今月の読本「地質学者ナウマン伝」(矢島道子 朝日新聞出版)スケープゴートに埋もれた近代地質学の立役者が辿った道程

今月の読本「地質学者ナウマン伝」(矢島道子 朝日新聞出版)スケープゴートに埋もれた近代地質学の立役者が辿った道程

最近、「ブラタモリ」が人気になった事で、地理学、地質学への興味が高まっていますが、中でも地質学に関しては、番組に登場される「案内人」を称される方が多く関係する「ジオパーク」の存在も、近年注目を浴びつつあります。

日本で初めてユネスコの世界ジオパークに認定された新潟県の糸魚川ジオパークにある中核施設、フォッサマグナミュージアム。このミュージアムの一画に、あるドイツ人の足跡を記念したコーナーが設けられています。

その名前は考古学や古生物学で語られる事が多い一方、彼が日本に於いて為し得た業績は遥か以前に忘れられ、むしろ「森鴎外が留学中のドイツで論戦を挑んで沈黙させた人物」として、近代文学史の片隅で紹介される事の方が多いかもしれません。

在日僅か10年間で、現在でも通用する北海道を除く本州、九州、四国全域の地質図を作り上げるという驚異的な業績を残した地質学者であり、現在の産業技術総合研究所の前身となる地質調査所を立ち上げ、現代にまで続く東京大学の地質学科初代教授として日本の地質学の水準を当時の国際レベルにまで引き上げた教育者。更には近年議論となっている、モースに先んじてシーボルト(息子の方)と共に大森貝塚を発見したと目され、連年野尻湖で発掘が続くナウマンゾウにその名を残す古生物学者・考古学者、エドムント・ナウマン。

現代に至るまで日本の地質学者、地球物理学者を悩ませ続ける大いなる問題「フォッサマグナ」の提唱者である一方、その業績は黙殺され続け、明治のお雇い外国人一般に付されるネガティブな人物の代表例として扱われる事の多い彼への評価。そのような扱われ方に敢然として否定を掲げた古生物研究者の方が書かれた一冊。

今回は、一般書としてはほぼ初めてとなる彼の評伝「地質学者ナウマン伝」(矢島道子 朝日新聞出版)をご紹介します。

著者の矢島道子先生は古生物研究者である一方、多数の科学史に関する一般書を執筆されている方。中学、高校の教員経験もお持ちで、今回のような一般の読者へ向けた科学者の評伝を書かれるのに最も相応しい方です。但し、著者の専門分野である古生物学や、ナウマンの主な業績となる地質学に関する内容はごくごく触りの部分のみに触れるだけで、本書では人物伝としての内容を綴る事に注力していきます。

冒頭からナウマンへの私的な心象を込めた手紙で始まる本書。女性の著者故でしょうか、恋愛や愛憎といった部分を語る際には一際、著者の私的な思いも織り込まれていきますが、全体としては科学者の評伝として、その生い立ちから没後まで手堅く纏められている本書。その中で著者はある点に於いて一貫した視点に立脚します。

前述のような否定的な捉え方をされるナウマンの言動とその業績について、なぜネガティブな評価をされているのかを当時の事情、背景から説き起こし、現代の視点で再評価を与える事に注力していきます。

彼自身の言動に対して、当時のお雇い外国人一般の認識とそれに対する日本人側からの評価を分別することで、日本と日本人を毛嫌いし、帰国後も与えられた勲功章などに対する不当に低い評価に鬱積しつつ埋没していったという日本人側から見た彼への評価を否定し、彼自身は様々な困難に直面しながら、決して日本と日本人の事を否定的には捉えていなかったことを明確に示していきます。巷間に伝わる鴎外との論戦に対しても、掲載されたドイツの新聞における論調迄を含めて検証し、彼自身は鴎外の挑発的な言動に対しても丁寧に議論に応じていた事を示します。更に、後年になっても教え子との手紙のやり取りが続き、彼らがドイツに訪れた際には歓待し、日本の地質学が長足の進歩を遂げている事を率直に喜んでいた事が記録として残っている点を取り上げます。むしろ、急速に近代化が進む日本と日本人にとって乗り越えるべき相手として、自らが近代化を遂げ、自立を果たした事を示すためのスケープゴート役を担わされてしまっているという心象を文中で強く与えていきます。

冒頭のナウマンへの手紙で著者が述べるように、近代化を遂げつつある日本人に対しての悪役を演じる事となった彼。しかしながら彼自身も当時のお雇い外国人に多く見られた傲慢さを有し、大学出たてで満足な実績もなかった若者にして本国では為し得なかったであろう、当時の日本人から見れば嫌悪感を持つほどの豪華な生活を謳歌していたという事実が、後の非難の根底にある事は否定できません。また、学生を引き連れた現地調査の際にはかなり高圧的な態度を取っていた事も記録には残っており、決して付き合いやすい人物ではなかったようです。そして抜群な業績を残しながらも彼の評価を決定的に悪くしたある事件。当時としては当たり前だったのかもしれませんが、その場に置かれた鞭と拳銃、その後の領事裁判の内容を読んでいくと、彼自身に含む部分が少なからずあった点も見えてきます。

この事件の背景にある、彼の一生をあらゆる意味で左右することになる最初の妻、ゾフィーの存在。大学入学資格を持たない彼がミュンヘン大学へ進み、僅か在学2年で博士号を取得したことも、日本で卓越した業績を上げながらも帰国後に正規の大学の教員として職を得る事が出来なかった事も、もしかしたら大学卒業後すぐに日本で職を得る事を考えた事も…、すべては不釣り合いとも思われる、職人階級に生まれ、専修系の教育課程を経たに過ぎない彼が、現在も顕彰され続けるドイツで初めての蒸気機関車を設計した著名な学者の愛娘である彼女との結婚を成し遂げるために行われた事に対する裏返しとしての結果だったのかもしれません。彼自身がそのことに対して何らの言葉も残していないため本当の所は判らない(著者は敢えて踏み込んだ見解を示していますが)所ですが、彼のその後を大きく決定付ける存在であった事は間違いないようです。

なかなかに難しい人物像を綴る中で同時並行で描かれる彼の活躍。その中でも中核に置かれるのが、最大の業績とも考えられる本州以南の地質図制作の為に全国を調査した足取の追跡。地質学に関する著書でも彼の超人的な働きは特筆すべき内容として採り上げられる事もありますが、実際にどのような足取りを残していたのかは語られる事は少なかったかと思います。本書ではその調査行について、国内に残る史料のみならず、ドイツに赴いて当地で研究をされていた方の協力を得ながら、彼の足取りを復元してきます。

北は函館から南は九州の開聞岳まで、約10年間で各地を廻った記録から彼が作り上げた地質図の作成過程を読み解いていきますが、著者の読み解きを辿っていくと地質学を多少知っている方であれば、ある点に気が付かれるはずです。航空機も自動車もない、未発達な交通網をそれこそ殆どの場合自らの足で踏破し、メモとスケッチのみに記録を頼る必要があった当時の調査。その迅速な成果を支えたのは彼と彼が率いた調査隊の驚くほどの踏破力に基づくわけですが、極めて小規模だった彼らの調査行で闇雲に歩き回ったのではこれらの成果は得られなかったはずです。其処には彼の卓越した「地形を読み取る能力」があった筈、彼の地質学的な抜群のセンスは、残された山体のスケッチや四国における調査行を著者が再現した文章からも把握する事が出来ます。

地形を俯瞰できる場所へまず赴き、山脈や山体を読み取って調査が必要と思われる場所を正確に判断する、地形を読みとる能力。執拗なまでに野帳の記録へ正確さを求め、調査内容を厳密に纏め上げようとする意志の強さ。残されたスケッチの清書からも見て取れる、現代の状況を照らし合わせる事が出来る程の正確な地形描写力。来日前に僅か半年ほどのキャリアしかない筈のフィールド調査の経歴には似つかわしくない、現場に徹した抜群のセンスを持つ地質学者としての横顔が見えてきます。更には地質調査の要として幾度も訪れた、中央構造線(この言葉と想定も彼の発案)が横断し、火山活動の影響を受けていない四国に着目した点は、現代の地質学に於いても極めて妥当な判断と見做せるようです。

フィールドを重んじ、野外観察による実証的な地質学を重んじた彼。尤も、それ故に地質学の研究者としては理論的な裏付けが弱く、やや格が低く見られ続けた事も事実であり、そのギャップが後に日本の地質学から業績が忘れ去られ、帰国後も大学教授としての地位が得られず、実利に適う探鉱会社のエンジニアとして暮らしていく事となったようです。

主たる業績である本州以南の地質図制作のみならず、噴火中の伊豆大島の火口まで赴き調査を行い、調査行の途中では各地の火山の山容をスケッチ、登頂を果たし、御来光を共に望んだ富士講の人々が見せる敬虔な思いに強く胸打たれた富士山では詳細な火口の記録を残した、日本の地質学を開闢する膨大な業績。調査行と共に各地で依頼を受けた探鉱や水文、更には飛砂の解消に対する提言。ナウマンゾウの化石紹介から古生物の化石と年代検討、更にはモースに先んじた大森貝塚の発見や発掘された土器の検討、ライバルと目されたライマンから委ねられた化石の同定と言った古生物学(ナウマンの学位は地質学ではなく、実は古生物学)、考古学の研究、帰国後には人類学に類する検討まで。膨大な業績を残した彼ですが、現在殆ど顧みられない理由として、本国では前述のように大学に籍を得る事が出来なかった点が多分に大きいようですが、日本に於いては近代化の過程に於ける学問の自立化、即ちお雇い外国人への依存から脱却し、日本人の研究者、教員による研究推進への転換点に於いて、敢えて黙殺するような動きがあったのではないかと著者は推測していきます。特に、実質的に彼が地質学の講座を立ち上げた東京大学(著者にとっても母校)に於いては、その業績や史料が封じられているのではないかという認識を滲ませます。

日本に於いても、母国ドイツに於いても顧みられることが少ない彼の業績。しかしながら、彼の残した大きな問題は未だに日本の地質学者が越えられない大きな壁となって立ちはだかっています。

プレートテクトニクスという概念が生まれる前に導き出した、真っ二つに割れて曲がった日本列島の真ん中を貫通する奇妙な地形、その只中に聳え立つ富士山と北へと連なる八ヶ岳、浅間山、そして草津白根山の雄大な景色と、眼前を遮る壁のように南北に聳える南アルプスの山並。彼を魅了してやまなかった秩父の渓谷に横たわる地形の妙。フォッサマグナという彼の残した置き土産は、その業績がどんなに埋もれようとも厳然と彼の後輩達の目の前に立ちはだかっているようです。

その業績が顧みられることが少ない彼の業績を改めて見つめ直す本書。約300ページに渡って綴られる彼の生涯を述べ、現代の血縁者への取材内容までも語る構成はやや散漫気味な部分もありますが、彼が生きた時代の風景を添えて綴られる内容には、人物伝を越えて当時のドイツにおける学術的な背景や、ドイツ人を中心とした日本におけるお雇い外国人たちの生活の一端、彼ら同士の競合する姿も描き出す貴重な一冊。

ハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト)と共に、数少ないナウマンの友人として登場するエルヴィン・フォン・ベルツ。本書では宮内省の侍医として紹介されていますが、草津温泉を広く紹介した人物でもあり、当地には記念館も作られています(道の駅に併設)。草津温泉(草津白根山)もまた、ナウマンが調査に訪れ、危険を冒して噴火中の湯釜の温度を計ろうとした場所として、その詳細なスケッチと共に紹介されています。

ナウマンの記念展示室がある、糸魚川のフォッサマグナミュージアムで入手できる、生誕150年を記念して制作された、数少ないナウマンの略歴紹介とフォッサマグナ及び新潟の地質入門書「フォッサマグナってなんだろう」(内容は少し古いです、ニッセイ財団の助成事業)と、昨年に刊行されて以降、ブルーバックスとしては異例の増刷を重ねた事で注目を浴びた、最新の知見と現時点で最も信頼のおける内容で綴られる入門書「フォッサマグナ」(藤岡換太郎)。併せてご紹介しておきます。

諏訪に生き、色彩をデッサンし光を刻み込んだ「描き続ける人」を(安曇野市豊科近代美術館と生誕120年・宮芳平展)

諏訪に生き、色彩をデッサンし光を刻み込んだ「描き続ける人」を(安曇野市豊科近代美術館と生誕120年・宮芳平展)

New!(2014.12.14):この夏、NHK教育テレビで放送される「日曜美術館」で紹介された宮芳平。例年お馴染みの年末アンコール放送で再度、取り上げられることになりました。放送は12/21(日)午前8時より。未見の方は、是非ご覧頂ければと思います(下記の通りで、私も未見です)。

夏休み。毎年のように出かける日本海に向かう途中、何時も安曇野を通過するのですが何故か素通り。

写真撮りとしては、盛夏の褪せてくすんだ夏空では北アルプスの山は映えず、一面に広がる水田も黄金色に輝く田圃にはまだ早いため、夏の安曇野にはあまり惹かれるところがないのが実情だったりします(避暑なら、こちらの方が標高高いので…)。

そんな中、ふと舞い込んできた豊科近代美術館で特別展が開催されているという案内。よくみると、忘れかけていた、昨年のNHK日曜美術館のアートシーン(開催中の展覧会案内を放映する番組内のコーナー)で衝撃を受けた、生誕120年を記念して全国を廻っていた宮芳平展の凱旋展示が行われているという案内でした。

昨年NHKで紹介があった際には、既に茅野での展示は終了。練馬での展示に移っていたために観に行く事が出来ず、安曇野に戻ってきたら行きたいなと思っていながら、すっかり忘れていた中、ちょっと驚きを(忘却気質に呆れて)もって、案内を見ていました。

更に今年の8月には、NHK日曜美術館の本編で展示が紹介されたという(再放送含めて完全に見忘れたという、痛恨のおまけつき)事に気が付いてしまった以上、行くしかないと腹をくくって、糸魚川に抜ける途中にちょっと寄り道を。

安曇野市豊科近代美術館と宮芳平展北アルプスをバックに建つ、安曇野市豊科近代美術館。正面はこじんまりとしていますが、建屋の右側が本来の展示スペース。南欧風の軽やかなデザインと色使いが特徴的な建物ですが、中庭を含めて各所に配されたこの美術館のもう一つの主要展示品である高田博厚のブロンズ像が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

宮芳平展パンフレット入館時に頂けるパンフレットを。

館内は全面撮影禁止ですので、残念ながら展示の模様を写真でお伝えすることはできません。

文章で雰囲気がお伝えできるかどうか…。

展示は2階の全スペースと1階の一部を用いて行われていますが、1階に関しては通常非公開の作品(キャンバスにヒビが入り始めてしまっている作品を含む)を今回特別に展示しています。

メインの展示は2階となりますが、10畳ちょっとの各展示室と展示室を繋ぐ廊下、メインの大展示室、多目的交流ホールの全てを使って、全246作品(その他、参考出展もあり)という、非常に多数の作品が揃えられており、画家の全画業を追いかけながら見る事が出来る、極めて贅沢な展示内容となっています(おかげで、全ての作品を観るのに休憩なしで3時間ほどかかってしまいました。後の予定がちょっとピンチになったのは…)。

安曇野市豊科近代美術館館内案内館内展示室案内。グリーンのエリアで展示が行われています。一階には常設のアトリエ再現室もあります。

第5展示室から、大展示室、第8展示室をぐるっと一周することで、画学生時代から晩期までの画業を一覧することが出来るように配置されています。

第7展示室には初期のペン画と、もう一つの作品群でもあるエッチング。多目的ホールを挟んで、手前の廊下には自画像、そして出口までの廊下にはパステルを中心としたスケッチが展示されています。

展示作品の過半は本館に収蔵されている作品ですが、メインの大展示室に展示されている連作「聖地巡礼シリーズ」は新潟県近代美術館・万代島美術館に収蔵されていますし、第7展示室で展示されるエッチングはすべて練馬区立美術館の収蔵品。人気の高い、大正ロマンを感じさせるペン画は個人の方の所蔵品ですので、このような機会でないと一挙に見る事は出来ません。

特に、第6展示室から大展示室への廊下にかけて飾られている諏訪の景色を印象的に捉えた作品群は(一部は大展示室内)、地元の高校や私営施設、団体で収蔵しているので、通常観るチャンスは全くなく、このような機会でなければ決して見る事が出来ない作品も多数出展されています。

また、各所に配され、特に第6展示室に集中して掲示されている文集「AYUMI」その他から採られた言葉達は、森鴎外をして可愛がらせた程、極端に一本気でちょっと神経質、でも優しさの溢れる画家の想いが文章からも見て取れるようです。

作品の論評に関しては、美術的能力が欠落している(墨筆を含めて、デッサンや模写が全く出来ないという致命傷)人間なので避けますが、印象だけは語らせて頂こうかと思います。

謂われているように、大正ロマンを感じさせる、最も有名な作品のひとつ「椿」にあるように、点描から始まっている画業(第5展示室)は、厚いタッチを持った油彩(廊下に飾られる「砂丘(平塚)」の波を打つような砂丘のタッチと寂寥とした海と空のうねりが印象的)へと変わっていきます。暗緑色が多かった初期の作品と比べると、諏訪時代の山野の風景は、空の鮮やかさと枯れた冬の寂寥感、更には土の息吹を感じさせる色彩が加えられていきます(第6展示室、氏の作品に興味を持った「諏訪湖(立石より)」や「茜さす山」、「荒土を耕す」)。この辺りの作品から、描画は筆のタッチをそのまま生かしたような抽象的な雰囲気になっており、更には代表作「母と子」にあるようなモザイク画を想わせる輪郭を描かない絵になっていきます。

茜さす山ポストカードより「茜さす山」(諏訪二葉高等学校所蔵)

荒土を耕すポストカードより「荒土を耕す」(ホテル鷲乃湯所蔵)。「諏訪湖(立石より)」と「八島」のポストカードが欠品で少しショックを受けています。美術館側もあまり商売気がないようですし、ポストカードも不思議なことに、美術館とは別名義の物が混ざっています

大展示室に並ぶ「聖地巡礼シリーズ」に至ると、遂に輪郭線は失われ、厚く塗られた油絵具がうねる様に心証を色彩に表すような抽象性。更には旅の機内で得たといわれている、白く輝く太陽の光を織り込んだ作品が目立つようになり、最後には重厚さを越えた、まるで溶岩のように厚く塗られた抽象画に至っています(第8展示室)。

特に後期、晩期の作品を観ていると、官能的にすら捉える事が難しいくらいの抽象性をもっているため素人目で観てしまうと「画力って何だろう」と複雑な想いを持ってしまうのですが、最後に展示される自画像達、そして別コーナーとして纏めて展示される初期のデッサンや、会場の出口へと誘うように飾られるパステルで描かれたスケッチの展示を観ればそのような疑問はすぐに氷解すると思います(そのように順路を並べられた、展示者の方の配慮でしょうか)。

圧倒的なデッサン力と正確な線描。初期の点描やエッチング作品に見られる非常に微細な書き込み。柔らかくも的確なパステルで描かれる諏訪の風景を切り取ったスケッチ。「聖地巡礼シリーズ」」の下絵に見られる的確なコンテの線描によるスケッチと、色指定と思われる謄写紙への輪郭とNoの指定。既に輪郭は失われ、厚く厚く塗り込まれた絵の具の色しか残っていないような絵も、すべては正確な観察力による的確なデッサンと下絵の上に構築されていると考えられます。

最後の展示室に飾られている画家の自画像はバックに溶け込むほどに輪郭はありませんが、まぎれもなく画家その人の今を正確に描きこんでいる。機内からの風景を描いた作品は厚塗りで何を描いているのか判らないようにも見えますが、観る人には機内の窓から遠く眺める地上の風景、光であることがハッキリ判る。遠く眺めていても絵の中に誘ってくれる。ハッとさせられるものがそこにある。

輪郭もあいまいで、遠近感も、縮尺も、縦横比も怪しい諏訪の山々、諏訪湖の湖畔の景色も、間違いなくそこである事が判る、その場に立った人間であれば納得できる印象を更に昇華させて描き込んでいる。その印象とは何なのか。

第6展示室に掲げがれている、画家自らの言葉に印象的に綴られているのですが、私の勝手な心象だけを申し上げると「色彩をデッサンすること、光をキャンバスに刻み込んでいく事」。圧倒的なデッサン力を以てしても叶えられない、光と色を捉え切ることに画業を積み重ねたのではないでしょうか。色すらも交わり込んでいく強烈に積み上げられた油絵具から発する複雑な陰影と、その表面を照らし出す光によって複雑に発するキャンバスからもたらされる心象。それはまるで、光をキャンバスに刻み込んで留めようとしているかにも思えてくるのです。光の陰影には色の境界も線画もなく、水墨画が和紙の白と墨跡自体の陰影を以て光の陰影を表すように。それは点描から始まった色と光への拘りが遂には渾然一体となった証。

絶筆となった「黒い太陽」にはまぎれもなく、画家の生涯に渡って築き上げてきた色彩がすべて備わっているように思えるのです。初期の作品で到達した暗緑色やコバルトブルー。諏訪の大地と空から心証を抜き出したかのような土くれ色と淡い蒼、そして緑。巡礼の旅がもたらしたオレンジ、黄色、そして白に至る太陽の輝きへと、それらの色は螺旋を描くように天上に昇っていく筆跡で描かれる。黒い太陽の秘密は、是非作品をご覧になられて感じて頂きたいのですが、そこには画業の全てが宿っているように思えたのでした。

どちらかというと薄幸ともいうべき画業だったのかもしれません。でもけっして一人ぼっちではない。厳しくも大らかな諏訪の大地と、多くの人に温かく見守られながらその画業の信念を貫き通した、彼の生き様に想いを馳せるところです。

安曇野市豊科近代美術館広々とした中庭の向こうに北アルプスの山々を望める、素晴らしいロケーションの安曇野市豊科近代美術館。

パンフレットにある「野の花のように」という優しくも凛とした印象というより、敬虔に、繊細に、かつ雄々しくも自らの描く心と向き合いながら、描き続けた方のように思えています。

また、じっくりと見に来たいと思います。

宮芳平のポストカードと蓼科山夕景お土産のポストカードと蓼科山の夕景の写真を眺めながら。

ポストカードと同じロケーションも何枚かあったりするのですが、見つけられず。おいおいゆっくり探そうかと。

宮芳平画文集どうしても欲しくなって買ってしまった画文集(求龍堂)です。東京まで出向いた際に、立川随一の書店、オリオン書房様で漸く見つけました。

印刷物である以上、実物の絵画とは色合いもタッチも異なると物だと理解した方が良いのですが、それでも添えられている文章を見る度に、展示内容そのままに掲載されている絵画の写真を眺める度に、本物の絵画を前にして感じた想いが甦って来るようです。詳細な解説文と本人の手による、ぐっと考えさせられる文章を読みながら絵と共に想いに浸ることが出来る、ちょっと素敵な「画文集」です。