今月の読本「源頼朝 武家政治の創始者」(元木泰雄 中公新書)新恩から官位へ、武家政権成立の鍵を示す通史とある違和感

今月の読本「源頼朝 武家政治の創始者」(元木泰雄 中公新書)新恩から官位へ、武家政権成立の鍵を示す通史とある違和感

歴史研究者の方々が著述される一般向けの歴史概説書がブームになって久しいですが、その著者の多くは私の年代の前後に近い方や、より若い方になるでしょうか。

ある意味、研究職としての文系の存在意義を常に社会から問われ続ける中で研究を続けられ、成果の一端を世間に問うという形で執筆を続けられている方々。その内容は、時に過去の研究史や史観に強い違和感を述べ、通説を生む元となる、現行の歴史教育や教科書の内容に対して強く是正を求める指摘が散見されるようです。

中世後半から戦国時代をテーマに扱った書籍から始まったこれらのブーム。最近ではより時代を遡って南北朝や鎌倉時代、更には古代史へと広がりを見せていますが、その中でぽっかりと穴の開いているのが平安時代中盤から鎌倉開府まで。

今回ご紹介するのは、西の筆頭に位置する大学で長く教鞭を執られ、ブームの遥か前から当該する時代の歴史に関する数々の一般書を著述されてきた研究者の方が、敢えてこのタイミングで渦中に投じた一冊をご紹介します。

今回は「源頼朝 武家政治の創始者」(元木泰雄 中公新書)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は京都大学で中世史の研究を長年に渡って続けられてきた方。中世史の大家でもある上横手雅敬氏の直系に位置する研究者の方で、前述のように数々の一般向けの書籍も上梓されています。

今回の一冊も2011年に同新書から刊行された「河内源氏」の続編として企画されたもの。その筆致も、京側の視点で通史としての軍事貴族である河内源氏の推移を述べる前著を継承したものですが、冒頭から巻末まで在る点をしきりに気にされた著述がなされていきます。

それは、近年の研究に於いて所謂東西対立的な視点、公家と武家の二項対立的な歴史感が再び強まっている(特に武家側に偏った認識)という危機感と、前提となる同時代の研究で用いられる代表的な史料群の読みこなし方に対する強い疑念。本文中の各所で具体的な指摘を伴ったこれらの懸念に対する強い憤りを述べながら綴られていきます。

直近で数多く刊行される書籍たちの著者と比較して、恵まれた研究環境と豊富な実績を積まれた研究者の方らしい、比較的穏当な筆致で綴られる事を予想しているとある意味大きく裏切られる、時に憮然とした態度を隠さず、流人の奇跡と称し、一般的に頼朝の評価は芳しくない(???)と述べ、武家政権のその後にややもすれば暗澹さすら漂わせる著者の筆致。

前述の著者の懸念を自ら払拭せんと綴る内容は頼朝の生誕から没後の源氏将軍滅亡までの時間軸で描かれますが、本書では二つの視点を重視しているようです。著者のこれまでの書籍のスタンス同様、人物史であってもどちらかといえば通史的、更には当時の院や権門を核にした京側の視点で描かれますが、前著である「源頼義」(人物叢書 吉川弘文館)同様に、東国武士たちの動き、特に京の権門と在地の武士たちの結び付きを補強する為に野口実先生の研究成果を大幅に取り入れて描いていきます。その結果、彼ら東国武士が権門と鋭く対峙する関係であったり一方的な権門に従属する関係にあった訳ではなく、在地領主と権門やその家人との相互依存関係の中で推移していた事を示していきます。

更に、東国における河内源氏の地盤自体が、摂関家、更には武蔵国守であった信頼との関係の上で構築された物であり、前九年、後三年の役から繋がる累代の家人というのは、その後の奥州合戦の際に演出されたイメージを各家が引き継いだものである点を、石井進氏や川合康氏の見解を逆用して指摘します。

では父祖の地である河内から遠く離れた流刑の身で累代の家人など殆ど存在しえなかった頼朝が何故武門を掌握し、戦いを勝ち残れたのか。平家との軋轢を生じた東国武士たちの受け皿と言う一般的に述べられる視点から、著者は更に一歩踏み込んだ姿を示します。

京側の視点を軸に置かれる研究者としては珍しい、東国(この場合、常陸や陸奥、北陸道、箱根以西は含めない、主に南関東)に独自の施政権を確立した上で、受領や目代が任命されず、空白地帯となったかの地に於いて、新恩としての地頭の任免を自らが主宰したことによって、京の権門の意向を取次、代弁するのではなく、独自に武家を統制する術を手に入れた点に着目します。

即ち、寿永三年十月の宣旨こそが、受領への補任を経ない異例の「地域政権」として公認されたとして、武家政権へ至る起点で有る事を敢えて指摘します。著者が以前に提示した平清盛に対する高い評価に訂正を加える、遥か遠方に位置する東国の、更に僅かな南関東に過ぎないが、実力で権力の分立を果たした頼朝による東国武士たちの掌握過程を再評価します。

累代の家人と狩り武者と言う二段階徴用を採る平家に対して、内部分裂を抱えある意味恩賞で釣る形でしか纏まる術を持たない頼朝と東国武士たち。それ故に、少ない一族閨閥をある時点まで極めて大事に扱う一方、御家人たちに新恩を与え続けなければならない、全盛期の秀吉にもみられた一門という姿の生成と、戦い続ける相手を探し続けなければ解体の危機に瀕してしまう、武門の危うさも滲ませていきます。

戦い続ける理由(ここで王権を支える唯一の武力という言葉が出てきますが)を求めて列島を西へ、北へと転戦を続ける頼朝と武士たち。前述のように頼朝と弟達はこの時点では決裂する関係にもなく、頼朝の指揮の下でそれぞれの当初の目的(情報伝達の遅れによる齟齬はあるにせよ)に従って軍を進めていた事になり、特に屋島の戦いについて義経が突出した軍功を目指して抜け駆けしたわけではないと指摘します(ここで、ある見解について著者はかなり強い否定を述べています)。

結果としてより大きな軍功を得ることになった義経が御家人から嫉妬の対象となった点は否定できないようですが、彼が貶められたのは従来述べられる無断任官(この事自体、誤認であり頼朝も同意の上であったとし、黙認できなかったのは在京が求められる院御厩司に後白河が任じた事であると)とは異なり、範頼同様に実の息子である頼家への脅威だったと見做していきます。この流れの中で、北条時政の京都への代官としての派遣を織り込む事で、頼朝が頼りにする相手が兄弟から、諸大夫ではなかったが伊豆に在住していた頃から京都との繋がりを有していた、自らの息子への継承という点で利害が一致する北条一門へと遷っていったことを印象付けていきます。

制止を振り切っての奥州合戦の後に後白河と漸くの対面を果たすことになった頼朝。ここでも著者は玉葉の著者でもある時の摂政、九条兼実と頼朝が盟友関係にあったとされる指摘に対して、その玉葉の読みこなし自体から指摘しつつ、否定的な見解を述べていきます。著者の指摘、それは平清盛同様に、頼朝も入内工作を進める事を前提に入京を果たしたと考えており、その中で競争関係を生じる兼実とは本質的に相容れない関係に入っていた事を指摘します。

著者が繰り返し読者の見識に懸念を抱く(???)頼朝の入内工作の狙い、それは御家人たちを掌握する唯一の手段である新恩が「王権を支える唯一の武力」となってしまった事で新たに与える余地が無くなった矛盾の相克。後の世まで武門を統制する二つの利権となる領地と官位の両輪を自らの統制下に置くための算段を打つ活動を、死去する直前まで進めていたと想定します。

その上で、前述の義経同様、京に在住することを求められる右大将ではなく、同じ位階であっても従軍中に帯びる官職である「大将軍」号の請求に至ったと逆説的に指摘します(実朝の時には既にこの制約が無くなっており、25歳で摂関家に準じて右大臣に昇ったのは至極当然だとも)。

結果として大姫、三幡と自らの死去によりこの目的は果たされる事が無かった訳ですが、関西系の研究者の方が書かれる著作に度々見受けられる「もしあの時」という想いが強く滲み出る筆致(本書の場合は敢えてと述べて書いてしまいますが)を繰り返し残して、その後の政子と京の関係までを描いて筆を置く本書。

鎌倉に武家政権が建ち上がったのは必然なのか偶然なのか(むしろ最近の風潮はこちら?)という議論に此処では立ち入らない事にしますが、これまでの著者の筆致を崩してまでも、読者に対しての不可思議なまでの懸念と、ある強い想いを要所で述べていく本書。

直近の著作である「源頼義」と互いにエールを送るように元木先生の成果を援用して綴る野口実先生の「源義家」(「河内源氏」は書庫の何処かに埋もれてしまい見つける事が出来ず…)の河内源氏人物シリーズと、同じ中公新書から直近で刊行された、もう一つの源氏たちの姿を平家物物語の読みこなしから文学的な視点も織り込んで綴る「源頼政と木曽義仲」も併せて。

「一般の」読者にとって、専門家の方々による様々な研究成果の一端とその見解を手軽に書籍として読ませて頂ける環境が未だに続いている事は、出版不況が長く叫ばれる中でむしろ喜ばしい事(よもや承久の乱が新書で2冊同時に出てくる時が来るとは…)。

様々な視点から歴史の推移を見つめる楽しさを与えてくれる著作たちに感謝を。

 

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今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

武家の本流として認識され武家政権の時代を通じて長く伝説に彩られる、清和源氏の嫡流とされる河内源氏。その中でも家名を大きく上げる事になった前九年の役の一方の主役となる源頼義は、その息子である源義家と共に日本の歴史の中でも特に英雄的に扱われてきた人物かもしれません。しかしながら、彼が実際に活躍した記録は極僅かしか残っておらず、その内容も後世の脚色が極めて強い英雄譚的な内容に終始するようです。

今回ご紹介するのは、そんな伝説に彩られる人物の姿を改めて見直そうという趣旨で綴られた一冊です。

今回は刊行から半年以上経って漸く入手and読む事が出来た(お休みに感謝)、「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は、数年前に中公新書から「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」という書名で、今回とほぼ同じようなテーマの本を出されています。従って、当該書籍を読まれた方には、かなりの部分で内容が重複しているかと思いますし、本書に於いても、その史料的な限界から一書として成立する事が難しいと考えたのでしょうか、前著同様に始祖となる源経基から書き起こし始め、幕府を開くことになる頼朝までの河内源氏一党の物語の中核を担う人物としての頼義を描いていきます。

どちらかというと中央政権、王朝国家側の視点に立った武家の成立過程を綴る著者ですが、特に東国における源氏と平将門の乱における賞典を享けた、またはそれに対抗した一族との関わり合いの過程について、本書ではその論拠を補足し史料面での不足を補うため、当該分野における専門家である野口実先生の研究成果及び著作を随所で引用することで、双方の視点を重ね合わせて議論を進めていきます。

その結果、本書では伝説に彩られる彼の物語に著者独自の解釈が与えられます。実質的な河内源氏の開祖と見なされる父親である頼信の嫡男ではあったが、官位については中央での公家社会の中で位階を進め、立て続けに受領を務めた弟である頼清に常に後れを取る苦しい立場であった事。東国の武士たちを従える原点と見做されてきた平忠常の乱における源氏の位置付けも、追討使としての立場を降ろされた平直方と頼信が反目している、ないしは中央での勢力争いを二人に加担させる形で東国の乱に持ち込んだように述べられる見解に対して、二人とも藤原頼通の家人であることに着目し、私戦とも見做された忠常と直方の抗争を収拾するために二人が連携した上で、頼通によって甲斐守に補されたと見做していきます。このような視点に立てば、直方がその恩義に対して頼信の息子である頼義に自らの娘を娶らせた事を、伝承的な内容が極めて濃い東国在陣時の事績に言及せずともきれいに説明できることになります。

その上で、著者は河内源氏一党がその後も固執を続けることになる北方地域(陸奥、出羽)について、非常に興味深い議論を展開していきます。平忠常の乱鎮圧における賞典としての小一条院の判官代への頼義の補任(ここで弟である頼清は乱の終結を待たず安芸守に補任されています)。敦明親王と呼んだほうが判りやすいかと思いますが、道長によって皇位への道を閉ざされ不遇のうちに過ごしたとされる人物ですが、近年の研究ではそこまでは貶められていなかったと見做されるようになっています。その一因として、著者は小一条院とその母系が歴代の陸奥守に繋がる点を指摘し、その権益を保持、道長にしても院の基盤としてそれを許容していたのではないかと見做してきます。鎮守府将軍、陸奥守そして秋田城介という北方の顕官。平将門の乱から発するこの権能の行方、すなわち貞盛流と良文流の桓武平氏、藤原秀郷とその一門、更には河内源氏として家祖経基の系譜を継ぐ頼義の交点に、著者は小一条院の家系を見出していきます。その中でも後の摂関家に直接繋がる家司の系統に属し、尚武の気風を小一条院に愛されたとする、王朝国家の外護者の家系に連なる頼義。著者はその想いを、院が手元に置いておきたくて永く受領への任官を留めていたのではないかとまで評します。

そして北方での権益を継承すべく相模守補任から前九年の役へと続く東国での活躍。ここで著者は近年の研究成果を踏まえて武家の祖、英雄としての頼義像を否定した姿を描いていきます。既に多く述べられているように彼の率いた武士たちは一騎当千とはいいながら、物量的には極めて限られた戦力に過ぎず、当時の受領、押領使、鎮守府将軍がいずれもそうであったように、在地の国衙軍制を以て戦力を整える、在地勢力の戦力に大きく依存する存在であった点を明確にしていきます。著者は有名な黄海合戦において最後まで付き従った従者たちの素性を明らかにしながら、彼らが所謂受領郎党と目される一群の軍事貴族の末葉や根拠の河内における累代の郎党達といった、河内を基盤に畿内そして京において蓄積してきた勢力に基づく戦力であったとの認識を改めて示します(美濃については長く源氏同士が勢力を争う地であったと指摘)。坂東の精鋭が頼義の武威を慕って雲霞のように参集したという伝説を虚構と明示し、安倍貞任が追い詰められて逼塞する事になる頼義をそれ以上追い落とさなかった理由を、受領故に中央の視線を配慮して敢えて回避したとまで述べていきます。

完全な負け犬とも見做され、伝統的な武威すらも失墜させた頼義。それでも彼が陸奥を離れず、最終的には離任ぎりぎりになって清原一族の支援(実質的には家人として屈して)を得て戦い抜く結果となった点について、著者はその後の彼の動きから検討を加えていきます。父親である頼信同様に在地の勢力に心服されることを願いつつも、彼らの勢力争いに首を突っ込むことで戦闘を開始する事になった頼義。自前の戦力が乏しい京から赴く彼らにとって、戦闘を続けるためには何よりも在地の勢力を懐柔し彼らが欲した名誉と勢力の保護を叶える権門への窓口となることを強く要請される立場にあった事を見出します。良く知られるように、前九年の役終結後、栄典禄としては最も高い富裕の地である伊予守に補任される一方、叱責を受け、自らが北方で膨大に積み上げた(巻き上げた)財貨でその受領の貢納を代弁してまでも、凱旋後は京に踏み止まり続けます。そこまでして役で支援した東国の武士たち、受領郎等たちの栄典を獲得する事に奔走する事になったのは、正に彼らの要望の受け皿としての立場(≒武家の棟梁)を任じ続けた結果であり、後に継承者を自認する頼朝の御家人政策を重ね合わせると、その権力の源泉と基盤が明瞭に浮かび上がってくるようです。

最後に綴られる河内源氏のその後。ここで著者は白河院が源氏同士を争わせて勢力を削ぎ、一方で平家を持ち上げたとする従来からの説に明確な否定を示す一方、彼ら河内源氏、更には源氏一門側の事情からその遠因を辿っていきます。頼義の弟で四位まで官位を進め、最後は大国である肥後守として在任中に没したとみられる頼清の姿を重ねながら、軍事貴族として王朝国家の尖兵であるうちはよいが、政権内部に踏み込むような地位に進む、武門としての家から外れると俄然、失脚、淘汰の対象となるという印象を強く漂わせて筆を置いています。

武家の祖を称揚するような内容を期待して読まれると、失望に次ぐ失望という感に苛まれ続ける内容かもしれませんが、これらの歴史的な流れの先に頼朝による武門の掌握があったと見ていくと、その経緯は非常に興味深く、後の世でも武門を掌握せんと考えた武士たちにとって反面教師的な立場を独り演じ続けていたとも感じさせる内容となる一冊。

著者が要所で参照を明記されたように、「河内源氏」を追う様に刊行された、頼義の息子である八幡太郎「源義家」(山川出版社 日本史リブレット人022)においては、逆に本木先生の研究成果を大いに参考にしてと述べられています。王朝国家から見る尖兵としての武門の姿と、東国武士から見る権益を取り持つ武門の棟梁という双方の視点を重ね合わせて読んでいくと、色々と見えて来る事があるかもしれません。