に日本の歴史の中でも特に英雄的に扱われてきた人物かもしれません。しかしながら、彼が実際に活躍した記録は極僅かしか残っておらず、その内容も後世の脚色が極めて強い英雄譚的な内容に終始するようです。

今回ご紹介するのは、そんな伝説に彩られる人物の姿を改めて見直そうという趣旨で綴られた一冊です。

今回は刊行から半年以上経って漸く入手and読む事が出来た(お休みに感謝)、「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は、数年前に中公新書から「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」という書名で、今回とほぼ同じようなテーマの本を出されています。従って、当該書籍を読まれた方には、かなりの部分で内容が重複しているかと思いますし、本書に於いても、その史料的な限界から一書として成立する事が難しいと考えたのでしょうか、前著同様に始祖となる源経基から書き起こし始め、幕府を開くことになる頼朝までの河内源氏一党の物語の中核を担う人物としての頼義を描いていきます。

どちらかというと中央政権、王朝国家側の視点に立った武家の成立過程を綴る著者ですが、特に東国における源氏と平将門の乱における賞典を享けた、またはそれに対抗した一族との関わり合いの過程について、本書ではその論拠を補足し史料面での不足を補うため、当該分野における専門家である野口実先生の研究成果及び著作を随所で引用することで、双方の視点を重ね合わせて議論を進めていきます。

その結果、本書では伝説に彩られる彼の物語に著者独自の解釈が与えられます。実質的な河内源氏の開祖と見なされる父親である頼信の嫡男ではあったが、官位については中央での公家社会の中で位階を進め、立て続けに受領を務めた弟である頼清に常に後れを取る苦しい立場であった事。東国の武士たちを従える原点と見做されてきた平忠常の乱における源氏の位置付けも、追討使としての立場を降ろされた平直方と頼信が反目している、ないしは中央での勢力争いを二人に加担させる形で東国の乱に持ち込んだように述べられる見解に対して、二人とも藤原頼通の家人であることに着目し、私戦とも見做された忠常と直方の抗争を収拾するために二人が連携した上で、頼通によって甲斐守に補されたと見做していきます。このような視点に立てば、直方がその恩義に対して頼信の息子である頼義に自らの娘を娶らせた事を、伝承的な内容が極めて濃い東国在陣時の事績に言及せずともきれいに説明できることになります。

その上で、著者は河内源氏一党がその後も固執を続けることになる北方地域(陸奥、出羽)について、非常に興味深い議論を展開していきます。平忠常の乱鎮圧における賞典としての小一条院の判官代への頼義の補任(ここで弟である頼清は乱の終結を待たず安芸守に補任されています)。敦明親王と呼んだほうが判りやすいかと思いますが、道長によって皇位への道を閉ざされ不遇のうちに過ごしたとされる人物ですが、近年の研究ではそこまでは貶められていなかったと見做されるようになっています。その一因として、著者は小一条院とその母系が歴代の陸奥守に繋がる点を指摘し、その権益を保持、道長にしても院の基盤としてそれを許容していたのではないかと見做してきます。鎮守府将軍、陸奥守そして秋田城介という北方の顕官。平将門の乱から発するこの権能の行方、すなわち貞盛流と良文流の桓武平氏、藤原秀郷とその一門、更には河内源氏として家祖経基の系譜を継ぐ頼義の交点に、著者は小一条院の家系を見出していきます。その中でも後の摂関家に直接繋がる家司の系統に属し、尚武の気風を小一条院に愛されたとする、王朝国家の外護者の家系に連なる頼義。著者はその想いを、院が手元に置いておきたくて永く受領への任官を留めていたのではないかとまで評します。

そして北方での権益を継承すべく相模守補任から前九年の役へと続く東国での活躍。ここで著者は近年の研究成果を踏まえて武家の祖、英雄としての頼義像を否定した姿を描いていきます。既に多く述べられているように彼の率いた武士たちは一騎当千とはいいながら、物量的には極めて限られた戦力に過ぎず、当時の受領、押領使、鎮守府将軍がいずれもそうであったように、在地の国衙軍制を以て戦力を整える、在地勢力の戦力に大きく依存する存在であった点を明確にしていきます。著者は有名な黄海合戦において最後まで付き従った従者たちの素性を明らかにしながら、彼らが所謂受領郎党と目される一群の軍事貴族の末葉や根拠の河内における累代の郎党達といった、河内を基盤に畿内そして京において蓄積してきた勢力に基づく戦力であったとの認識を改めて示します(美濃については長く源氏同士が勢力を争う地であったと指摘)。坂東の精鋭が頼義の武威を慕って雲霞のように参集したという伝説を虚構と明示し、安倍貞任が追い詰められて逼塞する事になる頼義をそれ以上追い落とさなかった理由を、受領故に中央の視線を配慮して敢えて回避したとまで述べていきます。

完全な負け犬とも見做され、伝統的な武威すらも失墜させた頼義。それでも彼が陸奥を離れず、最終的には離任ぎりぎりになって清原一族の支援(実質的には家人として屈して)を得て戦い抜く結果となった点について、著者はその後の彼の動きから検討を加えていきます。父親である頼信同様に在地の勢力に心服されることを願いつつも、彼らの勢力争いに首を突っ込むことで戦闘を開始する事になった頼義。自前の戦力が乏しい京から赴く彼らにとって、戦闘を続けるためには何よりも在地の勢力を懐柔し彼らが欲した名誉と勢力の保護を叶える権門への窓口となることを強く要請される立場にあった事を見出します。良く知られるように、前九年の役終結後、栄典禄としては最も高い富裕の地である伊予守に補任される一方、叱責を受け、自らが北方で膨大に積み上げた(巻き上げた)財貨でその受領の貢納を代弁してまでも、凱旋後は京に踏み止まり続けます。そこまでして役で支援した東国の武士たち、受領郎等たちの栄典を獲得する事に奔走する事になったのは、正に彼らの要望の受け皿としての立場(≒武家の棟梁)を任じ続けた結果であり、後に継承者を自認する頼朝の御家人政策を重ね合わせると、その権力の源泉と基盤が明瞭に浮かび上がってくるようです。

最後に綴られる河内源氏のその後。ここで著者は白河院が源氏同士を争わせて勢力を削ぎ、一方で平家を持ち上げたとする従来からの説に明確な否定を示す一方、彼ら河内源氏、更には源氏一門側の事情からその遠因を辿っていきます。頼義の弟で四位まで官位を進め、最後は大国である肥後守として在任中に没したとみられる頼清の姿を重ねながら、軍事貴族として王朝国家の尖兵であるうちはよいが、政権内部に踏み込むような地位に進む、武門としての家から外れると俄然、失脚、淘汰の対象となるという印象を強く漂わせて筆を置いています。

武家の祖を称揚するような内容を期待して読まれると、失望に次ぐ失望という感に苛まれ続ける内容かもしれませんが、これらの歴史的な流れの先に頼朝による武門の掌握があったと見ていくと、その経緯は非常に興味深く、後の世でも武門を掌握せんと考えた武士たちにとって反面教師的な立場を独り演じ続けていたとも感じさせる内容となる一冊。

著者が要所で参照を明記されたように、「河内源氏」を追う様に刊行された、頼義の息子である八幡太郎「源義家」(山川出版社 日本史リブレット人022)においては、逆に本木先生の研究成果を大いに参考にしてと述べられています。王朝国家から見る尖兵としての武門の姿と、東国武士から見る権益を取り持つ武門の棟梁という双方の視点を重ね合わせて読んでいくと、色々と見えて来る事があるかもしれません。

 

今月の読本『ものと人間の文化史 醤油』(吉田元 法政大学出版局)歴史と技術で綴る、モンスーンが生んだ大豆と麦が醸し出す発酵調味料

今月の読本『ものと人間の文化史 醤油』(吉田元 法政大学出版局)歴史と技術で綴る、モンスーンが生んだ大豆と麦が醸し出す発酵調味料

法政大学出版局が刊行を続けている叢書シリーズ「ものと人間の文化史」。

動植物や作物、身の回りの道具、そして食材といった、極めて身近な素材をテーマにしているにも関わらず、読み物や雑学本といった形態ではなく、学術レベルに近い水準を以て日本の歴史と文化の中で位置づけていくという、他に類例を見ない作品群です。年数冊というゆっくりとしたペースで刊行が続くシリーズ、毎年新刊を楽しみにしているのですが、今年初めての配本は、これまで何冊かの著作を読ませて頂いて非常に感銘を受けた著者が、シリーズ2冊目として手掛けた一冊です。

ものと人間の文化史 180 醤油』(吉田元 法政大学出版局)をご紹介致します。

著者の吉田元先生は発酵醸造学の専門家。しかしながら、その略歴に示されますように、長く京都に所在する仏教系大学で教鞭を執られていました。農学博士の学位を有され、水産試験場での勤務経験を持つ、人文学部の元教授という特異な経歴。更には、著者の専門分野には科学技術史と言うもう一つの肩書が添えられています。

歴史としての食文化の底辺できわめて密接な関係にある発酵、醸造。その双方を文化史と技術史として同時に語れる稀有な研究者である著者は、これまで主に日本酒に関する歴史についての書籍を執筆されていました。

初めての単著、現在は講談社学術文庫に収蔵されている「日本の食と酒」を執筆していた時から温めていた、日本酒と並ぶ日本の食文化に深く根付く発酵食品である醤油と、味噌。前著でもいずれは研究を進めたいとの想いを述べていらっしゃいましたが、そのテーマを扱うに最も相応しい叢書の一冊として、今回上梓される事になったようです。

あとがきにも述べられていますように、著者の食文化史としての研究のベースとなっているのは戦国時代の奈良興福寺で書き継がれてきた「多聞院日記」(及び、歴代の山科家当主が残した日記群)。そこで述べられている日本酒(諸白)の創始と、味噌から醤油への架け橋となる変遷を伝える記述のうち、味噌の成立からの推移を軸に構成されたのが本書です。しかしながら、本書の構成は著者の指摘を遥かに上回る広範な内容を含んでいます。

東アジア特有のモンスーンと呼ばれる湿度が高く腐敗が早く進む気候。その腐敗の原因を逆手にとって旨味と保存の力に変えていくという、アジア圏に広く存在する発酵調味料たち。中でもカビの力を借りて発酵させた穀物をベースとした発酵物の上澄みを調味料として用いる群のひとつとなる醤油。著者にとって以前からの研究テーマに繋がる魚類を使った発酵調味料である魚醤との違いから綴り始める本書は、その元となった味噌と共に、どのように現在の形に至ったのかを述べていきますが、更に日本の醤油を語るためには欠かせない別の視点も、本論を述べるのと同じくらいの分量を割いて述べていきます。

江戸時代から続く、つい最近まで日本酒には叶わなかった広範な海外輸出とその受容、現地生産に至るまでの道筋。日本酒で殊更にオリジナリティを以て述べられる、火入れと呼ばれる低温殺菌法が、その密封技術の未熟さと併せて限界があった事を、鎖国中にも拘わらず東南アジアで日本製醤油が広まっていた状況やその品質、開国後のイギリスでの受容と風味を犠牲にした高温殺菌に頼らざるを得なかったことを、欧米に残る記録から明確にしていきます。また、利用法の違い(ステーキソースの原料が主)もあって北米では化学分解による代用品が先に普及した結果、本来の醸造製品である醤油が現在のようにあまねく世界中で愛用されるまでには非常に長い紆余曲折があった事を示します(此処で述べられる、戦後の新式2号醤油成立の経緯と醤油の世界展開への繋がりは必見)。

次に、明治以降の近代工業化と醸造業の関わり合いについて、著者は敢えてその失敗例としての日本醤油株式会社の早醸法とその工業化の破たんを例に採り、発酵醸造製品の工業化と大量生産への早急な転換の難しさを述べていきます。その一方で、日本の醸造業に対して、一部に残る品質に寄与しない旧主的な製法には技術者としての疑問を挟んでいきます。記録に残る製法や現在でも継承されている伝統手法を述べる際にも、その手法が品質、味覚に対してどのような効果を与えるのか、材料配分や栄養素、実際に再現をされる際に必要となる発酵過程の検証を技術的な観点で繰り返し行っていきます(但し、それによって再現された物は当時と同じ物かは検証できないと釘を刺します)。

このような製法技術的な視点を更に追求していくと、その発祥に遡る事になるのは必然。本書でも著者が実際に訪問した台湾の例を含めて、その発祥である中国大陸、戦前の旧満州や朝鮮半島における歴史的な発展の経緯や製法の違いに視点を広げていきます。日本の醤油の進化と全く同じ、旨味の元となる全窒素量を効率的に上げつつ、高級品をじっくりと引き出す初回から、原料を徹底的に使い尽くす複数回の絞りと品質の差(醤油になぜ等級が生じるのかを製法から教えてくれます)、清浄な水が得にくい中で、如何に効率的に発酵に結びつけるか、よく言われるばら糀と箱糀の利用法も発酵学的に見た場合なぜ異なってくるのか。その結果として生じる、日本の醤油と台湾、中国大陸、朝鮮半島の大豆発酵調味料とで微妙に異なる味覚の根底にある、アルコール由来成分の残留差。溜り醤油の元としての中国の醤油と言う視点から一歩踏み込んで、大豆発酵食品全体の製法として見ていくと、麦の使い方、その付加方法を発展、改良した先に、現在広く普及している濃口醤油が成立している事が明確に見えてきます。そこには、日本の食文化を語る多くの書籍で引用される和漢三才図絵の味噌、醤油に関する記述の多くが、実は本草綱目をほぼそのまま引用しており、その結果として日本に於ける味噌、醤油の成立における製法の解明が混乱し、歪められている点を、元となる大陸の製法から辿る事で明らかにしていきます。

造りの歴史や技術的視点から見る、醤油の歴史。最後に述べられる世界的な醤油の需要拡大と相反する国内での需要低迷。その一方で、醤油に対する味覚は地域毎の特色が明確に残っており、近代化を進めながらも伝統的な手法も堅持する溜り醤油ならではの製法や味わいへ特別な想いを示し、未だに手作りによる製法を継承し続けるキッコーマン御用蔵での醸造に、敬意とその未来を想う著者。そのような状況下で生産量を倍増させる勢いにある、長い試行錯誤の末に辿り着いた密封タイプ容器開発による開封後の劣化防止策に高い評価を与えます。

遥か昔から続く、モンスーン気候特有の腐敗を味方に付けた発酵醸造食品故に、保存性が良い事から見逃されがちな、風味の劣化や保存法にややもすれば無頓着(これは依然として酒類、特に日本酒)になる醸造家達への研究者としての厳しい眼差しも示す著者。

日本食と食文化を下支えする名脇役にして世界に広がる調味料となった醤油は、決して過去からそのままに伝えられたわけではなく、その製法も利用法も時代と共に刻々と変化していく事を歴史的な展開から導いていく本書。食文化は止まることなく、常に技術革新を伴いながら変わりつつあることを改めて教えてくれる一冊です。

著者の作品を何点か。ご紹介に載せきれませんが、本書を含めて、著者の作品は、特に室町時代から近代まで、ベースとなった京都を中心に、実に豊富な視点で食文化についても語られています。

本書は主に醸造技術を軸に食文化を添える形で綴っていますが、産業史としての近現代の醤油醸造業の発展にご興味のある方へ、吉川弘文館の歴史文化ライブラリー「日本の味 醤油の歴史」(林玲子 天野雅敏:編)もご紹介しておきます。