今月の読本「一茶の相続争い」(高橋敏 岩波新書)百姓、弥太郎に宿る証拠と理論を以て貫く信州人の生き様

今月の読本「一茶の相続争い」(高橋敏 岩波新書)百姓、弥太郎に宿る証拠と理論を以て貫く信州人の生き様

皆さんは信州人と聞いてどんなイメージを持たれるでしょうか。

頑迷で議論好き、寒冷地なので辛抱強く学研的な気風を貴ぶけれど、時に議論倒れで終わってしまう。普段はおとなしいけれど、お祭り(御柱に御開帳と何年越しかで準備するイベント大好き)になると俄然盛り上がり、都会で集まれば、地域毎のわだかまりは抑えて信濃の国を大合唱…。

ちょっとステレオタイプかもしれませんが、江戸時代の信州を代表する俳人、小林一茶と彼が生きた世界を垣間見ると、そんな信州人の気風が色濃く見えてくるかもしれません。

今回は「一茶の相続争い」(高橋敏 岩波新書)をご紹介します。

まずはじめに、故郷を追われつつも逆境にめげず、民衆に寄り添いつつも漂白し、風雅を愛した俳人、小林一茶に心寄せられる方は、お読みになる前に一考を要するとお伝えします。このような書き方を敢えてするのは、一茶に対する「美談」ともいえるそれらの言説に対して、帯にあるように欺瞞であるとの著者の想いを文中で繰り返し述べられるために、正直、辟易されてしまうかと思われるためです。あとがきで述べられる、俳人、一茶としての人物像や詠まれた句の研究ばかりで、本当の素性であり、死ぬまで維持された人別帳にある、北国街道の要衝である、柏原宿の百姓、弥太郎の姿を捉えていないという近世史の研究者としての強い危惧が、そのような筆運びを生んだようです。けれども、あまり執拗に述べられると、毒気が強すぎて読後感にも微妙に影響を与えます。

一方で、一茶の一生に付きまとう家族との不和の理由にある背景にご興味のある方にとっては、著者の専門である近世の民衆、農村、行政史の観点から、信州人たる農民、弥太郎を通して、その本質である江戸時代の民衆の生き様から読み起こしていくという、非常に面白い一冊になる事も事実です。岩波新書を始め多数の著作を有する著者の小気味の良い筆致に乗せられて、まだ書き足りない部分があるとの断りがある中でも、要所をしっかりと押さえた筆致と、図版を用意し、必要であれば原文も添えていく。史料調査に基づく背景描写やその後の話の中にちょっとした意外性も見出していく掴みの巧さ、研究者の方が書かれる書籍の中でも、読ませる一冊である事は間違いありません。

遥か戦国末期の川中島、現在の長野市の北から越後の国境に通じる北国街道を振り出しに描き始める冒頭は、意外な事に石田三成と直江兼続のお話から切り出されます。会津転封に伴う完全な兵農分離と東国最大の太閤蔵入地の割り出しを狙う三成の戦略が、所謂土豪勢力が豪農へと転換する余地を大きく減じさせ、同時に施行されたその時代以前から騒乱の地として疲弊してきた当地への撫民政策が、歴代の入部した大名たちにも継承された事を見出していきます。天領となって中野代官所が預かる時代の年貢率の低さ(天領故ですが)に驚くと同時に、当初からその政策を浸透させるために、ち密な文書行政が敷かれていた事を示していきます。家康が政権を握った以降に展開された街道整備政策により、新たな宿場町として取り上げられた柏原。著者は近世史の研究者として、宿場として取り上げられることによる地子免除のメリットは僅かであるとする一方、伝馬役の重さに疲弊する宿場という一昔前の江戸時代の歴史描写にも否定を加えた上で、官道として脇道への通行を規制することで、物流を掌握する立場となった宿場の機能と、其処に労働力として集まる周辺農村の繁栄から、暗黒の江戸時代の地方農村というイメージから、賑やかな街道と文筆に長けた富農が集い、北国と江戸を結ぶことで文化の懸け橋になった、豊かな北信の街道と宿場町という姿を提示していきます。

宿場を切り盛りし、安定した繁栄を維持する役割を一身に担う事になるのが本陣役。本書の主人公である一茶と重なり合うもう一方の登場人物である歴代の本陣、中村家の当主と、一茶との機縁を結ぶ事となる、長男であるにも関わらず当主を継がず、その一生の殆どを宿場を守るた為の訴訟に打ち込んだ四朗兵衛の物語から、宿場町を舞台にした彼らの生き様が描かれていきます。現在では消防団にその姿を残す、祭りや勧請を取り仕切る若衆と、公儀に対しても宿場と村の統率を示す必要に迫られる大人との確執と共闘。まめまめしく残された、沽券に係わる宿場成立の由来や公儀との取り交わしの文面から伝わる、文書行政を支えた上層農民たちの教養の高さと、それを当てに江戸から下って来る文人達(一茶もその一群に連なろうと帰郷したことは間違いないようです)。そして、本書のメインテーマである一茶と腹違いの弟との十年以上に渡る相続争いの素地となる二つの訴訟の物語が語られます。

北国街道に位置し、善光寺平から野尻湖、そして信越国境へと登っていく入口として繁栄した柏原宿。その繁栄を支えたのが越後から持ち込まれる海産類、そして塩である点は、塩の道とまで呼ばれた当地の歴史をご存知の方であれば論を待たないと思います。海なしの国たる信州の生命線を扼する北国街道に蟠踞した宿場町と連なる農村の繁栄を目の当たりにすると、それを快く思わない人々は必ず現れる訳で、ねたみを含めて村同士の争いが頻発することになります。急死した住職の後継を巡る村同士の争いが拗れるとき(この物語とその後のお話だけでも一冊の本が書ける程面白いのですが)、そして繁栄する北国街道を快しとしない人々が結託して起こす抜け荷が宿場の存立を揺るがすほどの規模に膨らんだ時、文書行政に長けた彼らは、謀議を巡らし罠を張り、証拠を集めて、沽券と自らが歩んできた歴史を握りしめ、お互いが自らが有利となる確固たる信念を胸に、出るところに出て決着を付ける事を潔しとしていきます。実に十軒もあったと云われる中野陣屋界隈に存立した公事を扱う人々。その示談では飽き足らない彼らは京都の本山へ、更には決着を求めて江戸へと出府を繰り返すことになります。

明治以降には飯山線と現在は一部が廃止された長野電鉄の路線が通じ、その上には上信越道が貫く。野尻湖から千曲川の東岸を抜けて、柏原と入れ替わり現代に於いて信州の小京都と呼ばれるようになった小布施を通り、須坂から屋代に抜ける川東道に連なる村々との間で前後二回に渡る熾烈を極めた訴訟合戦。宿場の生命線ともいえる塩の継荷を独占する宿場の権利確認を求めた江戸の評定所における九年にも渡る訴訟の最中に、江戸を拠点に各地を放浪する零落した逃亡民にして、漸く俳人としての名を上げつつあった一茶こと弥太郎と、当主の座を弟に委ねての一回目の訴訟で全面敗訴という宿場存立の危機を抱えて、背水の陣で二度目の訴訟に挑む、本陣の四朗兵衛が巡り合っていた可能性を見出します。更には、本陣支援の為に上京していた、既に係争状態にあった一茶の腹違いの弟、弥兵衛とも江戸で会っていたであろうと論じ、彼らが同じ宿場の存亡を掛けた訴訟で、江戸で境遇を語りあう間柄にあった事を想定していきます。その上で、江戸市中で訴訟相手であった村の人々が一茶を訪れていた事が記録には残っており、一茶自身もこの訴訟に柏原宿側の立場で何らかの関わり合いを持っていた事を暗示させます。

足掛け九年にも渡る長い訴訟と、公事宿に支払った費用だけでも実に120両にも上る膨大な資力(相手の村々にしても50両近い出費を強いていた事が示されています)を投じて勝ち取った街道の独占的な商業通行権。その一年後に念願が叶って、当時としては異例の20石を下回る分割相続を認めさせ、完全なる等分相続を勝ち取った百姓、弥太郎(一茶)。その添え書きには、江戸での訴訟を指揮した本陣の四朗兵衛はじめ、本陣当主である六左衛門の存在と、訴訟の支援に出向けるほどの文筆力を有し、彼らの生き様である、証拠と理論を持って筋を通すことを自らにも課し、父親の遺言を振り回す弥太郎の理論に服した弟、弥兵衛の姿が見えてきます(和談が成った後、更に不平を述べる弥太郎から、かの遺言状を本陣家が取り上げたのも、彼らが貫こうとした信義に従えば、当然の結果といえますね)。

さすらい歩き、旅に死すことこそ俳人の本懐と見る著者の目に映る、人別を置いたままに浮浪した挙句、冷たく厳しい地だと詠いながらもその地に執着し、遂には異例ともいえる分割相続まで果たして小作を使う小地主として往還を果たした百姓、弥太郎に対する、苦々しさすら感じさせる想い。そのような筆致の中でも、彼の最晩年に訪れた度重なる不幸には流石に憐れみを見出したようです。そして同じような憐れみを持ったであろう腹違いの弟である弥兵衛。大火で焼け出された宿場の再興がなった直後に、既に北信に広がっていた彼の門人と弥兵衛が意図した追悼句碑の建立。その意義を認め、宿場の入口に句碑を建てることを許した本陣、中村家と、撰文を承けた中野代官の手代であった大塚揆の一茶評。

戦国の急雲からもたらされた文治主義を下敷きに培われた学研的な素養と、豊かな北国の生産力、流通が生んだ余力を以て風雅に生きる事を叶えた俳人、その存在を生み出した在地の姿。その中で、繋がり合いながらも、時として腕力ではなく理論を以て争う事を辞さないという、今に繋がる信州人の気風の萌芽が本書から見えて来るようです。

一茶をテーマとして置きながらも、江戸時代の文治主義と訴訟の姿から其処に生きた人々の生き様を生き生きと描いていく本書。彼らが貫いた生き様には、家父長制が形骸化し、地域との繋がりも軽薄化する中を生きる現代の我々にとって、何に依拠して生きていくのかという、大きな示唆が含まれているようにも思えます。

 

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今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)寄せ来る者達に翻弄され続けた核心の地への記憶

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)寄せ来る者達に翻弄され続けた核心の地への記憶

武士の都と呼ばれた鎌倉を擁する相模。一方でその土地は東山道が抜ける上州と共に、西に連なる箱根を関門に構えた東国の入口を扼する場所でもあります。

自らの発祥を苗字に掲げる事が多い東国の武士たち。しかしながら、東国と西国がせめぎ合う境界に位置するその地を苗字に掲げる一族が、その後の荒波を潜り抜けて最後の封建制たる江戸時代まで家名を繋げられた例は、ほんの僅か。歴史ファンの方でも思い出されるのは、戦国時代に北条早雲に滅ぼされた三浦氏くらいではないでしょうか。

そんなマイナーな感が否めない相模発祥の武士たちの変遷を一冊に纏めた本を、今回はご紹介します。

今月の読本「相模武士団」(関幸彦:編 吉川弘文館)のご紹介です。

本書は、同じ編者、版元さんにより刊行された「武蔵武士団」に続く続編として送り出された一冊。執筆するメンバーも一部ではオーバーラップしています(今回も、細川先生の一刀両断コーナーありです)が、前述の懸念を少しでも解消するためでしょうか、内容を補強する為に特論と称して、本来は相模武士とは呼べない前後の北条氏、そして、相模武士の象徴とも捉えられる三浦氏について、相模武士たちとの関係を含めて述べる論説を、本書の執筆陣とは若干離れた人選を擁しての別項を立てています。

手持ちの中で、今回の執筆陣の皆様が手掛けられた同じ版元さんの書籍をセットで。

前著「武蔵武士団」と比べるとマイナーな感が否めない登場人物達、更には本書でも多数引用される在野の歴史研究家、湯山学氏により膨大な私家版を含む著作物が刊行されており、本書でも言及されているように、その内容には十分な検討が必要とはいえ、採り上げるべき個別の武士団、氏族ほぼ全てがカバーされています。

では、本書はどのような立ち位置で相模武士団を捉えようとしているのでしょうか。編者の時代感の捉え方は今となってはやや古いスタンスとなる、開発領主から勃興するスタイルをニュアンスとして残しつつも、彼らが中央から下向してくる人々によって、翻弄されていく過程を描く事で、相模特有の事情、その武士団たちの特徴を見出そうとしていきます。

武蔵武士団にも通じる内容ではありますが、より権力の震源近くに在住することとなった相模の武士たち。その姿は、東国の関門故に、所謂源平合戦以前から中央の権門と密接な関係を築いていた事を示していきます。そして、頼朝の挙兵と共にまず最初に騒乱に巻き込まれる事になる相模。それ以前から源氏同士の勢力争いに巻き込まれていきますが、ここから相模武士たちの淘汰が本格的に始まる事になります。

西国に主軸を置く平家に付くか、京に生まれ先祖の勲功と記憶を振り回す頼朝に賭けるか。御家人として纏め上げられる段階になっても、その舞台である鎌倉を擁する相模の武士たちは、頼朝による熾烈な淘汰を真っ先に受け止める事になります。

在地から伸展する訳ではなく、アウターが跋扈する鎌倉を舞台に繰り広げられる暗闘と粛清。その矛先は、在庁の雄たる三浦氏にも容赦なく降り注ぎ、滅亡までに二度も系譜を絶たれ、三浦半島の奥に押し込められてしまいます(それでも鎌倉の背後を押さえる地に三浦の家名を存続させた点に、地勢への配慮を示唆する論には深く同意するところです)。

壮絶な権力争いの末に、全国に所領を広げ、諸大夫としての武蔵守、相模守を独占した得宗、北条氏に対して、圧倒的な規模の差を見せつけられて、追従する姿を示す相模武士たちの御内人への転身(ここで、御家人身分から転落したわけではないと注意が示されます)。更には、良く知られるように苗字は残したまま、一族を分けて西国の所領へと転身を図る武士たち。その動きは承久の乱以前にまで遡る事を示していきます。

そして、鎌倉幕府滅亡から南北朝に掛けて、再び相模は権力の中枢としての宿命を受けることになります。鎌倉幕府滅亡と共に滅んだ北条氏と共に、中先代の乱で復活を狙った時行に加担して、又はもう一つの東国の関門たる東山道を軸に北方を抑えた南朝に下って、更には観応の擾乱によって。鎌倉幕府を生き永らえた相模武士たちは、再び外からもたらされた戦いによって、更に淘汰を繰り返す事になります。新たな鎌倉の主として乗り込んできた鎌倉公方と関東管領、彼らも生き残った相模武士たちに試練を与え続けることになります。鎌倉の政体と守護の二重権力体制の為に、既に国単位の武士団としての体を成さなくなった相模の武士たち(三浦氏にしても守護権が否定されている間は同様と)は、牽制しあう二つの権能の指揮下、または隣国の武蔵の一揆勢と共闘をする以外に生き残る道が残されていなかったようです。

鎌倉府の下で何とか家名を維持してきた相模武士たちですが、今度は鎌倉公方と関東管領の争い(それぞれを牽制する幕府を含めて)によって、双方の勢力に分かれた相模の武士たちはまたしても淘汰の時を迎えてしまいます。最終的には鎌倉公方の古河への動座によって、相模の地が武家権力としての引力を失うことになる永享の乱とその後の享徳の乱によって、相模に在住していた旧来の武士たちは三浦氏を主体とする僅かな勢力を残して、殆どが滅亡、西からはこれまた鎌倉に入る事が出来ずに伊豆に留まる結果となった堀越公方を乗り越して、大森氏が小田原に入部することで、これまで辛うじて維持してきた相模西方、金目川以西は在地そのものが淘汰されていきます。

権力の引力が北方に去った事で空白地帯となった、残る相模川の東岸と相模中央部に漸く勢力を挽回した三浦氏の勢力も、その後にやはり関東の喉口を押さえる要衝と踏んで乗り込んできた北条早雲によって殆どが根絶やしにされ、僅かに後北条氏の重臣となった松田氏が残るに過ぎなかった事を示していきます(最終的には秀吉の小田原攻めで滅亡の道へと進む事に)。

東国の入口ゆえに外からの勢力に翻弄され続け、最終的には苗字の地たる相模に痕跡を残すばかりとなった相模武士たち。しかしながら、武蔵に蟠踞した武士たちと同様にその足跡は全国に渡り、苗字の地を離れた後に大いに繁栄した一族も数多輩出しています。小早川、長尾そして三浦氏の系譜を受け継ぐ蘆名氏。権力の中枢に存在することによる熾烈な淘汰を逃れた先に発展した相模武士たちは、それでも相模が本貫地がある事を由来として誇り、苗字を、そして家名の礎となったその土地への深い繋がりを求めていたようです。本書にはそのような各地に散らばっていった相模武士たちの足取りにも検討を加えていきます。そして、歴史時代を潜り抜けた今日の相模。今度は日本の中心に隣接することとなったために、急速に失われていく彼らの足跡。編者たちは、そんな変遷の激しいこの地に僅かに残る、相模武士たちの痕跡にも目を向けていきます。

最後に綴られる相模武士たちが行き交ったその土地を紹介する一節。その中で印象的に語られる、考古学的には既に往時の道程とは食い違ってしまっているにも関わらず、その後の歴史でも、私を含めて今を生きる相模、今の神奈川県(更には武蔵の地)に住む人々にとっても深く結びつく「鎌倉街道の記憶」に息づく想い。その想いには苗字の地を遠く離れ、権力の中枢としての地位を遥か昔に失ってもなお、その核心の地が秘める引力の強さを思い起こさずにはいられません。

武士団をテーマに掲げた本書が綴る、武家の核心の地で繰り広げられた興亡と淘汰の物語。その結末は余りにも寂しいものですが、もし今後、鎌倉、そして相模の地を訪れる際には、本書を片手に僅かに残る痕跡を辿りながら、武士たちが壮絶な駆け引きの中を生きていた姿に思いを馳せてみては如何でしょうか。

今回ご紹介した本と、勝手に深夜の「東国の武士団と歴史書籍フェア」。

武士の発祥と変遷を綴る書籍の数々、皆様のご興味を引く一冊はありますでしょうか。

今月の読本「観応の擾乱」(亀田俊和 中公新書)すれ違う無二の兄弟の前を往く表裏する人物達と貴重な時代史の背景を描くその先

今月の読本「観応の擾乱」(亀田俊和 中公新書)すれ違う無二の兄弟の前を往く表裏する人物達と貴重な時代史の背景を描くその先

世間では人文書、歴史書が静かなブームだそうですが、読むのが遅い自分にとっては、これまで刊行されてきた書籍を追うだけでも手一杯、とてもブームの本まで目を通す事が出来ないもどかしさ(その以前に、田舎の本屋さんでは手に取れないという寂しさも)。でも本屋さんに新刊が並ぶと、ついつい手に取ってしまう悪癖がやはり出てしまいます。

今回ご紹介する本も、そんな訳で積読脇に寄せて読み進めた一冊。きっと前著同様、話題になるんだろうなぁ、などと思いながら。

今月の読本「観応の擾乱」(亀田俊和 中公新書)のご紹介です。

一般向けとしては実質的な処女作となる「南朝の真実」(吉川弘文館)でスマッシュヒットを飛ばした著者。その後、同時代の人物史を複数冊手掛けた上で挑んだのが、著者の専門である、南北朝から室町初期の時代史前半を形作る大きな転機となる観応の擾乱を、新書という限られたページ数で描いていきます。

全編で250ページ足らずですが、尊氏の将軍就任から実の息子である足利直冬を京から敗走させる時点までの時代史を、平明な筆致でほぼまんべんなく著述することに成功しています。その間、非常に多くの武士たち、歴代の天皇や上皇、公家や僧侶たちが登場しますが、著者の前著に見られるように、それぞれの登場人物について、少ないながらも極力説明を施し、個性的で魅力あふれる人物像を描き出す事に注力していきます。主役となる尊氏、直義兄弟の前を、時には味方、時には敵として行き交う彼らについて、これまでに言われてきた、最初から両方の派閥が出来ていたわけではなく、時々に応じて、与する相手を柔軟に変えていっていた事を、その時の状況を含めて明示していきます。更には二人が衝突して以降も直義自身は終始覇気が無いように見えるとし、むしろ周囲の主戦派の強硬論、特に二度目の衝突では尊氏、そして直義自身よりも尊氏の息子である義詮と桃井直常の代理戦争的な要素もあった事を指摘しています。結果として、武将の中でも終始この二人に付き従ったのは尊氏サイドであれば佐々木導誉であり(彼とて、降誘を狙っての為であったはずですが、直義方にも寝返っています)、直義サイドであれば上杉憲顕ぐらい(彼も直義にとって最後の戦いであった薩埵山では遂に逃走しています)だったようです。このような不安定で日和見な人物達を引き留める、味方につける際に切り札となるのが恩賞。しかしながら、どんなに政務から後退しようと守護の補任権を握り続け、武士に対して恩賞を振る舞う(時に口だけ、バッティングもあり)尊氏と、武士よりむしろ領家に対する安堵と施行に終始する直義。ここに二人の違いが大きく出て来る事を、実際に発給された史料から見出していきます。また戦力の集中を図る、ないしは禁じ手を取るためとはいえ、二人とも一度は南朝に帰参した経緯から、尊氏、特に直義にとって北朝の天皇はやはりお飾りであった点も(旧来の論説と切り離して)改めて明示していきます。

そして、著者が前著でも再評価を求めて描き出した、高師直と高一族の活躍。旧来の論説では、明らかに尊氏派として扱われてきましたが、著者は二人の決裂が決定的になるまでは、足利家の家宰、執事として双方に仕えてきたことを示します。そして、この北条家にもみられた御内人が権勢を持つ(実際には守護領国も少なく、勢力が突出していたわけではなかったようですが)最後の姿を高一族に見出し、その終焉こそが、将軍専制と、それを執行する有力守護大名がセットとなる将軍/管領制へと発展していったと見做していきます(それ故に、高師直の評価については、やや旧守的であったと見做しています)。更には二度の弟との衝突の先に、将軍就任以降は政務を含めて常に後方に退いていた尊氏自身が前面に出て戦い、感状を与え、恩賞を大盤振る舞いし続ける事で、将軍としてその指導力、専制権が発揮された結果、真に政治家として覚醒したとしていきます(これに対して、尊氏に対峙した直義、そして直冬のいずれもが、戦場に於いて直接的に尊氏に対峙することが無かった点は極めて示唆的です。こと武将として尊氏の人気が高い大きな理由ですね)。

長きに渡った南北朝の動乱の幕開けを告げる擾乱(この用語の発生由来については、終章で議論されています)の中で室町幕府の安定した政権の基礎となる諸政策、政体が築き上げられていったとする本書。著者はその流れをなるべく一次資料に依拠して描こうとしており、研究の中核となる将軍を補佐する体制、息子である義詮への政権移譲の段階、引付や恩賞方の変遷については、そのメンバーと、どちらの勢力に移っていったかについても詳細に述べていきます。しかしながら、その他の部分ではやや疑問が生じてしまう所もあります。それは、直近で他の研究者が著書に於いても重要視した、如意王と直義の野心に関する反論と、直義の二度に渡る出奔の位置づけ、さらにはそれを傍証するための論拠。すなわち、この擾乱がなぜ起きたかという理由についての論証への歯がゆさが感じられる点です。

著者は文中で、現在ではもっとも一般的と思われる佐藤進一氏及びその他旧来の論考に対して繰り返し反論を述べた上で(一般書なので、わざわざそれを強調する必要もないかと思いますが)、終章に於いて尊氏の実の息子である直冬に敵愾心を抱き、一向に認知しようとしない尊氏への憤り、多くの武家における庶子たちの不安とその代弁が擾乱を生んだ素地ではないかと示唆しています。その論考自体に議論を挟むつもりはありませんが、それを示す明確な論拠や史料がある訳ではないので、現時点ではあくまでも著者の見解として捉えておきたいと思います。

その上で、本書の冒頭から首を傾げてしまったのが、直義の嫡男であった「如意王」の存在への言及。これまでの同時代を扱った書籍ではあまり前面で語られることは無かったと思いますが、上述の影響を受けられたのでしょうか、その生誕によって、直義が野心を抱いたという論には、流石に力みつつも正面から否定をしていますが、一方で和解以降の直義の無気力な振る舞いを評して、如意王の喪失を関連付ける論も述べており、本書では明らかに引用を控えている太平記に対して、この近辺の著述だけは傍証として引用するなど、本書に於ける著者の平明かつ一貫した論考が、この部分だけ妙な方向に行ってしまっているようでなりませんでした。

更に、直義の二度に渡る出奔を描く部分。著者はそのいずれも尊氏やその周辺がノーマーク、過去の人として扱っていたとしています。確かに恩賞を期待できる訳でもなく、堅実な政治家と評される割には打算的な直義の政治生命は、既に途絶えていたかもしれません。それでも、一度京を脱出して兵を募れば侮れない勢力を築き、一度目は自らも窮地に追い込まれ、二度目も東国まで下向して討つ事になる(鎌倉での直義急死の件は置いておいて)相手に対して、ノーマークであったと言い切ってしまうのは余りにも淡泊な気もします。

側近同士の勢力争いでもなく、兄弟の相反でもない、ましてや魍魎的な物語を否定した上で、長々と続いた騒乱の原因については結論らしい結論が得られないままに終章を迎える本書。

本文を少し離れて持論を述べる終章の最後に綴った「努力が報われる政治」というキーワードへ集約した著者の想いを本当に描き切るためには、やはりその当事者である尊氏自身、それも著者の一貫した手法である一次資料を大前提として太平記の潤色を極力排除した人物史として、是非次に描いて欲しいと強く願うところです(できれば、東国戦線とその後の鎌倉府に至る流れも是非たっぷりと。あっ、武蔵野の広野を縦横無尽という表現は如何にもっぽいですが、地勢的にはちょっと微妙かなと)。

まだまだ描き足りない魅力的な登場人物が控えているこの時代の歴史物語はもっと深く楽しくなるはずと思わせる魅力を秘めた、もう少しその先も読んでみたい、そんなきっかけになる一冊として。

観応の擾乱と関連書籍<おまけ>

本ページでご紹介している、本書と関連する書籍から。

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)遥か九州から武士の勃興を眺める時、その世界は京・東国を飛び出し列島を駆ける

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)遥か九州から武士の勃興を眺める時、その世界は京・東国を飛び出し列島を駆ける

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館さんの「歴史文化ライブラリー」3月の新刊は、これまで多数の中世武士、特に東国の武士たちを扱った一連の研究と著作で知られる野口実先生の最新作からご紹介します。

今月の読本「列島を翔ける平安武士」(野口実 吉川弘文館)です。

まず、あとがきに目を通すと、著者の中における本書の微妙な立ち位置が言及されています。一度は完成した原稿が暫く日の目を見なかった事、最終的に著者の奉職先であった京都女子大学を退任された後の上梓となった事、更にはその記述には著者の研究者、教員としての生活に於ける様々な想いが込められている事。

既に著者の作品を読まれた事がある方であれば、その感触は判ると思います。千葉に生まれ、房総平氏の研究でも知られる著者のスタンスが、同時期の研究者の著作と比べると極めてニュートラルな立場を採っていた点に気が付かれるはずです。既に過去のものになりつつありますが、草深い東国の開拓農民から勃興してきた野蛮で無学な武力が、軟弱な京の公家社会を刷新して、新たな大地たる東国、鎌倉に清冽たる新政体「幕府」を築き、中世の幕が上がるという、私が学生時代には依然として通用した視点に対して、明確にそれを正す方向での著作を上梓され続けた点です。但し、このような点を採り上げると、ではやはり京都に拠点を置かれているから、所謂体制論的な立場なのですかと問い返されそうなのですが、そのような体制論であったり王権論とは一線を画した立場で議論を進める点が、著者の論旨の大きな特徴ではないかと思います。

本書はそのような大きな歴史論(体制論)に固執することなく、出来るだけ史料から読み解ける、実際の登場人物たちの動きからその流れを読み解こうとしていきます。従って、表題と異なり本書を通貫する様なストーリーであったりテーマが明確に設定されている訳ではありません。特に人物を離れて京都七条町の職人集住に関する記述は、全体のテーマから見ると大分かい離が認められますが、著者の提示しようとするストーリーを彩るためにはどうしても必要な内容だったようです。

著者が描こうとするテーマ、それは石井進氏の前述のような体裁の色濃い「辺境としての東国から勃興する」とする歴史展開を乗り越え、下向井龍彦氏の著作(日本の歴史07 武士の成長と院政 講談社学術文庫)にもみられるように、中央から下向し、その貴種性と地方の反乱を鎮圧する為に乱発された勲功賞で得た権能を加える事で、在地との強い絆と利権を築きつつも、引き続き中央での関係を維持しつつ勢力を積み上げていく、武士の姿を描く事にあります。

そこには、草深い無学の輩等ではなく、権門の家使としての側面と、在地における所領管理、いざという時には国衙の兵力や私兵を従えて戦闘に挑むという、極めて実践的な能力が試される、中央での出世には見放されたとしても、実務能力が極めて高い人々が集っていた事が判ります(本書の冒頭で描かれる藤原保昌のような簒奪者や、為朝のような正に暴れん坊ももちろん居ますが)。そして、本書で著者が最も描きたかった点。これまでの「東国」中心の武士研究に対して、前述の視点を相対化させる行為。東国の武士研究でも中核に位置した著者自身が、本書の成立に至るまでの20年近くに渡って取り組みを続けた模索の結果としての、九州、特に島津荘の成立と拡大における武士の動きと貿易の痕跡を現地で研究を続ける研究者と交流を図る事で、東国と京都という二元的な視点、又は、大宰府-京/福原-平泉という公家文化に対抗する東国、鎌倉の武家という対峙系とは異なる、より普遍的な武士の成長に対する視点を導き出すことです。

著者はこの視点を実証する為に、敢えて自らの長い研究テーマでもあり、如何にも東国武士の代表である千葉常胤を採り上げ、源平合戦における源範頼を支えながら転戦した九州における戦歴とその転戦地に設定された地頭職の成立、更には京都に戻った後の治安活動や、鎌倉に居を構え全国に広がった所領を管理する都市型領主となった後の千葉氏の活動を通して、名字の地たる在地にしがみ付く東国武士というステレオタイプを明確に否定していきます。

そして、九州の南端に構えられた島津荘を中心とした、摂関家の金城湯地となった南九州。この島津荘を始め肥後、南九州を席巻した為朝の所業を荒唐無稽と一刀両断することはせず、それ以前から下向していた薩摩平氏(平安武士という言葉と併せて本書で初めて出てくる呼称でしょうか)達による、東国と同じような騒乱が生じていた事を紹介していきます。結果として、それらの鎮圧を担った勢力が、東国同様にその後の武士として勃興していく事は論を待たないかと思います。列島の南北で勃発した反乱とその鎮圧。大宰府を舞台にした刀伊の入寇。これらの鎮圧に伴いもたらされる勲功による栄爵を纏っての在地への定着、国衙官職を含む利権化の流れは東国だけに限定して起きたわけではない事を遥か南九州の事例を示す事で明確化していきます。

在地化と足並みを揃えるかのように肥大化する南九州の荘園群。その成立以前に遡って、王朝国家内での摂関家の勢力推移を重ねる事で、時代が下がるにつれて極めて重要な収益源、貿易拠点として成長していったことが示されていきます。当時の交易品として極めて重要であった火薬の原料となる硫黄が取れるこの地が、大宰府、神崎荘と並ぶ海外、特に南洋貿易の拠点であった事を発掘成果から明らかにし、南洋特有の檳榔、螺鈿がこの地から京、そして平泉に至ったと考えられると述べていきます。勿論、平泉からはその代わりに、知られているように馬、黄金、そして海獣や毛皮や猛禽類の羽など武具として、交易資金として必要な物資が送られる訳ですが、ここで著者は東国における近年増えてきた中世期の遺跡発掘事例や、前述の千葉常胤が滞納していた貢納を一度に納めた際に積み上げた膨大な量の金を以て、これらの平泉文化に付随する王朝国家的な文化が東国やその交易路をスルーしてピンポイントに平泉に花開いたという、王朝国家の一種理想郷を平泉に見出し、東国、武家の文化的な低さを殊更に指摘する視点に対して明確に否定を示し、その交易路においても、同程度の文化的な浸透があったはずだとの認識を示していきます。

その上で、京を情報や文物ネットワークの交差点と見做し、京を起点に全国に向けて下向し、代を重ねつつも、色々な事情を以て武士としてこの地を行き交う事となった人々のネットワークの動き、悪い言い方をすれば欲望の離散集合の頂点に源平合戦があったと見做していきます。

京都で奉職し、第一線を退いた直後で上梓することとなった本書は、東国武士の研究者としての一方の史観と、自らが在する地におけるもう一方の史論に対する双方の疑念を九州の地に視点を置く事で、ネットワークという新たなテーマ設定によって相対化、より普遍的な視点を見出すことを目指した一冊。冒頭で述べたように各章ごとに別々の登場人物が語られるため、小テーマを集めたやや散漫な印象を受ける部分もありますが、昨今の地理学を組み合わせた繋がる歴史著述に対して、これまで培ってきた豊富な研究成果より具体的な視点を与える著述は実に楽しく、史論で語られる著述では欠落することが著しい発掘成果による史料補完への言及と併せて、中世の入口となるこの時代の著述がこれから更に発展していく事に期待を持たせる一冊です。

第一線の教壇から下る事で、今後は研究、著述により一層の注力を図る事が出来るであろう著者の更なる一冊に期待しながら。

<おまけ>

本書に関連する書籍を、本ページよりご紹介します。

今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)信州の畔に根付くその赤い籾への疑問を追って

今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)信州の畔に根付くその赤い籾への疑問を追って

眼前一杯に水田が広がる、豊葦原の瑞穂の国。日本を象徴するように使われる言葉ですが、その情景が僅か200年ほどの歴史しか有さない事に思いを巡らせる方はいらっしゃるでしょうか。

水田越しに甲斐駒をブランド米と呼ばれるモチモチの白米、特定の名称でお米の品種が広く呼ばれるようになる前にお店の真ん中に並んでいた、「標準価格米」が片隅に追いやられてから僅か数十年しかたっていない事を思い出される方はもう少ないかもしれません。

そして、黄金色の籾に真っ白な粒といったお米とちょっと様相の異なる、長い禾に少し赤みを帯びた籾と小粒のお米をご存知の方はもはや希少なのかもしれません。

ブランド米の品質を全国で争う現在、丁寧に丁寧に育て上げられる稲たちが穂を伸ばすその田圃の畔で、誰にも気が付かれずに、いいえ今やその品質を脅かす駆除すべき雑草として信州の畔から駆逐されつつある、同じ稲なのに余りにも扱いの異なる「赤い米」への疑問を解く旅へ誘ってくれる一冊の紹介です。

赤米のたどった道今月の読本「赤米のたどった道」(福嶋紀子 吉川弘文館)です。

著者は長野県内の複数の大学で教鞭を執られる、主に中世史を専攻される研究者。大学を卒業後、数十年を経て取得された学位請求に関連すると思われる主著で論じられる二つのテーマを、「大唐米」というキーワードで結びつけ編んだ一冊となっています。大唐米自体を論じる前半と、溢籾と呼ばれるようになったそのお米が引き起こした騒動の経緯を語る後半に、南北朝期の播磨国矢野荘における年貢収納の史料研究を挟み込んでいるため、読んでいると前後の繋がりがちょっと希薄になる事があります。著者があえてこのような構成と論考を用いて明確化したい点は、なぜ赤米(大唐米)だけが別扱いされてきたのか、そして次の時代にはしっかりと農村に根を下ろしたそのお米たちの元となった籾を誰が普及させる事になったのかを想定することにあります。

赤米の歴史を辿るように思える本書ですが、冒頭で語られるように著者の疑問の大前提は、ここで採り上げられる大唐米、そして現在に残る赤米が、中国宋代に発祥を持つインディカ系に属する占城米ではなく、ジャポニカ系の一種ではないかという点にあります。しかしながら、著者による大唐米の遺伝的な考察や、地域的な広がり、形状から見た判断等の農学的なアプローチは冒頭で早々に放棄されてしまいます。一方で、著者は一貫してこれらの赤米が白米と異なる扱いを受けてきたという、史料上の事実を梃に、専門の歴史学的視点で白米とは違う、赤い米たちの歴史をとらえていきます。

水田で耕作される「白米」に対する疑問を、班田収授の絶対的な水田不足から問い始め、その穴埋めたる「陸稲」そして、「赤」の札書きが残る米の種類の記載へと興味を広げていきます。集水、貯水、湛水、排水技術が未熟な近世以前において、現在のような安定した水量を確保できる水田は、安定した流量と穏やかな流れを有する河川に対して僅かに低い土地に限られ、微高地や扇状地には水は届きにくく、湛水地は深田や沼地、果てには洪水の常襲地帯となるはず。そのような限られた水田で作られた「白米」は、既に近世史でも語られるように、食糧として日常の食生活を維持できるほどの大きな収量を期待できなかったことを見出していきます。

厳しい耕作条件の「白米」に対して、熱帯に比べて気温も低く、決して水田農耕に適しているとはいない日本の農耕環境でもしっかりと実りをもたらす(但し、脱粒性は強い)お米。食味は悪くても、早生でいち早く収穫できるため、秋口に襲ってくる風雨にやられる前に実収をもたらす貴重な赤いお米。農民たちにとって主たる収穫物である「白いお米」は口に出来なくても、田圃の畔を取り囲むように植えるという隙間農耕でも実りをもたらしてくれるありがたいそのお米は、一方でその籾を持ち込んだ荘園領主たちの切実な収量確保という一面も持っていたようです。

鎌倉から南北朝、そして室町期と在地おける実権と実収(実際の所領も)を徐々に衰退させていった荘園領主たちにとって、その減収を少しでも補う方策として、例え売価が低くても、勧農が行き届かず放置気味の荒田の状態になってでも収量が望める赤米(ここで大唐米という言葉が史料として出て来ます)を積極的に導入したのではないかとの暗示を述べていきます。

更に時代が進んで江戸時代。大阪に蔵屋敷が立ち並び、各国の米が市場で比較される段階に至ると、今度は収量は優れても食味に劣る赤米たちは駆逐の対象となっていきます。江戸患いと呼ばれた脚気が顕著に表れてくる程に白米が都市部に集中し始め、漸く庶民の日常にも「白いお米」が上るようになった時代。それでも、著者のフィールドである信州、松本藩の事例では、その不利な条件(籾が落ちてしまい禾が長いので、籾で収納した場合目減りが激しい)にも拘わらず農民たちが赤米での収納を続け、藩庁側も容認せざるを得なかったことを見出していきます。そこには、高地冷涼で扇状地故に水に恵まれなかった信州、そして松本平の厳しい条件があったことを認めていきます(信州の他藩でも、収納した赤米たちは廻米せずに地元での消費に充てていたという貴重な知見も)。水の町とも呼ばれる安曇野に張り巡らされた用水網が整備されたのは、漸く近代の足音が聞こえ始めた江戸末期。水の便は解消しても気候の厳しさゆえ、確実な収穫と生活を守るためでしょうか、その後も昭和の初期に至るまで、これら溢籾と呼ばれた品種が信州では作りつづけられたことを明らかにしていきます。

領主には嫌われつつもしっかりとその土地と農民たちに育まれた赤い米たち。その歴史は亀ノ尾に始まる寒冷に強い白米の登場と、今に続く、その系譜を継ぐ品種たちの粘り強い改良の中で、今や逆に圃場を埋める優良品種の単一性を阻害する雑種として駆逐される運命にあるようです。

著者が傍証として語る、神前としての白米の神聖視、日本人の優越性と白米至上主義といった論点はここでは置いておきたいと思いますが、美しく整備された水田に広がる見渡す限りの稲穂たちと、美味しい白米という、もはや共有感ともいえる幻想に対して、もう少し歴史的に見直す必要がある事を問う一冊。

黄金色の景色1その広がる圃場と稲穂が、どのように今日まで受け継がれてきたのか、本書を読みながら、今一度想いを馳せてみては如何でしょうか。

赤米のたどった道と類書たち本書と一緒に読んでいた本たち。

本書と特に関連が深い本として、農学としての稲にご興味のある方には「イネの歴史」(佐藤洋一郎 京都大学学術出版会)、江戸時代の農耕については、同じ史料から豊富に引用された「江戸日本の転換点」(武井弘一 NHKブックス)、同じ東寺の荘園である、備中国新見荘における室町中期の在地支配を史料から丁寧に掘り起こした「戦乱の中の情報伝達」(酒井紀美 吉川弘文館)、そして、本書の巻末でも繰り返し言及される「稲の大東亜共栄圏」(藤原辰史 吉川弘文館)は近代日本に於ける稲の品種改良と東アジア圏への展開に関して要領良く纏められた一冊、特にお勧めです。

 

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

今月の読本「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)江戸時代の異文化コミュニケーションを支えた阿蘭陀通詞の再評価とその学習法への熱い視線

現在においても日本語以外でのコミュニケーションを取る事は大変な事。

それでも、中学高校と大抵の皆様は6年間の英語の学習を経られる訳ですし、外来語が溢れている今日であれば、アルファベットが読めないなんてことはないと思います。

それでは、時代を200年ほど遡って江戸時代に戻ったら…どうでしょうか。

そんな著者自らの疑問に対しての回答と、そのベースとなる研究成果について、当該分野研究の第一人者が語る一冊が上梓されました。

江戸時代の通訳官今月の読本、「江戸時代の通訳官」(片桐一男 吉川弘文館)です。

本書は全体を4章に分けて語っていきますが、そのうち中間の2,3章については、既に著者の手による別の書籍で語られた内容と多くが重複しているようです。そのためでしょうか、当該章においては、まるで端折るような筆遣いで話を進めていく点は、本書を機会に阿蘭陀通詞の事を知りたいと思って手に取られた方にはやや残念な感もあります。それでも、描かれる内容は通詞の家柄であったり、職務、家職の継承といった通詞としての営みといった余り知られていない事柄であったり、カピタンとの僅かな会話でも手紙を用いて(殆ど筆談)やり取りをしているのですが、その内容が複雑な貿易処理や政治的な会話かと思いきや、ほんのささやかな事でも手紙がやり取りさせていた(しかもその書きつけが残っていた)点には驚かされるかと思います。

興味深い通詞という役職や長崎特有の貿易に関わる事情、実務の実態。江戸における通詞たちの職務や、本書以外では殆ど語られないであろう、カピタンの代参で江戸に上った際の段取り全容。さらには微笑ましく、時に緊迫感もある阿蘭陀人とのやり取りを読んでいるだけでもかなり楽しめるのですが、本書に於ける著者の狙いがそこではない事は明白です。著者が本書で述べたいと思っている事、それは冒頭の1章と末節の4章に集約されています。

その成果と業績に割には余りにも扱われる事が少ない、江戸時代の阿蘭陀通詞に対する再評価を促す事。そして、彼らがどのようにして触れる事すら難しかったオランダ語を習得していったかを探り出していく事。

多くの教科書や歴史書では、解体新書とそれを著した杉田玄白をはじめ蘭方医たちが江戸時代の蘭学の開花を促した、さもなければ青木昆陽が江戸の蘭学の揺籃を担ったと描かれていますが、その背後には当時の阿蘭陀通詞たちが陰となって活躍をしていた事が本書を読んでいくと明確になっていきます。更に遡って、新井白石がシドッチの尋問を行った際にも、白石自身は会話を続けていくうちに、通詞には頼らず、ある程度かの地の言葉を解したと自著で述べているようですが(自信家の白石らしい点でもあります)、実際には大通詞の解釈に多くの部分で拠っていた、その結果を著述していたに過ぎないと著者は看破していきます。

そして、幕末になってペリーが浦賀に初めて来訪した際に、阿蘭陀通詞であった堀辰之助が艦隊に向かって「I can speak Dutch!」と呼びかけた事でも知られるように、阿蘭陀通詞と言いながらも、既にオランダ人から英語の基礎的な会話すら会得しており、蝦夷地や関東周辺に出没していた外国船の応接の度に、長崎、そして江戸から度々にオランダ語のみならず、英語やロシア語の通訳として、更には重要な外交官として派遣されていた事が判ります。英語学習の先駆者的に謂われる福沢諭吉にしても、その初歩段階は阿蘭陀通詞の元に通って教え請うのが実情であった事からも判るように、英語学習についても、その先駆は阿蘭陀通詞たちであった事がはっきりと判ってきます。

江戸中期から幕末にかけて江戸、そして大阪で花開く蘭学。著者はそのような歴史著述に対して異を唱え、江戸時代の初期、まだポルトガルとの交易が続いていた頃から、平戸、そして長崎で活躍した通詞たちが営々と培ってきた家職制に基づいた蘭学の学習体系がその基礎にある事を指摘していきます。更には、本書を読んでいくと、入門から学問体系としてのオランダ語学を体系化していったのも彼ら阿蘭陀通詞だったことが判ります。

本書の冒頭から全体の約40%のページ(本文348頁に対して140頁)を注ぎ込ん展開していく、阿蘭陀通詞が如何にしてオランダ語を習得していったのか、その文献資料、実際に利用したと思われる書籍を追跡する一連の探究が本書の白眉。熱っぽく語る、導入で用いられた入門書と思われる「A-B BOEK」原著に辿り着くまでのいきさつと、そこで用いられたであろうオランダ語学習のシラバス。通詞たちが自らの学習、習得のために私的に纏めていった著作、言語学的知見と、その後に現れてくる蘭学者たちの著作との記述内容の高い一致性。

まるで、蘭学者たちの言語学的な研究成果の殆どが、阿蘭陀通詞たちの成果を援用するに過ぎないと言い出しかねない勢いで検証の筆致を進め、最後にはこれ以上、読者に忍耐を求めるのは忍びないと述べて、省略という名で一方的に議論を打ち切る。

他の箇所にも散見される、読者を置き去りにするかのような筆致には、一般向け類書の少ないこの分野第一人者の著作として、正直残念な点でもあるのですが、それだけ著者の阿蘭陀通詞への想いが現れているとも考えられるかもしれません。

4章で語られる、著名な歴代通詞の業績を纏めた「二十三名の通詞たち」。その筆致には、著者の通詞たちへの深い畏敬の念と、当時の為政者へのわだかまりすら感じさせるやるせない想い、その業績を何とかして称揚したいと願う、強い想いが滲み出ているかのようです。

海外との限られた窓口であった長崎、そして江戸の長崎屋を舞台に繰り広げられた貿易と外交という舞台の最前線で活躍を続けた阿蘭陀通詞たちの歩みと、その背景を俯瞰する本書を読んでいくと、他者、そして違う価値観、文化を持つ人々とのコミュニケーションにとって何が大事で、どのような積み重ねの上に実現していったのかという事を改めて思い返させる、現代にも通じるテーマが見えて来るようです。

江戸時代の通訳官と、それでも江戸は鎖国だったのか本書を通じて、通詞の学習や業績ではなく、2,3章で述べられる、通詞とカピタン達との異文化コミュニケーションやオランダ貿易自体にご興味を持たれた方は、同じ著者のこちらの本「それでも江戸は鎖国だったのか」(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)がお勧めです。江戸時代の蘭僻、西洋趣味の一端を味わいたい方にも良い本だと思います。

<おまけ>

本ページでご紹介している、関連する書籍を。

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)著者最後の一冊に込めた、全ての「先生」への想いを

本著が上梓されてほぼ一月後の2月18日、私が本書を読んでいる最中に、著者である梅溪昇先生(大阪大学名誉教授、近代史)が逝去されました。

享年95歳、本書が生前に刊行された最後の一冊となってしまいましたが、この一冊が94歳の時に書かれた事にまずは驚嘆せざるを得ません。無駄のない美しい筆致、積み重ねられた研究の成果に基づいて明白に述べられる洪庵の足取り、それでも判らない点について、力たらずだと述べられた上で最後まで新出の史料を期待しつつ筆を進め、検討を加えていく飽くなき探求心。

著者がその研究生活で最も心血を注いだテーマの集大成が、最後にこのような形で多くの方が手に取れる本として刊行して頂けた事に深く感謝する次第です。刊行を待たずに執筆者の方が鬼籍に入られる事も稀ではない、永遠に続くかの如く続く本シリーズに、貴重な一冊がまた加えられたようです。

人物叢書_緒方洪庵

今月の読本「人物叢書 緒方洪庵」(梅溪昇 吉川弘文館)のご紹介です。

幕末、明治維新期の歴史にご興味のある方ならどなたでもご存知かとは思いますが、多くの場合は福沢諭吉とセットで述べられたり、緒方貞子さんの祖先として紹介される例が多いように思われますが、その際にどのような業績を残したのかが述べられる事は少ないようです。そして、今も大阪の街に残る適塾の遺構を何故大阪大学が管理しているのか、不思議に思われたことは無いでしょうか。

本書に述べられるように、洪庵没後の適塾が発展解消して成立したのが現在の大阪大学医学部の母体であり、本書の著者、梅溪昇先生こそが、その適塾の保存を推進し、現在の大阪大学適塾記念センター発足の立役者となった、明治維新期の著名な研究者であり、緒方洪庵研究の第一人者であられます。

大阪の高等教育、否、近代日本の入口における最大の高等教育機関の主宰であり、幕末大阪の医師番付で唯一の蘭方医かつ、最高位に位置付けられ、病苦を押して就任した幕府奥医師、西洋医学所頭取として在職中に江戸に没した、幕末最高の医師にして蘭学者。

巻末に掲載された600人以上にも及ぶ門下生と、語られる事は少ないですが、コレラの治療に奔走し、大阪、そして西日本全般に広がった種痘所の先駆を開き、後の公設種痘所に繋がる道筋を付けた、大阪の街を守った町医者としての側面。

あまり成果を顧みられるこのが少ない(東日本では特に)洪庵の偉大な足跡でですが、彼が備中の足守というかなり辺鄙な土地に生まれ、主に大阪で活躍していた事が影響しているのでしょうか。しかしながら、本書を読んでいくと、当時の中国地方には医師の一大人脈網が張り巡らされていた事が判ります。医師免許も、国家機関による専門教育機関もなかった当時、学閥と人脈作りこそが医師にとって最も重要だったことは、洪庵が大阪で中天遊に入門し、その紹介で江戸に出て、坪井信道に師事し、その師である宇田川玄真の系譜に繋がった事で、望まざるとも、最後の職となった奥医師、西洋医学所頭取への道に進む事になります。本書では、当時の人脈主義ともいえる医師同志の繋がりを紐解く事で、洪庵の人脈(息子を修行として加賀、大聖寺に送り出すも、其処を脱走した息子たちが、越前、大野の門下に飛び込むというおまけ付き)から、広く西日本に広がった彼の業績を俯瞰していきます。

広がる医師のネットワークを通じて流れ込んでくる情報と、それを頼って入門してくる門弟たちが更に各地に移っていく事で、彼の大きな業績である種痘の普及も、彼らのネットワークを通じて広がっていく事になります。当時としては最大であったと思われる600余人を数える門弟たち、その教育方法も独特のものがあったようです。先駆的な塾頭を筆頭に習熟度別の等級制を採る一方、飲酒喫煙をあまり咎めず、医学に限らず塾生同士が自由闊達に学ぼうとする雰囲気を良しとした、商都、大阪らしい気風。町医師としての収入を投じ続けなければならないほど経費の面では常に苦しく、原書は乏しく、独特の輪読法を用いたその教育システムは現在の水準からすると首を傾げる点も多々あります。しかしながら、大きな負担も顧みず、闊達な若者達を我が子のように可愛がり、受け入れていった洪庵の家族、特に妻である八重の苦労と、時に逸脱が過ぎて破門もされながらも、長くその恩に報いつづけた門弟たちの物語からは、豊かな人間関係が其処にあった事を感じさせます(八重の墓を最初に詣でた際の諭吉のエピソードには、驚かされると同時に、その師弟愛の深さを感じさせます)。

更に、町医者として、蘭医の研究者としての矜持には強い感銘を受けます。海外への扉が開かれた直後に流れ込んできたコレラ。その治療、感染対策が急務となった際に、打算や迷信ではなく、急ぎ乏しい書籍の中の情報を読み解き、実際の治験を加えた治療を進める実践的な医療態度。そして、洪庵が長年を掛けて著述を成した「扶氏経験遺訓」。後に遣欧使節によってオランダ・ライデン大学に収められた、当時の日本が到達した西洋医学受容の成果を示す訳文に添えられた、自抜の編「扶氏医戒之略」。

本書では原文(写真)と読み下し文の全文を掲載して、その意図する所を述べていますが、著者の解説はあくまでもその著述至った経緯を述べるに過ぎず、その文意を述べる事はありません。敢えて解説せずとも、その丁寧な十二条に渡る説を読めば誰しも納得されるはず。そこに書かれた意図は医師ならずとも、あらゆる「先生」と形容される方々が持つことを求められるであろう矜持が記されています。

私が特に感銘を受けた、第九条を掲示させて頂きます

「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依托し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも白し、最辱の懺悔をも状せざること能わざる所なり。常に篤実温厚を旨として、多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論を俟ず。」

著者は洪庵がその学歴において、儒学にあまり感化を受けずに年少時代を過ごした事が後の蘭学、キリスト教的自然科学を素直に受容する素地となったと述べていますが、この一文には著者の指摘にもあるように、見事に儒教的思想と当時の西洋的な思考が交差、醸成されていると思えます。

日本一の私塾の主宰者として、大阪一の町医者として一生を終える事も出来た筈の洪庵。しかしながら、時代の奔流の中で儒教的(ないしは武士的)素地を有する彼は、病の体を押して、江戸に出府し、最後は大儀に殉じる道を選んだようです。その命を以て報じた成果が、後の幕府解体によってあまり残らない結果となってしまった点は大変残念な事だったかとは思いますが、著者はそれでも彼が蘭医として将軍を直接診察する奥医師、そして実質的に最高の格式を有する法印に任じた事により蘭科医が幕府に公式に認められた点を評価していきます。

刻苦勉学を積み、医師として、研究者としての矜持を持ちつつ大儀に殉じた形となった洪庵ですが、本書では一方であまり顧みられなかったと思われがちな、洪庵とその家族の物語も存分に述べていきます。実に七男六女を儲けた糟糠の妻である八重と、実家からの多大なる支援(洪庵の才能を見込み、適塾移転の際の費用工面や孫の出奔の弁明に遠路越前まで出向く塩名の名家でもある薬種商の義父)。少年時代から大阪、江戸と度々行動を共にし、よき理解者でもあった父と、足守の家を守り続け長寿を全うした母、備中備前に広がる親族たち。厳しい躾と教育の賜物として、早くから海外留学を成し遂げ、後の緒方病院、大阪大学へと繋がっていく息子たちの足取り。このような人物伝でなければ取り上げられない家族の物語も語られていきます。

緒方洪庵の研究と顕彰を一生のテーマとした著者にとって、まだまだ述べておきたい事は沢山あったのかとは思いますが、その先の研究は大阪大学、そして後進の研究者の皆様がきっと引き継ぎ、発展させていってくれるはず。

著者が伝えたいと願った、幕末が生んだ偉大な「先生」が為し得た想いが、本書を通じて多くの方に伝わる事を願って。

人物叢書_緒方洪庵と江戸時代の医師修行

本書と一緒に是非お読みいただきたい一冊、同じ吉川弘文館より刊行されています、歴史文化ライブライリーより「江戸時代の医師修行」(海原涼)を。江戸時代の医師ネットワーク形成について詳しく書かれています。本書にも直接関連する、幕末期の種痘の伝播についても述べられています。

<おまけ>

本ページでご紹介している、本書に関連する書籍を。